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運慶・・・日本の仏像彫刻の最高峰に燦然と君臨

 平安末期から鎌倉の初期にかけて、寺社仏閣に仏像を刻んだ仏師は星の数ほど存在した。けれども、日本の仏像彫刻の道を登りつめ最高峰に到達し、その後、仏像彫刻としては日本文化史上、この人を超える仏師は遂に現れなかった。その人こそ運慶だ。

 運慶という仏師は、その生涯の多くが謎に包まれている。六波羅蜜寺に現存する「運慶の像」と称される木像僧形の座像がある。これを見ると、やや尖った頭頂に頑丈な体躯、数珠を指に絡ませ、「法眼」の位を許された僧侶だが、漂う朴訥な風情は、一介の職人だ。運慶に限らず、当時の仏師は例外なく、寺院に付属する職人集団であり、彼も南都=奈良を本拠とする、東大寺や興福寺に所属し仏像の製作・補修にあたる一団の一人に過ぎなかった。したがって、仏師運慶も、決して現代的な意味での芸術家ではなかった。

 運慶は1140年代から1150年代の初めにかけて生まれたと考えられる。平等院鳳凰堂に代表される浄土信仰が一世を風靡し、貴族と結びついた京都仏師たちは、優雅な阿弥陀如来像を次々と生み出していく。その京都仏師の頂点にあったのが定朝であり、運慶が生まれた頃には定朝直系の仏師が、仏像彫刻の主流となっていた。中でも院尊を棟梁とする院派、明円を頭と仰ぐ円派の二代派閥が、都でその創造の優秀さを競い合っていた。

運慶はこうした京都仏師を横目に、創造の機会すらほとんどない、修復をもっぱらとする旧勢力の南都=奈良仏師の集団に、父の康慶の代から参加していたのだ。康慶は奈良仏師でも傍流の出であり、運慶には仏像の修理の末端しか回ってこなかったようだ。

 こうした劣勢な環境の中で、わずかでも幸運だったのは興福寺が権門・藤原氏の氏寺だったことだ。鎌倉時代までの日本政治史は、いわば藤原一族の歴史であり、権力と富はこの一門のみに集まった。そうした家を大檀那としている限り、「食うに困らぬ」の思いであったろう。保元の乱(1156)、平治の乱(1159)を経て、藤原氏の権勢が地に落ちて、恐らく仏像の修理もこれまでのようには行われなくなったはずだ。

だが、それから間もなくして興福寺の系列の忍辱山円成寺の大日如来像を造顕する仕事が入った。どういう経緯からか不明だが、安元元年(1175)から1年をかけ、運慶は父とともに仏像制作に参加している。台座に「大仏師康慶実弟子運慶」と記されており、この仕事が運慶の名を史上、確実に登場させることになった。ただ、この像は後の運慶の荒々しい写実性のある作品に比べると、際立って王朝風の優雅さに彩られ端正で清冽ではあるが、独創的とは言い難く、いかにも優等生の作品といった印象が強い。この時代、政治は明らかに貴族の手から武士の手へ、平家そして源氏隆盛となり、興福寺でも多くの伽藍が消失。奈良時代の数多の仏像が焼き尽くされる。と同時に、運慶の姿は忽然と歴史の舞台から消える。

運慶が再び現れるのは南都最大の寺院、東大寺の復興においてのことになる。建久6年(1195)、大仏の開眼供養に際し、運慶は「法眼」に叙せられていた。翌建久7年、東大寺大仏殿で虚空蔵菩薩像、時国天像を運慶が製作。ただ、これらは現存していない。

運慶の作風が後世に伝えられるのは建仁3年(1203)の作品まで待たねばならない。弟子の快慶とともに、20年に及ぶ東大寺再建事業の最後を飾って、東大寺南大門に安置する阿吽(あうん)二体の金剛力士像=仁王像を彫り上げたのだ。仁王の筋骨の逞しさ、人間くさい勇壮さ、迫力・切れ味ともに、この作品は戦乱の中から生まれたことを雄弁に語っている。こうして運慶は、仏像彫刻界の頂点に立った。

金剛力士像が完成した5年後、承元2年(1208)、興福寺の北円堂で中尊の弥勒像をはじめ、脇侍二体、四天王、羅漢二体(無著・世親)が造られた。現存する弥勒と羅漢二体は、運慶を日本彫刻史上にその名を刻ませた最高の傑作といえるだろう。

(参考資料)加来耕三「日本創始者列伝」

                             

緒方洪庵・・・種痘を本格的に広め数多くの人材を輩出した「適塾」主宰者

 緒方洪庵は優れた蘭方医で、幕末から明治維新にかけて活躍した大村益次郎、橋本左内、大鳥圭介、福沢諭吉、長与専斎、佐野常民、高松凌雲、箕作秋坪(みつくりしゅうへい)など数多くの人材を輩出した蘭学塾「適々斎塾(適塾)」の主宰者だ。

 緒方洪庵は当時最も恐れられていた病の一つ、天然痘の予防法である種痘を日本で本格的に広めた一人だ。1849年(嘉永2年)、洪庵40歳のとき、京へ赴き種痘を得、古手町(現在の大阪市中央区道修町)に「除痘館」を開き、牛痘種痘法による切痘を始め、迷信のはびこる世の中の誤解や悪評に屈することなく、種痘の普及に努めた。日本最初の病理学書「病学通論」を著し、天然痘予防に尽力。また1858年(安政5年)、コレラ流行に際しては「虎狼痢治準(ころりちじゅん)」と題した治療手引書を出版し、医師に配布するなど日本医学の近代化に努めた。

 緒方洪庵は備中国足守藩士、佐伯瀬左衛門の三男として足守(現在の岡山市足守)で生まれている。諱は章。字は公裁、号を洪庵ほか、適々斎、華陰と称した。生没年は1810(文化4年)~1863年(文久3年)。
 1825年(文政8年)、大坂蔵屋敷留守居役となった父とともに大坂に出た。翌年から4年間、中天游の私塾「思々斎塾」で学んだ。1831年(天保2年)江戸へ出て坪井信道に学び、さらに宇田川玄真にも学んだ。1836年(天保7年)、長崎へ遊学しオランダ人医師・ニーマンのもとで医学を学び、この頃から緒方洪庵と名乗ったようだ。

1838年(天保9年)、大坂にもどり瓦町(現在の大阪市中央区瓦町)で医業を開業すると同時に、蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開いた。天游門下の先輩、億川百記の娘・八重と結婚。この後、6男7女をもうけている。1845年(弘化2年)、過書町(現在の大阪市中央区北浜3丁目)の商家を購入し適塾を移転した。洪庵の名声が高くなり、門下生が増えて手狭になったためだ。
 洪庵の若い頃の医学の主流は漢方だった。もちろん蘭方医学の興隆も目を見張るものがあったが、社会的には漢方が圧倒的に強かった。だが、洪庵は西洋医学蘭方の道を選んだ。杉田玄白の「蘭学事始」より11年後、洪庵17歳の時のことだ。

洪庵の特色はその語学力の冴えにある。医者としての名声もさることながら、その数多くの翻訳によって、緒方洪庵の名は広く世に知られた。適塾はいつしか医学塾にとどまらず、次第に語学塾の性格が強い塾へと発展していった。吉田松陰の「松下村塾」を思想教育の塾とすれば、適塾はいわば語学教育・実践教育の塾だった。そして語学を学ぶことは、西洋思想そのものを身につけることに他ならなかった。
 洪庵が医師の本来のあり方を啓蒙するとともに、自己の戒めとした翻訳書がある。これは後に「扶氏医戒之略」の名で世に知られるが、適塾のモットーともなった。十二章にもなるが、そのうちはじめの2章を紹介しよう。
一. 医の世に生活するは、人のためのみ、おのれがためにあらずといふことをその業の本旨とす。安逸を思はず、名利を顧(かえりみ)ず、唯おのれをすてて人を救はんことを希(ねが)ふべし。人の生命を保全し、人の疾病を復活し、人の患苦を寛解するの外他事あるものにあらず。

二. 病者に対しては、唯病者を知るべし。貴賎貧富を顧ることなかれ。長者一握の黄金を以って貧士双眼の感涙に比するに、その心に得るところ如何ぞや。深く之を思ふべし。
洪庵は「医は仁術である」ということを、最もやかましく言ったというか、実践した人物だが、これらの言葉は現代においても必要とされる基本的な医の倫理ばかりだ。

 冒頭に記した通り、適塾からは多くの人材が出た。洪庵の門下は3000人といわれたが、様々な分野で活躍している。長与専斎は肥前大村の出身だが、日本近代医学の発展に尽くし、後に東京医学校の校長になる。橋本左内は越前出身で一般に志士としてのイメージが強いが、彼の本業は医者だ。越前藩の藩校の学長を務め、学制改革に力を尽くした。大村益次郎は日本国軍の創設者だ。佐野常民は佐賀出身で、後に日本赤十字社の創始者になる。高松凌雲は幕府の医官だった。幕府が倒壊した後、榎本武揚と一緒に箱館に行って戦い抜く変わった医者だ。しかし、明治維新後は政府の医学奨励に協力し、後に医療奉仕機関の同愛社を作る。箕作秋坪は有名なオランダ学者だ。福沢諭吉はいうまでもない。

 洪庵は1862年(文久2年)、幕府の度重なる要請により奥医師兼西洋医学所頭取として江戸へ出仕する。だが翌年、江戸の医学所頭取役宅で突然、喀血し窒息により死去、享年54だった。

(参考資料))百瀬明治『「適塾」の研究』、童門冬二「私塾の研究」、司馬遼太郎・緒方富雄「日本史探訪/国学と洋学」、司馬遼太郎・ドナルド・キーン対談「日本人と日本文化」

犬養毅・・・偶然が重なり首相になるが、軍部に暗殺された高潔の士

 犬養毅といえば「五・一五事件」で軍部に暗殺された総理大臣として記憶されている人物だ。だが彼自身、高潔にして毒舌の士で、この毒舌が様々な政敵をつくったが、それは決して政治家の頂点を目指すためではなかった。私生活では全く無欲の人で、細かいことには無頓着だった。そんな彼が総理大臣になったのは、いくつかの偶然が重なったのだ。犬養の生没年は1855(安政2)~1932年(昭和7年)。

 犬養毅は備中国賀陽郡庭瀬村(現在の岡山市北区川入)に大庄屋、犬飼源左衛門の次男として生まれた(後に犬養と改姓)。通称は仙次郎。号は木堂。慶応義塾在学中に郵便報知新聞(後の報知新聞)の記者として西南戦争に従軍した。
犬養は帰ってからの学費は、卒業まで社から毎月10円ずつ出してもらうという条件で、学校を休学して現地に赴いた。

彼が現地に着いたとき、ちょうど田原坂の激戦中だった。犬養の書いたルポルタージュは「戦地直報」というタイトルに「犬養毅」という署名入りで紙面を飾った。これは、鹿児島・城山が陥落するまで前後百数回連載されたが、何といっても実際に目撃した実況を書いたものだけに、非常に精彩があって大いに読者の歓迎するところとなった。

1890年(明治23年)の第一回衆議院議員総選挙で当選し、以後42年間で18回連続当選という、尾崎行雄に次ぐ記録をつくった。後に尾崎行雄とともに「憲政の神様」と呼ばれた。
 冒頭に述べた犬養首相誕生にあたって重なった偶然をみてみよう。犬養は1925年(大正14年)、自ら率いる「革新倶楽部」が選挙のたびに議席を減らすので、「立憲政友会」と合同した責任を取って政界を引退した。ところが、犬養の地元岡山の選挙民はこれに納得しない。そこで犬養の了承を得ないで、彼の引退に伴う補欠選挙で犬養自身を当選させてしまった。さらに、合同した立憲政友会の党首、田中義一総裁が急死するという偶然が重なった。

