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平城京天平祭2014~花と古のフェスティバル~11/1~

平城京天平祭2014~花と古のフェスティバル~ 11/1~

奈良市・平城宮跡で11月1~9日、「平城京天平祭2014~花と古のフェスティバル~」が開催される。期間中、大極殿・広場、朝堂院で花絵巻、花桟敷、竹の四神(朱雀、青龍、白虎、玄武)、風車が奏でる黄龍の風、、巨大木琴などが常設展示されるほか、平城宮跡周遊謎解きイベントが行われる。

また、土・日・祝日には朱雀門などで衛士 隊、広場では古代行事「万葉蹴鞠(けまり)」がそれぞれ再現される。天平時代の衣装を身に着けたり、蹴鞠の体験コーナーもある。東院庭園では雅楽と舞で表現する「よみがえる古都の宴」と題した、天平時代の宴が再現される。このほか、土・日・祝日には地元の名店など奈良のおいしいが集まった飲食物販&ものづくり体験コーナーが設けられる。

大阪城 豊臣時代の本丸と内堀 現代の技術で921億円

大阪城  豊臣時代の本丸と内堀  現代の技術で921億円

ゼネコン大手、大林組が1983年、豊臣時代の本丸と内堀を現代の技術で再現したらいくらかかるのか、極めて興味深い試算をしている。これによると、土木工事は、土の掘削など50億円、石積み480億円、その他付帯工事30億円、建築工事は、天守閣40億円、表御殿53億円、奥御殿54億円、その他(櫓、門、塀など)73億円。建築工事は計221億円。土木を含めた総工費は781億円となる。1983年に比べ消費者物価は18%上昇しているので、その分を修正すると921億円となる。

ただ、これはあくまでも本丸の工事代。豊臣時代の大阪城は、その外側に二の丸、惣構があった。見積もりでは石垣にとくに金がかかっている。より大きな外堀の工事を含む総事業費となると、かなり膨らむはずだ。

 

両界曼荼羅図 東寺・灌頂院で10/31から初の一般公開

両界曼荼羅図 東寺・灌頂院で10/31から初の一般公開

真言宗の最重要儀式「後七日御修法(ごしちにちしほ)」の本尊として使われる重要文化財・両界曼荼羅(まんだら)図(元禄本)が10月31日から、東寺・灌頂院(かんじょういん)(京都市南区)で初めて一般公開される。これに先立ち24日に報道陣に公開され、暗い堂内に色鮮やかな仏の姿が浮かび上がった。

両界曼荼羅図は胎蔵界、金剛界の2幅(各約4㍍四方)あり、公開されるのは空海が唐から持ち帰った原本を1693年(元禄6年)に書き写したもの。後七日御修法は平安時代、国家の安泰を祈るため空海が宮中で営んだのが始まりとされている。一時の中断を経て現在も毎年1月8~14日に灌頂院で営まれる。

卑弥呼の箸墓古墳にそっくり 京都府向日市・五塚原古墳

卑弥呼の箸墓古墳にそっくり  京都府向日市・五塚原古墳

京都府向日市の前方後円墳・五塚原(いつかはら)古墳(3世紀後半)が邪馬台国の女王・卑弥呼の墓説がある奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳(3世紀中ごろ)とほぼ同じ形状で、同種の築城技術が使われていることが分かった。向日市埋蔵文化財センターと立命館大が10月16日発表した。最新の測量データ や発掘成果を比較したもので、宮内庁の陵墓として立ち入りができない箸墓の構造を知る手掛かりになる。五塚原は初期の倭王権を支えた有力首長の墓と推測されている。全長約91㍍は同約280㍍の箸墓の3分の壱の規模。墳丘測量図の比較から箸墓をモデルにつくられたとみられてきた。

「平安時代の役人も出世したい」鳥取県大桷遺跡で土器出土

「平安時代の役人も出世したい」鳥取県大桷遺跡で土器出土

鳥取県教育文化財団調査によると、鳥取県大桷(だいかく)の「大桷遺跡」(9~10世紀前半)から出土した平安時代前期の土器に「位能上(くらい よくあがれ)」と判読できる文字が記されていたことが分かった。同遺跡からは役所跡だったことをうかがわせる出土品が数多く見つかっており、同財団は「古代の役人が、出世したいという思いを込めて書いた可能性がある」としている。 土器は直径12.8㌢、高さ4.8㌢の須恵器。食器の一部とみられ、文字は底部に記されていた。遺跡から出土した建物群跡の東側の流路から和同開珎などの銅銭、役人が身に着けた装飾具ほかの墨書土器約20点とともに見つかった。

東奈良遺跡で「れんが」出土 鎌足の隠居地説裏付ける

東奈良遺跡で「れんが」出土 鎌足の隠居地説裏付ける

大阪府茨木市教育委員会は10月10日、同市東奈良遺跡で出土した古代のれんが「摶(せん)」は、藤原鎌足の墓とされる阿武山古墳(大阪府高槻市)のものと酷似していることが分かったと発表した。遺跡周辺は、大化の改新のきっかけとなった「乙巳(いっし)の変」(645年)前に、鎌足が隠居した別邸「三島別業」があったとされ、、隠居地説を裏付け、あるいは補強する遺物となりそうだ。

東奈良遺跡で出土した摶の破片は横13㌢、縦18㌢、厚さ4㌢。遺跡の約7㌔北にある阿武山古墳で見つかった摶と比較したところ、厚さや表面ン位ある同じ円文様の大きさ、ヘリ部分にある文様を消す特徴などが共通しており、同じ工場で作られた可能性があるという。

日本書紀によると、鎌足が乙巳の変前、皇極天皇に新たに役職に就くように求められたが断り、三島別業に籠もった。乙巳の変に向け綿密な作戦を練るためだったと考えられている。大阪府北部の三島地域は古代から藤原氏ゆかりの地されるが、三島別業の場所はよく分かっていなかった。藤原氏の氏寺がある奈良市の興福寺に残された文献から、遺跡近くの茨木市沢良宜(さわらぎ)だったとの説がある。