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豊臣秀吉・・・信長に仕えて学び取った「大局観」で天下人に

 今日、立身出世譚の代表ともいわれる日吉丸→木下藤吉郎→羽柴秀吉→豊臣秀吉→太閤秀吉-の記録には、様々な矛盾や謎が多い。「農民の心」と「商才」と「武士の魂」で天下を取った男、豊臣秀吉の実像とは?秀吉の生没年は

 豊臣秀吉の20歳前後、織田信長に仕えるまでの経歴はほとんど分からない。生年月日すらはっきりしない。分かっているのは1.尾張中村の土民の小せがれとして1535年(天文4年)か1536年(天文5年)に生まれ、サルとあだ名を付けられた少年だったこと、2.継父との折り合いが悪くて幼くして家を飛び出し、濃尾地方を戦災孤児のような形で放浪したこと、3.そのころは与助という名前で、小溝で小魚をすくって人に売って命をつなぎ「どじょう売りの与助」と呼ばれていたらしいこと、4.14、15歳のころ縫い針の行商人となって遠州に放浪して行き、浜名の城主、松下之綱に拾われて、初めて武家奉公して数年いたが、何かの事情があって、暇を取って尾張に帰り、20歳前後のころに信長の家に小物奉公した-というくらいのことで、その間の子細は一切分からない。尾張蜂須賀郷の野武士蜂須賀小六ら野武士の下働きとして飯を食わされ、あまりにも悲惨で自ら思い出すのも嫌な期間があったことは推察される。

 江戸時代、徳川幕府に対する批判の意味と、家康によって滅ぼされた豊臣氏に対する追慕の情とが相まって、いくつもの『太閤記』が世に出され、ベストセラーとなっている。そして『絵本太閤記』や『真書太閤記』など読物的になっていくにつれ、創作された部分が増え、ノンフィクションからフィクションへという傾向が顕著になっていった。秀吉が信長に仕えるまでに38回も職を変えたというのは少しオーバーだが、秀吉が若いころ様々な職業に就いたことは事実だ。そして「貧しい百姓のせがれ」として生まれながら、若いころから商才を身につけていた。その商才が、武家奉公してからの秀吉には相当プラスになった。まさに「農民の心を持ち、商才を身につけ、武士として振る舞った」といっていい。

 秀吉は人の嫌がること、最も危険なことを進んで引き受け、この積み重ねが信長の信頼を固めていった。それは、無理に自己を奮い立たせてやったというより、幼少時代からの不遇による経験および教訓を踏まえ、「才」プラス「誠実」という命がけの勤勉さがそうさせたのであり、ひいては未曾有の大成功者を生んだのだ。

 秀吉は諸説あるが、『太閤素生記』などによると、1554年(天文23年)18歳で信長の小者として仕え、信長のすべてを受け入れられる境遇からスタートした。この点が、ともに信長の薫陶を受けてきた同志ではあったが、明智光秀との大きな違いだった。光秀は、秀吉とともに信長のお気に入りだったが、彼は40代も半ばで織田家に仕官し、すでに自己というものができ上がっていたうえで、信長に接することになったため、客観的な判断に自身との比較、そこから生じる信長に対する批判を自分の中に抱えることになってしまったのだ。
 秀吉は決して生まれながらの“大気者”ではなかった。10代で家出し、放浪する中で、生きていくための方便として、意識的に明るさを身につけたのだ。光秀が重役待遇でスカウトされて中途入社したのに比べ、秀吉はアルバイト要員の補充といった立場で織田家をスタートした。それだけに秀吉は一途に、アルバイトから正社員として召し抱えてくれた信長に、気に入られるべく懸命に努力した。織田家で生きていくには、信長のすべてを受け入れなければならない。短気で激しやすい気性、言葉など四六時中、観察し信長という人間を最もよく理解し、己れのものにしたのではないか。

 秀吉がこうして信長の中に様々なものを見て、そして学んだ。その最も大きなものが時勢を読み取る「大局観」だった。信長には、将軍を擁して京都に旗を立て、大義名分を明らかにし、楽市楽座の経済政策や海外貿易によって国力を豊かに、そして最新兵器を多量に揃えて、遠交近攻の外交・軍事戦略をもって臨めば、自ずと天下の統一は達成できるとの読みがあった。こうした信長の大局観を、秀吉は足軽から足軽組頭、部将、城代、方面軍司令部と立身出世していく過程で、身をもって学ぶことができたのだ。

 秀吉は信長の欠点すら、反面教師として学習を怠らなかった。組織に属している限りは、部下の立場で上司は選択できない。その選択の余地のない上司を批判し、愚痴ってみても、何の解決にも、プラスにもならない-と。その結果、秀吉の独自色と、周囲の彼に対する信頼、あるいは人望が生まれたのだ。

 こうして秀吉は自己を確立し、主君・信長の横死という悲嘆の底から、毛利攻めの中国遠征から史上有名な大撤退作戦「中国大返し」を敢行。2万余の軍団を率いて、凄まじい速度で昼夜走り続け、天下取りの千載一遇の好機を自身へ導くことに成功。光秀に京都・山崎の地で史上最大の“弔い合戦”を挑んで、これに勝利したのだ。

 秀吉には終生、劣性コンプレックスがつきまとっている。素性の卑しさ、体格の矮小、容貌の醜悪さのためだ。しかし、彼はそれに圧倒されはしなかった。それを跳躍板にして、飛躍している。彼が常に大きいことを心掛け、大言壮語したのは、そのコンプレックスを圧倒するためだったに違いない。大掛かりな城攻めをしたのも、壮麗な聚楽第や伏見城や大坂城を築いたのも、二度も皇族、公卿、大名らに巨額な金銀配りをしたのも、奈良の大仏以上の大仏をこしらえたのも、そのためだろう。いずれにしても、彼の劣性コンプレックスは彼の人気を高め、彼を成功させ、彼を“天下取り”に仕上げたのだ。

(参考資料)今谷明「武家と天皇」、井沢元彦「逆説の日本史」、堺屋太一「豊臣秀長」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、加来耕三「日本補佐役列伝」、神坂次郎「男 この言葉」、海音寺潮五郎「史談 切り捨て御免」、海音寺潮五郎「武将列伝」、司馬遼太郎「新史 太閤記」、司馬遼太郎「豊臣家の人々」、司馬遼太郎「この国のかたち 一」、司馬遼太郎「覇王の家」

高橋泥舟・・・鳥羽伏見での敗戦後、恭順を説き、支え続けた慶喜の側近

 高橋泥舟は槍術の名手で、第十五代将軍慶喜の側近を務めた。鳥羽伏見の戦いで敗戦後、江戸へ戻った慶喜に恭順を説き、慶喜が水戸へ下るまでずっと、側にあって護衛し支え続けた。勝海舟、山岡鉄舟とともに「幕末の三舟」と呼ばれる。生没年は1835(天保6)~1903年(明治36年)。

 高橋泥舟は旗本山岡正業の次男として江戸で生まれた。幼名は謙三郎。後に精一郎、通称は精一。諱は政晃。号を忍歳といい、泥舟は後年の号。母方を継いで高橋包承の養子となった。生家の山岡家は自得院流(忍心流)の名家で、精妙を謳われた長兄山岡静山について槍を修行。海内無双、神業に達したとの評を得るまでになった。生家の男子がみな他家へ出た後で、静山が27歳で早世。山岡家に残る妹、英子の婿養子に迎えた門人の小野鉄太郎が後の山岡鉄舟で、泥舟の義弟にあたる。

 1856年(安政3年)、泥舟は幕府講武所槍術教授方出役となった。21歳のときのことだ。25歳の1860年(万延元年)には槍術師範役、そして1863年(文久3年)一橋慶喜に随行して上京、従五位下伊勢守を叙任。28歳のことだ。1865年(慶応2年)、新設の遊撃隊頭取、槍術教授頭取を兼任。1868年(慶応4年)、幕府が鳥羽伏見の戦いで敗戦後、逃げるように艦船で江戸へ戻った慶喜に、泥舟は恭順を説いた。

以後、江戸城から上野寛永寺に退去する慶喜を護衛。勝海舟・西郷隆盛の粘り強い会談の結果、江戸の町を舞台とした官軍と幕府軍との激突が回避され江戸城の無血開城、そして慶喜の処遇が決まり、水戸へ下ることになった慶喜を護衛、支え続けた。

 勝海舟が当初、徳川家処分の交渉のため官軍の西郷隆盛への使者としてまず選んだのは、その誠実剛毅な人格を見込んで高橋泥舟だった。しかし、泥舟は慶喜から親身に頼られる存在で、江戸の不安な情勢のもと、主君の側を離れることができなかった。そこで、泥舟は代わりに義弟の山岡鉄舟を推薦。鉄舟が見事にこの大役を果たしたのだ。そして泥舟の役割はまだ終わっていなかった。後に徳川家が江戸から静岡へ移住するのに伴い、地方奉行などを務めた。

 明治時代になり、主君の前将軍が世に出られぬ身で過ごしている以上、自身は官職により栄達を求めることはできないという姿勢を泥舟は貫き通した。幕臣の中でも、明治時代になって新政府から要請があって、この人物が戊辰戦争で本当に敵・味方に分かれて戦ったのかと思うくらい、新政府の中で要職に登り詰めた人も少なくないが、泥舟は幕府への恩義は恩義として、金銭欲も名誉欲も持たず、終生変わらぬ姿勢を保持した人物の一人だった。

 山岡鉄舟が先に亡くなったとき、山岡家に借金が残り、その返済を義兄の泥舟が工面することになった。しかし、泥舟自身にも大金があるはずがなく、金貸しに借用を頼むとき「この顔が担保でござる」と堂々といい、相手も「高橋様なら決して人を欺くことはないでしょう」と顔一つの担保を信用して引き受けた-といった、泥舟の人柄を示す逸話が多く残っている。
 廃藩置県後、泥舟は引退して書家として生涯を送った。

(参考資料)海音寺潮五郎「江戸無血開城」

道元・・・異国での修行研鑽で自己の信仰を決定した曹洞宗の開祖

 鎌倉新仏教の祖師と呼ばれる人々の中で、曹洞宗の開祖・道元は極めて異色の存在だった。鎌倉新仏教は末法の世が到来したという仏教の予言を信じ、その現実認識を大前提として生まれ、そして発展していった。ところが、道元は末法の到来を頑として認めず、いわば反時代的な信念のもとに、独自の骨太い思想、宗教の世界を構築してみせた。また、日本的仏教の伝統に絶望を表明して宋に渡り、異国での修行研鑽によって自己の信仰を決定したというのも、道元だけだ。栄西(臨済宗開祖)は道元に先立って入宋し、臨済禅をわが国に伝えたが、その信仰は日本天台宗の影響を抜け切れなかったし、法然(浄土宗開祖)や親鸞(浄土真宗開祖)、日蓮(日蓮宗開祖)らは海外渡航体験さえ持っていない。

 道元禅師は京都に生まれた。生没年は1200(正治2)~1253年(建長5年)。父は源通親(みちちか)、母は松殿基房の娘(三女の伊子=いし、と推定される)だ。この父母を持ったことが、後年の道元の厳しい姿勢の源だったのではないかと思われる。源通親は変節の政治家で、収賄の大家だった。彼は平家が勢いを得はじめると、最初の妻を捨てて清盛の姪を妻に迎え、清盛の庇護の下に政界にその勢力を伸ばした。そして平家が落ち目になると、二度目の妻を捨てて高倉範子(はんし)を妻とし、後白河法皇の側についた。節操もなく、恥を知ることもない権謀術数の腐敗政治家だった。
道元の母は1183年(寿永2年)、源氏の中でもいち早く都に攻め上った木曽義仲が、後白河法皇の立て籠もる法住寺殿を焼き討ちした法住寺合戦の後で、その義仲によって不幸にも“掠奪”同様のありさまで妻にされた人だ。木曽山中に成人して、戦いしか知らなかった野生の武人、義仲はこの女性に溺れた。この前関白・松殿基房の娘は、一代の風雲児の心を狂わせ戦機を逸させたのだ。

この女性が義仲の死後、世人に疎まれていたのを、源通親が引き取って自分の妻とした。その間に生まれたのが道元禅師だ。父の通親は道元が3歳のとき、母は8歳のとき、それぞれ亡くなった。その後、道元は異母兄にあたる源通具(みちとも)に育てられた。そして13歳の年、道元は母方の叔父にあたる良顕法眼(りょうけんほうげん)を訪ねて出家の志を告げた。そして翌年、天台座主公円のもとで道元は出家したのだ。出家後の名は仏法房道元。つまり、道元という名は天台宗時代のもので、曹洞宗になっても天台宗時代の名を称し続けていたことになる。

 道元は日本仏教史上でも傑出して権門を忌避した人物だ。また性的な誘惑に対して身を持すること厳だった人だ。それは腐敗した政治家を父に持ち、性の犠牲者ともいうべき人を母に持った、生い立ちに原因があったものと推察される。両親の姿が道元の心に、癒されることのない深い傷となって、13歳という若さでの出家、そしてその後の特異な人生を彼に歩ませた大きな原因の一つだろう。
 天台教学を学ぶうちに、道元には一つの疑問が湧いてきた。それは天台宗の教えでは一切の衆生はもともと仏であると教えている。では仏であるはずの人間が、なぜ修行を積まなければならないのか-という点だ。彼はこの疑問を師や先輩たちにぶつけてみた。しかし、まともに答えられる人はいなかった。あるとき、園城寺の公胤を訪ねたとき「禅を学ぶ必要がある」といわれた。

そこで道元は1217年(建保5年)、京都の建仁寺に修行に入った。道元18歳のときのことだ。建仁寺の住持で栄西の高弟、明全(みょうぜん)について宋に渡ったのは1223年(貞応2年)のことだ。天童山景徳寺、阿育王山・天台山ほか、いろいろな寺を訪ねて禅を修行していくうちに、世俗権力との癒着の強い臨済禅に失望し始める。そして、最終的に再び天童山に戻ったところで、道元にとってその後の運命を変えた、生涯の師となる如浄(にょじょう)に出会い師事し、曹洞禅を学ぶことになったのだ。結局、道元は1227年(安貞元年)、28歳の年に帰国し、日本に曹洞禅をもたらした。こうして「只管打坐(しかんたざ)」といって、ただひたすら坐禅を組むことによって、悟りを開くという曹洞禅が全国に広まることになったのだ。

 道元は密教とか天台とかいうようなものを持ち帰ったのではない。人間はみな仏という、徹底した悟りそのものになって帰ってきたのだ。「さとりの深化の過程」について道元は『正法眼蔵』弁道話巻の中で、こう言っている。原文は長く難解なので要約すると次のような内容だ。

「ある人が悟ると、周りにいる者がみんな浄化されて次々に悟る。これらの悟った人の働きに助けられて、その坐禅人はさらに仏としての修行を積むようになり、遂には周りの自然界まで仏の働きをあらわすようになる。しかも本人はそのことを知らない」
こんな生き方ができたらどんなに素晴らしいだろうか。
 主著『正法眼蔵』はハイデッガーなど西欧の現代哲学者からも注目を浴びた。

(参考資料)百瀬明治「開祖物語」、紀野一義「名僧列伝」、懐奘編「正法眼蔵随聞記」、司馬遼太郎「街道をゆく・越前の諸道」

高松凌雲・・・戊辰戦争に随行し、わが国初の洋式野戦病院を設置

 高松凌雲は戊辰戦争の最後の舞台、函館・五稜郭戦争に随行し、わが国初の洋式野戦病院を設置した人物だ。その後、民間救護団体の前身といわれる同愛社を創設。日本における赤十字運動の先駆者とされている。生没年は1837(天保7年)~1916年(大正5年)。
 高松凌雲は現在の福岡県小郡市で庄屋の子として生まれた。名は権平、荘三郎。20歳のとき久留米藩家臣の川原家の養子となった。22歳で江戸にいる兄、古屋佐久左衛門を頼って上京。医師を志すようになる。まず蘭方医として有名だった石川桜所(おうしょ)の門下に入り、オランダ医学を徹底的に学んだ。

その後、大坂に出て全国から俊才が集まっていた「適塾」に入塾し、緒方洪庵の指導を受けた。1861年(文久元年)のことだ。適塾の「姓名録」には580番目に高松凌雲の署名が残されている。凌雲はここで頭角を現し、西洋医学の知識のみならず、オランダ語を操るまでになった。さらに幕府が開いた英学所で学び英語もマスターした。

 1865年(慶応元年)、凌雲の学才を知った一橋家が、彼を一橋家の専属医師として抜擢する、ほぼ時を同じくして一橋家出身の慶喜が第十五代将軍となったため、凌雲は幕府から奥詰医師として登用されることとなった。凌雲はわずか1年数カ月の間に、無名の蘭学書生の境遇を脱し、幕藩体制下における医師の最高位昇りつめたわけだ。伊東玄朴や林洞海、松本良順らの錚々たる大家、それに恩師の石川桜所とも、いまや肩書き上、凌雲は同格だった。

 1867年(慶応3年)、パリ万国博覧会に慶喜が弟の昭武を団長とする派遣団に随行していた凌雲は、パリ博終了後、留学生としてパリに残るよう言い渡された。資金は幕府負担。凌雲が留学先として選んだのがオテル・デュウ(神の家)という病院を兼ねた医学学校だ。彼はここで様々な最新医療に触れた。この病院は貴族、富豪、政治家などの寄付によって成り立っており、国からの援助を受けない民間病院だった。

 1年半にわたるパリ留学を終えて帰国した凌雲は、すでに幕府が崩壊し江戸城は薩長勢に明け渡され、主君・慶喜は水戸で謹慎中という状態に驚いた。彼はパリに留学させてくれた幕府への恩義に報いるため蝦夷地で幕臣の国をつくろうとして旧幕府軍の総帥・榎本武揚らに合流。函館戦争に医師として参加する。

 函館に入ると、凌雲は函館病院の院長に就任した。これは榎本の依頼だったが、「病院の運営には一切口出ししない」という条件を榎本につけたという。凌雲は2階建ての病棟を2棟新築することを決め、工事を急がせた。病院の内治にも意を用い、病院規則を定めて運営の組織化を図った。そして、医務心得、病者取り扱い、看護人心得などの細則を次々と制定し病院管理の近代化を推進した。戦時下、明治2年に落成した新築の病棟はわが国に出現した最初の本格的な洋式野戦病院とされている。
ここで凌雲は、戦傷者であれば敵味方を問わず公平に受け入れて、できる限りの治療を施した。これは当時としては全く異例のことといっていい。当然最初は敵方の兵士とともに治療されることに対して混乱・反発が生まれたが、凌雲はパリで学んだ「神の家」精神を胸に、毅然とした態度でこれを制した。この行動は日本で初めての万国赤十字の精神に通じるものであり、日本史において大きな出来事だった。函館戦争は圧倒的な官軍勢力の前に、ほどなく旧幕府軍の敗北で終結。

 その後、凌雲は東京へ戻って病院を開院。新政府での役職の誘いが多数きたが、それらをすべて断り、町医者として「神の家」の精神を実行する道を選んだ。もし出仕すれば、相当の栄達が約束されていたはずなのに、あえて民医に徹したのは、一つには恩義のある幕府の悲運に準じるという意識を抱いていたからであり、また最後まで奥医師就任を渋り在野の生き方を望んだ適塾の緒方洪庵と同質の精神が脈打っていたからではないか。

洪庵の影響がもっとはっきりしているのは、東京都下貧民の救済医療組織、同愛社を組織したことだ。同愛社は官の補助をあてにしない医療福祉事業団の先駆けとなった。その意味で、医師凌雲にとって、適塾はまさしく出発点であり、心の故郷だったわけだ。

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」、百瀬明治「『適塾』の研究」

遠山景元・・・実像は意外にしたたかな高級官僚“遠山の金さん”は虚像

 遠山景元は江戸時代の旗本で天保年間に江戸北町奉行、後に南町奉行を務めた人物で、テレビの人気番組「遠山の金さん」のモデルとして知られる。しかし、講談、歌舞伎、映画、テレビなどで取り上げられ、脚色して、繰り返し演じられていくうちに、形が整って“遠山の金さん”像は作り上げられたものだ。したがって、モデルとなっているが、厳密にはこの遠山景元が“金さん”とはいえない。“金さん”はあくまでもエンタテインメントの世界の虚像だ。

 遠山景元は、あの「天保の改革」(1841~43)を推進した老中筆頭・水野忠邦を主人として、いわばその「補佐役」を担った人物だ。正式な名乗りは遠山左衛門尉景元(とおやま・さえもんのじょう・かげもと)、または遠山金四郎景元。幼名は通之進。父親は秀才で長崎奉行、勘定奉行などを務めた遠山左衛門尉景晋(かげくに)。

 景元は1840年(天保11年)、40歳前後で北町奉行に任命された。3年務めて大目付に転出し、1845年(弘化2年)から1852年(嘉永5年)までの約7年間、南町奉行に任じられた。ただ、「寛政重修家譜」(787巻)によると、景元の通称は“通之進”だ。つまり、“通さん”であって、“金さん”ではない。景元の父は町奉行の経験はなかった。景晋・景元の父子が桜吹雪や女の生首の彫り物をしていたという、確かな記録もない。俗説によれば、景元はいつも手首にまで及ぶ下着の袖を、鞐(こはぜ)でずれないよう手首のところで留めていたという。

 遠山氏は美濃の名流だが、景元の家は分家の、それも末端で、初代の吉三郎景吉以来の旗本といっても、500国取りの中クラス。ごく平凡な家だったが、景元の祖父、権十郎景好(四代)のとき、その後の家督をめぐる、ちょっとした“事件”が起きる。景好は子に恵まれなかったため、1000石取りの永井筑前守直令(なおよし)の四男を養子として迎えた。それが景晋だ。景晋は永井家の四番目の男子ということで、“金四郎”と名付けられたわけだ。景晋は幕府の「昌平坂学問所」をトップで卒業した秀才中の秀才だった。松平定信の「寛政の改革」による人材登用で抜擢され、ロシアの使節レザノフが来日した折、その交渉の任にあたっている。次いで蝦夷地の巡察役に、1812年(文化9年)から13年間は作事奉行、または長崎奉行となり、さらに68歳の1819年(文政2年)から10年間、勘定奉行を務めた。

 この後、問題が起こる。晩年になって養父の景好に実子の景善(かげよし)が誕生したのだ。養子の景晋にすれば困惑したに違いない。熟慮の末、景晋は景善を自分の養子にした。これで遠山家の血は元に戻るはずだったが、皮肉にも景晋に実子、通之進=景元がその後に生まれたのだ。景晋とすれば、当然のことながらわが子=実子の方がかわいい。ただ、武家の家には秩序というものがある。そこで景晋は景元を、養子景善のさらなる養子とした。いらい、景晋は健康に注意して長生きを心がけた。彼が78歳まで幕府の要職にあり続けたのは、家督を景善に譲りたくなかったのと、通之進の行く末をでき得る限り見届けたいとの思いが強かったからに違いない。家督をめぐる、実父と養父の確執に悩まされた通之進(=景元)が、遂にいたたまれなくなって家を出て、一説に11年間もの放蕩生活だったとも伝えられるのはこの時期のことだ。

 そして1824年(文政7年)、景善が病没した。そこで翌年、32歳前後で景元は晴れて実父景晋の家督を相続、幕府へ召し出された。ほぼ実父と同様のコースを歩んだが、40歳で小納戸頭という管理職に就き、1000石取りとなってからの出世のスピードは尋常のものではなかった。2年後、作事奉行(2000石)となり、やがて44歳で勘定奉行に就任したのだ。このポストは秀才官僚の父・景晋が68歳でようやく手に入れたことを考え合わせると異常だ。しかも景元はその2年後に北町奉行の栄転している。

 では、景元の出世は何に起因していたのだろうか。答えはずばり「天保の改革」にあった。天保の改革はそれ以前の享保、寛政の改革に比べ、庶民生活の衣食住にまで事細かく干渉し、統制した点において特色があった。改革を企画・立案し、実行に移したのは老中首座・水野忠邦で、その片腕と評されたのが鳥居耀蔵だったと一般にはいわれている。講談や歌舞伎では、この二人に敢然と立ち向かい、庶民のために活躍したのが“遠山の金さん”だが、加来耕三氏は現実はむしろ逆だった-としている。節約令、物価引下げ政策、綱紀の粛正、中でも水野が直接に庶民の生活統制に乗り出したのは、天保12年の「祭礼風俗の取締令」からだが、これを推進したのが北町奉行の景元と、少し遅れて南町奉行となった鳥居の二人だった。

景元は放蕩生活で庶民生活にも通じていたから、歌舞音曲、衣服はもとより、凧揚げ、魚釣り、縁台将棋の類まで徹底して取り締まった。史実の“金さん”は世情に通じた、したたかな高級官僚で、水野の「補佐役」だった。そして、1845年(弘化2年)、“妖怪”と酷評された鳥居が主人の水野とともに失脚したにもかかわらず、景元は幕閣に生き残り続けている。景元が水野の右腕となって“天保の改革”を推進できたのは、放蕩生活を通じて得た情報だ。また、その情報網を駆使し水野のアキレス腱を日常から調査し、把握して冷静に手を打っていたのではないか。1855年(安政2年)、景元は実父より若い61歳でこの世を去っている。

(参考資料)童門冬二「遠山金四郎景元」、童門冬二「江戸管理社会反骨者列伝」加来耕三「日本補佐役列伝」、佐藤雅美「官僚 川路聖謨の生涯」、尾崎秀樹「にっぽん裏返史」

直江兼続・・・120万石から30万石になった上杉藩を差配した智将

 上杉家の領地は、関ケ原合戦が起こるまで会津を中心に120万石もあった。関ケ原以後は4分の1の30万石になってしまった。西軍には参加しなかったが、徳川に敵対行動を取ったからだ。主君上杉景勝にそのような態度を取らせたのは筆頭家老の直江山城守兼続だ。わかりやすくいえば、彼の失敗が90万石の減俸に相当したわけだ。当然、彼が責任を取って切腹することもあり得たし、景勝が切腹を申し付けてもおかしくはない。ところが、現実にはそういうことにはならなかった。

 残った30万石の領地は、家老の直江が景勝から貰っていた米沢領だ。景勝がこの米沢30万石に移封となり、兼続は景勝から5万石を賜ったが、4万石を諸士に分配、さらに5000石を小身の者たちに与え、自分のためには5000石を残しただけだったという。そして、石高が4分の1に減ったのだから藩士を減らして当たり前なのだが、上杉家は家臣に対し米沢についてくる者は一人も拒まぬことを決め、120万石時代の家臣を米沢30万石に迎え、堂々たる(?)貧乏藩米沢のスタートを切る。この時代「すべて私の責任です」と切腹する方がどれくらい楽か知れないのに、苦しい辛い道を選んで平然としていた直江兼続とはどのような人物だったのか。