 立憲政友会は田中の跡目を巡って鈴木喜三郎と床次竹二郎が激しく争い、党分裂の恐れが出た。そこで、党内の融和派が犬養を担ぎ出しに動き、嫌がる犬養を強引に説得したのだ。その結果、1929年(昭和4年)、犬養は大政党・立憲政友会の総裁に選ばれてしまった。
 偶然はまだ続く。対立する民政党の瓦解だった。まず濱口雄幸総理が東京駅でテロリストに撃たれ、それがもとで退陣。後を継いだ第二次若槻禮次郎内閣も、1931年(昭和6年)勃発した満州事変を巡って閣内不統一に陥り、総辞職した。このころは現代の、昭和から平成にかけて50数年もの間、閣内不一致に陥ろうと、党内対立が起ころうとなりふりかまわず、党首をすげかえ政権をたらいまわししてきた自民党政治とは全く違う、かなり民主的な政治が行われていたのだ。

このころは、内閣が総辞職あるいは閣内が行き詰まって政権を投げ出したときは、野党第一党に政権を譲るという「憲政の常道」のルールが確立されていた。しかも、元老・西園寺公望は犬養が満州事変を中華民国との話し合いで解決したいとの意欲を持っていたことを評価して、昭和天皇に野党の立憲政友会の犬養を推薦したのだ。きちんとしたルールがあり、それを運用する人物たちがいた時代だ。このとき、犬養は数え年で77歳。確かに高齢ながら、こうして無欲で高潔の士、第29代犬養毅内閣総理大臣が誕生したのだ。

 しかし、犬養がその座にあったのはわずか5カ月間だった。1932年(昭和7年)5月15日、総理官邸で海軍の青年将校と陸軍の士官候補生の一団に襲われ、暗殺されたからだ。犬養の無念の死だった
「五・一五事件」だ。犬養の死は大きな後遺症を残し、昭和史の分水嶺となった。五・一五事件の犯人たちは軍法会議にかけられたが、現職の内閣総理大臣を殺害したのに、なぜか極めて軽い処罰で済まされた。死刑が全く適用されず、数年後に全員が恩赦で釈放されるという軽い刑で処理されたのだ。このことが、4年後に起こった大掛かりな、軍部が引き起こした事件「二・二六事件」の遠因になったとみられる。

(参考資料)三好徹「日本宰相伝 官邸に死す」、小島直記「福沢山脈」

榎本武揚・・・幕臣で初めて海軍最高位・海軍中将になった男

 日本で初の陸軍大将になったのは西郷隆盛だ。そしてその頃、海軍の最高位の海軍中将に初めて任じられたのが榎本武揚だった。西郷は維新の元勲の一人だから当然としても、榎本は幕府海軍の司令官として、箱館五稜郭で官軍と戦った、敵将の一人だ。本来なら敗れた時、自刃していてもおかしくない。それが、後に海軍中将となり外務大臣となったのだから、これほど数奇な人生ドラマを体験した人は少ないだろう。

彼はまた海軍軍人であるとともに、技術官僚(テクノクラート)であり外交官であり、英・蘭・仏・独・露の五カ国語に通じ、さらに国際法から鉱物学、化学、地質学、気象学、電信技術に通じた第一級の人物だった。箱館五稜郭戦争で官軍の参謀、黒田清隆らが榎本の才能を惜しみ、維新後に必要な人材として降伏を勧めたのもうなずける。

 榎本武揚は天保7年(1836)8月25日、江戸下谷御徒町で、幕臣榎本円兵衛の次男として誕生した。幼名は釜次郎。父はもともと備後国安那郡箱田村(現広島県)の郷士で箱田円兵衛武規といったが、向学心に富んでいたので、江戸へ出て伊能忠敬の内弟子となった。そして彼は1000両出して御徒士で5人扶持55俵の禄高の榎本家の株を買って、榎本武兵衛の娘婿となって、幕臣の端くれに加わった。文政6年円兵衛は幕府の天文方に出仕する身となった。

文政10年、榎本の家付き妻が病死したため、後妻を迎え、その間に鍋太郎、釜次郎の二人の子供が生まれている。「鍋」と「釜」がついていれば生涯、食いっぱぐれがないだろう-というのが命名の理由と伝えられている。

釜次郎(後の武揚)は、儒者にしたいという父の願いで幕府の学問所に入学したが、途中で断念して技術関係に進みたいと考えるようになった。そして19歳の時、蝦夷地巡見使となった堀織部正の従者として蝦夷地へ赴く。幕臣の中では開明派に属する堀織部正は幕末初の外務官僚で、この良き先輩と北方領域を旅したことが、釜次郎の後半生を決定づける。

 安政3年(1856)、21歳の時、榎本は長崎に新設された海軍伝習所入りを命じられて、勇躍長崎へ向かう。幕臣ばかりでなく、薩摩から16名、長州15名、佐賀47名など各藩から優秀な人材が選抜されて入所した。幕府派遣の45名の中に勝麟太郎が加わっていた。ここで彼は航海と造船、砲術、機関術と測量術といった技術を修得する。

 文久元年11月、榎本らのアメリカ留学が決定された。ところが、当時アメリカで南北戦争(1861~65年)が勃発し、アメリカ政府は幕府からの軍艦注文と留学生受け入れを断ってきた。そこで、幕府は方針を変え、文久2年3月にオランダへ蒸気軍艦1隻の建造を注文し、同時に先に決定していた留学生を改めてオランダに派遣することを決めた。榎本27歳のときのことだ。15名の日本人留学生は文久3年4月の品川出港以来、11カ月の長旅の後、ロッテルダムに到着。その後、慶応2年(1866)までオランダで海軍軍人として必要な学科と実務を修得した。

 帰国した榎本は、幕府がオランダに発注し同国からの帰途、乗船した軍艦、開陽丸の船将を命じられた。榎本は32歳になっていた。この後、鳥羽・伏見の敗戦を経て幕府軍の立場は急転、十五代将軍慶喜が戦意喪失したため、薩長討幕派=官軍の前に防戦一方となった。江戸城での大評定で主戦派の小栗上野介を退け、和平派の勝安房守が主導権を手中にし若年寄、陸軍総裁に任命され、榎本は海軍副総裁となった。

勝が西郷隆盛東征軍参謀と江戸城明け渡しの交渉を進めているとき、榎本は艦隊を率いて抗戦すべく品川沖を出航した。そして、勝の制止、説得を振り切り、箱館五稜郭戦争まで突っ走ることになる。
 勝と榎本は共に外国をみてきているので、閉ざされた幕政のままでは、いよいよ日本は遅れるばかりと悟っていたはずだが、変わり身の速い、いわば先見性の豊かな勝に対して、榎本は現職に固執する融通の利かなさを多分に持っていた。政治家・勝に対して、技術家・榎本は幕府艦隊の長官という立場にこだわって、明治維新という時代の変化に乗り遅れたばかりか、むしろ取り残されてしまった。

 箱館五稜郭戦争での降伏、2年間の牢獄生活を経て明治41年、73歳で亡くなるまで、明治13年に海軍卿、後に初代逓信大臣、子爵、農商務大臣から外務大臣、枢密顧問官などを歴任した。彼は歴史の中心に位置した輝ける男の一人として終始した幸運児でもあった。

(参考資料)加茂儀一「榎本武揚」、邦光史郎「物語 海の日本史」 

尾形光琳・・・装飾的大画面を得意とした「琳派」の代表的画家

 尾形光琳は、後世「琳派」と呼ばれる、装飾的大画面を得意とした画派の代表的画家だ。主に京都の富裕な町衆を顧客とし、王朝文化時代の古典を学びつつ、明快で装飾的な作品を残した。その非凡なデザイン感覚は「光琳模様」という言葉を生み、現代に至るまで日本の絵画、工芸、デザインなどに与えた影響は大きい。画風は大和絵風を基調にしつつ、晩年には水墨画の作品もある。大画面の屏風のほか、手描きの小袖、蒔絵などの作品もある。

 尾形光琳は京都の富裕な呉服商「雁金屋」の当主、尾形宗謙の次男として生まれた。光琳の生没年は1658(万治元年)~1716年(享保元年)。5年遅れて、陶芸家として名高い弟、乾山が生まれている。雁金屋は、祖父宗伯の頃には宮中御用を務めるほどで、京でも揺るぎのない富める商人であった。物心ともに豊かな環境に生まれ育った光琳は、幼いときから父に連れられ、二条関白家をはじめ公家の屋敷にも出入りし、よく能の相手を務めたという。豊かな情操の世界に遊んだ少年時代、後に花開く光琳の天分は、こうして蓄積されていった。

 光琳が30歳の時、父宗謙が死去。光琳の兄が家督を継ぎ、光琳は二つの家屋敷と能道具一式、それに大名などへの貸付証文などを譲られ、金利生活者として一生を送ることのできる保証を得た。しかし、彼は遊興三昧の日々を送り、相続した莫大な財産を使い果たし、弟の乾山にも借金するありさまだった。光琳が40歳になって画業に身を入れ始めたのも、こうした経済的困窮が一因だった。
 画家として立った光琳が常に思い浮かべるのは、呉服商だった生家、雁金屋の店先の華やかな打掛・小袖などの呉服の数々だった。この「美しきもの」が、少・青年期の彼の美意識の成長に大きな影響を与え、一生の拠りどころになったであろうことは容易に想像できる。彼が尊敬してやまない俵屋宗達が、その家業だった扇絵にその構成の基本を置いたように、光琳もまた「きもの絵」を忘れなかったようだ。

 1701年(元禄14年)、44歳の時、光琳は「法橋(ほつきょう)」に叙せられた。ようやく画家として世に認められた光琳だったが、能や茶の湯や音曲に日々を送り、遊里に通い詰める放蕩三昧の日々が続く。この頃には父より譲られた屋敷はすでになく、家宝を質入し借財も多かった。彼にとって快楽の追求は美の追求であり、親の遺産を食い潰し、食い潰すことを糧とする創作生活だった。この時代、芸術と称するものは公卿や武門の名家の貴族が育てた伝統だったことは確かだが、光琳の芸術は非常に貴族的であると同時に、その貴族を逆に眺め返している。商人としての本当の生活的なポイントから睨み返しているという要素がある。だから、いわゆる庶民的なバイタリティーを持つと同時に、貴族的な教養が絢爛として彼の血の中に流れているというわけだ。

 年号が宝永と改まった頃、光琳は江戸へ下向している。もう50歳近い。当時の江戸の人口は100万人。元禄前後の50~60年間に大名貸しの貸し倒れで破産した京の商人は50を数え、光琳の生家、雁金屋も破産した。江戸に迎えられた光琳は大名酒井雅楽頭の扶持を受けながら、制作に励む。しかし、江戸は光琳にとって、必ずしも居心地のよい場所ではなかった。やがて、50歳を超えた彼は京へ戻っていく。江戸は権力の中心であって、芸術の中心ではなかったのだ。

彼の二大代表作「紅白梅図屏風」と「燕子図屏風」の大作が、いずれも元禄も終末を迎えた頃から、さらに宝永・正徳と時代が下る晩年の作であることを思えば、この二点の作品は、光琳の晩年を飾るにふさわしい。

(参考資料)岡本太郎「日本史探訪/江戸期の芸術家と豪商」

大岡忠相・・・吉宗の信頼を得て「享保の改革」を支えた江戸町奉行

 一般に知られている江戸時代の「三大改革」のうち、最初に行われたのが八代将軍・徳川吉宗による「享保の改革」だが、江戸町奉行としてこれを支えた人物が、TVドラマでもお馴染みの、この大岡越前守忠相(ただすけ)だ。水戸黄門の水戸光圀などの例でも明らかなように、小説やTVドラマが伝えるものはいわば虚像であって、実像とはかけ離れている場合が少なくない。大岡忠相の場合は果たしてどうだろうか。

 大岡忠相は1677年(延宝5年)、旗本大岡美濃守忠高の十人の子供の中の七番目(四男)に生まれ、1686年(貞享3年)10歳のとき同族大岡忠真の娘のところに婿養子として入った。忠相が養子にいったころの実父忠高は奈良町奉行で2700石を知行し、養父忠真は御徒頭として1420石を知行していた。生家・養家ともに上級旗本で、彼の出発はいわば一定の出世を約束されたに等しい恵まれたものだった。

