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浅野長矩 「忠臣蔵」が生まれる大本をつくった、藩主の器量に?の人物

浅野長矩 「忠臣蔵」が生まれる大本をつくった、藩主の器量に?の人物

 浅野長矩(あさのながのり)は播州赤穂藩主だ。周知の通り、江戸・元禄時代、江戸城内「松之廊下」で吉良上野介に斬りかかり、即日切腹。1年半後に赤穂の遺臣たちが吉良邸討ち入りを決行して仇討ちに成功する、いわゆる「忠臣蔵」が生まれる大本をつくった人物だ。悲劇のヒーローだ。だが、果たして浅野内匠頭長矩は、本当に悲劇のヒーローだったのか。

 そして、この浅野長矩を語るとき欠かせないのが、彼が切腹する前に詠んだ辞世だ。

 「風さそう花よりもなほ我はまた 春の名残(なごり)をいかにとやせむ」

 風に乗って最後の華やぎを舞うことができる桜よりも、同じ春に散る我が身の方が、なお一層、今生への想いが残っている。この想いをどうしたらいいのだろうか、という慨嘆だ。この藩主の問いかけがあったからこそ、無念の想いを晴らさなくてはならないと、四十七人の忠義の士を行動に駆り立てたのだ。

  浅野長矩はよき家臣を持ったことで、その存在が不朽となった。ただ、ご法度の江戸城内で吉良上野介に刃傷に及んだことだけを捉えれば、その行動自体が赤穂藩・浅野家の断絶か否かを賭けた、極めて重い行為なはずだ。冷静に考えれば、やはり世間知らずの、今日風にいえば“おぼっちゃん”大名の思慮に欠けた軽はずみな行為で、とても藩主の座に就く器量の人物ではなかったのではないかとの見方もできる。

 浅野長矩は、播州赤穂藩主・浅野長友の嫡子として生まれた。豊臣秀吉の正室・北政所(高台院)の妹婿、浅野長政を家祖とする安芸広島42万石の分家で、官名は祖父と同じ内匠頭(たくみのかみ)。父の長友は33歳で没したので、長矩は1675年(延宝3年)、わずか9歳で5万石の大名家を継いだ。

 赤穂藩・浅野家は塩田開発などで豊かな藩だった。瀬戸内海の乾燥した気候と遠浅の広い砂浜を利用して塩田開発が進んでいたから、米作中心の農業だけでなく、特産品としての塩で収入が上がる。商品経済への対応にも最も早い時期に成功した藩だったのだ。反面、そのことがこの藩に不幸を招く原因だったのかも知れない。赤穂藩は豊かだということで、1701年(元禄14年)に二度目の勅使饗応役が割り当てられた。勅使饗応役とは、毎年、京の朝廷から幕府へ年賀の挨拶に訪れる公卿を、大名家の出費で接待する役だ。現在の価格に換算すると3億円ぐらいの予算が必要となるだけでなく、極めて格式張った儀式のため、大名家からは敬遠されている。

 そのため、勅使饗応役選抜の時期には、事前に老中周辺に賄賂(?)を使って、そのリストから外してもらうように運動する藩もあったようだ。静観していて、勅使饗応役が割り当てられたら藩財政が破綻してしまう。そんな危機感をもってやむなくカネを使って、そうした事態を回避するために動いた藩もあっただろう。いったん下命を受けた以上は辞退できないのだから。そして、儀礼の細部まで、幕府の式部官である「高家(こうけ)」の指導を仰がねばならないのだが、それが敵役・吉良上野介の役割だ。下命を受ければ、自藩の判断で経費を少しでも抑えて対応するといったことは全くできないのだ。すべて吉良上野介の指示通り、まさに言いなりで、借金してでも必要だと言われれば、そのカネを工面、用意しなければならなくなる、つらい役割だ。

 浅野家と吉良家との間に、実際にどのような軋轢(あつれき)があったのか定かではない。しかし、吉良上野介の“ご機嫌取り”をあえてせず、次から次へと難題を吹っかける上野介に、人間的器量に欠けるがゆえに、“腹芸”のできない内匠頭が切れて、やむにやまれず、ご法度の刃傷に及んだ、ということになっている。その限りでは上野介は徹底して“悪役”となっている。だが、これではあまりにも公平さに欠ける気がする。むしろ、ここではどこが悲劇かという視点で考えてみれば、思慮に欠けた藩主の無念の思いを全面的に「是」として、四十七人もの忠臣が命を賭けて報復したことにある。四十七人の忠臣こそが悲劇のヒーローだったのだ。