 木曽義仲四天王の一人に樋口次郎兼光がいた。直江兼続はこの樋口兼光の子孫で、直江家に入る前までの彼の名は樋口与六だ。樋口家は父の樋口兼豊の代にはかなり衰えていた。上杉謙信の家来に、能登の石動山城城主を務める直江実網という武将がいた。兼続が直江実綱の養子になったのは何年のことか分からないが、22歳の時に直江家を相続したのははっきりしている。天正9年(1581)のことだ、そして、翌年、兼続は山城守の称を許されている。まだ23歳の若さで家老クラスに昇ったわけだ。

というのも上杉謙信の養子となり後年、上杉家当主となる上杉景勝と、兼続は“ご学友”として直江実綱のもとで一緒に育った時期があるのだ。後年、二人の連携プレイが繰り広げられたのはこうした背景があるからだ。兼続は謙信にまもなく登用され、少年の身で参謀になるが、あまりにもスピードの速い栄進ぶりに家中では、「樋口与六は謙信公の稚児だ」との噂が立ったほど。

 直江兼続の名を一段と高めたのは織田信長亡きあと、天下人に昇りつめる豊臣秀吉だ。その過程で、柴田勝家を越前北ノ庄城に破り、次いで佐々成政を降伏させた後、上杉とは事を構えたくない秀吉が、当主上杉景勝の信用があって、非戦論の持ち主で、格好の交渉相手として白羽の矢を立てたのが直江兼続だ。この交渉の根回しをやったのは、兼続と同じ年齢の石田三成だ。

 翌年、上杉景勝は大軍を率いて上洛した。秀吉の関白就任祝賀が名目だが、つまり秀吉の覇権を公式に承認し、その下に屈することを表明するわけだ。兼続ももちろん同行するのだが、秀吉の兼続に対する態度はまるで大名に対するようだった。上杉と戦わずに済んだのはこの男のお蔭だという思いが強かったのだろう。景勝と兼続との信頼関係を十分に見抜いていたから、自分がどれだけ兼続を厚遇しても君臣の間にヒビの入るおそれもないと分かっていたからに違いない。

 慶長2年(1597)、上杉景勝は秀吉五大老の一人となり、その翌年、上杉家は会津120万石に移された。そして、このうち米沢30万石が直江兼続の所領になった。30万石の家老は空前絶後である。大名でも10万石以上となると、数えるほど少ない、そんな時代のことだ。上杉藩における兼続の存在の大きさ、重さの何よりの証だ。

(参考資料)藤沢周平「蜜謀」、童門冬二「北の王国 智将直江兼続」、奈良本辰也「日本史の参謀たち」                             

西周・・・慶喜の政治顧問を務め、わが国に西洋の諸文明を総合的に紹介

 西周(にしあまね)は、大政奉還前後の期間、第十五代将軍・徳川慶喜の政治顧問を務めた人物だ。また、わが国に西洋の諸文明を初めて総合的に紹介した人物の一人で、西洋哲学の翻訳・紹介など哲学の基礎を築くことに尽力。福沢諭吉とともに西洋語の「philosophy」を音訳でなく、翻訳語として、「哲学」という言葉を創った。このほか、「芸術」「理性」「科学」「技術」「主観」「客観」「帰納」「演繹」など、今日ではあたり前になっている多くの哲学、科学関係の言葉は西の考案した訳語だ。

 西周は石見国津和野藩(現在の島根県津和野町)の御典医、西時義の長男として生まれた。父・西時義は、森鴎外の曽祖父・森高亮の次男で、周にとって鴎外は従兄弟の子にあたる。年齢は30歳以上違う。周の生家の川向いには親戚、鴎外の生家がある。幼名は経太郎、明治維新後、周(あまね)と称した。幼時から漢学に親しみ、1841年(天保12年)藩校養老館で蘭学を学んだ。江戸時代後期の幕末から明治初期の啓蒙家、教育者。生没年は1829(文政12)~1897年(明治30年)。

 数え年20歳のとき、朱子学に専心することを命じられ、大坂、岡山に遊学した後、藩校の教官となった。1854年、ペリー来航により江戸に派遣され、時勢の急迫を感じ、翌年脱藩して洋学に専心。1857年(安政4年)には蕃書調所の教授手伝並となり、同僚の津田真道、加藤弘之などとともに哲学ほか西欧の学問を研究。1862年(文久2年)には幕命で津田真道、榎本武揚らとともにオランダ留学し、フィセリングに法学を、またカント哲学、経済学、国際法などを学んだ。このときフリーメイソンに入会、その署名文書はライデン大学に現存する。

 1865年(慶応元年)に帰国した後、大政奉還前後においては、将軍徳川慶喜
の政治顧問を務め、1868年(慶応4年)、幕府の沼津兵学校初代校長に就任。1870年(明治3年)、明治政府の兵部省に入り、以後、文部省、宮内省などの官僚を歴任。軍人勅諭、軍人訓戒の起草に関係するなど、軍制の整備とその精神の確立に努めた。

 軍人勅諭、正確には『軍人に賜りたる勅諭』は、西周が起草し、井上毅が全文を検討し、福地源一郎が兵にも分かるように、文章をやわらかくした。公布されたのは1882年(明治15年)だった。
 周は1873年(明治6年)、森有礼、福沢諭吉、加藤弘之、中村正直、西村茂樹、津田真道らとともに「明六社」を結成し、翌年から機関誌「明六雑誌」を発行。西洋哲学の翻訳・紹介に努めた。1890年(明治23年)、帝国議会開設にあたり、周は貴族院議員に任じられた。

 明治維新後の文化史を語るとき、西周は欠かすことのできない人物だが、同時代に活躍した福沢諭吉ほどよくは知られていない。それは、周が福沢のように政府の外部にあって自由主義を説く立場をとらず、体制内にあって漸進的立憲君主制の立場をとったからだ。そのため、周を“御用学者”と見做して過小に評価されている側面があるのだ。哲学、科学に限らず様々な分野で日本の近代化に貢献した功績は、再評価されてしかるべきと思われる。

 森鴎外は西周没後の1898年(明治31年)、正伝ともいうべき「西周伝」を書いている

(参考資料)司馬遼太郎「この国のかたち 四」

中江兆民・・・日本の自由民権運動の理論的指導者でジャーナリスト

 中江兆民はフランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーを日本へ紹介して自由民権運動の理論的指導者となっていたことで知られ、「東洋のルソー」と評される。第一回衆議院議員総選挙当選者の一人。1865年(慶応元年)、土佐藩が派遣する留学生として長崎へ赴きフランス語を学ぶが、このとき郷士の先輩、坂本龍馬と出会っており、龍馬に頼まれてたばこを買いに走ったなどの逸話を残している。江戸時代後期から明治の思想家、ジャーナリスト、政治家。生没年は1847(弘化4年)~1901年(明治34年)。

 兆民は土佐藩足軽の元助を父に、土佐藩士青木銀七の娘、柳を母として高知城下の山田町で生まれた。兆民は号で、「億兆の民」の意味。「秋水」とも名乗り、弟子の幸徳秋水(伝次郎)に譲り渡している。名は篤介(とくすけ、篤助)。幼名は竹馬。中江家は初代伝作が1766年(明和3年)に郷士株を手に入れ、新規足軽として召し抱えられて以来の家系で、兆民は四代にあたる。長男の丑吉は1942年(昭和17年)に実子のないまま死去し、中江家は断絶している。

1866年(慶応2年)江戸へ出て、1871年(明治4年)洋学者・箕作秋坪(みつくりしゅうへい)の「箕作塾三叉(さんさ)学舎」に入門。どうしてもフランスに行きたいと思っていた兆民は政府中、最大の実力者、大久保利通に直談判し成功。同年、岩倉ヨーロッパ使節団の一員に加わって留学生となった。1874年(明治7年)アメリカを経てフランスに入り、リヨンやパリで学ぶが、このころルソーの著書に出会い、パリで西園寺公望や岸本辰雄、宮崎浩蔵らと親しくなった。

 1874年(明治7年)帰国し、東京で仏学の私塾「仏蘭西学舎」を開き、ルソーの著書「民約論」や「エミール」などをテキストとして使用する。1875年(明治8年)、明治政府より元老院書記官に任命されるが、翌年辞職。「英国財産相続法」などの翻訳書を出版する。

 1881年(明治14年)、西園寺公望とともに「自由」の名を冠した東洋最初の日刊紙(新聞)「東洋自由新聞」を東京で創刊(西園寺公望・社長、中江兆民・主筆)した。同紙はフランス流の思想をもとに自由・平等の大義を国民に知らせ、民主主義思想の啓蒙をしようとしたものだ。当時勃興してきた自由民権運動の理論的支柱としての役割を担うが藩閥政府だった明治政府を攻撃対象としたため、政府の圧力が強まった。とくに九清華家(せいがけ)の一つ、京都の公家だった西園寺が明治政府を攻撃する新聞を主宰することの社会的影響を恐れた三条実美、岩倉具視らは、明治天皇の内勅によって西園寺に新聞から手を引かせたため、結局同紙は「東洋自由新聞顛覆(てんぷく)す」の社説を掲げて第34号で廃刊となった。

 1882年(明治15年)仏学塾を再開し、「政理叢書」という雑誌を発行。1762年に出版され、フランス革命の引き金ともなったジャン・ジャック・ルソーの名著「民約論」の抄訳「民約訳解」をこの雑誌に発表してルソーの社会契約・人民主権論を紹介した。また、自由党の機関誌「自由新聞」に社説掛として招かれ、明治政府の富国強兵政策を厳しく批判。1887年「三酔人経綸問答」を発表。三大事件建白運動の中枢にあって活躍し、保安条例で東京を追放された。そこで兆民は大阪へ行くことを決意。1888年以降、保安条例による“国内亡命中”なのに、大阪の「東雲(しののめ)新聞」主筆として普通選挙論、部落開放論、明治憲法批判など徹底した民主主義思想を展開した。前年、保安条例による東京追放が解除されたため、1890年の第一回総選挙に大阪4区から立候補し当選したが、予算削減問題で自由党土佐派の裏切りによって政府予算案が成立したことに憤慨、衆議院を「無血虫の陳列場」とののしって、議員を辞職した。まさに怒りの辞職だった。

 漢語を駆使した独特の文章で終始、明治藩閥政府を攻撃する一方、虚飾や欺瞞を嫌ったその率直闊達な行動は世人から奇行とみられた。
 主な著書に随想集「一年有半」、兆民哲学を述べた書「続一年有半」などがある。

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」

新渡戸稲造・・・国際連盟・事務次長を務めた国際派の硬骨漢

 新渡戸稲造は曾祖父以来、英才を輩出した新渡戸家の血を引く、高潔でかなり熱い硬骨漢だった。農学者で教育者であり、また国際連盟の事務次長を務めるなど国際的な舞台で活躍し、第二次世界大戦へ突き進む時代の中で平和のために東奔西走しながら亡くなった人物だ。著書『Bushido The Soul of Japan』(『武士道』)は、流麗な英文で書かれ、名著といわれる。日本銀行券D五千円券の肖像としても知られる。

 新渡戸稲造は、盛岡藩士で藩主・南部利剛の用人を務めた新渡戸十次郎の三男として、岩手県盛岡市で生まれた。新渡戸の生没年は1862(文久2)~1933年(昭和8年)。
 新渡戸は9歳で上京し、1873年(明治6年)、東京外国語学校英語科(後の東京英語学校、大学予備門)に入学した。数え年で13歳のときのことだ。その後、1877年(明治10年)、札幌農学校(後の北海道大学)に第二期生として入学。「少年よ大志を抱け」の名言で知られるウィリアム・クラーク博士は去っていたが、そのスピリットはまだ色濃く残っていた。在学中に洗礼を受けキリスト教徒となった。この同期に内村鑑三(宗教家)、宮部金吾(植物学者)、廣井勇(土木技術者)らがいる。1881年(明治14年)札幌農学校卒業した。

 1883年(明治16年)、新渡戸は東京大学(後の東京帝国大学)入学するが、飽き足らず、「太平洋の架け橋」になりたいと考えるようになった。太平洋の架け橋とは、西洋の思想を日本に伝え、東洋の思想を西洋に伝える橋になる-との意味だ。これは美しい理想で、口にはできても、実現するとなるとなかなか容易なことではない。

だが、新渡戸は翌年東京大学を退学し、その思いを実行に移す。私費でアメリカに留学、ジョンズ・ホプキンス大学に入学した。1884年(明治17年)のことだ。やがて、札幌農学校以来の旧来のキリスト教の信仰に確信を持てなくなっていた彼は、クェーカー派の集会に通い始め、正式に会員となり、彼らを通じて、後に妻となるメリー・エルキントンと出会った。アメリカに留学中、札幌農学校助教授に任ぜられ、1887年(明治20年)にはドイツに渡り、ボン大学で農政、農業経済学を研究している。1891年(明治24年)帰国し、札幌農学校教授となった。

 1901年(明治34年)、台湾総督府技師に任ぜられ、殖産事業に参画。1906年、第一高等学校校長となり、7年間在籍。1909年から東京帝国大学教授として植民政策を講義している。さらには1918年(大正7年)、東京女子大学学長となった。

 一方、「太平洋の架け橋」になりたいとの信念のもとに、国際連盟事務次長(1920~26年)あるいは太平洋問題調査会理事長(1923~33年)として、国際理解と世界平和のために活躍した。1933年(昭和8年)、カナダで開かれた太平洋会議に出席したあと、病を得て同年、同地で死去した。日本における農政学、植民政策論の先駆者で、最初の農学博士として著名だ。

 新渡戸は英語で『武士道(Bushido)』を書いた。「武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である」という書き出しで始まるのだが、彼はこの本を通して未開の野蛮国と見られていた日本にも“武士道”という優れた精神があることを世界の人々に紹介したのだ。その結果、新渡戸の名は一躍、世界の知識人に知れ渡った。

 日本国内でも『武士道』が邦訳されて発売されると、たちまちベストセラーになった。それは、明治維新後、西洋文明に圧倒されていた日本人に、自分たちにも世界に誇れる高い精神性、道徳性があることを自覚させ、誇りを与えるものだったからだ。

 ただ、ここで表現されている「武士道」は江戸期までの「武士」の時代に、武士階級の内に自覚され形成された「武士道」と同じではない。あくまでも明治期の一文化人が欧米の習俗に触れ、その基盤となっているものを掴んだと信じたうえで、自己の「道徳性(モラリティ)」の深層を形作っている幼少時の教養の素地を再咀嚼(そしゃく)したうえで、これを「武士道」として構成したものだ。それは明治人の気骨の一面をよく掴んでおり、その後の日本の文化人の心性をある面で代表している。
 主な著書に『農業本論』(1898年)、『武士道』(1900年)、『修養』(1911年)などがある。

(参考資料)

中江藤樹・・・身分の上下を超えた平等思想を説いた「近江聖人」

 中江藤樹は江戸初期の儒学者で、わが国の陽明学の祖だ。藤樹が説いたのは、身分の上下を超えた平等思想に特徴があり、武士だけでなく商・工人まで広く浸透し、没後、彼は「近江聖人」と称えられた。代表的門人に熊沢蕃山、淵岡山、中川謙叔がいる。生没年は1608(慶長13年)~1648年(慶安元年)。

 中江藤樹は近江国小川村(現在の滋賀県高島市安曇川町上小川)で、農業を営む中江吉次の長男として生まれた。字は原(はじめ)、諱は惟命(これなが)、通称は与右衛門(よえもん)。別号は珂軒(もくけん)、顧軒(こけん)。9歳のとき伯耆国(現在の鳥取県)米子藩主加藤家の150石取りの武士、祖父中江吉長の養子となり、米子に赴く。1617年(元和2年)、米子藩主加藤貞泰が伊予大洲藩(現在の愛媛県)に国替えとなり、藤樹は祖父母とともに移住する。1622年(元和8年)、祖父が亡くなり、藤樹は家督100石を相続する。

 1632年(寛永9年)、郷里の近江に帰省し、母に伊予での同居を勧めるが、拒否される。思い悩んだ藤樹は1634年(寛永11年)、27歳で母への孝行と健康上の理由により、藩に対し辞職願いを提出するが、拒絶される。そのため脱藩し、京に潜伏の後、郷里の小川村に戻った。そこで母に仕えつつ、私塾を開き学問と教育に励んだ。1637年(寛永14年)、藤樹は伊勢亀山藩士・高橋小平太の娘、久と結婚する。藤樹の居宅に藤の老樹があったことから、門下生から“藤樹先生”と呼ばれるようになる。塾の名は「藤樹書院」という。藤樹はやがて朱子学に傾倒するが、次第に陽明学の影響を受け、「格物致知論」を究明するようになる。

 1646年(正保3年)、妻久が死去。翌年、近江大溝藩士・別所友武の娘、布里と再婚する。1648年(慶安元年)、藤樹が亡くなる半年前、郷里の小川村に「藤樹書院」を開き、門人の教育拠点とした。江戸時代の「士農工商」という厳然とした階級社会にあって、その説くところは画期的な、身分の上下を超えた平等思想にあった。そのため、その思想は武士だけでなく、商・工人まで広く浸透した。没後、藤樹先生の遺徳を称えて、「近江聖人」と呼ばれた。

 中江藤樹には様々な著作があるが、そのうち1640年(寛永17年)に著した「翁問答」にある言葉を紹介しよう。

○「父母の恩徳は天よりもたかく、海よりもふかし」
 父母から受けた恵みの大きさはとても推し量ることができない。どんな父母もわが子を大きく立派に育てるために、あらゆる苦労を惜しまないものだ。ただ、その苦労をわが子に語ることはしないので、そのことが分からないのだ。

○「それ学問は心のけがれを清め、身のおこなひをよくするを本実とす」
 本来、学問とは心の中の穢れを清めることと、日々の行いを正しくすることにある。高度な知識を手に入れることが学問だと信じている人たちからすれば、奇異に思うかも知れないが、そのような知識の詰め込みのために、かえって高慢の心に深く染まっている人が多い。

○「人間はみな善ばかりにして、悪なき本来の面目をよく観念すべし」
 私たちは姿かたちや社会的地位、財産の多寡などから、その人を評価してしまう習癖がある。しかし、すべての人間は明徳という、金銀珠玉よりもなお優れた最高の宝を身につけてこの世に生をうけたのだ。それゆえ、人間はすべて善人ばかりで、悪人はいない。まさに、“人間賛歌”の言葉だ。

(参考資料)内村鑑三「代表的日本人」、童門冬二「中江藤樹」、童門冬二「私塾の研究」

中島知久平・・・日本初の民間飛行機製作所を設立した飛行機王

 中島知久平はわが国史上最大の軍需工場、中島飛行機製作所の創立者だ。大正・昭和初期にかけて国防思潮の主流となった「大艦巨砲主義」に異を唱え、早くから「航空機主義」を主張。「飛行機報国」の信念から、慣例を破って海軍を中途で退役し、日本初の民間飛行機製作所(後の中島飛行機株式会社、後の富士重工業)を設立。戦争拡大とともに軍用機生産で社業を拡張し、陸軍戦闘機「隼」はじめ飛行機の3割近くを独占生産する大企業に成長させた、日本では稀有な経歴を持つ大正・昭和期の実業家、政治家だ。生没年は1884(明治17)~1949年(昭和24年)。

 中島知久平は群馬県新田郡尾島村字押切(現在の群馬県太田市押切町)で、比較的豊かな農家の長男として生まれた。明治33年、17歳で家出を敢行。独学により海軍機関学校に入学し卒業。卒業後、中島は二つのことで注目を集めた。一つは「常磐」乗務のとき発明を構想した。艦船が編隊で航行するとき、各艦は一定の間隔を保つ必要がある。中島のアイデアは、そのためのエンジンの回転数を自動調整するメカニズムだった。頻繁に回転数を操作しなくていいから、運転者の負担が減り、石炭消費量を節約することができる。

 いま一つは「石見」乗務のころ、兵器としての飛行機の可能性に着目したことだ。海軍飛行機専門家として1910年、フランスの航空界を視察し、1912年にはアメリカで飛行機組み立てと操縦術を学び、1914年に再度フランスに渡った。訪仏前に「大正三年度予算配分ニ関スル希望」を上司に提出した。中島は「大艦巨砲主義」を批判し、貧国が採用すべき航空機戦略主張した。軍人としては軍政と兵術に優れていた。

中島は、明治40年代初めより憑かれたように、航空機の研究に熱中した。横須賀海軍工廠内飛行機工場長を経て1917年(大正6年)に大尉で退官。同年飛行機研究所を創立。中島35歳のことだ。同研究所は後に中島飛行機株式会社と改称し、日本初の民間飛行機会社となった。軍用機生産で社業を拡張し大企業に成長させ、戦時下に一大軍需会社として発展した。

 太平洋戦争前から敗戦に至るまで、「愛国」「報国」「隼」「零戦(三菱が設計士、製造の半数を受け持った)」「疾風(はやて)」といった数々の軍用機を、次々とつくりだしたのが中島飛行機だ。中島知久平が築き上げたものは、世界に類のない巨大な」「軍需産業王国」で、最盛期の昭和20年には全国に工場100カ所、敷地面積合わせて1500万坪。就業人員26万人という膨大なもの。昭和50年ごろのわが国最大規模の企業であった新日鉄の就業者数が約7万人だから、当時の中島飛行機からみれば、約4分の1といったところだ。まさにわが国、空前絶後のマンモス企業家だったといえよう。
中島は1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に群馬5区から立憲政友会公認で立候補して初当選した。翌年、中島飛行機製作所の所長の座を弟、喜代一に譲り、営利企業の代表をすべて返上、政治家の道を歩き出した、その後も衆議院議員当選5回。その豊富な資金力をバックに、所属する“政友会の金袋”ともいわれた。商工政務次官を経て、第一次近衛文麿内閣の鉄道相を務めた。1938年以降、鳩山一郎と党総裁の地位を争い、翌年4月分裂後の党総裁(中島派政友会)となった。

その後、内閣参議、大政翼賛会総務などを経て、1945年敗戦直後、東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)内閣の軍需相となった。その後、GHQによりA級戦犯に指定され自宅拘禁となったが、1947年(昭和22年)解除、釈放された。

(参考資料)豊田穣「飛行機王 中島知久平」、内橋克人「破天荒企業人列伝」

鍋島閑叟・・・破綻した藩財政を立て直し、幕末の先進雄藩に育て上げる

 鍋島閑叟(直正)は幕末・維新にかけて肥前佐賀藩の藩主を務め、破綻した藩の財政改革、教育改革、農村復興などの諸改革を断行。さらに独自に西洋の軍事技術の導入を図り、精錬方を設置し反射炉などの科学技術の導入と展開に努めた。その結果、後にアームストロング砲など最新式の西洋式大砲や、鉄砲の自藩製造に成功したほか、蒸気機関・蒸気船までも完成させる先進雄藩となった。

ただ、同藩は薩摩・長州・土佐藩などと比べると、幕府あるいは他藩に対し、自己主張するような姿勢はほとんど取らず、自主・独立独歩の道を歩んだ。その意味で、鍋島閑叟は地味だが、肥前佐賀藩を薩摩・長州・土佐に伍する雄藩に育て上げた名君だった。閑叟の生没年は1815(文化11)~1871年(明治4年)。

 肥前佐賀藩の十代藩主・鍋島閑叟は、九代藩主・鍋島斉直の十七男として、江戸赤坂の溜池にあった鍋島家中屋敷で生まれた。幼名は貞丸。母は池田治道の娘。正室は十一代将軍徳川家斉の十八女・盛姫(孝盛院)、継室は徳川斉匡の十九女・筆姫。明治維新以前の名乗りは斉正。維新後は直正と改名した。号は閑叟。

 幼少の貞丸に対し、家中では将来必ず名君になると信じた。それは、キツネに似た彼の容貌から発想したのではない。肥前鍋島家は一代交代で暗君と名君が出た。若殿の父・斉直は女好きの贅沢好みで藩財政を傾けたため、それまでの“法則”に従えば、この嬰児・貞丸は名君になるだろうとの期待を込めた思いからだ。

 1830年(天保元年)、父の隠居の後を受け、17歳で第十代藩主に襲封。藩主時代は将軍家斉の片諱をもらい、斉正と名乗っていた。当時の佐賀藩はフェートン号事件以来、長崎警備などの負担が重く、先代藩主の奢侈・贅沢や、天災による甚大な被害も加わって、藩の財政は破綻状態にあった。斉正は直ちに藩政改革に乗り出したが、前藩主とその取り巻きら保守勢力の抵抗から、改革は困難を極めた。

 だが、役人を5分の1に削減するなどで出費を減らし、借金の8割の放棄と2割の50年割賦を認めさせ、陶器・茶・石炭などの産業育成・交易に力を注ぐ藩財政改革を行い、財政は改善した。また、藩校弘道館を拡充し、優秀な人材を育成し登用するなどの教育改革、小作料支払い免除などによる農村復興などの諸改革を断行した。藩政の機構改革、政務の中枢に、出自にかかわらず有能な家臣たちを積極的に登用するなどの施策を講じたのだ。

 さらに、独自に西洋の軍事・科学技術を導入し、火器の自藩製造に成功。蒸気機関・蒸気船までも完成させるほど、その技術水準は高かった。それらの技術は母方の従兄弟にあたる島津斉彬にも提供されている。

 また斉正は、幕府に先駆けて天然痘を根絶するために、オランダから牛痘ワクチンを輸入し、長男の直大で試験した後、大坂の緒方洪庵にも分け与えている。このことが、日本における天然痘の根絶につながったのだ。

(参考資料)司馬遼太郎「肥前の妖怪」、司馬遼太郎「アームストロング砲」

橋本左内・・・幕政改革の半ばで散った早熟の天才リーダー

 橋本左内(景岳)は、天保5年(1834)3月11日、福井藩奥外科医橋本彦也 長網の長男として、越前福井城下に生まれ、安政6年(1859)10月7日、「安 政の大獄」により江戸伝馬町の獄舎で斬首された。その生涯は、わずか26年で ある。そして、藩主・松平慶永(春嶽)の命を帯びて、水戸、薩摩など雄藩と 朝廷の間を駆け巡った期間はほんの1~2年位にすぎない。にもかかわらず、 彼は偉大な足跡を遺したと言わざるを得ない。
 左内は早熟の天才だった。幼少時の彼は父の志士的気概の影響を多分に受け て育ち、7歳の時から漢籍・詩文・書道などを学び始めるとともに、12歳で藩 立医学所済世館に入学した。これは医家の子弟としては予定されたコースだが、 その傍ら武芸の稽古にも熱心だったというところに、父の影響がはっきり表れ ている。15歳の時、左内は藩儒吉田東篁に師事して経書を学んだ。彼はよほど 傑出した学問的能力に恵まれていたようで、ここでも高い評価を得ている。
 嘉永元年(1848)、数えで15歳の左内は感興の赴くままに『啓発録』と題す る手記を著した。この中で彼は、武士であった7、8代前の祖先と同じく士籍 に列し、堂々と政治の世界で腕を振るってみたいが、医家の長男に生まれたこ とで、自分の志を成し遂げることができないことを嘆いている。
左内が大坂・適々塾に入門したのは、嘉永2年(1849)、主宰者の緒方洪庵が 種痘事業に本腰を入れ始めた前後のことだった。その当時、同塾の塾頭は大村益次郎だったが、残念なことに左内と益次郎の交遊に関しても詳らかでない。察するに、同塾での左内はひたすら勉学に打ち込んだようだ。福沢諭吉の『福翁自伝』などに記された、自由闊達でいささか放恣な塾風に対しても左内は同化せず、終始批判的な態度を取り続けた。