 1700年(元禄13年)、忠相は24歳のとき養父の後を継ぎ、26歳で初めて幕府の役職、御書院番に就いた。御書院番は戦時には将軍の身辺を守り、平時には江戸城の要所を守り、また将軍出行時にはその前後を守って随行する役だ。忠相がこの職にあった1703年(元禄16年)、江戸に大地震が起きた。震源地は小田原付近。死者は小田原でおよそ2300人、小田原から品川までの間で1万5000人、房州10万人、江戸3万7000余人といわれた。後の安政の大地震(1855年)、大正の関東大震災(1923年)とともに、関東地方を襲った地震の中でも最も規模の大きいものだ。忠相はこの地震の復旧作業に精励して功績があった。後の御普請奉行、町奉行への出世の足掛かりとなった。

 1704年(宝永元年)に御徒頭、1707年(宝永4年)に御使番、そして1708年(宝永5年)に御目付に進んだ。1712年(正徳2年)、山田町奉行に転じた。4年ほど山田町奉行を務め、1716年(享保元年)忠相は江戸に呼び返されて御普請奉行になった。吉宗が八代将軍になる直前のことだ。抜擢されて、世に名高い江戸町奉行・大岡越前守忠相となるのは1717年(享保2年)のことだ。

 江戸町奉行は京都町奉行・大坂町奉行・長崎町奉行・奈良町奉行・山田町奉行など幕府直轄の町を支配する町奉行の一つだが、江戸の場合だけは寺社奉行・勘定奉行とともに三奉行と呼ばれて別格の待遇を受け、評定所の正規構成員として幕府最高の司法と行政に参与する高級閣僚の業務をも担当する特別官だった。

 忠相が江戸町奉行になったときは41歳、家禄は養父から引き継いだままの1920石だが、このころの江戸町奉行は大体1000石~1500石くらいの旗本が成っているので、異例のものとは言い難い。ただ、当時の町奉行は60歳前後の者が多かったから、41歳の忠相は早い出世といえる。彼はこの町奉行職に19年余という長期間就いている。吉宗が将軍だった間の町奉行の平均在職年数は9.27年で、忠相の場合はその倍を超えている。
 1736年(元文元年)、忠相は寺社奉行になった。60歳のときのことだ。江戸町奉行と勘定奉行は旗本が就くべき役職であったのに対し、寺社奉行は譜代大名が就く役職だった。しかもこのポストは1658年(万治元年)以降は、将来徳川政権の首脳部(老中・若年寄・京都所司代・大坂城代など)になることを期待されて、その訓練・見習いを兼ねた幹部候補生という意味合いもあって、奏者番に抜擢された譜代大名の若手有能者の中から、さらに選ばれて兼務する名誉ある職だった。したがって、万石以上の譜代大名でもなく奏者番でもない、60歳という老旗本が寺社奉行になったということは、異例中の異例だ。

 1920石で江戸町奉行になった大岡忠相は、1723年(享保8年)「足高(たしだか)の制」が施行されて江戸町奉行が3000石相当の役職とされると、当然その不足高1080石を補われるが、1725年(享保10年)に2000石の加増を受けて3920石の家禄となり、足高の適用を外される。本来「足高の制」というのは、幕府財政に負担をかけないで人材を登用するために取られた措置なので、功労があっても加増はしないのが原則だから、忠相のこの大幅加増も異例というべきことだ。

 さらに寺社奉行に栄進したとき、新たに2000石を加増されて5920石の家禄となり、それに4080石の足高を加えて万石格となった。それから12年目の1748年(寛延元年)、足高になっていた分が加えられて、ここに正真正銘の大名となり、万石以上の譜代大名が奏者番となって寺社奉行を兼ねるという本来の姿になった。

 また、忠相は江戸町奉行・寺社奉行に付随する評定所一座という業務も「享保の改革」の全期間、幕府の機能中枢に当たるこのポストを占め続けた。このほか、1745年(延享2年)、23年間にわたって兼ねていた「関東地方御用掛(かんとうじかたごようがかり)」の職の返上を願い出て、許されるまで務め続けている。農政はもともと江戸町奉行の仕事ではなく、勘定奉行の仕事なので、この登用は珍しいことであって、これをみても忠相がいかに吉宗から信頼されていたかが分かる。

(参考資料)大石慎三郎「徳川吉宗とその時代」、直木三十五「大岡越前の独立」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」

小栗忠順・・・幕末、幕府軍の主戦派の代表、慶喜の説得に失敗 斬首される

小栗忠順は激動の幕末期、反幕府的な勝海舟らと対峙し、財政、外交、軍事に傑出した手腕を発揮した。明治新政府は幕臣であっても優れた人材を数多く登用した。ところが、不思議なことに横須賀造船所を建設し、日本海軍の礎を築いた先見と決断の人、小栗上野介忠順に対してはそうした動きは全くなかった。勝海舟の和平論に敗れた後に1868年、引退した彼が上州権田村・高崎烏川畔で、なぜ斬首されねばならなかったのか。

 1867年(慶応3年)12月25日、江戸の三田にある薩摩屋敷が幕府軍に攻撃され、全焼した。これが口火になって戊辰戦争になる。この薩摩屋敷攻撃は西郷隆盛が仕組んだもので、幕府軍がこの挑発に乗ってしまったというのが定説になっている。だが、西郷のこの挑発がなければ幕府に戦争の構えがなかったのか。いや、そうではない。幕府はやる気だった。この幕府のやる気を代表したのが小栗忠順、ときの勘定奉行だった。

 小栗は主戦派の先頭に立っていた。それだけに、十五代将軍・徳川慶喜の大政奉還が江戸に知らされたとき、彼は真っ先に「承服できん」と叫んだという。そのときから彼は薩長と戦う準備に入っていた。勘定奉行として軍資金の調達、戦略・戦術、あらゆる方面に手を打っていた。勝算も十分にあった。

後に、官軍の大村益次郎が小栗の戦略を知ったとき、「その通りにやられていたら俺たちの命はなかった」と驚いたという。大村のリップサービスもあるかも知れない。だが、小栗のプラン通りに幕府軍が動いていたら戊辰戦争はどうなっていたか分からない。いやもっといえば、戦況をそのように動かせるように、慶喜に納得させ、行動させることに小栗は失敗したのだ。雌雄を決する瀬戸際で工作に失敗した小栗は、官軍に無条件で降伏したが、殺された。そして、対照的に小栗の意見を退けた慶喜は殺されることなく、世が落ち着いてから華族になった。

 1855年(安政2年)小栗は28歳で家を継ぎ、30歳で御使番になった。30歳で世に出たのだから、かなり遅い。そして39歳で官軍に殺されるまでの10年間、何と70数回も職務を変わった。有能だった証明だ。自分から辞めたことも、辞めさせられたこともあった。辞めてもすぐに引っ張り出されるところが能吏たるゆえんだろう。同時に彼が他人と協調しにくい性格だったことも示している。彼は武術と、論語ぐらいは読んだだろうが、学問は実学だけをやった。

 1860年(万延元年)、小栗の身の上に画期的な事件が起こった。抜擢人事で目付に任命され、新見豊前守を正使とする条約批准使節一行の監察役として米国に派遣されたのだ。小栗32歳のことだ。

 小栗が家督を継いだ頃、油や砂糖の小売りから両替屋に切り替わった紀國屋の婿養子で店主となった三野村利左衛門が、店が小栗家のある駿河台のすぐそばの神田三河町にあったことから、小栗家に出入りするようになり、小栗家の財政運用にタッチしていたという。三野村は後に三井財閥の基を作った人物だ。

1862年(文久2年)、小栗が幕政三本柱の一つ、勘定奉行に初めて就いてから、三野村利左衛門との緊密な関係が作られていったのだ。
 冒頭に記した通り、引退して権田村に帰った小栗は官軍によって斬首された。旧幕府の高官で、有無をいわさずに官軍が処刑したのは小栗だけだ。小栗が幕府の主戦派の先頭に立って、「薩長とは断固戦うべき」と主張していただけに、いかに官軍に憎まれていたか、いかに恐れられていたかが分かる。
小栗は官軍からの呼び出しがくると、自分の身辺が危なくなってきたと判断。母の国子、妻の道子らを会津へ落ち延びさせた。道子はそのとき身重だった。道子は会津で一女を産んだが、会津落城とともに東京へ密かに戻り、三野村の保護を受けた。三野村は東京へ置いておくのは危ないと判断して静岡へ送り、箱館で降伏した榎本武揚らが無罪放免になったのをみてから、深川の自宅に引き取った。三野村は明治10年胃がんで病死するが、その前に彼は大隈重信に小栗の遺族のことを託した。また、自分の家族には、小栗家の人たちの生計費を出すように遺言した。

(参考資料)大島昌宏「罪なくして斬らる 小栗上野介」、三好徹「政商伝」、奈良本辰也「日本史の参謀たち」、小島直記「人材水脈」、海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち」、司馬遼太郎「街道をゆく26」

岩倉具視・・・下級公家の出ながら、明治の御世は朝廷内を牛耳る

 岩倉具視は幕末、王政復古を策した維新の元勲だが、人気の乏しい政治家の一人だ。この点は大久保利通も同様だが、いろいろな毀誉褒貶をかなぐり捨て、非常に緻密な計算を立てて、しかも国家百年の大計みたいなものを見通すと同時に、絶えずいろいろな情報を集めて、その中で自分はどう動くかという役割をしっかりと踏まえて生きた。日本の宮廷政治家の中で、これほどしたたかに権謀術数を思うままに駆使した人は、後白河法皇と岩倉具視の2人だろう。

岩倉具視は幕末、幕府の威信が低下、幕閣で公武合体で乗り切ろうとする動きが活発になってきた頃から表舞台に登場し、途中5年間ほどの蟄居生活を送った期間はあったが、下級公家の出でありながら、朝廷内で指導的な立場を保持して伸し上がり、明治天皇の御世には京都朝廷の中は彼の独壇場だった。

 岩倉具視は公卿・堀河康親(180石の下級貴族)の次男として京都に生まれた。幼名は周丸(かねまる)、号は対岳。謹慎中の法名は友山。贈太政大臣、贈正一位。生没年は1825(文政8年)~1883年(明治16年)幼い頃から朝廷儒学者、伏原宣明に入門。伏原は岩倉を「大器の人物」と見抜き、岩倉家への養子縁組を推薦したという。1838年(天保9年)、満13歳のとき、岩倉家の当主岩倉具慶の養子となる。伏原から具視の名前を選んでもらい「岩倉具視」となった。

 岩倉家の家格は村上源氏久我家の江戸時代の分家で、新家(安土桃山時代あたりから設立された公家の家柄)と呼ばれる150石の下級の公家だ。代々伝わる家業(歌道・書道など家業がある公家は家元して免状を与える特権があり、そこから莫大な収入が見込めた)も、とくになかったので、家計は大多数の公家と同様、常に裕福ではなかったという。

 1854年(安政元年)、歌を詠むことを口実に、五摂家の一つ、鷹司政通に取り入り、その推挙により遂に孝明天皇の侍従の地位を獲得する。岩倉、30歳のことだ。それはペリーが日米和親条約締結に成功した年だ。1858年(安政5年)、米国はさらに日米通商条約を政府に迫った。窮地に立った幕府は、条約締結の勅許を求めて、老中堀田正睦を京都朝廷のもとに送る。岩倉が公家の中で頭角を表すのがこの時だ。

岩倉は幕府の苦境に乗じて、朝廷の権威回復を図ろうと考えた。そして、日米通商条約の勅許が幕府に下されるのを阻止すべく立ち上がるのだ。中山忠能を先頭とする条約調印に反対の立場の公卿88人が参内して、勅許に抗議する阻止行動がそれだ(八十八卿列参事件)。列参は慣習違反というか違法行為だが、岩倉は必要なら直接、武家と接触したり、平気で禁令など乗り越えられる、枠に捉われない人物だった。彼は一晩に100人の公卿を訪問し説得して回ったという。岩倉の策謀は成功し、勅許は下されなかった。その結果、時の大老井伊直弼の独断での条約調印となってしまったのだ。

