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秀吉が使った陣羽織を修復 18年ぶりに一般公開

秀吉が使った陣羽織を修復 18年ぶりに一般公開

 京都市の高台寺(東山区)は、豊臣秀吉が使ったと伝わる「鳥獣文様綴織陣羽織」(重要文化財)の、約2年2カ月にわたる修復を終え7月9日、報道陣にお披露目した。

 陣羽織は身丈約99㌢、肩幅60㌢。16世紀、当時のイランの宮廷工房で制作され、日本に渡った綴れ織を裁断し、武将が具足の上からまとう陣羽織に仕立てたとみられるという。獅子やクジャクなど様々な動物が描かれており、傷みが目立っていたことから、修復に入っていた。高台寺掌美術館で7月20日~8月3日、18年ぶりに一般公開する。

川端康成が学生時代、婚約者に宛てた恋文見つかる

川端康成が学生時代、婚約者に宛てた恋文見つかる

 ノーベル文学賞授賞作家、川端康成(1899~1972年)が学生時代、婚約者の伊藤初代に宛てた未公開の手紙が7月8日までに、神奈川県鎌倉市の川端邸で見つかった。遠く離れて、岐阜市に住む恋人への熱い思いを訴える哀切に満ちた内容。恋愛、孤独・死をテーマにした川端文学の出発点を示す資料として、専門家も注目する。16日に岡山県立美術館で公開される。

 今回発見された手紙は計11通。10通は伊藤初代から川端宛て。1通は川端が1921年秋、22歳のときに書いたものの、投函されなかったもの。川端は「毎日毎日心配で心配で、ぢつとして居られない」「恋しくつて恋しくつて、早く会わないと僕は何も手につかない」などと、会えないもどかしさを、ストレートに吐露している。恋人の初代は当時、川端と出会った東京・本郷のカフェを辞め、岐阜市の寺院に養女として預けられていた。

 2人の恋はその後、初代が「ある非常」という理由で結婚を断る手紙を送り、破局した。川端はこの失恋を題材に「非常」などの初期小説を発表。代表作「伊豆の踊り子」も影響を受けたとされる。

 

京都で室町時代に流通の銅銭約4万枚入ったつぼ

京都で室町時代に流通の銅銭約4万枚入ったつぼ

 発掘調査会社イビソク(岐阜県大垣市)などは7月8日、京都市下京区貞安前之町で、15世紀(室町時代)に流通した銅銭約4万枚が入ったつぼが見つかったと発表した。銭は唐の「開元通宝」や明の「永楽通宝」など約50種類。400万円相当という。文献によると、出土場所には河原で染色などをしていた職能集団の屋敷があった。備前焼のつぼは高さ66㌢、幅53㌢。銭がつぼに納められたままの状態で見つかるのは珍しいという。

 

長崎市の8100万年前の地層からよろい竜の化石

長崎市の8100万年前の地層からよろい竜の化石

 福井県立恐竜博物館(同県勝山市)と長崎市教育委員会の共同研究チームは7月7日、長崎市にある約8100万年前の白亜紀後期の地層から、よろい竜の歯の化石1つと、肉食恐竜の歯の化石2つを発見したと発表した。よろい竜の化石が見つかるのは、長崎県で初めて。

 よろい竜は4本足で歩き、背部から尾にかけて骨の装甲を持つ草食恐竜で、白亜紀の北半球を中心に栄えた。恐竜博物館によると、国内ではこれまで、足跡を含めて北海道、富山県、兵庫県、熊本県の計4カ所で化石が見つかっている。

 よろい竜の歯は幅約10㍉、高さ約9㍉の薄くて幅広い形。植物を食べるため前後に突起がある。歯だけで全体の大きさや種類まで絞り込むのは難しいという。肉食恐竜の歯は幅約7㍉、高さ約14㍉と、幅約5.5㍉、高さ約7㍉。     

不明の重要文化財27都府県・109件に 文化庁調査

不明の重要文化財27都府県・109件に 文化庁調査

 文化庁は7月4日、国の重要文化財指定を受けた美術工芸品のうち、国宝の刀剣1件を含む27都府県の109件が所在不明になっているとの調査結果を発表した。指定美術工芸品の全国調査は初めて。

 109件のうち59件は工芸品で、刀剣が52件と大部分を占めた。仏像など彫刻は不明17件のうち、14件が盗難によるものだった。所在不明の重要文化財の9割以上が個人または社寺の所有だった。

 109件のうち35件は、2013年11月の緊急調査で所在が不明だったが、今回の調査で新たに74件の重要文化財の所在が分からないことが判明した。

谷崎潤一郎 戦時中「細雪」掲載中止の不安詠んだ俳句

谷崎潤一郎 戦時中「細雪」掲載中止の不安詠んだ俳句

 作家の谷崎潤一郎(1886~1965年)が太平洋戦争中に代表作となった、小説「細雪」の雑誌掲載を中止され、不安な心境を詠んだ俳句の書かれたはがきが見つかった。谷崎の俳句は珍しく、奈良市の帝塚山大で7月8日から始まる展示「谷崎潤一郎・耽美の世界~肉筆と稀〇本を中心に~」で初めて公開される。

 はがきは親しい人に宛てたもので、「提灯にさはりて消ゆる春の雪」などと2つの俳句が書かれていた。俳句は1944年ごろ詠まれ、戦時中の暗い世相をちょうちんになぞらえて、「細雪」を「春の雪」で表したとみられる。

 細雪は旧家の4姉妹をめぐる物語。43年に雑誌「中央公論」で掲載が始まると、優美な世界が「時局をわきまえない」との理由で掲載中止となった。しかし、谷崎は密かに執筆を続け、翌年、自費で上巻約200冊をつくり、親しい人に配った。はがきは本の引換券として使われたとみられる。