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」、井沢元彦「忠臣蔵 元禄十五年の反逆」、村松友視「悪役のふるさと」、<対談>司馬遼太郎・ドナルド・キーン「日本人と日本文化」、大石慎三郎「徳川吉宗とその時代 江戸転換期の群像」

 

織田信雄 “天下人”織田家を秀吉に乗っ取られた、愚かな三代目

織田信雄 “天下人”織田家を秀吉に乗っ取られた、愚かな三代目

 織田信長の二男・織田信雄(おだのぶかつ)は、人間として「かなり出来が悪い」あるいは「少し足りないお坊ちゃん」だった。そのため、事実上、天下人となったはずの織田家は、1582年(天正10年)に起こった「本能寺の変」で当主・織田信長と、その長男・信忠の天下人・織田家初代・二代目が同時に亡くなった後、いくつかの不運が重なり、今日風に表現すると、子飼いの役員・豊臣秀吉にまんまと乗っ取られてしまったのだ。織田家にとって最大の悲劇は愚かな信雄が生き残ったことだった。

 長男・信忠が父とともに亡くなった後、織田家には相続者として二男・信雄、三男・信孝がいた。これに、織田家の血筋を引く有力者として信長の孫、信忠の長男・秀信(当時は三法師)がいた。信雄・信孝の二人は仲が悪かった。二人は母が違う。信雄の母は長男・信忠を産んだ生駒氏の娘で、信孝の母は坂氏の娘だ。実は生まれたのは信孝の方が20日ほど早かったらしい。理由は分からないが、それでも信雄が二男ということになった。ともに側室とはいえ、長男の母で身分が高かったため、信雄が二男になったことと関係しているかも知れない。このことで、信孝も終生これが不満だった。

  また、当時の宣教師の記録をみても、信孝については性格や能力を誉めてあり、人並みの器量があったと判断できる。ところが、信雄は周囲から阿呆と呼ばれ、かなり出来が悪かった。信孝にしてみれば、自分より遅く生まれた男が、ひどく頭が悪いにもかかわらず、兄として自分より上に立っている。どうしてこんなバカを兄貴として立てねばならないのかと、不満で堪らなかったに違いない。こんな兄弟が、仲が良くなるはずもない。生母同士のライバル意識もその背景にあったかも知れない。

 織田家重臣による「清洲会議」で、秀吉の主張する正統論が勝ちを収め、信忠直系の幼少の秀信が織田家の正式な後継者と定められた。信孝は次善の策として、秀信の後見人の地位を得た。しかし、秀吉は信孝派の重鎮・柴田勝家の本拠地が北陸であるのを幸い、勝家が動けない冬の間に、信雄と誼を(よしみ)を通じ、岐阜城を攻めた。兄弟の不和を巧みに利用したのだ。

 信孝を降参させ秀信を奪い取り、降伏の条件として母と子を人質に差し出させた、その後、秀吉は勝家を「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」で破り、居城の越前北ノ庄に攻め、完全に滅ぼした。こうして後ろ楯を奪った後、秀吉は信孝の母と妻子を講和違反で処刑、信孝自身も切腹させた。あとは意思のない子供(秀信)とバカ(信雄)が残っているだけだった。

 秀吉は、信雄に対し表面は主筋として尊敬するように見せながら、その実、巧みに挑発し、信雄の方から喧嘩を仕掛けてくるように仕向けた。ただ、誰が知恵をつけたか、信雄は徳川家康を頼った。これは家康にとっても、大義名分の点からみても得策だった。これを機に「小牧・長久手の戦い」が起こり、六分・四分で家康が勝ちを収めた。秀吉・家康の対立がさらに続けば、時代の様相はかなり変わっていたかも知れない。だが、この点、秀吉は役者が一枚上だった。これ以上、家康と争うことは、天下統一の障害になると判断、信雄との単独講和を図ったのだ。

 信雄の立場に立てば、まず講和はすべきではない。秀吉は織田の天下を奪おうとしているのだから、安易な妥協は絶対にすべきではない。また、どうしても講和せざるを得ない立場になったとしても、家康にはそれを知らせる必要がある。家康は信雄の要請を受けて戦いに乗り出したのだから、戦いをやめる場合、まず家康の労を謝し、講和について了承を得るのがスジだ。だが、信雄はこれをしなかった。勝手に秀吉と講和を結んでしまったのだ。家康は怒り、そして信雄のバカさ加減に苦笑したという。こうして信雄は世間から見放され、対照的に秀吉は天下人の座に就いた。

