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鳥取藩士の文化文政期の手紙大量に発見 古屏風の下張り

鳥取藩士の文化文政期の手紙大量に発見 古屏風の下張り

鳥取市で古い屏風(びょうぶ)の下張りから、江戸・文化文政期、鳥取藩主池田家に仕えた江戸詰めの武士が妻に宛てた手紙が大量に見つかった。妻から江戸にいる夫に宛てた手紙も含まれ、確認されただけで約180枚に上る。これは参勤交代や江戸暮らしの様子を書き記した手紙で、専門家は記述の詳しさに注目している。
屏風は6曲で、下張りに明治時代の新聞が使われており、さらにその下から手紙が見つかった。これらを整理、解読した結果、約200年前に鳥取藩主が参勤交代した際、随行した城戸佐久馬という武士と妻がやり取りした手紙だと分かった。
手紙が書かれた時期は1817(文化14)年から1818(文政元)年と、1823(文政6)年から1826(文政9)年の2度の参勤交代で江戸に詰めた期間。城戸は鳥取藩八代藩主、池田斉稷(なりとし)の駕籠を警護する供侍だった。彼は随行して訪れた場所などを筆まめに様々な事柄を記していた。

熊本の断層で3000年に1度の間隔で大地震が発生

熊本の断層で3000年に1度の間隔で大地震が発生

産業技術総合研究所の研究チームは、2016年4月、熊本地震を引き起こした活断層につながり、今回は動かなかった断層区間で約3000年に1度の間隔で大地震が繰り返し起こっていたとの調査結果を発表した。
大地震が繰り返し起きていたのは熊本県益城(ましき)町から八代海に至る日奈久(ひなぐ)断層帯(約81㌔㍍)のうち、同県宇城(うき)市と芦北町の間の「日奈久区間」(約40㌔㍍)。その北東につながる「高野-白旗区間」(約16㌔㍍)が、2016年4月14日にマグニチュード(M)6.5の前震を引き起こした。
同研究所によると、日奈久区間で約1万8000年前から現在までに6回、大地震で地層がずれた痕跡を確認した。最新の痕跡は約1900~1100年前で、地震の規模はいずれもM7級の可能性があるという。

古代の造幣局全容解明へ 周防鋳銭司跡発掘調査

古代の造幣局全容解明へ 周防鋳銭司跡発掘調査

平安時代に銅銭を鋳造した山口市の鋳銭司(すぜんじ)・陶地区にある「周防鋳銭司(すおうのじゅぜんじ)跡」の発掘調査が始まった。
同所の発掘調査は1971年度以来、約45年ぶり。2020年度までの期間中、これまで調査されていない広大なエリアの発掘を進め、古代の「造幣局」の全容解明を目指す。周防鋳銭司では、古代日本で発行された12種類の銅銭「皇朝十二銭」のうち、8つが鋳造されとみられる。
1965年度、71年度の発掘で鋳造に使ったとみられる「るつぼ」などの土器や、鋳銭司長官の名が刻まれた粘土板が出土し、73年に約3万8000平方㌔㍍が国指定史跡となった。ただ、これまで発掘調査されたのは全体の5%未満で、古代造幣局に連なる様々な謎が解き明かされるのを待っている。

