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竹久夢二直筆の原稿・手紙20点 東京都内で見つかる

竹久夢二直筆の原稿・手紙20点 東京都内で見つかる

画家で詩人の竹久夢二(1884~1934年)の手紙やはがき、直筆原稿が計20点が東京都内で見つかり、竹久夢二美術館(東京)と菅茶山記念館(広島県福山市)が12月6日発表した。編集者として交流のあった童謡詩人、葛原しげるの孫、真さん(66)が東京都小金井市の実家で発見した。直筆作品がこれだけまとまって見つかるのは珍しい。8点は1912、13年に夢二がしげるに宛てた手紙やはがきで、12点は童話など直筆原稿だった。今回見つかった資料は12月7日から2015年2月22日まで菅茶山記念館で展示される。

手紙やはがきは、夢二の作品が世評で評価される以前のもので、夢二の作品に容赦のない、出版社の要求に対する不満や批判など、胸の内を編集者にぶちまけている。例えば、挿絵の描き方について「単純な線で、複雑な内容を表現するのと、空疎な観察を、統一のない粗雑な線でごたごた、所謂こまかく描くのとは別のことです」と主張。夢二自身は、自然を細かく見たうえで、あえて印象的に単純な線で描いたのに、出版社からは写実的な絵を求められて、納得できない夢二が担当編集者に伝えてほしいと、葛原に訴えている。

宮内庁 陵墓の調査現場を公開 淡輪ニサンザイ古墳

宮内庁 陵墓の調査現場を公開 淡輪ニサンザイ古墳

宮内庁は12月5日、陵墓として管理する大阪府岬町の前方後円墳、淡輪(たんのわ)ニサンザイ古墳(5世紀半ば)の発掘現場を、報道陣と日本考古学協会など16学会の研究者に公開した。同古墳の墳丘が発掘されるのは初めてで、埴輪列や葺石などが出土し、実態解明につながるという。同古墳は、同庁が11代垂仁天皇の皇子の墓に指定。だが、海に近い立地や周囲の古墳との関係などから、被葬者は朝鮮半島との関わりが深い大豪族・紀氏とする説が有力とされる。

 

狩野派屏風2点見つかる 狩野孝信・山楽 15年特別展示

狩野派屏風2点見つかる  狩野孝信・山楽  15年特別展示

京都国立博物館(京都市東山区)は12月5日、桃山時代を代表する絵師、狩野永徳の次男、狩野孝信(1517~1618年)と、京狩野の祖、狩野山楽(1559~1635年)がそれぞれ描いた屏風2点が見つかったと発表した。今回、両者の作品と認定されたのは孝信の「北野社頭遊楽図(きたのしゃとうゆうらくず)屏風」と、山楽の「槇に白鷺図(まきにしらさぎず)屏風」。2015年4月7日~5月17日の特別展で展示される。

簡素な恭仁京・朝堂院南門 短期間での造営を裏付け

簡素な恭仁京・朝堂院南門  短期間での造営を裏付け

奈良時代に聖武天皇が造営した恭仁宮(くにきゅう、京都府木津川市)の朝堂院の南門は、掘っ立て柱を使った簡素な門だったことが12月3日、分かった。奈良時代の宮殿は、礎石の上に柱を据える工法が主体。ところが、南門跡は幅約15 ㍍のうち開閉部が約6㍍と当時では大規模だが、礎石の上に柱を据える工法は取られていなかった。聖武天皇が短期間に遷都を繰り返し、その一つが恭仁京だけに、京都府教育委員会では「短期間で建てられたことが裏付けられた」としている。恭仁京は740年、平城京から遷都したが、4年後に廃都となった。モデルとした平城京は何度も建て替えられており、府教委は平城京の初期の姿を研究するうえで貴重な発見だとしている。

文豪・漱石が読者の学生に宛てた未公開書簡発見

文豪・漱石が読者の学生に宛てた未公開書簡発見

夏目漱石(1867~1916年)が面識のない学生に宛てた未公開書簡が発見され、文豪が晩年を過ごした東京都新宿区に寄託された。学生が自作を読み込んでくれたのを喜ぶ内容で、「あなたが私の作物から一種の感化をそれがあなたの処世上もしくは思想上役に立ってゐるなら甚だ嬉しい」「あなたの手紙を読んで多大の愉快を感じた」、そして「私の出来る事なら何でも云って御寄(およこ)しなさい」と結ばれており、漱石の優しさがにじみ出ている。

書簡の消印は1909(明治42)年12月10日付で、東京高等師範学校(現筑波大)学生、荒木秀一宛て。この時期の漱石は「それから」を書き終えて疲弊し、勤務する朝日新聞で文芸欄を開始するなど多忙を極めていた。

 

解体修理中の薬師寺東塔で「版築層」の基壇見つかる

解体修理中の

解体修理中の薬師寺東塔で「版築層」の基壇見つかる

薬師寺などは12月2日、解体修理中の薬師寺東塔(奈良市、国宝)で、土台部分にあたる基壇が見つかったと発表した。この基壇に、バウムクーヘンのように何層にも土を突き固めたとみられる「版築層」を確認した。基壇は東西12.7㍍、南北12.4㍍、高さは1.1㍍以上。版築層の厚さは各層2.5~6㌢と非常に薄く、発掘した奈良県文化財研究所と奈良県立橿原考古学研究所は「丁寧に細かく突き固めていたので、現在まで保たれていたのではないか」と話している。東塔は薬師寺が平城京へ移された奈良時代から現在まで伝わる唯一の建築とされ、基壇の本格的な発掘は今回が初めて。