彼は同塾所蔵の原典をことごとく読破し、原典の筆写の誤謬を訂正できるほどの学力を備えるまでになった。その精進ぶりは、洪庵からも高く評価され「いずれわが塾名を上げるものは左内であろう、左内は池中のこう竜である」との褒詞を授けられたという。「池中のこう竜」とは、やがて時を得れば天下に雄飛するに違いない英雄・豪傑のことをさす。

 適々塾での修学は、左内に福井藩第一号の給費生という栄誉をもたらしたが、何とか医家から武士身分に取り立てられたいという彼の切なる期待も虚しく、2年と3カ月ほど後にピリオドが打たれる。嘉永5年(1852)閏2月、父の病臥の報を得たからだ。父が左内の治療の甲斐なく没したことで、藩命により橋本家を相続。父と同じく藩医に任じられて職務に精励する。とはいえ、藩医の地位に安住する日々の過ごし方は、彼にとっては不本意だった。

 安政元年(1854)、彼は藩当局に江戸遊学を願い出る。江戸の土を初めて踏み、坪井信良、次いで杉田成卿・戸塚静海に師事して蘭学を究めようとした。彼はこの江戸でまた学問上の頭角を現し、幾人かの人々から賞賛を浴びる。その結果、安政2年(1855)、「医員を免じて士分に列す」という藩命が下り、遂に晴れて藩士の身分を獲得したわけだ。

 安政4年(1857)正月、左内は藩校明道館の学監心得となって、藩校の教育体制改革の中心的地位に昇りつめる。左内23歳のことだ。さらに、藩主春嶽はこの青年を国事周旋の場における己の片腕とすることに決める。同年8月、左内は春嶽の侍読兼御用掛に任命され、以後、一橋慶喜を推す将軍継嗣に関する春嶽のブレーンとして、一橋派の雄藩(薩摩・土佐・宇和島・水戸)への周旋や大奥、そして京都・朝廷に対する工作のため、精力的に入説してまわった。

その結果、いったんは幕閣内でも一橋慶喜こそ次期将軍に相応しいといわれた。だが、井伊直弼の大老就任で事態は急転、紀州藩の慶福を推す南紀派が勝利。一橋派に厳しい処分を下されることになる。井伊直弼による「安政の大獄」の幕が切って落とされるのだ。

 左内は1年余りの取り調べの結果、安政6年(1859)10月7日、江戸伝馬町の獄舎刑場で斬罪に処された。数えの26歳だった。島流しに遭い、南の島でこれを聞いた西郷隆盛は「橋本さんまで殺すとは、幕府は血迷っている。命脈は尽きた」と嘆息したという。同じ獄舎につながれた吉田松陰の刑死に先立つこと、ちょうど20日前の処刑だった。両者は互いにその名を知り、同じ獄舎にあることを知りながら、遂に相まみえる機会を持てなかった。

(参考資料)百瀬明治「適塾の研究」、橋本左内/伴五十嗣郎全訳注「啓発録」、奈良本辰也「歴史に学ぶ」、海音寺潮五郎「史談 切り捨て御免」

福沢桃介・・・日本の電力王で、公私とも破天荒貫いた一流の実業家

 福沢桃介は福沢諭吉の女婿だが、「日本の電力王」と呼ばれたほか、エネルギー、鉄道など国のインフラに関わる事業会社や、後年、一流企業に育つ様々な会社を次々に設立した、一流の実業家だった。のち明治45年から一期だけだが政界にも進出、代議士となり政友倶楽部に属した。ただ、政治家は肌に合わないと痛感したのか、その後は絶対に政治には出なかった。後年は愛人“日本初の女優”川上貞奴と同居し、夫婦同然の生活だった。まさに、事業においても、プライベートな生活においても、一般的な常識ではとても計れない破天荒な人物だった。生没年は1868(明治元年)~1938年(昭和13年)。

 福沢(旧姓岩崎)桃介は武蔵国横見郡荒子村(現在の埼玉県吉見町)の農家に生まれ、川越の提灯屋岩崎家の次男として育った。彼の人生に、最初の大きな転機が訪れるのが大学生のときだ。慶応義塾に在学中、福沢諭吉の養子になり、20歳で入籍。米国留学を終えて22歳で諭吉の次女、房(ふさ)と結婚したのだ。しかし、福沢家には4人の息子がおり、「養子は諭吉相続の養子にあらず、諭吉の次女、房へ配偶して別居すること」と申し渡されていた。大学卒業後、北海道炭礦鉄道(のち北海道炭礦汽船)、王子製紙などに勤務。

桃介はこのころ肺結核にかかり、1894年から療養生活を余儀なくされた。療養の間、株取引で貯えた財産を元手に株式投資にのめり込んだ。当時は日清戦争の最中で、日本勝利による株価の高騰もあり、当時の金額で10万円(現在の20億円前後)もの巨額の利益を上げたという。

破天荒な生き方はまだまだ続く。病癒えた彼は独立して丸三商会という個人事業を興す。この事業も結局は頓挫。その最中に再び喀血、入院する。しかし、ここでまた不運と隣り合わせの幸運を掴んで起き上がる。株だ。今度は日露戦争前後の一大株式ブームに便乗して、たちまち200万円を儲けるのだ。

1906年、瀬戸鉱山を設立、社長に就任。木曽川の水利権を獲得し、1911年、岐阜県加茂郡に八百津発電所を築いた。1924年、恵那郡に日本初の本格的ダム式発電所である大井発電所を、1926年に中津川市に落合発電所などを次々建築。1920年に五大電力資本の一角、大同電力(戦時統合で関西配電⇒関西電力)と東邦電力(現在の中部電力)を設立、社長に就任。この事業によって「日本の電力王」と呼ばれることになる。

1922年には東邦瓦斯(現在の東邦ガス)を設立、他にも愛知電気鉄道(後に名岐鉄道と合併して名古屋鉄道となる)の経営に携わったほか、大同特殊鋼、日清紡績など一流企業を次々に設立。その後、代議士にもなり、政友倶楽部に属した。

こうして福沢桃介はほとんどあくせくせずに、人生とビジネスを同時に楽しみながら、生来の楽天主義と、義父福沢諭吉直伝の独立自尊の精神を通し、気ままに生きた。有名な、名妓、名女優とうたわれた川上貞奴とのロマンスもそうしたものの一つだったのだろう。60歳で実業界を引退してからは、文筆に明け暮れ、悠々自適の余生を楽しんだ。

桃介が興し、育てた様々な事業は彼の後輩で、後年「電力の鬼」と呼ばれるようになった松永安左衛門に引き継がれた。

(参考資料)小島直記「人材水脈」、小島直記「まかり通る」、小島直記「日本策士伝」、内橋克人「破天荒企業人列伝」

北条泰時・・・日本における最初の武家法典『御成敗式目』を制定

 北条泰時は鎌倉幕府の第三代執権で、日本における最初の武家法典『御成敗式目』を制定した人物だ。これによって、武家社会に求められた、鎌倉幕府のより統一的な新しい基本法典が完成したのだ。
 『御成敗式目』は北条泰時が独善的に決めたものではない。京都の法律家に依頼して、律令などの貴族の法の要点を書き出してもらい、彼自身がその内容を把握。そのうえで彼は『道理』(武士社会の健全な常識)を基準とし、先例を取り入れながら、評定衆たちと案を練り、編集を進め、まとめあげたものだ。「名執権」といわれた泰時ならではの地道な作業だ。1232年(貞永元年)のことだ。

 では、なぜ泰時はこんな法の制定に乗り出したのか。それは、承久の乱以降、新たに任命された地頭の行動や収入を巡って各地で盛んに紛争が起きており、また集団指導体制を行うにあたり、抽象的指導理念が必要となったからだ。紛争解決のためには頼朝時代の「先例」を基準としたが、先例にも限りがあり、また多くが以前とは条件が変化していたのだ。

 この『御成敗式目』、はじめは『式条』『式目』と呼ばれていたが、徐々に変化し、裁判の基準としての意味で『御成敗式目』と呼ばれるようになった。完成にあたって泰時は、六波羅探題として京都にいた弟の重時に送った2通の手紙の中で、式目の目的について次のように書いている。

 多くの裁判で同じような訴えでも強い者が勝ち、弱い者が負ける不公平を無くし、身分の高下にかかわらず、えこひいき無く公正な裁判をする基準として作ったのがこの式目である。京都辺りでは、ものも知らぬあずまえびすどもが何を言うかと笑う人があるかも知れないし、またその基準としてはすでに立派な律令があるではないかと反問されるかもしれない。しかし、田舎では律令の法に通じている者など万人に一人もいないのが実情である。こんな状態なのに律令の規定を適用して処罰したりするのは、まるで獣を罠にかけるようなものだ。

この『式目』は漢字も知らぬ、こうした地方武士のために作られた法律であり、従者は主人に忠を尽くし、子は親に孝を尽くすように、人の心の正直を尊び、曲がったのを捨てて、土民が安心して暮らせるように、というごく平凡な『道理』に基づいたものなのだ-と。

 北条泰時はこの「道理」という言葉が一番好きだった。『沙石集』という鎌倉時代の説話などによると、彼は、道理ほどおもしろいものはない、と言って、人が道理の話をすると、涙を流して喜んだという。「道理」という言葉には、かなり広い意味がある。人間の身につけるべき本来的な道徳から、守るべき法律、原則に至るまでを含んでいるとみていい。父、北条義時もくだけたエピソードが伝えられていない真面目人間だったようだが、その息子は父に輪をかけたキマジメ青年だった。

 北条泰時は鎌倉幕府第二代執権・北条義時の長男。生没年は1183(寿永2年)~1242年(仁治3年)。幼名は金剛、のち頼時、泰時、春時、観阿、別名は江間太郎。1194年(建久5年)、13歳で元服。鎌倉幕府初代将軍源頼朝が烏帽子親となり、頼朝の頼を賜って頼時と名乗った。のち泰時に改名した。頼朝の命により元服と同時に三浦義澄の孫娘との婚約が決められ、8年後の1202年(建仁2年)に三浦義村の娘(矢部禅尼)を正室に迎える。翌年、嫡男時氏が生まれるが、のちに三浦の娘とは離別し、安保実員の娘を継室に迎えている。1211年(建暦元年)、修理亮に補任。この時点で北条氏の嫡男は異母弟で正室の子、次郎朝時だったが、朝時が鎌倉幕府第三代将軍・実朝の怒りを買って失脚したため、庶長子だった泰時が嫡男とされた。

 1213年(建暦3年)の和田合戦では父・義時とともに和田義盛を滅ぼし、戦功により陸奥遠田郡の地頭職に任じられた。1218年(建保6年)には父から侍所の別当に任じられた。1219年(承久元年)には従五位上、駿河守に叙任、任官された。1221(承久3年)の「承久の乱」では、39歳の泰時は幕府軍の総大将として上洛し、後鳥羽上皇方の倒幕軍を破って京へ入った。戦後、新たに都に設置された六波羅探題北方として就任し、同じく南方にはともに大将軍として上洛した叔父の北条時房が就任した。それ以降、京に留まって朝廷の監視、乱後の処理や畿内近国以西の御家人武士の統括にあたった。

(参考資料)永井路子「にっぽん亭主五十人史」、海音寺潮五郎「覇者の条件」

長谷川平蔵・・・松平定信の“田沼嫌い”でワリを食った、栄転なしの鬼平

 長谷川平蔵という人物を、日本国民に広く知らしめた功労は、池波正太郎の人気小説「鬼平犯科帳」に尽きるといっても過言ではないだろう。“鬼平”とは、鬼の平蔵の意。江戸の放火と盗賊を取り締まる火付盗賊改方(役)の長官・長谷川平蔵の通称という。もちろん、多くは小説の世界のフィクションで実在した長谷川平蔵がそのように呼ばれたという記録はない。ただ、現代でいえば、さしずめ警視総監といったところの、この「火付盗賊改役」というこの職(ポスト)は“鬼”と呼ばれてもおかしくない歴史を持っていた。

 幕閣を治安維持の面から補佐した「火附け盗賊改」は1665年(寛文5年)に設置された「盗賊改」、1683年(天和3年)に置かれた「火附改」、さらには1703年(元禄15年)より設けられた「博奕改」の三つの特殊警察機構を、1718年(享保3年)に一本化したものだった。江戸の治安維持のため、とくに悪質な犯罪を取り締まることを職務として、市中を巡察し、容疑者を逮捕して、吟味(審理)する権限を持っていた。仕置(処罰)に関しては、罪の軽重を問わず、老中・若年寄へ指図を仰がねばならなかったが、その取り調べは厳格を極め、情け容赦のない責問(拷問)が行われた。

 長官たる頭も、初期の頃はそれこそ鬼のように怖れられた人物が輩出した。大岡越前守忠相と同時代の中山勘解由(かげゆ)という人は「火附盗賊改役」を拝命すると、自宅にあった神棚と仏壇を打ちこわし、火中に投じて焼いてしまったという逸話がある。信仰とか慈悲心などを持っていては、お役目を全うできない。たとえこの身が神仏の罪を被ろうとも、江戸の治安を守り、諸悪を根絶せねばならぬ-との思いからだ。その後、制度が充実するにしたがって、このポストには思慮深い、慈悲深い者が任命されるようになった。

 1783年(天明3年)、浅間山の大噴火、“天明の大飢饉”、そしてその4年後に江戸と大坂で大規模な打ちこわしが起こった。この年、「火附盗賊改役」に命じられたのが、長谷川平蔵宣以(のぶため)だった。

 長谷川平蔵宣以は400石取りの旗本、平蔵宣雄を父に生まれた。平蔵は長谷川氏の当主が代々受け継ぐ通称で、家督相続以前は銕三郎(てつさぶろう)と名乗った。生没年は1746(延享3年)~1795年(寛政7年)。父の平蔵宣雄も「火附盗賊改役」を務め、見事な働きをみせ、抜擢されて京都西町奉行に栄転。ところが、職務に精力を傾けすぎたのか、在職わずか9カ月で急死した。享年55。これに伴って宣以は家督を継ぎ、平蔵宣以となった。1773年(安永2年)、宣以28歳のことだ。

 「鬼平犯科帳」では宣雄の正室に、幼少期の宣以=銕三郎がいじめられ、生母は若くして死んだとあるが、史実は小説とは異なる。宣以を大切にかわいがった宣雄の正室は、宣以が5歳の時に亡くなっており、長谷川家の知行地から屋敷へ働きにきていた女性と思われる生母は、平蔵の死後まで長生きしていた。

 厳格な父をふいに失い、その悲しみから遊女やその情夫、無頼者と交わり、ゆすり騙りや賭博の類に身を投じ、庶民の生活や暗黒街のしくみを実地に体験したことはあったようだ。しかし、平蔵宣以は朱に染まらず、1年後の1774年(安永3年)、悪友とも手を切って幕臣の本分に邁進した。31歳で「江戸城西の丸御書院番士」(将軍世子の警護役)に任ぜられたのを振り出しに、1784年(天明4年)、39歳で「西の丸御徒士頭」、41歳で「御先手組弓頭」に任ぜられ、1787年(天明7年)、「火附盗賊改役」の長官に昇進した。順調すぎる出世だ。

これには理由がある。父の偉業が高く評価され、中でも時の権力者・老中の田沼意次に支持されていたのではないかと思われる。その証拠に、宣以が「御先手組弓頭」となって1カ月後、権勢をほしいままにしてきた田沼意次が遂に失脚。老中を罷免されてしまうと、宣以の身にその反動が、災いとなって降りかかってきた。本来、2~3年で交代すべき「火附盗賊改役」に、宣以は死去するまで足掛け8年間留め置かれている。江戸時代を通じて異例のことだった。京都奉行にも、大坂・奈良・堺の奉行にも栄転していないのだ。

少なくとも田沼意次の後任として、“寛政の改革”を指揮した老中・松平定信は、宣以を田沼の「補佐役」の一人とみて、便利使いした挙句、使い捨てにしている。幕閣のトップ=老中の信任次第で、勢いのある「補佐役」のポジションも大きく変わってしまうという好例だろう。

(参考資料)加来耕三「日本補佐役列伝」、池波正太郎「鬼平犯科帳」

福沢諭吉・・・「天は人の上に人を造らず…」で門閥制度を嫌った啓蒙思想家

 福沢諭吉は封建社会の門閥制度を嫌った。中津藩士で、儒学に通じた学者でもあったが、身分が低いため身分格差の激しい中津藩では名をなすこともできずにこの世を去った父と幼少時に死別、母の手一つで育てられたためだ。福沢は『福翁自伝』の中で「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」とさえ述べている。『学問のすすめ』の冒頭に記されている「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」という有名な人間平等宣言も、こうした生い立ちがその根底にある。そのため、明治維新後、新政府からの度々の出仕要請も断り、もっぱら民間にあって慶応義塾の教育と国民啓蒙のための著作とを使命とする態度を変えなかった。福沢の生没年は1834(天保5)~1901年(明治34年)。

 明治時代の啓蒙思想家で慶応義塾の創立者、福沢諭吉は大坂の中津藩蔵屋敷で十三石二人扶持の藩士、福沢百助とお順の二男三女の末っ子として生まれた。わずか2歳のとき父と死別、母子一家は中津(現在の大分県中津市)へ帰った。現在、中津市内に福沢旧邸が昔のままに保存されているが、これは二度目の住居であり、中津帰郷当初住んでいた家は倒壊寸前のひどい荒屋(あばらや)だったという。その荒屋で姉たちと福沢は、18歳までの歳月を送った。

1854年(安政1年)、福沢は長崎へ蘭学修行に出て、翌年大坂の緒方洪庵の適々塾に入門。1856年(安政3年)、兄三之助が病死し福沢家を継ぐが、適々塾に戻り、1858年、藩命で江戸中津藩屋敷に蘭学塾を開くことになった。これが後の慶応義塾に発展する。 
  
1859年、福沢は横浜に遊び、愕然とすることになった。開港されて、外国人の行き交う姿が珍しくない横浜の街で見かける看板は、オランダ語ではなく、英語が幅を利かせていたからだ。これまで必死で学んできた蘭学の無力さを痛感。英学に転向、以後、独学で英学に取り組む。
 1860年(万延1年)、福沢は咸臨丸に艦長の従僕として乗り込み渡米。1862年(文久2年)には幕府遣欧使節団の探索方として仏英蘭独露葡6カ国を歴訪。1864年(元治1年)に幕臣となった。1866年(慶応2年)、既述の洋行経験をもとに『西洋事情』初編を書き刊行。欧米諸国の歴史、制度の優れた紹介書となった。
1867年(慶応3年)、幕府遣米使節に随従するが、このとき福沢は、幕府はもうどうにもならぬと見当をつけていたので、自分の手当から公金まで全部動員して書物を買い込んだ。大中小の各種辞書、経済書、法律書、地理書、数学書など大量に持ち帰った。そのため、福沢は勝手に大量の書物を買い込んだかどで、帰国後3カ月の謹慎処分を受けた。しかし、そのお陰で、後述するように、福沢の慶応義塾では、生徒一人ひとりがアメリカ版の原書を持たせてもらって、授業を受けることができたので、次第に人気が高まるのだ。
 1868年(明治1年)、福沢はこれまでの家塾を改革し、慶応義塾と称し「商工農士の差別なく」洋学に志す者の学習の場とした。同年5月15日、上野の彰義隊戦争の最中、福沢は大砲の音を聞きながら、生徒を前にして経済学の講義をしていたという。同年、幕臣を辞し、中津藩の扶持も返上。明治新政府からの度々の出仕要請も断った。1871年の廃藩置県を歓迎した彼は、国民に何をなすべきかを説く『学問のすすめ』初編(1872年刊)を著す。冒頭に「天は人の上に人を造らず…」というあの有名な人間平等宣言を記すとともに、西洋文明を学ぶことによって「一身独立、一国独立」すべきだと説いた。この書は当時の人々に歓迎され、第17編(1876年)まで書き続けられ、総発行部数340万部といわれるベストセラーとなった。これにより、福沢は啓蒙思想家としての地位を確立した。

 『学問のすすめ』(明治5~9年刊)や『文明論之概略』(明治8年刊)などを通じて、明治初年から10年ごろまでのわが国開明の機運は、福沢によって指導されたといっても過言ではない。1882年(明治15年)には『時事新報』を創刊して、この後、福沢の社会的な活動はすべてこの媒体で展開され、新聞人としても多大な成功を収めた。晩年の著作の「福翁自伝」(明治32年刊)は日本人の自伝文学の最高峰として定評がある。

(参考資料)百瀬明治「適塾の研究」、奈良本辰也「男たちの明治維新」、小島直記「福沢山脈」

北条義時・・・若いときは平凡人、だが中年から凄腕の政治家へ大変身

 人には早熟型と大器晩成型のタイプがある。ここに取り上げる北条義時は、まさに後者のタイプだ。彼は40歳を超えたころから、鎌倉幕府内で不気味な光を放ち始めたのだ。伊豆の小豪族、北条氏が財閥クラスの大豪族と付き合ううち、徐々に実力を付け、人々が気がついたとき、いつの間にか北条氏は、幕府内で押しも押されもせぬ大派閥に伸し上がっていた。

頭がよくて、大胆で、しかも慎重で、ちょっと見には何を考えているのか分からないような男、それが北条義時だった。病的なくらいに用心深く、疑り深い人物だったあの源頼朝でさえ、信用し切っていたというから、“猫かぶり”の名人だったかも知れない。そして、源氏の「天下」を奪ったのは紛れもなく、この北条義時なのだ。義時は恐らくこう宣言したかったに違いない。「天下は源氏の天下ではなく、武士階級全体の天下であり、源氏はその本質は飾り雛に過ぎない」と。

 北条義時の父は時政。姉は政子、つまり源頼朝は彼の義兄にあたる。彼が17、18歳になったころ、頼朝の挙兵があり、一家は動乱の中に巻き込まれるのだが、その中で彼は目立った活躍はしていない。平家攻めにも出陣しているが、彼の手柄話は全くない。つまり、このころは面白くもおかしくもない、極めて印象の薄い人物だったのだ。それから約10年、鳴かず飛ばずの日々が続く。気の早い人間が見たら、「こいつはもう出世の見込みはない」と決め込んでしまうところだ。

 ところが、義時は40歳を超えてから輝きだす。初めは父の時政の片腕として、後にはその父さえも自分の手で押しのけて、姉の政子と組んで、北条時代の基礎を固めてしまう。彼はいつも姉の政子を上手に利用した。頼朝の未亡人だから、政子の意志は随分権威があったのだ。政子には男勝りの賢さがあった。また彼女は、頼朝との間に生まれた頼家(二代将軍)や実朝(三代将軍)にはもちろんのこと、頼家の子の公暁にも深い愛情を持っていた。そんな政子は義時の巧妙で自然なお膳立てにあって、それを支持しないわけにいかず、遂に婚家を滅ぼし、その天下を実家のものにしてしまう結果になった。

結果的に北条氏の勢力拡大に大いに手を貸したのが、鎌倉三代将軍源実朝だった。実朝はもはや政治への出番がなく、彼自身はいわば北条氏の“操り人形”に過ぎず、実権のない将軍を演じることと引き換えに、和歌の世界を生きがいとして、のめり込んでいったからだ。実朝は藤原定家に和歌を学び、京都風の文化と生活に傾斜していった。武士団の棟梁であるはずの鎌倉殿のそんな姿に関東武士たちの間に失望感が広がっていった。

 北条義時はこの情勢を格好の機会とみて、“源氏将軍断絶”と“北条氏による独裁支配”の計画を推し進めたのだ。義時は1213年(建保1年)、関東の大勢力の和田義盛を打倒。これまでの政所別当に加え、義盛が担っていた侍所別当を合わせて掌握。これにより政治権力と軍事力、北条義時はいまやこの二つを手中にした。そして、いよいよ北条氏による執権政治の基礎を築いたわけだ。

 実朝暗殺事件はこれまで、北条義時の企んだ陰謀と思われてきた。彼の辣腕ぶりをみれば、そうみられるのもやむを得ないことだし、政治・軍事両面をわがものとした義時が、将軍の入れ替えを計画したのではないかと誰しも考えるところだ。ただ、この暗殺事件を企図したのが、北条氏でなくて、ライバル潰しを目的としたものだったと仮定すれば、事件の首謀者は北条氏のライバル=三浦氏一族とも見られるのだ。

 ともかく、こうして幕府は北条氏のものとなった。将軍はいても何の力もない“ロボット”で、義時が執権という名で、天下の政(まつりごと)を取ることになったのだ。
 また、「承久の乱」の毅然とした後処理によって、北条義時は北条執権体制をいよいよ確立する。承久の乱は、実朝の後継者をめぐって、幕府側が朝廷に後鳥羽上皇の皇子をもらい受けたいと申し入れたのに対し、後鳥羽上皇側が交換条件に土地の問題を持ち出し幕府に揺さぶりをかけ、地頭職の解任要求を打ち出してきたのだ。ここは義時が頼朝以来の原則を守り通し、後鳥羽側の要求を拒否した。これに対し、後鳥羽側も皇子東下はピシャリと断ってしまった。ただ、朝廷側にとってそのツケは大きかった。義時は後鳥羽上皇以下の三上皇と皇子を隠岐、佐渡などに配流処分として決着した。
 北条執権体制、この政治形態を永続性あるものにしたのは義時の子、北条泰時だ。

(参考資料)永井路子「源頼朝の世界」、永井路子「炎環」、永井路子「はじめは駄馬のごとく ナンバー2の人間学」、安部龍太郎「血の日本史」、海音寺潮五郎「覇者の条件」、司馬遼太郎「街道をゆく26」

華岡青洲・・・通仙散で世界に先駆け乳がんの麻酔手術を行った外科医

 和歌山県那賀郡那賀町に華岡家発祥の地記念碑が建立されている。この小さな片田舎の村に、華岡青洲に診てもらうために、はるか江戸からも大勢の患者がやってきた。汽車も自動車もない時代に。だから相当の金持ちしか行っていない。そのために村に落ちたお金は大きい。華岡青洲のお陰で村は栄えたのだ。

 一介の村医者、華岡青洲は1804年(文化元年)、大和国宇智郡五條村(現在の奈良県五條市)の染物屋を営む利兵衛の母親、勘という60歳の女性に、乳がんの麻酔手術を、患者に痛みを感じさせずに行った最初の人として知られている。世界の医学に先駆けること42年。彼には近代医学の開き手、前人未到の外科領域の開拓者としての栄誉が与えられている。彼はこの偉業を独特の麻酔薬、通仙散(つうせんさん)の発明によって成し遂げた。この時、青洲46歳。全身麻酔下での外科手術の成功は、人々に大きな衝撃を与えた。当時、蘭方医の大御所だった杉田玄白は、30歳も若い青洲に教えを請う手紙を書いている。