 信雄はこの後、国替えのことで不平をもらしたため、秀吉に流罪にされるという惨めな目に遭う。このとき、彼は頭を丸めて坊主となり、常真入道と号した。秀吉が死ぬと、彼は徳川方のスパイのような役目を務め、「大坂の陣」では城方の情報を流し続けた。豊臣家に対する憤懣と、失った領地を少しでも回復しようとする気持ちがあったのだろう。かつて100万石近くの領主だった己の姿を追ってのことか、分からない。ともかく大坂の陣後、信雄はスパイ活動の報酬として5万石を手にする。そして、家名を明治維新まで保った。

(参考資料)井沢元彦「神霊の国 日本 禁断の日本史」、童門冬二「家康合戦記」

聖武天皇 藤原氏の御輿に乗ったがコンプレックスに苛まれた孤独の帝王

聖武天皇 藤原氏の御輿に乗ったがコンプレックスに苛まれた孤独の帝王

 聖武天皇を「悲劇の貴人」として取り上げることに、少し違和感を抱かれる人もあるかも知れない。何しろ当時、権勢を誇った藤原氏に引きずられることが多く、結果として時の朝廷の首班・長屋王さえ葬る片棒を担いだくらいだ。その意味では“暗愚の帝王”と評してもいいのかも知れない。ただ、この天皇は哀れにも「藤三娘(とうさんろう)」を名乗る妻・光明皇后に頭が上がらず、裏切られても家出をすることでしか、妻の不倫を咎めることができなかったのだ。しかし、家出したのがただの人ではなく天皇だったので、それは目まぐるしい「遷都」ということで後世、語られることになった。人騒がせだが、その実、現実からの逃避でしか、癒やしや救いを求めることもできない、悲しい生涯を送った人物といえよう。聖武天皇の生没年は701(大宝元)~756年(天平勝宝元年)。

 聖武天皇は、文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘(養女)、宮子(藤原夫人、ぶにん)。名は首(おびと)皇子。714年(和銅7年)に立太子し、716年(霊亀2年)不比等と橘三千代との間に生まれた安宿媛(あすかひめ、光明子)を妻とした。驚くべき近親結婚ということだ。それだけに、藤原氏に丸抱えにされていた境遇というものがよく分かる。ただ、妻を娶ってもまだ即位は時期尚早と判断され、立太子から10年間皇位に就かず、その間、元明・元正の二女帝が在位した。そして724年(神亀元年)、首皇子は元正天皇から禅譲され大極殿で即位した。

 聖武天皇が即位してまもなく直面したのが藤原宮子大夫人称号事件だ。これは天皇が勅して藤原夫人を尊び、「大夫人(だいぶにん)」の称号を賦与することとした。ところが左大臣、長屋王らが公式令(くしきりょう)をタテに、それは本来、「皇太夫人(こうたいぶにん)」と称することになっているはずと問題視する奏言を行ったのだ。そこで、天皇は仕方なく文書に記すときは皇太夫人とし、口頭の場合は大御祖(おおみおや)とする旨を詔した事件だ。この事件が当時、天皇と藤原氏に対抗していた長屋王らの勢力との間での、遺恨を産むきっかけとなったことは確かで、後の「長屋王の変」(1729年)の伏線となった。

 聖武天皇の即位に際して左大臣に任命された長屋王は、天皇を支える藤原氏にとって侮り難い存在だった。加えて、天皇自身が統治に十分な自信をもっていなかったことも政情不安の大きな要因となり、藤原氏勢力の焦りを誘っていたとみられる。『続日本紀』によると、727年(神亀4年)、天皇が詔して百官を集め、長屋王が勅を述べるところによると、「この頃天の咎めのしるしか、災異がやまない。政が道理に背理し民心が愁いをもつようになると、天地の神々がこれを責め鬼神が異状を示す。朕に徳が欠けているためか」とあるのだ。天皇自身が認識していたのだ。

