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持統女帝 夫・天武天皇が目指した神格的天皇制を確立した女帝

 第四十一代の天皇。歴代の女帝の中には、“中継ぎ”的な人物も確かに存在する。しかし、持統女帝は夫・天武(第四十代天皇)の目指した神格的天皇制を確立するとともに、新しい時代の律令体制の整備を積極的に推進した本格的な天皇だった。

 天智天皇を父とし、蘇我倉山田石川麻呂の娘、遠智娘を母として大化元年(645)に生誕。_野讃良(うののさらら)皇女という。13歳のとき叔父・大海人皇子(後の天武天皇)の妃となった。夫の大海人皇子のもとには姉・大田皇女や、異母妹の新田部皇女、大江皇女など4姉妹が嫁いでいた。ほかにも大海人のもとには十市皇女を産んだ額田王もいた。政略結婚が多い古代とはいえ異例のことだろう。

 彼女が実力を発揮するのは父の遺児、大友皇子と夫・大海人皇子が皇位を争った壬申の乱(672)に夫が勝利し、朱鳥元年(686)その夫・天武天皇も亡くなった後のこと。とはいえ、ここに至るまでにも彼女は並みの女性ではない、したたかさをみせている。天智10年(671)10月19日、病床の天智天皇の「後を頼む」という謀(はかりごと)に乗せられることなく、間一髪切り抜け、出家。剃髪し一介の僧となった大海人が近江大津京を発って吉野に向かった。このとき彼女にとっては、父を取るか夫を取るかという物凄いジレンマがあったはずだ。が、妃の筆頭として大海人について行く。

また母親として割り切った強さもみせる。実子・草壁皇子を皇位につけるため、亡き姉・大田皇女の子で、非凡で卓越した才能の持ち主だったライバル大津皇子を謀叛のかどで逮捕し、自害させる。ところが、持統3年(689)肝心の草壁皇子は28歳の若さで病死してしまう。並みの女性なら弱気になってしょげてしまうところだろう。が、ここでも彼女はこの苦境をバネに、一躍スポットを浴びる地位に躍り出る。持統4年1月、やむなく自分が即位し、持統天皇となったのだ。全く見事としか言いようがない。

持統天皇の容姿を記したものはなく、全く分からないが、当時の女性はひっそり部屋の奥深くで着物の中に埋もれていた平安朝の女性と違って、もっとたくましかった。「日本書紀」によれば、静かで落ち着いて、それでいて度胸のいい女性だったとある。節目節目での身の処し方をみると、確かにその通りだ。

持統8年(694)12月、4年の歳月をかけた新京が完成、遷都が行われた。これが藤原京だ。奈良平城宮に先駆ける、わが国最初の本格的な都城だった。また、持統天皇の事績として重要なものに律令体制の整備が挙げられよう。この律令体制を実質的に整備・推進したのが、この時期に宮廷の実力者として登場してきた藤原不比等だ。持統11年(697)、53歳の女帝はただ一人の孫、15歳の皇太子、軽皇子に皇位を譲って、自らは太上天皇となった。こうして藤原氏が律令体制の最大の実力者として着実に不動の地位を固めていくそのはじめと、女帝が太上天皇になって権力を振るおうとする時期がちょうど重なるのだ。天皇制の歴史から、日本の政治史の流れの両面からみて、この時期の持統女帝の存在には見落とせない重要な問題が含まれているといえよう。

 在位11年、その間は白鳳美術の盛期、柿本人麻呂などが活躍した時期で、持統自身「春過ぎて夏来たるらし白妙の 衣干したり天の香具山」など、いくつかの名歌を「万葉集」に残している。大宝2年(702)12月22日、58歳の生涯を閉じた。遺体は火葬にふされたが、これはわが国最初の天皇の火葬となった。
 
(参考資料)黒岩重吾「天の川の太陽」、同「天かける白日 小説大津皇子」、同「天風の彩王 藤原不比等」永井路子「美貌の大帝」、「日本史探訪3 律令体制と歌びとたち」(田辺聖子/上田正昭)、梅原猛「海人と天皇」

                   

清少納言・・・高い教養を身につけた、平安女流文学の至宝「枕草子」の作者

 日本最古の随筆として知られる「枕草子」の筆者。生没年は965年頃~1025年頃。村上天皇の勅撰和歌集『後撰和歌集』の撰者の一人、歌人・清原基輔の娘。清原氏は代々文化人として政治、学問に貢献した家柄。「枕草子」に「史記」「論語」などの引用がみえることでも分かるように、清少納言は娘時代から漢学を学ぶなど、当時の女性として水準をはるかに超える教養を身につけていたようだ。

 10代後半に橘則光と結婚、天元5年(982)に長男・則長という子が生まれているが、まもなくその結婚を解消した。ただ当時は妻問婚で、夫が通って来なくなれば婚姻は解消されることになる。彼女の場合も恐らくそのようなものだったのではないか。正式離婚というわけではないが、彼女が漢学の素養など教養面で則光より優れていたことからくる性格上の破綻が原因だったとみられる。しかし、決して憎み合って別れたのではないことは「枕草子」に則光と親しく話を交わす場面がいくつも出てくることでも分かる。

 正暦4年(993)、一条天皇の中宮(後の皇后)定子のもとに出仕し、「清少納言」と呼ばれた。少納言といっても正式な官でないことはいうまでもない。定子の明るく、機知を尊ぶ気分は、鋭い芸術感覚と社交感覚を持った清少納言にとって、その天才ぶりを発揮するにふさわしい舞台だった。

 出仕して2年後、定子の父、関白藤原道隆は死に、代わって道隆の弟、道長が最高権力者となり、道隆の子・内大臣伊周(これちか)および中納言隆家は道長と対立し、罪を着せられ流罪になる。やがて伊周、隆家は許されて都に戻るが、道隆一家にはもう昔日の勢いはない。不幸にも藤原道長の全盛時代だったのだ。したがって、宮廷内の様々なことが道長に連なる人脈、あるいは親・道長派の勢力が大手を振ってまかり通る時代で、それ以外の人たちは一歩下がって見守るほかなかったのだ。

 宮仕えは数年続いたが、仕えた定子の実家の没落と、後に乗り込んできた中宮彰子との確執などがあって、長保2年(1000)の定子の25歳の死で終止符を打つ。その後、藤原棟世(むねよ)と再婚し、小馬命婦(みょうぶ)と呼ばれる女の子をもうけている。しかし、この二人目の夫は、その少し後に死んでしまったようだ。結局、彼女は最初の夫とは離婚、再婚した相手とは死別と、結婚という点では恵まれなかった。
 清少納言は宮仕えで、藤原氏の内部抗争の犠牲となった中宮定子の苦悶、そしてわずか25歳という若さでの死まで、その一部始終を目の前に見ながら、「枕草子」でそのことには一切触れず、定子を賛美し続けた、そういう彼女の意地とゆかしさも好もしい。

 紫式部より4~7歳ほど年上の清少納言は、紫式部を意識したふしはみられない。この点、中宮彰子に仕えた紫式部が何かにつけて清少納言を意識し、とくに『紫式部日記』の中で辛辣な清少納言批判の文章がみられるのと対照的だ。清少納言の晩年はかなり零落していたとの説があるが、明らかではない。

(参考資料)小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、永井路子対談集「清少納言」(永井路子vs村井康彦)、梅原猛「百人一語」

津田梅子・・・維新直後、米国留学した、新しい時代の女子の全人教育の創始者

 明治4年(1871)11月12日、岩倉使節団がアメリカに向けて出発したが、このとき59人の留学生一緒に横浜港を出帆している。この59人の留学生の中に、北海道開拓を目指して設立された開拓使が募集した5人の女子留学生も含まれていた。しかし、明治4年といえば、まだ一般庶民にアメリカのことは知られておらず、開拓使の募集に対しても、締切日までには一人の応募者もなかったという。そこで、再度募集し、ようやく次の5人が集まったというわけだ。

 東京府士族吉益正雄娘 亮子(15歳)
 静岡県士族永井久太郎娘 繁子(9歳)
 東京府士族津田仙弥娘 梅子(8歳)
 青森県士族山川与十郎妹 捨松(12歳)
 新潟県士族上田峻娘 悌子(15歳)

 ここで注目されるのは、彼女たちの父親および兄がいずれも士族で、幕臣ないし戊辰戦争のとき薩長を中心とした官軍に敵対した藩の藩士だったという点だ。外務省筋から強い勧めがあったのか。
 さて、海を渡った5人の少女は、それぞれアメリカの家庭にホームステイの形で預けられ学校に通ったが、年長の二人、吉益亮子と上田悌子は早々に健康を害し、途中で帰国してしまった。10年という予定の留学期間を全うしたのは残りの三人だった。ただ、彼女たちが帰国したときには開拓使そのものが廃止されて、北海道での女子教育を担うという、所期の目的そのものがなくなってしまっていた。結局、山川捨松は後、陸軍元帥となる大山巌と結婚し、永井繁子も海軍大将瓜生外吉と結婚した。純粋に教育畑を歩き続けたのは津田梅子ただ一人だった。

 梅子のホームステイ先はアメリカ東部ジョージタウンのチャールズ・ランメン宅だった。彼女は足掛け12年間にわたって寄留し、ランメン夫妻は彼女を実の娘のようにかわいがったという。彼女はアーチャー・インスティチュートに在学し、10年目に帰国期限がきたとき、卒業まであと一年あったので、留学延長を申し出、結局帰国したのは明治15年(1882)のことだった。19歳になっていた。
梅子は8歳のときに渡米し、アメリカでは一切日本語をしゃべらない生活をしていたので、日本語を全く忘れてしまって、帰国後、しばらくの間は梅子の妹が通訳を務めていたというほどアメリカ人になりきってしまっていた-というエピソードがある。

 津田梅子は帰国してしばらくの間は英語教師をしていたが、明治22年(1899)、華族女学校教授在官のまま再びアメリカに渡り、ブリンマーカレッジに選科生として入り、生物学を専攻。その留学中、指導にあたったモーガン教授と共同研究を行った成果をまとめ、日本女性として初めての科学論文「蛙の卵の発生研究」を発表している。つまり、津田梅子は自然科学者として認められていたのだ。明治25年に帰国、華族女学校教授に復帰し、請われて同31年には女子高等師範学校の教授を兼ねている。ところが、同33年(1900)7月、37歳の梅子は両校の教授を突然辞めている。自分が考える新しい時代の、新しい女学校を創るためだった。

 その新しい学校は女子英学塾だ。学校といっても、塾生が10名という小さな塾だった。開校式が行われたのはその年の9月14日で、東京の麹町区一番町(東京都千代田区一番町)の借家でスタートした。アメリカ留学仲間の大山捨松が援助し、梅子が留学中キリスト教の洗礼を受けて聖公会に所属していたので、その関係者やアメリカ人の友人たちが無報酬で授業を手伝ってくれた。塾生たちはめきめきと力をつけ、その評判によってさらに塾生が集まり、同37年(1904)には専門学校に昇格した。

 ここでの教育のポイントの一つは英語教師の免状取得だが、もう一つはキリスト教精神による教育だった。語学力をつけるだけでなく、明治女学校の巌本善治や新渡戸稲造を招いて講演してもらったり、時事問答の時間を設けて、全人的な教育が試みられていたのだ。こうした個性を生かした教育を実践するためには、私立でなければ難しいと判断したのだ。

 女子英学塾創立後も彼女は何度か長い外国旅行をしている。アメリカの最新の情報を得るためだった。こうした無理がたたったのか、大正6年(1917)、病に倒れ、その後は遂に教壇に立つことはできなかった。そして、昭和4年(1929)8月、亡くなった。
 その後、昭和8年(1933)津田英学塾、同18年(1943)津田塾専門学校と改称。戦後、1948年、津田塾大学となり、今日に至っている。 
              
(参考資料)小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

樋口一葉・・・近代以降で最初の職業女流作家

 今日ではごく当たり前の女流作家。しかし、明治初頭、どれだけ頭がよくて学校の成績が良くても、女性に学業は不要だと考える人が多く、女性にとって作家という職業は未開のものだった。そんな社会・環境の中で、樋口一葉は近代以降では最初の職業女流作家となった。

一葉は、現在の東京都千代田区の長屋で男2人・女3人の5人兄妹の第五子、次女として誕生。父・樋口則義は、南町奉行配下の八丁堀同心だった。そんな士族の娘である誇りが彼女を支え、恐らく彼女を凛とした女性にしたのだ。

ただ父・則義は、本来は甲州(現在の山梨県)農民で、株を買って入り込んだのだ。父は妻あやめ(後、たき)とともに出奔同然に村を捨てて江戸に出た。下僕をしたり、旗本に中小姓として仕えたり、妻あやめは旗本屋敷の乳人奉公をしたりして蓄財をした。やがて、彼らは八丁堀同心浅井竹蔵の三十俵二人扶持の株を買って、樋口為之助と名乗った。あやめは「たき」と名を変えた。

しかし、そんなに簡単に株を買えるのか。司馬遼太郎氏は「株を買うのに二、三百両は要ったろうし、そんな金が武家奉公の蓄財でできるはずもない。借金したとすれば、樋口家の宿業(しゅくごう)ともいうべき貧乏は、これが原因だったに相違ない」と記している。

父は明治20年、一葉が16歳のとき警視庁を退職し、その翌年、事業を興そうとして失敗した。これが樋口家の借金をさらに増やすことになった。遂に明治22年、破産し、その年に父は病没した。
その結果、一葉は17歳の若さで戸主として一家を担う立場となり、生活に苦しみながら、わずか24年8カ月の生涯の中で、とくに亡くなるまでの1年2カ月の期間に作家として完全燃焼。森_外、幸田露伴はじめ明治の文壇から絶賛された「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」など日本の近代文学史上に残る秀作を残し、肺結核で死去した。生没年は1872~1896年。一葉は雅号で、戸籍名は奈津。なつ、夏子とも呼ばれる。

少女時代までは中流家庭に育ち、幼少時代から読書を好み草双紙の類を読み、7歳のときに曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』を読破したと伝えられる。1881年、上野元黒門町の私立青海学校高等科第四級を首席で卒業するも、上級に進まず退学した。これは彼女の母・多喜が女性に学業は不要だと考えていたからだという。

ただ、父・則義は娘の文才を見抜き、知人の和田重雄のもとで和歌を習わせた。これを機に一葉は中島歌子の歌塾「萩の舎」に入門し歌、古典を学び、後に東京朝日新聞・小説記者の半井桃水(なからいとうすい)に師事し小説を学んだ。一葉の家庭は転居が多く、生涯に12回の引越しをした。

一葉の処女小説は桃水主宰の雑誌「武蔵野」の創刊号に発表した『闇桜』。桃水は困窮した生活を送る一葉の面倒を見続け、一葉も次第に桃水に恋慕の感情を持つようになるが、二人の仲の醜聞が広まったため、桃水と別れる。二人とも独身だったが、当時は結婚を前提としない男女の付き合いは許されない風潮が強かったためだ。この後、一葉はこれまでと全く異なる幸田露伴風の理想主義的な小説『うもれ木』を刊行し、彼女の出世作となった。

ヨーロッパ文学に精通した島崎藤村や平田禿木などと知り合い、自然主義文学に触れ合った一葉は、「文学界」で『雪の日』など複数作品を発表。1894年『大つごもり』を「文学界」に、翌年1月から『たけくらべ』を7回にわたって発表し、その合間に「太陽」に『ゆく春』、「文芸倶楽部」に『にごりえ』『十三夜』などを相次いで発表した。1896年、「文芸倶楽部」に『たけくらべ』が一括掲載されると、_外や露伴から絶賛を受け、一躍注目を浴びる存在となった。

一葉の肖像は2004年11月1日から新渡戸稲造に代わり日本銀行券の5000円券に新デザインとして採用された。女性としては神功皇后以来の採用だ。写真をもとにした女性の肖像が日本の紙幣に採用されたのは一葉が最初である。

(参考資料)司馬遼太郎「街道をゆく37」、「樋口一葉」(ちくま日本文学全集)

平塚らいてう・・・日本の女性解放運動・婦人運動の指導者

 「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である」
これは明治44年(1911)9月に結成された「青鞜社」の機関誌『青鞜』の創刊号に、平塚らいてう自身が書いた冒頭の有名な文章だ。

今日では青鞜社の結成は「女性たちの近代的自我の目覚め」と高く評価されるが、当時、世間は青鞜社に対し好意的な目で見ていたわけではない。近代になったといっても、家族制度は江戸時代までと全く同じ封建的なものだった。これまでと少し変わったことをすると、「女だてらに」「女だから」と世間の冷たい視線にさらされ、攻撃され批判を浴びる。そんな女性蔑視の、既成の家庭道徳なるものを、らいてうらは少しずつ打破しようとしていたのだ。

『青鞜』創刊号の表紙は、らいてうと日本女子大学在学中、テニスのダブルスを組んだ長沼智恵子(後に高村光太郎と結婚)が描いているほか、与謝野晶子(第七回で紹介)も歌を寄せている。この後、5年余り続く『青鞜』の主な執筆者をみると、田村俊子、福田英子(第五回で紹介)、岡本かの子、吉屋信子、野上弥生子、伊藤野枝、山川菊栄、山田わかなどかなり豪華なメンバーだった。

らいてうは大正3年(1914)、画学生で彼女より5歳年下の奥村博と同棲を始める。正式な結婚ではなく、戸籍を入れない同棲だった。ここにも、らいてうの、既成の家庭道徳への挑戦があった。しかし、奥村博の発病、そして長男の誕生と家庭の重みから、編集を若い伊藤野枝に任せ、らいてうは第一線から身を退かざるを得なくなった。奥村との間にらいてうは2児(長男、長女)をもうけたが、従来の結婚制度や「家」制度をよしとせず、平塚家から分家して戸主となり、2人の子供を私生児として自らの戸籍に入れている。

だが、らいてうが抜けてしまっては、やはり青鞜社は成り立たなかった。『青鞜』の1913年2月号に福田英子が寄せた「婦人問題の解決」という文章の中で「共産制が行われた暁には、恋愛も結婚も自然に自由になりませう」と書き、「安寧秩序を害すもの」として発禁処分を受けたのだ。『青鞜』は大正5年、52号まで出したが、財政難で廃刊となり、青鞜社そのものも解体した。

しかし、らいてうはそのまま婦人運動から遠のいてしまったわけではなかった。大正8年(1919)、市川房枝、奥むめおらの協力のもと、自宅を事務所として「新婦人協会」を発足させた。青鞜社がどちらかといえば上流婦人のサロン的文芸サークルの雰囲気があったのに対し、この協会は「婦人参政権」の獲得を目指すという社会運動としてスタートしたところに大きな特徴があった。
らいてうは昭和に入っても活動を続け、婦人消費組合運動を推進し、敗戦後は平和運動にも一定の役割を果たした。

平塚らいてうは東京府麹町区三番町で3人姉妹の3女として誕生。本名の平塚明(ひらつかはる)や平塚明子で評論の俎上に上がることもある。生没年は1886~1971。父の定二郎は会計検査院の院長も務めたエリート官僚であり、彼女自身もお茶の水高等女学校、日本女子大学家政科を卒業。

ふつうならば、そのままいいところにお嫁に行くというのがお定まりのコースだったが、彼女が通っていた英語学校で、教師の森田米松と出会い、その後の人生が大きく変わった。二人は恋に堕ち、すでに妻子があった米松と悩みに悩んだ末、心中未遂事件を起こすことになった。当時の古い家庭道徳からすれば、妻子ある男に恋をし、心中に引きずり込んだのはけしからん、ということになる。既述の通り、彼女が後に青鞜社を組織し、女の自立を呼びかけるようになる原点は、ここにあったと思われる。

(参考資料)小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

福田英子・・・明治から大正時代の婦人解放運動の先駆者

 福田英子は慶応元年(1865)10月5日、岡山藩の右筆、景山確の二女として誕生。本名英。廃藩置県後、失業した父は塾を開いたが、それを手伝っていたのが母の楳子(うめこ)だった。実際には楳子の方が中心になっていたともいわれている。英子は、小さいうちからその楳子に学問の手ほどきを受けた。後年、彼女自身が書いた自伝『妾(わらわ)の半生涯』によると、11~12歳のとき、県令・学務委員らの臨席する試験場において、『十八史略』や『日本外史』を講じたという。母の英才教育の影響があったのだろう。

 小学校を卒業すると同時に、英子は15歳で助教となった。その後、いくつも持ちかけられた縁談をすべて蹴って、当時としては異例の、女教師として経済的に自立する生き方をしている。
彼女の人生が大きく変わる契機となったのは、女性自由民権活動家、岸田俊子との出会いだ。18歳のときのことだ。岡山で演説会があり、そのとき岸田俊子の「岡山県女子に告ぐ」という演説を聴き、自ら自由民権運動に飛び込んでいる。この演説会の後、岡山女子親睦会という団体が結成されると、それに参加し、また女教師だった経験を生かし、蒸紅学舎を開いて働く女性に教育しようとした。そしてその頃、友人の兄で自由党員だった小林樟雄と知り合い、婚約しているのだ。

彼女の人生の転機となったもう一つのできごとは、明治18年の「大阪事件」だろう。大阪事件は朝鮮で起こった「甲申事変」に連動している。朝鮮の独立党が清国寄りの事大党を倒して新しい政府を樹立したところ、清国の手によってあっさり覆されてしまったのだ。これをみた日本の自由党の闘士たちは、独立党を助けようと様々な行動を起こし始めた。その中で最も急進的な動きをしたのが、大井憲太郎らのグループだった。英子もそのグループに加わっていた。

彼女の任務は、朝鮮へ爆弾を運ぶことだった。ところが失敗し、長崎で逮捕されてしまい、それから4年間、投獄されている。実は彼女の人生の転機となったのは大阪事件そのものより、その後の4年間の獄中生活だった。彼女はそこで40代半ばの大井憲太郎に恋心を抱いてしまったのだ。前記のように彼女は小林樟雄と婚約していたのだが…。明治22年(1889)2月、憲法発布の大赦によって、大阪事件の関係者は出獄できることになったが、英子はそのとき婚約者のもとではなく、大井憲太郎のもとに走った。

英子が、大井憲太郎に妻がいることを知っていたかどうかは分からない。妻がいたとしても、自分の愛情のほうが勝つと信じていたのか。彼女は妊娠し、やがて大井憲太郎の子、龍麿を産む。そして、その頃から彼女は大井に対し入籍を迫っている。ところが、そんな英子にとって実に残酷な事件が待ち受けていた。

彼女のもとに一通の手紙が届けられた。宛名は「影山英子」宛てとなっていたが、中身は何と親友の清水紫琴(しきん)宛てだった。大井憲太郎が英子と紫琴の二人に同時に手紙を出したとき、封筒と中身を取り違えたものとされている。紫琴宛の手紙は病院に入院し、大井憲太郎の子を産んだばかりの紫琴に対する見舞いの言葉が述べられたものだった。妻がおり、英子という愛人がありながら、さらに清水紫琴とも関係を持って、子供を産ませている大井憲太郎という男を、このときばかりは英子も許せなかったのだろう。怒り狂った英子は、龍麿を引き取り、大井と手を切ったのだった。