 華岡青洲は華岡直道の長男として、紀伊国那賀郡名手荘西野山村(現在の和歌山県紀の川市西野山)に生まれる。諱は震(ふるう)。字は伯行。通称は雲平。号は青洲、随賢。随賢は祖父尚政の代から華岡家の当主が名乗っている号で、青洲はその3代目。生没年は1760(宝暦10年)~1835年(天保6年)。

 1782年(天明2年)、京都へ出て吉益南涯に古医方を3カ月学ぶ。続いて大和見水にカスパル流外科(オランダの医師カスパルが日本に伝えた外科技術)を1年学ぶ。さらに見水の師・伊良子道牛が確立した「伊良子流外科」(古来の東洋医学とオランダ式外科学の折衷医術)を学んだ。その後も京都に留まり、医学書や医療器具を買い集めた。この時、購入し読んだ医書でとくに心に残り影響を受けたのが永富嘯庵の「漫遊雑記」で、この中に乳がんの治療法の記述があり、後の伏線となった。

 青洲は1785年(天明5年)、帰郷して父・直道の後を継ぎ開業した。安心したのか父はまもなく64歳で死去。青洲は手術での患者の苦しみを和らげ、人の命を救いたいと考え、麻酔薬の開発を始めた。研究を重ねた結果、曼陀羅華(まんだらげ)の花(チョウチンアサガオ)、草烏頭(そううず、トリカブト)を主成分とした6種類の薬草に麻酔効果があることを発見。動物実験を重ねて、麻酔薬の完成にこぎつけたが、人体実験を前にして行き詰まった。そこで、実母の於継と妻加恵が実験台になることを申し出て、数回にわたる人体実験の末、於継の死・加恵の失明という犠牲の上に、全身麻酔薬「通仙散」を完成した。

 青洲はオランダ式の縫合術、アルコールによる消毒などを行い、乳がんだけでなく膀胱結石、脱疽、痔、腫瘍摘出術など様々な手術を行っている。彼の考案した処方で現在も使われているものに十味敗毒湯、中黄膏、紫雲膏などがある。
 青洲は1802年(享和2年)、紀州藩主・徳川治寶に謁見して士分に列し帯刀を許された。1813年(文化10年)には紀州藩の「小普請医師格」に任用された。ただし、青洲の願いによって、そのまま自宅で治療を続けてよいという「勝手勤」を許された。1819年(文政2年)「小普請御医師」に昇進し、1833年(天保4年)、「奥医師格」となった。

 青洲の名は全国に知れ渡り、患者や入門を希望する者が殺到した。彼は門下生の育成にも力を注ぎ、医塾「春林軒(しゅんりんけん)」を設けた。そして数多くの医師を育て、弟子の中から本間玄調、鎌田玄台、熱田玄庵、館玄竜といった優れた外科医を輩出している。
(参考資料)有吉佐和子・榊原仟「日本史探訪/国学と洋学」

福地源一郎・・・江戸開城後の江戸で新聞を創刊したマスコミ人の草分け

 福地源一郎(桜痴)は江戸城開城後の江戸で「江湖(こうこ)新聞」を創刊。同紙で新政府を批判し、明治時代初の言論弾圧事件の被害者となった。また、東京日日新聞の主筆として活躍、後には社長まで務めるなど、近代ジャーナリストの“草分け”的存在だ。その人間像は徳富蘇峰の人生に大きな影響を与えたといわれる。ただ、ジャーナリストとしての後半生は「御用記者」として、体制べったりの姿勢を維持したことには、彼自身マスコミ人の草分けであっただけに、悔悟の念に苛まれたのではないだろうか。生没年は1841(天保12年)~1906年(明治39年)。

 福地源一郎は、長崎で医師、福地荀庵の息子として誕生。幼名は八十吉。号は桜痴。幼時は「神童」といわれ、数え年4歳で『三千経』『孝経』の素読を始めている。12歳で漢文「皇朝二十四孝」を書くという早熟を見込まれ、長崎のオランダ大通詞名村八右衛門の門下生になり、オランダ語を学ぶが、一年後にはもう通弁見習のポストを手に入れた。これが15~16歳のころのことだ。

福地が著した『新聞紙実歴』によれば、新聞なるものを知ったのは、このときだ。オランダ人は年々来航のたびに「風説書」というものを長崎奉行に提出する。海外事情の報告書で、これを大通詞の名村が和訳し、福地少年が筆記させられた。西洋諸国には新聞紙といって、毎日刊行して自国はむろん、外国のことを知らせる紙がある。カピタンは長崎・出島にいながら、それを呼んで重要なことだけを奉行所へ報告しているのだ-と名村は教えてくれ、そばにあったオランダの古新聞を与えてくれた。

福地には、自分にできぬことはないという自覚が固まり、他人がバカに見えて仕方がない。バカにしないまでも、あいつはバカだと思えば、つい顔に出、それが敵をつくる原因になる。1857年、海軍伝習所の軍艦頭取・矢田堀景蔵に従って江戸に出た。江戸で真っ先に覚えたのは吉原通いだった。有り金はたいて足りず、食い詰め、放浪したこともある。このときはさすがに閉口したようだが、結局懲りず、福地の吉原通いは一生続くのだ。後述するが「東京日日新聞」主筆時代が彼の絶頂期といえるが、朝出勤すると、論説原稿をさっと書き上げ、おもむろに腰を上げ吉原へ繰り込むといった調子だ。吉原通いの途中で新聞の仕事をしていくという方が表現としては正確だったようだ。

以後、2年ほど英国の学問や英語を森山栄之助の下で学んだ。そして外国奉行支配通弁御用雇として、翻訳の仕事に従事する。1861年、1865年には幕府の使節としてヨーロッパに赴き、西洋世界を視察した。ロンドン、パリで刊行されている新聞を見て深い関心を寄せた。パリでは本来の通弁の仕事ではなく、国際法の勉強をするはずだったが、国際法以前の、ヨーロッパ各国通史を知らないし、公用語のフランス語を知らない。そんなわけでフランス語の初歩から学ぶことになった。率直にフランス語修得を喜び、帰国すると幕府は崩壊寸前、そして遂に幕府は倒れた。

 福地は江戸城開城後の1868年、江戸で「江湖新聞」を創刊した。彰義隊が上野で敗れた後、同紙に「強弱論」を掲載し、「ええじゃないか、というが、幕府側が倒れて、薩長を中心とした幕府が生まれただけだ」と薩長の横暴を厳しく批判。これが新政府の怒りを買い、新聞は発禁処分。福地は逮捕されたが、木戸孝允のとりなしで無罪放免とされた。明治時代初の言論弾圧事件だ。静岡でほとぼりの冷めるのを待ち、また東京に出た。戯作と翻訳、そして吉原通いの日々だ。福地は吉原で酒は全く呑まないのだ。芸者を呼んでも三味線は弾かせず、おもしろくないと、3日も4日も待合で外国語の本を読んでいる-といった具合だ。

 1870年、大蔵省に入り翌年、岩倉使節団の一等書記官として各国を訪れた。帰国後の1871年、政府系の東京日日新聞に入社。主筆を務め、ジャーナリストとして筆名を上げ、部数を飛躍的に伸ばした1874年(明治7年)から、西南戦争の戦況報道を経て、1881年(明治14年)までが福地の全盛期だった。後には社長も務めた。また、東京府府会議長も務めて政界にも進出した。

 1889年(明治22年)に完成した東京の歌舞伎座は、福地が全面的な構想を描いたもので、座主のポストには福地が就くはずだった。しかし、それを維持するだけの金がなかったのだ。これは不幸だった。座主の椅子を手放してからは、単なる一作者として脚本を書いた。多芸多才人の数奇な人生だった。

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」、三好徹「近代ジャーナリスト列伝」、司馬遼太郎「峠」、小島直記「無冠の男」

法然・・・仏教を信仰として捉え直し、専修念仏の考えを確立した高僧

 仏教は6世紀前半、高度な外来文化として伝えられた。僧侶は中国語に翻訳された経典を解読するため、特殊な学問を修めなければならなかった。仏教を学問ではなく、信仰として捉え直そうとしたのが法然(ほうねん)だ。比叡山に登った法然は、30年間の激しい修学の末、「阿弥陀仏と人間をつなぐものは、仏の名を唱えること(=念仏)以外にない」という専修念仏の考えを確立。1175年、京都の町に降り、新しい教えを広め始めた。だが、比叡山や奈良の旧仏教側の弾圧に遭い、四国に流罪となった。そして、罪を許された翌年(1212年)亡くなった。法然の生没年は1133(長承2)~1212年(建暦2年)。

 浄土宗の開祖、法然は美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)の押領使・漆間時国(うるまときくに)と母・秦氏の「君」との子として生まれた。法然は房号で、諱は「源空(げんくう)」。幼名を「勢至丸(せいしまる)」。通称「黒谷上人」、「吉水上人」とも呼ばれた。尊称は元祖法然(源空)上人、本師源空・源空上人。

『四十八巻伝』(勅伝)などによると、1141年(保延7年)、法然が9歳のとき、父が不仲だった、稲岡の荘園を管理していた明石貞明に、夜討ちを仕掛けられ重傷を負う。そして臨終が近いことを悟った父が、仇討ちは断念し、「汝は俗世間を逃れて出家し、迷いと苦悩の世界から脱せよ」と遺言され、法然(=勢至丸)は出家を決意する。

 その後、法然は比叡山に登り、初め源光上人に師事、15歳(異説には13歳)のときに同じく比叡山の皇円の下で得度。さらに比叡山黒谷の叡空に師事して「法然房源空」と名乗った。「源空」の「源」は源光上人、「空」は叡空から、それぞれ一字を取り、名付けたものといわれる。法然はこの後、約30年間にわたって、迷いの世界から解脱できる法門を求めて、ひたすら求道の道を進む。1156年(保元元年)、24歳のとき比叡山の師・叡空に暇乞いしたのを皮切りに、嵯峨野「清涼寺」、奈良の「興福寺」、京都の「醍醐寺」「仁和寺」などの各寺に高僧を訪ね歩き、教えを請うたのだ。しかし、求める教えはどこにも得られなかった。

 そして1175年(承安5年)、唐の善導大師が著した『観無量寿経疏』(『観経疏』)を何度も読み返すうち、光明を見い出す。その中の「いついかなるときでも、一心に南無阿弥陀仏と唱えることを続けていけば、その者は阿弥陀仏の本願力で極楽浄土に往生できる」「南無阿弥陀仏と念仏を唱えれば、すべての人がもれなく救われる。なぜなら阿弥陀如来の誓い(本願)だからである」の一文を読み、求めていたものがこれだと得心したのだ。そこで法然は、一切の修行を捨て、ただ一向に念仏を唱える法門に帰依し、ここに浄土宗の開宗となった。法然43歳のときのことだ。1198年(建久9年)、法然は関白・九条兼実の要請を受けて、浄土宗の立教開宗の書『選択本願念仏集』を著している。

 法然が唱導している念仏の教えは、人々の間に瞬く間に広まっていった。そのため、旧仏教の比叡山や奈良からは非難を浴びるようになり、やがて弾圧を受けるまでになっていく。法然の本願念仏の教えとは異なる教えを、さも法然の教えのように吹聴して回る僧も数多くあらわれた。法然の教えに便乗して「念仏すればすべて許される」などの言動が横行していたのだ。

 そのため、比叡山の僧侶らはその責任を法然に取らせようとした。法然にとっては無実の罪を着せられたわけだが、当時の比叡山の影響力は国家宗教的側面もあり、強大だった。また、奈良の興福寺をはじめとして、当時既成の仏教教団すべてから念仏の停止を奏上されるほど、法然と浄土宗への弾圧は激しさを増していた。裏返せば、それほど法然の本願念仏の教えが、人々の間にしみ込むように広がり、このままでは既成の仏教教団そのものが立ち行かなくなる勢いだったのだ。こうして念仏停止の断が下された。

 また、法然にとって運の悪いことに住蓮、安楽という法然の弟子によって、後鳥羽上皇の女官が勝手に出家するという事件(?)が起こった。この事件は上皇の逆鱗に触れ、住蓮、安楽らは死罪、そして師の法然も僧侶の身分を取り上げられ、「藤井元彦」という俗名で四国へ流罪と決まってしまった。1207年(建永2年)、法然75歳のときのことだ。高齢の法然にとって辛い処罰だったはずだが、彼は「長年、地方に行って念仏の教えを説くことが願いだった。今回、それが果たせるのも朝廷のお陰」と言い残し、四国へと旅立った。

 流罪先の讃岐国滞在は10カ月と短いものだったが、九条家領地の塩飽諸島本島や香川県・満濃町(?)(現在の西念寺)を拠点に、75歳の高齢にもかかわらず、讃岐中に布教足跡を残し、空海の建てた由緒ある善通寺にも参詣している。
 法然の門下に証空・親鸞・蓮生・弁長・源智・幸西・信空・隆寛・湛空・長西・道弁らがいる。また、俗人の帰依者・庇護者としては九条兼実・宇都宮頼綱らが有名だ。

(参考資料)井沢元彦「逆説の日本史」、梅原猛「百人一語」、司馬遼太郎「この国のかたち 三」

浜口梧陵・・・異例の抜擢受けて紀州藩・県近代化に尽力した豪商

 「海に国境はない」といったのは、江戸時代末期の経済学者、本多利明だ。この海に国境がないということを底流に置きながらも、徳川幕府の権力の枠の中で、海の活動に努力した海商がたくさんいる。高田屋嘉兵衛がそうだし、実はこの浜口梧陵もそうだ。浜口梧陵の生没年は1820(文政3)~1885年(明治18年)。

 浜口梧陵は「稲むらの火」という話でよく知られている。1854年(安政元年)、紀伊国広村(現在の和歌山県有田郡広川町)を襲った「安政南海大地震」による津波のときに浜口梧陵が取った対応策の話だ。話のあらましはこうだ。その年の稲の刈り取りが済んで、刈り取られた稲が稲むらとなって田に積まれていた。村人は豊年を祝って酒を飲んでいた。梧陵もその席にいた。

突然、梧陵は家が大きく揺れるのを感じた。しかし、酒に酔った村人、農民たちは気付かない。「地震だぞ!」梧陵がそう叫んでも、農民たちは笑って相手にしない。「酒に酔って体が揺れたのでしょう」と笑った。梧陵は外へ出て海を見た。しばらくすると、海の上に大きな黒い山ができた。「津波だ!」しかし、酔って騒いでいる農民たちに、そのことを告げてもすぐには対応できない。

そこで、梧陵は急を知らせる非常手段として、田の中に積んであった稲むらに火をつけたのだ。稲むらはたちまち燃え上がった。やがて農民たちも「浜口さんが稲穂を焼いている」と騒ぎ始めた。しかし、梧陵は「沖を見ろ!津波がくるぞ」と叫び続けた。農民たちもようやく気がついた。この梧陵の思い切った手段によって、村人、農民たちは全員救われた。

 この災害の後、梧陵は破損した橋、堤防の修造などに努め、4665両という莫大な費用を要した広村の復興と防災事業に私財を投じたのだ。このとき造った大堤防は高さ4.5・、根幅20・、上幅7・、さらに全長673・もあるものだ。しかも二段構えになっていて、津波が前面の低い堤防を乗り越えてきても、この大堤防で食い止めようという段取りだ。さらに、前の堤防と新しく築いた堤防の間には、黒松を二列に植えるという念を入れた。この堤防は、1946年(昭和21年)の「南海大地震」のとき、津波を見事に食い止めた。後に小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は浜口梧陵を「生ける神(A Living God)」と賞賛している。

 浜口梧陵は紀州湯浅の醤油商人、浜口分家、七右衛門の長男として生まれた。梧陵は雅号で、字は公輿、諱は成則。12歳で本家の養子となった。醤油醸造業を営む浜口儀兵衛家(現在のヤマサ醤油)当主で、第七代浜口儀兵衛を名乗った。浜口家は代々湯浅醤油の醸造元で、元禄年間、海を越えて下総・外川(銚子市)に進出したほどの豪商だった。その醤油を1535年(天文4年)、大坂に輸送販売したのを皮切りに、江戸期に入ると販路はさらに広がり、紀州徳川家の御仕入醤油として特別の庇護を受け、浜口家はじめ湯浅醤油醸造業者たちの関東進出が始まる。

 こうして紀州藩御用船同様の特権を与えられ、気候、原料、水と三拍子揃った銚子に工場(ヤマサ醤油、ヒゲタ醤油の前身)を建て、江戸日本橋に店を構えた浜口家の醤油は世界最大の消費都市・江戸に向かって運ばれていくことになった。ただ、この浜口家も六代目のとき事業に失敗し、衰えたのを1853年(嘉永6年)、七代目儀兵衛を襲名した成則(梧陵)が立て直し、やがて一族から浜口家中興の祖と仰がれるほどに挽回したのだ。

 この七代目儀兵衛は江戸では勤王の志を抱いて洋学者、佐久間象山に師事し、勝海舟、福沢諭吉と親交を重ね、開国論を主張したほどの特異な存在だった。
 1868年(慶応4年)には商人身分ながら、異例の抜擢を受けて紀州藩勘定奉行に任命され、後には藩校教授や大参事を歴任するなど、藩政改革の中心に立って紀州藩・和歌山県経済の近代化に尽力した。その後、1871年(明治4年)には大久保利通の要請で初代駅逓頭(後の郵政大臣に相当)に就任するが、半年足らずで辞職した。

(参考資料)神坂次郎「男 この言葉」、童門冬二「江戸の怪人たち」

藤原鎌足・・・大化改新で表舞台に躍り出た天智天皇の腹心で、藤原氏の祖

 645年(皇極4年)、飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)で起こった蘇我入鹿暗殺事件の首謀者は誰だったのか。恐らくは20歳の中大兄皇子と32歳の中臣鎌足との見方が有力だ。半面、詳細は今日においても断定できない部分もある。しかし、この事件によって蘇我宗家の政権支配は崩壊、クーデターは成功した。入鹿を討たれた父・蝦夷は翌日、自害し蘇我氏宗家は壊滅した(乙巳の変)。

そして、新政府は入鹿暗殺のわずか2日後に樹立。中大兄皇子を皇太子とし、藤原鎌足(当時は中臣鎌足)を内臣(うちつおみ)とする大化の改新がスタートした。これまで無名に近かった中臣鎌足が、一躍時代の実力者として歴史の表舞台に躍り出たのだ。鎌足はこの後、中大兄皇子=天智天皇の腹心として活躍、日本に史上初の官僚機構を創っていく。

 元々は中臣氏の一族で、初期の頃には中臣鎌子(なかとみのかまこ)と名乗っていた。その後、中臣鎌足(なかとみのかまたり)に改名。臨終に際して天智天皇より大織冠を授けられ、内大臣に任じ、「藤原」の姓を賜った。出生地については「藤氏家伝」によると、大和国高市郡藤原(現在の橿原市)だが、大原(現在の明日香村)や常陸国鹿島とする説(「大鏡」)もある。子供は長男の定慧(じょうえ、俗名は真人、644~665年)(僧侶=遣唐使として渡唐)、次男の不比等(659~720年)の二人が知られている。

 鎌足は早くから中国の史書に関心を持ち、あのマキャベリズムの聖書といわれる中国兵法の書「六韜三略(りくとうさんりゃく)」を暗記した。隋・唐に留学していた南淵請安が塾を開くと、そこで儒教を学び、蘇我入鹿とともに秀才とされた。鎌足は密かに蘇我氏打倒の意志を固め、擁立すべき皇子を探した。初めは軽皇子(後の孝徳天皇)に近づき、後に中大兄皇子に接近。また、蘇我氏一族の内部対立に乗じて、蘇我倉山田石川麻呂を味方に引き入れた。乙巳の変の功績から内臣に任じられ、軍事指揮権を握った。但し、内臣は寵臣・参謀の意味で、正式な官職ではない。

 鎌足は氏族連合から、天皇を中心とする中央集権体制に転換すべく、律令国家への第一歩として、それまでの各豪族の私有だった人民と土地を、すべて国有とする「公地公民制」、官僚制度の整備を目指す「冠位制」の制定を、朝廷の宰相として強力に推し進めた。鎌足の定めた「冠位制」は、それ以前の聖徳太子による「冠位十二階制」を改めたもので、「徳・仁・礼・信・義・智」といった、それまでの徳目を用いず、織・繍・錦などの冠の材質と、紫・青・黒という色彩によって区分された。

 鎌足は中大兄皇子と二人三脚で、断固とした姿勢で改革に取り組んでいた。そのため計画を阻む者は容赦なく滅ぼした。649年(大化5年)、入鹿暗殺の功労者、蘇我倉山田石川麻呂が讒訴を受けて自殺に追い込まれている。鎌足はかつての主君、孝徳天皇が中大兄皇子と仲違いすると、これを冷酷に切り捨てて、667年、近江大津京遷都を断行している。また、日本最初の国立学校=「庠序(しょうじょ)」を開設。家財を投じて神仏を保護したかとみれば、百済救援軍派遣の軍事的冒険を決断し、663年、白村江で唐・新羅連合軍に惨敗して、終戦処理に奔走しなければならなかった。

ところで、これだけ強力に諸施策を断行してきた鎌足だが、彼個人にとって悲しい事件がある。653年(白雉4年)、孝徳天皇を難波に残して飛鳥に移ったこの年、鎌足の子、定慧が出家、入唐しているのだ。当時は次男の不比等はまだ生まれていないから、一人息子だ。しかも中臣家は神官の家柄、それにも増して当時、唐へ渡ることは大変な、命の危険を伴った。政治家として成功の道を行く鎌足が、どうしてこの大事な一人息子を出家させて唐へやったのか、極めて謎めいている。定慧は唐へ渡り、それからさらに百済へ行く。しかもその百済が滅んで、日本へ帰ってきている。ところが、この定慧は日本へ帰ってわずか3カ月、23歳の若さで毒殺されているのだ。

これには定慧の出自がからんでいる。史料によると、定慧の生年はおそらく皇極2年か3年。この年、孝徳天皇つまり軽皇子が自分の妃、阿倍小足媛を鎌足に与えているのだ。つまり定慧は軽皇子の子、あるいはその疑いのある人物だったということだ。となると、中大兄皇子と孝徳天皇の仲が決定的に冷え込んだとき、あるいは対立したとき、鎌足が孝徳天皇の子供であるという嫌疑を持たれている定慧を手許に置いておくことは、中大兄皇子の手前都合が悪かったのだ。そこで鎌足は因果を含めて唐へやったのではないか。だから、定慧は日本へ帰ってきてはいけない人物だったのだ。

668年(天智7年)、鎌足は「補佐役」として、宿願の中大兄皇子の即位(=天智天皇)を実現した。鎌足が没したのは、その翌年だ。享年56。律令制はすべてが鎌足によって、実行に移されてはいない。その多くが完成をみたのは、彼の次男、藤原不比等の代以降だった。だが、鎌足は律令制への道を開いた革命家だったといえよう。

(参考資料)黒岩重吾「茜に燃ゆ」、井沢元彦「日本史の反逆者 私説・壬申の乱」、加来耕三「日本補佐役列伝」、梅原猛「日本史探訪/律令体制と歌びとたち」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」、神一行編「飛鳥時代の謎」、関裕二「大化改新の謎」

本阿弥光悦・・・刀剣、書家、陶芸など芸術の万能人としてその名を残す

 光悦を生んだ本阿弥家は、刀剣の鑑定、研磨、浄拭(ぬぐい)を家業として、足利尊氏の頃から、その道では最高の権威を持つ名家だった。ただ、光悦自身は刀剣にとどまらず、「寛永の三筆」の一人に位置づけられる書家として、また陶芸、漆芸、茶の湯などにも携わった芸術の万能人(マルチアーティスト)として、その名を残している。

 本阿弥光悦は、「刀・脇差の目利細工並びもなき名人」といわれた光二を父とし、才気煥発で男勝りの賢夫人妙秀(みょうしゅう)を母として、京都に生まれた。子供の頃から家業を厳しく仕込まれたことが、後年、光悦の幅広い分野での活躍の基礎になったと思われる。刀剣には柄から鞘まで様々な工芸の技術が結集されている。木工も漆工も金工も、皮や紐の細工、象牙・螺鈿の彫り物など、ありとあらゆる技法が刀剣に集まっているのだ。

 光悦は京都洛北、鷹ヶ峰に芸術村(光悦村)を築いたことでも知られる。1615年(元和元年)、大坂夏の陣で徳川氏の政権がようやく確立した直後、家康から鷹ヶ峰の地に東西200間、南北7里にわたる広々とした原野を拝領し、今も残る光悦町の名に見る通り、本阿弥一族や町衆、職人などの法華宗徒仲間を率いて移住、新しく町造りを始めた。蒔絵師・紙師・筆屋など、本阿弥家とゆかりの深い工芸家たちが、ぎっしりと屋敷を連ねていたと思われる。鷹ヶ峰は光悦の芸術活動にとって、理想的な環境となった。彼はこの地で、80歳の生涯を閉じるまでの22年間、周囲の工芸家たちを縦横に使って、あの多種多様な芸術作品を世に送り出していく。芸術の組織者、美の演出家、光悦の真骨頂は、鷹ヶ峰芸術家村においていかんなく発揮されたのだ。

 家康が光悦に鷹ヶ峰移住を命じた理由は2点あると思われる。一つは光悦が、徳川家にとって危険人物とされていた古田織部と親交があったためで、その警戒心から、京都の町から彼を所払いさせたのではないか。後に、古田織部は徳川幕府への反逆者として切腹させられている。もう一つは家康が自ら光悦に新しい所領を与えることによって、室町将軍以来の刀剣の名家である本阿弥家を、自分の影響下に置きたかったのではないか。

 「本阿弥行状記」によると、当時の鷹ヶ峰は辻斬りや追い剥ぎの出没するところで、とても一人では暮らしていけるところではなかった。したがって、光悦は一族郎党を率いて移住しなければならない。だから光悦は、初めから鷹ヶ峰に理想郷を造ろうと考えて移ったのではなかった。むしろ権力に無理にやらされたわけだ。しかし、彼はその与えられた環境を自分の力で造り変えていったのだ。
 光悦はいろいろな物を作っている、ただ、光悦自身が手掛けて自分だけの作品といえるのは書と陶器だけだ。あとのものはすべて人を使って、つまり「光悦工房」の技術者を使って制作しているのだ。その陶器では、光悦が日本で初めて、個人作家として現われてきた存在といえるのではないか。光悦が茶碗を焼いたのは晩年に近い頃と思われるが、まろやかで、あたたかい、すべてを包み込むような潤いが、彼の作品の大きな魅力となって、光悦の人となりが焼き物の中に、にじみ出て迫ってくるのだ。

 光悦は、王朝文化復興の強力な担い手として、時代の脚光を浴びたのだ。桃山芸術を代表する本阿弥光悦と俵屋宗達の不思議な出会いは、今も謎に包まれたままだ。宗達の才能を認めた光悦は、大和絵古来のモチーフである四季折々の草花を描かせ、その上に自ら筆をとって「古今集」の秀歌を散りばめ、見事な「和歌巻」を完成している。俵屋宗達、尾形光琳とともに琳派の創始者として、光悦が後世の日本文化に与えた影響は限りなく大きい。

