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両界曼荼羅図 東寺・灌頂院で10/31から初の一般公開

両界曼荼羅図 東寺・灌頂院で10/31から初の一般公開

真言宗の最重要儀式「後七日御修法(ごしちにちしほ)」の本尊として使われる重要文化財・両界曼荼羅(まんだら)図(元禄本)が10月31日から、東寺・灌頂院(かんじょういん)(京都市南区)で初めて一般公開される。これに先立ち24日に報道陣に公開され、暗い堂内に色鮮やかな仏の姿が浮かび上がった。

両界曼荼羅図は胎蔵界、金剛界の2幅(各約4㍍四方)あり、公開されるのは空海が唐から持ち帰った原本を1693年(元禄6年)に書き写したもの。後七日御修法は平安時代、国家の安泰を祈るため空海が宮中で営んだのが始まりとされている。一時の中断を経て現在も毎年1月8~14日に灌頂院で営まれる。

卑弥呼の箸墓古墳にそっくり 京都府向日市・五塚原古墳

卑弥呼の箸墓古墳にそっくり  京都府向日市・五塚原古墳

京都府向日市の前方後円墳・五塚原(いつかはら)古墳(3世紀後半)が邪馬台国の女王・卑弥呼の墓説がある奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳(3世紀中ごろ)とほぼ同じ形状で、同種の築城技術が使われていることが分かった。向日市埋蔵文化財センターと立命館大が10月16日発表した。最新の測量データ や発掘成果を比較したもので、宮内庁の陵墓として立ち入りができない箸墓の構造を知る手掛かりになる。五塚原は初期の倭王権を支えた有力首長の墓と推測されている。全長約91㍍は同約280㍍の箸墓の3分の壱の規模。墳丘測量図の比較から箸墓をモデルにつくられたとみられてきた。

「平安時代の役人も出世したい」鳥取県大桷遺跡で土器出土

「平安時代の役人も出世したい」鳥取県大桷遺跡で土器出土

鳥取県教育文化財団調査によると、鳥取県大桷(だいかく)の「大桷遺跡」(9~10世紀前半)から出土した平安時代前期の土器に「位能上(くらい よくあがれ)」と判読できる文字が記されていたことが分かった。同遺跡からは役所跡だったことをうかがわせる出土品が数多く見つかっており、同財団は「古代の役人が、出世したいという思いを込めて書いた可能性がある」としている。 土器は直径12.8㌢、高さ4.8㌢の須恵器。食器の一部とみられ、文字は底部に記されていた。遺跡から出土した建物群跡の東側の流路から和同開珎などの銅銭、役人が身に着けた装飾具ほかの墨書土器約20点とともに見つかった。

東奈良遺跡で「れんが」出土 鎌足の隠居地説裏付ける

東奈良遺跡で「れんが」出土 鎌足の隠居地説裏付ける

大阪府茨木市教育委員会は10月10日、同市東奈良遺跡で出土した古代のれんが「摶(せん)」は、藤原鎌足の墓とされる阿武山古墳(大阪府高槻市)のものと酷似していることが分かったと発表した。遺跡周辺は、大化の改新のきっかけとなった「乙巳(いっし)の変」(645年)前に、鎌足が隠居した別邸「三島別業」があったとされ、、隠居地説を裏付け、あるいは補強する遺物となりそうだ。

東奈良遺跡で出土した摶の破片は横13㌢、縦18㌢、厚さ4㌢。遺跡の約7㌔北にある阿武山古墳で見つかった摶と比較したところ、厚さや表面ン位ある同じ円文様の大きさ、ヘリ部分にある文様を消す特徴などが共通しており、同じ工場で作られた可能性があるという。

日本書紀によると、鎌足が乙巳の変前、皇極天皇に新たに役職に就くように求められたが断り、三島別業に籠もった。乙巳の変に向け綿密な作戦を練るためだったと考えられている。大阪府北部の三島地域は古代から藤原氏ゆかりの地されるが、三島別業の場所はよく分かっていなかった。藤原氏の氏寺がある奈良市の興福寺に残された文献から、遺跡近くの茨木市沢良宜(さわらぎ)だったとの説がある。

唐招提寺で特有の奈良三彩瓦の破片65点出土

唐招提寺で特有の奈良三彩瓦の破片65点出土

奈良県立橿原考古学研究所は10月9日、唐の高僧鑑真(688~763年)が建立した唐招提寺(奈良市)で、3色の釉(うわぐすり)を使用した奈良三彩の瓦の破片が65点見つかったと発表した。破片が見つかったのは寺の僧房にあたる西室跡の東の溝。見つかった破片の最大のものは幅22.5㌢、通常の瓦より小型で摩耗が少ないため、建造物に伴う屋外の瓦ではなく、屋内の施設で使用されていたとみられる。同寺以外では見られない鮮やかな波状の文様が施されていた。

同研究所では「鑑真が住んでいたとされる西室付近で、室内にあった(仏像などを安置する)厨子(ずし)に葺(ふ)いていたのかも知れない」とみている。  奈良三彩瓦は平城京跡や東大寺、法華寺などでも出土しているが、今回の瓦は唐招提寺特有の波状の文様が施され、使用されている白い粘土にも混入物がなかった。

織田信長の”幻の上洛作戦”裏付ける書状14通見つかる

織田信長の”幻の上洛作戦”裏付ける書状14通見つかる

熊本県立美術館、熊本大、東京大は10月3日、織田信長が天下統一に向け1568年に上洛する2年前に計画した”幻の上洛作戦”を裏付ける、足利将軍家側近の書状を発見したと発表した。計画の存在は知られていたが、書状により信長が予定していた上洛の経路が具体的に判明。日付から計画が実行直前で頓挫したことも分かるという。

書状は室町幕府13代将軍・足利義輝の暗殺後、京都を逃れた義昭(後の15代将軍)の側近らが署名した計14通で、いずれも1566年(永禄9年)8月28日付。幕府再興を目指す義昭と側近が伊賀(三重県)や山城(京都府)など京都周辺の勢力に宛てたもので、「御入洛の御供として織田尾張守参陣し候」と、義昭の上洛で信長の協力を得たことを示し、自らに味方するよう呼びかける内容。宛先などから信長らは尾張(愛知県)から北伊勢(三重県)、甲賀(滋賀県)、矢島(滋賀県)を経て京都に入る予定だったことが分かる。

「定日(じょうじつ)次第に御使(おつかい)を差し越さるべく候」と、上洛日程が決まり次第、使者を送ることも託したが、書状の日付の翌29日、近江の有力大名、六角氏が義昭側から離反、計画は頓挫した。