未婚の母、影山英子は福田友作という男と知り合い、結婚する。福田英子になったのだ。まずまず幸せな結婚で次々に3人の子供が生まれた。ところがこの夫には生活力がなく、やがて胸を患い死んでしまう。結局36歳で未亡人となった福田英子はその後、12歳も年下の書生、石川三四郎と同棲し始める。しかし、その石川も「外国へ行く」といって、彼女のもとを去っていってしまった。

こうして彼女は、大井憲太郎の子と、福田友作の3人の子を、女手一つで育てなければならなくなったのだ。こんな状況になれば、普通ならその重圧に打ちひしがれるところだ。事実、彼女も一時は運動から遠ざかる。しかし、やはり自由民権運動の洗礼を受けた“女闘士”だけに立ち直りは早い。堺利彦・美知子夫妻との出会いによって、彼女は新しい思想的潮流としての社会主義に接近していったのだ。

1907年(明治40年)、福田英子が中心となって『世界夫人』という新聞を創刊。これまでの法律、習慣、道徳は、婦人の人格を無視したものであると厳しく批判し、「広く世界の宗教・教育・社会・政治・文学の諸問題を報道し、研究する」とその創刊の目的を宣言している。このほか、彼女は足尾鉱毒事件の田中正造を助け、谷中村の救援活動に全力を投入した。福田英子はまさに、筋金入りの、強靭な精神力を持った闘士だった。

(参考資料)小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

紫式部・・・王朝文学の大作「源氏物語」を書き上げた才女

 紫式部は、この時代としては世界的にも稀有な王朝文学の大作「源氏物語」を書き上げた才女だ。「源氏物語」は現在、世界で20カ国を超える言語に翻訳され読まれている。その高い世界観や人間観察は、後世の文学にも大きな影響を与えたと思われる。

 本居宣長は『源氏物語』を古今東西に並びなき「もののあわれ」の文学として激賞したし、折口信夫はこれを怨霊およびそれへの鎮魂の小説と解した

 紫式部は越前守藤原為時の娘で、生没年は推定974~1014。22~23歳で山城守藤原宣孝と結婚。夫の宣孝は40代で妻妾の多い人だったが、紫式部が父とともに越前に下るとき、後を追いかけそうな情を示したこと、家格、学識の高い立派な男性だったこともあって、20歳以上も年上の宣孝の愛を受け入れたといわれる。結婚して翌年、賢子が生まれ幸せなときを過ごし、どこにでもいるような平凡でかわいい若奥さんだった。

だが、その結婚生活は3年と続かなかった。夫の宣孝が死んで、運命が狂わされてしまう。それ以後、性格がガラッと変わって、物思いにふけり、他人を突き放すような女になってしまうのだ。若奥さんのときは、継子(ままこ)をわが子同様、よく面倒をみたりする優しい面もあったのに、この落差がすごい。

 夫の死後、一条帝の中宮彰子に召されて出仕した。この折の宮中内での見聞、体験を物語の中に散りばめたのが「源氏物語」の作品になったと思われるが、その高い世界観、鋭い人間観察、文明批評はその当時としては驚異的だ。

「源氏物語」は表からみれば光源氏の好色な生活を描いたものだが、裏からみれば源氏が愛した女たちへの六条御息所の怨霊の復讐と、それに対する源氏の側からの鎮魂を、物語を貫く黒い糸としていることは間違いない。

 源氏物語の哀切で美しい世界と正反対なのが「紫式部日記」。清少納言など同時代の女房たちへの底意地の悪い批評、自慢話、思わせぶりなど、ドロドロとした女性の心の内面がうかがえて興味深い。この時代の女性の心情や生活をきちんと理解するには、「源氏物語」と「紫式部日記」の両方を読み解くことが必要だ。

紫式部は教養深くて、おしとやかで、10年足らずで「源氏物語」のような傑作を書いた女性だけに、とても近寄り難いと思われる。だが半面、「紫式部日記」でホンネを吐露した格好で、かえって親近感を持たせている面があるかもしれない。

 「源氏物語」の世界観は、一口で言えば無常観だ。紫式部が無常観に取りつかれたのは、何といっても疫病の蔓延など当時の不安におののく社会情勢がその背景にある。それと最愛の夫をあっという間に失ったからではないかと考えられる。そういう周囲の変化が彼女の性格を変えさせたのだ。無常観は、当時のインテリの最先端の思想で、紫式部はそれを見事に文学に結晶させたのではないか。

(参考資料)永井路子対談集「紫式部」(永井路子vs清水好子)、清水好子「紫式部」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、梅原猛「百人一語」

                             

阿野廉子・・・わが子を後醍醐天皇の後継ぎにするために画策?

 阿野廉子は最も後醍醐天皇の寵愛を受け、3人の皇子を産んでいる。そして、この中で誰かが後醍醐天皇の後継ぎになるようにと、建武の親政にも様々に口出しし、画策したと伝えられている。実際はどうだったのか。

 ところで、後醍醐天皇の女性関係は実に華やかだった。天皇家の系図の中では比較的信憑性の高い「本朝皇胤紹運録」によると、後醍醐の子を産んだ女性だけで20人、生まれた子が皇子17人、皇女15人になる。子を産まなかった女性はカウントされていないので、実際に性的関係を持った女性は何人に及んだのかは分からない。

 「太平記」の表現から推察すると、やはり20人の女性の中でも後醍醐のご指名ナンバーワンは阿野廉子だった。廉子は阿野公廉の娘だった。生年は正安3年(1301)説、乾元元年(1302)説、応長元年(1311)説など諸説あるが、後に後醍醐の子供たちを産んだ年齢から考えると、応長元年説は成り立たず、正安3年か乾元元年かのどちらかかと思われる。

 彼女の運命が大きく変わることになったのは、文保2年(1318)8月の、中宮禧子の入内だ。このとき、廉子が禧子について上臈として宮中に入ることになった。正安3年誕生説をとれば18歳、乾元元年説をとれば17歳のことだ。「太平記」の表現がそのままだとすれば、彼女はすぐに後醍醐の目にとまり、寵愛を受けることになったのだろう。その結果、ほどなく後醍醐との初めての子、恒良親王を産み、嘉暦元年(1326)に成良親王、同3年(1328)には義良親王を産んでいる。したがって、このころの後醍醐の寵愛を一人占めしていた観がある。

 ただ、廉子は美貌と肉体だけが売り物の女性ではなく、才女で後醍醐のよき話し相手だったのではないかと思われる。だからこそ、後醍醐が隠岐へ流されるときも、彼女を手放すことができず、配流先の隠岐まで連れて行ったのではなかろうか。

 後醍醐の皇子のうち比較的はっきりする8人を出生順に列挙すると、・尊良・世良・護良・宗良・恒良・成良・義良・懐良-の各親王だ。廉子の産んだ長子の恒良より前に、少なくとも4人の男子がいたことが分かる。恒良より上の4人の中に、仮に中宮禧子の産んだ子がいれば、その皇子が皇太子となる可能性が大きかったが、廉子にしてみれば幸いなことに、中宮禧子の子はいなかった。ただ、護良親王が元弘・建武の争乱にあたっては後醍醐の手足となって、実際の軍事行動のかなりの部分を担っており、現実に一時的にではあるが、征夷大将軍にも補任されているのだ。ある意味では後醍醐の後継者の最短距離にあったといってもいい。

 ところが、建武元年(1334)正月23日、立太子の儀が行われたとき、皇太子に選ばれたのは護良ではなく、廉子の長子、恒良だった。つまり、後醍醐は実力ナンバーワンで実績のある護良ではなく、まだ10歳か11歳になったばかりの恒良を後継者として指名したのだ。そして、廉子の産んだ二人目の子、成良は鎌倉に下り、三人目の子、義良は奥州に下った。つまり、廉子が後醍醐と相談のうえか、廉子の独断かは別にしても、将来考えられる3つのコースに、それぞれ後醍醐との子を送り込んだ。つまり、恒良を後醍醐直系、成良を足利尊氏路線、義良を護良親王・北畠親房路線として、最終的にどのコースが勝っても、後醍醐と廉子の生んだ子を政権担当者の座に就かせる戦略だった-とする見方がある。

 才気煥発な廉子がそのくらいの画策をしたことは十分考えられる。また、護良親王が皇太子になれなかったことについても、わが子が皇位に就くために将来邪魔になるであろう護良を除こうと考え、同じく護良を除こうと考えていた足利尊氏と目的が一致。尊氏と組んで、尊氏から「護良親王が後醍醐天皇を廃そうとしている」という護良親王謀反の通報が廉子にあり、それを聞いた後醍醐が護良を捕えた-とする「太平記」の叙述を100%信用できないにしても、似た素地はあったのではないだろうか。
(参考資料)小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

春日局・・・逆賊のアバタ娘が離婚後、徳川三代将軍家光の乳母になる

 春日局といえば、徳川三代将軍家光の乳母となり、将軍の後継ぎ問題を円滑に進めるために、江戸城の“大奥”をつくり、半面、清楚な「賢婦人」のイメージを抱く。だが、彼女は現実にはひどいアバタ面で、壮烈なヤキモチ焼きで、勝ち気でしたたかな女性だった。

 春日局の本名はお福。夫の稲葉正成と先妻(死亡)の間に2人の子供がいるところへ後妻として嫁いだ。彼女の父は明智光秀の家臣で、山崎の合戦で討ち死にしている。つまり逆賊の家で世間の目が冷たく、経済的にも苦しかったからだ。しかも彼女自身、天然痘を患ってひどいアバタ面だったという。

 結婚したお福にとって我慢できなかったのは、夫が女中に次々と手をつけることだった。そんな思いが爆発するときがくる。お福が3人目の子を産んで一月ほど経ったある日、勝ち気な彼女は夫の寵愛を受けている女中の一人をいきなり殺してしまったのだ。そのまま「もう家にはおりません」と宣言して、彼女は子供を置き去りにして家を飛び出してしまう。

 この気性の強さがお福の運命を切り開く。夫の側室を殺して家を飛び出した彼女は、そのまま京へ上る。そして町の辻に立てられた高札を目にしたことが、その後の彼女の生涯を決定した。「将軍家康公の嫡孫竹千代君の乳母募集!」とある。子供を産んだばかりのお福は、まさに有資格者だった。

早速、申し出ると即座に採用決定。お福は新しい生活の第一歩を踏み出す。彼女は竹千代を熱愛した。報われなかった夫への愛の代わりに、狂おしいまでの愛情を竹千代に注ぎ込む。あるとき竹千代が天然痘にかかると、彼女は薬断ちの願をかけ、遂に生涯薬を飲まなかったといわれるほどだ。

 家光への溺愛、そして独占欲の表れは、まず竹千代と弟・国松の将軍三代目の跡目相続をめぐっての、駿府に隠居している大御所・家康への直訴だ。ここで「長子相続」をタテに竹千代の跡目相続を勝ち取る。次いで、竹千代が元服して家光と名乗り、やがて父秀忠の後を継いで三代将軍になった後、お福は家光にとって危険と思われるものを用心深く周りから取り除いていく。かつての国松=忠長の存在だ。いつ周りから担がれて将軍職乗っ取りを図るかも知れないと、口実をもうけて忠長に詰め腹を切らせてしまった。

 表向きには、お福はこの事件とは全く関わりがないようにみえる。しかし、鎌倉の東慶寺に残る棟札には忠長の死後、彼の住んだ御殿を東慶寺に移したのは「春日局のおとりもちだ」と書いてあるという。こうしてみると、長い間、忠長を憎み続けてきた彼女が、終戦処理をしたとみられる。

 家光にはホモの趣味があって、初めは女にあまり興味を示さなかった。そこでお福は、伊勢の慶光院院主の尼僧を近づけて、巧みに女性開眼させた。普通の女性には見向きもしない家光だったが、頭を丸めた尼僧という異形の女性には少なからず興味をそそられたということらしい。これをきっかけに、家光はがぜん女性への関心を示し始め、無事に後継ぎも生まれた。

 お福のスゴ腕は朝廷に向けても発揮された。将軍秀忠時代、彼女は上洛して後水尾天皇に拝謁している。「春日局」はそのとき朝廷からもらった名前だ。この拝謁には下心があった。お福はその席で帝に「そろそろ、ご退位を…」とほのめかしたという。

このとき後水尾天皇の妃は秀忠の娘和子で、帝との間に姫宮をもうけていた。その姫宮へご譲位を!というのが幕府の魂胆で、お福はその特命全権大使だったのだ。恐るべし、夫も子供も捨てて、第二の人生に懸けた中年女のしたたかさだ。
(参考資料)永井路子「歴史をさわがせた女たち」、童門冬二「江戸のリストラ仕掛人」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

桂昌院(徳川五代将軍綱吉の母)・・・悪法“生類憐みの令”生みの親

 桂昌院は徳川三代将軍家光の側室で、後に五代将軍綱吉の生母となった。八百屋の娘からここまで登り詰めた、いわば日本版シンデレラだが、その一方で悪法“生類憐みの令”発令のきっかけをつくった悪女でもある。

 彼女の生まれは京都・堀川通西藪屋町の八百屋仁左衛門の娘で、名前はお玉。16歳で家光の側室、お万の方の腰元として江戸城に入るのだが、京都の八百屋の娘が江戸城の大奥に入るようになるのは少し込み入った事情がある。それは、京都の公卿のお嬢さんが伊勢・慶光院という門跡寺の尼になり、寛永16年(1639)3月、そのお礼のために家光のところに出向いた。

江戸城で家光に拝謁したところ、家光はそのお嬢さんを一目見て「尼にしておくのはもったいない」と不心得を起こし、そのまま江戸に留め還俗させて、側室・お万の方が誕生することになる。そして、そのお万の方の腰元としてお玉が行くことになったのだ。

 腰元お玉の、いきいきした下町娘ふうな美しさが家光の目にとまったというわけだ。身分制度のやかましかった徳川封建体制下ではラッキーなことだが、そのうえ彼女は妊娠し、しかも男の子が生まれて、これが五代将軍綱吉になった。生まれたのが女だったら、桂昌院として歴史に名を残すようなことはなかったろう。そういう意味では彼女には幸運が続く。

というのは、家光には側室は彼女の他に4人いて、別の側室2人に長男家綱、二男網重と男の子が2人いたので、本来なら彼女の子は将軍にはなれないはずだった。ところが、ツキのあるときはどこまでもうまくいくもので、四代を継いだ家網は子供なしで早死にし、続いてその弟、網重も亡くなる幸運。兄2人が死んで、上州・館林の藩主だった綱吉に将軍の座が回ってきたというわけ。その頃はすでに家光に死別して、お玉は未亡人になっており、当時の慣例として剃髪し、桂昌院と呼ばれていたが、自分の意思や策謀なしにこれほどトントン拍子に出世した人はいない。稀有なケースといっていい。

 綱吉は学問好きの将軍として知られているが、これは桂昌院・お玉が教育ママで「勉強しなさい」といつも尻を叩いていたからだ。夫の家光が戦乱の余燼がまだおさまらない時代に成長し、学問をする時間がなかったので、子供たちには学問させたいと考えていたのだ。お玉はその言葉を守って綱吉にハッパをかけたので、綱吉は徳川歴代将軍の中でも特筆されるほどの好学将軍になった。四書五経、大学、中庸など彼の知識レベルは、学者はだしだったという。

 美貌とともに、伏魔殿のような大奥でうまく泳いでいく処世術を身につけていた桂昌院は、82歳まで生き幸福を享受し続けたが、その生涯の最大の汚点は悪法“生類憐みの令”発令のきっかけをつくったことだ。信仰心が篤かった桂昌院はそれが災いし、結果的に大奥に悪僧、隆光を引き入れ、その進言で“生類憐みの令”という未曾有の悪法を綱吉に進言。その結果、犬一匹殺しても死罪、魚、えび、しじみに至るまで食べるのを禁じるところまでエスカレートし、庶民の苦痛、不便、迷惑は大変なものだった。この悪法は1685年から綱吉が死ぬ1709年まで続く。この24年間は庶民にとって耐え難い時期だったといえる。

 通常、権力者の世界では“父母に忠孝”というのは建て前で、“天子に父母なし”といって、天子になったら父母のいうことを聞かなくてもいいという考えもあった。ところが、綱吉は儒教の忠孝の教えを守って、母・桂昌院のお膳の上げ下げまでしたという。それだけに、綱吉が“犬公方”と呼ばれ、後世の批判を浴びているのは、母・桂昌院のせいといえる。
(参考資料)山本博文「徳川将軍家の結婚」、永井路子対談集「五代将軍綱吉の母・桂昌院」(永井路子vs杉本苑子)

孝謙女帝・・・道鏡を異例の皇位に就けようとした未婚の女帝

 女性の身で二度も皇位に就いた孝謙女帝は、日本史上稀にみる栄光に包まれた女性だが、反面、史上最悪の黒い噂がつきまとっている。周知の通り、僧道鏡の献身的な奉仕ぶりに感じ入り、恋に堕ちた女帝が前代未聞の、皇族でもない道鏡を皇位に就けようと画策(?)したことだ。

 孝謙女帝は推古天皇や持統天皇などそれまで存在した女帝たちとは異なり、初めから皇位継承者として、女性では史上初の皇太子になり、やがて即位した。ただ、これにはわけがある。たった一人の弟で皇太子だった基王が早死にしたので、父の聖武天皇と別の妃の間に生まれた皇子に皇位を奪われないように、光明皇后の実家、藤原氏一族が暗躍。苦肉の策で、強引にかつ大急ぎで皇太子に立てられたのだ。阿倍内親王20歳のことだ。このプリンセスが女帝の座に就いたときは32歳、東大寺の大仏開眼には主役として晴れの盛儀に臨席している。

 聖武天皇が亡くなると、女帝の周りはにわかに慌しく黒い渦が巻き起こってくる。まず皇太子交代事件がそれだ。聖武天皇はその死にあたって、未婚で後継ぎのいない娘、孝謙女帝のために、道祖王(ふなどのおう)という皇族の一人を皇太子にせよと遺言した。ところが、この道祖王が聖武天皇の喪中に、宮中の女官と密通したことが発覚。これに憤慨、激怒した未婚の女帝は早速皇太子をやめさせてしまった。代わりに別系の皇族、大炊王(おおいのおう)を立てた。

このとき女帝の片腕として活躍したのが当時の実力者、藤原仲麻呂だ。彼は光明皇后の甥だから、女帝には従兄にあたる。ただ、仲麻呂の献身には魂胆=野心があった。皇太子に選んだ大炊王は、実は仲麻呂の家に住んでいたのだ。早死にした彼の長男の妻の再婚の相手で、いわば女婿といったところだ。ともあれ女帝と仲麻呂=恵美押勝の間は至極和やかだった。

だが、女帝が皇太子、大炊王に皇位を譲り、彼が即位し淳仁天皇となったあたりから心のズレが表面化。天皇に密着して思いのままに腕を振るい始めた仲麻呂の態度を見て、女帝は仲麻呂が自分を愛しているのではなく、権力を愛していたのだと気付く。そのうえ、頼りにしていた母の光明皇后が亡くなったことも、女帝の孤独感を深めた。そのせいか、女帝はまもなく病気になる。このとき、病気を治すまじない僧として呼ばれるのが道鏡だ。

道鏡は自分の呪術のすべてを尽くして女帝の治療に専心する。その甲斐あって女帝は健康を取り戻す。そして、その献身的な奉仕ぶりが女帝の心を深く捉えることになる。彼には仲麻呂のような野心がない。心底からの献身として映る。仲麻呂に裏切られた後だけに女帝の心は急速に道鏡に傾き、恋に堕ちる。

道鏡は一般には妖僧といわれ、彼自身が天皇になろうとしたとの非難がある。しかし、彼はそのころでは珍しくサンスクリット(梵文)も読めた、大変な勉強家だった。また、皇位に就けようと積極的に動き、画策したのは彼自身ではなく、女帝の方だったようだ。道鏡への処遇で淳仁天皇に非難された女帝は、反乱を起こした仲麻呂=恵美押勝を滅ぼし、また淳仁帝を廃し、皇位に返り咲く。称徳天皇だ。

女帝は道鏡を大臣禅師として国政に参与させ、後には法王の称号を与える。そして、政略的な理由で女性皇太子となって以来、遂に結婚の機会を与えられなかった人の、最初にして最後の愛の燃焼ともいえる道鏡への寵愛は、道鏡を皇位に就けようとする強い意志となって表れたのではないだろうか。九州の宇佐八幡にお告げを聞きに行った和気清麻呂のもたらした「ノー」により、結局は実現しなかったが、そこにみられる四十女の恥も外聞もないひたむきさは涙ぐましいほどだ。

ただ、「日本霊異記」などが生々しい艶聞として伝えているように、公人としての称徳天皇が、道鏡と密着して政治を壟断(ろうだん)したことはつとに知られるところであり、批判のそしりは免れない。ここに悪女として紹介した所以だ。
(参考資料)永井路子「歴史をさわがせた女たち」、笠原英彦「歴代天皇総覧」

丹後局・・・夫の死後、後白河法皇の愛人となり時の政治を動かした女性

 丹後局は後白河法皇の愛人で、寝ワザを利かせて時の政治を動かしたという意味で楊貴妃と対比される女性だ。それも、40歳を過ぎてから実力を発揮し始めたという。果たして何が彼女をそう変えたのか?
 結婚前の名が高階栄子。高階家は受領で、はじめ後白河法皇の側近・平業房に嫁ぎ、5人の子供を産み40歳頃まではごく平凡な母親だった。例えば夫の業房が後白河院を自宅に招待したときなど、下級官吏の夫に目をかけてもらおうと一所懸命、接待に努めた気配がある。

 治承3年(1179)、平清盛がクーデターを起こして後白河法皇を鳥羽殿に幽閉した事件で、後白河法皇の側近だった夫・業房が捕えられ伊豆に流される途中、逃亡したが捕えられ殺される。栄子はこれを機に後白河院に接近する。彼女は鳥羽殿に幽閉されている後白河法皇に仕えることを許され、丹後局と称するようになる。その後、後白河法皇の愛を受けて覲子(きんし=宣陽門院)を産んだ。

 以後、復帰した後白河法皇を後ろ楯に政治に参加、院政という個人プレーの取りやすい政治体制の中で権勢をほしいままにした。清盛が亡くなった後の平家が安徳天皇を奉じて都落ちしたあと、後鳥羽天皇を推挙擁立したと伝えられているのをはじめ、政治、人事にことごとく口を出し、その美貌と相まって、当時の人々は丹後局を楊貴妃と対比した。