(参考資料)加藤唐九郎・奈良本辰也「日本史探訪/江戸期の芸術家と豪商」

原 敬・・・盛岡藩出身で“ひとやま”あてて宰相となった不屈の人

 原敬は犬養毅、尾崎行雄らとともに日本憲政史上の代表的政治家だ。後世「平民宰相」といわれる原敬の生まれは、祖父が意外にも盛岡藩の家老職を務めた上級武士の家柄だ。それにもかかわらず、彼が生涯、華族の爵位や位階勲等を辞退し続け、平民宰相と呼ばれたのは、父祖の仕えた盛岡藩が新政府軍に敗れ、「賊軍」の汚名を着せられた屈辱を忘れることができなかったからだ。1918年(大正7年)、第十九代内閣総理大臣となり、初の本格的な政党内閣を結成するが、不幸にも1921年(大正10年)東京駅で右翼の青年に暗殺された。原敬の生没年は1856(安政3)~1921年(大正10年)。

 原敬は盛岡藩・盛岡城外の本宮村(現在の岩手県盛岡市本宮)で盛岡藩士・原直治の次男として生まれた。幼名は健次郎。原家は祖父・直記が藩の家老職を務めたほどの上級武士の家柄だ。原は20歳のとき、分家して戸主となり、平民籍に編入された。これは原が、何もすすんで平民になったのではなく、徴兵制度の戸主は兵役義務から免除される規定を受けるためだ。事実、彼は家柄についての誇りが強く、いつの場合も自らを卑しくするような言動を取ったことがなかったといわれる。

 また後年、原は号を「一山」あるいは「逸山」と称したが、それは彼の薩長を中心とする藩閥への根深い対抗心を窺わせる。戊辰戦争で“朝敵”となった東北諸藩の出身者が、薩・長・土・肥の藩閥出身者から「白河以北一山百文」と嘲笑、侮蔑されたことへの反発に基づいているからだ。白河以北の東北諸藩の出身者は、わずか一山(ひとやま)百文(ひゃくもん)の価値しかない-というのだから、これ以上の侮辱はない

 原は16歳で東京へ遊学。そして苦学の末、1876年(明治9年)、司法省法学校に入学。しかし、予科三年のとき、学内で争議が起き、彼は事件に関係なかったが、学校当局の対応に義憤を感じ、結局先頭に立って行動。1879年(明治12年)に同校を退学後、郵政報知新聞、大東日報の記者を経て、外務省に入省。外務次官などを歴任。農商務省時代も含め陸奥宗光や井上馨からの信頼を得た。彼は陸奥が外務大臣を務めた時代には外務官僚として重用されたが、陸奥の死後、退官した。

その後、原は政界に進出し、伊藤博文を中心に結成された立憲政友会に発足時から参加した。1902年(明治35年)、衆議院議員選挙に初当選。以後、連続当選8回。立憲政友会の実力者として西園寺公望総裁を補佐し、桂園(桂太郎・西園寺公望)内閣時代の立役者となった。そして、1914年(大正3年)、第三代立憲政友会総裁に就任。1918年(大正7年)には内閣総理大臣となり、初の本格的な政党内閣を結成した。これから、しばらくは原敬を軸とする政治の時代が続くはずだった。

ところが、そうした期待や予想は見事に外れた。原が内閣総理大臣になってわずか3年余り経過した1921年(大正10年)、彼は不幸にも“道半ば”で、東京駅丸の内南口コンコースで右翼の青年、中岡艮一に襲撃され、倒れたのだ。即死だった。

(参考資料)小島直記「人材水脈」、中嶋繁雄「大名の日本地図」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、三好徹「日本宰相伝 不貞の妻」

藤原不比等・・・律令国家の影の制定者で、藤原摂関政治の礎つくる

 藤原不比等は律令国家の影の制定者で、後の藤原“摂関”政治体制の礎をつくった人だ。不比等には本人が遺したとされるインパクトのある言葉はない。また肖像もない。しかし、それは彼が生きた時代がそれを彼に強いたのであり、彼が明解かつ強固な意志を持っていたが故に、徹底して抑制の利いた官僚政治家の“顔”を貫き通した結果に他ならないのではないか。

具体的にいえば、彼は壬申の乱の勝者で後の天武・持統朝の敵、天智朝の実質的No.2藤原鎌足を父に持つが故に、その存在自体が危うく、決して目立ってはならない人間だったのだ。没年から逆算すると壬申の乱当時、彼は15歳。父親の名前が大きいだけに、いわば“戦争犯罪人の身内”として、その身を潜めるように乳母の山科の田辺史大隈に養われていた。彼が官僚として少しずつ頭角を現してくるのは持統天皇の御代になってからだ。雌伏15年、彼は31歳のとき、刑部省の判事に任じられて、やっと歴史に顔を出す。

彼は女帝の下で、真摯に勤勉に働く。野望を秘め、研ぎ澄まされた爪の片鱗さえも覗かせることなく、女帝の孫、軽皇子(後の文武天皇)の出現を辛抱強く待つ。やがて王座の激務に疲れた女帝が、位を文武に譲る。持統女帝53歳、文武15歳、不比等は働き盛りの40歳になっていた。

以来、彼は文武天皇の周囲に、娘・宮子を送り込んだほか、乳母・県犬養三千代など人脈による包囲網を張り巡らし、実権を掌握していく。娘婿の文武天皇が持統女帝の死後数年後、25歳の若さで世を去って後、文武の母・阿閉皇女=元明天皇、そしてその娘氷高皇女=元正天皇と世は移っても、法律のエキスパートとしての不比等との信頼関係は揺るがず、文武天皇の忘れ形見、首皇子、後の聖武天皇の成長を待った。
不比等は「律令国家」完成のための三つの事業を行っている。・「養老律令」の制定・平城京遷都(和銅3年・710)、そして・『日本書紀』の編集-さらにこれら三つの事業に先立つ「大宝律令」の制定、藤原京遷都(朱鳥9年・694)、そして『古事記』の編集にも彼は最重要人物として関わっている。

従来『日本書紀』編集の仕事は舎人親王の事績に数えられてきた。これは『続日本紀』の記事でそう結論づけられてきたのだ。しかし、皇族である舎人親王が一人で『日本書紀』を作ることは到底、不可能である。「大宝律令」は刑部親王(忍壁皇子)が総責任者となっている。

ただ『続日本紀』には「大宝律令」の制定に不比等が関わったことが明らかにされている。「大宝律令」および「養老律令」の撰定には当代の多くの知識人が動員されている。そして総責任者として名目的に親王が立ったと思われる。しかし、実質的な責任者は「大宝律令」も「養老律令」も不比等であったとの見方が近年有力になっている。『日本書紀』も、史書には不比等の名は出てこないが、その中心的役割を担ったのは彼だと思われるのだ。

また『続日本紀』によると、文武2年(698)8月の条に、藤原姓は不比等およびその子孫に限り、他の藤原氏はもとの「中臣」姓に戻れ-という意味の一文がある。これは政治の権力を不比等とその一族に集中させ、他の藤原氏を追い落とすという意味に解することができる。その結果、不比等の一族が宗教と政治の両方を支配できる、確固とした「藤原体制」を作ることができると考えたのではないか。政治による宗教、すなわち神祇の完全な掌握である。

 養老4年(720)、不比等は62歳の生涯を終えた。元正天皇は右大臣正二位だった故不比等に太政大臣、正一位を贈った。律令官制における最高位である。臣下では不比等をもってはじめとする。生前、不比等は太政大臣に任ぜられようとしたが固辞して受けなかった。この点、死ぬ間際まで「内臣(うちつおみ)」という皇太子中大兄(後の天智天皇)の秘書の地位にとどまって、冠位を受けなかった父、藤原鎌足に似ている。

このため彼は即位した聖武天皇は見ていない。さらに望んでいた安宿媛の立后(光明皇后)はその後のことだ。キングメーカーになれずに人生を終えたのは心残りだった違いないが、その後、彼の夢は100%叶えられた。そしてこれをきっかけに、天皇家と藤原氏の結びつきが長く続くことをみれば、彼こそ藤原王朝の創始者といえる。

(参考資料)梅原猛「海人と天皇」、黒岩重吾「天風の彩王 藤原不比等」、永井路子「美貌の大帝」、永井路子「はじめは駄馬のごとく ナンバー2の人間学」、日本史探訪/上山春平・角田文衛「律令制定と平城遷都の推進者 藤原不比等」
                             

菱川師宣・・・『見返り美人図』で有名な浮世絵を確立した人物

 菱川師宣は『見返り美人図』で有名な、浮世絵を確立した人物で、江戸時代初期に活躍した最初の浮世絵師だ。師宣は、それまで絵入本の単なる挿絵でしかなかった浮世絵を鑑賞に堪え得る、独立した絵画作品にまで高めるという重要な役割を果たしたのだ。そのため、彼は「浮世絵の祖」と称されている。生没年は1618(元和4)~1694年(元禄7年)。

 菱川師宣は安房国平群郡保田村(現在の千葉県鋸南町)の縫箔師(ぬいはくし)、菱川吉左衛門の子として生まれた。俗称は吉兵衛、晩年は友竹(ゆうちく)と号した。「縫箔」は模様表出に用いられる技法。「縫」は刺繍を、「箔」は摺箔を意味する。師信の修行時代、早期の習作時代の師系については、詳しいことは分からない。

 後年、師宣自ら「大和絵師(やまとえし)」と称していることから、土佐派、狩野派といった幕府や朝廷の御用絵師たちの技法を学び、そして漢画系の諸派や中国版画も吸収、そのうえに市井の絵師らしい時代感覚に合った「菱川様(ひしかわよう)」といわれる独自の新様式を工夫し、確立したものと思われる。優美で洗練された描線と彩色による、新しい風俗描写は世間で称賛され、「浮世絵師の開祖」と呼ばれた。

 代表作としては、世界的に有名な肉筆浮世絵『見返り美人図』が挙げられる。また、絵図師・遠近道印(おちこち どういん)と組んで製作した『東海道分間絵図』は江戸時代前期を代表する道中図として知られる。このほか、師宣は春画も数多く描いている。

 今日、師宣の作品として確認されているものは100種以上の絵本・挿絵本、50種以上の艶本のほか枕絵・名所絵・浄瑠璃絵の組物(くみもの)もある。また、肉筆画も画巻・屏風・軸物など相当数の作品が確認されており、その人気と旺盛な活動を窺い知ることができる。
 師宣は、師房(長男)、師重、師平ら多くの門人育成にも力を注ぎ、工房製作も行っていたことが分かっている。

 『見返り美人図』は戦後初めて、1948年(昭和23年)、11月29日発行の記念切手の図案に採用されている。これにより日本の記念切手の代表的かつ高価な1点となった。同時に、この『見返り美人図』が大衆に周知されるもとともなった。それに伴い、海外でも高い評価を得ている。

 肉筆浮世絵から木版による浮世絵版画を考案したのも、師信の大きな功績だ。浮世絵図はそれまで、武士や豪商など一部の特権階級が楽しむものでしかなかった。ところが、師宣が考案した浮世絵版画が出回るようになったことで、浮世絵は一般庶民にも広く親しめるものとなり普及し、江戸の文化にも大きな影響を与えた。

(参考資料)吉田漱「浮世絵の基礎知識」、藤懸静也「増訂 浮世絵」、藤懸静也「文化文政美人風俗浮世絵集」

北条早雲・・・巧みな徳治政策と領民優遇策で平定した戦国大名のはしり

 北条早雲の出自は不詳で諸説ある。生没年は1432~1519年。俗名伊勢新九郎、出家して法号を早雲庵宗瑞(そうずい)に改め頭を丸めた。妹が室に入っていた駿河・今川家の内紛を調停して興国寺城主となり、1491年に伊豆一国を、さらに1516年には相模一国を手中に収め後、北条氏が関東に覇を唱える基礎をつくった。

戦国大名のはしりといわれる。その実績と、箱根湯本にある小田原北条氏の菩提寺早雲寺に残されている、法体姿だが獲物を狙う鷹のような猛々しい覇気がみなぎっている画像の印象からは、早雲はただ戦いと権謀においてのみ傑出し、学問など眼中に置かなかった粗野な人物だったかのように感じられるが、果たしてどうだったのか?

 実際の早雲は、無学どころか当時一流の教養人だった。早雲の前半生については不明の部分が多い。だが、少なくとも一時期、室町八代将軍・足利義政の弟義視に近侍したり、幕府の申次衆を務めていたことが確認されている。そうした地位に就くには、相当の学問教養がなければ叶わないことだ。また、彼は京都紫野の大徳寺に参禅、住持の春浦宗煕の会下に列したことがあるし、同じく大徳寺住持に任じた法兄の東渓宗牧から「天岳」の道号を与えられており、彼の禅修行は一時の気まぐれなどではなく、本格的なものだったとみられる。

 早雲が学問。修養を重視したことは、後に彼が定めた家訓「早雲寺殿廿一箇条」にもみてとれる。例えば、その第一二条に「少の隙(ひま)あらば、物の本を見、文字のある物を懐に入、常に人目を忍び見べし。寝ても覚めても手馴ざれば、文字忘るるなり。書こと又同事」とある。時間さえあれば読書・習字に励めという。これはまさに“学問の勧め”だ。第一五条では「歌道なき人は、無手に賤き事なり。学ぶべし」という。この二条だけを抽出すると、修羅の世界を戦い抜いた戦国大名の第一号の座を実力で勝ち取った人物のものとは到底思えない。泰平の時代を生きた江戸の文人大名の趣と通じ合うところがあるほどだ

 こうした学問・修養に裏打ちされた思考の奥行きの深さは、大名の座に就いて後の早雲の施政、とくに民政において顕著に反映されている。小田原北条氏に仕えた三浦浄心が著した「北条五代記」に、早雲が伊豆国を攻めた際の、巧みな人心収攬のエピソードが紹介されている。

要旨はこうだ。風病が流行し、村里の家々にはほとんど例外なく数人の病人が臥せっていた。そこへ早雲が攻め込んでくると知って、足腰の立つ者は、親は子を捨て子は親を捨て、どこへともなく逃げてしまった-という。そこで早雲は医師に命じて良薬を調合させ、その薬と食事を配下の者に持たせて病人たちを見舞わせた。その結果、病人たちは皆助かり、その恩に報いるため山野に隠れ潜んでいる家族や縁者を探して説いて回った。その呼びかけに応じて見参した者に、早雲は所領なども安堵してやったことから、それが評判になり、その村里以外からも彼の徳を慕って出頭するものが相次いだので、彼がその地に7日間ほど滞在するうちに、全く武力を用いることがなかったにもかかわらず、周囲30里近辺はすべて早雲の味方になった-という。早雲の徳治政策が敵国の領民を魅了し、帰参者を続出させたというわけだ。

巧みな徳治政策で伊豆国の一円平定した早雲はさらに積極的な領民優遇策を打ち出した。それまで五公五民ないし六公四民だった税制を四公六民に改めるという、大幅な減税策を実施したのだ。当然、領民からは大歓迎を受けた、他国の領民からも大いに羨まれたという。

(参考資料)司馬遼太郎「箱根の坂」、安部龍太郎「血の日本史」、神坂次郎「男 この言葉」、海音寺潮五郎「覇者の条件」

松浦武四郎・・・全国を遊歴し、蝦夷地探検家で「北海道」の名付け親

 松浦武四郎は江戸時代末期に活躍した蝦夷地探険家であり、北にその一生を捧げ、「北海道」の名付け親として今日知られている。それだけに、当時の蝦夷地について数多くの著作を残している。彼はまたアイヌの人々が心から信頼した和人だった。封建的な江戸時代にあって、松浦武四郎にヒューマニズムあふれる近代的精神が育まれたのはなぜだろうか。生没年は1818(文化15)~1888年(明治21年)。

 松浦武四郎は伊勢国(三重県)一志郡須川村(現在の三雲町)小野江の郷士の四男として生まれている。名は弘(ひろむ)、字は子重。雅号は「北海道人(ほっかい・どうじん)」。幼名を竹四郎、長じて武四郎を通り名とした。ただ、著書の多くは竹四郎を用い、また多気志楼とも号した。先祖は肥前の松浦党の一族で、伊勢に移り、多気(たけ)の城主北畠氏の家臣として土着したという。父は時春(桂介)。本居宣長の門下として国学を修め、敬神家の名望があったのは、伊勢神宮のある伊勢という土地柄だと思われる。母はとく。

 武四郎は幼少から父の感化で俳諧などの風雅を好んだ。7歳で曹洞宗真学寺の和尚に手習を学び、名所図会や地誌などを好んで読み、他国の山河を写し取ったりして飽きることがなかったという。1830年(天保1年)、津の儒者、平松樂斎の塾に入った。3年後、国学を学んだ武四郎は突然のように平松塾を辞して家に戻った。そして江戸に下った。1833年(天保4年)、16歳のことだ。

 その後、諸国を遊歴。その一端を記すと、大坂では大塩中斎(大塩平八郎)を訪ねている。大坂東町奉行所の与力だったが、この頃はすでに隠居して、陽明学者として名高く、洗心洞塾を開いていた。大坂を後にした武四郎は播州、備前を経て四国に渡り、讃岐、阿波を回り淡路から紀州和田などへ足を伸ばしている。翌年、1835年(天保6年)、18歳になった武四郎は紀州の田辺、富田、串本を過ぎ、那智山に登り、熊野本宮に詣でた。高野山にも登り、粉河寺から和泉の槙尾峠を越えて観心寺に南朝の古跡を訪ずれている。その後、河内、大和、山城、摂津、丹波、播磨、但馬、丹後、若狭を経て越前へ出て、敦賀、福井、三国、吉崎、加賀の大聖寺、さらに美濃高山から三河、信濃を経て甲斐の金峯山寺、身延山に登り、霊峰富士山に初めて登っている。こうして17歳で家郷を出て以来、一度も戻らず、足掛け5年もの間、日本全国を遊歴、旅に明け暮れたのだ。

この間にロシアの南下による北方の危機を聞き、蝦夷地の探検を決意した。
しかし、旅人が蝦夷地奥地へ入ることは許されなかったため、1845年(弘化2年)、場所請負人和賀屋孫兵衛手代庄助と変名し、東蝦夷、知床岬まで到達、翌年は北蝦夷地勤番役の僕(しもべ)として樺太(サハリン)を探検した。さらに1849年(嘉永2年)には国後・択捉を探検し、この間見聞したことを「蝦夷日誌」「再航蝦夷日誌」「三航蝦夷日誌」に著した。

 1855年(安政2年)、幕府御雇に登用され、翌年箱館奉行支配組頭、向山源太夫手付として東・北・西蝦夷地を巡回。1857年には東西蝦夷地山川地理取調御用を命ぜられ、主要河川をさかのぼり内陸部をも踏査。「東西蝦夷山川地理取調図」「東西蝦夷山川取調日誌」として呈上したが公にされなかった。そのことが理由か定かではないが、1859年御雇を辞任。以後、約10年間著作活動に専念した。

1868年(明治1年)新政府から東京府付属、次いで翌年には開拓判官に任命され、北海道名や国郡名などの選定にあたった。しかし、アイヌ介護問題などについて、政府の方針と意見を異にしたため、病を理由に辞任。以来、著作のかたわら諸州を漫遊、死去直前に従五位に叙せられた。

(参考資料)佐江衆一「北海道人 松浦武四郎」、杉本苑子「決断のとき」、梅原猛「百人一語」

源頼朝・・・武家政権の創始者だが、評価低く、死因にも多くの謎

 源頼朝は周知の通り、鎌倉幕府の創始者だ。彼が開いた政権は制度化され、次第に朝廷から政治の実権を奪い、後に「幕府」と名付けられ、王制復古まで足掛け約680年間にわたり長く続くことになる。武家政権の創始者として頼朝の業績は高く評価されなければならないところだ。だが頼朝の人気は、はっきりいえば、その業績にもかかわらずそれほど高くない。また、そうした特筆される業績を残した、その頼朝の死因は何故か謎の部分が多く、今日なお定まっていない。

 頼朝の人物評については「冷酷な政治家」と見る向きが多い。それは、判官贔屓で高い人気を持つ末弟、義経を死に至らせたのをはじめ、多くの同族兄弟を殺し、自ら兵を率いることが少なく、主に政治的な交渉で鎌倉幕府樹立を成し遂げたことで、戦闘指揮官としては格別の実績を示していないためだろう。

 源頼朝は源氏の棟梁源義朝の三男として熱田神宮近くの旗屋町あたりで誕生。幼名は鬼武者。母は熱田神宮宮司・藤原季範の娘。母が家柄がよく、正室の子だったため、義朝の三男として生まれたが、彼は頼朝を可愛がり、源氏の嫡流として育てられた。頼朝の生没年は1147~1199年。

 「平治の乱」(1159年)に敗れた父、義朝は30余名の家人らとともに東国に落ち延びる途中で、騙し討ちに遭って殺害された。13歳で初陣した頼朝も捕らえられ、京へ送り届けられた。本来ならば殺されてしかるべきところを、平清盛の継母・池禅尼の計らいで、辛うじて一命を長らえ、“陸の孤島”と呼ばれた伊豆・韮山の蛭ヶ小島(ひるがこじま)(現在の静岡県田方郡韮山町土手和田)へ流罪にした。法的には流人でしかない頼朝は、狩野川の中洲の一つにあった流寓を出ることはできず、外部からの訪問者も、できる限り遠慮しなければならなかった。頼朝は地元の豪族・北条時政、伊東祐親らの監視を受けつつ、14歳から34歳になるまでの20年間、この地で読経三昧の生活を過ごしたのだ。

 1180年(治承4年)、頼朝は平家打倒の旗を掲げ、武家政権樹立へのスタートを切った、木曽の従兄弟・木曽義仲とのライバル争いや、朝廷を牛耳る後白河法皇との確執などがあったが、平家を打倒し全国を制覇した。1192年(建久3年)、征夷大将軍に任じられ、史上初の武家政権を樹立した。長い雌伏の後、鎌倉の地に有史以来初めて幕府を開き、新しい歴史の幕開けを断行したのだ。

 その偉大な政治家でもあった頼朝は1199年(建久10年)、落馬がもとであっけなく亡くなる。その後の源氏の運命は悲惨なものだった。北条時政の娘・妻政子との間に生まれた源頼家・源実朝は将軍になったものの、政治から遠ざけられ、いずれも最後は非業の死を遂げた。そして、その後の政治を継いだのは、政子と執権となって権力を掌握した、その一族の北条氏だった。

 ところで、研究が十分でない頼朝の評価とともに、不可解な点がその死因だ。諸説あって定まっていないのだ。吾妻鏡は「落馬」、猪隈日記は「飲水の病」、承久記は「水神に領せられ」、保暦間記は「源義経や安徳天皇らの亡霊をみて気を失い、病に倒れた」と記している。落馬説から尿崩症説、糖尿病説、溺死説、亡霊説、暗殺説、誤認殺傷説、果ては脳卒中など脳血管障害による脳内出血説など様々な説が挙げられているが、いずれも決め手に欠け、真相は闇の中だ。

(参考資料)加来耕三「日本創始者列伝」、尾崎秀樹「にっぽん裏返史」、永井路子「源頼朝の世界」、永井路子「続 悪霊列伝」、安部龍太郎「血の日本史」、海音寺潮五郎「覇者の条件」、司馬遼太郎「街道をゆく26」

松平容保・・・不本意ながら引き受けた「京都守護職」が貧乏くじに

 松平容保(かたもり)は江戸時代末期、将軍後継となった一橋慶喜や政事総裁職となった福井藩主・松平慶永らに強く勧められて、「京都守護職」という大役を引き受けたばかりに、後の会津の白虎隊の悲劇につながっていく遠因をつくることになった。

容保はもともと病弱のため、このときも風邪をひき病臥していて、初めは固辞していたのだが、会津藩祖・保科正之が定めた家訓を守るべく、やむなく不本意ながら引き受けざるを得なくなったわけで、これはまさしく“火中の栗”を拾うに等しい“貧乏くじ”だった。そして、将軍家を守るために忠勤に務めた結果、“賊軍”のレッテルを張られてしまった。

また、意外に知られていないが、京都守護職を務めた当時の容保を、孝明天皇が宸翰の中で職務勉励ぶりを嘉する文章がある。孝明天皇がいかに容保を信頼していたか物語るものだ。ただ、このことは容保を“乱臣賊子”とし、「所詮、会津松平は朝敵」の異名を着せ、押し切ろうとする薩長主体の新政府にとっては極めて厄介な存在だったと思われる。幕末動乱期を、薩長にとって危険分子と思われた容保が、どうしてその危機を切り抜けることができたのか。

 松平容保は陸奥国会津藩九代藩主であり、最後の藩主でもある。血統的には水戸藩主、徳川治保の子孫。美濃国高須藩主・松平義建の六男で、母は側室古森氏。兄に徳川慶勝、徳川茂徳、弟に松平定敬などがあり、高須四兄弟の一人。幼名は_之丞。官は肥後守。正室は松平容敬の娘、敏姫。生没年は1836(天保6年)~1893年(明治26年)。

 1846年(弘化3年)、八代会津藩主・容敬の養子となり、1852年(嘉永5年)に会津藩を継いだ。1860年(万延元年)に大老井伊直弼が水戸浪士に殺害された「桜田門外の変」では水戸藩討伐に反対した。井伊直弼暗殺後、一橋慶喜や福井藩主・松平慶永らが文久の改革を開始すると、1862年(文久2年)に新設の幕政参与に任ぜられ、のち新設の京都守護職に推された。容保は初めは固辞していたのだが、最終的には松平慶永らの強い勧めに遭い、不本意ながらこの大役を引き受けることになった。

その結果、容保は幕末動乱期の京都の治安を維持するため、「新選組」などを使い、西南雄藩の志士たちを含め討幕派の動きを弾圧。そのため、維新後は幕府派の重鎮とみられて敵視されることになった。
 容保は1867年(慶応3年)、参議に補任されたが、1868年(慶応4年)、鳥羽・伏見の戦いの後、解官。藩主の地位を降り、改元して明治元年、白虎隊で知られる会津戦争の後、因幡国鳥取藩に幽閉・永預り処分となった。1869年(明治2年)、紀伊国和歌山に移されるなど逼塞生活が続いたが、1872年(明治5年)、預け処分が免ぜられ、公人として復活した。そして1880年(明治13年)、日光東照宮の宮司となり、正三位まで叙任した。

 容保は「禁門の変」での働きを孝明天皇から認められ、その際書簡と御製(和歌)を賜った。彼はそれらを小さな竹筒に入れて首に掛け死ぬまで手放すことはなかったという。また、幕末維新については周囲に何も語ることはなかった。“沈黙は金”ではないが、何も語らなかったことが、維新直後の蟄居・逼塞期を経て、明治半ばまで彼を生き延びさせる遠因となったことは間違いない。

