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100年ぶりに知恩院・御影堂の棟上げ 19年春完成

100年ぶりに知恩院・御影堂の棟上げ 19年春完成

京都市東山区の浄土宗総本山・知恩院で2月20日、約100年ぶりの大規模修理が進む国宝・御影堂の上棟式があった。伊藤唯眞門跡が導師を務め、装束を着た工事関係者が木槌で棟木を打って無事の完成を祈った。御影堂は知恩院の中心建築で、間口45㍍、奥行き35㍍、高さ28.5㍍。江戸時代初期の火災で焼失後、1639年に三代将軍・徳川家光が再建した。今回は1910年以来の大規模修理で、これまでに約8万5000枚の屋根瓦をすべて下ろし、骨組みのゆがみを補修するなどの作業が進められている。2016年には瓦を葺き始め、19年春に完成する予定。

築200年の清水次郎長の生家倒壊回避へ住民ら改修へ

築200年の清水次郎長の生家倒壊回避へ住民ら改修へ

幕末の侠客、清水次郎長(1820~93年)の生家(静岡市清水区美濃輪町)が老朽化し、近隣住民や住宅関連会社が改修計画を進めている。資金のめどもつき、年内にも工事が始まる見通し。生家は2階建てで、築200年前前後とみられ、昔の土間などが残る。建物一部は、キセルなど80点近くの次郎長の遺品とともに一般公開され、年間約1万2000人が訪れる。

しかし、天井や床の一部が破損。雨漏りも目立ち、2013年、耐震診断で倒壊の可能性が指摘された。ここで立ち上がったのが地元商店街の有志らでつくる「次郎長生家を活かすまちづくりの会」。13年から改修資金の募金を始め、15年2月までに130万円集まった。目標額の500万円には届いていないが、住宅資材メーカー、エヌ・シー・エヌ(東京都港区)が一部負担も含め支援することが決まった。

「博徒の大親分」だった次郎長は後半生、失業した旧幕臣らに静岡県内で茶畑を開墾させ、地元の清水港も整備するなど地域振興に尽力したため敬愛する人も多い。「次郎長生家を活かすまちづくりの会」の牧田充哉会長は「地元の発展に寄与した人物の功績を伝えることで、まちおこしにもつなげたい」と話している。

小林多喜二の獄死前後の様子記した書簡見つかる

小林多喜二の獄死前後の様子記した書簡見つかる

「蟹工船」「不在地主」などの作品で知られるプロレタリア作家、小林多喜二が1933年に築地署(東京都)で獄死する前後の様子を、同時期に収監されていた生物学者、石井友幸(1903~72年)が記した書簡が見つかった。拷問で口を利くことができなくなっていたことや、死亡後に人工呼吸が施されたとみられると書かれている。

書簡は、石井が多喜二と交流のあった小説家、江口渙(かん)に宛てた計3通で、400字詰めの原稿用紙計5枚とはがき1枚。1962~67年に、やり取りがあったとされる。文学館によると、多喜二の死の前後については、遺言をしていたり、監房で死亡していたりと諸説ある。書簡は栃木県にある江口の旧宅を調査していた郷土の歴史研究会が発見した。多喜二は1903年に秋田県で生まれ、4歳で小樽市に移住した。銀行に就職後、「蟹工船」などを発表。特高警察の拷問を受けて死亡した。

神戸で出土の「桜ヶ丘12号」と茨木出土の銅鐸の鋳型一致

神戸で出土の「桜ヶ丘12号」と茨木出土の銅鐸の鋳型一致

神戸市立博物館によると、1964年に神戸市で見つかった「桜ヶ丘12号銅鐸」(弥生時代中期、国宝)と、茨木市の東奈良遺跡で出土した「第1号流水文銅鐸鋳型」(重要文化財)の大きさや形状がほぼ一致することが分かった。12号銅鐸は青銅器づくりの一大拠点とされる東奈良遺跡で制作された可能性があり、銅鐸の流通を解明する手掛かりとして注目される。

12号鐸は高さ31㌢、重さ約2.6㌔。鋳型に彫られた銅鐸の型は高さ約31~32㌢とほぼ同じで、本体の曲線部分なども一致した。しかし本体と鋳型の模様は異なっており、この鋳型から12号鐸がつくられた可能性は低い。この点、鋳型を作る際、大きさや形にある程度の規格があり、模様だけ変えていたのではないか–と同博物館ではみている。

明日香村・西方遺跡で飛鳥時代の建物跡 近江京陣営か

明日香村・西方遺跡で飛鳥時代の建物跡 近江京陣営か

奈良県明日香村教育委員会は2月5日、飛鳥寺西方遺跡(明日香村)で、飛鳥時代の建物跡が見つかったと発表した。簡易な構造から仮設の建物だったとみられ、日本書紀に記述がある「壬申の乱」(672年)の陣営だった可能性もあるという。今回見つかったのは、国内最古の本格的寺院・飛鳥寺の約80㍍西側で建物跡2棟分の柱穴。南北の幅は2棟とも4.8㍍、東西に延びる長辺は16.7㍍と17.5㍍。2棟は約6㍍離れて東西に並んで配置されていた。

飛鳥寺西方遺跡は、大化の改新前に中大兄皇子と中臣鎌足が出会った「槻(つき)の木の広場」と考えられており、この広場は日本書紀に度々登場。古代の最大の内乱、壬申の乱の際、近江京・大友皇子側の陣営が置かれたと記され、天皇が蝦夷や隼人ら当時の辺境の人々を招いた際に供宴を催したという記述もある。ただ、総合的に考えると壬申の乱の陣営の一部と変える方が合理的という。現地説明会は2月8日午前10時~午後3時。少雨決行。

大阪・難波宮跡近くで「五十戸」を記した木簡出土

大阪・難波宮跡近くで「五十戸」を記した木簡出土

大阪博物館協会大阪文化財研究所は2月3日、大阪市の難波宮跡近くで地方の行政単位「五十戸」を記した木簡が出土したと発表した。「日本書紀」には難波宮に遷都した孝徳天皇が646年に出した大化改新の詔の一つに「役所に仕える仕丁は五十戸ごとに1人徴発せよ」とある。木簡は長さ15.5㌢、幅3.4㌢。「玉作五十戸俵」と記されていた。玉作という地名は陸奥(青森など)や土佐などにあり、地方から五十戸単位で税として米を収めた際の荷物とみられている。五十戸と記した史料はこれまで天智天皇の時代の660年代のものが最古で、孝徳天皇の時代に遡る可能性があり、同研究所ではこのころ「五十戸」があった証拠になるかも知れない-としている