高野山開創1200年記念大法会 総本山金剛峯寺などで始まる
高野山(和歌山県高野町)開創1200年を記念した大法会(だいほうえ)が4月2日午前、高野山真言宗の総本山金剛峯寺(こんごうぶじ)などで始まった。平安時代初期の僧、弘法大師空海が真言密教の道場として開いた標高約850㍍の高地で、5月21日までの50日間、様々な儀式や行事が予定されている。
難波京「朱雀大路」跡 難波宮跡の南部で側溝を確認
大阪文化財研究所の調査によると、上町台地に築かれた都・難波京(なにわきょう)のメインストリート「朱雀大路」の側溝とみられる溝が、大阪市中央区の難波宮跡(国史跡)の南で見つかった。難波京の朱雀大路が確認されたのは初めて。道幅は、藤原京を超える約33㍍と推定されている。現場は、1993年に現・大阪市立聴覚特別支援学校のグランドで見つかった、前期難波宮の朱雀門(宮城南門)跡から南に約140㍍。
難波京は孝徳天皇が大化の改新直後の645年から建設し、天武天皇の時代にかけて整備された「前期」と、聖武天皇が726年から造営を始め、平城京の副都として整備した「後期」に分かれる。溝の時期は絞り込めていないが、難波京の基準となる朱雀大路も、前期には建設されていたとみられる。
土井晩翠がローマから薄田泣菫に宛てた書簡発見
岡山県倉敷市は3月27日、「荒城の月」の作詞者として知られる土井晩翠(1871~1952年)が、イタリアのローマから倉敷市出身の詩人、薄田泣菫(1877~1945年)に宛てた書簡が見つかったと発表した。これは1903年ごろ、2枚の絵はがきとスミレの押し花を封筒に入れ、晩翠が留学していたローマから送ったもの。
「未だ御目にかからず候へとも一筆御免被下度」と始まることから、まだ面識がなかったが、尊敬する薄田に手紙を書いたとみられる。スミレの花は薄田が愛読した英国を代表する詩人ジョン・キーツの詩集で詠まれており、薄田のペンネームにも使われた。晩翠はキーツの墓のそばに咲いていたスミレを押し花にして送っていた。薄田の子孫が倉敷市に寄贈した書簡類から見つかった。
与謝野鉄幹・晶子夫妻が薄田泣菫に宛てた書簡見つかる
岡山県倉敷市は3月27日、歌人の与謝野鉄幹(1873~1935年)、晶子(1878~1942年)夫妻が、詩人で随筆家の薄田泣菫(1877~1945年)に宛てた書簡46点が見つかったと発表した。鉄幹は雑誌『明星』の運営難を吐露し、晶子は恐縮しながら原稿料の送付を依頼するなどしており、当時の与謝野家の苦しい台所事情がうかがわれる。
同市出身の薄田泣菫は大阪毎日新聞社の学芸部長なども務めた。書簡の日付は夫妻が20歳代から40歳代だった1900年から19年で、泣菫の遺族から同市に寄贈された約1700点の資料の中にあった。晶子は1913年11月27日付で「心ぐるしき極み」としたうえで、「稿料をすこしご送附たまはらば」と催促。17年3月8日付には「金十七円(現在の約8万~13万円)をかはせでおおくり下さいまして ありがたく存じます」と綴っている。調査した加藤美奈子・就実短大准教授は「年齢の近い泣菫には、苦労も打ち明けやすかったのでは」とみている。