 「長屋王の変」の首謀者は藤原氏だったが、聖武天皇もこの計画の賛成者だったに違いない。天皇が賛成しなかったら、舎人親王以下の皇族が積極的に参加しなかったろう。では、聖武天皇はなぜ賛成したか。この点、梅原猛氏は「(母親の宮子が)海人の娘の子としての彼(聖武天皇)のコンプレックスにあったと思う」と『海人と天皇』に記している。天武天皇の長男であり、「壬申の乱」での戦功著しいものがあった高市皇子を父に、天智天皇の皇女、御名部皇女を母に持つ長屋王がそれに気付かなかったとしても、長屋王に対する血脈のコンプレックスが厳然としてあり、「聖武天皇にはどこかで心の奥深く長屋王に傷つけられた自尊心の記憶が数多くあったに違いない」と梅原氏。

 讒言で、長屋王を死に追い込んだ後も、災害や異変が発生し、また疫病も流行。737年(天平9年)、権勢を誇った藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)が相次いでこの流行病、天然痘で亡くなったことが、聖武天皇および光明皇后を困惑させた。そして、唐より帰朝した玄●(昉、ボウ、日へんに方、以下同)を通じて、天皇は次第に仏教への帰依を強めていった。そこで、一応、光明皇后の異父兄・橘諸兄を右大臣に就けたものの、諸兄は実務的政治能力に欠け、政治の実権は天皇や皇后の信任の厚い、留学帰りの玄●(ボウ)と下道真備(しもつみちのまきび、後の吉備真備)にあった。

 740年(天平12年)、大宰少弐・藤原広嗣が時の政治の得失を論じ、玄●(ボウ)と吉備真備の追放を言上して、反乱の兵を挙げた。天皇は大野東人(おおのあずまひと)を大将軍にして討伐軍を九州に送り込んだが、九州で激しい戦闘が繰り広げられている最中、聖武天皇は平城京を捨て、伊勢へ出かけてしまう。この後、天皇はそのまま平城京に戻らず、山背(やましろ、山城)国相楽郡恭仁(くに)郷(現在の京都府相楽郡)に遷都することを命じ、恭仁京をつくらせている。この後、さらに紫香楽宮、難波宮と短期間に何度も都を変えており、この異常な行動が何のためなのか分からない部分が多い。

 正史『続日本紀』にははっきり記されていないが、後世の史書には、このとき玄●(ボウ)と光明皇后との間にスキャンダルがあったことが記されている。とすれば、藤原広嗣は暗に「あなたの奥さんは不倫をしているが、それでいいのですか」と責めているわけだ。そして、それに対する聖武天皇の答えが、都からの逃亡なのだ。妻の不倫を告げられて家出するほど、なぜ弱腰なのか。

  道成寺に伝わる伝承によれば、聖武天皇の母、宮子は道成寺のある紀伊国日高郡の九海士(くあま)の里の海人の娘だった。だが、その稀代の美貌に目をつけた藤原不比等は、彼女を養女にし、文武帝の妃とした。そして、宮子は首皇子、後の聖武天皇を産んだ。しかし、故郷を思う宮子の憂愁は深く、それを慰めるために道成寺は建てられたという。つまり、聖武天皇は本来、藤原氏の血を受けていない人物と考えると、妻の光明皇后に頭が上がらず、長屋王に抱いた強いコンプレックスの謎が解けてくるのだ。

 聖武天皇は奈良・東大寺に巨大な毘廬遮那仏をつくり上げることで、ようやく不安を癒やすことができ、都は無事、元の平城京に戻ったのだ。

(参考資料)梅原猛「海人と天皇 日本とは何か」、梅原猛「百人一語」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、神一行編「飛鳥時代の謎」、永井路子「美貌の大帝」、杉本苑子「穢土荘厳」

松平定敬 慶喜に従ったが故に“敵前逃亡”のレッテル張られた桑名藩主

松平定敬 慶喜に従ったが故に“敵前逃亡”のレッテル張られた桑名藩主

 桑名藩主・松平定敬(まつだいらさだあき)は、1864年(元治元年)、京都所司代に任命された。このとき彼は、まだ19歳だった。その若さでこういう重要なポストに就けられたのは、何といっても実兄の会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)が京都守護職を務めていたことによる。しかし、確かに兄の縁と、出自が名門だったからこそ、用意された試練だったかも知れないが、このポストに就いたことによって、彼はその後、過酷な、あるいは悲劇的な体験を余儀なくされることになった。定敬は、兄・容保とともに最後まで徳川家のために戦おうとしたが、戦意喪失した前将軍・徳川慶喜につき従ったが故に、“敵前逃亡”という不名誉な敗軍の将として、後世に記憶されることになった。