(参考資料)司馬遼太郎「王城の護衛者」、司馬遼太郎「街道をゆく33」、綱淵謙錠編「松平容保のすべて」

陸奥宗光・・・“カミソリ陸奥”の異名持ち不平等条約の改正に辣腕振るう

 陸奥宗光は幕末、勝海舟の「神戸海軍操練所」に入り、坂本龍馬の「海援隊」に加わるなど始終、坂本龍馬と行動をともにした。明治維新後は政治家、外交官となり、“カミソリ陸奥”の異名を持ち、とりわけ外務大臣として不平等条約の改正に辣腕を振るった。陸奥宗光の生没年は1844(弘化元年)~1897年(明治30年)。

 陸奥宗光は紀州国名草郡(現在の和歌山市)で、紀州藩士伊達宗広(伊達千広の説もある)と政子(渥美氏)の六男として生まれた。幼名は牛麿(うしまろ)。生家は伊達政宗の末子・伊達兵部宗勝の後裔と伝えられるが、実際は古くに陸奥伊達家から分家した駿河伊達家の子孫。伊達小次郎、陸奥陽之助と称した。

 国学者、歴史家としても知られていた父の影響で、宗光は尊皇攘夷思想を持つようになった。父は紀州藩に仕えて財政再建を成した重臣だったが、宗光が8歳のとき(1852年)、藩内の政争に敗れて失脚したため、一家には困苦と窮乏の生活がおとずれた。

 1858年(安政5年)、宗光は江戸へ出て安井息軒、水本成美に学び、土佐の坂本龍馬、長州の桂小五郎(後の木戸孝允)、伊藤俊輔(後の伊藤博文)などの志士と交友を持つようになった。1863年(文久3年)、勝海舟の「神戸海軍操練所」に入り、1867年(慶応3年)には坂本龍馬の「海援隊」に加わるなど始終、坂本龍馬と行動をともにした。勝海舟と坂本龍馬の知遇を得た宗光は、その才幹を発揮し、龍馬に「(刀を)二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけだ」といわせたほどだったという。

 明治維新後、宗光は兵庫県知事(1869年)、神奈川県令(1871年)、地租改正局長(1872年)、さらに1875年元老院幹事となったが、1877年の西南戦争に呼応した土佐立志社の挙兵計画に加担し、1878年に免官、高知の獄で禁獄5年を科せられた。1882年出獄後外遊。1890年第一次山県有朋内閣の第七代農商務省に就くとともに、最初の議会で政党工作に努め、続く松方正義内閣にも留任したが、選挙干渉問題をめぐる政府の責任を追及して辞任した。

 近代日本が最初に戦った本格的な対外戦争は、1894年(明治27年)~1895年(明治28年)の日清戦争だ。この戦争で日本はアジアの大国・清に差をつけて、欧米近代国家の仲間入りを果たした。この日清戦争を演出したのが、第二次伊藤博文内閣の第八代外務大臣・陸奥宗光だ。彼は利害が一致した、参謀本部次長の川上操六中将と腹を合わせ、出兵の兵力についても密談を重ねた。そして併行して条約改正交渉を進めた。その結果、ロシアとの関係で日本の力に頼る必要があったイギリスを味方につけ、対外硬派による反対を抑え、彼はこのときまでに、こじれにこじれ懸案となっていた条約改正に成功。1894年、日英通商航海条約の調印にこぎつけ、治外法権の撤廃を実現したのだ。また三国干渉の処理にあたるなど外交の第一人者として活躍した。“カミソリ陸奥”の異名はここから生まれた。

(参考資料)奈良本辰也「日本史の参謀たち」、徳富猪一郎「蘇翁夢物語-わが交遊録」、池波正太郎「戦国と幕末」

松平定信・・・ “田沼詣で”の屈辱が、私心から田沼政治の全否定に

 白河楽翁といわれ、名君の誉れ高い松平定信は、若い頃から清潔な身の処し方で有名だった。政治に対する高い理念もあった。だが、彼が生きた時代は田沼時代だ。田沼意次が老中首座として諸政策を展開していた時期だが、周知の通り田沼は大の賄賂好きだった。そのため“田沼詣で”の大名や旗本たちで連日、田沼邸はあふれた。ある日、そんな群れに松平定信の姿が加わった。定信が20代のころのことだ。清廉潔白を絵に描いたような松平定信にも、文字通り、“汚職”宰相、田沼意次に贈賄した“汚点”があった。そして、そのときの屈辱が後に定信が宰相になった際、田沼政治の全否定となって表れたのだ。

松平定信は、自分が否定し、心の底から忌み嫌う賄賂好きの田沼のところになぜ出かけていったのか?当時の権力のしくみが田沼詣でをしなければ、絶対に出世できなかったからだ。それほど田沼の権勢は絶大だったのだ。もちろん田沼詣でを決行するまで定信は悩みに悩んだ。清潔な生き方に取り返しのつかない汚点になるからだ。しかし、それと引き換えにしても定信は老中になりたかった。幕閣に参加して、自分の政治理念を実現してみたかったのだ。

 そんな重い決断をして出かけた定信に対し、田沼はあいまいな返事しかしなかった。それは定信が尊大な態度で、気取って格好をつけ、名門の自分が頼みに行きさえすれば田沼は何とかするだろうと、たかを括っている様子がみえたからだ。
田沼自身は足軽からの成り上がり者だから、名門だとか貴公子だとかは、もうそれだけで嫌いなのだ。田沼邸に日参する人たちは目的のためにはなりふり構わないではないか。それに対し、この青年(定信)は人の世の苦労を全く知らぬ。人にものを頼む態度ではない-と映ったのだ。しかも、土産もろくなものを持ってきていない。

田沼は賄賂をもらうことを全く悪いとは思っていない。連日田沼邸に持参される、いい品物や金は私に対する誠意の表れだ。だから、私は誠意に応える。その品物がよければよいほど、金が多ければ多いほど私はその人を重い役に就ける-などと田沼は公言したから、田沼邸には賄賂の金品が山のように積まれ、持参した人たちであふれたのだ。

 名門の貴公子(定信)が身を屈しての猟官運動に、色よい返事をしなかった田沼に、この日、定信は手ひどく面子を潰された。そして、それは田沼への深い遺恨となった。その後、松平定信は待望の老中になった。しかし、田沼の推挙によってではなかった。田沼の強力な後見人だった第十代将軍・家治が死んだからだ。政変が起こった。30歳の宰相、松平定信は人事異動で田沼派を一掃した。このとき罷免した高級官僚は数十人に及んだ。中でも田沼意次に対する処分は苛酷を極めた。老中職を解かれたうえ、相良(静岡県)二万石を没収され、江戸にあった邸もすべて没収、蟄居させられた。孫の意明(おきあき)に辛うじて一万石くれたが、領地は東北と越後(新潟県)の荒蕪地だった。

 松平定信が行った「寛政の改革」は“潰された面子、屈辱感からの報復”だった。一度でも田沼詣でを行った自身への自己嫌悪と、それを増幅するあの日の屈辱感がエネルギー源になっていた。広く万民のためではなく、所詮、私心から発せられたものだ。そのために、定信の改革は失敗した。

 松平定信は御三卿田安宗武の七男として生まれた。幼名は賢丸。生没年は1759(宝暦8)~1829年(文政12年)。幼少期から聡明で知られており、田安家を継いだ兄、徳川治察が病弱かつ凡庸だったため一時期は田安家の後継者、そしていずれ将軍家治の後継者とも目されていた。
しかし、当時は田沼意次が権勢を誇った時代。しかも、その政治を定信が「賄賂政治」と批判したため、そのしっぺがえしを恐れた一橋家当主・治済によって1774年(安永3年)陸奥国白河藩第二代藩主・松平定邦の養子にされてしまったのだった。

一般には名君の誉れ高い松平定信だが、人間的な器量という面では?の付く、たくましさに欠ける、線の細い人物だったのではないか。また老中としては、当時の経済システムはもちろん、一般庶民の思いや暮らしぶりを全く理解できない“暗愚”の宰相だったのではないか。

(参考資料)童門冬二「江戸管理社会 反骨者列伝」、童門冬二「江戸のリストラ仕掛人」、山本周五郎「日日平安」、司馬遼太郎「街道をゆく33」

毛利元就・・・地縁・血縁を巧みに駆使し婚姻-間諜で拡大、成果を挙げる

 戦国時代、数多いた武将の中で、「間諜」を用いてかなりの成果を挙げた人物がいる。東の武田信玄、西の毛利元就だ。ただ、同質の武将でありながら、信玄の暗さ、陰湿さが、なぜか元就からは伝わってこない。元就は大内義隆の「補佐役」を、ほぼ30年の長きにわたって忠実に務めている。このまま大内氏の隆盛が続き、磐石の体制が維持されていれば、よもや元就とて「補佐役」の分限を越えることはなかったろう。

 毛利元就は安芸国吉田郡山城(現在の広島県安芸高田市吉田町)を本拠とした毛利弘元の次男。幼名は松寿丸、仮名は少輔次郎。1511年(永正8年)、元服し、毛利元就を名乗る。室町時代後期から戦国時代にかけて、安芸の国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大し、戦国時代最高の名将の一人と評される。用意周到な策略で自軍を勝利へ導く策略家として名高い。家系は大江広元の四男、毛利季光を祖とする毛利氏の血筋。家紋は一文字三星紋。生没年は1497(明応6年)~1571年(元亀2年)。

 1542年(天文11年)、大内氏は、宿敵・尼子氏の根拠地、月山城を一気に攻め落とすべく、大動員令を発した。ところが、大内勢は尼子方の鉄壁の防戦に阻まれると同時に、大軍ゆえに兵站線の維持が困難となり、まさかの苦戦。そこで、機を見るに敏な小豪族は、今が功名の機会とばかりに、一斉に尼子方へ寝返って大内勢に襲いかかった。この大敗戦を機に大内義隆は以後、軍事に手を染めることがなくなり、学問・遊芸の世界へ入り浸ってしまう。その結果、尼子を勢いづかせ、周辺諸国の石見や安芸の国人たちを、大内氏から離反させることにつながった。

 こうした事態をみて「補佐役」元就は明白に方向転換を決断する。そして、もう一人の補佐役、陶隆房とも、主君の義隆とも同様、距離を置き始める。

 陶隆房は補佐役として主君、義隆に繰り返し諫言するが、人変わりした主君は全く耳を貸さない。そこで、隆房は遂に「補佐役」の分限を越えた。義隆を廃して大内家を立て直すことを決意。家中の心ある重臣と一気にことを運んだ。元就にも使者を送って、賛同を取り付けている。当初は義隆を隠居させ、幼い義尊(よりひろ)を立てる計画だったともいうが、隆房は途中でこの二人を亡き者にし、大友義鎮(よししげ・宗麟)の弟・八郎晴英(後の義長)を主君に迎えることに予定を変更。1551年(天文20年)義隆は隆房の叛乱軍によってこの世を去った。元就は隆房と袂を分かつことになった。

 元就は地縁・血縁を巧みに駆使した婚姻政策-間諜によって、軍事力・国力の拡大・強化を図ってきた。この総仕上げとしてまず1544年(天文13年)、三男の隆景に小早川氏を継承させた。1546年(天文15年) 元就は家督を長子の隆元に譲る。元就54歳、隆元24歳のことだ。そして、元就は次男・元春の吉川氏相続による、婚姻関係のネットワークの拡大・強化に取り組む。強引さと緻密さを併せ持った元就が策略を駆使、安芸国人の一方の雄であった小早川、吉川両氏をその支配下に置くことに成功する。この体制は「毛利両川(りょうせん)」として、以後の毛利氏を支え、発展させていく基となった。
 1555年(弘治元年)、厳島の戦いで陶晴賢(陶隆房から改名)と対決した際の戦力は、敵の動員兵力2万余に対し、元就方は小早川、吉川両氏の兵力を加えても4000~5000にすぎなかった。正攻法ではとても勝ち目はなかったのだ。「補佐役」が内応しているかの如くみせる、いわゆる「間諜」による離反、切り崩しと、奇襲作戦などにより、4~5倍もの兵力を誇る相手に勝利を収めた。元就の中国地方における地盤確立は、この戦いの勝利によって、その第一歩を大きく踏み出した。その後も「間諜」によって近隣を併呑、遂に尼子氏を滅ぼし、1571年(元亀2年)、75歳でこの世を去った。そのときは中国10カ国の太守となっていた。

 毛利元就といえば“三本の矢”の話がある。一本の矢は簡単に折れるが、三本を一度に折ろうとしても折れない。だから、三人が心を合わせて兄弟仲良くしていけば、治めていける-というあれだ。しかし、元就が真に伝えたかったことはもっと現実的でドライなものだったようだ。彼が三人の息子に与えた「教訓状」が残っていて、これによると、「当家は皆の恨みを買っている。当家のためを思っている人間など一人もいないと思え。私も随分、人を殺してきた。だから子孫は特別、人に憎まれるだろう」などとある。だから、お前たち三人は心を一つにして切り抜けていかなければやっていけない、というわけだ。したがって、「教訓状」は凄まじい人間不信の書なのだ。「人間は信じられない」、これが元就の人生哲学だった。

(参考資料)加来耕三「日本補佐役列伝」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」、杉本苑子「決断のとき」、海音寺潮五郎「覇者の条件」

松本良順・・・将軍家茂の最期を看取り、日本の陸軍軍医制度を確立

 松本良順は幕府の医学所頭取を務めた後、戊辰戦争で幕軍に参加、会津城内の野戦病院を開設し戦傷病者の治療にあたった。そのため戦後は明治政府に捕らえられ禁固の身となったが、数年後、懇請されて兵部省に出仕し、日本の陸軍軍医制度を確立した人物だ。松本良順の生没年は1832(天保3)~1907年(明治40年)。

 松本良順は下総国(千葉県)佐倉藩医佐藤泰然(順天堂大学の祖)の次男として、江戸麻布の我書坊谷で生まれた。幼名は順之助、名は良順、のち順に改め、蘭疇(らんちゅう)、楽痴と号した。嘉永3年、幕府医官の松本良甫(りょうほ)の養子となり、改姓した。1871年(明治4年)、従五位に叙せられた後、「松本順」と名乗った。

 良順は17歳のとき、父佐藤泰然の卵巣手術に助手として立ち会ったほか、乳がん、脱疽、痔ろうなどの切開手術にも、父泰然の助手として立ち会うという貴重な経験を積んだ。泰然は豪放で生来、進取の気性に富んでいた。早くから西洋医学に深い関心を持ち、長崎に留学して蘭医ニーマンに学び、江戸に戻ってからは薬研堀に医院を開き、多くの弟子の教育にもあたった。他に望むべくもない、そうした環境が良順を、積極的に西洋医学の研鑽に駆り立てたことは間違いない。

 26歳の良順は1857年(安政4年)、幕命で長崎に行き、オランダ軍医ポンペの医学伝習生の責任者となって、長崎養生所・医学所の運営に尽力した。従来日本では漢方医が正統で、蘭方医は下位に置かれていたが、将軍お膝元の江戸にも種痘所が開かれるなど、先進的な西洋医学への希求が高まっていたころであり、良順はその先端を行くことができたのだ。

 1862年(文久2年)、良順は江戸に帰り、幕府の医学所二代目頭取、緒方洪庵を補佐し、1863年(文久3年)、洪庵没後、良順は三代目頭取となって、ポンペ直伝の近代医学教育法を導入した。1864年(元治元年)、法眼に叙せられ、将軍侍医なども務め、十四代将軍・徳川家茂の治療にあたり、大坂城で家茂の最期を看取っている。また良順は、会津藩の下、幕末、京都の治安維持にあたった西本願寺の新選組屯所に招かれ、隊士の回診を行っているほか、局長近藤勇、副長土方歳三、沖田総司らとも個人的な親交があったようだ。

 良順は戊辰戦争では幕軍に参加、奥羽列藩同盟軍の軍医となり、会津城内に野戦病院を開設。戦傷病者の治療にあたった。そのため、戦後は明治政府に捕らえられ、一時投獄され、禁固の身となった。だが1869年(明治2年)釈放され、早稲田に私立病院・蘭疇医院を建て、教育と診療にあたった。こうして野にあること数年、良順は懇請されて兵部省に出仕し、1871年(明治4年)、「軍医寮」を創設。陸海軍が分かれた後は、陸軍軍医部の編成に尽力し、山縣有朋などの推薦を受け1873年、陸軍軍医総監となり、日本陸軍軍医制度を確立した。

 軍医学は公衆衛生学的な考えを基盤にしていたので、良順は牛乳の飲用、海水浴の奨励など民間への指導を行った。良順によって開かれた日本最初の海水浴場、大磯照ヶ崎に彼の功績を顕彰する記念碑が建てられている。
 1891年(明治23年)、良順は貴族院議員に選出され、いわゆる勅撰議員を務めた。著作に「蘭疇」「通俗医療便法」などがある。

(参考資料)司馬遼太郎「胡蝶の夢」、吉村昭「日本医家伝」、司馬遼太郎・ドナルド・キーン対談「日本人と日本文化」

最上徳内・・・シーボルトなど同時代の学者・知識人から評価うけた北方探険家

 最上徳内は蝦夷地探検などで知られる、江戸時代後期の北方探検家だ。徳内の科学的測定法や、彼の説を最も高く評価して引用したのは、シーボルトだ。とくに、徳内が製作した蝦夷地(北海道・千島)や樺太の地図を見て、準尺技術の高さや、日本における天文学や陸地測量術が意外に進んでいることを知った。徳内は市井の知名人ではなかった。しかし、彼と同時代の質の高い学者や知識人からは尊敬される多くの事績を残した人物だった。徳内の生没年は1754(宝暦4)~1836年(天保7年)。

 最上徳内は出羽国の村山郡(現在の山形県村山市)の農家で、二男三女の長男として生まれた。父は間兵衛。彼が生まれ育った楯岡村は、山形盆地の北東にあり甑岳(こしきだけ)の西麓にある。戦国時代に最上氏の支流がここに城を築いて拠った。最上氏は江戸時代初期に廃絶した。徳内は農民の出だから苗字を持たなかったが、後年、蝦夷地にわたるときに“最上”を称した。最上氏の血をうけていたからではなく、おそらく故郷をしのぶためだったろう。

 徳内の生家は、わずかに耕作をするかたわら、煙草切りをして暮らしを立てていた。煙草切りとは、葉を刻んで毛のような製品にする仕事だ。徳内は巧みにそれをやった。『蝦夷草紙』の末尾の略伝によると、徳内は16歳から近くの谷内村のたばこ屋に奉公し、そのかたわら、近所の医師について漢学を習った。たばこ屋ではよく勤め、主人から信用されて、津軽から仙台、南部までたばこを売り歩いた。決まった師があったわけではなかったが、柔術と剣術も会得した。

 徳内は長男として両親を助けねばならなかったが、学問修行のため江戸に出ることを願っていた。そして27歳のとき、やっとその機会が巡ってきた。1781年(天明元年)、父の一周忌が明けると、江戸に出た。弟妹も成長して、後顧の憂いがなくなったのだ。27歳からの就学は当時としてはとくに晩学だった。金があるわけではなかった。

江戸に出てから徳内は、一所に落ち着かず、目まぐるしく奉公先を変えた。一時期、医者になろうと思い、幕府の医官、山田宗俊の下僕になった。だが、2年足らずでそこを出た。次は数学を志した。湯島の永井正峯が主宰する数学塾に入塾した。徳内は数学に天稟があり、ほどなく師の永井正峯を凌いだ。そこで、師に同行して長崎への算術修行も行っている。これと相前後してのことと思われるが、1784年(天明4年)、本多利明の「音羽塾」に入門し、天文学測量、そして海外事情にも明るい本多の経済論などを学んでいる。

 こうして学問を積んだ徳内は、最初は幕府の蝦夷地検分使の一員として蝦夷地に渡った。1791年には普請下役の武士となり、1798年には幕臣、近藤重蔵らと初めてエトロフ島に上陸し、「大日本恵登呂府」の標柱を建てている。徳内は1785~1810年まで9回にわたり、蝦夷地や北方領土の探検にあたった。

 いずれにしても、どのような経緯があってのことか、詳細は分からない。だが、厳然としてあった江戸時代の身分制社会で、徳内は蝦夷地をはじめとする北方探検の専門家として、幕府に取り立てられて武士(=扱い、待遇)になるという、稀有な出世を果たした人物とみられる。
 シーボルトは最上徳内を「18世紀における最も傑出した日本の探検家」として、最大級の言葉で誉め称えている。

(参考資料)司馬遼太郎「街道をゆく37」、司馬遼太郎「菜の花の沖」

南方熊楠・・・粘菌研究で知られる破天荒な博物・生物学者

 南方熊楠は博物・生物・民俗学者で、柳田國男とともに日本の民俗学の草創者だ。とくに菌類学者として、動物の特徴と植物の特徴を併せ持つ粘菌の研究で知られている。熊楠の「熊」は熊野本宮大社、「楠」はその神木クスノキに因んでの命名という。主著に「十二支考」「南方随筆」などがある。生没年は1867年(慶応3年)~1941年(昭和16年)。萎縮腎により自宅で死去。満74歳。
 熊楠は子供の頃から驚異的な記憶力を持つ神童だった。また常軌を逸した読書家でもあり、蔵書家の家で100冊を超える本を見せてもらい記憶、家に帰ってその記憶をたどり書写するという特殊な能力を持っていた。9歳の時、儒者で医師でもあった寺島良安が編纂した厖大な百科事典「和漢三才図会」の筆写を始め、5年かけ全105巻を筆写した。
このほか、9歳から12歳にかけて、植物学大事典ともいうべき明の李時珍が著した「本草綱目」52巻21冊、「諸国名所図会」、「日本紀」、貝原益軒の「大和本草」なども筆写したという。何日も家に帰らず、山中で昆虫や植物を採集することがあり、「てんぎゃん(天狗)」というあだ名があった。
 子供の頃の性格はその後も変わることなく、1884年、大学予備門(現在の東京大学)に入学するが、彼は学業そっちのけで遺跡発掘や菌類の標本採集などに明け暮れた。同窓生には塩原金之助(夏目漱石)、正岡常規(正岡子規)、秋山真之、山田美妙などがいた。
 熊楠は1892年、渡英しロンドンの天文学会の懸賞論文に1位で入選した。大英博物館東洋調査部に入り、資料整理に尽力。人類学・考古学・宗教学などを独学するとともに、世界各地で発見、採集した地衣・菌類に関する記事を科学雑誌「Nature」などに次々と寄稿した。1897年にはロンドンに亡命中の孫文と知り合い、親交を始めている。孫文32歳、熊楠31歳のことだ。
 帰国後は和歌山県田辺町(現在の田辺市)に居住し、柳田國男らと交流しながら、卓抜な知識と独創的な思考によって、日本の民俗、伝説、宗教を広範な世界の事例と比較して論じ、当時としては早い段階での比較文化人類学を展開した。
 菌類の研究では新しい70種を発見し、また1917年(大正6年)自宅の柿の木で粘菌新属を発見。これが1921年(大正10年)“ミナカテルラ・ロンギフィラ”(Minakatella longifila 長糸南方粘菌)と命名された。1929年には田辺湾神島(かしま)沖の戦艦「長門」艦上で、紀南行幸の昭和天皇に進講する栄誉を担っている。
 熊楠はエキセントリックな行動が多く、酒豪だったが半面、酒にまつわる失敗も多かった。語学には極めて堪能で英語、フランス語、ドイツ語はもとより、サンスクリット語におよぶ19カ国語の言語を操ったといわれる。
 田辺では1906年に布告された「神社合祀令」によって神社林、いわゆる「鎮守の森」が伐採されて生物が絶滅したり、生態系が破壊されてしまうことを憂い、熊楠は1907年より神社合祀反対運動を起こした。今日、この運動は自然保護運動、あるいはエコロジー活動の先駆けとして高く評価されており、その活動は2004年に世界遺産(文化遺産)にも登録された「熊野古道」が今に残る端緒ともなっている。
(参考資料)鶴見和子「南方熊楠」、神坂次郎「縛られた巨人-南方熊楠の生涯」
      津本陽「巨人伝」

本居宣長・・・ライフワークとして「古事記伝」全44巻を著した国学者

 本居宣長は生涯、桜を愛した国学の大成者だ。当時すでに解読不能に陥っていた「古事記」の解読に成功し、「古事記伝」を著した。このように表現すると、堅苦しい、文人気質の学者タイプの人物を想像してしまうが、実際はかなり違ったようだ。確かに本居宣長は常軌を逸した振る舞いが非常に嫌いで、日々の生活態度がかなり厳格な人だった。ところが、彼は医師だった関係で、日々の患者のこと、調剤のこと、謝礼のことなどを、実に細かくつけていたのだ。また、23歳の春、医師になるため京都に留学したが、彼の「在京日記」をみると、勉強もしたが、相当遊びもしたのではないかと思われる。とくに歌舞伎は相当通であったことがうかがえるし、乗馬をしたり、お茶屋へも遊びに行ったのではないかと思われ、酒も相当飲め、とくにタバコが好きだったようだ。その意味では、当然必要だったとはいえ、また青年時代のこととはいえ、従来のイメージの、真面目で、ストイックで、文人気質一辺倒とは裏腹の、日常性に徹するというか、とにかく普通の生活者タイプの学者だったといえる。

 本居宣長は伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)の木綿問屋、小津三四右衛門定利(おづさじえもんさだとし)の次男として生まれた。幼名は富之助。名は栄貞。通称は瞬庵、春庵(しゅんあん)、鈴屋大人(すずやのうし)と号した。

 伊勢商人は近江商人と並んで、各地の大都会に繰り出して商売を広げてきた。とくに江戸の大伝馬町には、伊勢店(いせだな)と呼ばれる出店がずらりと軒を並べて、手広く松坂木綿を商っていた。しかし江戸の出店の経営は、支配人に任せ、主人は松坂に住んで、趣味的な生活を送る-。これが伊勢松坂の木綿問屋なのだ。宣長の父もまた、そのような旦那衆の一人だった。

 ところが、任せていた支配人の過ちから父は家産を失い、宣長が11歳のとき失意の中で病死した。江戸の出店も、松坂の本宅も整理された。宣長は母かつの手で育てられ、叔父の江戸の店で商いの見習いもしたが、本を読めぬ生活を嫌い帰郷。小さいときからおとなしく、書物が好きだった宣長をみて、母は彼を商人よりも、医者にすることにした。京都に留学した宣長は、堀景山という儒学者の家に寄宿。まず儒学を学び、その後、小児科の医者を目指して5年4カ月を京の都で学んだ。

 28歳。松坂に帰った宣長は、小児科医として開業し、診察、往診、家伝の子供用の飴薬作りもした。そして、忙しい間を縫いながら、なお独力で古典研究を続けた。とくに賀茂真淵の著書を読み、その学問に傾倒した。こうして医業と学問の生活を続けて5年余り。結婚し、長男(後の本居春庭)も生まれたその年の初夏、かねてから心の師と仰ぐ賀茂真淵との対面が実現。1763年(宝暦13年)、賀茂真淵67歳、本居宣長34歳だった。