 岩倉は生涯に何度か歴史を動かす意見書を提出しているが、中でも知名度の高いのが『和宮御降嫁に関する上申書』。これは、孝明天皇が岩倉を召して諮問した際に答えたものだ。この上申書で岩倉は、今回降嫁を幕府が持ちかけてきたのは幕府の権威がすでに地に落ち、日に日に人心が離れていることに幕府自身が気付いており、ここで朝廷の威光を借りて幕府の権威を何とか粉飾しようという狙いがあると分析。

岩倉は今は「公武一和」を天下に示すべきとし、政治的決定は朝廷、その執行は幕府があたるという体制を構築すべきだ。そして朝廷の決定事項として「条約の引き戻し(通商条約の破棄)」がある。したがって、今回の縁組は幕府がそれを実行するならば特別に許すべきと結論した。幕府の政略結婚の申し入れに、孝明天皇はじめ宮中の要人は強硬に反対を唱えたが、岩倉はひとり和宮降嫁に賛成したのだ。
 1867年(慶応3年)、岩倉は蟄居生活から5年ぶりに赦されて、宮中に参与として復帰。王政復古のクーデターが起こったのは、まさにその日だった。西郷隆盛、大久保利通、そして岩倉が首謀者だった。薩摩、土佐、尾張、安芸、越前の兵が、一挙に京都御所を押さえ、「王政復古の大号令」を発したのだ。

しかし、その夜行われた将来の方針を決める、いわゆる小御所会議では徳川慶喜の「辞官納地」をめぐる賛否で意見が対立。会議は深夜に及んだが、岩倉側が押し切り慶喜の辞官納地を決めた。幕府側はこれを不服とし、兵を挙げる。鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争だ。しかし、時代の大勢はすでに決まっていた。

 明治維新後の岩倉は、その死に至るまで天皇の権威確立と保持に心を砕いた。明治憲法の骨子も彼によって作られた。明治維新は大久保なしでは成功しなかった。と同時に大久保と呼応する形で、朝廷の側に岩倉がいなければ薩長対幕府という武力政権同士の争いで大混乱し、収拾のつかない争いに終わっていたかも知れない。

 明治新政府の閣僚決定に際して、岩倉は最高位の太政大臣に自分より身分の高い公家、三条実美を推し、政治の実権は大久保利通に任せ、自らは表に立つことはなかった。1883年(明治16年)、岩倉は59歳でこの世を去った。彼の葬儀は国葬の第一号として、盛大に行われた。

(参考資料)奈良本辰也「歴史に学ぶ」、城山三郎・小西四郎「日本史探訪/幕末の英傑たち」、奈良本辰也「幕末維新の志士読本」、奈良本辰也「男たちの明治維新」、豊田穣「西郷従道」

大久保一翁・・・勝海舟の出世の方途を開き、江戸無血開城に貢献

 大久保忠寛(隠居後は一翁)は幕末時、勝海舟とともに政局混乱終息に動いた幕臣だが、勝が重要な政局収拾にあたったため、彼の名は勝ほど知られていない。ただ、彼は幕府存続のため大政奉還を前提とした諸大名による会議、つまり議会制の導入を早くから訴えるなど、先見の明を持っていた。江戸無血開城に貢献したため、勝海舟、山岡鉄舟とともに「江戸幕府の三本柱」ともいわれる。生没年は1818(文化14)~1888年(明治21年)。

 大久保忠寛は旗本大久保忠尚の子として東京で生まれた。幼名は市三郎、忠正。隠居後、一翁(いちおう)と号した。第十一代将軍家斉の小姓を務め、1842年(天保13年)家督を相続した。1854年(安政元年)、老中阿部正弘に登用され目付兼海防掛となった。以後、蕃所調所総裁、駿府町奉行、京都町奉行などを務めた。ところが、「安政の大獄」の際、大老井伊直弼の厳しすぎる処分に反対したため直弼に疎まれ、遂に罷免された。しかし、井伊直弼が暗殺された後、1861年(文久元年)再び登用され、蕃所調所頭取、外国奉行、大目付、側御用取次などの要職を歴任した。

 大目付は元来、目付と分業になっていたのだが、このころ目付を配下に組み入れるように変更されたから、大目付兼外国奉行は大変な権力だ。内務次官と外務次官を兼ねているようなものだ。また、側御用取次は旗本が就任し得る最高の地位といっていい。老中と将軍の間を取り次ぐため、その間に自分の意見を織り込むことも可能で、幕府の最高意思決定に介入できるのだ。このため権勢も老中に匹敵した。

 大久保の重要な功績の一つとして指摘しておかなければならないのは、幕末の幕府側のキーパーソンの一人、勝海舟の出世の方途を開いたことだ。1854年(安政元年)、大久保は意見書を提出した勝海舟を訪問。場所は赤坂の田町、勝はそこで蘭学塾を開いていたのだ。大久保が38歳、勝が32歳のときのことだ。会った大久保はこの男ならと、その能力を見い出し、老中阿部正弘に推挙して、勝を登用させたのだ。このことがなければ幕末、後の勝の出番はなかったか、あるいはあったとしても、もっと遅く小さなものになっていただろう。とすれば、後世の歴史は少し違ったものになっていたかも知れない。

 大久保は第十四代将軍家茂に仕えたが、政事総裁職となった越前藩主松平慶永らとも交友し、外国事情に関心を持つ開明的幕吏として、長州征伐などを批判し、早くから大政奉還も説いた。この大政奉還は幕府存続のためで、彼は諸大名による会議、つまり議会制の導入を第十五代将軍慶喜にも進言している。

 大政奉還は土佐藩の建白を慶喜が受け入れたものだが、土佐の建白の種を蒔いたのは周知のとおり坂本龍馬だ。そして、その龍馬に大政奉還論を教えたのが実はこの大久保なのだ。大久保が龍馬に会ったのは文久3年4月で、江戸の屋敷に引き籠もっている大久保を龍馬が訪問したのだ。このとき龍馬は勝に従って京都・大坂方面で活躍していた。神戸海軍操練所の設立が決まる直前の時期だ。その3月末から4月初めにかけて、勝は上方に残り、弟子の龍馬が幕府軍艦順動丸で江戸へ往復した。大久保のところへ行ったのは、勝に代わって上方の情勢を報告するためだった。

 1867年(慶応3年)、幕府崩壊後も大久保は幕府会計総裁として戊辰戦争の始末にあたる一方、新政府側からも旧幕府へのパイプ役として重んじられた。勝海舟、山岡鉄舟らとともに江戸無血開城実現に寄与したほか、のち静岡県知事、東京府知事(第五代)、元老院議官などを歴任した。

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」

尾崎行雄・・・63年間議員を務めた「憲政の神様」「議会政治の父」

 尾崎行雄は日本の議会政治の黎明期から戦後に至るまで衆議院議員を務め、この間、第一次大隈(隈板)内閣の文部大臣、東京市長、第二次大隈内閣の司法大臣を務めた。しかし、そうした閣僚経験よりも、彼を表現するにふさわしい呼称がある。当選回数・議員勤続年数・最高齢議員記録などの日本記録を保持していることから、「憲政の神様」、「議会政治の父」と呼ばれるのだ。彼はその95年の生涯を民主主義と議会政治の確立に捧げた。とくに、金権政治の排撃に努めた。生没年は1858(安政5)~1954年(昭和29年)。

 尾崎行雄は相模国津久井郡又野村(現在の神奈川県相模原市津久井町又野)に生まれた。11歳まで又野村で過ごした後、官吏となった父、行正に従い、1868年(明治元年)に番町の平田塾に学び、一家も1871年(明治4年)に高崎へ引越し、地元の英学校にて英語を学んだ。そこで初めて「学校」に入った。1872年(明治5年)度会県山田(現在の三重県宇治山田市)に居を移した。尾崎も宮崎文庫英学校に入学した。

尾崎は1874年(明治7年)、弟とともに上京し慶応義塾童児局に入学するやいなや、塾長の福沢諭吉に認められ、十二級の最下位から最上級生となるが、直ちに世の中で役に立つ学問を求めた尾崎は、反駁する論文を執筆して退学し、染物屋になるため、1876年(明治9年)に工学寮(後の工部大学校、現在の東京大学工学部)に再入学するも、学風の違いや理化学への嫌気から『曙新聞』などに薩摩藩の横暴を批判する投書をはじめ、それがいずれも好評を博したため、一年足らずで退学。その後、慶応義塾に戻り、朝吹英二が経営した『民間雑誌』の編集に携わり、共勧義塾で英国史を論じたり、三国演説館で演壇に立つなどした。

尾崎は、1879年(明治12年)には福沢諭吉の推薦で『新潟新聞』の主筆になった。1882年(明治15年)、『報知新聞』記者となり、大隈重信の立憲改進党の創立に参加。1887年(明治20年)、保安条例により東京からの退去処分を受けた尾崎は「道理が引っ込む時勢を愕く」と言い、号を学堂から愕堂に変えた。その後、咢堂に改めた。

 尾崎は1890年(明治23年)、第一回総選挙で三重県選挙区より出馬し当選。以後63年間に及ぶ連続25回当選という記録をつくった。彼はこの間、クリーンな政治家を見事に貫いた。63年も議員を務めていて、一度も総理にならなかったのは、彼が純粋すぎたからだともいえる。それだけに敵も多く、何度も暴漢に襲われたり、警察ににらまれたり、様々な妨害に遭ったが、生涯これに屈することはなかった。

 身長157cm・体重34kgの尾崎を支えた3人の女性がいた。最初の妻、繁子、死別後、迎えた二番目の妻、テオドラ、そして看護婦でその後、家政婦となって仕えた服部文子だ。これら3人の女性の支えなくしては、今日伝えられる尾崎の生涯はなかったろう。

 米国ワシントン・ポトマック公園に見事な桜並木がある。尾崎が東京市長時代(1903~1912年)の明治45年、日米友好の証としてワシントン市に贈った桜が世界的な「桜の名所」となっている。
(参考資料)小島直記「人材水脈」、小島直記「福沢山脈」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本

一休・・・カラスの鳴き声を聞いて大悟 風狂の人生を送った名僧

 一休は世間の常識や名誉欲・出世欲から離れて生きた禅僧だ。後小松天皇の落胤といわれる一休が、いかにして悟りを開き、独自の思想を築き上げていったのか。一休の生没年は1394(応永元)~1481年(文明13年)。

 一休宗純は京都・嵯峨の民家で生まれた。幼名は千菊丸、長じて周建の名で呼ばれ、狂雲子、瞎驢(かつろ)、夢閨(むけい)などと号した。戒名は宗純で、宗順とも書く。一休は道号。父は後小松天皇、母は南朝の公卿の娘だったという。後小松天皇は、南朝と北朝とが一つになったときの北朝の天皇だ。南朝最期の天皇、後亀山天皇が京都に遷り、嵯峨の大覚寺に入られたのが1392年(元中9年)10月2日。10月5日には神器を後小松天皇に授けて、ここに南北朝の争いに終止符が打たれたのだ。その2年後に一休が生まれたことになる。

 一休が天皇の落胤でありながら、嵯峨の民家に生まれ、僧として生涯“風狂”の生活を営んだというのも、その出自に原因がある。南北朝が統一されたころはまだ、宮中も南朝方に対する敵対意識も取り去られてはいなかった。一休の母が南朝方の血をひいていると分かると、後小松天皇がどんなに深くその女性を愛していたとしても、いや深く愛していたればこそ余計に、宮中にいられなくなるようにされたのだ。こうして一休は、父の顔を知らず、父の名を口にしてはならない人間として、嵯峨の民家に生まれたのだ。

 将軍足利義満は統一された両朝が再び分裂することを恐れた。その原因になりそうなものはすべて排除されなくてはならないと考えた。このとき、最もその原因になりそうな存在がこの千菊丸だ。そして、6歳の年に寺に預けることでけりがついたのだ。京都・安国寺の長老、像外鑑公(しょうがいかんこう)の侍童となり、周建(しゅうけん)と名付けられた。この小僧時代のことを材料にして作られたのが『一休頓智咄(とんちばなし)』だ。恐らくほとんどが後世の創作だろうが、当時の周建に、そういう片鱗がなかったとはいえない。

