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皇女和宮 公武合体派の主導による政略結婚の被害者となった悲劇の女性

皇女和宮 公武合体派の主導による政略結婚の被害者となった悲劇の女性

 皇女和宮は、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王と婚約の内約があったにもかかわらず、「公武合体」という朝廷と幕府の政治的な都合で、この婚約を解消させられ、第十四代将軍・徳川家茂(いえもち)に嫁した、悲劇の女性となった。和宮の生没年は1846(弘化3)~1877年(明治10年)。皇女和宮は、第百二十代・仁孝天皇の第八皇女として生まれた。生母は勧行院(かんぎょういん)橋本経子。和宮が生まれたときには、父の帝はすでに崩御し、兄の孝明天皇の御代になっていた。

 幕府は、反対勢力に強硬な姿勢を貫き「安政の大獄」を断行した大老・井伊直弼が「桜田門外の変」で暗殺された後、朝廷との融和を図ろうとする「公武合体派」の安藤信正が老中首座となった。安藤は朝廷側の岩倉具視と諮り、十四代将軍家茂の御台所(みだいどころ=正室)に皇女を迎えようとしたのだ。それまで、宮家出身の御台所や御簾中(御三家、御三卿の正室)はあったが、皇女というのは前例がない。

    いや、正確には江戸時代、将軍家と天皇家との縁組がまとめられたことは二度あった。一つは二代将軍秀忠の娘、和子(まさこ)が、第百八代・後水尾(ごみずのお)天皇の中宮として入内している。いま一つは、七代将軍家継と八十宮吉子内親王の縁組がそれだ。父・六代将軍家宣の死去に伴い、わずか4歳で将軍になった家継の相手に決まった皇女・八十宮はまだ数えで3歳だった。婚約の儀式は執り行われていたが、家継がわずか8歳で亡くなったため、両家の関係は婚約のみに終わり、江戸時代初めての天皇家と徳川家の縁組は実らなかったのだ。ただ、すでに結納の儀も済んでいたことから、八十宮は生涯、亡き家継の婚約者として過ごすことを余儀なくされた。

 家茂の相手の皇女候補、実は3人がリストアップされていた。和宮の姉で桂宮を継いだ淑子内親王(32歳)、孝明天皇の皇女・寿万宮(すまのみや、2歳)そして和宮だった。和宮は家茂と同年で、年齢はつりあっていたが、すでに有栖川宮熾仁親王との婚約が勅許になっていた。したがって、一時は寿万宮の成長を待つことに落ち着きかけた。ところが、不幸にして寿万宮が夭折してしまった。そこで、熾仁親王に辞退を強要して、和宮に親子(ちかこ)の名を賜り内親王宣下のうえ降嫁が決まったのだ。

 こうして和宮は16歳で家茂のもとに嫁した。幕府にとって、和宮降嫁による「公武一和」は、単なるスローガンではなく、必死の方策だった。繰り返すが、この結婚は最初から政治主導のものだった。それだけに、幕府を警戒した朝廷は、和宮降嫁にあたってこまごまとした条件を付けていた。①下向後、大奥に御同居の御方がおられないようにする。ただし、例えば天璋院は西の丸、本寿院(十三代将軍家定の生母)は二の丸というように別殿に住まわれるのなら構わない②下向後、天璋院や本寿院と往来や対面などはせず、年始やそのほかの節は、すべて使者で済ませる③別殿の御方から使者を遣わすときは、堂上の娘が使者を務めるとき以外は御目通りをしない-といった内容だ。

    将軍の正室となりながら、その将軍の義母や前将軍の生母との同居を拒否し、往来や対面も使いで済まそうというのだ。さらに使いには、旗本の娘ではなく、公家の娘を立てろという。これでは、大奥に波風が立つのも当然だった。しかし、こうした条件は江戸では全く考慮された形跡がない。京都や政治の最前線で交渉する酒井忠義と、江戸にいる老中とでは、考え方も認識も全く違っていたし、大奥はそうした政治とは無縁の世界だった。幕府の男子役人が何を約束してこようと、大奥には大奥の流儀があるということだったのか。