 真淵は国学者としてすでに名声が高く、国学研究の究極は「古事記」にあり、と考えていた。そして、その「古事記」研究の前段階として「万葉集」の研究が必要だと考えていた真淵は、すでにこれを完成していた。しかし、真淵は「万葉集」の研究に多くの歳月を失い、「古事記」研究を成し遂げるには老い過ぎたことを自覚していた。一方、宣長もまた、古典研究の最終テーマは「古事記」にあると考えていた。同じ志を持つ者の、熱い思いに駆られた二人は、夜の更けるのも忘れて語り明かした。

 真淵は自分の「万葉集」の研究成果を基礎にして、「古事記」の研究を大成するよう宣長を励まし、自らの注釈を施した「古事記」の書入れ本を宣長に託した。二人はここに師弟の縁を結び、宣長は正式に真淵の門人に名を連ね、江戸と松坂の間を書簡で結んで学び合った。しかし、この師弟が直接会って言葉を交わしたのはこの時の面会が最初で最後だった。

 宣長は、真淵から託された「古事記」の研究にそのすべてを注ぎ込んだ。以来、およそ30年、古い茶室を改造して住まいの二階に付け加えた、四畳半にも満たない「鈴屋」と名付けた狭い書斎で続けられた。1798年(寛政10年)、宣長は遂に「古事記伝」全四十四巻を完成した。35歳から始めて69歳まで、実に34年が経過していた。ライフワークを果たした宣長は、その喜びを友人に書き送り、鈴屋に知人や門下生を集めて祝賀の歌の会を催した。

(参考資料)西郷信綱「日本史探訪/国学と洋学」、童門冬二「私塾の研究」、司馬遼太郎・ドナルド・キーン対談「日本人と日本文化」

山岡鉄舟・・・江戸100万市民を戦火から救った江戸無血開城の陰の功労者

 明治維新の際、江戸城を平和のうちに明け渡し、江戸100万の市民を戦火から救った功労者の一人に、剣客山岡鉄舟がいた。江戸城明け渡しのための、西郷隆盛と勝海舟との江戸高輪の薩摩屋敷での会見には、実はこの山岡鉄舟も同席していた。

 会談が終わって、夕暮れ近くなってから、海舟が西郷を薩摩屋敷近くの愛宕山に誘った。愛宕山の上から江戸の市中を見て「明後日は、この江戸も焼け野原になるかもしれない」というと、西郷はそれには答えず、「徳川家はさすがに300年の大将軍だけあって、えらい宝物をお持ちですなあ」という。海舟が「徳川家の宝物とは何ですか」と聞く。すると、西郷はこの会談で西郷の身辺警護のためにずっと一緒にいた鉄舟をさして「あの人ですよ。あの人はなかなか腑の抜けた人だ。ああいう人は命もいらない。名もいらない。カネもいらない。実に始末に困る人だ。ああいう始末に困る人でなければ、天下の大事は共に語れない」と、こういう批評をした。

 鉄舟は江戸進軍の途中の西郷にすでに会っていた。上野寛永寺に謹慎中の徳川慶喜は、官軍の江戸入りを前に、静寛院宮ほか公卿を通じて恭順の意を伝える、いろいろな運動をしていた。それらがあまり成功しない中で、慶喜は側近の高橋泥舟に官軍の首脳部に直接交渉してくれるよう頼んだ。泥舟は辞退し、彼が最も信頼のおける人物として、義弟の鉄舟を推薦した。この時まで無名の剣客に過ぎなかった鉄舟は、慶喜の恭順を確かめたうえで、この大役を引き受けた。鉄舟は軍事総裁だった勝海舟に初対面した後、友人の薩摩藩士益満休之助を伴って、押し寄せる官軍の群れをくぐり抜け、駿府(現在の静岡)に陣取っていた西郷隆盛のもとまで出かけた。

 鉄舟の使命は「江戸城は平和裏に明け渡す。慶喜があくまで恭順の意を示していることを伝え、この慶喜を入城後の官軍がどう処するかを確認すること」などだった。勝と西郷との談判の前に、実は駿府での西郷、山岡の下交渉があって、これこそが劇的だったのではないかとの見方がある。勝海舟からの親書と、同伴の薩摩藩士益満休之助に助けられたとはいえ、無官の剣客鉄舟の、官軍総参謀西郷との談判は至難の交渉だったろう。西郷に対し権謀術数ではなく、死を覚悟して、ただ自分の誠心誠意をもってむき出しにいく。こうした鉄舟の姿勢、人間性が西郷の琴線に触れ、江戸無血開城となって結実したといえよう。

 徳川家の三河以来の旗本で、小野家というのがある。本家は210石余の身代だ。分家が四軒あるが、その一つに600石の身代の家がある。その何代目かに朝右衛門高福がいた。妻妾に7人の子女を生ませたが、妻と死別したので、常陸の鹿島神宮の神職塚原石見の二女磯と再婚して6人の男の子を生ませた。その後妻の生んだ一番上の子が、後に山岡鉄舟となる鉄太郎だ。

 鉄太郎は、天保7年6月10日江戸で生まれた。彼は武術に対して天性の素質と興味があった。小野家も代々武術に興味のある家柄だったが、母の生家塚原家は卜伝を出した家で、武術家の血筋だ。両家の遺伝だろう。9歳の時に、久須美閑適斎について、新影流の剣術と樫原流の槍術とを学んだ。11歳の時、父が飛騨高山の代官となって赴任したので、鉄太郎も連れていかれたが、ここで井上清虎について北辰一刀流を学んだ。井上は千葉周作の高弟だ。

 明治5年(1872)、鉄舟は西郷の推薦で明治天皇の侍従となった。平安朝以来、女官たちに囲まれていた天皇の生活に、武骨な男子の気風を注ぎ、宮中の空気を一変させようという西郷の宮中改革に協力したものだった。天皇の側近になってからも、鉄舟は一般の人と積極的に交わった。『怪談牡丹灯籠』をはじめ、多くの名作を生み、明治落語界の巨匠といわれた三遊亭円朝も、鉄舟の弟子の一人だ。

(参考資料)海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち」、海音寺潮五郎「江戸開城」、「日本史探訪22 /山岡鉄舟」(坂東三津五郎・大森曹玄)、五味康祐「山岡鉄舟」         
                    

由利公正・・・横井小楠の「王道政治」を徹底して実践した男

 越前藩士で当時、三岡八郎といっていた由利公正は、「藩富」のための殖産興 業を奨励した横井小楠の経営哲学を徹底して実践した。横井小楠は「地球上に も、有動の国と無道の国がある。有動の国というのは、王道政治を行っている 国のことだ。無道の国というのは覇道政治を行っている国のことだ。王道政治 というのは民に対して仁と徳を持ってのぞむことだ。覇道政治というのは、民 に対して力と権謀術数を持ってのぞむことである」と定義した。
由利公正は幕末から明治にかけて活躍した英傑だ。彼が仕えたのは名君とい われた松平慶永(春岳)である。慶永は他家から入った養子なので、有能なブレーンを次々と登用した。その一人が藩の医者だった橋本左内であり、また九州熊本から招いた既述の横井小楠だ。小楠は家老よりも上席のポストも貰って、藩士たちに学問を教えた。三岡八郎はこの小楠の考えに共感した。そして尊敬し、教えを受けるために小楠の家を訪ね、小楠も八郎の家にやってきた。二人でよく酒も飲み交わした。

 越前藩は32万石の大藩だが、藩の財政は貧乏のどん底にあった。そのため、寛永年間、幕府から正貨2万両を借り入れ、これを基礎として4万両の藩札を発行し、必要ある場合いつでも正貨と交換するという兌換制度をつくった。これがわが国における藩札発行のはじめだ。同藩の窮乏は脱出できず、藩札は増発され、結局は不換紙幣となってしまうのだが、明治政府の財政担当者第一号が越前藩士から出るそもそもの機縁はここにあった。

 横井小楠の教えに従って、越前藩でも産業奨励を行うことになった。その責 任者に選ばれたのが三岡八郎だ。八郎は「藩が富むためには、民がまず富まな ければならない」ということを実行しようと企てた。その方法として・藩内で 生産される製品に、付加価値をつけて高く輸出できるようにする・藩に物産総 会所を設ける・藩内の生産品は物産総会所が買い上げる。この時は、藩札をも って支払いに充てる。そして、これを売り払った時の収入は正貨とする-とし た。藩札の使用などは他の藩とそれほど変わらない。しかし、藩が設けた物産 総会所の運営を商人に任せたことは、他藩より一歩進んでいた。
 藩が物産総会所を持つということは、藩が商社をつくったということだ。藩 が藩内物産の専売を行うということは「武士が商人になること」であり、同時 に「藩(大名家)が商会化した」ということだ。つまり商人のお株を奪って、 武士と武士によって組織されている大名家が前垂れ精神を持って商売を始めた ということだ。だから、三岡八郎は「あいつは銭勘定ばかり堪能で、武士にあ るまじき振る舞いをしている」とバカにされてきた。ところが、横井小楠の出 現により、これまでの八郎に対する批判が間違いだと指摘されたのだ。
 横井小楠は英国を例に「自国の産業革命以来生産過剰になった物品を売りつ けるために、アジアをマーケットにしようとした。しかし、いうことを聞かな い中国にはアヘン戦争を起こして、無理矢理自国の製品を買わせている。あん なやり方は王道ではない。覇道だ。いまの世界で王道を貫けるのは日本以外な い。そうすれば、日本の国際的信用が高まり、多くの国々が日本のマネをする ようになるだろう。日本は世界の模範にならなければならない」と唱え続けた。 その国内における実験を越前藩で実行する三岡八郎も「越前藩の藩内生産品に 付加価値をつけて高く売るといっても、おれは覇道を行うわけではない。商業 を通じて、王道を実践するのだ」という自信を持っていた。
 三岡八郎は明治維新になってから、由利公正と名を変える。彼の新政府にお ける最初のポストは財政担当だった。新政府の参与に推薦されたが、カネの全 くない財政運営がその任務だ。普通なら冗談じゃないと抗議するところだが、 彼には越前藩での財政改革の経験がある。彼以外に財政問題には体験も見識も なかった。そのため、そのリーダーシップはおのずと由利公正が握るところと なった。彼は慶応年間から明治にかけて、寝る間も惜しんでこの仕事に専念し た。素人ばかりの明治新政府にあって、由利公正の財政的手腕、経歴は断然傑 出していた。

 由利公正はその後、東京府知事や元老院議官にもなった。明治維新直後に「議 事之体大意」という国事五箇条を提出した。これが、後の「五箇条のご誓文」 の原案になる。

(参考資料)尾崎護「経綸のとき 近代日本の財政を築いた逸材」、童門冬二「江戸商人の経済学」、小島直記「無冠の男」

山田方谷・・・農民出身ながら藩政を代行 河井継之助が学んだ藩政改革の師

 最近ようやく注目を浴びるようになったが、山田方谷(やまだほうこく)の名を知る人はまだまだ少ないだろう。農民出身ながら徳川幕府最後のとき、首席老中を務めた備中松山藩(現在の岡山県高梁市)藩主・板倉勝静に代わって、家老として藩主の留守を守り抜き、藩政を代行した人だ。もっと知られているのが、明治維新直前の越後長岡藩を率いた河井継之助が学んだ藩政改革の師だ。

 岡山駅から鳥取県の米子に通ずる鉄道がある。伯備線という。この伯備線の備中高梁駅は山田方谷が活躍した最大の拠点だ。臥牛山と呼ばれる城山の山頂に松山城がある。麓に「牛麓舎」という塾の跡が残されているが、これが方谷の塾だ。このあたりには方谷林とか方谷橋など方谷の名がつけられた市民施設がたくさんある。それほど山田方谷は現在の高梁市民にとって誇れる存在なのだろう。伯備線でさらに20分ほど北へ向かうと「方谷」という駅に着く。この駅名も山田方谷の名を取ってつけられた。鉄道当局の強硬な反対に遭ったものの、最終的に住民たちの熱意が受け入れられ、全国のJRの駅の中でも珍しい人名が駅名となった第一号だった。

 山田方谷を登用した藩主板倉勝静は、もともと板倉家の人間ではない。板倉家の先祖は、京都所司代として有名な勝重であり、その子重宗である。勝静は桑名藩主松平定永の第八子で、天保13年(1842)に板倉家の当主勝職の養子となり、嘉永2年(1849)、27歳の時に藩主の座を継いだ。桑名の松平家は、「寛政の改革」を推進し、“白河楽翁”の号で有名な松平定信の子孫だ。こうした名家の血か、勝静は幕府の老中になることを熱望した。

 ただ、それには大きな障害を克服しなければならなかった。障害とは藩が極貧状態にあることだった。この頃、松山藩は窮乏のどん底にあり、藩の収入が雑税を含めて一切合財、換金しても5万両だというのに、その倍の10万両の借金を抱え込んでいた。これを解決しない限り、勝静の中央政界への進出は夢のまた夢だった。だが、勝静は山田方谷を登用することで、その夢を現実のものとした。全国政治に関わりたいという激烈な願望に突き動かされて、当時としては破天荒ともいえる方谷の登用をやってのけたことで、勝静は歴史に名を残すことができたのだ。

 方谷こと山田安五郎は文化2年(1805)、農業と製油業を営む山田五郎吉を父に、阿賀郡西方村に生まれた。家計は窮迫していたが、もとは武士だという家伝を誇りにしていた五郎吉は、苦しい中を息子の安五郎の教育に心をかけ、5歳の時、松山藩の北隣の新見藩儒丸山松隠のもとに入門させた。丸山塾で安五郎 はたちまち神童という評判をとり、6歳の時、新見藩主の面前で字を書いて見せたという。百姓の子が他藩主の前に出るなどということは異例中の異例のことだ。文政2年(1819)、15歳の時、父母を次々に亡くし、丸山塾での勉学を断念、西方村に帰り家業を継ぎ、鍬をふるい、製油業にも励んだ。17歳で結婚。

 家業に励みながらも、学問への願望はやみがたいものがあった。その方谷に運が拓ける。勝静が養子に入る前の松山藩が、方谷の学才を惜しんで、二人扶持を給してくれることになったのだ。一種の奨学金だ、藩校有終館での修学も許された。21歳の時のことだ。そして3度の京都への遊学、この過程で名字帯刀が許され、八人扶持を給される身となり、4度目は江戸へ遊学。当時の儒学の最高権威者であった江戸の佐藤一斎のもとでの2年余りの時間が、方谷をより大きくした。

方谷は佐久間象山と学問上のことで大激論し、互いに一歩も譲らなかったという。天保7年、帰藩した方谷は遂に藩校有終館の学頭となった。32歳だった。以来、城下に屋敷をもらい、私塾を開くことも許された。備中松山藩の藩儒としての方谷の地位は、これで不動のものとなった。
 嘉永2年(1849)、当主の養子で世子の勝静が襲封して新藩主となり、方谷を藩財政一切を任せるに等しい元締役兼吟味役として抜擢、登用する。身分制度の激しい当時のこと、百姓上がりの儒臣がいきなり藩政の中枢のポストに就くことには周囲の重臣たちの大反発があり、方谷自身もいったんは辞退した。しかし、方谷を使う以外に窮迫した藩財政を立て直す道はないとみた勝静の決意は固く、藩内の反対を抑え込んだことで、方谷も新藩主の期待に応えることを決心する。方谷45歳、勝静27歳のことだ。
 嘉永3年(1850)から備中松山藩の大改革が始まった。藩主から全権を委ねられて方谷は・自ら債権者が集中する大坂まで出向いて藩の内情を公開し、返済期限の5年ないし10年への変更、新しい借金はしない、借りた場合は必ず返済する・倹約(藩士の減俸、奢侈の禁止、宴会や贈答の禁止)・自分の家の出納を第三者に委任、家計を公開・撫育局を設置し殖産興業に務める-などを断行。

こうした一方で農兵制を敷いて「里正隊」を編成するなど軍制改革も行った。また、民間人のための学問所、教諭所を新設。貯倉を40カ所も設けて凶年に備えた。このほか、河川を活用して運送を便利にした。こうした諸施策が奏功、松山藩の方谷の改革は見事に成功した。この結果、藩主・勝静の中央政界への進出の夢実現の環境がようやく整ったわけだ。

(参考資料)童門冬二「山田方谷」、奈良本辰也「日本史の参謀たち」

矢部定謙・・・鳥居耀蔵の策謀に遭い、南町奉行を罷免された優れた幕臣

 矢部定謙(やべ・さだのり)は江戸時代・天保年間、庶民の間でも支持された南町奉行だったが、鳥居耀蔵の策謀に遭い、罷免され、失意のうちに悲惨な最期を遂げた。矢部は1841年(天保12年)南町奉行職を罷免された。在職期間はわずか8カ月だった。代わって南町奉行職に就任したのがその鳥居だった。そこで世間では今日風に表現すれば、大きなブーイングが起こった。

当時、江戸の巷で矢部と鳥居がどのように見られていたかを示す落首がある。「町々で お(惜)しがる奉行の 矢部にして どこが鳥居で 何がよふ蔵」。当時の矢部の声望と、鳥居の人気のなさがほぼ察せられる。このあと鳥居は南町奉行として、水野忠邦が推進した「天保の改革」の一翼を担い、徹底的な酷吏ぶりを発揮して、世間から妖怪(耀甲斐=甲斐守耀蔵を逆さにもじり、“ようかい”にかけたもの)と恐れられ、疎まれるようになるのだ。

 矢部定謙は、幕臣・矢部彦五郎定令の子として生まれた。名は父と同じ彦五郎と称した。持高300俵の身分から矢部は徒士頭(かちがしら)、御先手頭を務め、1828年(文政11年)火付盗賊改役となり、1500石を賜り、左近将監(さこんしょうげん)を名乗った。矢部の生没年は1789(寛政元)~1842年(天保13年)。

 矢部の出世は火付盗賊改役のとき、老中・大久保加賀守に命じられて、三之助という悪党を捕縛し、当時の町奉行所の悪弊を一掃したことに始まった。三之助は町奉行所の手付同心、神田造酒右衛門の手先で、武家屋敷へ中間や小者を送り込む人宿(ひとやど)を生業としていた。自分も中間部屋の頭として住み込み、旗本屋敷で賭場を開き、莫大なテラ銭を稼いで産を成したのだ。

 しかも三之助は頭のいい男で、常に火付盗賊改役の旗本屋敷に住み込み、そこで博打をやるので、絶対に捕吏に踏み込まれることがない。さらに見逃し賃として両町奉行の与力や両番所の定回りなどに付け届けをし、住み込んだ屋敷の旗本や用人にも同様のことをしていたから、誰に咎められることもなかった。こういう男が常々、まかり通るほど、当時の幕府の役人たちは内情が腐っていたのだ。とにかく、この三之助召し捕りがきっかけとなり、矢部は堺奉行に栄転し、駿河守に叙任された。

 矢部は1833年(天保4年)に大坂町奉行へ昇進、3年後の1836年(同7年)には役高3000石の御勘定奉行へと進み、順風満帆の出世街道を歩いた。矢部が大塩平八郎と知り合ったのは大坂町奉行の在職中で、当時、平八郎は大坂東町奉行所の与力を38歳の若さで退き、中斎と号し、陽明学に打ち込んでいた。矢部が西町奉行として赴任した頃は、大塩はすでに隠居していたが、彼は大塩の気骨、学殖を高く買い、しばしば招いて相談相手としていたようだ。要するに、矢部は大塩の人物を知り、男同士、肝胆相照らすものがあったのだ。

 矢部は天保8年、御勘定奉行の栄職から西ノ丸御留守居へと左遷された。これは、すべて彼の“硬骨”によるものだ。というのは前将軍・家斉が住んでいた西ノ丸が焼け、幕府の老中たちがこの大御所のため早速再建を企画したが、矢部が「(当時)凶作の後、諸国は困窮している。だから当面三ノ丸で過ごしてもらい、時を待って修理、再建すればいいのではないか。それが国を治める道ではないか(要旨)」と一人で、これに反対を唱えたため、前将軍の怒りを買ったのだ。一見、無謀とも思える発言をしてしまったのだ。

 しかし、実力派・矢部は2年後、願い出て小普請支配に転じる。そして、その2年目、彼は今度は南町奉行として見事に返り咲くのだ。前将軍の怒りを買って、左遷されてから4年目のことだ。ここでまた矢部は、北町奉行・遠山景元と協同して、水野忠邦が推進した「天保の改革」に対抗した。ただ、この復活は冒頭に述べたとおり、鳥居耀蔵の策謀により罷免され、わずか8カ月に終わった。1842年(天保13年)、預りとなった伊勢桑名藩で矢部は自ら絶食、死去した。没後、矢部の見識の正しさが証明された。このため、川路聖謨(かわじとしあきら)ら幕末期の官僚からは、矢部の非業の死を惜しまれることになった。

(参考資料)童門冬二「江戸管理社会反骨者列伝」、白石一郎「江戸人物伝」

山本常朝・・・江戸時代の代表的な武士道書『葉隠』の口述者

 「武士道と云うは死ぬ事と見付けたり」という有名な一節で知られる『葉隠』。この江戸時代の代表的な武士道書の口述者が山本常朝だ。山本常朝は第二代佐賀藩主鍋島光茂に30数年間にわたって仕えた人物で、『葉隠』は常朝の口述を田代陣基(つらもと)という武士が書き留めたものだ。

『葉隠』は戦時下で取り上げられたことも加わって誤った捉え方をする向きもあるが、他の死を美化したり、自決を推奨する書物とひと括りにすることはできない。『葉隠』の中には、嫌な上司からの酒の誘いを丁寧に断る方法や、部下の失敗をうまくフォローする方法など、現代のビジネス書や礼法マニュアルに近い内容の記述も多い。山本常朝の生没年は1659~1719年。

 山本常朝は佐賀藩士、山本重澄(しげずみ)の二男四女の末子として生まれた。幼名は松亀。通称は不携(ふけい)、名は市十郎、権之允(ごんのじょう)、神右衛門。9歳のとき、二代藩主光茂に御側小僧として仕え、14歳のとき小々姓となった。20歳で元服し、御側役、御書物役手伝となったが、まもなく出仕をとどめられた。その後、禅僧湛然(たんねん)に仏道を、石田一鼎(いってい)に儒学をそれぞれ学び、旭山常朝(きょくざんじょうちょう)の法号を受け、一時は隠遁を考えたこともあった。22歳のとき再び出仕し、御書物役、京都役を命じられた。

 常朝は42歳のとき、光茂の死の直前に、三条西家から、和歌をたしなみ深い光茂の宿望だった「古今伝授」の免許を受けて、その書類を京都より持ち帰り、面目を施した。光茂の死に際し、職を辞し、追腹(殉死)を願ったが、追腹禁止令により果たせず、願い出て出家。佐賀市の北方にある金立山の麓、黒土原(くろつちばる)に草庵を結び、旭山常朝と名乗って隠棲した。

 田代陣基が三代藩主綱茂の祐筆役を免ぜられ、常朝を訪ねたのは常朝51歳のときのことだ。陣基が常朝のもとに通い始め、実に7年の歳月を経て1716年(享保元年)、常朝の口述、陣基の筆録になる『葉隠』11巻が生まれた。その3年後の1719年(享保4年)、山本常朝は死んだ。

 『葉隠』の要点の一部を紹介する。生か死か二つに一つの場所では、計画通りにいくかどうかは分からない。人間誰しも生を望む。生きる方に理屈をつける。このとき、もし当てが外れて生き長らえるならば、その侍は腰抜けだ。その境目が難しい。また当てが外れて死ねば犬死であり、気違い沙汰だ。しかし、これは恥にはならない。これが武士道において最も大切なことだ。毎朝毎夕、心を正しては、死を思い死を決し、いつも死に身になっているときは、武士道と我が身は一つになり、一生失敗を犯すことなく、職務を遂行することができるのだ。

 我々は一つの思想や理想のために死ねるという錯覚にいつも陥りたがる。しかし、『葉隠』が示しているのは、もっと容赦ない死であり、花も実もない無駄な犬死さえも、人間の死としての尊厳を持っているということを主張しているのだ。もし我々が生の尊厳をそれほど重んじるならば、死の尊厳も同様に重んじるべきだ。いかなる死も、それを犬死と呼ぶことはできないのだ。

 常朝はほかに、養子の常俊に与えた『愚見草』『餞別』、鍋島宗茂に献じた『書置』、祖父、父および自身の『年譜』などの著述がある。

(参考資料)奈良本辰也「叛骨の士道」、奈良本辰也「日本の名著 葉隠」、三島由紀夫「葉隠入門」、童門冬二「小説 葉隠」

山脇東洋・・・日本で初めて人体解剖を行った実験医学の先駆者の一人

 山脇東洋は江戸時代中期、日本で初めて人体解剖を行った実験医学の先駆者の一人で、このときの日本最初の人体解剖記録が、当時の医学界に大きな衝撃と影響を与え、後の時代の前野良沢、杉田玄白らのオランダ医学書のより正確性の高い翻訳事業につながっていくのだ。その意味で、山脇東洋は日本の医学の近代化に大きく貢献した人物だ。東洋の生没年は1706(宝永2)~1762年(宝暦12年)。

 山脇東洋は丹波国亀山(現在の京都府)の医家清水玄安の子として生まれた。名は尚徳、字は玄飛または子樹、号は移山、後に東洋と称した。幼いころから学問に長じ、父の没後も医学の研修に専念していたが、その才の非凡さは早くも周囲の驚異の的となっていた。

東洋が22歳のとき、父の師であった京都の医官山脇玄修の眼にとまり、山脇家の養子に迎え入れられた。山脇家は由緒ある医学界の名門であり、玄修の父玄心は宮中の侍医となり法印の位にも昇ったほどの医家。養子に入ってから数年間は、養父玄修について医を学んだが、東洋にとって気ぜわしい歳月だった。

 1727年(享保12年)養父玄修が死去したため、東洋は山脇家の家督を継いだ。そして家督相続の御礼言上の目的で京都から遠く江戸へ赴き、第八代将軍吉宗に御目見えをした。東洋24歳のことだ。翌年、法眼に任ぜられ、2年後には中御門天皇の侍医を命ぜられた。しかし、東洋は名門の当主であることに満足していなかった。

彼は一人の医家として、医学への知識追究に異常なほどの熱意を抱いていたのだ。そこで彼は当代随一の古医方の医家、後藤艮山(こんざん)に師事。後藤の医学に対する思想そのものともいえる実証精神を学んだ。その際立った業績の一つが、1746年(延享3年)、唐の王_(おうとう)の著書『外台秘要方(げだいひようほう)』(40巻)の復刻だ。この書は幕府医官、望月三英が秘蔵していた漢方医学書で、東洋はそれを借り受けると私費で翻訳し、書物として刊行したのだ。東洋42歳のことだ。これにより彼は古医方家としての声価をいよいよ高めた。

 また、人体の内部構造についての五臓六腑説に疑いを持ち、先輩の話を聞いたり、内臓が人間に似ているといわれていた川獺(かわうそ)を自ら解剖したりしたが、疑問は解けなかった。それだけに、東洋は人体の内部を見たいという願望を熱っぽく抱くようになっていた。