 松平定敬は美濃国高須藩(現在の岐阜県海津市)藩主松平義建の八男。兄に尾張藩主徳川慶勝、一橋家当主一橋茂栄、会津藩主松平容保などがいる。江戸市谷の高須藩江戸屋敷で生まれた。幼名は銈之助。定敬の生没年は1847(弘化3)~1908年(明治41年)。

 慶応4年1月3日、鳥羽伏見の戦いが起こった。このとき、慶喜は風邪をひいて大坂城で寝ていた。後に彼が語ったところによると、「自分はあのとき風邪をひいて熱を出していた。部下を止めようと思ったが、いくら言っても聞かないので、うっちゃらかしておいた」という。これが徳川軍団のトップの言葉だった。無責任極まりないものだ。そして、1月5日、慶喜は決断した。彼は松平容保・定敬兄弟、板倉勝静(いたくらかつきよ、老中首座)、永井尚志(ながいなおむね、大目付)など数人の大名に供を命じ、夜、密かに城を抜け出し大阪湾に停泊していた幕府艦隊の一軍艦「開陽」に乗り込み、江戸に向かった。旧幕府首脳部の敵前逃亡だった

 定敬はこのとき何度も後ろを振り返った。戦線に残す部下が心配だったからだ。兄容保に「我々は残るべきではないでしょうか。部下を見捨てて江戸に戻るのは、気が引けます」といった。容保も「ひとまず江戸に行こう。江戸城で上様(慶喜)に、徹底抗戦の決断をお願いしよう。江戸城は無傷だし、榎本武揚率いる幕府艦隊も無傷だ。必ず勝てる」といった。定敬はその言葉を信じ、従ったのだ。

 定敬は、兄の容保とともに1月12日江戸城で、「江戸城で薩長軍を迎え撃ち、徹底的に殲滅いたしましょう」と慶喜に迫った。前勘定奉行・小栗上野介も同じだった。海軍総裁榎本武揚も同じ主戦論だった。小栗は戦略を立てた。「残った陸軍を至急、小田原に集結させる。無傷な榎本武揚の艦隊を、駿河湾に向ける。東下してくる薩長軍を、箱根の山と駿河湾から挟み撃ちにして、砲撃を加えれば殲滅できる」というものだ。榎本は賛成した。

 しかし、肝心の慶喜には、もうそんな気はなかった。主戦論者が次々とまくし立てると、慶喜は露骨に嫌な顔をした。そして、会議の場から去ろうとした。定敬や小栗はそれをとどめて、「上様、ご決断を」と迫った。会議では、勝海舟のような恭順論者もいた。「小栗殿や、あるいは松平様方(容保・定敬兄弟)のおっしゃることは、確かに一理はあります。が、肝心の天のときは、すでに新しい潮をこの江戸に押し寄せさせようとしております。これに逆らうことはできません。この際は、上様のご意向を尊重して恭順謝罪すべきです。ただし、それにはこちら側の言い分が通るような条件を出すべきでしょう」

 勝のこの発言を聞いて、主戦派は激昂した。もともと、主戦派は勝が嫌いだ。中には、「勝は薩摩に通じて、徳川幕府を滅ぼした」と裏切り者視している者もたくさんいた。定敬も怒った。「貴様如きが何をいうか!薩長に通じて、幕府を売り、上様を今日の窮境に押しやったのはその方ではないか!」と息巻いた。勝は黙って定敬を見返し、それ以上、何もいわなかった。

 後に福沢諭吉が書いたものによれば、このころの会議で議論をしているのはごく一部で、大半の武士は大広間の隅に転がって酒を飲むような不謹慎なものもいたという。全体に徳川武士団はやる気を失っていた。それほど堕落していたのだ。その中で、松平容保・定敬兄弟は「あくまでも徳川家に殉ずる」という純粋な考えを持っていた。徳川家に殉ずるのであって、徳川幕府に殉ずるのではない。このへんのけじめのつけ方が、幕府の役人たちにとっては、多少距離を置くものだったろう。

 2月12日、慶喜は「私は謝罪恭順の証を立てるために、江戸城を出て謹慎する」と宣言した。謹慎場所は、東叡山上野寛永寺と定めた。そして、主戦派に対し、「城を出るように」と命じた。たちまち抗議する容保や定敬、小栗、榎本たちには、慶喜は冷たい目を向けた。「松平容保は会津に戻って謹慎せよ。松平定敬は桑名に戻って謹慎せよ。小栗上野介は領地に戻って謹慎せよ。榎本は艦隊が動揺しないようにこれを鎮め、やがてくる政府軍の指示を待つように」とこと細かく指示した。君命だ。不満だったが、定敬もハッと平伏した。しかし、彼には桑名に戻る気はなかった。