 勝海舟が回想しているように、初めは和宮と天璋院は大層仲が悪かった。それはお付きの女中が反目しあってことから生じたものだった。和宮が連れてきた女中たちは事あるごとに関東の風儀を笑ったし、大奥にも長い間の伝統に培われた儀礼が確立していた。この「御風違い」による対立や反目は、なかなか解消しなかった。天璋院、和宮、それぞれが将軍家と朝廷の威光を背負っているだけに、それも当然のことだった。

 家茂は1866年(慶応2年)、幕府軍による第二次長州征討の最中、大坂城中で病没した(享年21)から、和宮の結婚生活はわずか4年ほどだった。だが、夫婦仲は睦まじいものだったようだ。また、ともすればぎくしゃくするケースがあった天璋院とも、明治になってからは心うち解けたという。

 家茂の病没後、静寛院宮(せいかんいんのみや)と称した和宮(=親子内親王)が官軍の江戸城総攻撃を前に、東征大総督宮の熾仁親王に交渉して「最後の将軍・慶喜の助命と徳川宗家存続」を実現すべく尽力したのは、徳川家の嫁としての意識が確かだったからといわれている。

 和宮には江戸へ下向するときに詠んだ、次のような歌かある。

「惜しまじな君と民とのためならば 身は武蔵野の露と消ゆとも」

   彼女は、その身の不運を知りながらも、公武合体の実を挙げるべく下向すると決めた以上、この身に懸けてやり遂げよう-との思いに燃えていたのだ。

(参考資料)山本博文「徳川将軍家の結婚」、松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、宮尾登美子「天璋院篤姫」、勝海舟 勝部真長編「氷川清話」、司馬遼太郎「最後の将軍」、海音寺潮五郎「江戸開城」

後桜町天皇 近世2代にわたる幼帝の御世、王権を支えた最後の女帝

後桜町天皇 近世2代にわたる幼帝の御世、王権を支えた最後の女帝

 日本では、古代には6人8代(推古、皇極・斉明、持統、元明、元正、孝謙・称徳)の女帝が在位したが、江戸時代に入っても2人の女帝が誕生した。一人は徳川将軍家を外戚に持った第百九代・明正天皇であり、もう一人がここに取り上げた第百十七代・後桜町(ごさくらまち)天皇だ。この後桜町女帝は当初、中継ぎとして即位した。だが、後事を託した天皇が若くして崩じたため、結局2代にわたる幼帝の即位を受けて、上皇となっていたこの女帝が、院にあって表舞台に立って王権を支えた。後桜町天皇の生没年は1740(天文5)~1813年(文化10年)。在位は1762(宝暦12)~1771年(明和7年)。

    後桜町天皇は百十五代・桜町天皇の第二皇女。幼名は以茶宮(いさのみや)、緋宮(あけのみや)、諱(いみな)は智子(としこ)。母は関白左大臣・二条吉忠の娘で、桜町女御天皇女御の藤原舎子(青綺門院)。姉に早世した盛子内親王、異母弟に第百十六代・桃園天皇がいる。1762年、後桜町天皇は異母弟の桃園天皇が22歳の若さで崩じ、残された皇子たちも5歳と3歳と幼すぎるため、中継ぎとして即位した。女帝23歳のときのことだ。女帝と第百十六代・桃園天皇の父、第百十五代・桜町天皇がすでに崩御していたため、即位と同時に、幕府の存在により限られた王権ではあるものの、奈良時代の称徳天皇以来の朝廷の主である女帝が誕生することになった。

    ちなみに、徳川三代将軍家光の時代に、家光の妹・東福門院和子の娘、明正天皇が即位している。ただ、この女帝は朝廷と幕府の関係を改善させるという重要な狙いがあったものの、父帝の後水尾(ごみずのを)天皇が上皇として院政を執っていたため、明正天皇自身が朝廷の主となることはなかった。

    こうして即位した後桜町天皇は、中継ぎの女帝として皇嗣の甥の英仁親王の教育に大変熱心で、政務においても大事に際しては摂政に自らの意見を示して、再考を求めることもあったといわれる。1770年、すでに2年前に立太子していた英仁親王(13歳)に譲位して上皇となり、女帝の中継ぎとしての役割は無事終えるはずだった。

