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奈良・橿原市で夏季特別展「天武天皇 覇者の世界」

奈良・橿原市で夏季特別展「天武天皇 覇者の世界」

天皇を中心とした中央集権体制を確立したとされる天武天皇の軌跡を紹介する夏季特別展「天武天皇 覇者の世界」が、橿原市の「歴史に憩う橿原市博物館」で開かれている。飛鳥時代の建築工具や食器などの資料51点を展示している。9月18日まで。
会場では「天武の都づくり」「天皇の暮らし」「専務天皇の世界観」の3コーナーを設置。飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)の施行など天武天皇が制定したとされる律令、国史の編纂、貨幣の鋳造、藤原京(橿原市など)造営などの功績について紹介している。
古代天皇について、現在では聖徳太子が摂政を務めた推古天皇、その後の斉明天皇などと表現しているが、その当時「天皇」という言葉は存在せず、王の中の王という意味で「大王(おおきみ)」と呼ばれていた。「天皇」という称号が使われるようになったのは、天武天皇のころとされている。また、「倭国」と呼ばれていた国号も、同時期に「日本」と改められた。

「本能寺の変」後の光秀書状の原本発見 幕府再興を構想

「本能寺の変」後の光秀書状の原本発見 幕府再興を構想

三重大の藤田達生教授(日本近世史)らは、織田信長を討ち果たした明智光秀が、その「本能寺の変」の10日後に記した書状の原本を発見した。
この書状は光秀が室町幕府最後の十五代将軍、足利義昭による幕府再興を目指していたことを示す内容とされ、東京大学史料編纂所が明治22(1889)年に書状の写しを作成した後、原本は行方が分からなくなっていた。
今回見つかったのは光秀が天正10(1582)年6月12日、現在の和歌山市周辺を拠点にしていた紀州雑賀衆で反信長派のリーダー格の武将、土橋重治に宛てた密書の原本。信長により、京から追放されていた義昭の上洛に向け、その指示を受けた重治と協力するという内容が書かれている。
この密書の原本の大きさは縦11㌢、横56㌢。小さい書状をさらに細かく折りたたんでおり、使者が極秘資料として運んだことが分かるという。

鳥取藩士の文化文政期の手紙大量に発見 古屏風の下張り

鳥取藩士の文化文政期の手紙大量に発見 古屏風の下張り

鳥取市で古い屏風(びょうぶ)の下張りから、江戸・文化文政期、鳥取藩主池田家に仕えた江戸詰めの武士が妻に宛てた手紙が大量に見つかった。妻から江戸にいる夫に宛てた手紙も含まれ、確認されただけで約180枚に上る。これは参勤交代や江戸暮らしの様子を書き記した手紙で、専門家は記述の詳しさに注目している。
屏風は6曲で、下張りに明治時代の新聞が使われており、さらにその下から手紙が見つかった。これらを整理、解読した結果、約200年前に鳥取藩主が参勤交代した際、随行した城戸佐久馬という武士と妻がやり取りした手紙だと分かった。
手紙が書かれた時期は1817(文化14)年から1818(文政元)年と、1823(文政6)年から1826(文政9)年の2度の参勤交代で江戸に詰めた期間。城戸は鳥取藩八代藩主、池田斉稷(なりとし)の駕籠を警護する供侍だった。彼は随行して訪れた場所などを筆まめに様々な事柄を記していた。

熊本の断層で3000年に1度の間隔で大地震が発生

熊本の断層で3000年に1度の間隔で大地震が発生

産業技術総合研究所の研究チームは、2016年4月、熊本地震を引き起こした活断層につながり、今回は動かなかった断層区間で約3000年に1度の間隔で大地震が繰り返し起こっていたとの調査結果を発表した。
大地震が繰り返し起きていたのは熊本県益城(ましき)町から八代海に至る日奈久(ひなぐ)断層帯(約81㌔㍍)のうち、同県宇城(うき)市と芦北町の間の「日奈久区間」(約40㌔㍍)。その北東につながる「高野-白旗区間」(約16㌔㍍)が、2016年4月14日にマグニチュード(M)6.5の前震を引き起こした。
同研究所によると、日奈久区間で約1万8000年前から現在までに6回、大地震で地層がずれた痕跡を確認した。最新の痕跡は約1900~1100年前で、地震の規模はいずれもM7級の可能性があるという。

古代の造幣局全容解明へ 周防鋳銭司跡発掘調査

古代の造幣局全容解明へ 周防鋳銭司跡発掘調査

平安時代に銅銭を鋳造した山口市の鋳銭司(すぜんじ)・陶地区にある「周防鋳銭司(すおうのじゅぜんじ)跡」の発掘調査が始まった。
同所の発掘調査は1971年度以来、約45年ぶり。2020年度までの期間中、これまで調査されていない広大なエリアの発掘を進め、古代の「造幣局」の全容解明を目指す。周防鋳銭司では、古代日本で発行された12種類の銅銭「皇朝十二銭」のうち、8つが鋳造されとみられる。
1965年度、71年度の発掘で鋳造に使ったとみられる「るつぼ」などの土器や、鋳銭司長官の名が刻まれた粘土板が出土し、73年に約3万8000平方㌔㍍が国指定史跡となった。ただ、これまで発掘調査されたのは全体の5%未満で、古代造幣局に連なる様々な謎が解き明かされるのを待っている。

発掘例ない異形の埴輪 京都・五塚原古墳で出土

発掘例ない異形の埴輪 京都・五塚原古墳で出土

京都府向日市埋蔵文化財センターによると、国史跡・乙訓古墳群の一つで、古墳時代前期の前方後円墳「五塚原(いつかはら)古墳」(向日市寺戸町)で、全国の発掘例でも類例のない形状の埴輪が見つかった。埴輪上部が球状で開口部の立ち上がりが低く「朝顔形円筒埴輪」の中で異形の特徴があった。
同センターによると、埴輪は2016年9~10月に古墳の裾部分から出土。80年以上後に築造された近隣の妙見山古墳から運ばれ、五塚原古墳の主の子孫を納めた埴輪棺とみられる。埴輪の破片約300点を接合し、高さ約66㌢・口径約20㌢に復元した結果、埴輪上部が丸みを帯びて円筒形の器台よりも膨らんでおり、立ち上がりが約1.5㌢と開口部の広がりがほぼなかった。
制作方法から朝顔形円筒埴輪に分類できるものの、同埴輪の上部は通常つぼの形にかたどられ、開口部が大きく広がるのが特徴で、今回そうした形状はみられなかったという。
こうした調査・分析結果を踏まえると、丹後地方独特とされる「丹後型円筒埴輪」に外見上の共通要素があるといい、専門家は「製作技術が乙訓地方を介して、ヤマト王権から丹後地方へ伝わった可能性を示す重要な資料」と評価している。
同センターは10月9日まで、向日市寺戸町の市文化資料館で開催中の「先祖の記憶-古墳時代の祖霊観」で、今回復元した埴輪などを展示している。