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土井晩翠がローマから薄田泣菫に宛てた書簡発見

土井晩翠がローマから薄田泣菫に宛てた書簡発見

岡山県倉敷市は3月27日、「荒城の月」の作詞者として知られる土井晩翠(1871~1952年)が、イタリアのローマから倉敷市出身の詩人、薄田泣菫(1877~1945年)に宛てた書簡が見つかったと発表した。これは1903年ごろ、2枚の絵はがきとスミレの押し花を封筒に入れ、晩翠が留学していたローマから送ったもの。

「未だ御目にかからず候へとも一筆御免被下度」と始まることから、まだ面識がなかったが、尊敬する薄田に手紙を書いたとみられる。スミレの花は薄田が愛読した英国を代表する詩人ジョン・キーツの詩集で詠まれており、薄田のペンネームにも使われた。晩翠はキーツの墓のそばに咲いていたスミレを押し花にして送っていた。薄田の子孫が倉敷市に寄贈した書簡類から見つかった。

与謝野鉄幹・晶子夫妻が薄田泣菫に宛てた書簡見つかる

与謝野鉄幹・晶子夫妻が薄田泣菫に宛てた書簡見つかる

岡山県倉敷市は3月27日、歌人の与謝野鉄幹(1873~1935年)、晶子(1878~1942年)夫妻が、詩人で随筆家の薄田泣菫(1877~1945年)に宛てた書簡46点が見つかったと発表した。鉄幹は雑誌『明星』の運営難を吐露し、晶子は恐縮しながら原稿料の送付を依頼するなどしており、当時の与謝野家の苦しい台所事情がうかがわれる。

同市出身の薄田泣菫は大阪毎日新聞社の学芸部長なども務めた。書簡の日付は夫妻が20歳代から40歳代だった1900年から19年で、泣菫の遺族から同市に寄贈された約1700点の資料の中にあった。晶子は1913年11月27日付で「心ぐるしき極み」としたうえで、「稿料をすこしご送附たまはらば」と催促。17年3月8日付には「金十七円(現在の約8万~13万円)をかはせでおおくり下さいまして ありがたく存じます」と綴っている。調査した加藤美奈子・就実短大准教授は「年齢の近い泣菫には、苦労も打ち明けやすかったのでは」とみている。

 

春日大社で「仮殿遷座祭」ご神体を仮殿に移す

春日大社で「仮殿遷座祭」ご神体を仮殿に移す

春日大社(奈良市)で3月27日夜、国宝・本殿などを20年に一度修復する式年造替(しきねんそうたい)に伴い、工事前にご神体を別の建物に移す儀式「仮殿遷座祭(かりでんせんざさい)」があった。暗闇に提灯を携えた神職の列が参道を進み、白い大幕をくぐって本殿へ向かった。花山院弘匡宮司が小声で「秘文ノ祝詞(ひもんののりと)」を奏上。神職の「オー」という声と雅楽の演奏が響く中、ご神体4柱が本殿の西側にある移殿に運ばれた。ご神体を再び本殿に戻す「本殿遷座祭」は2016年11月に行われる。

真っ白に化粧?姫路城「平成の修理」終わりお披露目

真っ白に化粧?姫路城 「平成の修理」終わりお披露目

「平成の修理」を終えた世界遺産・国宝の姫路城大天守(兵庫県姫路市)が3月24日、修理事業に寄付した人や観光関係者らを対象に公開された。外観は一様に、誰もが真っ白に化粧した姿にちょっと驚き、青空に浮かび上がる雄大な白鷺城とのコントラストに納得。

姫路市は修理工事資金に充てるため、2009年4月から寄付を募り、15年2月までに現物寄付や街頭募金も含め約5億2000万円が集まった。3万円以上寄付した人には屋根瓦に名前を記す特典も付けた。

魯迅の弟に島崎藤村、谷崎潤一郎らが1400通の書簡

 

魯迅の弟に島崎藤村、谷崎潤一郎らが1400通の書簡

中国の作家・魯迅の弟で、随筆家として知られた周作人(1885~1967年)宛てに武者小路実篤、梅原龍三郎、島崎藤村、谷崎潤一郎、草野心平ら日本の数多くの日本の文化人が送った書簡1400通が、北京にある周作人の遺族宅で見つかった。孫の周吉宜さん(65)が24日、公表した。1910年代から66年までの手紙やはがきで、戦前から戦後にまたがる日中の文化交流を物語る貴重な史料。遺族の依頼で整理に当たった顧偉良・弘前学院大教授(日本近代文学)は、「これほどの規模で残っていたのは奇跡。詳しく調査すれば近代の日中間における民間レベルの関係が具体的に見えてくる」と話している。書簡の差出人400人近くに上っている。

周は魯迅とともに明治末、日本に留学。帰国後は北京大教授を務めた。白樺派の作家、武者小路実篤の「新しき村」運動に共鳴し、北京に支部をつくるなど日本の文学者をはじめ芸術家、学者らと幅広く交流した。

京都・誠心院で厳かに 情熱の歌人「和泉式部忌」

京都・誠心院で厳かに 情熱の歌人「和泉式部忌」

平安時代の歌人、和泉式部をしのぶ「和泉式部忌」が3月21日、京都市中京区の誠心院で営まれた。式部ゆかりの謡曲の奉納があり、檀家や参拝者が聞き入った。寺伝によると、誠心院は和泉式部が初代住職を務めたとされ、境内に供養塔も建てられている。そのため「和泉式部寺」とも呼ばれ、毎年この日を命日として法要が続けられている。本堂では式部ゆかりの謡曲「誓願寺」「東北」が謡い上げられ、境内は厳かな雰囲気に包まれていた。

冷泉天皇の皇子、為尊(ためたか)親王と敦道(あつみち)親王、2人の皇子との恋に身を焦がし、和泉式部は恋多き女として数々の逸話を残している。ただ、彼女の恋はいつも一途(いちず)で捨て身だ。何もかも犠牲にしてでも、この恋にすがりつきたいという、せつないまでの激しい情熱のほとばしりが感じられる。