    ところが、甥の後桃園天皇が1779年、不幸にも父帝と同じ22歳の若さで崩じてしまった。しかも、後桃園天皇の遺児が1歳にもならない欣子内親王のみで、後桃園天皇の弟皇子は7年前に早世していることから、当時の正統とされた皇統、第百十四代・中御門天皇の血統の男子は途絶える事態となってしまったのだ。そのため、上皇となっていたこの女帝が再び表舞台に立たなければならなくなった。

   後桜町上皇は、桃園天皇の女御で後桃園天皇の皇太后の一条富子と協議し、上皇の従弟の閑院宮家の祐宮を選び、この傍系からの継承という弱い立場にある天皇の基盤を強めるため、祐宮を後桃園天皇の女御の近衛維子の養子とし、後には後桃園天皇の遺児で皇統の継承者の欣子内親王を立后させ中宮とした。このとき即位させた祐宮が現在の皇統の祖となる光格天皇だ。光格天皇は朝権再興の中核となる英明な君主といわれているが、その天皇を即位させ、育て上げた人こそ後桜町上皇だった。

    女帝の誕生は多くの場合、皇位継承予定者が幼年のため、直ちに即位できないといった事情が存在し、いわば“中継ぎ”的な意味で女帝(中天皇=なかつすめらみこと)が即位して皇位継承予定者の成長を待つケースが多い。明治以降は戦前の旧皇室典範と戦後の現皇室典範において、皇位継承資格者は男系の男子に限定されたことから、女帝が即位する可能性は失われており、この後桜町天皇がいまのところ最後の女帝ということになっている。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、北山茂夫「女帝」

堅塩媛 欽明天皇の后となり用明・推古天皇の母となり蘇我氏隆盛に貢献

堅塩媛 欽明天皇の后となり用明・推古天皇の母となり蘇我氏隆盛に貢献

 堅塩媛(きたしひめ)は蘇我稲目の娘で、第二十九代・欽明天皇の妃となって、後の第三十一代・用明天皇、第三十三代・推古天皇の2人の天皇の母となるなど皇子7人、皇女6人の計13人の子供を産み、強力な閨閥により大和朝廷における蘇我氏の勢力拡大・隆盛に大きく貢献。その大王家・皇族との血脈により、さながら“蘇我王朝”とも評された当時の、文字通り産みの親だ。

 堅塩媛は飛鳥時代、大和朝廷の実権を掌握、大豪族の頂点に立った蘇我氏の総帥・蘇我馬子の姉だ。百済渡来人の総領として、大和政権・国家の財政を仕切った蘇我氏の巨大な権力の基盤は、冒頭で述べた通り、この女性、堅塩媛によって築かれたといえる。まさに、日本古代史における蘇我氏の繁栄を約束付けた存在だった。

    蘇我氏が政治の実権を掌握した後、彼女は「大后」や「皇太夫人」という称号で呼ばれたといわれる。彼女の生没年は不詳。多くの皇子・皇女を産んだだけに、それほど長く生きたとは思えない。529年(継体23年)ごろに生まれ、572~585年ごろ没したとみられる。45年から58年の人生だったと思われる。

 堅塩媛は橘豊日大兄皇子(たちばなのとよひのおおえのみこ、後の用明天皇)、磐隈皇女、●嘴鳥皇子、豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめ、後の推古天皇)、椀子(まろこ)皇子、大宅(おおやけ)皇女、石上部(いそのかみべ)皇子、山背(やましろ)皇子、大伴皇女、桜井皇子、肩野皇女、橘本稚(たちばなのもののわか)皇子、舎人皇子(当麻皇子夫人)の7皇子・6皇女合わせて13人の子をもうけた。

 『日本書紀』は、堅塩媛の名前をわざわざ「きたしひめ」と詠むように注釈を入れている。「きたしひめ」とは、汚い、醜いに通じる、ひどい名前で、その名の由来は悲しいものだ。それは、後世の人たちが蘇我家につけたあだ名ともとれるのだ。「きたし」は後に天智天皇となった皇太子・中大兄皇子の最初の夫人、蘇我造媛(そがのみやっこひめ)の、父の、そして一族の死にまつわる、おぞましい記憶に由来するものだと紹介されている。