そんな東洋に1754年(宝暦4年)、夢想もしなかった幸運が訪れた。それは京都六角の獄で5人の罪人が斬首刑に処せられたことから発したものだった。当時の京都所司代は若狭藩主酒井讃岐守忠用だったが、斬首刑が行われたことを知った、東洋の門人でもあった同藩の医家3人が、東洋に代わって刑屍体の解剖許可を酒井候に願い出たのだ。常識的にはそれは一蹴されるべきものであり、逆に厳しい咎めを受けかねないものだったが、所司代酒井忠用は深い理解を示して、それを許可した。その結果、東洋が長年願い続けながら到底不可能とあきらめていたことが実現することになった。

こうして東洋以下3人の医家たちは、初めて人体の内部構造を直接観察した。東洋たちは次々にあらわれる臓器に眼を凝らし、メモを取り絵図を描くことに努めた。このときの観察記録が1759年に刊行された『蔵志(ぞうし)』で、この書は日本で公刊された最初の人体解剖記録だ。漢方医による五臓六腑説など、身体機能認識の誤謬を指摘した。国内初の人体解剖は蘭書の正確性を証明し、医学界に大きな衝撃と影響を与えた。

東洋の影響を受け、江戸で前野良沢、杉田玄白らがより正確性の高いオランダ医学書の翻訳に着手する。ドイツ人クルムスが著した原書のオランダ語訳の、あの『ターヘル・アナトミア』という解剖書だ。突き詰めていえば先人の山脇東洋がいたからこそ、あの当時、前野良沢による翻訳が進み、『解体新書』が生まれたともいえるのではないか。

(参考資料)吉村昭「日本医家伝」

頼山陽・・・日本外史,日本政記を著した明治維新の思想的・理論的指導者

 今から150年ほど前、日本の最大の文豪は誰か?と問われたら、当時の日本人はみんな頼山陽と答えただろう。それほどに偉い作家、文学者だった。といっても、別に大衆受けするベストセラー作家だったわけではない。明治維新の思想的・理論的指導者だったのだ。

 当時の青年たちの最も心を捉えたのは頼山陽が著した二つの歴史書だった。それは「日本外史」と「日本政記」だ。「日本政記」は天皇家の歴史を書き、「日本外史」は平家から徳川氏に至る武家の歴史を書いている。頼山陽はその中で、時の勢いが歴史の流れを変えていく-と主張する。平家が滅び、鎌倉幕府が滅びていったのは、それらが歴史の動きに取り残され、政権を担当する力を失ってしまった当然の結果だとする。歴史は必然的に動いていく。この歴史観が、尊王倒幕の意気に燃える青年たちを煽り立てた。

 頼山陽の父、頼春水は、安芸国、現在の広島県竹原出身の学者だ。頼家の先祖はその姓を頼兼(よりかね)といい、竹原で紺屋を営んでいた。学者となった春水は、中国風にその一字を取り、頼と名乗ったという。若い頃、大坂で学び、自らも塾を開いていた。頼山陽は、その春水の長男として大坂で生まれた。幼名は久太郎。生没年は1780(安永9年)~1832年(天保3年)。母静子も大坂の有名な学者、飯岡義斎の娘で、当時としては開けた女性だった。山陽が生まれてまもなく、父春水は広島藩の儒官となった。学問の力で町人から武士となったのだ。

 子供の頃、山陽は非常に体が弱かった。ただ、厳格な父は初めのうち、息子を「病気」だと認めようとしなかった。さらに儒官の父は、藩主の供をして江戸へ出ているときが多く、広島の留守宅は母親と病弱の子供の母子家庭みたいなものになっていた。そして父は時々、藩主と一緒に藩に戻ってきて、息子を厳格に叱り、躾けようとする。ただその途中で江戸へ出てしまう。すると、母は寂しがり、またそれを平気で言動に出す人だったから、その寂しさが全部子供にかかってくる。そこで、山陽は溺愛される。この溺愛と厳格とを交互に繰り返される。こんなところから、山陽のいろいろな性格上の特異な点が強く出てきたものと思われる。

 山陽は生涯に3度、この環境からの脱出を図っている。一度はせっかく入学した「江戸昌平こう」からの退学。二度目は広島藩からの脱藩。そして三度目は、先生として迎えられていた菅茶山(かんさざん)の塾からの脱走だ。中でも広島藩からの突然の脱藩は大問題となった。当時の法律では、許可なしに藩の領地を離れると、追っ手がかかり上位討ちされてしまう。しかし、山陽は病気ということで、脱走先の京都から連れ戻され、屋敷内の座敷牢に幽閉されてしまう。厳格な父も、息子山陽の病気を認めざるを得なくなった。21歳から3年間の座敷牢生活。この間に山陽は「日本外史」の筆を執り始めたのだ。
 山陽は躁うつ病を患い、周囲を心配させつつ、次から次へ、この頼家一族および広島藩そのものに衝撃を与えるようなことをやる。そういうことを通しながら、やがて彼は自分で人生を作り上げていく。つまり、自分の可能性を好きなように伸ばすように、自分の生活を作るということを覚えていって、遂に頼山陽というあの巨大な存在にまで自分を仕立て上げたのだ。

 山陽の子も二つの生き方をした。山陽が53歳で死んだとき、京都の家には二人の男の子がいたが、兄又二郎は父山陽の学者としての面を受け継ぎ、のち東京大学の教授となった。弟三樹三郎は、父山陽の改革者としての面を受け継いだ。反体制運動の実行者として、安政の大獄に倒れた。三樹三郎は、山陽の孫弟子にあたる吉田松陰の墓の隣に葬られている。山陽の死後27年目のことだ。

(参考資料)奈良本辰也「不惜身命 如何に死すべきか」、童門冬二「私塾の研究」、中村真一郎「日本史探訪/国学と洋学」

良寛・・・「遊」の世界で世間と闘い、簡単な言葉で仏法を説く

 「大愚(たいぐ)」-良寛は自らをこのように号して憚らなかった。自分は大いなる愚者だ、と。無欲恬淡な性格で、生涯、寺を持たず庶民に信頼され、簡単な言葉(格言)によって一般庶民に分かりやすく仏法を説いた。その姿勢が様々な人々の共感を得た。良寛の生没年は1758(宝暦8)~1831年(天保2年)。

 良寛は越後国出雲崎(現在の新潟県三島郡出雲崎町)に四男三女の長子として生まれた。俗名は山本栄蔵、または文孝。号は大愚。父、山本左門泰雄はこの地の名主(橘屋)であり、石井神社の祠職を務め、以南という俳人でもあった。当時は江戸時代後期、田沼意次の「賄賂政治」が繰り広げられようとしていた時期だった。佐渡で採掘される金の陸揚げ港だった出雲崎にも、そのような時代の波は押し寄せてきていた。生家は、幕府役人と結託した新興勢力に、その地位を脅かされつつあった。庶民は虐げられ、労役は厳しかった。

18歳で名主見習いとなった良寛は、その圧政に耐えられなかったのだろう。圧政の片棒を担ぐことができなかったのだろう。妻を離縁し、まもなく故郷の曹洞宗の光照寺で出家・剃髪。4年後に師・大忍国仙和尚に従って逃げるように出雲崎を出て、備中玉島(現在の岡山県倉敷市)の円通寺に向かった。22歳のときのことだ。円通寺で良寛は国仙に可愛がられたが、34歳のとき、師の国仙がこの世を去ると、他の僧侶たちとの折り合いが悪くなり、円通寺を去った。 
  
恐らくまだ円通寺にいたときと思われるが、良寛は国仙和尚の末弟子、義提尼より和歌の影響を受けたといわれる。実は良寛は西行法師に憧れており、その足跡が伝えられる地を巡りながら、歌僧を目指していたと思われる。
円通寺を去った後の良寛の消息は分からない。そして、恐らく諸国を放浪した後、40歳ごろ帰郷。越後国蒲原郡国上村(現在の燕市)国上山(くにかみやま)国上寺(こくじょうじ)の五合庵、乙子神社境内の草庵、島崎村(現在の長岡市)にそれぞれ住んだ。

良寛は無欲恬淡な性格で、生涯、寺を持たず、時には手毬をついて子供たちと戯れ、時には托鉢に出かけ、時には詩歌を書いて、後半生を送った。良寛自身、難しい説法を民衆に対しては行わず、自らの質素な生活を示すことや、簡単な言葉(格言)で一般庶民に分かりやすく仏法を説いた。その姿勢は様々な人々の共感を得た。

良寛が生きた時代は激動の時代だった。彼が諸国を放浪していたときも、恐らくそのような緊迫した情勢が聞こえてきたかも知れない。また、身をもって国内の混乱状態を体験していたのかも知れない。しかし、史料として伝えられる良寛の人生からは、なぜかその激動は見えてこない。あくまでも静かな人生だった。それが、時代の波に振り回されることのない、名主の座と引き替えに良寛自身が選んだ、権力機構からドロップ・アウトした人間の人生だったのだ。

良寛は和歌のほか、狂歌、俳句、俗謡、漢詩などに巧みだった。そして、書の達人でもあった。良寛が創造した世界は、「遊」の世界だった。
子どもらと手まりつきつつこの里に 遊ぶ春日は暮れずともよし
良寛の歌だ。「遊」は良寛において世間と闘う武器だった。良寛の道号は既述した通り「大愚」。愚かというのは、世間の常識がないという意味。世間の物差しを忘れてしまっているのだ。良寛は世間の歪んだ物差しに対して、忘れることで対抗した。世間の歪んだ物差しを忘れて、良寛は子供たちと遊んでいたのだ。月と遊び、花と遊び、風と遊んで暮らした。それが良寛の禅だった。

良寛と遊んでいた子供たちは、やがて口減らしのために、商家や女郎屋に売られ、村から消えていく。いつの時代であっても、それが貧しい庶民の現実だ。それを宗教者・良寛はどうすることもできない。良寛にできることは、やがて売られていく子供たちと一緒に遊ぶことだけだった。
散る桜 残る桜も 散る桜
良寛の辞世の句だと伝えられている。良寛は新潟県長岡市(旧和島村)の隆泉寺に眠っている。

(参考資料)加来耕三「日本創始者列伝」

蓮如・・・本願寺教団「中興の祖」で稀代の宗教オルガナイザー

 日本における今日の浄土真宗隆盛の礎をつくり、浄土真宗の本願寺教団の「中興の祖」といわれる蓮如は、稀代の宗教オルガナイザーだった。蓮如の目的はただ一つ、いかに仏の道を深く踏み分けるかではなく、いかに信徒を増やすか-にあった。彼には資金も伝手(つて)もなかった。あるのは繁盛する同門の寺々の存在だった。宗祖・親鸞は教義を何よりも重視し、教団運営はもとより、教団をつくることにすら否定的な人物だった。ただ、弟子、孫弟子、またその宿り木弟子たちが大勢いて、彼らが皆“親鸞ブランド”をかざして繁盛寺を構えていた。繁盛の原因は、難解な教義を説く態度はきれいに棄て、「いかに簡単に目的の幸福を手に入れるか」に変えてしまったところにあった。

 こうした現状を見据え、蓮如はいかに本願寺教団の信徒を増やすかに焦点を絞り、その布教戦略を立案、実践していった。それは・“親鸞ブランド”を最大限に活用する・民衆の拝“権威”意識を巧みに利用する・教義より民衆の現世利益意識に応える・「御文」で宗祖・親鸞の教義を説き、布教を積極化する・世の“金取り寺”とは差別化、独自化路線を打ち出す・宗祖・親鸞が厳禁とした「講」をも奨励する-などだった。

 民衆は誰しも死後、極楽浄土へ行きたいと願っている。さしずめ民衆はトラベル会社に極楽行きの切符購入を頼むお客なのだ。とすれば、客にしてみれば相手の会社が、経営基盤がしっかりしているという証がほしい。そこで、切符代を高くして客を圧倒し権威付けることによって安心させるのだ。困ったことに、民衆は高いものの方が、質が高いとすぐ錯覚する。となると、肩書きのあるブランド品=親鸞ブランドが最大限に威力を発揮するというわけだ。

 寺はあの手この手で人を集める。集まる人々は、しかしすぐ死ぬわけではない。取られる献金に対して、何かの手ごたえが要る。最初は死の恐怖克服のためだった宗教が、現世利益的に変わっていってしまった。そこで蓮如は、一念して仏に帰依すれば、すなわちこのとき己が仏に成る-と説く。最後には、あなた自身が仏や親鸞聖人と同格ですよ-と目一杯、精神面をくすぐるのだ。
 また、蓮如は「御文」で親鸞の教えを分かりやすく説くことも積極的に実践した。献金競争をして後生を僧に任せるのではなく、あの清廉な親鸞の精神に戻り、自分自身が積極的に学ぼう-と説いたのだ。親鸞の思想の正統を、誰でも容易に身につけられる方法を考え出した。それが、この「御文」だった。

 蓮如は数々の御文の中で、すべての念仏者は死んで極楽浄土で永遠に生きられることを教えている。そして蓮如は、極楽往生までのこの世の生活を、どのように過ごしたらよいか、政治的・社会的・宗教的などあらゆる角度から説いている。また極楽往生と現世利益の願いは矛盾するものではなく、念仏一つで同時に叶えられることも力説しているのだ。本願寺教団は、御文の精神を守ることによって、蓮如の存命中はもちろん、没後今日まで大過なく繁栄の道を歩むことができたのだ。
こうして蓮如は参詣の人一人もなく、寂れていた本願寺を「極楽浄土のようだ」といわれるほどに発展させた。親鸞が残してくれた思想によって救われた御礼すなわち御恩報謝(ごおんほうしゃ)を、弥陀と親鸞に対して果たすために、全生涯を捧げ尽したのだ。

 蓮如は本願寺第七代目法主(ほっす)、存如の第一子として京都・東山大谷で生まれた。幼名は布袋丸、法名は蓮如。院号は信證院、諱は兼壽、諡号は慧燈大師。蓮如上人と尊称された。蓮如の生没年は1415(応永22)~1499年(明応8年)。

 蓮如は本来、父の跡を継いで本願寺の法主の座に就くことは望めない境遇だった。実母が本願寺に仕える下女だったためだ。そして、この実母は蓮如が6歳のとき身を引き、姿を消してしまう。したがって、蓮如の幼・少年時代は、父・存如の正妻である継母との心理的相克があり、そして第八代目法主になるまで、貧苦のどん底生活など筆舌に尽くし難い、43年間にわたる“忍従”体験がある。そんな体験によって培われた精神的なタフさが、蓮如のその後の長期にわたる粘り強い布教活動を可能にしたのだ。

 蓮如は長い部屋住み生活を経験しているだけに、腰が低い。他人の心の動きが読める。勧誘するには相手のどこを衝かなければならないか?を肌で感じるというわけだ。彼は布教の天才だった。
 蓮如は85年の生涯で如了、蓮祐、如勝、宗如(いずれも死別)、蓮能の5人の妻を娶り、合わせて27人(13男・14女)の子供に恵まれた。それだけに、子供の養育には苦労したが、その子供たちが成人して教団の統制に大いに役立った。

(参考資料)笠原一男「蓮如」、大谷晃一「蓮如」、五木寛之「蓮如」

渡辺崋山・・・画家で、家老を務め善政を行うも蛮社の獄に遭い自決

 渡辺崋山(通称登)は三河国田原藩の家老を務める一方、国宝『鷹見泉石像』や数多くの重要文化財に属する傑作を遺す高名な画家でもあった。しかし、海外の新しい知識を得るためにシーボルト門下の俊才たちとスタートした蘭学研究が、ときの幕府目付で幕府の儒者の林家の倅、鳥居耀蔵の憎しみをかい、天保10年(1839)の蘭学者弾圧の“蛮社の獄”に列座。同藩における自分の立場から、その影響が藩主や師、友人に累が及ぶのを案じて、切腹自殺した。

 崋山は田原藩藩主、三宅家1万2000石の定府(江戸勤務)仮取次役15人扶持、渡辺市兵衛の嫡男として寛政5年(1793)麹町の田原藩邸で生まれた。幼少から貧困に苦しみ、8歳で若君の伽役として初出仕した崋山は、12歳のとき日本橋で誤って備前候世子(若君)の行列と接し、供侍から辱めを受けた。これに発憤した崋山は大学者への道を志し、家老で儒者の鷹見星皐に学ぶ。

だが、家計の貧困を助けるため転向。平山文鏡、白川芝山について画法を学び、のち金子金陵、谷文晁に師事して南画の構図や画技を学ぶとともに、内職のために灯籠絵などを描いた。こうして近習役から納戸役、使番と累進した崋山は、晩年、家老末席に出世していた父の跡目を継いだ。遺禄80石。
 26歳のとき正確な写実と独自の風格を持つスケッチ『一掃百態』を描き、30歳で結婚。この頃から崋山は蘭学や西洋画に傾倒、西洋画特有の遠近法や陰影を駆使した作品を仕上げ、34歳の春、江戸に来たオランダ国のビュルゲルを訪ねて西洋の文物への関心を深めている。

 天保3年(1832)40歳で江戸家老に栄進し禄120石。崋山は農民救済を図るため、悪徳商人と結託した幕吏が計画した公儀新田の干拓や、農民の生活を脅かす領内21カ村への助郷割当の制度を、幕府に陳情、嘆願して廃止、免除させた。また飢饉に備えての養倉「報民倉」を建築。農学者、大倉永常を登用して甘蔗を栽培させて製糖事業を興すなど、藩政への貢献は大きい。

 また、田原藩主の異母弟で若くして隠居していた三宅友信に蘭学を勧め、大量の蘭書を購入。シーボルト門下の俊才で町医者の高野長英や岸和田藩医、小関三英、田原藩医の鈴木春山らに蘭書の翻訳をさせた。崋山はいつかこの蘭学研究グループの代表的立場に押し上げられていった。
そしてこの会が、憂国の情とともに、鎖国攘夷の幕政に批判的な色彩が強いものとなっていった。崋山自身も時事を討議し幕臣の腐敗無能ぶりを詰問した『慎機論』を著している。伊豆の代官で、西洋砲術家で海防策に心を砕いていた幕府きっての開明派の江川英龍のため、崋山は『西洋事情御答書』を書き送っている。

 これらのことが“蘭学嫌い”の幕府の目付、鳥居甲斐守耀蔵の異常な憎しみをかい、天保10年(1839)の“蛮社の獄”に発展、崋山も「幕政批判」の罪に問われて捕えられ、投獄7カ月。この後、崋山は藩地田原へ蟄居。幽閉所での崋山の暮らしぶりは窮乏をきわめている。母や妻子を抱えての貧窮生活を見かねた友人たちが、江戸で彼の絵を売ってやった。

ところが、かねてから開明派崋山の活躍ぶりを苦々しく思っていた守旧派の藩老や藩士たちは、謹慎中あるまじき行為と騒ぎたて、公儀から藩主までお咎めを被る-という噂を撒き散らした。こうした噂を耳にした崋山は藩主や周囲に累が及ぶのを案じて切腹、貧乏と闘い続けた生涯に幕を閉じた。

(参考資料)童門冬二「歴史に学ぶ後継者育成の経営術」、神坂次郎「男 この言葉」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」、吉村昭「長英逃亡」

出雲阿国・・・歌舞伎の始祖 大スター兼プロデューサー

 出雲お国の出自は諸説あり、詳しくは分からない。出雲の生まれで、父は出雲大社に召し抱えられていた鍛冶職人。お国は大社の巫女だったともいわれている。歌舞伎の歴史をみると、1603年に出雲お国が京都の五条で舞台掛けしたのが始まりとされる-とある。お国は三百数十年前に亡くなったが、歌舞伎の始祖といえるのだ。

 安土・桃山時代から徳川の時代へ移るとき、出雲大社が勧進のため、お国たちを京へ上らせた。勧進とは寄付募集のことで、お国たちは神楽舞を舞ったりして人々の喜捨を仰いだ。このとき田舎からやってきたお国は、信長、秀吉らが天下を握った時代の、自由奔放で生き生きとした息吹きを感じ、神楽舞や能、幸若舞などが早晩、時代遅れになると判断。一足でも早く新しいものを始めたものが勝つと見極めをつけた。そして、さっさと勧進興行の一座を抜けてしまった。

出雲大社はカンカンになったが、お国は冷静に新しい企画に取り掛かった。彼女はまず女優だけの一座を結成した。「宝塚歌劇」を目にしているいまの私たちには何の新しさも感じられないが、当時としては画期的なことだった。何しろそれまでは演劇も舞いも男ばかり。女役も男がするものと決まっていたのを、彼女は逆手を使ったわけだ。囃し方や道化だけは男が務めるが、二枚目の男はお国をはじめ男装の女が演じた。たちまち好奇の目が集まり、お国一座は大人気を獲得したのだ。300年前のことだ。

お国歌舞伎の凄いところは、彼女はいつも主役の男役を演じ、スター兼プロデューサーだったことだ。今日風に表現すれば、これまで誰もやったことのない新しい演劇、舞踊を考え出すという企画・製作から興行・広告まで、たった一人でやってのけたのだ。舞台も桃山風の小袖をしどけなくまとって、はだけた胸からはキリシタンの金の十字架をのぞかせて-といった、時代の先端をゆく大胆で斬新奇抜なものだったらしい。踊りや芝居も、エロチックな、かなりきわどいものだったようだ。
人気が高くなると、ごひいき筋の客種がよくなるのは今も昔も同様で、お国は方々から引っ張りだこになった。諸大名や将軍家、果ては宮中にも招かれたという。

お国がここまで人気を獲得した最大の要因は、彼女の芸能人としての根性だ。何事もお客様第一。飽きられないように、次から次へと新手を考え出した。その手掛かりとして、お国は強力なブレーンを獲得した。当時の一代の風流男、名古屋山三郎(なごやさんざぶろう)だ。山三郎はイケメンで、少年時代には蒲生氏郷の小姓で男色の相手として有名だったし、槍の名人でもあった。氏郷の死後、多額の遺産をもらって京で気ままな暮らしを始めた。こんな山三郎が、お国の一座のために巨額の金を出し後援しているというだけで、人気を博した。

また、お国は生半可なことではへこたれない、したたかさもみせた。頼みとする山三郎が旅先で、ある事件のために殺されてしまったのだ。彼の妹は、森美作守忠政という武士に嫁いでいたが、山三郎がその領地で森家の家臣と口論したのが災いのもとだった。山三郎の訃報がもたらされたとき、都中の人がお国一座はもうダメだろうと思った。ところが、お国はその直後、敢然と興行の幕を開けたのだ。しかも、驚くことに山三郎の死を題材にした狂言を上演したのだった。山三郎はお国の愛人、との噂もあった。普通なら恋人の死に泣き崩れるところを、二人の経緯を自作自演したのだから、都中の話題をさらった。まさに芸能人のど根性だ。大スターであり、歌舞伎役者・お国の真骨頂ともいえよう。

(参考資料)永井路子「歴史をさわがせた女たち」、杉本苑子「乾いたえくぼ」、有吉佐和子「日本史探訪/出雲阿国」

荻野 吟・・・封建的な因習が残っていた明治初期、近代の女医第一号に

 何事も人がやらないことを初めてやろうとするのは大変なことだ。偏見と戦わなければならないし、様々な妨害も乗り越えなければならない。近代の女医第一号となった荻野吟の場合も、女医になるまでの道のりは実に険しかった。

 彼女は嘉永4年(1851)、武蔵国大里郡泰村で生まれている。頭は良かったが、ごく普通の豪農の娘として育てられ、親が決めた結婚相手と普通の結婚をしている。16歳だった。そのまま何事もなければ、恐らく彼女は普通の主婦として平凡な一生を送っただろう。

 ところが、結婚後しばらくして夫から性病の一つ、淋病をうつされたことによって、その後の吟の一生はガラッと変わることになった。明治早々のまだ封建的な因習が色濃く残っていた頃のことだ。病気そのものを夫からうつされたにもかかわらず、彼女は実家に戻され、次いで離婚させられている。全く理不尽な話だが、吟は黙ってそれに従うしかなかった。

 吟の実家は素封家だったので、経済的に困るというようなことはなかった。東京の順天堂病院に入院、治療に専念することになった。淋病なので、診察のたびに男の医師たちに女性性器を調べられる。まだ10代だった彼女にとってその恥辱はいかばかりだったか。このときの恥辱が、彼女を女医へと駆り立てたといっていい。江戸時代から産婆がいるのだから、女の医者がいてもいいではないか、自分は産婦人科医になろう-というわけだ。

 新しい時代、明治時代だが、医師の世界にまでまだ新しい波は押し寄せていない頃のこと、彼女が考えるほどことは簡単ではなかった。まず明治6年(1873)、彼女が23歳のとき、東京へ出て国学者で漢方医でもある井上頼圀の門に入った。西洋医学ではなく、なぜ漢方医なのか?それはその頃、女医そのものが一人もおらず当然、女医養成のための学校などあり得るはずもなかったからだ。このことは彼女がこの後、甲府の内藤女塾の教師兼舎監に、そして明治8年(1875)開校された東京女子師範学校に入学していることでも分かる。“筋違い”で、遠回りだが、こうした方法しかなかったのだ。

 ただ、彼女はそこで猛勉強する。そして、明治12年(1879)首席で卒業した。首席卒業の吟の将来の希望が女医だと知った同校の永井久一郎教授から紹介された石黒陸軍医監の口添えで、好寿院という医学校への入学が許可された。とにかく、それまで男にしか入学を許さなかった医学校に入ることができたのだ。だが、初めての女子の入学だ。好奇の目で見られたし、露骨に「女が来るところではない」といわれ、毎日のように嫌がらせやいじめがあるなど、そこでの勉学生活は決して快適なものではなかった。しかし、彼女はへこたれず、見事卒業したのだ。

 しかし、まだ彼女の前に立ちはだかるハードルは高かった。医者になるには医術開業試験に通らなければならない。ところが前例がないからと、受験そのものが却下されてしまったのだ。そこで、過去の日本の歴史上に女医がいたかどうかを調べた。すると、古代律令制の時代にも女医がいたことを突き止めた。その結果、明治17年(1884)6月、内務省もようやく女性に対し、医師の道を拓くことになった。同年9月、初めて女子にも開放された医術開業試験の前期試験が行われ、荻野吟のほか、木村秀子、松浦さと子・岡田みす子の3人が受験した。合格したのは吟だけだった。翌18年3月、後期試験が行われ、吟はこれも見事に合格し、ここにわが国初の女医(西洋医)が誕生した。

 ちなみに、女医第二号は翌19年11月に後期試験を通った生沢クノで、その後、高橋瑞、本多詮などが続いている。明治21年(1888)までの女性合格者は14人を数えている。後、同じように男たちのいじめにあいながら苦労して女医になった吉岡弥生が、後進の育成のために東京女医学校を設立したのは、明治33年(1900)のことだった。

(参考資料)吉村昭「日本医家伝 荻野ぎん」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、渡辺淳一「花埋み」