 後白河院はいろいろな女性に子供をたくさん産ませているが、本当に愛した女性は建春門院と丹後局ぐらいといわれる。かなり好き嫌いのはっきりした人だったようだ。楊貴妃に擬せられているが、残されている文献・記録には丹後局が美人だったとはどこにも書かれていない。ただ、非常に好みの強い後白河院が終生、丹後局をそばにおいたということは、よほど魅かれるものがあったのだろう。正式の皇后はいるのに、全然名前が出てこないのだから。

 いずれにしても後白河院を後ろ楯に、院との間にできた娘を格上げして門院にしてしまう。門院は普通の内親王と違い、役所と財産権がつく位だ。本来は天皇を産んだ人しかなれない、それを彼女自身、身分が低く女御でもないので娘も位が低いのに、強引に門院に押し込んでしまったのだ。娘が門院になると、丹後局はその母親ということで二位をもらう。また、彼女の口利きで出世した身内の人たちは少なくない。その他、様々に政治にタッチしていたことが分かっている。まさに、やりたい放題、公私混同もいいところだ。

 それにしても、どうしてこれだけ無茶なことができたのか?それは「院政」という政治形態に尽きる。現代風に言えば院は代表権つきの会長で、これに対し天皇はサラリーマン社長で、ほとんど実権がない。天皇の上に“治天の君”がいるのだ。それが院で、本当の権力者だ。しかも、官僚機構が発達していない。非常にプライベートな形で権力が振るえる。だからこそ、丹後局は働けたのだ。だが、これだけ好き放題やった女傑も後白河法皇の死後は、すっかりにらみが利かなくなり、法王の廟を建てるよう進言しても政治の実権者になった後鳥羽上皇は耳を貸さなかった。

 歴史に「…たら」「…れば」をいっても仕方がないが、清盛のあのクーデターがなければ丹後局という女性が現れることなく、下級貴族、平業房の奥さんで終わっていただろうに…。 (参考資料)永井路子対談集「丹後局」(永井路子vs上横手雅敬)    

日野富子・・・将軍義政の失政に拍車をかけた日本史上稀にみる“悪妻”

室町幕府八代将軍、足利義政は無責任と優柔不断さで「応仁の乱」(応仁元年=1467~文明9年=1477)を引き起こしたことは衆知の通り。飢饉のために都に餓死者があふれる中、あちこち物見遊山にでかけ、為政者の責任は放棄して、連夜の酒宴を催すなど数々の失政にまみれた人物だ。そして、この失政・悪政に拍車をかけたのが、義政の正夫人(御台所)日野富子だ。日本史上稀にみる“悪妻”と呼ばれ最も「カネ」にも汚い女といわれた。

 冨子は、足利将軍家の夫人を代々送り出している裏松日野家の出身だ。したがって、血筋からすれば後世の彼女に対する悪評は決してふさわしいものではなく、人生の歯車が大きく狂ったのは夫・義政にその大半の責任があるといっていい。

義政は、内大臣日野政光の娘でまだ16歳の冨子を妻に迎えた。結婚後、冨子がしばらく男の子を産まなかったため、まだまだ後継者の男子が生まれる可能性があるのに、早々と弟・義視を口説き還俗させて後継者とし引退の準備を整えた。そして「万一、これから冨子との間に男子が生まれても、絶対に後継者にはしない。出家させる」という確約もした。そのために幕閣第一の有力者で宿老の細川勝元を後見人にも立てた。これほど用意周到に準備したのは、義政自身が早く政界から引退したくて仕方がなかったのだ。ただただ為政者の責任を放棄し、気楽な立場で遊んで暮らしたかったからだ。決して年を取ったからでも、体を悪くしたからでもない。

 ところが、この決断はあまりにも性急過ぎた。皮肉なことに弟が後継者に決まって1年も経たないうちに、冨子は懐妊し翌年男子を産む。これが義尚だ。当然、冨子はわが子・義尚を跡継ぎにと夫・義政に迫ることになる。そこで、義政はどう動いたか。現代流に表現すれば“問題先送り”し、どちらにも決められず、将軍の座にとどまり続けたのだ。優柔不断そのものだ。その結果、細川勝元が後見する義視派と、冨子が山名宗全を味方に引き入れた義尚派との間で争いとなり、これが応仁の乱の導火線となった。

 都を荒廃させたこの大乱の前後を通じて義政は全く政治を省みなかったため、冨子はこれ以後、異常なほど「カネ」に執着するようになる。兄・勝光とともに政治に口を出すばかりでなく、内裏の修理だとか、関所の通行税だと称してはカネを集め、そのカネを諸大名に貸して利殖を図った。

とくに信じられないのは、東軍側の冨子が敵方、西軍の武将、畠山義就に戦費を融通していることだ。息子義尚を将軍にしたいがために、戦争まで引き起こしてしまったというのに、敵方の武将にカネを貸して戦乱を助長しているのだ。諸大名が戦費に困っているなら、融資などやめればいいのだ。それで戦争は終結に向かうはずだ。

冨子は1474年、義政と別居。その後義尚を指揮下に政治を行う。そして1489年、25歳の若さで義尚が死に、翌年義政を失った冨子は、慣例的に尼になる。普通ならここで念仏三昧の静かな日々を過ごすことになるはずなのだが、彼女は全く違う。世の無常を感じるどころか、次の将軍義稙(よしたね)にまで口出しするのだ。義稙は義視の子だ。権勢に対する執念の深さはいままでの歴史上の女性にはみられないものだ。応仁の乱を機に幕府の実際の生命は絶えたような状況だったが、それでもなお、その座を捨てきれない。エネルギッシュな行動力を持った女性だったといえよう。
(参考資料)井沢元彦「逆説の日本史8 中世混沌編」、永井路子対談集「日野富子」(永井路子vs永原慶二)、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

北条政子・・・愛情過多、壮大な“やきもち”で源家三代の悲劇起こす

北条政子は周知の通り、鎌倉幕府の創立者、源頼朝夫人だ。現代風に表現すれば鎌倉時代のトップレディーのひとりで、夫の死後、尼将軍などと呼ばれて政治の表面に登場するため、権勢欲の権化と見る向きもある。しかし、実際は愚直なほどに愛情過多で、また壮大な“やきもち”によって源家三代の血みどろな家庭悲劇を引き起こす遠因をつくった悪女といえよう。

政子がどれだけやきもちだったか?やきもち劇の始まりは頼朝が政子の妊娠中、伊豆の流人時代から馴染みだった「亀の前」という女性と浮気したときだ。政子はこともあろうに、屈強の侍に命じてその憎むべき相手の亀の前の隠れ家を無残に壊してしまったのだ。鎌倉じゅう大評判になった。ミエや夫の名誉などを考えたら、普通ここまではできない。頼朝は懲りずに第二、第三の情事を繰り返し、その度に政子は狂態を演じることになる。

夫の死後、彼女は長男の頼家を熱愛しようとした。ところが、すでに成人していた頼家は愛妾若狭局に夢中で、母には振り向きもしない。彼女は絶望し、若狭局を憎むようになる。現代も母と嫁の間によくあるケースだ。その後、母と子の心はさらにこじれて、可愛さ余って憎さ百倍、遂に政子は息子頼家と嫁に殺意を抱く…。すべてが終わったとき「私はとんだことをしてしまった」と激しい後悔の念に襲われる。

そこで、政子はせめてもの罪滅ぼしに、頼家の遺していった男の子、公暁を引き取り、可愛がる。父の菩提を弔うために仏門に入れ都で修業もさせるが、やがて手許に引き取り、鶴岡八幡宮の別当(長官)とする。ところが、この孫は祖母の心の痛みなどは分かっていない。父に代わって将軍になった叔父の実朝こそ親の仇と思い込み、遂にこの叔父を殺してしまう。

母と子、叔父と甥、源家三代の血みどろの家庭悲劇を引き起こしたのは、政子の抑制の利かない愛情過多がその一因になっていると言わざるを得ない。もちろん幕府内部の勢力争いもからんでいるが、政子の責任は大きいのだ。

一般に政子を冷たい権力欲の権化、政治好きの尼将軍と見做す向きもある。しかし、彼女は決して冷たい人間でもなければ、政界の手腕家でもない。唯一、承久の変が起こったとき、確かに彼女は鎌倉の将兵を集めて大演説をしている。しかし、これも今日では彼女の弟、策略に長けた稀代の政治家、北条泰時の指示のままに「施政方針演説」を朗読したにすぎない-との見方が有力だ。

こうしてみると、政子の真骨頂は庶民の女らしい激しい愛憎の感情を、歴史の中に残したところにあるといえそうだ。また、その分、女の中にある愛情の“業”の深さを浮き彫りにしたのが政子の生涯だったといえるのではないか。

(参考資料)永井路子「北条政子」、永井路子「歴史をさわがせた女たち」

道綱の母・・・当時の一代の王者、藤原兼家の私生活を暴露したマダム

 『蜻蛉日記』の筆者。伊勢守(後に陸奥守)藤原倫寧(ともやす)の娘だが、彼女の名前は分からない。生没年は935~995頃。王朝三美人の一人といわれているが、肖像画が残っているわけではないので確認できない。右大将道綱の母、とだけ呼ばれている。それでもここで取り上げたのは彼女が、今日では珍しくもないが、当時の最高権力者、一代の王者、摂政・藤原兼家との二十余年にわたる私生活を暴露した「勇気ある先駆者」だからだ。

 彼女自身語っている。現代風に意訳すると「私は身分違いの相手に想われ、いわゆる玉の輿に乗ったおんなである。そういう結婚を選び取ったものが、どのような運命をたどったか、その点に興味を持つ読者にも、この日記体の文章は一つの答えを提供するかも知れない」と。

 道綱の母は、ただ、きれいごとの王朝貴族ではなく、図々しくて不誠実で、浮気で…と、その私行を余すことなく暴いている。しかし、暴かれた兼家の立場にたてば、まったくたまったものではなかったろう。それにしても、執筆し続けた彼女のすさまじい執念には恐れ入るばかりだ。

 今日では、スターと別れた彼女が、」そのスターの素顔を好意的に、あるいはおとしめるために手記を書き、マスコミで取り上げられベストセラーになることはよくあることだが、当時は新聞も週刊誌もなかったから、彼女がいくら書いても1円の原稿料も入ってくることはなかった。それにもかかわらず、彼女は書きまくった。一代の王者として、もてはやされているその男が、彼女にとって、いかにひどい男だったかを、世間に知らしめるために。

 天暦8年(954)、藤原兼家の度々の求婚を承諾し、19歳で妻となる。兼家は26歳。この時、兼家には時姫という正妻があり、長男道隆もすでに生まれていた。翌年夏、道綱を産む。道綱が生まれると兼家の足は自然に遠のき、さらに次々に愛人が現れる。この間、嫉妬に悩み、満たされぬ愛を嘆き続けた。また、期待を懸けた道綱は、時姫の子、道隆、道兼、道長らが後に政権を取ったのにひきかえ、たいした出世をしなかった。それは、ひとえに両家の格の違いによるものだった。

 『蜻蛉日記』は、約20年間の一人の女の愛情の記録で、36歳の頃から書き始め、4年かけて976年頃にできあがったといわれている。冒頭に「そらごとではなく、自らの身の上を後世に伝えよう」という意図が語られている。二人の交際は、兼家がラブレター(和歌)を寄こすところから始まる。当時彼は、役どころは高くなかったが、ともかくも右大臣家の御曹司だ。彼女の父は、いわゆる受領-中級官吏だから、願ってもない縁談だった。

 それだけに周りは大騒ぎするが、彼女は「使ってある紙も、たいしたこともないし、それにあきれるほどの悪筆だった!」と冷然と書いている。これでは、未来の王者も全く形無しだ。それでも兼家はせっせとラブレター(和歌)を送り続ける。いかにあなたに恋い焦がれているか-と。そして、どうせ本気じゃなんいでしょう?-という返歌を書く。これを繰り返して、やがて二人が結ばれる。当時としては結婚の標準コースだ。

 兼家は彼女を手に入れると少しずつ足が遠のき始め、やがて彼女が身ごもり、男の子を産むが、その直後、彼女は夫がほかの女に宛てた恋文を発見。勝ち気でプライドの高い彼女は、この日から激しい嫉妬にさいなまれ始める。その後も兼家と顔を合わせれば、わざと冷たくしたり、彼女の気持ちはこじれるばかり。既述した通り、兼家はもともと移り気で浮気症だったらしく、次から次と女の噂が伝わってきて、彼女の心は休まるひまがない。

 『蜻蛉日記』にはこうした心境、屈折感を余すところなく書き連ねている。立場を変えてみると、言い訳を言ったり、ご機嫌を取ったり、汗だくの奮戦に努める兼家が気の毒になってくるほどだ。これだけ書けば、妻といえども、夫に嫌われることだけは間違いないだろう。

 これにひきかえ、兼家の正妻、時姫は優秀な子らの母として、押しも押されもせぬ足場を確立していた。兼家はその時姫の産んだ娘や息子を手駒に使って、政敵を打倒していった。時姫は、結局はそれが子らの幸福につながると信じ、権力闘争の苛酷さを理解して、黙々と夫の後についていくタイプだった。したがって、家庭内に波風は立たず、子供らは存分に、それぞれの個性を伸ばせたのではないだろうか。

 だが時姫は、夫が独走態勢に入り、これから頂点(=摂政)に登り詰めようとする直前に世を去った。そして、時姫の他界から10年後、勝者の満足をかみ締めながら、兼家も永眠した。通綱の母は、さらにそれから5年後に亡くなるわけで、三人の中では最も長生きしたことになる。

(参考資料)永井路子「歴史をさわがせた女たち」、杉本苑子「私家版 かげろふ日記」

村山加寿江・・・井伊直弼の寵愛を受け、愛人のため志士の諜報活動

村山加寿江(かずえ)は、後に第十三代彦根藩主となる井伊直弼がまだ部屋住み時代、その寵愛を受け、後に井伊直弼が幕府の大老に就任、「安政の大獄」を断行した際、これを実質的に指揮した謀臣・国学者・長野主膳の愛人でもあった。

加寿江の場合、閨房で待つ、単なる愛人ではなく、主膳を助けて、その謀者となって息子の帯刀とともに、京の志士の動静探索に力を尽くした。そのため、逆に薩長両藩の志士に襲われ、三条大橋の橋柱に縛られ、三日三晩生き晒しの辱めを受けた。加寿江の生没年は1810(文化7)~1876年(明治9年)。

村山加寿江(村山たか)は江州(滋賀県)多賀神社の神主の娘。幼少の頃より美人の誉れ高く、踊・音曲を好み祇園の芸妓となったが、金閣寺長老永学に落籍され、天保4年、一子、常太郎(帯刀)を産んだ。のち同寺の代官、多田源左衛門の妻となったが、その後離縁となり、彦根に戻ってまだ部屋住み時代の井伊直弼の寵愛を受けた。そして、直弼が家督相続するころに暇を出され、直弼の知恵袋と目されていた国学者・長野主膳がその後始末を任されたのだ。

加寿江は容色にも恵まれ、文章にも優れていた。九条家、今城家などにも出入りしたほどだから、知恵者の長野主膳とも意気投合して深い関係におちた。
その後、時局が急展開し、安政5年、幸運にも彦根藩主となった井伊直弼が幕閣の大老に就任。安政の大獄が断行されると、これを実質的に指揮した長野主膳を、加寿江は女だてらに彼の片腕となって助け、息子の多田帯刀とともに西南雄藩の志士の動静探索に力を尽くした。

これが後に勤王派の志士たちの耳に入り、その中の過激な連中から逆襲されることになった。1862年(文久2年)、洛西・一貫町の隠れ家で長野主膳一味として薩長両藩の志士に襲われ、天誅のもとに息子の帯刀は斬殺され、加寿江は三条大橋の橋柱に縛られ、三日三晩、生き晒しの辱めを受けた。
そのとき尼僧に助けられ、彦根の清涼寺で剃髪して尼僧となった。その後、金福寺に移り、留守居として入った。彼女は妙寿尼と名乗り、ここで数奇な生涯を閉じた。祇園の芸妓だった彼女が、後に日本国を動かす人物の寵愛を受け、さらに女だてらに天下・国家を動かしていた人物の片腕として働くという、この当時の女性にはほとんど経験できない人生を生きたのだ。

(参考資料)平尾道雄「維新暗殺秘録」、海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち」

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淀君・・・息子秀頼への“教育ママ”ぶりと権勢欲が豊臣氏を滅ぼす

歴史に「たら」「れば」を言っても仕方がないというが、それでもこの淀君には敢えて言いたいと考える人は多いのではないだろうか。「関ケ原の戦い」(1600年)に際してはもちろん、「大坂冬の陣」(1614年)、「大坂夏の陣」(1615年)で、もう少し相手、徳川家康の心理を読み、いま少し冷静に自陣の将兵に接する気持ちがあれば、情勢は変わったのではないか?とくに名目上の総大将、息子の豊臣秀頼に対する“教育ママ”ぶりを抑える器量があれば、少なくともあれほどあっけなく歴史上、豊臣氏が消えることはなかったろう。淀君の度を超えた虚栄心、権勢欲が豊臣氏を早期滅亡させた要因といっても過言ではない。

淀君は永禄10年(1567年)生まれ、本名はお茶々。母は織田信秀の5女で、信長の妹、お市だ。父は小谷城主、浅井長政。戦国時代にはよくあったことかも知れないが、彼女の少女時代は必ずしも幸福ではない。7歳の時に母の兄、織田信長に攻められ小谷城は落城、父は自害する。落城に際し、彼女は母のお市や妹たちとともに、織田の陣営に引き取られる。ところが「本能寺の変」(1582年)で、頼みの信長が明智光秀に殺害されたことから、彼女の人生も波乱に満ちたものとなる。

まず母のお市の嫁ぎ先、織田家の有力武将、越前北ノ庄(福井県)の城主、柴田勝家のもとへ。しかしここもポスト信長の“天下取りレース”で主役の座に躍り出た羽柴秀吉に攻められ、母は夫とともに自害し、お茶々たち3人の娘だけが秀吉の手に渡される。この後、お茶々は秀吉の側室となる。秀吉にはほかにもたくさん側室がいたし、長年連れ添ったねねが、正室・北政所としてデンと構えている。それだけに心穏やかではなかったかもしれない。

やがて、お茶々は身ごもり出産。不幸にしてこの子は早死にするが、まもなく2人目の子(後の秀頼)が生まれる頃から、秀吉は親ばかになり、お茶々は淀殿と呼ばれ一段と猛母になる。秀吉の死後、秀頼が大坂城のあるじになると、ぴったり彼に寄り添って離れない。そして北政所を大坂城から追い出してしまう。豊臣氏滅亡を早めた大きなミスの一つだ。

淀君は猛烈な“教育ママ”の顔を持ちながら、秀頼の教育において決定的なミスを犯している。「カエルの子はカエルになれるが、太閤の子は太閤になれるとは限らない」ということに気付かなかったのだ。秀頼は秀吉とは違う。溺愛するあまり、秀頼は普通の子、秀吉と比べれば“ボンクラ”であることを見抜く冷静さに欠けていた。
やがて彼女は挫折する。冒頭でも述べた通り、徳川方と戦ってはことごとく敗れる。実はこの戦いの前に、家康は秀頼が大和一国で我慢するなら命を助けてやろう、と言っている。“たぬきオヤジ”といわれた家康の真意のほどは分からないが、もしそれがホンネだとしたら、案外そのあたりが秀頼の能力にふさわしかったのではないか。そして、彼女にそれを受け入れる度量の広さや冷静さがあったら、母子して猛火の中でその生涯を終えることはなかったろう。

(参考資料)永井路子「歴史をさわがせた女たち」

県犬養橘三千代・・・藤原不比等を支えた後宮の実力者

 県犬養氏は一族に壬申の乱の功臣、大伴氏を持ち、その縁からか三千代は天武朝の女官となった。初めは敏達天皇四世の子孫、美努王(三野王)と結婚し、葛城王(後の左大臣・橘諸兄)と佐為王ら三子を産んだ。詳細は不明だが、10代の後半で妻となり、10代の末ぐらいに最初の子を産んだのではないか。しかし、新しい時代の律令政治に戸惑いをみせる美努王との生活が破綻。生年は定かではない。665年(天智4年)ごろ?か。没年は733年(天平5年)。

三千代は命婦として宮中に仕え、軽皇子(後の文武天皇)の乳母として養育にあたり、持統女帝および阿陪皇女(後の元明女帝)の信任を得て、次第に後宮の内部に地歩を固めていった。
 697年(持統11年)8月1日、後宮の長・三千代の最大の願いだった15歳の皇太子・軽皇子が皇位に即位、文武天皇となった。そして、持統女帝は太上天皇に就く。そして美努王が大宰帥として筑紫に赴任したこの頃、三千代は美努王と離婚し、藤原不比等の妻となり、安宿媛(後の光明皇后)を産んだ。

707年(慶雲4年)、不運にも25歳という若さで亡くなった文武天皇の後を受けた元明女帝(文武天皇の母)は、後宮に長く仕えた重鎮の三千代を深く信頼。即位の大嘗祭の宴で盃に橘を浮かべて、その功をねぎらい、「橘宿禰」の氏称を賜与した。したがって、三千代は橘氏の実質上の祖というわけだ。715年に三千代は尚侍(ないしのかみ)となって女帝に仕え、後宮の実力者として君臨した。
後の“藤原摂関政治”の礎を築いたのは不比等だが、それは、三千代の存在を抜きには決して語れない。不比等に対する皇族の厚い信頼のもと、後宮を完全に掌握していた三千代との二人三脚があってこそ、初めて実現したものだったのではないだろうか。

 不比等の先妻が産んだ宮子(文武天皇の夫人)の子・首皇子(後の聖武天皇)を皇位継承者とするために、表では夫・不比等が、裏では三千代が擁護した。翌年には娘の光明子を首皇子に嫁がせたが、これも彼女の発言力がものをいったのだろう。藤原不比等の孫(首皇子=後の聖武天皇)が夫に、不比等と三千代との間にできた子(光明子=後の光明皇后)が妻になったわけだ。

 不比等の死後、次男の房前が参議・内臣となり、朝廷内の実力者となるが、房前には先夫との間の牟漏女王が嫁いでおり、ここでも三千代の庇護が好影響を及ぼしているとみられる。
 三千代は721年(養老5年)、正三位に叙せられ、同年の元明天皇の危篤に際し出家。733年(天平5ねん)死去。死後、同年従一位、760年(天平宝字4年)正一位と大夫人の称号を贈られた。
 持統・元明・元正と三代の女帝に仕えた彼女は、江戸時代の徳川三代将軍家光の乳母で、大奥を取り仕切った春日局のような後宮の実力者だったのだろう。

(参考資料)黒岩重吾「天風の彩王 藤原不比等」、神一行「飛鳥時代の謎」、永井路子「美貌の大帝」、杉本苑子「穢土荘厳」、梅原猛「海人と天皇」

大奥大年寄・絵島・・・江戸城内の幕閣の権力争いのスケープゴートに

 江戸時代中期、徳川七代将軍家継の生母、月光院(六代将軍家宣の側室、左京局)に仕えた大年寄(大奥女中の総頭で、表向きの老中に匹敵する地位)を務めた絵島は、当時名代の歌舞伎役者、生島新五郎との恋愛沙汰が露顕して、“絵島生島事件”として後世に長く伝えられる、大きなスキャンダルを起こし、失脚したといわれる。絵島は果たして、本当に“禁断の恋”に走るほど奔放な恋多き女性だったのか?