 定敬は桑名藩の飛び地がある越後柏崎へ行くことに決めた。幕府から預かっている領地を合わせると10万石ぐらいになった。「至急資金を調え、藩兵を動員して徹底抗戦を貫きます」と兄・容保に告げた。「分かった。私も会津に戻って、至急軍備を固める。ともに徳川家のために戦おう」と改めて誓い合った。

 ただ、この時点の徳川家は決して慶喜のことではなかった。徳川三代将軍・家光の異母弟、保科正之を会津松平家の始祖とし、「会津保科家は、他の大名家とは違う。とりわけ将軍家に忠節を尽くす精神を養わなければならない」との訓戒を遺した正之の精神が、この兄弟にはまだ根強く息づいていた。

 柏崎での抗戦は決めたが、定敬は鳥羽伏見の戦いで藩士を置き去りにしたまま大坂城から脱出したことが、ずっと心のわだかまりになっていた。藩のトップとして部下を置き捨てにしたことを、自分なりに実に見苦しく卑怯だと自身を責めていた。この後の松平定敬の行動は流浪のひと言に尽きる。桑名軍は柏崎では家老・河井継之助が率いる長岡軍と協同して政府軍とよく戦ったが、敗れた。定敬は兄が籠もる会津城に向かった。そして、ここでも攻防戦に参加した。が、城が落ちる寸前に兄の口から発せられた「お前はここで死ぬことはない。城から逃れろ」の言葉に、「それでは、北の果てまで薩長と戦い抜きます」と宣言して会津戦から離脱した。

 仙台に着くと、たまたま榎本武揚の艦隊がいた。榎本は定敬を歓迎した。「これからエゾへ向かうところです」と榎本は言った。前老中の板倉勝静、肥前唐津藩主の世子・小笠原長行など多くの旧幕勢力が乗船していた。新しく定敬一行を加えて、榎本艦隊は仙台の港を離れ、一路、箱館に向かった。ここに上陸し、五稜郭に入った。明治2年4月、五稜郭に対する攻撃が始まった。定敬は一軍を率いて戦った。しかし、1カ月余り経つと劣勢になり、落城は時間の問題となった。このとき、松平定敬は何を思ったのか、城が落ちる寸前に、失礼するといって五稜郭を出た。そのまま横浜に向かった。ここで自首し、新政府から「長預け」の処分を受けた。彼の領地、桑名藩も11万石から6万石に半減された。明治5年まで、彼は禁固された。そして、罪を許された。

 明治10年の西南戦争には、旧桑名藩士によって編成された征伐軍が、意気軒昂と九州に向かっていった。松平定敬の、薩摩藩に対するせめてもの報復だった。定敬はその後、日光東照宮の宮司などを務めて明治41年に死んだ。

(参考資料)童門冬二「流浪する敗軍の将 桑名藩主松平定敬」、司馬遼太郎「最後の将軍」、司馬遼太郎「王城の護衛者」

山背大兄王 二度にわたり即位を阻まれ、入鹿に襲われて一族と自刃

山背大兄王 二度にわたり即位を阻まれ、入鹿に襲われて一族と自刃

 山背大兄王(やましろのおおえのみこ)は聖徳太子の長男で、「大兄」すなわち皇太子格の身分だったと思われるが。不運にも当時、権勢をほしいままにした蘇我蝦夷・入鹿父子により、推古天皇および舒明天皇没後の二度にわたって即位を阻まれ、最後は入鹿に襲われて、妻子とともに自殺。これにより、聖徳太子の一族、上宮王家(じょうぐうおうけ)の血脈は絶えた。聖徳太子は後世、人がいうように聖人であるという面もあるが、なかなかしたたかな政治家でもあった。ところが、山背大兄王は聖徳太子から思想家、あるいは道徳家としての側面を受け継いだが、したたかな政治家としての面は受け継がなかった。そのことが、後の彼とその一族の悲劇を生むことになった。