13歳のとき周建は、東山の慕_(もてつ)禅師について漢詩をつくることを学んだ。そのころから彼は、毎日一首の詩を作ることを自分に課していた。これによって詩才は磨かれ、漢詩「長門春草」、15歳のとき作った漢詩「春衣宿花」は洛中の評判となり賞賛された。

 1410年(応永17年)17歳のとき、西金寺(さいこんじ)の謙翁宗為(けんのうそうい)の弟子となり、戒名を宗純と改めた。5年間みっちりと仕込まれたのだ。ある日、謙翁は「わしの知っている限りのことはお前に授けた。もはや教えるべきことは何もない。しかし、わしは師から悟ったという証明をしてもらっていないから、お前が悟ったという証明もしない」と周建にいった。謙翁の師は妙心寺の無因(むいん)禅師だ。無因禅師が謙翁の悟境を認めて印可しようとしたとき、謙翁は固く拒んで受けなかった。それに値しないと謙遜したのだ。こういうことは当時珍しいことだったので、周囲の人はこの人を謙翁(謙遜する翁)と呼んだのだ。この後まもなく謙翁は死んだ。周建がこの師を失ったことは大きな打撃だった。21歳の周建は石山観音に参籠し7日間、必死に祈った。だがどうにもならず、遂に彼は瀬田の唐橋から身を投げようとした。しかし、彼の身を案じた母が密かに見張らせていた下男が抱きとめて、この投身自殺は失敗に終わった。

 1415年(応永22年)、京都・大徳寺の高僧、華叟宗曇(かそうそうどん)の弟子となった。そして5年後の1420年(応永27年)のある夜、カラスの鳴き声を聞いて、俄かに大悟したという。華叟は印可状を与えようとしたが、一休は辞退した。華叟はばか者と笑いながら送り出したという。以後、一休宗純は退廃した仏教界の慣習を次々破り、戒律を無視して、肉食もすれば、女も抱く。名刹の住持になるよりも、一所不在-ある時は京にはほど遠く、ある時は山の奥深くに庵を結んで、定住はせず、詩・狂歌・書画と風狂の生活を送った。

 1474(文明6年)、後土御門天皇の勅命により大徳寺の第47代住持に任ぜられ、寺には住まなかったが、再興に尽力した。塔頭の真珠庵は一休を開祖として創建された。自由奔放で奇行が多かった。1481年、一休宗純は88年の生涯を、酬恩庵(通称「一休寺」、京都府京田辺市)で閉じた。
 一休宗純が遺した言葉に、「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」(狂雲集)などがある。

(参考資料)紀野一義「名僧列伝」、水上勉「一休」、司馬遼太郎・ドナルド・キーン対談「日本人と日本文化」

大久保利通・・・近代日本が生んだ第一級の政治家で日本の官僚政治の始祖

 大久保利通は、近代日本が生んだ第一級の政治家だ。周知の通り、西郷隆盛、木戸孝允と並び称される「明治維新三傑」の一人だが、日本の官僚政治の始祖といっていいかも知れない。冷徹な計画性、着実な行動力、感情におぼれることのない理性など、官僚政治家に求められる資質を備えた第一級の人物だったことは間違いない。大久保の生没年は1830(天保元)~1878年(明治11年)。

大久保は明治政府にあって、近代国家日本の基礎を、ほぼ独力で創始した。期間にしてわずか11年。厳密には」欧米列強への歴訪を終えて帰国した1873年(明治6年)から、紀尾井坂で暗殺される1878年(明治11年)までの5年ほどの間に、「富国強兵」「殖産興業」の二大スローガンに代表される、日本の方向、性格を決定づけたといっても過言ではない。

 大久保は「内務省」を創設し、一部エリートによる独裁をもって、日本の国力を短時日に欧米列強へ追い付かせるというプロジェクトを策定した。そのために、「薩長に非ずんば人に非ず」とまでいわれた藩閥政治の時代にあっても、非藩閥出の人々も含め、実に効率よく適材適所にあてはめている。それが様々な問題点を抱える人物であっても、明治国家にとって必要な人材と判断すれば、あえて火中の栗を拾うように、その人物を庇い同僚の参議たちに頭を下げた。 
  
黒田清隆や山県有朋らはその好例だ。黒田清隆は戊辰戦争において五稜郭攻めの司令官を務め、敵将の榎本武揚、大鳥圭介らを降伏させ、後に助命嘆願を周旋。しかも、彼らを政府に出仕させる離れ業までやってのけた。だが、黒田には一定量を超すと人が変わり、何をしでかすか分からない、恐ろしいぐらいの酒乱癖があった。

山県有朋は幕末の長州藩に、しかも奇兵隊に参加していなければ、恐らく歴史に名をとどめることはなかったろうと思える程度の人物だった。それが、藩内の動乱期(長州征伐)、高杉晋作、大村益次郎という天才軍略家を相次いで担ぎ、その下で着実に地歩を築き、明治以後、長州藩の恩恵でいきなり陸軍中将となったのだ。大村が暗殺され、山県には大村がやり残したことを仕上げる役割が残された。しかし、山県への風当たりは強く、金銭に汚いとの個人的悪評も重なって、味方であるはずの長州藩の木戸孝允からも嫌われた。そんな“奸物”、権謀術数をもっぱらとした山県を、大久保は重用した。

薩長閥出身者はいずれもひと癖もふた癖もあり、性格的にも問題のある人物が少なくなかった。一方、非藩閥出の人々は逆に、優秀で実直な人物が数多あったが、彼らにはその力量を発揮すべきポストが与えられにくかった。

 能力第一主義。大久保は欠点に優る長所があれば、多少のリスクを犯してもそうした欠陥人間をも登用、抜擢して用いる、そんな割り切り方をした。盟友の西郷隆盛は、大久保のこのやり方を不愉快に思い、木戸孝允は声を荒げて非難した。だが大久保は、西郷や木戸にもなんら抗弁もせず、そのやり方を変えることはなかった。

 大久保は1878年(明治11年)、紀尾井坂で西郷崇拝の加賀の青年、島田一郎・長連豪・脇田巧一らに暗殺され非業の死を遂げた。大久保はぜいたくな生活をしていたので、御用商人などから収賄して、ずいぶん巨額な財産を残しているだろうと思っている人が多かった。しかし、死後、遺産整理してみると現金わずかに数百円、借財が8000円余もあった。そして、その貸主は全部、知己・朋友で、癒着していると思われた富豪・御用商人などは一人もいなかったという。大久保が登用した人物には金銭的に随分、富豪・御用商人との癒着が指摘された者も少なくなかったが、自身は間違いなく清廉潔白の人だったのだ。

 大久保は薩摩国鹿児島城下高麗町(現在の鹿児島市高麗町)で、琉球館附役の薩摩藩士、大久保次右衛門利世と皆吉鳳徳の次女ふくの長男として生まれた。幼名は正袈裟(しょうけさ)、のち正助、一蔵。一蔵がよく知られている。家格は御小姓組と呼ばれる最下級武士。幼少期に大久保一家は甲突川を隔てた下加治屋町に移り住んだ。ここは島津家の下級武士の住む町で、70軒ぐらいの戸数だったが、ここから西郷隆盛・従道兄弟、日露戦争のときの陸軍の大山巖、海軍の東郷平八郎など、明治を飾る偉人が多く輩出したことで有名な町だ。

(参考資料))海音寺潮五郎「西郷と大久保」、海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち」松永義弘「大久保利通」、奈良本辰也「男たちの明治維新」、加来耕三「日本創始者列伝」、「翔ぶが如く」と西郷隆盛 目でみる日本史(文芸春秋編)、安部龍太郎「血の日本史」

織田信長・・・情報収集力・活用力に長けた、徹底した合理主義者

 織田信長は戦国時代、群雄が割拠する中で、いち早く“天下布武”のスローガンを掲げて天下統一を目指した武将だ。そして、安土に壮大な居城を築き上げ、天下取りを目前にしたとき、彼は天皇より上位に立とうとし、遂には「余が神である」といい、神に成ろうとした戦国時代では稀有な人物だ。日本人離れした、近代精神を兼ね備えた思考と行動で、まさに時代を駆け抜けた英雄・信長。そうした思考と行動はどこから生まれたのか?

 結論を先に言えば、信長は情報収集力・活用力に長けた、神仏も来世も信じない徹底的な合理主義者だった。このことが彼を天下人に押し上げた最大の要因だ。情報は、常日頃からスピードと正確さを備えた伝達回路を持っていなければ、いざというとき役に立たない。そのため、信長は同時代を生きた諸国の大名や武将とは、かなり異なった動き方をする。

例えば敵地を偵察させる場合、個人に物見に行かせるのではなく、麾下の武将に一軍を率いて敵地に強行侵入させ、状況を直接、肉眼で観察させるのだ。これだと敵陣深く潜行するため、キャッチする情報が正確だ。当然情報量も多い。とりわけ信長は迅速を尊んだ。織田家の武将たちは、こうした信長の情報戦略の中で鍛えられていた。

 その結果、織田軍団は上から下まで、情報の重要性を十分に認識することができ、トップへの情報伝達は全くといっていいほど疎漏がなかった。ちょっと信じ難いことだが、時には信長にとって聞きたくないようなことまでも、織田家ではいち早く伝える家風ができ上がっていたという。織田家の中核を担う情報・伝達将校の“母衣衆”は、そのための専門職でもあり、その選定にあたっては、私的な利害得失に拘泥しない、諫言・論争も辞さない人材が登用されている。後に加賀百万石を領した前田利家は、二つあった母衣の一方、赤母衣衆の筆頭を務めた人物だった。

 信長が、あの有名な桶狭間の合戦に勝利し得たのも、奇跡でもなければ、幸運が重なっただけのものでもない。敵将・今川義元が何処にいるかを、いち早く、的確にキャッチし得た、常日頃の情報管理があったからこそ成し得たのだ。

また、信長の生涯における最大の危機ともいえた金ヶ森の退却戦=第一次朝倉征討において、義弟・浅井長政の裏切りに遭い、九死に一生を得たのも、凶報の情報伝達の早さ、正確さと、それに機敏に反応した信長であればこそ、無事生還できたのだ。これらの要素の一つでも欠けていたら、朝倉・浅井連合軍の挟み撃ちに遭い、織田軍団は少なくとも壊滅的な打撃を受けていただろう。

 もっといえば、武田信玄や上杉謙信の死を他に先んじて確信できたのも、信長なればこその情報収集力・活用力だった。当時の戦国大名の多くは、格上の信玄や謙信の動向を恐れ、見えない影に怯えていた。

 信長は宗教が幅を利かせる「中世」の徹底的否定者だった。彼が青年期、父・信秀の葬儀に異様な風体をして現れ、仏前に抹香を投げつけたのも、後年、天下統一の邪魔をする宗教的権威・比叡山を焼き討ちにし、一向一揆で多くの門徒を殺したのも、近代という時代が中世的、宗教的権威の完全な否定の上にしか、築かれないことを示そうとしたのではないか。

(参考資料)今谷明「信長と天皇」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、井沢元彦「逆説の日本史」、加来耕三「日本創始者列伝」、海音寺潮五郎「武将列伝」、梅原猛「百人一語」、津本陽「創神 織田信長」、安部龍太郎「血の日本史」、司馬遼太郎「覇王の家」、司馬遼太郎「この国のかたち 一」、童門冬二「織田信長の人間学」

笠原良策・・・幕末、私財を投げ打ち種痘を成功させ、天然痘予防に尽力

 笠原良策は蘭方医学に通じ、福井・越前藩の町医ながら、8世紀に日本に侵入し、恐るべき感染力で大流行を繰り返し、おびただしい人命を奪った日本の天然痘予防に尽力、医業も私財も投げ打っての苦闘のすえ、種痘を成功させた人物だ。良策の生没年は1809(文化6)~1880(明治13年)。