 今日に伝えられる絵島生島事件は、錦絵に描かれ、新作歌舞伎で演じられ、大年寄絵島は隠れもなき美男、生島新五郎との悲恋のヒロインとして粉飾されたものだ。そのため、この事件の真相は、禁を犯した、あたかも大奥女中と歌舞伎役者の情事に決定的な原因があったように印象付けられている。

 だが、江戸・木挽町の芝居小屋、山村座での芝居見物はただ一回のことだったし、絵島と生島新五郎の二人の情事を裏付けるような史料はない。また当時、大奥女中の芝居見物は“公然の秘密”として、通常は見逃されていた。それがなぜ、大年寄絵島をはじめとして、その由縁の人多数が斬首、流罪、追放に処せられなければならなかったのか?

 結論からいえば、大奥を含めた江戸城内の幕閣の権力争いが背景にあり、絵島はその争いに巻き込まれ、いわば“スケープゴート”にされたのだ。具体的には、幼少の七代将軍家継を擁立して権勢を振るう月光院や新参の側用人、間部詮房(まなべあきふさ)、家継の学問の師・新井白石らの勢力と、譜代の大名、旗本や六代将軍家宣の正室、天英院らの勢力との対立だ。大奥では絵島が属する月光院側が優勢だった。そこで、この“絵島生島”事件が天英院側の勢力挽回策としてつくり上げられたのだ。いわゆる“正徳疑獄”と称されるものだ。したがって、通常でさえほとんど罪状としていないことを、針小棒大に表現、疑獄として構築された、あるいは事件としてでっち上げられた部分も少なくないだろう。対抗勢力に決定的なダメージを与えることに目的があるのだから、それも当然だ。

 事件は1714年(正徳4年)、絵島らが月光院の名代として上野寛永寺および芝増上寺に参詣した折、その帰途に木挽町の山村座に遊び、帰城が夕暮れに及んだことに端を発する。これにより、絵島は同僚、宮路ともども親戚に預けられ、目付、大目付、町奉行の糾問を受けることになった。このとき女中7人も押込(おしこめ)となっている。評定所の判決が下り、絵島は死一等を減じ遠流(おんる)とされ、月光院の願いによって高遠藩主、内藤清枚(きよかず)、頼卿(よりのり)父子に預けられることになり、身柄は信州高遠(長野県伊那市)に移された。罪状は、その身は重職にありながら、御使、宿下(やどさがり)のときにゆかりもない家に2晩も宿泊したこと、だれかれとなくみだりに人を近づけたこと、芝居小屋に通い役者(生島新五郎)と馴れ親しんだこと、遊女屋に遊んだこと、しかも他の女中たちをその遊興に伴ったこと-などだ。

 相手の生島は三宅島に流罪、絵島の兄の白井勝昌は死罪に処せられた。旗本、奥医師、陪臣など連座するものは多数に上り、刑罰も死罪、流罪、改易、追放、閉門などに及び、大奥女中は67人が親戚に預けられた。この後、絵島は高遠の囲屋敷で27年の歳月を過ごし、1741年(寛保1年)61歳の生涯を閉じ、生島はその翌年赦されて江戸に帰った。絵島の“禁断の恋”に擬せられた芝居見物の代償は何と大きかったことか。

(参考資料)杉本苑子「絵島疑獄」、平岩弓枝「絵島の恋」、山本博文「徳川将軍家の結婚」、安部龍太郎「血の日本史」、尾崎秀樹「にっぽん裏返史」

小野小町・・・六歌仙の一人で平安前期を代表する女流歌人

 小野小町は平安前期9世紀頃を代表する女流歌人。六歌仙・三十六歌仙の一人。生没年は809年(大同4年)ごろ~901年(延喜元年)。ただ、詳しい系譜は不明だ。系図集「尊卑分脈」によると、出羽郡司小野良真(小野篁の息子とされる人物。他の史記には全く見当たらない)の娘とされている。しかし、小野篁の孫とするならば、彼の生没年を考え合わせると、上記の年代が合わないのだ。

 「小町」は本名ではない。通称だ。「町」とはもともと仕切られた区画という意味。したがって、後宮に仕える女性だったことは間違いない。仁明天皇の更衣で、また文徳天皇や清和天皇の頃も仕えていたという説が多いが、それらは小野小町がその時代の人物である在原業平や文屋康秀と和歌の贈答をしているためだ。しかし、それ以上、詳細のことは分からない。

 小野小町は非常に有名だ。歴史には疎いという人でも名前だけは知っている。そして絶世の美人だったという。だが、確かな証拠は全くない。ただ伝説として有名な話がある。小野小町に深草少将という貴族が惚れて「おれの女になれ」と迫った。そこで、小野小町は「百日百夜私のもとに通って来てください。そうしたらいうことを聞きましょう」と答えたので、深草少将は毎日毎晩、風の日も嵐の日も通ったという。そして、99日目に疲労のあまり死んでしまった。現代風に表現すれば、さしずめ過労死してしまったというところだ。

 この伝説は何を物語っているのか。小野小町は、男に従うような素振りを見せて、結局死ぬほどひどい目に遭わせた、とんでもない女だというわけだが、逆に男に99晩も通わせるほど魅力のある女だったということだろう。
 歌風はその情熱的な恋愛感情が反映され、繊麗・哀婉・柔軟艶麗だ。「古今和歌集」序文において、紀貫之は彼女の作風を、「万葉集」の頃の清純さを保ちながら、なよやかな王朝浪漫性を漂わせているとして絶賛した。

 思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを
 花の色は移りにけりないたづらに 我が身世にふるながめせし間に

などの歌はよく知られているところだ。
 生まれには多数の説がある。秋田県湯沢市小野という説、福井県越前市とする説、福島県小野町とする説、茨城県新治郡新治村大字小野とする地元の言い伝えなど、生誕伝説のある地域は全国に点在している。京都市山科区小野は小野氏の栄えた土地とされ小町は晩年この地で過ごしたとの説もある。滋賀県大津市大谷にある月心寺内には、小野小町百歳像がある。栃木県下都賀郡岩舟町小野寺には小野小町の墓などがある。福島県喜多方市高郷町には小野小町塚があり、この地で病で亡くなったとされる小野小町の供養等がある。

米の品種「あきたこまち」や、秋田新幹線の列車の愛称「こまち」は彼女の名前に由来するものだ。

(参考資料)井沢元彦「歴史不思議物語」、井沢元彦「逆説の日本史」

幾松・・・幕末、桂小五郎を庇護し、体を張って支えた木戸孝允の妻

 幾松(いくまつ)は芸妓時代の名で、明治維新後、木戸孝允の妻となり「木戸松子」となった。幾松は文久年間以降、京都にあって桂小五郎が命の危険に晒されていた、最も困難な時代の彼を庇護し、文字通り体を張って必死に支え続けた。新選組局長近藤勇に連行され、桂の居場所を聞かれたこともあったと伝えられている。幾松の生没年は1843(天保14)~1886年(明治19年)。

 幾松は京都三本木(現在の京都市上京区三本木通)の芸妓として知られ、桂小五郎(後の木戸孝允)の恋人。幼少時の名は計(かず)もしくは計子(かずこ)。幾松=木戸松子の生い立ち、幼少期、芸妓時代に関しては諸説あり、定かではない。父は若狭小浜藩士、木崎(生咲)市兵衛(きざきいちべい)、母は三方郡神子浦の医師、細川益庵(ほそかわえきあん)の娘、末子。兄弟姉妹に関しても諸説あるが、磯太郎、由次郎、計、里など四男二女(または三女)あり、計は長女と思われる。

 嘉永元年ごろ、小浜藩に農民の騒ぎで奉行が罷免される事件があり、市兵衛もその際、職を辞し行方知れずとなった。母の末子は、男子は親戚に預け、計と里を連れ実家細川家を頼るが、5年後に京都加賀藩邸に仕える市兵衛の消息を知り、里だけを連れて京へ上り、ともに藩邸で暮らすことになった。市兵衛は生咲と改名していた。細川家に残されていた計は、魚行商人の助けにより独りで京へ向かい父母の元に無事たどり着き、一家四人で京都市中に借り住まいを始めた。しかし、まもなく市兵衛が病に伏し生活苦のため、計は口減らしに公家九条家諸太夫の次男、難波恒次郎のところに養女に出された。

 恒次郎は定職も持たず放蕩三昧で三本木の芸妓幾松を落籍して妻としており、実家に寄生するその日暮らしをしていたが、遊ぶ金が底をつくと計を三本木の芸妓にし、安政3年の春、14歳の計に二代目幾松を名乗らせた。
 嘉永7年、ペリー来航以来、尊皇攘夷、討幕を唱える勤皇志士たちが京に集まり、盛んに遊里を使うようになっていた。御所に近い三本木にも多くの志士が出入りし、その中に長州の桂小五郎もいた。そのころ幾松は笛と舞の名手で、美しく頭もいい名妓として評判になっており、桂と出会ったころにはすでに旦那もいたといわれ、桂は金と武力で奪い取ったという話もある。
二人の出会いは文久元年または2年ごろといわれる。幾松は実家と養家の生計を担っており、落籍には多大の金がかかったが、長州の伊藤博文の働きがあったようだ。このとき幾松20歳、桂は30歳だった。木屋町御池上る-に一戸を構え、桂の隠れ家としても使い、落籍後も幾松は芸妓を続け、勤皇志士のために宴席での情報収集に努めた。幾松のこうした同志的活動と内助の功があって、桂の長州藩におけるポジションも優位なものになっていったともいえよう。

 桂小五郎は長州藩主毛利敬親の命により、木戸貫治と改名し、その後、木戸準一、さらに維新後、孝允となった。幾松も松子と改め、長州藩士岡部利済の養女として入籍し、木戸と正式な夫婦となった。その後、木戸が明治政府の要人となるために明治2年、東京に移り住んだ。

(参考資料)南条範夫「幾松という女」、司馬遼太郎「幕末」

恵信尼・・・苦労を一身に背負い込み、親鸞の布教を支えた糟糠の妻

 恵信尼は浄土真宗の開祖・親鸞の妻。越後の豪族、三善氏の出。寿永元年(1182)誕生。建仁元年(1201)、親鸞との結婚生活に入る。確実な文献・記録はないが、残されている恵信尼の手紙などからみると、越後のような交通不便で文化の低いところでは不可能なほど高い教養を身につけていたのは、越後に九条家の荘園があって、それを管理していたのが三善氏という関係から考えて、京の関白・九条兼実の屋敷に上がっていたためと思われる。

 親鸞は戒を破って妻帯を公にした最初の僧だけに、非難中傷も多く、その結婚生活は苦難の連続だったと想像される。親鸞はおのれを語らなかった人で、史料は極めて少ない。その死後、恵信尼が娘の覚信尼に送った手紙十通が、大正10年に本願寺の宝蔵から発見されるまでは恵信尼はもちろん、親鸞の存在さえ長い間、疑問視されていた。ただ、それでも不明な点は依然として多い。

 親鸞と恵信尼の二人が知り合ったのが京都か越後か?ここでは流罪以前の京都説を取ったが、不詳だ。承元元年(1207)親鸞は越後の国府に流罪とされる。恵信尼は越後で一子をもうけ以後、流罪がとけた親鸞とともに、建保2年(1214)常陸国に移住、さらに数人の子をもうけた。親鸞・恵信尼一家は先妻の子、善鸞をはじめ、印信、明信、道性、覚信尼、小黒女房、高野禅尼の四男三女の七人までは確認されているが、それ以外にもいたという説もある。親鸞が寺を持たない主義だったから、恵信尼の苦労は並大抵のものではなかった。食うや食わずの生活が一生続いた。あまりの貧乏で使用人が逃げ出すほどの生活だった。

 最後に許されて京に戻ってからも、食えなくて何人かの子供が越後に移り、続いて恵信尼も夫や末娘の覚信尼と別れて越後・国府に戻らなければならなかった。親鸞82歳、恵信尼72歳のことだ。関東時代の弟子がお金を送ってきたといっても一家の生活を支えるには足りなかったようだ。その点、越後には三善家の相続財産である家や土地の管理などの問題もあるからではなかったか。ただ越後に帰ってからも、着るものもろくになかったようだ。

とはいえ、恵信尼は決して厭世的になることも、卑屈になることもない。京にいる覚信尼から着物を送ってもらって大変喜んで、「死出の旅の着物にする」と手紙を書いている。このときはもう80歳を過ぎている。貧窮の中でも、いつまでも女らしさを忘れない、とてもかわいい女性だった。家庭的な苦労をいっさい引き受けて、陰で夫の布教活動を支えた。そのうえ健康で、最後の子供を産んだのは42~43歳というバイタリティーのある人だったのだ。

 悲しみを誘うのは食べていけなくて、京の親鸞と別れて越後に帰ったまま、恵信尼は二度と夫に会うことがなかったという点だ。越後で親鸞の死の知らせが届いたとき、心を静めてから娘・覚信尼に宛てた手紙がある。痛切な、心に響きわたるような文面だ。

 恵信尼は晩年14~15年を越後で過ごし、親鸞の死後6年間存命、87歳で亡くなった。残された彼女の手紙の中で、87歳のときのものが最後だから、亡くなるその歳まで手紙を書いた、かくしゃくとした女性だった。

(参考資料)永井路子対談集「恵信尼」(永井路子vs丹羽文雄)、早島鏡正「親鸞入門」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」
              

お龍 日本で最初の新婚旅行をした坂本龍馬の妻

 坂本龍馬の妻、お龍は、正確には楢崎龍(ならさきりょう)といい、この時代の女性としては珍しいくらい自由奔放な性格だった。そんな女性を気に入り坂本龍馬は妻とした。二人は薩摩藩の重臣、小松帯刀の誘いで、薩摩藩の温泉に湯治を兼ねて旅行を楽しんでおり、これが日本で最初の新婚旅行だったといわれている。お龍の生没年は1841(天保12)~1906年(明治39年)。

 お龍は京都の町医師の楢崎将作の長女として生まれた。一般におりょう(お龍)と呼ばれることが多い。父の将作は青蓮院の侍医で、漢学を貫名海屋に学び、梁川星厳らの同門だった。また頼三樹三郎や池内大学らとも親密で、お龍が幼いときから行き来があり、彼女自身にも勤皇の思想が備わっていたと思われる。そんな父だっただけに、不幸なことに井伊直弼による安政の大獄に連座して捕らえられ、獄死している。

このため、お龍と母、そして幼い弟妹は生活に困窮。長女のお龍は家族を養うため旅館、扇岩で働いた。しかし、まもなく旅館を辞めて天誅組残党の賄いとなった。その後、天誅組が幕府の追討を受けると、各地を放浪するようになった

 このとき、坂本龍馬と出会い、龍馬から自由奔放なところを気に入られて愛人となり、その世話を受けて寺田屋に奉公することになった。1866年(慶応2年)、薩長同盟の成立を悟った新選組によって寺田屋が包囲されたとき、お龍は風呂に入っていたが、裸で飛び出して龍馬に危機を知らせて救ったとされる。

その直後に、中岡慎太郎の仲人、西郷隆盛の媒酌で二人は結婚し、小松帯刀の誘いで新婚旅行を楽しんだというわけだ。
 1867年(慶応3年)、夫の龍馬が中岡慎太郎とともに暗殺されたとき、お龍は下関の豪商・伊藤助太夫のもとにいたため、難を逃れた。龍馬の死後、三吉慎蔵が面倒をみていたが、1868年(慶応4年)にはお龍を土佐の坂本家に送り届けている。龍馬の姉、坂本乙女の元に身を寄せたが、まもなくそこを立ち去る。このとき龍馬からの数多くの手紙は坂本家とは関係のない二人だけのものとし、すべて燃やしてしまっている。

 その後、お龍は土佐から京へ行き、近江屋を頼ったり、また西郷隆盛や海援隊士を頼り東京に出たりした。転々としながら横須賀へ流れ、30歳のとき旧知の商人、西村松兵衛と再婚した。晩年はアルコール依存症状態で、酔っては「私は龍馬の妻だ」と松兵衛にこぼしていたという。龍馬、松兵衛いずれの夫との間にも子供はなかった。

 ただお龍は、信じ難いことだが、これだけ思いの深かった龍馬が何をしていたのか、ほとんど知らなかったという。龍馬は無条件に大好きだが、彼の業績には全く興味がなかったのだ。すべてを知るのは、明治政府から伝えられたときだったという。細かいことに捉われない、こんな女性だったからこそ、龍馬は気に入ったのだろうが、ここまでいくと同じときを過ごした男(龍馬)の立場からみると、少し寂しい思いがするのではないか。

(参考資料)司馬遼太郎「竜馬が行く」、宮尾登美子「天璋院篤姫」

和泉式部・・・為尊・敦道両親王との恋に身をやつした多情な情熱の歌人

 和泉式部の情熱的で奔放な恋の歌は、同時代の誰しもが認めるものだった。紫式部は『紫式部日記』で和泉式部について、彼女の口から出任せに出る歌は面白いところがあるが、他人の歌の批評などは全く頂けず、結局歌人としても大したものではないとけなしているが…。

 和泉式部が紫式部の持たない能力を持っていたことは確実だ。一口で言えば、恋の、もっと言えば好色の能力だ。紫式部は好色の物語『源氏物語』を書いたが、彼女自身、好色の実践者ではなかった。その点、和泉式部は見事なまでに好色の実践者だった。女性として好色の実践者であるためには、美しい肉体を持ち、自らも恋に夢中になるとともに、男を夢中にさせる能力が必要だろう。

 『和泉式部日記』は、彼女がどのように帥宮敦道(そちのみや あつみち)親王を彼女に夢中にさせたかの克明な記録だといってもいい。敦道親王は冷泉天皇の第四皇子だが、母は関白・藤原兼家の長女・超子で、優雅な風貌を持ち、時の権力者・藤原道長が密かに皇位継承者として期待を懸けていた親王だった。

 『和泉式部日記』はこの敦道親王が、その兄の故弾正宮為尊(だんじょうのみや ためたか)親王が使っていた童子を使いに立てて和泉式部に手紙を届けるところから始まる。和泉式部は為尊親王の恋人だったが、親王は式部らへの「夜歩き」がたたって、疫病にかかって死んだ。

その亡き兄の恋人で、好色の噂が高い和泉式部に好奇心を抱いたのだろう。こうして二人の間にはたちまちにして男女の関係ができ、やがて天性のものと思われる彼女の絶妙の手練手管によって、親王は遂に彼女の恋の虜となる。親王は、一晩でも男性なくして夜を過ごせぬ多情な彼女が心配で、和泉式部を自分の邸に引き取るのだ。だが、このことでプライドを大きく傷つけられた親王の正室が家出してしまうのだ。

 一夫多妻制の当時のことだけに、男性が同時に何人の女性と恋愛関係を持とうが、それは誰からも非難されるところではなかったが、女性の立場からみれば複雑だ。夫が外で恋愛関係を持った女性を自分の邸に引き取ることは、正室の女性にはショックで、それが家柄のいい女性の場合、やはり耐え難いことだったに違いない。

 『和泉式部日記』は親王の北の方(正室)が親王のつれない仕打ちに耐え切れず、親王の邸を出るところで終わる。和泉式部は完全な恋の勝利者になったわけだ。『栄華物語』は、世間を全くはばからない二人の大胆な恋のありさまを綴っている。衆知となった二人の恋も長くは続かず、敦道親王はわずか27歳で死んだ。和泉式部は30歳前後だったと思われる。

 当時、和歌に秀でていることは男性の場合、出世に大きく関わる才能でさえあった。天皇や高級官僚が主催する歌合(うたあわせ)では、その和歌の優劣が、その人の評価=出世につながることさえあったのだ。女性の場合も、今日のように外でデートできない時代のことだけに、和歌に対する素養や表現の仕方ひとつで、男性の心をわし掴みにすることもできたのだ。もっといえば、和歌の世界なら身分の差は関係なく、男女は五分五分だったのだ。

 和泉式部は生没年不詳。越前守、大江雅致の娘。996年(長徳2年)、19歳ぐらいでかなり年上の和泉守・橘道貞と結婚。夫の任国と父の官名を合わせて「和泉式部」の女房名をつけられた。夫道貞との婚姻は、為尊親王との熱愛が喧伝されたことで、身分の違いの恋だとして親から勘当され、破綻したが、彼との間にもうけた娘、小式部内侍は母譲りの歌才を示した。

 1008~1011年、一条天皇の中宮、藤原彰子に女房として出仕。40歳を過ぎた頃、主君彰子の父、藤原道長の家司で武勇をもって知られた藤原保昌と再婚し、夫の任国丹後に下った。恋愛遍歴が多く、道長から“浮かれ女”と評された。真情にあふれる作風は恋歌・哀傷歌などに最もよく表され、ことに恋歌に情熱的な秀歌が多い。その才能は同時代の大歌人、藤原公任にも賞賛され、男女を問わず一、二を争う王朝歌人といえよう。

 1025年(万寿2年)、娘の小式部内侍が死去した折には、まだ生存していたが、晩年の詳細は分からない。京都の誠心院では3月21日に和泉式部忌の法要が営まれる。

(参考資料)鳥越碧「後朝(きぬぎぬ)-和泉式部日記抄」、梅原猛「百人一語」

お市の方・・・二度の落城・夫の切腹に立ち会った、淀君らの母

 戦国時代に生きた女性は、いずれも決まったように政略結婚の道具にされ、運命にもてあそばれて生涯を閉じているが、織田信長の妹、「お市の方」もその一人といえる。
しかし、お市の方は、後の歴史に名を残す立派な姫君を産んでいる。後に豊臣秀吉の側室となる茶々(淀君)をはじめ、幾度も政略結婚の犠牲となって、最終的には徳川秀忠に嫁いで徳川家光や千姫を産むお江(ごう)、それに京極高次に嫁いだお初(はつ)の三人姉妹の母なのだ。このお市の方がいなかったら、秀頼も生まれない、家光も存在しないことになるわけで、ずいぶん歴史は変わっていたことだろう。

また、お市の方は二人の男の子を産んでいる。ただ、敗将・浅井長政との間の子だっただけに、不幸な運命をたどり、長男の万福丸は殺害され、二男の万寿丸は出家させられた。
 お市は戦国時代の女性だが、生年は1547年(天文16年)(?)と定かではない。没年は1583年(天正11年)。市姫とも小谷の方とも称される。『好古類纂』収録の織田家系譜には「秀子」という名が記されている。父は織田信秀、信長の妹。