 推古天皇が聖徳太子の薨去後、皇太子を立てなかったことから、天皇の崩御に伴い、皇位継承をめぐる紛議が起こった。皇位継承者に擬せられたのは、押坂彦人大兄皇子の子、田村皇子と聖徳太子の子、山背大兄王だ。当時、朝廷を束ねる立場にあった大臣・蘇我蝦夷(えみし)は、いずれを後嗣とするかで大いに悩んだ。群臣会議の意見は二分し、評議は膠着した。蝦夷は推古天皇の遺詔が、田村皇子に対しては「天下を治めることは大任である」、山背大兄王には「群臣の言葉に従え」と極めて曖昧なのをいいことに、山背大兄王の擁立を主張していた境部摩理勢(さかいべのまりせ)を葬ることで田村皇子、すなわち後の舒明天皇を次の天皇に推戴した。

 ただ、山背大兄王は今回、舒明天皇が即位しても、その次の皇位は当然、自分のところへくると思っていたのだろう。ところが、舒明天皇の次に即位したのは舒明天皇の皇后・皇極天皇(宝皇女)だった。この女帝は後に重祚して斉明天皇となる歴史上稀な存在だ。この皇極天皇が病に罹り、皇位が不安定になったとき、悲劇は起こった。蝦夷の子・蘇我入鹿らが突如として、山背大兄王の斑鳩宮を時の政府の軍隊に包囲させたのだ。

 山背大兄王を攻めたのは蘇我入鹿、巨勢臣徳太(こせのおみとこだ)、大伴連馬飼(おおとものむらじうまかい)、中臣塩屋連牧夫(なかとみのしおやのむらじまきふ)、土師連娑婆(はじのむらじさば)らの有力豪族以外と軽皇子(後の孝徳天皇)らだった。軽皇子は当時の皇極女帝の同母弟だ。こうしてみると、聖徳太子・山背大兄王=上宮王家の存在が、入鹿だけでなく飛鳥朝廷の一群にとって、いかに邪魔な存在だったかがうかがわれる。もちろん、それは女帝の次の皇位問題にからんでのことだが、悲劇は山背大兄王をはじめ上宮王家の王族たちは、ほとんど認識していなかったことから起こった。上宮王家の人々は、嫌われていることは分かっていたが、その相手は蘇我本宗家だけであり、軽皇子までが加わって攻めてくるとは全く予想していなかった。

 山背大兄王はいったん、斑鳩宮に火を放ち生駒山に逃れる。そこで、三輪文屋君(みわのふみやのきみ)が王に「東国に行って軍隊を整え、再び戦えば、勝利は確実であろう」と進言した。だが、王は「あなたの言う通りにすれば、必ず勝とう。しかし私はそれによって民を滅ぼすことを好まない」と答え、戦いを避ける道を選んだ。すなわち、戦いに勝つのも丈夫の道だろうが、身を捨てて国を安泰にするのも、それ以上に丈夫の道ではないか-といったという。山背大兄王はこの言葉通り、戦いを避け再び斑鳩に戻って自刃した。妻子一族すべて彼と運命をともにした。

 山背大兄王はどうして、このような悲劇的な道を選択したのだろうか。それは、彼が父・聖徳太子から受け継いで、父以上に純粋に信奉した「仏教」という思想の、ある意味での“毒”によって死の道を選んだと言わざるを得ない。「捨身」こそが、山背大兄王の理想だった。それは仏教の菩薩行の理想だ。その理想に従って、山背大兄王は戦争を起こして、多くの人々を死なせることを拒否し、一族とともに、飢えた虎のような蘇我入鹿をはじめとする時の政府の軍隊に、その尊い身を投じたのだ。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、黒岩重吾「斑鳩王の慟哭」、黒岩重吾「日と影の王子 聖徳太子」、笠原英彦「歴代天皇総覧」

後鳥羽上皇 朝廷権力の回復図るが、「承久の乱」で敗れ隠岐へ配流に

後鳥羽上皇 朝廷権力の回復図るが、「承久の乱」で敗れ隠岐へ配流に

 後鳥羽上皇は、後白河上皇とともに、歴代天皇の中でも際立って強烈な個性の持ち主だった。そして、後鳥羽上皇は「承久(じょうきゅう)の乱」で、鎌倉幕府と京都方との勢力争いにおいて、自ら乱の中心人物として修羅のちまたをくぐった帝王だった。ただ、後白河、後鳥羽の両上皇を比較すると、狡猾さの点で、後白河院が数段上だった。後白河院は機略を用いて、したたかに遂に動乱の時代を生き抜いたが、対照的に後鳥羽院はあえなく敗退、悲劇の結末を迎えることになった。1221年(承久3年)、隠岐に遷幸となり、遂にこの島で崩御した。後鳥羽上皇の生没年は1180(治承4)~1239年(延応元年)。