 笠原良策は福井の医師、笠原竜斉の子として生まれた。名を良、字を子馬、後に白翁と号した。15歳で福井藩医学所済世館に入り、漢方を学んだ。20歳で江戸に出て磯野公道について古医方を学び、23歳のとき福井に戻って開業した。27歳のとき山中温泉で大武了玄という蘭方医と知り合い、啓発を受けて蘭方への志を絶ち難く、京都の大蘭方医と称されていた日野鼎哉(ひのほうさい)の門を叩いて入門を許された。良策の勉学ぶりは真剣そのもので、たちまち頭角を現した。

 ところで1796年、イギリスのジェンナーは牛も天然痘にかかり、人間にもうつるが、症状が軽く発病しないうえに、一度かかると一生、天然痘にかからないことに注目し、種痘に成功した。そこで、日野鼎哉、笠原良策の師弟は日本にも種痘を普及させねばならないと一念発起した。しかし、これが日本に伝わり、天然痘の予防法として広まるには笠原良策らの、長期にわたる献身的な努力が必要だった。

 まず第一の難関が痘苗(とうびょう)の入手だ。長崎で種痘が成功を収めていることを知った良策は、1849年オランダ人の医師オットー・モーニッケがもたらした、液状の痘苗を入手した。福井越前藩の名君の誉れ高い松平春嶽に、鎖国下の日本にあって牛痘病の輸入を嘆願してからすでに3年の歳月が流れていた。それは医業も私財も投げ打っての苦闘の連続だった。まず液状の牛痘病で失敗した良策は、次に保存性の高い牛痘のかさぶたを使うと、今度は見事に登痘させることに成功した。そこで彼は日野鼎哉らの協力で、京都に種痘所を設けた。1849年9月ごろのことだ。

 京都で100人以上の子供に種痘を済ませたころ、その噂を耳にした名医の緒方洪庵も大坂に種痘を広めるために良策のもとを訪れている。しかし、京都で成功を収めた種痘も、福井では簡単に広まらなかった。同年11月いよいよ福井へ伝苗する。だが、障害は多い。それは未知のものだけに、痘苗を植え付ける恐怖がどうしても先に立つなど、多くの困難が立ちはだかったからだ。それでも良策らは伝苗にあたり、より確実な人から人へ植え継ぐ方法をとった。

 当時の医術では痘苗の保存は一週間が限界で、種痘を施した子供の腕に発痘がみられると、滲み出る膿を採って新たな痘苗とし、一週間以内に他の子供に植え付けるという作業を繰り返さなければならなかった。良策は京都から福井までの旅程一週間を考慮し、京から二人、福井から二人の幼児を雇い、未知の種痘に怯える幼児の両親を含め、総勢14名で京都を発った。

 季節は11月、積雪がないと異常気象とされる山岳地帯を、女子供を連れての旅は困難を極めた。京都→大津→草津→米原と経由し、そこで京童から福井童への種痘が行われた。このときも子供の両親が未知と天然痘への恐怖から説得に難渋したこともあったが、何とか種痘は行われた。役目を終えた京童とその両親はここで引き返した。ここからは山岳地帯を越えての福井入りだったが、ただでさえ雪深い栃ノ木峠が当時は六尺(2・)もの積雪があり、これに加え猛吹雪が一行を襲い、遂に日没を迎え遭難寸前のところへ追い込まれた。

しかし、事前に連絡を受けていた虎杖(現在の板取)の村落の人々が良策一行を心配し迎えにきていたため、危ういところを救出された。虎杖で一夜を過ごし、翌朝村を発ち、その日のうちに今庄へ着き、路上で計画通り府中(現在の武生市→越前市)の斎藤策順、生駒耕雲、渡辺静庵の三人の医師の子供たちに種痘を施した。京都を発って七日目、こうして良策の決死の雪中行は終わった。安政2年、藩医学所済世館の東に除痘館が併置された。

 良策はその後、嘉永6年までに6595人に種痘をし、その中で天然痘に感染したのは三国港の小役人鷲田楢右衛門の子供一人のみで、他は一人残らず感染から免れた。良策がもたらした種痘はその後、各地へ広がっていった。鯖江藩、大野藩、そして加賀藩金沢、富山、敦賀、勝山、丸岡、金津、三国などへも福井から分苗され、多くの人命を救った。

(参考資料)吉村昭「雪の花」、吉村昭「日本医家伝」

空海・・・密教に独創的な教理体系をもたらし、完成の域まで高めた天才

 弘法大師空海は日本仏教史および文化史の上に偉大な足跡を残している。空海の意図した宗教的世界は、周知の通り真言密教と呼ばれる。密教はインドに発したもので、実に難解な内容を持つが、東洋の仏教思想史上、その密教に独創的な教理体系をもたらし、完成の域にまで高めたのが空海だ。

 真言宗の開祖・空海は讃岐国多度郡屏風ヶ浦(現在の香川県善通寺市)で、父佐伯直田公(さえきのあたいたきみ)、母阿刀大足(あとのおおたり)の娘(または妹)の三男として生まれた。幼名は眞魚(まお)。俗名は佐伯眞魚(さえきのまお)。生没年は774(宝亀5)~835年(承和2年)。能書家としても知られ、嵯峨天皇、橘逸勢とともに三筆の一人に数えられる。

789年(延暦8年)、15歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師だった母方の舅の阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学んだ。792年(延暦11年)18歳で京の大学寮に入った。ところが、大学に入って一年後のことか、三年後のことか、時期ははっきりしないが、空海は突如として現世的栄達に背を向け、大学からも去って、山林修行に邁進し始めるのだ。

 そして、804年(延暦23年)正規の遣唐使の留学僧(留学期間20年の予定)として唐に渡る直前まで、御厨人窟(みくろど、高知県室戸市)、吉野の金峰山や四国の石鎚山などで山林修行に明け暮れたといわれる。ただ、この修行時代の詳細も、入唐直前まで私度僧だった空海が突然、留学僧として浮上する過程も、今日なお謎を残している。
 ただ、後の空海の行動や成し遂げた事績から推察すると、彼はいわばこの空白の期間に、諸経典のみならず南都六宗の教義、とりわけ密教につながる華厳教学に関してほぼ通暁するまでになっていたと思われる。また中国語やサンスクリットを修得したのもこの期間だったのではないか。さらに、空海を密教へ導いた密教の根本経典『大日経』との出会いもこの期間のことのようだ。

 いずれにしても、20数年ぶりに派遣される第16次遣唐使の一員、留学生(るがくしょう)として空海は渡航することになった。この遣唐使船(4艘で編成)には最澄が桓武天皇の信任を受け、留学生より格上の還学生(げんがくしょう)として、短期間滞在して天台教学を究めるため乗り込んでいた。

 空海の真の目的は真言密教を投網で打つように体系ぐるみ日本にもたらすところにあったが、このことは官に明かしていなかった。真言密教を体系ぐるみ導入するというのはひらたく言えば買ってくることなのだ。
 長安の諸寺を周遊した後、空海は青龍寺の恵果(けいか)と巡り合い、遂に正師と仰ぐべき名僧と確信。一方、恵果も空海の来訪を大歓迎したといわれる。中国密教の第一人者が、異国の僧をたった一度引見しただけで、たちまちその器を見抜き、空海を恵果自身が感得した正統密教の継承者として意識したのだ。このとき恵果は60歳で、健康に衰えがみえ、そろそろ後継者を選ばなければならない時期に直面していた。だが、弟子は1000人余いたものの、期待を託すに足る者といえば義明(ぎみょう)という弟子一人しか見当たらず、しかもその義明は病身だった。そんなところへ、思いがけず空海という大器があらわれたのだ。それは恵果にとっても、空海にとっても、ともに大きな幸運だった。

 恵果は空海が入門してほどなく、胎蔵界の学法灌頂(かんじょう)、金剛界の灌頂を授け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えた。さらに恵果は、まだ愛弟子の義明にも許したことのない伝法阿闍梨位の灌頂を遂に空海に授けた。こうして恵果から空海への伝法はここに成就したわけだ。

 留学生は20年の滞留を義務付けられているが、空海はこの1年余の間に目的のほとんどを達した。師恵果からも一日も早く故国に帰り、国のため万民のため密教を伝える算段をせよ-といわれている。空海という比類ない天才は、官から頂戴していた20年留学という分だけの砂金を、2年に短縮すれば集中的に大量に使うことができると判断したことだ。そして、空海の奇跡は一介の留学生にしてそれをやってのけたことだ。むろん、買って済むわけではなく、それらを理解しなければならないが、この点で空海の天才性はいうまでもない

 空海は、新訳などの経すべて142部247巻、梵字真言讃などすべて42部44巻、論疏章などすべて32部170巻、以上合計216部461巻に及ぶ経典、仏典を筆写、蒐集して持ち帰った。ほかに仏・菩薩・金剛天などの像、法曼荼羅、三昧耶曼荼羅、そして仏具・道具類などもあった。このために空海は大勢の写経生を雇い入れ、それはあたかも写経工場のようなものだったはずだし、仏像の制作に至っては多種類の工場を、一時的ながら空海は稼働させたことになったはずだ。金属製の仏具を改めて鋳造・彫金しなければならないから、空海が雇った仏師や画工は、下働きを含めて数百人といった規模になったのではないかとみられる。

 真言密教を体系ぐるみ持ち帰った空海を世の人々が注目するようになり、彼 が最澄とともに平安仏教界を指導する双璧となったのは812年(弘仁3年)、高 雄山寺における灌頂がきっかけだった。空海は嵯峨天皇に度々、そのひとつ一 つに心を込めた文章を付した贈り物をした。また同時並行して最澄との交渉も 頻繁に持った。これは主に書簡を介してのものだが、最澄の方が積極的だった ようだ。
これは遣唐使として入唐した際、中国ではすでに天台教学が斜陽化しつつあ り、密教が最新の仏教として脚光を浴びている状況だったのに、天台教学や禅を学んだ後、最澄が密教の典籍・法具などを伝承するとともに、金剛界・胎蔵界の灌頂を受けるなど、密教の資料収集や研修に時間を割けたのはわずか1カ月余に過ぎなかったからだ。いわば天台教学研鑽の片手間に密教を学んだに過ぎないという自覚を最澄が持っていたのだ。それだけに、密教をより深く体系的に修めた空海に、後輩であっても教えを乞う態度を取ったのだ。
 しかし、良好だった最澄と空海との交友関係にも徐々に亀裂が生まれ、最澄 の高弟、泰範問題によって、その溝が決定的に拡大、事実上断絶状態となった。 空海は816年(弘仁7年)、朝廷に上奏文を提出し、紀州高野山を密教修行の道 場として賜りたいと願い出た。そして819年(弘仁10年)、空海が作成した設 計プランに基づき、いよいよ堂塔伽藍の建設が始められた。
(参考資料)司馬遼太郎「空海の風景」、司馬遼太郎「街道をゆく33」、百瀬明治「開祖物語」、八尋舜右「空海」、渡辺照宏・宮坂宥勝「沙門空海」、稲垣真美「空海」、司馬遼太郎・ドナルド・キーン対談「日本人と日本文化」

近藤勇・・・ 粘り強く転戦した土方のしたたかさに比べ、潔さが際立つ最期

 近藤勇は農民の子として生まれながら、剣の道を究め天然理心流剣術宗家四代目を継承。幕末、新選組局長、そして甲陽鎮撫隊隊長を務めるまでに出世した近藤には、策謀家と潔さとの両面の“顔”が垣間見られる。果たしてどちらが近藤の実像に近いのだろうか。近藤の生没年は1834(天保5)~1868年(慶応4年)。

 近藤勇昌宜(こんどういさみまさよし)は、農民、宮川久次郎の三男として武州多摩郡上石原村(現在の東京都調布市野水)で生まれた。幼名は勝五郎、のち勝太。慶応4年から大久保剛、のち大久保大和(おおくぼやまと)と名乗った。末っ子だったため父、久次郎の愛を一身に受けて育った。父から「三国志」「水滸伝」などの英雄伝を読み聞かせてもらい、これらを通して勝五郎は忠孝の思想的観念を、幼い胸の中に芽生えさせていったとみられる。

宮川勝五郎は1848年(嘉永元年)、兄二人とともに近藤周助の天然理心流道場・試衛館に入門した。15歳のときのことだ。彼は一番年少にもかかわらず、けいこには一番熱心だった。入門後8カ月で近藤周助より天然理心流の目録が与えられた。それだけ、周助も勝五郎の剣の素質の素晴らしさに、密かに目をつけていたのだ。