18歳で近江・小谷山城主、浅井長政に嫁ぎ、そして36歳のとき兄信長が本能寺で明智光秀に殺された後、信長の重臣の一人、25歳も年上の柴田勝家と再婚した。しかし、二度とも男の論理によって引き起こされた合戦の結果、落城と夫の切腹という悲惨な状況に立たされた。
二度目の越前北ノ庄城落城の際、お市の方は遂に生き抜くことの悲しみに絶えかね、勝家と運命をともにする。しかし、三人の娘だけは道連れにせず、秀吉のもとへ送り届けている。このとき詠んだのが次の辞世だ。

 さらぬだに うちぬるほども 夏の夜の 夢路をさそふ ほととぎすかな
 越前北ノ庄城での合戦の際の敵は秀吉だ。秀吉はお市の美しさに惹かれていたという説がある。落城のとき夫・勝家が勧めたように、城を出て生き延びようと思えば生きられたはずだが、なぜか夫に殉じて死を選んでいる。

戦国時代でも一番の美女と賞され、さらに聡明だったとも伝えられ、兄信長にもかわいがられたお市の方の生涯。私欲のため美貌を売り物ともせず、三度同じような流転の生涯をたどることをきっぱりと拒否したきれいな生き方には、とてもさわやかなものを感じさせられる。

 ただ近年、お市の方の出自に?が付けられ、彼女は信長の実の妹ではなかったのではないかとの説が出されている。実は信長とお市は男女の関係にあり、信長がお市の嫁ぎ先の浅井長政のもとを訪ねた折の、様々な不自然な行動などが槍玉に挙げられている。その後、信長が浅井長政を攻めた際のお市の対応も、少し不自然な部分があるとか、確かな論拠には欠けるが、不可思議な点があるのだ。いずれにしても、お市の方は越前北ノ庄城で夫・柴田勝家とともに紅蓮の炎の中で、その生涯を閉じたことは確かだ。

(参考資料)永井路子対談集「お市の方」(永井路子vs円地文子)、司馬遼太郎「巧名が辻」

今川寿桂尼・・・今川義元を育てた女戦国大名

 今川寿桂尼は今川氏の七代目、今川氏親の妻だった。これはもちろん、夫氏親が大永6年(1526)に病没してしまった後、髪をおろし出家してからの名前だ。残念ながら、それ以前の彼女の名前は分からない。

 今川氏は足利氏からの分かれだ。足利氏から吉良氏が出、吉良氏から今川氏が出ている。初代今川範国が南北朝内乱の時代、足利尊氏にしたがって各地で戦功を上げ、しかもその過程で兄弟5人中、出家していた1人を除き、範国以外全員討ち死にしてしまったため、兄たちの恩賞も全部含まれて、駿河・遠江二カ国の守護に任命され、引付頭人といった幕府の要職にも就いた。その後、遠江の方は三管領の一家の斯波氏にとって代わられたが、以来十代目の今川氏真が武田信玄、徳川家康に攻められて滅びるまで、およそ230年余にわたって東海地域に覇を唱えた名門中の名門だ。

 寿桂尼は、京都の公家中御門宣胤の娘だった。中御門氏は甘露寺氏や万里小路氏などと同様、藤原北家勧修寺派の一つで、鎌倉時代の後期に坊城家より分かれたもの。寿桂尼の父中御門宣胤は権大納言になっており、権大納言のお姫様が地方の戦国大名に嫁いだというわけだ。

とはいえ、京都の公家が応仁の乱後、生活が困窮して経済援助が期待できるなら、どんな家にでも嫁がせるというわけではなかった。落ちぶれたとはいえ、京都の公家もそれなりの家格はみていたのだ。その点、今川氏は代々、京都志向が強く、今川了俊・今川範政など文化面で業績を残した人物も輩出した、教養の高い文化人大名として知られていた。中御門宣胤が娘を氏親に嫁がせたのはこうした点を踏まえたうえでのことだったのだろう。

彼女が氏親といつ結婚したのか分からない。永正10年(1513)に長男氏輝を産み、同16年(1519)には五男の義元を産んでいる。氏親には、はっきりしているだけで6人の男子、4人の女子がいたが、そのうち何人が寿桂尼の子で、何人が側室の子かは分からない。五男義元が生まれて少しして、一つのアクシデントに見舞われる。氏親が中風になってしまったのだ。大永元年(1521)頃のことだ。氏親51歳、寿桂尼の30代前半のこと。これは、結果的に彼女にプラスになることだった。病床に就いた夫を手助けしながら、実地に「政治見習」をすることができたからだ。

戦国大名今川氏といえば分国法、すなわち戦国家法の「今川仮名目録」が有名だ。これについても重要な役割を果たしたようだ。夫氏親の死が近いことを悟った寿桂尼が中心になってこの策定作業をしたのではないかとみられる。この「今川仮名目録」が制定された大永6年(1526)4月14日から、わずか2カ月後の6月23日、氏親は死んでいるのだ。そして、氏親の死後、形の上では後を子の氏輝が継いだことになっているが、それから2年間、実質的に今川家の当主は寿桂尼だったという。

氏輝にやっと政治を任せられるようになったと思った矢先、その氏輝が24歳の若さで死んでしまったのだ。氏輝は結婚していなかったらしく、子供もいなかった。そこで、夫と一所懸命築き上げた今川家を、寿桂尼は自分の産んだ子に後を継がせるべく差配する。義元より年上の玄広恵探を推すグループとの家督争いでこれを退け、義元を第九代当主の座に就けるのだ。京都の公家のお姫様だった彼女が、さながら“女戦国大名”として見事に力を発揮したわけだ。

(参考資料)小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

お江与・・・3度目の嫁ぎ先で徳川二代将軍秀忠の正室の座射止める

 お江与は、度々女としての不幸に出くわしながら、幸運にも3度目の嫁ぎ先で後世に広く知られる存在となった。徳川二代将軍秀忠夫人、正室の座を射止めたのだ。とはいえ、この結婚、全くのシンデレラ・ストーリーというものではない。それは彼女自身の血筋が良かったから可能だったといえる。彼女は、豊臣秀吉の側室となり、権勢を誇った淀君の二人目の妹なのだ。

 お江与は1573年、近江小谷城主・浅井長政と織田信長の妹、お市の方との間に生まれた。上に兄・万福丸、姉・茶々、初の二人がいた。彼女は江(幼名=ごう)、達子(みちこ)、徳子、小督(こごう)など、多くの名で呼ばれている。母お市の方は、当時のミス日本ともいうべき美貌の持ち主だったほか、姉の茶々もそれに劣らぬ美人だったようだ。だが、お江与には美人だったという言い伝えも史料も全く残っていない。

 冒頭でお江与は度々不幸に出くわしたと述べたが、それはもう尋常なものではない。父の死、母の死、夫の死なのだ。既述の通り、父は小谷城の主、浅井長政、母はお市の方だ。彼女の悲劇は物心つくかつかないうちに始まった。父の居城・小谷城が、母の兄織田信長に攻められて落城。父は自刃、母とともに彼女は信長に引き取られた。ところが、その信長が「本能寺の変」で明智光秀に殺され、庇護者を失った母は柴田勝家と再婚。それに従って越前へ行くが、今度はその勝家が豊臣秀吉に攻められて敗死し、母も世の無常を感じ遂に勝家に従って自害してしまったのだ。

父も母も失い孤児となった三姉妹のうち、初めに縁談がまとまったのが、姉茶々に比べると器量のよくなかったお江与だった。16歳のときのことだ。彼女の最初の夫は尾張の小大名、佐治与九郎一成だった。彼女の伯母、お犬(お市の姉)が佐治家に嫁いでもうけた子だから、従兄にあたる。この縁組をまとめたのは羽柴秀吉だ。彼はこの後、お江与のすぐ上の姉のお初と京極高次の縁談もまとめている。つまり、秀吉の狙いは茶々を手に入れることで、茶々の周りの妹たちが邪魔だったのだ。

 そんな秀吉の魂胆はさておき、お江与は大名の格としては三流でも、マイホーム型の良き亭主、与九郎との間で愛を育み、幸せなときを過ごし、見違えるような「女」に成熟したようだ。だが、皮肉にもその変貌した美しさのために、彼女の不幸が始まる。その頃、姉の茶々は秀吉夫人となって秀頼を産んでいる。そのお祝いも兼ね、茶々を訪ねたお江与は、秀吉にも久しぶりに対面した。その道にかけては抜け目のない秀吉は、どうにかしたいものと考え、密かに佐治与九郎に離婚を命じる。しかし茶々の手前、自分の側室にすることは無理と判断した秀吉は、甥の羽柴秀勝の妻にしてしまう。この強引な離婚は、お江与本人の知らぬ間に進められ、有無をいわさず秀勝の妻にされてしまったというのが実態だったようだ。ともあれ、彼女はいまや関白さまの甥の妻となったのだ。ただ、この結婚は彼女に幸せをもたらしはしなかった。新しい夫の秀勝が朝鮮戦役に出陣して1592年、彼の地で亡くなったのだ。20歳ぐらいの年齢で、二度目の夫にも死別するという夫運の悪さだ。

 そこで、またも秀吉は彼女の嫁入り口を探し出す。今度の相手はライバル徳川家康の嫡男・秀忠だった。秀勝の死後3年経った1595年(文禄4年)お江与は秀忠に嫁した。この結婚は茶々(=淀君)の妹という身分を最大に政治的に利用した、実力者・徳川家との婚姻政策だったことは間違いない。
それにしてもこの結婚は世にも奇妙な組み合わせだった。新婦のお江与は23歳で二回離別の身だったのに、新郎は初婚の、それもたった17歳の少年だった。一見、不似合いな結婚は彼女に幸せをもたらした。関ケ原、大坂の陣での豊臣方の敗北と徳川方の勝利。姉の茶々(=淀君)の無残な死と引き換えに、彼女はトップレディーにのしあがるのだ。そして、いま一つ幸運だったのは夫の秀忠が、徳川歴代将軍の中で異例ともいえるカタブツだったことだ。

 徳川家に嫁してからお江与は千姫(豊臣秀頼夫人)、子々(ねね)姫(または珠姫)、勝姫、初姫と女子ばかり産んだが、1604年(慶長9年)、結婚10年目にしてようやく嫡子を産む。これが三代将軍家光だ。その後もお江与は秀忠との間に次男忠長、五女和子を産んでいる。この和子が後水尾天皇に嫁ぎ、後の明正天皇を産み、徳川家と天皇家を結ぶ絆になっている。お江与は出家した後、崇源院となり、1626年(寛永3年)江戸城で没。54歳だった。

(参考資料)永井路子「乱紋」、永井路子「歴史をさわがせた女たち 日本篇」

右京大夫 私家集で二人の男性との恋を公表した文学者

 正式には、建礼門院右京大夫はその名の通り、後白河法皇の子・高倉天皇の中宮、建礼門院平徳子に右京大夫として仕えた女性だが、終生、建礼門院徳子の側に仕えていたわけではない。そして彼女の本性は、「建礼門院右京大夫集」の私家集に表れている。当時、隆盛の平家一門の貴公子、平資盛、そして歌人・画家として有名な藤原隆信という二人の男との恋に生きた、情熱的な文学者だった。

 右京大夫は1157年(保元2年)頃に生まれ、平安時代末から鎌倉時代初期にかけての活躍し、1233年ごろ没。父は藤原伊行、母は大神基政の娘で箏の名手である夕霧。1173年(承安3年)、高倉天皇の中宮、建礼門院徳子に右京大夫として出仕。しかし、中宮の甥・平資盛との恋や平家一門の没落などもあって、6年足らずで辞している。そして資盛の死後、供養の旅に出たという。

 傷心が癒えたものか、1195年(建久6年)頃、後鳥羽上皇に再び出仕、その生母、七条院と合わせ20年以上仕えた。建礼門院のもとを辞してから再出仕するまでの16年ほどの間、彼女は私家集に収められた歌を詠み、恋の追憶に浸っていたということなのだろう。

 彼女の私家集「建礼門院右京大夫集」は鎌倉時代初期に成立した歌数約360首を収めた作品。前半は源平の戦乱が起こる以前、1174年(承安4年)のできごとに起筆。中宮のめでたさや平家の栄華を讃えながら、年下の貴公子、平資盛との恋愛を主軸に据え、花をめで、月を愛し、優雅な歌を交わす耽美的な生活を描く。また、歌人・画家として有名な藤原隆信とも交渉を持った経過を述べている。
後半は耽美的な生活が突然崩れ、1183年(寿永2年)、一門とともに都落ちする資盛との別離に始まる。この運命の変化を彼女は、「寿永元暦などの頃の世のさわぎは、夢ともまぼろしとも、あはれともなにとも、すべてすべていふべききはにもなかりしかば、よろづいかなりしとだに思ひわかれず、なかなか思ひも出でじとのみぞ、今までもおぼゆる」 と表現する。

それは「夢とも幻とも、哀れとも何とも言うべき言葉もないありさまであり、どうなっていくのか分からない、思い出したくもないこと」だった。彼女は夢とも幻とも言えないと表現するが、それは夢でも幻でもなく、まさに現実そのものだった。 

源氏との戦いに敗れた平家の滅亡に殉じて、資盛が壇ノ浦の海の藻屑と消えた後、ひたすらその追憶に生きた日々を描いている。
 現代風に表現すれば、これはまさに大評判を呼ぶ“告白本”といえよう。

(参考資料)梅原猛「百人一語」

大浦 慶・・・亀山社中の面倒をみた女商人,前・後半生で明暗を分けた人生

 大浦慶(お慶)は、長崎で若くして大胆にも外国貿易商と組んで茶商となり、とくに対米輸出で大成功を収め、有数の茶商としての地位を築いた。その後、お慶はその財力と美貌で多くの勤皇志士と親交を深め、とりわけ坂本龍馬率いる亀山社中の面倒をみたといわれる。そんな充実した日々から一転、騙されて3000両(現在の貨幣価値にして3億円)もの借財を背負った後半生は、どんなにか悲惨なものだったに違いない。前半生と後半生、きれいに明暗を分けたドラマチックな人生の一端をみてみたい。

 文政11年、シーボルト事件が発覚した年、お慶は長崎の町人で中国人相手の貿易商だった油屋、太平次の一人娘として生まれた。16歳のとき大火で店が焼けるが、すでに父は亡く、店の再興のために翌年、幸次郎を婿養子に迎える。この幸次郎という人物、番頭だったとも、蘭学修行にきていた書生ともいわれるが、定かではない。そんな婿養子だったが、お慶はこの幸次郎が気に入らず、祝言の翌日追い出してしまったという。

 当時、日本は鎖国下にあり、禁を破れば死刑も免れない。しかし、嘉永6年、お慶は出島のオランダ人に頼み、茶箱に詰め込まれ、インドに密航したという話が残されている。お慶の後世の出世により生まれた作り話との説もあるが、お慶自身も晩年、上海への密航の話を語っていたという。いずれにせよ、お慶は外国貿易商と組んで茶商となり、中国の動乱に紛れて日本の茶を輸出しようとして、国際流通に目を向けたことは確かだ。嘉永6年、長崎出島に在留するオランダ人テキストルに頼んで、嬉野茶の見本を英・米・アラビア3国に送ってもらった。お慶26歳のときのことだ。

 3年後、英国の商人オルトがお慶の前に現れ、12万斤(72トン)ものお茶を注文した。お慶は嬉野だけでは賄いきれず、九州全土を走り回り、その3年後、安政6年、長崎港からアメリカへ初のお茶輸出船が出航する。このときにお慶が集めた茶はやっと1万斤だったが、それでも大成功を収めたこととなり、お慶の茶商としての地位は築かれた。

 この時期、長崎には多くの志士が集まってきており、お慶はその財力と美貌で多くの勤皇志士と親交を深め、資金援助に奔走し、志士たちの面倒をみた。彼女が一番世話したのが坂本龍馬率いる亀山社中(後の海援隊)の若者たちだったといわれる。このころがお慶の人生の絶頂期だったのかも知れない。

 維新後、志士たちは長崎から姿を消し、お慶もめっきり寂しくなった。ぽっかりと胸に穴が開いたような気持ちに包まれていた、そんなとき、熊本藩士遠山一也が現れる。遠山はお慶に巧みに取り入り、オルトとタバコの売買契約を結ぶ。そして手付金を受け取ると、彼は姿をくらましてしまったのだ。遠山は輸入反物の相場に失敗し借金返済のために、お慶を騙したのだ。保証人になっていたお慶は家を抵当にこの3000両、いまでいえば3億円もの借財を被り、膨大な裁判費用まで払う破目になった。結局、お慶は明治17年、57歳で亡くなるまでにこの借財をすべてきれいに返済していたという。膨大な金額だけに、全く見事としかいいようがない。

 若くして才気立っていろいろな仕事をし、志士たちを助けたが、明治の元勲となった者たちからの見返りもなく、借財を払って終わった人生だった。だが、その起伏に富んだ、ドラマチックな生きざまは魅力にあふれている。
 明治になって元米国大統領グラント将軍来日の際は、事業の失敗にもかかわらず、お慶は長崎県の名士の一人として、長崎県令とともに軍艦に招待されたという。

(参考資料)白石一郎「江戸人物伝 女丈夫大浦お慶の商才」

加賀千代女・・・芭蕉門下の各務支考に認められ全国に名が知れ渡る

 加賀千代女(かがのちよじょ)は、江戸時代中期の女流俳人だ。代表的な句の一つ、「朝顔に つるべ取られて もらい水」など、朝顔の句を多く詠んだことで知られている。
千代女の出身地の松任市(現在の白山市)では、市民への推奨花の一つに朝顔を選んでいる。千代女の生没年は1703(元禄16)~1775年(安永4年)。

 加賀千代女は加賀国松任で、表具師、福増屋六兵衛の長女として生まれた。号は草風。法名は素園。千代、千代尼などとも呼ばれる。母方の実家は町方肝煎の村井屋で、当時の松任御旅屋文書には村井屋小兵衛の署名捺印が多く残っており、福増屋も比較的恵まれた家庭だったと推察される。白山市中町の聖興寺に遺品などを納めた遺芳館がある。

 千代女は幼いころから、一般の庶民にもかかわらず、俳諧を嗜んでいたという。石川郡誌によると、12歳のころには本吉町(現在の美川町)の町方肝煎を務めていた北潟屋半睡(大睡)に師事したと伝えられている。

17歳のころ諸国行脚をしていた人に、松尾芭蕉門下の各務支考(かがみしこう)が諸国行脚して、ちょうどここにきていると聞き、各務支考がいる宿を訪ねた。このことが、その後の彼女の生き方を決めることになる。

千代女はそこで、弟子にさせてくださいと頼むと「さらば一句せよ」と、ホトトギスを題にした俳句を詠むよう求められた。彼女は、俳句を夜通し詠み続け、「ほととぎす郭公(ほととぎす)とて明けにけり」という句で、遂に各務支考に才能を認められた。そのことから、千代女の名を一気に全国に広めることになり、彼女は生涯にわたり句作に励むことになった。

 1720年(享保5年)、18歳のとき、神奈川大衆免大組足軽、福岡弥八に嫁いだ。このとき「しぶかろか しらねど柿の 初ちぎり」という句を残した。しかし20歳のとき、不運にも夫に死別し、松任の実家に戻った。
30歳のとき京都で中川乙由(なかがわおつゆう)に会った。画を五十嵐浚明に学んだ。52歳のときに剃髪し、素園と号した。72歳のとき、与謝蕪村の「玉藻集」の序文を書いた。1775年(安永4年)、73歳で没したが、そのとき「月も見て 我はこの世を かしく哉」の辞世の句を詠んでいる。
 生涯で1700余の句を残したといわれ、句集『四季帖』『千代尼句集』『松の声』などがある。代表的な句に

○朝顔に つるべ取られて もらい水
 (35歳のとき、「朝顔や」と詠み直されている)
○月も見て 我はこの世を かしく哉
○蜻蛉釣り 今日は何処まで 行ったやら
○起きて見つ 寝て見つかやの 広さかな
などがある。

 千代女の郷里、白山市では今も俳句が盛んで、同市で開催される「全国俳句セミナー」や「千代女全国俳句大会」には日本中から多くの俳句愛好者が訪れる。

(参考資料)ホームページ「千代の里 俳句館(石川県白山市殿町)」ほか

元正天皇・・・独身で即位した初の女性天皇 中継ぎ以上の務めを全う

 第四十四代・元正天皇は日本の5人目の女帝だが、あまりにも“中継ぎ”の天皇が強調されて、最も知名度は低いかも知れない。だが、それまでの女帝が皇后や皇太子妃だったのに対し、彼女には結婚経験はなく、独身で即位した初めての女性天皇だった。また、歴代天皇の中で唯一、母から娘へと女系での継承が行われた天皇でもある。但し、父親は男系男子の皇族、草壁皇子のため、男系の血統は維持されている。元正天皇の生没年は680(天武天皇9)~748年(天平20年)。

 元正天皇の父は草壁皇子(天武天皇と持統天皇の子)、母は元明天皇。25歳の若さで亡くなった文武天皇(第四十二代天皇)の姉。即位前の名は氷高皇女(ひたかのひめみこ)。
歴史に「たら」「れば」をいってみても仕方がないのだが、それを承知で敢えていわせてもらうなら、文武天皇があと15~20年健在だったら、後を継いだ母・元明天皇、そして姉・元正天皇、両天皇の時代は完全に存在しなかっただろう。文武天皇は25歳で亡くなっているから、あと20年生きていてもまだ45歳。だから、十分あり得る推論なのだ。

 ところが、氷高皇女は弟、文武天皇の子、首皇子(おびとのみこ、後の聖武天皇)がまだ幼かったため、母・元明天皇から譲位を受け、即位し元正天皇となったのだ。皇室が求める「不改常典(ふかいのじょうてん)」の論理と藤原不比等らの政治的思惑とが相互に作用して、一見強引とも思える母から娘への皇位継承が円滑に行われたようだ。

 中継ぎの天皇といっても、この元正天皇は19年間の在任期間に、朝廷の中核的存在だった藤原不比等と折り合いをつけ、大過なく務めている。717年(養老元年)、藤原不比等らが中心となって「養老律令」の編纂を始め、翌年編纂業務を完了している。720年(養老4年)に『日本書紀』が完成。また、この年に藤原不比等が亡くなっている。

そこで翌721年(養老5年)、長屋王が右大臣に任命され、事実上政務を任され、長屋王政権を成立させている。長屋王は元正天皇のいとこにあたり、また妹・吉備内親王の夫だった。それだけに、元正天皇にとって心強い政権の誕生だった。それも、朝廷の中核、藤原不比等がなくなったからこそ、遂に実現したのだ。ちなみに、不比等亡き後、藤原氏の朝廷内の布陣は長男の武智麻呂(むちまろ)は中納言、次男房前(ふささき)はまだ参議だった。