 中大兄皇子と中臣鎌足、そして蘇我倉山田石川麻呂らによる「乙巳の変」で、専横を極めた蘇我蝦夷・入鹿の蘇我本宗家を滅ぼし、大化の改新が断行。孝徳天皇の御世、中大兄皇子の妃・蘇我造媛が、謀反を計ったとの嫌疑で父・蘇我倉山田石川麻呂が「物部二田作塩」に斬られたと聞いて、心を傷つけられ、悲しみもだえた。このため造媛は「塩」の名を聞くことさえ忌み嫌い、彼女に近侍する者は塩の名を口にすることを避け、改めて堅塩(きたし)といった。造媛は、あまりに心に深い傷を負って、遂に亡くなった。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、黒岩重吾「古代史への旅」、黒岩 重吾「北風に起つ 継体戦争と蘇我稲目」、神 一行編「飛鳥時代の謎」、永井路子「冬の夜、じいの物語」、井沢元彦「逆説の日本史②古代怨霊編」

月花門院 二人の恋人の間で炎を燃やし、堕胎に失敗し夭折 

月花門院 二人の恋人の間で炎を燃やし、堕胎に失敗し夭折 

 月花門院(げっかもんいん)は、正確には月花門院綜子(そうし)内親王といい、皇統が二派に分かれてしまう両統迭立(てつりつ)の禍いの基をつくった第八十八代後嵯峨天皇の第一皇女だ。『増鏡』によると、月花門院には四辻宮(よつじのみや)と基顕中将の二人の恋人がいて、そのいずれとも父の分からぬ子を宿し、流産(堕胎?)のために夭折したと記されている。月花門院23歳のときのことだ。

 月花門院(月華門院とも)の諱は綜子。母は西園寺実氏の娘、大宮院。高貴な血筋で後深草院の同母妹で、亀山院の同母姉だ。生没年は1247(宝治元)~1269年(文永6年)。月花門院は1247年(宝治元年)、生まれるとともに内親王宣下。1248年(宝治2年)安嘉門院邦子内親王の猶子となった。両親の寵愛を受け1263年(弘長3年)、17歳のとき准三宮並びに院号宣下。以後、月花門院を称した。

 鎌倉時代の都の貴族は、武家に権力を奪われて地盤が沈下していく中、過去の栄光が忘れられずにもがいた人々と、新しい時代に適応している人たちに分かれていた。そして幕府は、その両勢力の争いに乗じて着々と政権の基盤を固めていた。そんな時代状況の中で、綜子内親王は高貴の人々の中でも最も恵まれた境遇にあったはずだ。しかし、男と女の世界の恋の成就に、貴賎はあまり関係しなかったようだ。彼女が詠んだ歌の多くが、恋の悲傷の歌なのだ。

 「秋の来て身にしむ風の吹くころは あやしきほどに人ぞ恋しき」

 これは実家にさがっていた後嵯峨院大納言典侍(藤原為家の娘)に贈った歌だ。歌意は、秋が来て身に沁みる風の吹くころには、自分でも不思議なほど人が恋しいことです。贈った相手は女性で、いわば友情の歌なのだが、詠み込まれた心情は、やはり恋の悲愁だろう。

 「ちぎりおきし花のころしも思ふかな 年に稀なる人のつらさは」

 歌意は、稀にしか逢うことができない恋人と、「花のころに逢う」との約束を思うにつけても、切なさで心がいっぱいになってしまいます。世間をはばかる事情があって逢えないのか、ただひたすら恋人の訪れを待つ皇女の姿が浮かんでくるようだ。

 「いかなればいつともわかぬ夕暮れの 風さへ秋は恋しかるらむ」

 歌意は、どういうわけか、いつも決まって何ということもない夕暮れの風さえ、秋は悲しみを催させるのでしょうか。この歌は秋と風と夕暮れを詠み込んで、自然を見つめて人生を沈思する中世の人々の感受性を表現している。が、同時に人を恋することの悲しさと危うさを知り尽くしたような、悲恋の皇女の叫びが聞こえてくるような歌でもある。