 剣の素質を見込まれた勝五郎は、まず周助の実家の島崎家に養子に入り島崎勝太と名乗り、後に正式に近藤家と養子縁組し島崎勇、そして後の近藤勇を名乗った。1861年(万延2年)、府中六所宮にて天然理心流剣術宗家四代目襲名披露の野試合を行い、晴れて流派の一門の宗家を継ぎ、その重責を担うことになった。

 江戸幕府は1863年(文久3年)、清河八郎の献策を容れ、第十四代将軍家茂の上洛の警護をする浪士組織「浪士組」への参加者を募った。このとき近藤勇は土方歳三、沖田総司、山南敬助、井上源三郎、藤堂平助ら試衛館のメンバーを伴って、これに参加することを決め上洛した。朝廷に建白書を提出し、浪士組の江戸帰還を提案した清河に、異議を唱えた近藤や水戸郷士の芹沢鴨ら24人は京に残留。京都守護職・会津藩主松平容保に嘆願書を提出し、京都守護職配下で「壬生浪士組」と名乗り、活動を開始した。後の新選組の原点だ。

 その後、近藤派、芹沢派の二派閥体制となった浪士組だが、「八月十八日の政変」(1863年)が起こり、その警護にあたった浪士組の働きぶりが認められて、武家伝奏により「新選組(新撰組)」の隊名を下賜された。その後、芹沢鴨の一派が暗殺されると、近藤勇主導の新体制が構築された。芹沢鴨一派の暗殺事件では、近藤が直接手を下すというより、近藤の意を受けた副長の土方以下が指揮し、実行部隊となったとみられる。この後、新選組は近藤を局長として好感しない隊士には“血の粛清”が繰り返し行われ、結束を強固なものとしていった。そして京では池田屋事件をはじめ、西南雄藩藩士の勤皇志士たちの倒幕的な活動に対する取り締まり役として、「新選組」は“勇名”を馳せ、怖れられた。

 負傷療養中の近藤に代わって副長の土方歳三が率いて戦った、「鳥羽・伏見の戦い」で敗れた新選組は、幕府軍艦で江戸へ戻った。幕府の命を受け、大久保剛と改名した近藤は、甲陽鎮撫隊として隊を再編し、甲府へ出陣した。だが、甲州勝沼の戦いで新政府軍に敗れて敗走。その際、意見の対立から永倉新八、原田左之助らが離別した。

その後、近藤は大久保大和と再度名を改め、旧幕府歩兵らを五兵衛新田(現在の東京都足立区綾瀬四丁目)で募集し、下総国流山(現在の千葉県流山市)に屯集するが、香川敬三率いる新政府軍に包囲され、越谷(現在の埼玉県越谷市)の新政府軍の本営に出頭する。しかし、大久保を近藤と知る者が新政府軍側におり、そのため総督府が置かれた板橋宿まで連行され捕縛された。その後、土佐藩と薩摩藩との間で、近藤の処遇をめぐり対立が生じたが、結局、板橋刑場(現在の東京都板橋区板橋および北区滝野川付近)で斬首された。あっけない死だった。

近藤とは立場が違うが、各地の戊辰戦争を戦い抜き、幕臣として榎本武揚らと函館・五稜郭まで粘り強く転戦した土方歳三の生きざまとはっきり異なる。農民の出ながら、武士としての階段を昇り、一定の役職に就いた者と、そうでなかった者との違いなのか、死に臨んで近藤にはしたたかさより、数段、潔さが勝ったようだ。

(参考資料)司馬遼太郎「燃えよ剣」、奈良本辰也「幕末維新の志士読本」

葛飾北斎・・・西欧印象派画壇の芸術家に影響与えた希代の浮世絵師

 葛飾北斎は江戸時代に活躍した浮世絵師で、とりわけ後期、文化・文政期を代表する一人。森羅万象、何でも描き生涯に3万点を超える作品を発表。版画のほか、肉筆画にも傑出していた。さらに読本、挿絵芸術に新機軸を見い出し、「北斎漫画」をはじめとする絵本を多数発表した。葛飾派の祖となり、後にはゴッホなど西欧の印象派画壇の芸術家をはじめ、工芸家や音楽家にも影響を与えた、世界的にも著名な画家だ。代表作に「富嶽三十六景」「北斎漫画」などがある。

 北斎は武蔵国・葛飾郡本所割下水(現在の東京都墨田区の一角)で、貧しい百姓の子として生まれた。幼名は時太郎。後に鉄蔵と称した。生没年は1760~1849年。小さい頃から頭が良く、手先の器用な子で、初め貸本屋の小僧になり、14、15歳の時、版木彫りの徒弟に住み込んだが、そんな閲歴が絵や文章に親しむきっかけとなったと思われる。

 北斎は1778年、浮世絵師、勝川春章の門下となる。狩野派や唐絵、西洋画などあらゆる画法を学び、名所絵(浮世絵風景画)を多く手掛けた。しかし1779年、真相は不明だが、勝川派を破門されている。ただ、貧乏生活と闘いながら一心不乱に画業の修練に励んだお陰で、寛政の初年ごろから山東京伝、滝沢馬琴らの作品に挿絵を依頼されるようになった。

 北斎を語るとき忘れてはならないのが、改号と転居(引越し)の多さだ。彼は頻繁に改号し、その回数は生涯で30回に上った。「勝川春朗」「勝春朗」「郡馬亭」「魚仏」「菱川宗理」「辰斎」「辰政」「雷震」「雷斗」「戴斗」「錦袋舎」「画狂人」「画狂老人」「卍老人」「白山人」など数え上げたらきりがない。現在広く知られている「北斎」は当初名乗っていた「北斎辰政」の略称。

 転居の多さもまた有名で、生涯で93回に上った。1日に3回引っ越したこともあるという。これは北斎自身と、離縁して父・北斎のもとにあった出戻り娘のお栄(葛飾応為=かつしか・おうい)が、絵を描くことのみに集中し、部屋が荒れたり汚れたりするたびに、掃除するのが面倒くさい、借金取りの目をくらます、家賃を踏み倒すなどのため引っ越していたからだ。改号もカネに困り、画号を門弟に売りつけた結果、いやでも変えざるを得なかったわけだ。

 カネ欲しさに大事な画号を門弟連中に押し売りしたりすれば、後世、拙作、真作が混在し、巨匠北斎の栄誉にマイナスに働きはしないかなどと考えるのは、彼の画業を芸術視している現代人の考え方だ。アカデミックな立場にある公儀御用絵師はともかく、浮世絵描きの町絵師など、世間も芸術家とは見ていなかった。先生、師匠と呼びはしても読み捨ての黄表紙同様、浮世絵も消耗品の一種と見ていたのだ。だから、北斎自身もごくリアルに、当面のカネの算段が最優先だったわけだ。「富嶽三十六景」のような代表傑作を生み出した原動力も、例えば新人の安藤広重が彗星の如く現われて、センチメンタルなあの独特の抒情で、めきめき評判を高めだしたのに刺激され、若い広重に負けてたまるか-という敵がい心、競争意識をバックボーンに、猛烈にハッスルした結果なのだ。

 北斎は結婚は二度している。ただ、二度とも妻の名は分からない。初めの妻との間に一男二女、後妻に一男一女を産ませたから、5人の子持ちということになる。二人の妻とは死別か離別か、それも不明だ。90年にわたる生涯で、52、53歳頃から独り身を通し、女は同居していた娘のお栄のほか、いっさい近づけなかった。
(参考資料)杉本苑子「風狂の絵師 北斎」、梅原猛「百人一語」

空也・・・念仏を唱え続けた民間の浄土教の先駆者 「念仏聖」の先駆

 空也は平安時代中期の僧で、天台宗空也派の祖。乞食しつつ諸国を巡り、道を拓き橋を架け、盛んに口称念仏(称名念仏=しょうみょうねんぶつ)を勧め、市聖(いちのひじり)、阿弥陀聖(あみだひじり)、市上人(いちのしょうにん)などと称された。民間における浄土教の先駆者と評価されている。

彼の活動は貴族からも注目された。ただ、踊念仏、六斎念仏の開祖とも仰がれるが、空也自身がいわゆる踊念仏を修したことを示す史料はない。空也の門弟は高野聖など中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆となり、鎌倉時代の一遍に多大な影響を与えた。

 詳細は分からないが、空也は尾張国(現在の愛知県)で生まれたとみられる。法号は空也・光勝(こうしょう)。空也の生没年は903(延喜3)~972年(天禄3年)。『空也誄(るい)』や慶滋保胤の『日本往生極楽記』などの史料によると、空也は醍醐天皇の皇子とも、仁明天皇の皇子・常康親王の子とも伝えられているが、無論、彼自身が自らの出生を語ることはなく、真偽は不明だ。

 922年ごろ尾張国の国分寺にて出家し、空也と名乗った。若い頃から在俗の修行者、優婆塞として諸国を巡り、「南無阿弥陀仏」の名号を唱えながら、道路・橋・寺などを造り、井戸を掘るなど様々な社会事業を行い、貴賎を問わず幅広い帰依者を得た。絶えず南無阿弥陀仏の名号を唱えていたので、俗に阿弥陀聖とも呼ばれた。

 938年(天慶1年)、京都へ入って浄土往生の念仏を勧めるとともに、街中を遊行して乞食(こつじき)し、布施を得れば貧者や病人に施したと伝えられる。948年(天暦2年)、比叡山で天台座主・延昌(えんしょう)のもとで得度、受戒し「光勝」の法号を受けた。ただ、空也は生涯、超宗派的立場を保っており、天台宗よりも、奈良仏教界、とくに思想的には三論宗との関わりが強いという説もある。

 950年(天暦4年)から金字大般若経の書写を行い、人々から浄財を集めて951年(天暦5年)、十一面観音像ほか諸像(梵天・帝釈天像、および四天王のうち一躯を除き、六波羅蜜寺に現存)を造立した。963年、鴨川の岸で大々的に供養会を行い、これらを通して藤原実頼ら貴族との関係も深めた。東山・西光寺(現在の六波羅蜜寺)で70年の生涯を閉じた。空也の彫像は六波羅蜜寺が所蔵する立像(運慶の四男、康勝の作)が有名。

 平安時代以降、貴賎を問わず、老若男女が念仏を唱えるようになったのは、空也のお陰だといわれる。また、東北地方を遊行して仏教を広めた功績は、この辺境の人々に長く記憶された
 諸悪に満ちたこの世を嫌って、美しく、楽しい「あの世」を求める浄土教の祖師たちは、理論家の法然を除いて、源信、親鸞、一遍などいずれも詩人の心を持ち、すばらしい偈(げ)や和讃を残している。中でも、とりわけすばらしい詩心の持ち主は、彼らの先駆者だった空也だと思われる。空也の言葉はあまり残っていないが、わずかに『一遍上人語録』などに断片的に残っている。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、井沢元彦「逆説の日本史・中世神風編」

河井継之助・・・幕末の越後長岡藩執政となり、激烈な北越戦争を指導

 河井継之助は幕末、越後長岡藩の120石取りの藩士から、同藩の上席家老へ異例の出世を遂げ、“藩の舵取り”役となり藩政改革を断行した。そして、西南雄藩も目を見張るほどの近代武装を成し遂げ、新政府軍との戊辰戦争では長岡藩の軍事総督を務めた。当初、戊辰戦争では中立を唱えたが、新政府軍に受け入れられず、結局これと激戦。悲運の最期を遂げた。生没年は1827~1868年。

 河井継之助は長岡城下同心町で沙門良寛とも親交のあった勘定頭・河井代右衛門秋紀の長男に生まれた。字は秋義、蒼龍窟(そうりゅうくつ)と号した。生来意志が強く、長じて剣を鬼頭六左衛門に、文学を藩儒山田愛之助らに学んだ。18653年(嘉永6年)、江戸に遊学し、斎藤拙堂の門に学び、次いで古賀茶渓(さけい)の久敬舎に入り、一時、佐久間象山にも師事して海外の事情を学んだ。翌年、勘定方随役に抜擢されたが上司と合わず、まもなく辞し、再度、家を出た。