 豪族の土地所有を否定した律令制度の導入によって「公地公民制」へ転換、実現されるはずだったが、現実には様々な問題があり、崩壊の兆しをみせ始めていた。723年(養老7年)制定された「三世一身法(さんぜいっしんほう)」がそれだ。これは田地不足を解消するため、新しい灌漑施設を伴う開墾地は3代、旧来の灌漑施設を利用した開墾地は本人1代のみ私有を認める-というものだった。これによって開墾は進んだが、いずれは国に土地を返さなければならないため、農民の墾田意欲を増大させるには至らなかった。

 724年(神亀元年)元正天皇は皇太子・首皇子(聖武天皇)に譲位し、上皇となった。中継ぎ天皇ならここで務めは終わるはずだった。ところが、元正上皇の場合、退位後、20年近くも経ってから、その役割を果たさなければならない時期が到来した。聖武天皇が病気勝ちで職務を行えなくなったこと、あるいは平城京から、恭仁京(くにきょう)、紫香楽京(しがらききょう)、難波京(なにわきょう)と目まぐるしく遷都、行幸を繰り返すなど、情緒不安定だったためで、上皇は聖武天皇に代わり橘諸兄・藤原仲麻呂らと政務を遂行していたとみられる。

(参考資料)永井路子「美貌の大帝」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、黒岩重吾「天風の彩王 藤原不比等」

川上貞奴・・・明治の元勲たちからひいきにされた日本一の芸妓

 日舞の技芸に秀で、才色兼備の誉れが高かった川上貞奴(かわかみさだやっこ)は、時の総理、伊藤博文や西園寺公望など名立たる元勲からひいきにされ、名実ともに日本一の芸妓となった。自由民権運動の活動家で書生芝居をしていた川上音二郎と結婚した後、アメリカ興行に同行した彼女は、一座の女形が死亡したため、急遽、代役を務め、日本初の“女優”となった。欧米各地で公演を重ねるうち、エキゾチックな日本舞踊と貞奴の美貌が評判を呼び、瞬く間に欧米中で空前の人気を得たという。川上貞奴の生没年は1871(明治4)~1946年(昭和21年)。

 川上貞奴は東京・日本橋の質屋、越後屋の12番目の子供として生まれた。本名は川上貞(旧姓小山)。生家の没落により、7歳のとき葭町の芸妓置屋「浜田屋」の女将、浜田屋亀吉の養女となった。伝統ある「奴」名をもらい、「貞奴」を襲名。芸妓としてお座敷にあがり、多くの名立たる元勲のひいきを受け、名実ともに日本一の芸妓といわれた。

 そんな貞奴が1894年、自由民権運動の活動家で書生芝居をしていた川上音二郎と結婚した。しかし、当初は苦労も多く、夫の音二郎が二度も衆議院選挙に落選したことで、資金難に陥った。貞奴にしてみれば明らかに想定外のことだったに違いない。

 日の当たる場所から身を引いた貞奴だったが、どういうめぐり合わせかスポットライトを浴びるときがくる。1899年、貞奴は川上音二郎一座のアメリカ興行に同行、サンフランシスコ公演で女形が死亡したため、急遽この代役を務めることになったのだ。日本初の“女優”の誕生だ。ところが、ここで思いもかけない不幸が一座を襲う。公演資金を興行師に全額持ち逃げされるという事件が発生し、一座は異国の地で無一文の状態を余儀なくされた。一行は餓死寸前で次の公演先シカゴに必死で到着。極限の疲労と空腹での鬼気迫る演技が観客に大うけしたのだ。何が幸いするか分からない。

 1900年、音二郎一座はロンドンで興行を行った後、その同年パリで行われていた万国博覧会を訪れ、会場の一角にあったロイ・フラー劇場で公演を行った。7月4日の初日の公演には彫刻家のロダンも招待されていた。ロダンは貞奴に魅了され、彼女の彫刻を作りたいと申し出たが、彼女はロダンの名声を知らず、時間がないとの理由で断ったという逸話がある。

 8月には当時の大統領エミール・ルーベが官邸で開いた園遊会に招かれ、そこで「道成寺」を踊った。踊り終えた貞奴に大統領夫人が握手を求め、官邸の庭を連れ立って散歩したという。こうして彼女は「マダム貞奴」の通称で一躍有名になった。パリの社交界にデビューした貞奴の影響で、着物風の「ヤッコドレス」が流行。ドビュッシーやジッド、ピカソらは彼女の演技を絶賛し、フランス政府はオフィシェ・ダ・アカデミー勲章を授与した。1908年、後進の女優を育成するため、音二郎とともに帝国女優養成所を創立した。1911年、音二郎が病で死亡。遺志を継ぎ公演活動を続けたが、演劇界やマスコミの攻撃が激化。ほどなく貞奴は大々的な引退興行を行い「日本の近代女優第一号」として舞台から退いた。

 福澤諭吉の娘婿で、「電力王」の異名をとった福澤桃介(旧姓岩崎)との関係も話題を呼んだ。長い別離を挟み結ばれた二人は、仲睦まじく一生を添い遂げた。

(参考資料)小島直記「まかり通る」、小島直記「人材水脈」

建礼門院徳子・・・安徳天皇の国母で平家滅亡後、一門の菩提弔う

 建礼門院徳子は、平家の天下を一代で築き上げた太政大臣・平清盛と、桓武平氏の宗家(堂上平氏)の娘・平時子(清盛の死後の二位の尼)の間の娘(次女)で、高倉天皇の中宮、安徳天皇の母だ。壇ノ浦で源氏との戦いに敗れ平家一門は滅亡し、母の二位の尼や安徳天皇は入水。ところが、徳子は生き残り京へ送還され、尼になり、大原寂光院で安徳天皇と一門の菩提を弔って余生を終えた。59歳だった。

 保元の乱、平治の乱に勝利して、武家(軍事貴族)ながら朝廷内で大きな力を持つようになり、平氏政権を形成した父の清盛の意思で、藤原氏と同様、天皇の外戚となるため、1171年(承安元年)17歳の徳子は11歳の高倉天皇のもとに入内、中宮となった。清盛は徳子のほかに8人の娘があったが、いずれも権門勢家に嫁がせて勢力を強めていった。入内7年後の1178年(治承2年)24歳になった徳子は安徳天皇を産み、国母と称された。

 清盛は皇子降誕を心待ちにしていたが、皇子が誕生すると今度は早く即位させようと躍起になった。一方、後白河院は自身退位後、二条天皇、六条天皇を立てて傀儡化し、強大な力で院政を敷いていた。しかし、この院政も次第に平氏の台頭により大きな制約を受けることになった。

 1179年(治承3年)、清盛はクーデターを断行し高倉天皇の父、後白河法皇の院政にとどめを刺し、天皇は譲位し上皇となり、安徳天皇はわずか3歳にして即位した。しかし、実父の後白河法皇と岳父、清盛との確執や福原への遷都、平氏による東大寺焼き討ちなどが続き、こうした心労が重なって、高倉上皇は病床に伏し1181年(養和元年)、21歳の若さでこの世を去ってしまう。

 その後、建礼門院徳子は源氏に追われ都落ちする平家一門とともに生きながら、数々の苦しみを経験する。壇ノ浦では硯石や焼石(カイロ代わりの石)を懐に詰めて後を追うが、そばの船にいた源氏の武者に熊手で髪をからめられ、助けられる。源氏に捕われの身となってから、髪を落として、京都の大原にある寂光院に隠棲した。1186年、後白河法皇の大原御幸があり、法皇と親しく対面。この後、それまでの波乱万丈の生涯とはうって変わって、ひたすら平家一門の菩提を弔う静かな生活を続けたといわれる。

 それにしてもこの徳子、周知の通り悲劇のヒロインとして人気がある。清盛の野望の犠牲者とも考えられるが、ほとんど何も自分ではせず、自分の意思というものがあったのかどうか分からない。結婚生活をみても、子づくりには執着せず、成長した高倉天皇が他の女性に子供をつくってしまう。最初の相手は30歳の乳母で、次が小督局。驚くことに小督を天皇に薦めたのは徳子だといわれている。自分の夫が他の女性と浮気し、子供をつくっても平気だとは、とても考えられない話だ。高倉天皇が亡くなったときも徳子は嘆き悲しんだ様子がうかがわれない。彼女には愛というものが希薄だったことは間違いない。

(参考資料)対談集 永井路子vs 福田善之 

川島芳子・・・清朝皇族の血ひく、日中双方で人気の“男装の麗人”

 川島芳子(本名・愛新覚羅顯●<王偏に子、以下同>)は清朝の皇族・粛親王の第十四王女だが、日本人の養女となった。日本では“男装の麗人”としてマスコミに取り上げられ、新しいタイプのアイドルとして、ちょっとした社会現象を巻き起こした。日本軍の工作員として諜報活動にも従事し、第一次上海事変を勃発させたともいわれたため、戦後まもなく中華民国政府によって「漢奸」として逮捕され、銃殺刑に処された。だが、処刑された遺体が実際に芳子だったのか、謎や疑問点も少なくない。そのため、日中双方での根強い人気を反映して、現在でも生存説が流布されている。

 川島芳子の字は東珍、漢名は金璧輝、俳名は和子。他に芳麿、良輔と名乗っていた時期もある。川島芳子の生没年は1907~1948年。愛新覚羅氏は満州(中国東北部)に存在した建州女真族の一部族名で、中国を統一し清朝を打ち立てた家系。アイシンとは彼らの言葉で「金」を意味する。清朝滅亡後、愛新覚羅氏の多くが漢語に翻訳した「金」姓に取り替えた。清朝建国にあたってとくに功績の大きかった八家が他の皇族とは別格とされ、八大王家(のちに四家が加わり十二家に)と呼ばれた。川島芳子もこの八大王家の中から出た女性だ。

 中国で1911年、辛亥革命が起こり、1912年、宣統帝(愛新覚羅溥儀)が退位。袁世凱を臨時大総統とする共和制国家「中華民国」が建国されたのに伴い、袁世凱の政敵でもあった粛親王が北京を脱出。日本の租借地だった関東州旅順に、家族とともに亡命した。旅順では粛親王一家は関東都督府の好意により、日露戦争で接収した旧ロシア軍官舎を屋敷として提供され、幼い顯●も日本に養女にいく前の一時期をそこで過ごした。この際、一家亡命の橋渡し役を務めたのが、粛親王の顧問だった川島浪速だ。

粛親王が復辟運動のために、日本政府との交渉人として川島浪速を指定すると、川島の身分を補完し、両者の親密な関係を示す目的で、顯●は川島浪速の養女となり芳子という日本名が付けられた。
 1915年に来日した芳子は当初、東京・赤羽の川島家から豊島師範付属小学校に通い、卒業後は跡見女学校に進学した。やがて川島の転居に伴い、長野県松本市の浅間温泉に移住し、松本高等女学校(現在の長野県松本蟻ヶ崎高等学校)に聴講生として通学した。松本高等女学校へは毎日自宅から馬に乗って通学したという。1922年に実父、粛親王が死去し、葬儀参列のため長期休学したが、復学は認められず松本高女を中退した。

 芳子は17歳で自殺未遂事件を起こした後、断髪し男装するようになった。断髪の原因は、山家亨少尉との恋愛問題とも、養父・浪速に関係を迫られたためともいわれているが、その詳細は明らかではない。断髪した直後に女を捨てるという決意文書を認め、それが新聞に掲載された。芳子の断髪・男装はマスコミに広く取り上げられ、本人のもとに取材記者なども訪れるようになり、この時期のマスコミへの露出が、後に“男装の麗人”像となり、昭和初期の大衆文化の中に形成される大きな要因となった。

 芳子の端正な顔立ちや清朝皇室出身という血筋は、世間で高い関心を呼び、芳子のマネをして断髪する女性が現れたり、ファンになった女子が押しかけてくるなど、マスコミが産んだ新しいタイプのアイドルとして、ちょっとした社会現象を起こしていた。

 1927年にパプチャップ将軍の二男で蒙古族のカンジュルジャップと結婚したが、3年ほどで離婚した。その後、上海へ渡り、同地の駐在武官だった田中隆吉と交際して日本軍の工作員として諜報活動に従事し、第一次上海事変を勃発させたといわれている。だが、実際に諜報活動をしたのかどうか、その実態は謎に包まれている。

(参考資料)西沢教夫「上海に渡った女たち」、園本琴音「孤独の王女 川島芳子」

光明皇后・・・皇族以外で初めて皇后位に就いた女性

 光明皇后は16歳で聖武天皇の妃となり、後に皇族以外では初めて皇后位に就いた藤原“摂関政治”のいわば看板娘だ。彼女は病気がちの聖武天皇に代わって、東大寺や国分寺の建立を進めたり、孤児収容の悲田院や、貧民のための医療施設である施薬院をつくるなど、有為な政治家だったと伝えられる。ただ、異説を唱える人もあり定かではない。

 彼女の生没年は701~760。父は「贈正一位太政大臣」藤原不比等、母は「贈正一位」県犬養橘三千代、名は安宿媛・光明子。孝謙天皇の母。
 天平勝宝元年(749)、聖武天皇は娘の阿倍内親王に譲位し、ここに孝謙天皇(女帝)が誕生する。しかし、この天平勝宝年間(749~757)から天平宝字4年(760)、光明皇太后が没するまでの約10年間の事実上の政治の実権者は光明皇太后だった。

これにはいくつかの証拠がある。その一つは『続日本紀』にある孝謙天皇の「詔」の中で、彼女が「朕がはは」光明皇太后を「オオミオヤノミカド(皇太后朝)」と呼んでいる点だ。皇太后朝というのは、一種の天皇だ。とすれば光明皇太后は、この孝謙帝の時代から実際の天皇だったといわねばならない。彼女は元明・元正女帝などより、はるかに強い権力を持っていたのだろう。

しかし、彼女は藤原氏出身だ。藤原氏の出身の前皇后が次の天皇となることはできない。それでやむなく、彼女は「紫微中台」にとどまった。「紫微中台」というのは、言葉の上でも実際の天皇を意味する。つまり、彼女は「女帝」だったのだ。

幼い時から藤原一門の期待を担って、彼女には“皇后学”ともいうべき教養が与えられたが、それはインターナショナルな中国の文化を核とするものだったろう。そんな彼女にとって留学帰りの僧玄_と下道真備、後の吉備真備の二人は唐文化の理念的知恵・仏教と実際的知恵・儒教と律令の知識そのものだった。

光明皇后は、この二人を重く用いれば国家は十分治まると思ったに違いない。天平9年の兄の4兄弟、武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ)の相次ぐ死で、自身の権力を支える大きな後ろ楯を失った彼女は心に深い不安を抱えていただけに、玄_と真備の存在には救われる思いすらあったのではないか。

その“のめり込み”が高じて、玄_が彼女の恋人として選ばれたのも当然の成り行きだったかもしれない。皇后と、天下に名だたる高僧だったとしても、生身の女と男、その間に肉体関係が生まれたとしても不思議はない。

 (参考資料)梅原猛「海人と天皇」、杉本苑子「穢土荘厳」、永井路子対談集「光明皇后」(永井路子vs竹内理三)

吉備内親王・・・冤罪事件で一家全員自殺に追い込まれた長屋王妃

 吉備内親王は元明女帝の愛娘の一人で、天武天皇、持統女帝の孫にあたり、母方の血筋をたどれば、天智天皇の孫にもあたる華麗な家系の女性だ。さらにいえば姉(氷高皇女=元正天皇)、兄(文武天皇)も即位した。天皇にならなかったのは、即位を前に早逝した父の草壁皇子と、この吉備内親王ぐらいなのだ。そんな“セレブ”な家系の彼女が、どうしたことか、一時は政府首班を務めた長屋王の妃にはなったものの、周知の「長屋王の変」で夫、そして子供たちとともに自殺に追い込まれているのだ。どうして、彼女がそんな非業の死を遂げねばならなかったのか。

 吉備内親王の生年は不詳、没年は729年(神亀6年)。彼女は長屋王に嫁ぎ、膳夫王・葛木王・鉤取王を産んだ。そして、715年(和銅8年)には息子たちが皇孫待遇になった。また、彼女自身も同年、元号が神亀となった後に三品に叙された。さらに724年には二品に叙された。ここまでは、彼女の家系にふさわしい、心穏やかな幸せに満ちた年月を過ごしていたといえよう。

 ところが、729年(神亀6年)、思いがけない事件で吉備内親王の人生は暗転する。既述の後世「長屋王の変」と呼ばれる事件だ。結論を先に言えば、これは藤原一族が仕掛けた、長屋王追い落としのための謀略であり、冤罪事件だ。藤原一族が仕掛けたとみられる「長屋王謀反の企て」の顛末はこうだ。長屋王の使用人だった漆部造君足(ぬりべのやっこきみたり)と中臣宮処東人らにより、左大臣長屋王が密かに左道(妖術)を行い、国家を傾けようとしている-との密告があった。

そして、どうしたことか、この密告に聖武天皇が“過剰”反応してしまったのだ。なぜ冷静に、時間をかけて真相究明することに考えが及ばなかったのか。不思議だ。天皇は直ちに鈴鹿、不破、愛発(あらち)の三関所を固め、式部卿・藤原宇合、衛門佐(えもんのすけ)・佐味朝臣虫麻呂らを遣わして長屋王の邸を包囲した。そして翌日、舎人親王、新田部親王らを派遣して、長屋王を追及した。これに対し、長屋王はなんら弁明する余地もなく、自刃して果てたのだ。そして、まもなく妻子らも後を追って殉死した。この事件は後に讒言だったことが明らかになり、長屋王の名誉は回復される。しかし、死後では何にもならない。殉死した吉備内親王らはもう戻ってこない。

 繰り返すがこの事件、不可解な点が多い。最大の“汚点”は聖武天皇の行動だ。事実だけをつなぎ合わせれば、天皇が根拠のない密告を簡単に信じて、政府首班の要職にあった長屋王を死に追い込んだのだ。天皇自身が、側近の藤原一族にいいようにコントロールされ、藤原一族に都合のいい情報だけを天皇の耳に入れていた結果、チェック機能が働かないまま、こうした悲劇が起こったとの見方もある。あるいは精神的に弱かった、脆かった天皇につけ込んで、藤原一族が謀った極めて巧妙な企みだったともいえる。いずれにしても、こうして藤原一族は、自分たちに堂々と異論を唱えてくる、邪魔な存在の長屋王を葬ったわけだ。そして、吉備内親王は悲劇のヒロインとなった。

 ただ長屋王ではなく、この吉備内親王が、「巫蠱(ふこ)の術」(祈祷によって人を殺す呪術)を使って、生後間もなく亡くなった藤原氏の期待の皇子、基皇子を呪い殺したのではないかとの嫌疑がもたれていたのではないか-との憶測もある。こうした術を使えるのは、霊力に富んだ巫女や皇女に限られていたのだが…。

(参考資料)永井路子「悪霊列伝」、永井路子「美貌の大帝」、神一行編「飛鳥時代の謎」、安部龍太郎「血の日本史」

後深草院二条・・・「蜻蛉日記」と双璧の、「とはずがたり」を著す

 後深草院二条(ごふかくさいんのにじょう)は後深草上皇に仕えた女房二条
のことで、彼女は鎌倉時代の中後期に五巻五冊からなる「とはずがたり」を著した。

 この作品は、誰に問われるでもなく、自分の人生を語るという自伝形式で、後深草院二条の14歳(1271年)から49歳(1306年)ごろまでの境遇、後深 れている。二条の告白という形だが、ある程度の物語的虚構性も含まれるとみる研究者もいる。1313年ごろまでに成立したとみられる。

 二条は出家するにあたり五部の大乗経を写経しようと決意、発願する。「華厳経」60巻、「大集経」26巻、「大品般若経」27巻、「涅槃経」36巻、「法華経」8巻など。有職故実書をみると、合計190巻、料紙4220枚となっており、これ全部を写経するとなると大変な作業だ。

 この写経、「とはずがたり」を綴り終わるまでには全部を書写しきれなかったようだが、様々な文献を照合すると、二条はこれをやりきっている。不屈の意志で、霊仏霊社に参拝しては寺社の縁起を聞いて、そのたびに結縁を繰り返すというやり方だ。

例えば、「大品般若経」の初めの20巻は河内の磯長の聖徳太子の廟で奉納して、残りは熊野詣で写経。「華厳経」の残りは熱田神宮で書写して収め、「大集経」は前半は讃岐で、後半は奈良の春日神社で泊まり込んで書写するという具合だ。出家して尼になった二条が、まさに“女西行”になったような趣だ。

 ここで、二条が著した傑作「とはずがたり」のあらすじを紹介しておこう。第1巻は、二条が2歳のときに母を亡くし、4歳からは後深草院のもとで育てられ、14歳にして他に慕っている「雪の曙」がいるにもかかわらず、父とも慕ってきた後深草院の寵愛を受ける。後深草院の子を懐妊、ほどなく父が死去。皇子を産む。後ろ楯を亡くしたまま、女房として院に仕え続けるが、雪の曙との関係も続く。雪の曙の女児を産むが、雪の曙は理解を示して、この子を引き取って自分の妻に育てさせる。ほぼ同じ頃、皇子夭逝。

 第2巻は二条が18歳になっている。粥杖騒動と贖い。後深草院の弟の亀山院から好意を示される。さらに御室・仁和寺門跡の阿闍梨「有明の月」に迫られ、契りを結ぶ。女樂で祖父の兵部卿・四条隆親と衝突。「近衛大殿」と心ならずも契る。

 第3巻では、有明の月の男児を産むが、他所へやる。有明の月が急死。有明の月の第二子を産み、今度は自らも世話をする。御所を退出する。
 第4巻はすでに尼になって、出家修行の旅に出ている場面から再開。熱田神宮から、鎌倉、善光寺、浅草へ。八幡宮で後深草法皇に再会。伊勢へ。
 第5巻は45歳以降のこと。安芸の厳島神社、讃岐の白峰から坂出の崇徳院御陵、さらに土佐の足摺岬。後深草法皇死去。

 登場人物のうち、「二条」は久我雅忠の娘、「雪の曙」は西園寺実兼、「有明の月」の阿闍梨は性助法親王、「近衛大殿」は鷹司兼平とみられる。

(参考資料)永井路子「歴史のヒロインたち」、永井路子「歴史をさわがせた女たち」

楠本いね・・・シーボルトの娘で、明治の日本最初の西洋女医

 楠本いねは、日本に医術開業試験制度が導入される前、1859年(安政6年)長崎西坂の刑場でオランダ医師ポンペによって行われた罪囚の死体解剖に立ち会った46人の医師のうちただ一人の女医師だった。また、1870年(明治3年)東京築地一番町で産科医を開業した日本最初の西洋女医だった。だが、いねは周知の通り、長崎オランダ商館医、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの娘だっただけに、当時の世間の眼は冷たく、いわれのない差別も受け育った。いねの生没年は1827(文政10)~1903年(明治36年。)