発掘例ない異形の埴輪 京都・五塚原古墳で出土

発掘例ない異形の埴輪 京都・五塚原古墳で出土

京都府向日市埋蔵文化財センターによると、国史跡・乙訓古墳群の一つで、古墳時代前期の前方後円墳「五塚原(いつかはら)古墳」(向日市寺戸町)で、全国の発掘例でも類例のない形状の埴輪が見つかった。埴輪上部が球状で開口部の立ち上がりが低く「朝顔形円筒埴輪」の中で異形の特徴があった。
同センターによると、埴輪は2016年9~10月に古墳の裾部分から出土。80年以上後に築造された近隣の妙見山古墳から運ばれ、五塚原古墳の主の子孫を納めた埴輪棺とみられる。埴輪の破片約300点を接合し、高さ約66㌢・口径約20㌢に復元した結果、埴輪上部が丸みを帯びて円筒形の器台よりも膨らんでおり、立ち上がりが約1.5㌢と開口部の広がりがほぼなかった。
制作方法から朝顔形円筒埴輪に分類できるものの、同埴輪の上部は通常つぼの形にかたどられ、開口部が大きく広がるのが特徴で、今回そうした形状はみられなかったという。
こうした調査・分析結果を踏まえると、丹後地方独特とされる「丹後型円筒埴輪」に外見上の共通要素があるといい、専門家は「製作技術が乙訓地方を介して、ヤマト王権から丹後地方へ伝わった可能性を示す重要な資料」と評価している。
同センターは10月9日まで、向日市寺戸町の市文化資料館で開催中の「先祖の記憶-古墳時代の祖霊観」で、今回復元した埴輪などを展示している。

唐招提寺 鑑真ゆかりの寺に”袈裟”贈呈 1300年ぶり交流

唐招提寺 鑑真ゆかりの寺に”袈裟”贈呈1300年ぶり交流

奈良市の唐招提寺は、同寺を開いた高僧、鑑真が日本に渡る前に住職を務めていた中国・揚州市の大明寺との交流を深めようと、僧侶が身に着ける”袈裟(けさ)”を贈ることにした。唐招提寺の西山明彦長老が9月11日に大明寺を訪れ、故事にちなんで袈裟20枚を渡すという。
中国の鑑真を招聘するきっかけになったのが、贈呈した袈裟に施されていた長屋王の漢詩だ。その漢詩の意は、「国は違っても同じ天のもとで仏を信仰しよう」というもの。これを見て鑑真は、その思いを理解し、弟子を派遣するのではなく、高齢の身でありながら自分自身が海を渡る決意をし、艱難辛苦を経て来日。最終的に奈良に唐招提寺を開いたと伝えられている。
今年はその袈裟が贈られてから1300年の節目にあたるということで、唐招提寺は鑑真ゆかりの大明寺との交流を深めることになったもの。袈裟は奈良の正倉院に収められている七条袈裟を手本につくられていて、裏側には言い伝えと同様に長屋王の漢詩が金色の糸で刺繍されている。

千々石ミゲルの木棺?の一部見つかる 天正遣欧使節

千々石ミゲルの木棺?の一部見つかる 天正遣欧使節

天正遣欧使節(1582~1590年)のメンバーの一人、千々石(ちぢわ)ミゲルの墓とされる、長崎県諫早市の石碑周辺の発掘調査現場で9月1日、木棺の一部とみられる木片と金具が見つかった。別府大の田中裕介教授は、石碑は墓石でミゲルの墓であることはほぼ間違いない-としている。天正遣欧使節メンバーの墓が確認されれば初めて。
8月20日に始まった調査では、石碑の地下1.5㍍から平らな自然石を並べた3枚の「蓋(ふた)石」が出土。蓋石を外すと内部は縦約1㍍、横約0.7㍍、深さ約0.5㍍の空洞で、土の壁に埋まった状態で、取ってや留め具のような金具3点と木片が確認された。碑文などから石碑はミゲル夫妻の墓とされてきたが、これまで埋葬施設との確認はなかった。発掘調査作業は9月中旬まで行われる。
天正遣欧使節は1582年、九州の大友宗麟、有馬晴信、大村純忠らのキリシタン大名が欧州に派遣した少年4人。伊東マンショ、中浦ジュリアン、原マルチノ、千々石ミゲルで、彼らは8年後に帰国したが、待っていたのは豊臣秀吉による伴天連追放令(1587年)だった。このキリシタン弾圧の嵐の中で殉教など過酷な運命をたどった。ただ唯一、ミゲルはキリシタン弾圧に遭い信仰を捨て、大村藩士を務めたとされる。しかし、その生涯の多くの部分は謎に包まれている。