 1266年(文永3年)、完成披露された『続古今集』には、月花門院綜子内親王の歌が20歳の若さで8首入集している。また『続古今集』以後の勅撰集に彼女の歌21首が収められている。そして1269年(文永6年)、彼女は23歳で急逝した。『増鏡』によると、月花門院は中将・源彦仁(順徳院の孫、忠成王の子)および、頭中将・園基顕の二人と密通し、子を身籠った末、堕胎の失敗によって亡くなったらしい。

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」

穴穂部間人皇女 用明天皇の皇后で、聖人・聖徳太子の母

穴穂部間人皇女 用明天皇の皇后で、聖人・聖徳太子の母

 穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)は、欽明天皇の第三皇女で、同母兄・用明天皇の皇后。用明天皇との間に厩戸(うまやと)、来目(くめ)、殖栗(えくり)、茨田(まむた)の四人の皇子をもうけた。厩戸皇子は豊聡耳聖徳(とよとみみしょうとく)などとも呼ばれた聖徳太子だ。つまり、この穴穂部間人皇女は聖徳太子の生母なのだ。同母弟に穴穂部皇子がいる。

  用明天皇の母は蘇我稲目の娘、堅塩媛(きたしひめ)であり、穴穂部間人皇女は堅塩媛の妹、小姉君(おあねのきみ)の娘だ。つまり、姉が産んだ皇子のもとに、妹が産んだ皇女が嫁いだというわけだ。異母兄・妹の結婚だった。

 穴穂部間人皇女の生年は不詳、没年は622年(推古天皇29年)。用明天皇崩御後、用明天皇の第一皇子、田目皇子(多米王、聖徳太子の異母兄)に嫁し、佐富女王(長谷王妃、葛城王、多智奴女王の母)を産んだ。彼女の同母弟、穴穂部皇子(あなほべのみこ)は敏達(びだつ)天皇が崩御した際、皇位を望んだとされる。皇子は皇后・炊屋姫(かしきやひめ、後の推古天皇)を姦すべく、もがりの宮に入ろうとしたところを敏達天皇の臣下、三輪君逆(みわのきみさこう)に遮られた。

 穴穂部皇子はこれを憎み、当時の実力者、大臣(おおおみ)蘇我馬子、大連(おおむらじ)物部守屋に三輪君逆の無礼を訴え、斬殺するように命じた。物部守屋は兵を率い、磐余(いわれ)の池辺(いけのへ)を皮切りに三輪君逆の跡を追い、遂にその命を奪った。蘇我馬子は穴穂部皇子に自重を促したが、皇子はこれを聞き入れなかった。これを契機に、穴穂部皇子と皇后・炊屋姫および馬子の関係は険悪なものとなったといわれる。 

 こうした経緯があって、穴穂部間人皇女に因む以下の逸話が伝えられている。京都府京丹後市(旧丹後町)にある「間人(たいざ)」という地名は、この穴穂部間人皇女に因むものと伝えられている。この皇女は、蘇我氏と物部氏との争乱を避けて丹後に身を寄せた。そして都に戻る際に、惜別の意味を込めて自分の名を贈った。

 ところが、同地の人々は皇后の御名をそのまま呼ぶのは畏れ多いとして、皇后がその地を退座したことに因み、「たいざ」と読むことにしたという。ただ、「古事記」「日本書紀」などの文献資料には、穴穂部間人皇女が丹後国に避難したことの記述はない。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、黒岩重吾「聖徳太子 日と影の王子」、豊田有恒「聖徳太子の叛乱」

鏡王女 中大兄皇子が功臣・鎌足に下賜した、代表的な万葉歌人

鏡王女 中大兄皇子が功臣・鎌足に下賜した、代表的な万葉歌人

 鏡王女(かがみのおおきみ)は、額田王(ぬかだのおおきみ)の姉だから、近江の豪族・鏡王の女(むすめ)だ。とはいえ、これには異説があり、第三十四代舒明天皇の皇女とも皇妹ともいわれる。鏡王女の名を一般的に眼にするのは、中大兄皇子の妃だった彼女が、懐妊中、大化改新で貢献した功臣・中臣鎌足に下された件(くだり)だ。感激した鎌足は、鏡王女を正妻として遇したが、そのときの子が、藤原不比等だ。困ったことに、これにも異説があって、不比等の母は車持の与志古娘(よしこのいらつめ)ともされる。だが、父・鎌足が賜った藤原姓を、中臣氏の中で不比等の系統のみが継ぐことになったのは皇胤だからとする解釈も根強い。