 日本人で初めて女性で西洋医学を学んだ産科医・楠本いねは母瀧(お滝)とドイツ人医師シーボルトの間に生まれた。母の瀧は商家の娘だったが、当時長崎・出島へ入ることができたのは遊女だけだったので、「其扇(そのぎ)」と名乗り、遊女を装って出島に出入りしていてシーボルトと恋に堕ち、結婚したとする説、もともと長崎の遊郭、丸山の遊女、「其扇」としか記されていない史料もあり定かではない。いねの出生地は長崎で、出島で生まれ出島で居を持ったという。「楠本」は母、楠本瀧の姓。

 シーボルトは1828年(文政11年)、いねが2歳のときスパイ容疑で国外追放された。そこで瀧はやむなく俵屋時次郎という商人と結婚し、いねが14歳のときシーボルトの弟子で宇和島藩開業医、二宮敬作に娘を預けた。いねは外科の医術を二宮に学び、18歳になると備前岡山の石井宗謙のもとで産科医の学問、技術を学んだ。石井には妻子があったが、彼はいねに娘高子(たか)を産ませている。

 また、いねは村田蔵六(のちの大村益次郎)からはオランダ語を学んだ。1859年(安政6年)からオランダ軍医ポンペから産科・病理学を学び、1862年(文久2年)からはポンペの後任、ボードウィンに学んだ。後年、大村益次郎が襲撃され、重傷を負った際には、ボードウィンの治療のもと彼女は大村を看護し、その最期を看取っている。

 1858年(安政5年)の日蘭修好通商条約締結によって追放処分が取り消され、いねは1859年(安政6年)再来日した父シーボルトと長崎で再会し、西洋医学(蘭学)を学んだ。シーボルトは長崎・鳴滝に住居を構え昔の門人や娘いねと交流し、日本研究を続けた。1861年、シーボルトは幕府に招かれ外交顧問に就き、江戸でヨーロッパの学問なども講義している。

 いねはドイツ人と日本人という当時では稀な混血児ということで、特別な眼で見られ差別を受けながらも、宇和島藩主伊達宗城から厚遇された。1871年(明治4年)、異母弟にあたるシーボルト兄弟(兄アレクサンダー、弟ハインリッヒ)の支援で、東京築地一番町で産科医を開業した後、宮内省御用掛となり、明治天皇の女官、権典侍・葉室光子の出産に立ち会うなど、その医学技術は高く評価された。

 その後、日本にもようやく医術開業試験制度が導入された。ただ、これはいねにとっては不幸なことだった。というのは、女性には受験資格がなかったからだ。すでに産科医として実績を積んできているのに、この制度がスタートしたことで、理不尽にもいねはその埒外に置かれることになってしまったのだ。勝気な性格で、負けず嫌いだったいねにとってはたまらないことだったろう。そのため、いねは断腸の思いで東京の医院を閉鎖、長崎に帰郷する。

1884年(明治17年)、医術開業試験制度の門戸が女性にも開かれるが、いねにとっては遅すぎた。すでに57歳になっていたため、合格の望みは薄いと判断し、以後は産婆として開業した。62歳のとき、娘(石井宗謙との間にできた高子)一家と同居のために、長崎の産院も閉鎖し再上京。医者を完全に廃業した。以後は弟ハインリッヒの世話になり、余生を送った。いねは生涯独身だったが、1903年、食中毒のため東京麻布で亡くなった。

(参考資料)司馬遼太郎「花神」、吉村昭「ふぉん・しいほるとの娘」、吉村昭「日本医科伝」、杉本苑子「埠頭の風」

斉明天皇・・・土木工事が好きだった、史上初の譲位と重祚を行った女帝

 少子化時代の現代では出産以前に、結婚相手を見つけることすら自然にではなく、“婚活”に励む人たちがいる。こうしたことを考え合わせれば、古代社会は男女の仲も、恋愛も、現代社会よりもっと奔放で、さばけていたのではないだろうか。そんな事例が少なくないのだ。ただ、それが皇族、とりわけ女帝となると、さらに驚きだ。むろん、それは政略結婚に違いないのだが…。史上初の、譲位(第三十六代孝徳天皇へ)と重祚を行った斉明天皇は、そんな稀有なケースの女性だ。

 第三十五代とされる皇極天皇(在位642~645年)が重祚して、第三十七代斉明天皇(在位655~661年)と謚(おくりな)された。諱は宝皇女。和風諡号は天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)。父は茅渟王(ちぬのおおきみ)。母は吉備姫王(きびのひめのおおきみ)。第三十六代孝徳天皇の同母姉。

彼女は、最初に用明天皇の孫にあたる高向王(たかむくのおおきみ)に嫁ぎ、漢(あや)皇子を産み、その後、田村皇子(後の第三十四代舒明天皇)との間に葛城皇子(後の第三十八代天智天皇)、間人皇女(孝徳天皇の皇后)、大海人皇子(第四十代天武天皇)を産んだ。つまり、再婚して皇后となり、後に天皇となる2人の皇子を産んだわけだ。

 斉明天皇は女帝ながら、一般的なイメージとは異なり、各地の土木工事を推進した。また東北の蝦夷に対し、三度にわたって阿倍比羅夫を海路の遠征に送るなど、蝦夷征伐も積極的に行ったことは特筆される。水工に溝を掘らせ、水路は香具山の西から石上山にまで及んだ。舟200隻に石を積み、流れにしたがって下り、宮の東側の山にその石を積み上げて垣を築いた。渠(みぞ)の工事に動員された人夫は3万人を超え、垣の工事にも7万余の人夫が使役された。2000年に奈良・飛鳥の地から亀石形の流水施設を含む宮廷施設などが発掘されたが、この女帝の時代に行われた土木工事の痕跡は多数発見されている。

対外政策では新羅が唐と謀って百済を滅ぼしたため、斉明天皇、皇太子の中大兄皇子、大海人皇子らは百済救援のため九州へ赴いた。大宰府から奥へ入った朝倉の地に、「朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)」という仮宮を建造し、斉明天皇が指揮にあたった。女帝ながら、したたかで男勝りな性格が顔をのぞかせる。だが、倭軍は唐・新羅連合軍に敗退。また、朝倉神社の木を勝手に伐採して宮の造営に充てたことから、雷神が怒り建物は崩壊した。宮殿の中にも鬼火が出現し、多くの人々が病に倒れた。そして遂に天皇自身もこの朝倉宮で崩御した。

 「大化の改新」の黒幕は皇極天皇ではないか、という説がある。この2年前、山背大兄王(やましろのおおえのおう)一族を滅亡に追い込むなど政治の実権を握っていた蘇我入鹿暗殺という古代史上最大のクライマックスともいえる、朝廷を震撼させるクーデター事件が起きた。645年(皇極4年)のことだ。大化の改新の幕開きとなるこの事件の、実質上の首謀者は明らかに中臣鎌足(後の藤原鎌足)だ。鎌足31歳、中大兄皇子19歳のときだ。この年齢差から判断すれば鎌足が首謀者だろう。

ところが、剣で斬りつけられた蘇我入鹿が、斬りつけた中大兄皇子ではなく、皇極天皇に向かって「自分に何の罪があるのか」と問いかけているのだ。ここに入鹿の心情が隠されているのではないか。入鹿が女帝に向かって問いただすことが、そもそも女帝が首謀者と感じていたからではないかという。また、俗説では皇極天皇と蘇我入鹿は愛人関係にあったともいわれる。だからこそ、入鹿にとっては「あなた(=皇極天皇)は、これ(=暗殺の謀略)をすべて知っているのではないですか?」との思いだったに違いない。このあたりは謎だが、これが事実に近いとすると、入鹿暗殺は中大兄皇子と中臣鎌足に引きずり込まれてではなく、皇極天皇の意思が働いていたということになり、何か不気味さが漂ってくる思いがする。

(参考資料)神一行編「飛鳥時代の謎」、笠原英彦「歴代天皇総覧」

坂本乙女・・・龍馬を育て力づけ励まし続けた、文武両道の女丈夫

 坂本乙女は坂本龍馬の三番目の姉で、幼いときに病気で母をなくした龍馬の母親代わりを務め、書道・和歌・剣術など様々なことを教え、後の龍馬を育てた女丈夫だ。坂本乙女の生没年は1832(天保3)~1879年(明治12年)。

 坂本乙女は豪商・才谷屋の分家の、土佐藩郷士、坂本八平と幸の三女だ。城下でも屈指の富豪だから、乙女は家事などは手伝わず、気ままに遊芸を習うことができた。17、18歳のころは義太夫では玄人はだしの腕になり寄席を買い切って高座に上ったこともある。三味線、一弦琴、謡曲、舞踊、琵琶歌まで習い、そのいずれもが素人離れしていた。

 とくに自慢は剣術と馬術で土佐藩の恒例行事の正月の「乗初(のりぞめ)」式に女ながらも藩に無断で出場し、栗毛の肥馬に乗り男袴をはき、十尺の薙刀(なぎなた)を振り回して人を驚かせた。このほか弓術・水泳などの武芸や、琴・三味線・舞踊・謡曲・経書・和歌などの文芸にも長けた、文武両道の人物だったといわれる。

乙女は、身長五尺八寸(約174cm)・体重三十貫(約112kg)という当時はもちろん、現代的にみてもかなり大柄な女性だった。そのため力が強く、米俵を二表らくらくと両手に提げて歩くことができた。城下では「坂本のお仁王さま」と異名された。それだけに1846年、病弱だった母親、幸が亡くなった後、乙女は龍馬の母親代わりを務めた。龍馬に書道・和歌・剣術などを教え、当時龍馬が患っていた夜尿症を治したともいわれている。

それほど諸芸に堪能な彼女が、炊事と裁縫だけはできなかった。ただ彼女の場合、できないというより、その種の仕事を嘲弄していたふしさえあった。龍馬の盟友だった武市半平太の夫人は富子といい、小柄で温和で貞淑という点では典型的な武家家庭の主婦だった。乙女はこの富子に「あなたも家事以外のことで夢中になってみてはいかがですか。例えば薙刀や馬術などに」と、女仕事からの謀反を勧めている。

 乙女は晩婚で1856年、兄の友人の典医・岡上樹庵と結婚して一男一女(赫太郎・菊栄)をもうけた。岡上は長崎で蘭学を修めた人物だったが、身長が五尺そこそこしかなかった。そして、10年余の結婚生活の後、乙女は岡上と話し合い、二人の子供を置いて坂本家に戻った。家風の相違や夫の暴力、浮気などが原因で、姑の経済観念と、乙女の大らか過ぎる家計のやりくりとが合わないといったことも、その理由だったらしい。1867年のことだ。ただ、その後も息子や娘が坂本家に遊びにきているところをみれば、乙女はごくさわやかに、この離婚問題を処理していたと思われる。

 坂本家に戻った乙女はその後、龍馬の良き理解者として、龍馬が国事に奔走するのを力づけ相談に乗ったり、励ましたという。乙女は自分も国事に尽くそうと上洛を望み、龍馬の迎えの便りを待っていたが、頼みの龍馬が暗殺され、志を果たせなかったという話がある。

 ただ、龍馬の妻、おりょうとは不仲だったようだ。これは、乙女に対するおりょうの接し方にも問題があったのかも知れないが、しっくり行っていなかったことは確かだ。龍馬が京都で暗殺された後、おりょうは坂本家の乙女のもとに身を寄せたのだが、程なくしてここを去り、身寄りのないおりょうは各地を放浪したという経緯がある。

 晩年は独と改名し、養嗣子の坂本直寛とともに暮らした。1879年、コレラが流行した際、感染を恐れて野菜を食べなかったためか、壊血病に罹り死去した。享年48。

(参考資料)司馬遼太郎「歴史の中の日本」

天璋院篤姫・・・勝海舟とともに江戸無血開城の際の幕府側の立役者

 徳川家康が江戸幕府を開いて以来260年余、威光を誇った徳川政権が、その終焉を迎えたとき、江戸城開城をめぐって華麗なドラマが繰り広げられた。主役を演じたのは周知の通り、勝海舟と西郷隆盛だが、その舞台の陰にはこの天璋院篤姫の活躍があった。

東征大総督府参謀の西郷に江戸城総攻撃中止、戦争の回避、慶喜の助命、徳川宗家の存続-を決断させたものは何だったのか?この点については今もなお謎が多いのだが、近年西郷の譲歩を引き出した要因として、西郷に宛てた天璋院の切々たる嘆願書ではないかとの見方がクローズアップされている。

長い手紙だが、願いの筋は「徳川家の安堵」という一点に絞られている。自分は御父上(島津斉彬)の深い思慮によって徳川家に輿入れしたが、「嫁したからには、生命ある限り徳川家の人として生き、当家の土となる覚悟です。自分の生きている間に徳川に万一のことがあれば、亡き夫家定に合わせる顔がありません。寝食を忘れ嘆き悲しんでいる心中を察して、私どもの命を救うより、徳川家をお救い下されば、これ以上の喜びはありません。これを頼めるのはあなた様をおいて他にいません」と、天璋院は繰り返し西郷の心情に訴えかけている。

慶喜のことについても、「当人(慶喜)はどのように天罰を仰せ付けられてもしようのないこと」と突き放しながら、それでも慶喜本人が大罪を悔いて恭順している今、徳川宗家存続を許すことこそが、西郷自身の武徳や仁心にとってもこの上ないことと主張、西郷に大いなる義の心を求めているのだ。

東征軍が江戸城へ刻々と迫る中、天璋院の瀬戸際でのこの懸命の努力が、江戸無血開城という形で実現、新旧の国家権力の交代劇につながった。

天璋院篤姫は1835年(天保6年)、鹿児島城下の今和泉島津家に生まれ、一(かつ)と名付けられた今和泉家は島津本家の一門、石高1万3800余と小藩並みだ。実父の忠剛(ただたけ)は島津斉宣の子で、斉彬の叔父にあたる。したがって、斉彬と篤姫はいとこ同士だった。島津本家当主斉彬の養女となり、五摂家筆頭の近衛忠煕の娘として1856年(安政3年)、徳川13代将軍家定の正室に、そして大奥の御台所となった。これ以降、彼女は生涯を通して再び故郷の鹿児島に戻ることはなかった。

1858年(安政5年)、夫の将軍家定が急死し、これに続き父斉彬までも亡くなってしまう。篤姫の結婚生活はわずか1年9カ月だった。家定の死により篤姫は落飾、天璋院と号した。その後は和宮に代わり、大御台所として江戸開城に至るまで大奥を統率した。

名を東京と改められた明治時代。天璋院は東京千駄ヶ谷の徳川宗家邸で暮らしていた。生活費は倒幕運動に参加した島津家には頼らず、徳川家からの援助だけでまかない、あくまで徳川の人間として振舞ったという。大奥とは違った、自由気ままで庶民的な生活を楽しみ、旧幕臣の勝海舟や静寛院宮(和宮)ともたびたび会っていた。また、田安亀之助(徳川宗家16代・徳川家達)を教育し、海外に留学させるなどしていた。ペリー提督が持ってきたといわれるミシンを、日本人として初めて使ったのも天璋院といわれている。1883年(明治16年)、脳出血で48年の生涯を閉じた。死後、新政府から剥奪されていた官位、従三位を再び贈られた。

(参考資料)海音寺潮五郎「江戸開城」、「新説 戦乱の日本史 江戸城無血開城」
     宮尾登美子「天璋院篤姫」

檀林皇后・・・橘氏出身で唯一の皇后、仁明天皇、淳和天皇の皇后の生母

 檀林(だんりん)皇后、橘嘉智子(たちばなのかちこ)は、もともと嵯峨天皇の十指にも余る妃の一人に過ぎなかった。ところが、皇后の桓武天皇の皇女の高津内親王が早く逝去したことで、彼女の運命が大きく変わることになった。姻戚の藤原冬嗣(嘉智子の姉安子は、冬嗣夫人美都子の弟三守の妻だった)らの後押しで立后。橘氏出身としては最初で最後の皇后となった。嵯峨天皇薨去の後、京都嵯峨野に檀林寺というわが国最初の禅院を営んだので、その寺名にちなみ檀林皇后と呼ばれた。

 橘嘉智子(たちばなのかちこ)は橘奈良麻呂の孫、橘清友の娘。母は贈正一位田口氏。生没年は786年(延暦5年)~850年(嘉祥3年)。嵯峨天皇との間に仁明天皇(正良親王)・正子内親王(淳和天皇皇后)ほか二男五女をもうけた。嵯峨上皇の崩御後も太皇太后として隠然たる勢力を持ち、橘氏の子弟のために大学別曹学館院を設立するなど勢威を誇り、仁明天皇の地位を安定させるために「承和の変」も深く関わったといわれる。そのため、廃太子恒貞親王の実母の娘の正子内親王は、嘉智子を深く恨んだといわれる。

 彼女の父の橘清友は橘諸兄の孫という歴とした血筋だ。諸兄は敏達天皇五世の孫、光明皇后の異父兄、初め、葛城王と称したが、臣籍に降って橘の家を興こした。藤原四兄弟が相次いで死亡した後、左大臣として国政にあたり、花の天平時代を築いた。その子、奈良麻呂は藤原仲麻呂(恵美押勝)を除かんとして破れ獄死したが、橘氏は藤原氏と並び称せられる家柄だった。橘逸勢は嘉智子のいとこ。

 嘉智子は稀に見る美人だった。奈良の法華寺の十一面観音立像は光明皇后をモデルにしたものといわれているが、一説では嘉智子=檀林皇后をモデルにしたものともいう。嘉智子は、朝廷に対する罪人との烙印を押された祖父・奈良麻呂の汚名返上と繁栄を願う、橘氏一族の期待の星だったのだ。それだけに、嘉智子の人生は輝かしい栄華の一方で、周辺を巻き込みつつ、血塗られた政略に満ちあふれたものでもあった。

檀林寺は現在の野々宮から天竜寺に及ぶ一帯を占めた広大な寺院だったというが、消失してしまい現在、嵯峨野の祇王寺に近い東側に再建されている。昭和40年代の初めに造られたもので、新しいものだが檀林皇后時代の遺物がよく保存されている。

 奈良朝から中世へかけて天皇家の権威の下に、その門流が繁栄を極めた名族として「源平藤橘」が挙げられる。源氏、平氏はかなり後の平安時代後期に登場する氏族。藤橘の藤は周知の通り、南家、北家、式家、京家の四家に分かれて勢力を競い合った藤原氏であり、橘は檀林皇后すなわち嘉智子の出自の橘氏だ。橘氏は周知の通り藤原氏北家と結び、奈良時代末期から平安時代前期をリードして、人臣その位を極めるエリートとなった。

(参考資料)杉本苑子「檀林皇后私譜」

山内一豊の妻・千代・・・へそくりで名馬を買い入れた内助の功で有名

 戦国末期の武将で、信長・秀吉・家康に仕え、後の土佐二十四万石の大名となった山内一豊(1546~1605)の妻。近江の若宮家の出といわれるが、確かなことは分からない。千代の生没年は1556年(弘治2年)~1617年(元和3年)。出生地には諸説あり定かではないが、郡上市八幡町と米原市近江町の二つが有力だ。千代は良妻賢母を称える際に必ず名を挙げられる女性で、彼女の「内助の功」に関する逸話は周知の通り。へそくりで奥州の名馬を買い、馬揃えで織田信長の目にとまった話が有名だ。

 浪人生活の一豊と貧乏の中で結婚し、その日の糧にも事欠く生活を送っていたとき、一人の馬喰が見事な馬を売りにきた。一豊が大層欲しがるのをみて、千代は“夫の一大事の折に用いよ”と嫁ぐときに育ての親からもらった十両を、鏡筐の底から出して夫に差し出し、その奥州の名馬を買い入れた。

翌年、馬揃えの式で信長の目にとまり、馬を買い入れた経緯を聞き「あっぱれなる女房を持って一豊は天下一の果報者ぞ」と褒められた。その後、一豊はその馬にまたがり、様々な戦場をかけめぐって勇猛振りを発揮したという。ただ、残念ながらこの逸話を証明する史料は何もない。

 一豊は信長、秀吉と仕え、秀吉に掛川(静岡)五万石をもらい、大名になる。さらに関ケ原では徳川につき、家康から抜擢を受けて土佐をもらった。一豊というと、奥方の千代が偉くて様々な逸話があるが、作り話が多い。いずれにしても「奥方のおかげ」は幕末までいわれたようだ。頼山陽に千代の才覚をうたった詩があって、これが知れわたって、伝説が文学になって一層広まったとみられる。

 では、一豊は千代の力なしには出世できないような人だったのか?確かなことは分からないが、人間の器量が割合大きく「いいたいやつには言わせておけ」とあまり気にとめなかっただけなのではないか。一豊自身、関ケ原の時、掛川の城を家康に「おたくでお使いください」と明け渡した。家康は後で「あそこで山内殿がああいってくれたから、みんなが右へならえしてくれた」と一豊を褒めた。そして、それが土佐二十四万石につながったのだ。

一豊は決してボンクラではなかった。物事はよくできるが、千代の方が頭がよく、カンがよく、世間の見える女だったので、亭主の仕事に口を出したということのようだ。そして、それが幸運にもすべて適切だったというわけだ。

 一豊は土佐入国から5年、1605年(慶長10年)61歳で亡くなった。夫の死後、妻千代は出家し、見性院(けんしょういん)となり一豊の冥福を祈りつつ、念仏三昧の穏やかな生活を送るはずだった。ところが、彼女は一豊の存命時代と同様、その政治・外交力などで山内家を助け、京都で61歳で没した。
 
(参考資料)司馬遼太郎「巧名が辻」、対談集 永井路子vs司馬遼太郎

天秀尼・・・豊臣秀頼の子で、駆け込み寺の守護女神

 天秀尼(=奈阿姫、なあひめ)といっても馴染みがない人がほとんどだろう。実は淀君の孫娘、豊臣秀頼の娘だ。ただ、母は有名な正室、千姫ではない。側室の小石の方(こいわのかた、成田五兵衛の娘)だ。名は千代姫ともいった。出家後の名が天秀尼(てんしゅうに)。兄の豊臣国松とは異腹。千姫とは義理の親子だったが、仲がよかったとされる。この天秀尼、三百数十年前、かよわい女性の身で、救いを求めてきた何人かの女性の命を助けた、女神のような存在だったのだ。 生没年は1609年(慶長14年)~1645年(正保2年)。

 奈阿姫は大坂城で生まれ、何不自由なく育った。1612年(慶長17年)4月頃から徳川家と豊臣家の関係が悪化。1615年(元和元年)、大坂夏の陣での豊臣方の敗北は彼女を、いわば戦災孤児へ突き落とした。兄の国松は斬殺されたが、千姫が奈阿姫を自らの養女としていたために特別に助命され、出家して縁切り寺として有名な鎌倉の東慶寺に入った。

もともとこの寺は格式の高い尼寺で、代々、毛並みのいい女性が住持になる習わしで、罪を犯した人やその家族をかくまう、いわば治外法権的な権力を持っていた。身分は高いが戦犯の娘で、しかも孤児となった彼女には、極めてふさわしい住み家だったといえよう。

 天秀尼が東慶寺に入ったのは8歳のとき。後に師の跡を継ぎ、その20世住職となる。彼女が30歳前後のとき、後世に彼女の名が残る事件が起こった。会津若松40余万石の城主、加藤明成と家老の堀主水の妻子が救いを求めて転がり込んできたのだ。夫の主水が主君と意見が合わず、一族ともども会津を出奔したという。主水は主君の非を幕府に訴えるつもりだったが、それより早く、怒った明成が追ってきたので、兄弟揃ってとりあえず高野山に逃げ込んだ。ところが高野山は女人禁制。そこで何卒、私どもだけ、この寺におかくまいください-と主水の妻は訴え、天秀尼の法衣にすがりついた。

 ただ、当時は「主君に忠」が憲法第一条の時代だ。いかに主水の言い分が正しくても、主君に背くのは憲法違反の重罪だ。高野山も昔から罪人をかくまう治外法権的な特権を持っていたのだが、徳川の全国統一によって次第に力が薄れ、このときは明成の脅しに遭うと、あえなく腰砕けになって、遂に主水兄弟を引き渡してしまう。勝ち誇った明成は彼らを斬殺、今度は東慶寺に妻子を引き渡せと言ってきた。ここで天秀尼は、徳川の忠君憲法と、明成の強情の前に厳しい選択を迫られることになった。堀主水の妻子を助けるか助けぬか-。

 天秀尼は、昔からここに逃げ込んだものは、決して引き渡さないという掟があるのをご存知ないのですか-と悩んだ末に遂に堀主水の妻子をかくまう道を選んだ。そして、明成の非を養母の千姫を通じて三代将軍家光に訴えた。無礼者明成をつぶすか、この寺をつぶすか、二つに一つでございます-と。捨て身の彼女の訴えに、幕府は彼女の言い分を聞き入れ、明成の40余万石は没収、代わりに1万石を与えて家名だけを継がせることにした。千姫という後ろ楯があったにせよ、天秀尼は見事に勝ったのだ。天下の高野山が守りきれなかった憲法違反者の妻子の命を女の細腕で守り通したのだ。こうして同寺は「縁切り寺」「駆け込み寺」として広く認知され、夫や姑に虐待されても自分の方から離婚を申し立てられなかった当時の女性にとって、長く救いの場所になったのだ。
彼女の死去により、豊臣秀吉の直系は断絶した。

(参考資料)永井路子「歴史をさわがせた女たち」

中西君尾・・・勤皇・佐幕派を問わず様々な人物とつながりを持った芸妓

 幕末、京都祇園の芸者だった中西君尾(なかにしきみお)は、高杉晋作を介して、井上聞多、品川弥二郎など多くの長州藩士とつながりを持ち、彼らの心を癒した。とくに井上聞多の命を救った贈り物の逸話は知られているが、桂小五郎と幾松のように、君尾と井上は結ばれることはなく、結果的に君男は祇園で多くの勤皇の志士のために手助けをすることになる。君尾の生没年は1843(天保14)~1918年(大正7年).

