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藤原宮の東方官衙地区で発見の建物跡は楼閣・大型倉庫

藤原宮の東方官衙地区で発見の建物跡は楼閣・大型倉庫

奈良文化財研究所は12月11日、奈良県橿原市の藤原宮(694~710年)跡で大極殿の東側にあった官庁街「東方官衙(かんが)地区」で2年前に一部が見つかった礎石を据えた建物の跡について「全容が判明し、柱の配置から楼閣や大型倉庫などだったとみられる」と発表した。礎石建物は寺院など格式の高い施設に用いられた構造。藤原宮では大極殿などの中枢施設や門のほかはなかったという。

発掘の結果、規模が南北約8㍍、東西約11㍍と分かった。その西に南北約7㍍、東西約12㍍以上の大型の掘っ立て柱の建物跡も新たに発見。2棟とも大極殿の真東に位置し、中心軸が大極殿とほぼ一致しており、藤原宮の造営当初から計画的に配置されたとみている。平城宮、平安宮には類例がなく特殊な性格を持つ建物だったとみられる。

9000年前超前の人骨 沖縄の洞穴遺跡から出土

9000年超前の人骨 沖縄の洞穴遺跡から出土

沖縄県立博物館・美術館(那覇市)は12月11日、同県南城市のサキタリ洞遺跡で、9000年前より古い地層から頭や上半身の大部分が残る人骨が見つかったと発表した。人骨を覆うように複数の石が合ったことなどから、博物館は洞穴を墓として埋葬された可能性があるとしている。国内では愛媛県久万高原町の上黒岩岩遺跡など縄文時代早期の9000~8000年前の埋葬人骨が見つかっている。今回の人骨が埋葬と確認されれば国内最古級になる可能性がある。見つかった人骨は後期旧石器時代(3万5000~1万数千年前)の可能性もあるという。成人とみられ、仰向けの姿で頭や両手、胴体といった上半身の大部分が残っており、直径30㌢大の石が4個、頭や胸、腹などの上で見つかった。

竹久夢二直筆の原稿・手紙20点 東京都内で見つかる

竹久夢二直筆の原稿・手紙20点 東京都内で見つかる

画家で詩人の竹久夢二(1884~1934年)の手紙やはがき、直筆原稿が計20点が東京都内で見つかり、竹久夢二美術館(東京)と菅茶山記念館(広島県福山市)が12月6日発表した。編集者として交流のあった童謡詩人、葛原しげるの孫、真さん(66)が東京都小金井市の実家で発見した。直筆作品がこれだけまとまって見つかるのは珍しい。8点は1912、13年に夢二がしげるに宛てた手紙やはがきで、12点は童話など直筆原稿だった。今回見つかった資料は12月7日から2015年2月22日まで菅茶山記念館で展示される。

手紙やはがきは、夢二の作品が世評で評価される以前のもので、夢二の作品に容赦のない、出版社の要求に対する不満や批判など、胸の内を編集者にぶちまけている。例えば、挿絵の描き方について「単純な線で、複雑な内容を表現するのと、空疎な観察を、統一のない粗雑な線でごたごた、所謂こまかく描くのとは別のことです」と主張。夢二自身は、自然を細かく見たうえで、あえて印象的に単純な線で描いたのに、出版社からは写実的な絵を求められて、納得できない夢二が担当編集者に伝えてほしいと、葛原に訴えている。

宮内庁 陵墓の調査現場を公開 淡輪ニサンザイ古墳

宮内庁 陵墓の調査現場を公開 淡輪ニサンザイ古墳

宮内庁は12月5日、陵墓として管理する大阪府岬町の前方後円墳、淡輪(たんのわ)ニサンザイ古墳(5世紀半ば)の発掘現場を、報道陣と日本考古学協会など16学会の研究者に公開した。同古墳の墳丘が発掘されるのは初めてで、埴輪列や葺石などが出土し、実態解明につながるという。同古墳は、同庁が11代垂仁天皇の皇子の墓に指定。だが、海に近い立地や周囲の古墳との関係などから、被葬者は朝鮮半島との関わりが深い大豪族・紀氏とする説が有力とされる。

 

狩野派屏風2点見つかる 狩野孝信・山楽 15年特別展示

狩野派屏風2点見つかる  狩野孝信・山楽  15年特別展示

京都国立博物館(京都市東山区)は12月5日、桃山時代を代表する絵師、狩野永徳の次男、狩野孝信(1517~1618年)と、京狩野の祖、狩野山楽(1559~1635年)がそれぞれ描いた屏風2点が見つかったと発表した。今回、両者の作品と認定されたのは孝信の「北野社頭遊楽図(きたのしゃとうゆうらくず)屏風」と、山楽の「槇に白鷺図(まきにしらさぎず)屏風」。2015年4月7日~5月17日の特別展で展示される。

簡素な恭仁京・朝堂院南門 短期間での造営を裏付け

簡素な恭仁京・朝堂院南門  短期間での造営を裏付け

奈良時代に聖武天皇が造営した恭仁宮(くにきゅう、京都府木津川市)の朝堂院の南門は、掘っ立て柱を使った簡素な門だったことが12月3日、分かった。奈良時代の宮殿は、礎石の上に柱を据える工法が主体。ところが、南門跡は幅約15 ㍍のうち開閉部が約6㍍と当時では大規模だが、礎石の上に柱を据える工法は取られていなかった。聖武天皇が短期間に遷都を繰り返し、その一つが恭仁京だけに、京都府教育委員会では「短期間で建てられたことが裏付けられた」としている。恭仁京は740年、平城京から遷都したが、4年後に廃都となった。モデルとした平城京は何度も建て替えられており、府教委は平城京の初期の姿を研究するうえで貴重な発見だとしている。