 いずれにしても、中大兄皇子の鏡王女に対する気持ちはすでに冷めていた。だから、鎌足への下賜につながるのだ。鏡王女にとっては悲しい現実にさらされたわけだ。ただ、名ばかりの妃でいるよりは、正室として迎えられ、普通に言葉を交わせる鎌足との生活が、女性にとって幸せだったのではないかとの見方もできる。鏡王女の生年は不詳だが、没年は683年(天武12年)だ。『万葉集』では鏡王女、『日本書紀』では鏡姫王と記されている。鏡女王とも呼ばれた。彼女の少女時代のことは何も分からない。額田王ほどではないが、代表的な万葉歌人の一人といわれる。史料によると、夫・鎌足の病気平癒を祈り、669年(天智天皇8年)に山階(やましな)寺(後の興福寺)を建立した。

 鏡王女が紛れもなく皇族の一員だったことが分かる件がある。『日本書紀』に天武天皇12年7月、王女を天武天皇が見舞いにきたことが記されているのだ。『万葉集』には4首の鏡王女の歌が収められ、天智天皇、額田王、藤原鎌足との歌の問答が残されている。

 「風をだに恋ふるはともし風をだに 来むとし待たば何か嘆かむ」

 これは、鏡王女がまだ中大兄皇子(天智天皇)の妃の一人だったとき、妹の額田王が

 「君待つとわが恋ひをればわが屋戸の 簾動かし秋の風吹く」

と歌ったのに対して返したものだ。額田王が中大兄皇子を待つ満ち足りた心を歌ったのに対し、鏡王女はすでに皇子の寵が去った自分のところには風さえ来ないと、妹をうらやましい気持ちで歌ったわけだ。鏡王女自身が感じていたように、中大兄皇子の自分への気持ちは冷めていた。だから、冒頭で述べたように、鎌足への下賜につながるのだ。

 鎌足が中大兄皇子から下賜された鏡王女に対して詠んだ、情熱的?なこんな歌が『万葉集』に収められている。

 「玉くしげみむろの山のさな葛 さ寝ずは遂にありかつましじ」

 『万葉集』独特の枕詞や飾りの言葉が入っているので分かりにくいが、彼のホンネは下の句にある。現代風に表現すれば、「あなたと寝ないではいられないだろうよ」ということだ。この歌は、鏡王女の次の歌に対して答えた歌だ。

 「玉くしげ覆ふを安み明けていなば 君が名はあれど我が名し惜しも」

 歌意は、化粧箱を蓋で覆うように、二人の仲を隠すのはわけないと、夜が明けきってから、お帰りになるなんて。そんなことをなさったら、あなたの評判が立つのはともかく、私の良くない評判が立つのが惜しいですわ。

 鎌足には天智天皇から手厚い恩賞として、采女の安見児をもらったとき詠んだこんな歌がある。これも『万葉集』にある歌だ。

 「吾はもや安見児えたり皆人の得がてにすとふ安見児えたり」

 歌意は、俺こそ采女の安見児(やすみこ)をわがものにしたぞ。みんなが結婚できないという安見児を、我が妻にした-と手放しで喜んでいる。

 中大兄皇子=天智天皇の生涯は波乱を極めたが、鎌足は常に側近にあって活躍した。それだけに鎌足に対する天智の信任は絶大で、位人臣をきわめ、手厚い恩賞も与えられた。そして、異例中の異例のことだが、実は鏡王女の下賜も、破格のご褒美の一つなのだ。

 普通、豪族は天皇家に対する忠誠の証として娘を、天皇家の側女=采女として差し出す。その意味で、その女性は人ではなく、世話をする個人(天皇や皇子)の所有物、つまりモノと同じなのだ。だから、一見、中大兄皇子=天智天皇の取った行動は非人間的なものに思われ勝ちだが、本来的にはその女性本人の意思や気持ちがどうであろうと斟酌されることはないのだ。

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、黒岩重吾「天風の彩王 藤原不比等」、黒岩重吾「茜に燃ゆ」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」、杉本苑子「天智帝をめぐる七人 胡女(こじょ)」