 中西君尾は京都府船井郡八木町に生まれた。本名はきみ。19歳で祇園の置屋、島村屋から芸妓となった。主に縄手大和橋の御茶屋『魚品(うおしな)』で後の明治時代に元老となる井上聞多(後の井上馨)と出会い、親密な間柄となった。元治元年、井上が長州藩内で敵対する俗論党に、山口・湯田温泉で襲われ、虫の息の彼が止めの刃を胸に受けたとき、懐の鐘に切っ先があたり死を免れた話が残っている。これは、これより数年前井上がロンドンに向かうときに、井上が自分の小柄と交換した君尾の鐘で、彼がずっと肌身離さず持っていたものだったという。

 君尾は芸妓という立場上、当然ともいえるが勤皇・佐幕派を問わず、実に様々な人物とつながりを持った。彼女はまず長州の寺島忠三郎に頼まれ、スパイとして志士弾圧の急先鋒だった島田左近の“思われもの”になったこともあるといわれ、この後、島田は天誅第1号として斬殺されている。
 近藤勇も祇園の『一力』の座敷で君尾と出会ったことがあるが、近藤が口説いたところ、君尾は「禁裏様のお味方をなさるなら、あなたのものになりましょう」といい、近藤は「我々は会津に従う。(だから、お前の)言葉には従えぬ。無礼は許せ」と酒を一気に呑み干し、席を立ったという話が残されている。

 また、鴨川の川座敷で桂小五郎、久坂玄瑞、鳩居堂の主人らと酒を酌み交わしかえる途中、新選組隊士に壬生の屯所に引き立てられ拷問にかけられるが、君尾は気丈にも同席者の名や話の内容など肝心なことは口を割らなかった。そのため、近藤は「新選組は無茶な殺生はしない」と駕籠を呼んで送り返してやったという。まだある。君尾はまた追われていた中村半次郎(後の桐野利秋)を匿ったり、会津藩士に踏み込まれた勤皇の青年を裏から逃がしたり、多くの志士たちを救っている。

 長州の品川弥二郎もその一人だ。君尾は弥二郎と恋仲になった。慶応4年に東征軍が進発のときに歌った「宮さん、宮さん~」のトンヤレ節は品川の作詞といわれる。また曲をつけたのは君尾だとされている。君尾は品川の子供を宿し、その子、巴は祇園の役員になった。
 明治時代になっても、君尾はずっと祇園の芸妓を通した。そして維新で高官となった、かつての志士たちと昔語りをするのを楽しみにしていたという。

(参考資料)百瀬明治「適塾の研究」

野村望東尼・・・高杉晋作ら勤皇の志士たちに母のように慕われた尼

 幕末、血気盛んな勤皇の志士たちが母のように慕う女性がいた。野村望東尼(のむらぼうとうに)という人物だ。彼女は夫の死後、出家し、多くの志士たちと親交、とくに長州藩の高杉晋作とは親しかった。高杉が死の直前詠んだ辞世「おもしろきこともなき世をおもしろく」の上句を受けて、望東尼が「すみなすものはこころなりけり」の下の句を詠み、辞世を完成させたとされる。女だてらに勤皇なんて…と噂されようとも、新しい時代をつくるために自分が信じる道をひとすじに貫いたのだ。生没年は1806(文化3)~1867年(○○年)。

 野村望東尼は筑前早良郡谷(現在の福岡市中央区)で、三百石の福岡藩士、浦野重右衛門勝幸の三女として生まれた。名を「もと」といい、招月、向陵(こうりょう)と号した。17歳のとき20歳も年上の知行五百石の郡利貫に嫁ぐが、半年で破局を迎え実家に戻る。その後、九州で著名だった大隈言道(ことみち)に和歌や書道を学び、この師のとりなしで、24歳のとき、同門だった福岡藩馬廻役、野村貞貫(さだつら)の妻となった。夫には先妻との間に17歳を頭に三人の男子がいた。また、もとも四人の子を産むが、皆早世してしまったという。しかし、夫婦仲はよく、二人は同じ趣味に生きた。互いに歌作を競っては、心の中を語り合い、ともに歌道を究めようと学んだ。

 夫の貞貫は彼女が40歳になったとき、家督を長子の卯左衛門貞則に譲って、現在の福岡市中央区平尾にあった隠居所、平尾山荘に移ってきた。それから二人は世俗を離れて十有余年をこの山荘で静かに送った。彼女が髪を降ろして尼となり、身を墨染めの衣に包むようになったのは、夫貞貫が66歳で亡くなったときからだ。そのとき彼女は54歳だった。彼女が尼となったのは世捨て人になろうと決心したからだった。

 しかし、彼女は世捨て人にはなりきれなかった。桜田門外の変(1860年)はじめ、ロシア軍艦による対馬占領事件(1861年)、そして坂下門外の変(1862年)などが相次いで起きた、激動の時代だったからだ。尼の耳には世の中の慌しい動きが嫌でも伝わってきた
この山荘には多くの志士が出入りした。元治元年、望東尼がこの山荘に住んで20年近く経ったころ、高杉晋作が訪れている。高杉は長州藩の佐幕派の俗論党に追われ、谷梅之介の偽名を使って長州を逃れ、多くの志士たちが頼りにしていると聞く望東尼の平尾山荘にやってきたのだ。

高杉は討幕の九州連合をつくることにより、外部からの長州の改革を企てたが、筑前もいぜん佐幕派が強く、博多に身を潜めるのも危険な状態になり、この山荘に身を寄せたわけだ。高杉はここで約10日間過ごし多くの志士たちと会い、また薩摩の西郷隆盛とも初めて会ったともいわれているが、真偽は定かではない。高杉はその後、長州へ戻り、1カ月後同士と謀り俗論党を倒し、藩の主導権を握った。

 高杉を匿った翌年、望東尼は福岡藩から、志士たちの隠匿の嫌疑で咎められ、玄界灘の姫島に流罪となった。60歳のときのことだ。荒格子だけの四畳牢で吹き晒しの中、食べ物を運んでくれる島民を支えに、彼女はここで10カ月を過ごす。高杉はこの厳しい流刑地の望東尼の身を案じていたが、小倉戦争後、病に伏せることが多くなり、信頼する者に救出に向かわせる。慶応2年望東尼は下関の白石正一郎のもとに身を寄せる。そして、喀血して病に倒れた高杉を看病する愛人おうのを助けたという。

 数えで29歳という若すぎる不世出の天才児、高杉の死を見届けた後、望東尼は下関を去り、薩長同盟が成立し、両藩の軍艦が集結する三田尻に行く。彼女は防府天満宮に7日間籠もり、断食して勝利を祈った。そのため、体を壊し病床につくことになった。しかし、大政奉還がなり、王制復古が実現したとの知らせが届き、彼女は満足して没したといわれる。高杉の死後、約7カ月後のことだった。

(参考資料)奈良本辰也「叛骨の士道」、三好徹「高杉晋作」、司馬遼太郎「世に棲む日日」

新島八重・・・会津の戊辰戦争で砲術者として奮戦した、新島襄の妻

 新島八重は幕末から昭和初期の日本女性で、同志社創立者の新島襄の妻として有名な人物だ。また、戊辰戦争時には会津若松城籠城戦で、断髪・男装し、砲術者として奮戦したことが知られており、後に「幕末のジャンヌダルク」と呼ばれる、武士の魂を持った女性、男勝りの“猛女”でもあった。生没年は1845(弘化2)~1932年(昭和7年)。史料によっては「新島八重子」と書かれている場合もある。旧姓は「山本」。

 新島八重は、会津藩の砲術師範だった山本権八・さく夫妻の三女として生まれた。戊辰戦争が始まる前に、但馬出石藩出身で藩校日新館の教授を務めていた川崎尚之助と結婚したが、会津若松城籠城戦を前に離婚、一緒に立て籠もったが、戦の最中、尚之助は行方不明になった。また、この戊辰戦争で八重は父と弟を失った。

 八重の長兄、山本覚馬は師の林権助が江戸出府を命じられた際に随行し、佐久間象山、勝海舟に師事。また西周らとも親交があり、全盲となりながらも京都府の府政を担い、後に新島襄と同志社を創立している。

 1871年(明治4年)、八重は京都府顧問となっていた実兄、覚馬を頼って上洛する。翌年兄の推薦により、京都女紅場(にょこうば)(後の府立第一高女)の舎監兼教導試補となった。この女紅場に茶道教授として勤務していたのが13代千宗室(円能斎)の母で、これがきっかけで茶道に親しむようになった。

 八重は兄のもとに出入りしていた新島襄と知り合い、1875年(明治8年)府知事・槇村正直の仲人で襄と婚約。女紅場を退職、翌年襄と結婚した。1876年(明治9年)、八重は京都初の洗礼を受けた。全国的にまだキリシタン迫害の気風が残っていただけに、女性が堂々と洗礼を受けることは相当の勇気が必要だったと思われる。ともあれ、欧米流のレディファーストが身に付いていた襄と男勝りの性格だった八重は似合いの夫婦だった。

 1878年(明治11年)、同志社女学校が正式に開校となり、同志社社長に襄、結社人山本覚馬、教師は外国人宣教師があたった。
 1890年(明治23年)、夫の襄が46歳の若さで病気のため急逝。二人の間には子供がおらず、新島家にも襄以外に男子がいなかったため、養子を迎えた。ただ、この養子とは疎遠で、その後の同志社を支えた襄の多くの門人たちともソリが合わず、同志社とも疎遠になっていったという。この孤独な状況を支えたのが女紅場時代に知り合った円能斎で、その後、円能斎直門の茶道家として茶道教授の資格を取得。茶名「新島宗竹」を授かり、以後は京都に女性向けの茶道教室を開いて自活し、裏千家流を広めることに貢献した。

 当時の女性としては珍しく、精神的にも経済的にも自立した八重は、世間の目に左右されることなく、自分の気持ちに忠実に生きたといえよう。日清・日露戦争では篤志看護婦となって、劣悪な環境の下で傷病兵の看護にあたった。看護婦の中には伝染病で亡くなった女性もいたほど。その功績により勲七等、そして勲六等を受章し、1928年(昭和3年)、昭和天皇の即位大礼の際に、銀杯を授与された。その4年後、夫の襄の死から42年間、一人で過ごした寺町丸太町上ルの自邸(現在の新島襄旧邸)で、八重は87年の生涯を閉じた。

(参考資料)徳富猪一郎「蘇翁夢物語-わが交遊録」

額田 王・・・天武、天智両天皇とのロマンスが光彩放つ万葉集のスター

 大海人皇子(天武天皇)と中大兄皇子(天智天皇)の二人に愛された額田王のロマンスは日本古代史を飾る大輪の花のように華やかな光彩を放っている。彼女は初め、宮廷に仕えていたとも言われているが、美しいうえにずば抜けた歌の才能を持っていた。「万葉集」には長歌三首、短歌九首が載り、万葉初期歌人中、群を抜いている。落ち着いた愛の歌、女の息吹が聞こえる情熱の歌など数が多いだけでなく、格調も一段高い。「万葉集」のスターだ。

 天智天皇が蒲生野で薬草刈りをしたとき、彼女と昔の恋人・大海人皇子の間に取り交わされた相聞歌
あかねさす紫野ゆき標野ゆき 野守は見ずや君が袖ふる
はとくに有名。これは怖い亭主(天智天皇)のいる前で、かつての恋人(大海人皇子)が人目を忍んで手を振るのを見てハラハラするというものだ。そして、これに応えて、大海人皇子は
 紫の匂える妹を憎くあらば 人妻ゆゑにわれ恋ひめやも
と歌っている。

 しかし、近年の研究分析では、これらの歌は密かに贈った歌ではなく、薬草刈り後の宴で、この二人がかけあいで詠んで宴の興趣を盛り上げたという説が有力になっている。したがって、兄弟で一人の女を取り合って火花を散らしたということではないようだ。

 また、当時の女性は二婚三婚しているケースは決して珍しいことではない。一人の女を二人の男が争うといっても、命を賭けるような争いにはならず、きょう結婚してあす別れ、一週間後に別の男と、などということはよくあったという。現代の“不倫”などとは全く違う次元のものだ。

 額田王をめぐって、中大兄皇子と大海人皇子の兄弟が争って、それが壬申の乱になったという説があるが、これは俗説だ。ただ、斉明女帝の御世、朝鮮出兵のとき伊予で有名な
熟田津に船のりせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
と歌ったころに、額田王の心は夫・大海人皇子から中大兄皇子に移ったといわれる。

というのは、この少し前に中大兄皇子は自分の二人の娘(姉・大田皇女と妹・後の持統天皇)を大海人皇子に嫁がせている。これは皇太弟で実力者の大海人皇子を抑えるための、いわば懐柔策ともみられているが、恐らく額田王としては内心穏やかではない。二人の皇女は自分より10歳以上も若いのだ。そんな精神状態のとき、これはあくまでも推測だが、中大兄皇子が「ゆくゆくはあなたの娘(十市皇女)をわが子大友皇子(弘文天皇)の嫁にもしよう」といったような、いい条件を持ち出して口説いたのではないか-と思われる。中大兄皇子はこのときの朝廷一番の権力者だ。そこで、娘の十市皇女の将来を考え合わせ、才女・額田王は中大兄皇子に乗り換えた(?)のではないか。その結果、二人の兄弟天皇に愛を受けた女性、額田王というヒロイン像ができあがったのだ。

(参考資料)永井路子「茜さす」、黒岩重吾「茜に燃ゆ 小説 額田 王」、永井路子対談集「額田 王」(永井路子vs大岡信)、日本史探訪/池田弥三郎「古代の激動期を彩る女流歌人 額田王」

ねね・・・士民出の戦国女性代表で、識見高い、太閤秀吉の正室

 ねね(のちの高台院)は応仁の乱を機に、それまでの階級制が崩れ、台頭してきた才覚、実力のある士民階級出の代表的な戦国女性の一人で、識見豊かな太閤秀吉の正室=北政所だった。幼名には諸説あるが、一般的には「ねね」、あるいは「おね」。秀吉の養子となり、後に小早川家を継いだ小早川秀秋は甥。

 豊臣秀吉の死後、天下が東軍・西軍に二分して対立した際、京都・高台寺に隠居したねねの“関ケ原工作”が奏功していれば、豊臣家は小大名として名を残し、今日でも「豊臣さん」という人がいたはずだ。

ねね=高台院は、豊臣秀頼を総大将とする西軍ではなく、時流は東軍=徳川にあると苦渋の判断を下した。そして秀吉子飼いの家来で、かつては彼女が母のように面倒をみた加藤清正、福島正則らとともに徳川方についた。それもこれも小大名となっても、豊臣の名を残すことが、亡き秀吉への最良のプレゼントになると考えたからに他ならない。しかし、故太閤の遺児と側室という、誇りや意地にこだわった、秀頼と淀君の愚かな対応が、ねねのその思いを無にしたのだ。

 大坂の陣が始まったとき、ねねは秀頼・淀君を説得するため大坂城に行こうとした。しかし、政治的に混乱すると困ると考えた徳川家康は人を使ってこれを止めている。また、家康は関ケ原以後、豊臣家攻略には随分、時間をかけている。これは天下の人心を考えたからだが、このねねの存在に十分配慮したためで、一気に決着をつける、むごい仕儀を差し控えたのだ。
 
 ねねの官位は従一位。生没年は推定1542~1624。杉原、木下、浅野の三姓があって、父親は不明。出生地もよく分からない。叔母の嫁ぎ先、尾張国海東郡津島(現在の津島市)の、織田信長のお弓頭・浅野長勝の養女だったが、14歳のとき木下藤吉郎(秀吉)に請われて結婚。当時は政略結婚が普通だったが、この結婚は珍しく恋愛結婚の部類に入るだろう。

ねねの性格はおおらかで、識見高く、秀吉が関白になってから、大名の処分や国、郡統廃令などについて意見を求められた。秀吉には多くの愛妾がいたが、妾たちには公正な態度で臨み、嫉妬や自分の好悪の感情で傷つけることはなかった。

 1585年(天正13年)、秀吉が関白に任官したことに伴い。従三位に叙せられ北政所と称した。1588年、後陽成天皇が聚楽第に行幸、その還御の際に従一位に叙せられた。1598年(慶長3年)、秀吉が没すると落飾し、高台院湖月尼と称した。1599年、大坂城西の丸を退去し、京都三本木の屋敷に隠棲。1605年(慶長10年)、秀吉の冥福を祈るために家康に諮り、京都東山に高台寺を建立、ここを終焉の地と定めた。1615年(慶長20年)、大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡した後も、江戸幕府の保護を受けていた。

(参考資料)対談集 永井路子vs司馬遼太郎

一橋直子・・・幕末、一橋家を取り仕切り、慶喜を助け支えた若い義母

 一橋直子(ひとつばしつねこ)は伏見宮家の姫として京都に生まれたが、わずか11歳で一橋慶寿のもとへ嫁いだ。子に恵まれぬまま夫が他界したため、養子を迎えた。その養子が、後に徳川第十五代将軍となった慶喜だった。慶喜よりわずか7歳年上の彼女は、慶喜の母親として、そして当主・慶喜が不在の折は女当主として一橋家を見事に取り仕切り、才女ぶりを示した。また、京の中川宮、輪王寺宮、仁和寺宮らは直子の甥にあたり、朝廷工作をする慶喜を、直子は実家である伏見宮家の縁を利用し、陰から慶喜を助け支えたと思われる。直子は京都の有力公家の出の姫ながら、才覚のある女性だった。

 一橋直子は東明宮直子といい、のち嫁ぎ先の夫に先立たれた以降は徳信院といった。直子は天保12年の暮れ、わずか11歳で江戸へ下り、一橋慶寿のもとへ嫁ぎ、不幸にも子宝に恵まれないまま夫は他界。そこで幼少の養子を迎えるが、その養子が2歳で死去。その養子として迎えたのが慶喜だった。直子とは系図上、祖母と孫養子の関係になるが、慶喜が一橋家を相続した12歳当時、直子改め徳信院はまだ19歳だった。つまり、わずか7歳年上の母親で、周囲の目には姉弟のように映ったといわれる。

 慶喜が一橋家に入った当時は、ともに永代一橋別邸で穏やかな日々を送った。当時の十二代将軍家慶は、この少年当主(慶喜)を可愛がり、よく別邸を訪ね、その聡明さに感心していたという。そのため5年後、浦賀にペリーが来航した際、一橋慶喜が将軍家存続の要人として注目を浴びるもととなったのだ。

 一橋家は田安・清水家と並び、将軍家となる資格を持つ三卿の家柄の一つで、本邸は江戸城の一ツ橋内、現在の皇居平川門に面する細長い土地にあった。一橋家は個人よりも家、家よりも主君、将軍家を大事とする。その家の主人である直子は、個人の幸せよりも将軍家を大事としなければならなかった。

十三代の新将軍家定が病弱で、この黒船騒ぎ以後、慶喜を次期将軍に推す動きが慶喜の実父、水戸藩主水戸斉昭、薩摩藩主島津斉彬、越前藩主松平春嶽らから起こり、紀州慶福(よしとみ)を推す大老井伊直弼らと対立。一橋家は当主が早世のために慶喜を迎えてやっと安定したというのに、この政争に一橋家が巻き込まれることを直子は悩み、慶喜に一橋家に留まるよう詰め寄ったといわれる。慶喜も一時はこれに応じ、大奥へ働きかけて、このときの将軍後継話は潰れている。直子が政治に関して自分の意見を言った点で、当時の将軍家周辺の女性としては珍しい存在だったと思われる。

 大名ならば跡継ぎがなければお家断絶とされていた当時、三卿(田安家・一橋家・清水家)の場合は一代ごとに将軍から禄を拝領する形になり、当主不在でもお家の存続は可能だったため、女当主が取り仕切ることもできた。そのため、慶喜が「安政の大獄」で井伊直弼から隠居謹慎処分を受けた間、将軍後見職として京で政権を動かした間と、維新に至るまで直子が一橋家の当主として家を守ったのだ。

 慶喜の三女、鉄子を一橋家跡取りの達道の妻に迎えたのを見届け、直子は明治26年、他界した。

(参考資料)遠藤幸威「女聞き書き 徳川慶喜残照」