 鎌倉幕府が開設され、本格的な武家政治がスターとした時代、後鳥羽院の運命は、いわば「文」の支配から「武」の支配に転じていく大きな時代の転換を、一身に象徴していたともいえる。また、後鳥羽院はいうまでもなく『新古今和歌集』の成立に最大の役割を果たした帝王歌人だった。このほか、管弦、蹴鞠、囲碁、有職故実などの王侯のたしなみに精進し、武芸においても相撲、水泳、競馬(くらべうま)、弓術、狩猟に秀で、自ら刀剣を鍛えることさえした。後鳥羽院はまさに日本史上、文化的に大きな業績を残した帝王だったのだ。

 鎌倉幕府が成立した後も、京都の後鳥羽上皇は、新しい親衛隊「西面の武士」を設置したり、幕府寄りの公家・九条兼実らを排斥したりして、武家からの政権奪回に腐心、画策していた。源頼朝の死後、二代頼家、三代実朝で源氏の正統が途絶え、北条氏が台頭すると、後鳥羽院は好機が訪れたと判断し、1221年、執権・北条義時追討の院宣を発した。「承久の乱」の始まりだった。

 しかし、幕府側の結束は固く、院宣が出されてからわずか1カ月で乱は鎮圧され、後鳥羽院の計画はあえなく失敗に終わった。上皇側は院宣さえ発すれば大勢が決まると思って過信していたのだ。とくに上皇が期待した武将の三浦義村は起たず、執権体制への不満よりも武家政治の大義を守るために、御家人たちは結束したのだ。幕府は後鳥羽、土御門、順徳の3上皇を各地へ配流、関係した公家を処罰した。西国に多かった上皇方の所領は没収され、功績のあった御家人たちに分け与えられた。京都朝廷方の惨敗だった。

 後鳥羽上皇は高倉天皇の第四皇子。諱は尊成(たかなり)。母は七条院。平家とともに西海の壇ノ浦に沈んだ兄・安徳天皇の後を受け4歳で即位した。実権は祖父の後白河法皇に握られたままだったが、法皇が崩御(1192年)し、廷臣の土御門通親と謀って“親鎌倉幕府派”の九条兼実を退けると、1198年(建久9年)、第一皇子の土御門天皇に譲位して、院政を始めた。前述した通り、多芸多才の人だったが、時代の流れは読み誤った。

 「人もをし人も恨めしあぢきなく 世を思ふ故に物思ふ身は」

 これは『後撰和歌集』および『小倉百人一首』に収められている、「承久の乱」の9年前に詠まれた歌だ。歌意は、人よ、そなたのことがある時はいとしく、あるときは恨めしい。というのも、ただびとならば恋ゆえの物思いにふけっていれば済むものを、なまじ帝王の位に上ったばかりに、世間を相手の、およそ味気ない物思いをしなければならないからだ。

 帝王たるもの、私には個人に恋するが、公には世間、時世を相手に恋をしなければならない。当然その世は武家社会、表向き鎌倉幕府の源家を立てつつ、実際は北条執権家の支配する時世を意味する。過ぎ去ろうとしている、事実は過ぎ去ってしまった王朝時代の主である帝王にとっては、およそ心に染まぬ味気ない恋であり、物思いとならざるを得ないその意味では、この歌は9年後の「承久の乱」、その結果の隠岐配流を予見しているような歌といえる。

 「われこそは新島守(にひじまもり)よ沖の海の 荒き波風こころして吹け」

 この歌は配流の地で詠んだものだ。隠岐は、伯耆から舟で渡ること十余里の孤島だ。上皇にとって日本海の荒波に浮かぶその島が、これから終の棲み家となる。以後、18年間、崩御し遺骨になって帰京するまで島を出ることはなかったが、気性の激しい上皇は、配流の島の新島守-新しい主人だから、隠岐の海の波も風も、そのことをよく心得よ、と強気に詠んで島に入ったのだ。だが、

 「身の憂さを嘆くあまりの夕暮に 問ふも悲しき磯の松風」

と詠まざるを得なかった。配流の地の夕暮れは殊更に寂しさが募る。時代の流れから武家政治は歴史の必然だった。それを個人の力で強引に転換しようと謀ったところに、上皇の悲劇の根源があったのだ。

 御製は『後鳥羽院御集』、歌論には『後鳥羽院御口伝』がある。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、大岡 信「古今集・新古今集」、松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、曽沢太吉「全釈 小倉百人一首」、高橋睦郎「百人一首」