継之助は、1859年(安政6年)、備中松山藩(現在の岡山県)の山田方谷(ほうこく)に学び、長崎に遊んで見聞を広め、翌年帰国した。1865年(慶応1年)、外様吟味役、そして郡奉行、町奉行も兼務。さらに年寄役に累進。この前後、藩政の大改革を断行した。1868年(慶応4年)上席家老となり、当時の日本においては最新の銃器類を入手して防備を固め、軍事総督として戊辰戦争における“武装中立策”を推進した。

だが新政府軍がこれを認めないため、これと激戦を展開した。継之助は巧みな戦術で敵を惑わせ、いったんは敵の手に落ちた長岡城を奇襲で奪還。しかし、圧倒的な敵の兵力には勝てず敗走、再度の落城で継之助率いる長岡軍は会津へ向かう。だが途中、塩沢村(現在の福島県只見町)で彼は悲運の最期を遂げたのだ。

 河井継之助はいま見た通り、明治維新の内乱のうち地方戦争と見られがちな北越戦争の、それも敗者になった側の越後長岡藩の執政で、おまけに中途戦死して、後世への功績というべきものは残していない人物だ。しかし、維新史好きの人の間では、北越戦争が維新の内乱中、最も激烈な戦争だったこととともに、その激烈さを事実上一人で引き起こした河井継之助の名はよく知られていた。畏怖、畏敬の念も持たれてきた。

 継之助が藩政を担当した時には、皮肉にも京都で十五代将軍慶喜が政権を朝廷に返上してしまった後だった。このため慌しく藩政改革をした後、彼の能力は恐らく彼自身が年少のころ思ってもいなかった、戦争の指導に集中せざるを得なかった。ここで官軍に降伏すれば藩が保たれ、それによって彼の政治的理想を遂げることができたかも知れない。だが、継之助はそれを選ばず、ためらいもなく正義を選んだ。司馬遼太郎氏が「峠」のあとがきに記している言葉だ。

 河井継之助は徹底した実利主義者だった。物事の見方は鋭く、すぐに本質を見抜いた。また彼は大変な開明論者で幕末、士農工商制度の崩壊や、薩摩と長州らによって新政権が樹立されるであろうことを予測していたという。さらには度を超えた自信家で、本来なら継之助の家柄では家老などの上級職になれなかったが、彼は「ゆくゆくは自分が家老職になるしかない」と周囲に言い触らしていた。そして、その宣言通り長岡藩の命運を担い、その舵取りを務め“義”の戦いを展開し、潔く散った。

(参考資料)司馬遼太郎「峠」、奈良本辰也「不惜身命」

陸 羯南・・・“硬派”の新聞『日本』を主宰した明治の代表的言論人

 陸羯南(くがかつなん)は新聞『日本』の社主兼主筆を務めた明治時代の代表的言論人だ。『日本』は、陸羯南が刊行の辞で「新聞は政権を争う機関にもあらず、私利を射る商品にもあらず、博愛の下に国民精神の回復を発揚する…」と述べている通り、議論一点張り、ニュースも政治教育方面のものが主体で、三面記事は一切、掲載しなかった。振り仮名抜きの漢文体という“硬派”の新聞だ。印刷用にはフランスからマリノニ式輪転機を入れ、写真を初めて取り入れた、熱情あふれた紙面は青年の血を沸かし、神田の下宿屋では、この新聞を取るのを誇りとしたという。

 ただ、この『日本』は部数5000部(最大時2万部)と少なかったこと、また政治教育方面のニュースを大胆に斬るスタイルだったため、発行停止となることが極めて多く、経営は困難を極めた。ちなみに、黒田清隆内閣のときは3回・31日間、山県有朋内閣のときは2回・32日間、第一次松方正義内閣のときは2回・29日間、第二次伊藤博文内閣のときは実に22回・131日間、第二次松方正義内閣のときは1回・7日間の発行停止を食っているのだ。これでは経営難に陥るのも無理はない。しかし、陸羯南がやり遂げたことは「男子一生の仕事」と呼ぶにふさわしいものだった。

 陸羯南は津軽・弘前藩藩医で近侍茶道役を務めた中田謙斎の長男として生まれた。本名は実(みのる)。「羯南」を生涯の号とした。妻てつとの間に一男七女をもうけた。漢学者の鈴木虎雄は娘婿。陸の生没年は1857(安政4)~1907年(明治40年)。

 陸(現実にはこのころは「中田」姓)は15歳ごろから工藤他山の漢学塾に通うようになり、その後、漢学、英学両方の教えを受けた郷里の東奥義塾を経て、宮城師範学校に入学するが、薩摩出身の校長の横暴に抗議、退校処分となった。そこで上京して司法省法学校に入学。ここでも賄征伐事件に関連して、校長の態度に反発し、退学した。このとき共に退学した同窓生に原敬、福本日南、加藤拓川、国分青涯らがいる。このころ、親戚の陸家を再興し、これまでの中田から「陸」姓となった。これには徴兵逃れの措置という説と、唐の詩人・陸宣公に倣ったという説がある。

 青森新聞社などを経て北海道に渡った後、再度上京し、フランス語が堪能だったことから、太政官文書局書記局員となった。ここで井上毅、高橋健三らと知り合った。1885年(明治18年)には内閣官報局編集課課長となった。また、このときフランスの保守主義者ジョゼフ・メーストルの『主権についての研究』を翻訳、『主権原論』として出版。しかし1887年(明治20年)、政府の条約改正・欧化政策に反対して退官した。

 陸は徳富蘇峰とともに明治中期を代表する言論人だが、徳富の発言がほとんど社会の全般にわたったのに対し、陸の評論は政論中心だった。ただ政論中心といっても、政府や政党の動向を具体的に追跡するだけではなく、国民全体の歴史や社会・経済・思想・風俗・慣習との関連のもとに政治の動向を捉える点に特徴があり、そうした見方は、国際政治の捉え方にまで貫かれていた。彼が政論記者として他の追随を許さないと評価されたゆえんだ。

 陸は1888年(明治21年)『東京電報』という月刊新聞を創刊、翌年『日本』と改題、社長兼主筆として活躍した。三宅雪嶺、杉浦重剛、長谷川如是閑、正岡子規など明治後期を代表する多くの思想家、言論人がこの新聞に集まり、近代ジャーナリズムの先駆けとなった。

(参考資料)小島直記「人材水脈」、司馬遼太郎「この国のかたち 四」

鑑真・・・日本で初めて授戒を行い、戒律制度を伝えた律宗の開祖

 鑑真は、朝廷からの「伝戒の師」としての招請を受け、数々の苦難を超えて、6回目の渡海で来日した、唐代、江南第一の大師と称された人物で、日本における律宗の開祖だ。天皇をはじめ多くの人々に日本で初めて正式な授戒を行い、日本の仏教界に正式に戒律制度を伝えた人でもある。鑑真の生没年は688(持統天皇2)~763年(天平宝字7年)。

 鑑真は中国・唐代の揚州江陽県に生まれた。俗姓は淳于。14歳で出家し、洛陽・長安で修行を積み、道岸、弘景について律宗・天台宗を学んだ。713年に故郷の大雲寺に戻り、江南第一の大師と称された。律宗とは仏教徒、とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を伝え、研究する宗派だが、鑑真は四分律に基づく南山律宗の継承者で、4万人以上の人々に授戒を行ったとされている高僧。

鑑真は揚州の大明寺の住職だった742年(天平元年)、第九次遣唐使船で唐を訪れていた留学僧、栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)から朝廷の「伝戒の師」としての招請を受け、渡日を決意。しかし周知の通り、その実現は容易なものではなかった。その後の12年間に5回の渡航を試みて失敗。次第に視力を失うことになったが、753年(天平勝宝5年)、6回目にして鑑真が乗り込んだ、帰りの遣唐使船が薩摩・坊津に漂着、遂に日本の地を踏んだ。鑑真66歳のことだ。以後、76歳までの10年間のうち、5年を東大寺で、残りの5年を唐招提寺で過ごし、天皇はじめ多くの人々に授戒を行った。

 仏教では新たに僧となる者は戒律を遵守することを誓う必要がある。戒律のうち自分で自分に誓うものを「戒」といい、僧尼の間で誓い合うものを「律」という。律を誓うには10人以上の正式の僧尼の前で儀式(=授戒)を行う必要がある。これら戒律は仏教の中でも最も重要な事項の一つとされているが、日本では仏教が伝来した当初は、自分で自分に授戒する自誓授戒が行われるなど、授戒の重要性が長らく認識されていなかった。

 しかし、奈良時代に入ると戒律の重要性が徐々に認識され始め、授戒の制度を整備する必要性が高まっていた。こうした時代背景の下、栄叡と普照は授戒できる僧10人を招請するため渡唐し、戒律の僧として高名だった鑑真のもとを訪れたのだ。
 栄叡と普照から強い要請を受けた鑑真は弟子に問いかけたが、誰も渡日を希望する者がいなかった。そこで、鑑真自らが渡日することを決意し、それを聞いた弟子21人が随行することになったのだった。

 こうして来日した鑑真は753年(天平勝宝5年)、大宰府観世音寺に隣接する戒壇院で初の授戒を行った。そして754年(天平勝宝6年)、鑑真は平城京に到着し聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇の勅により、戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住することになった。同年4月、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇から僧尼まで430余名に菩薩戒を授けた。これが日本で行われた最初の登壇授戒である。併せて常設の東大寺戒壇院が建立され、その後761年(天平宝字5年)には日本の東西で登壇授戒が可能となるよう、大宰府観世音寺および下野国薬師寺に戒壇が設置され、戒律制度が急速に整備されていった。

 758年(天平宝字2年)、淳仁天皇の勅により鑑真は大和上に任じられ、政治に捉われる労苦から解放するため僧綱の任が解かれ、自由に戒律を与えられる配慮が成された。759年(天平宝字3年)、鑑真に新田部親王の旧邸宅跡(現在の奈良市五条町)が与えられ、ここに彼は「唐律招提」(とうりつしょうだい、後の唐招提寺)と名付けられた、戒律を学ぶ人たちのための修行道場を建てた。 
 
 同寺には戒壇は設置されたが、あくまでも鑑真和上の私寺であって、当初は経蔵、宝蔵などがあるだけだった。そのため、金堂は763年(天平宝字7年)の鑑真の死後、弟子の一人だった如宝(にょほう)の長年にわたる勧進活動により、781年(天応1年)以降、完成したといわれる。これにより現在は、この「唐招提寺」が奈良時代建立の金堂、講堂として“天平の息吹”を伝える貴重な伽藍となっている。2001年(平成13年)1月から始まった平成の大修理事業で解体され、地震対策として耐震性も強化、一新された金堂の工事が終了、09年11月1日、落慶法要が行われた。

 鑑真は戒律のほか、彫刻や薬草などへの造詣もとりわけ深く、日本にこれらの知識も伝えた。また、悲田院もつくり、貧民救済にも積極的に取り組んだ。
 師・鑑真の死去を惜しんだ弟子の忍基は鑑真の彫像(脱活乾漆造=だっかつかんしつづくり 麻布を漆で張り合わせて骨格を作る手法、両手先は木彫)を造り、現代まで唐招提寺に伝わっている。国宝の「唐招提寺鑑真像」がそれだが、これが日本最初の肖像彫刻とされている。また、779年(宝亀10年)、淡海三船(おおみのみふね)により、鑑真の伝記『唐大和上東征伝』が記され、鑑真の事績を知る貴重な史料となっている。
(参考資料)永井路子「氷輪」、井上靖「天平の甍」、司馬遼太郎「この国のかたち 三」古寺を巡る「唐招提寺」

楠木正成・・・天才的な策略家で後醍醐天皇の作戦参謀として勤皇を貫く

 もう10年以上も前のことだが、NHKが歴史のテレビ番組に「建武新政敗れ 悪党楠木正成自刃す」というタイトルをつけ、正成を祀っている湊川神社(神戸市)が抗議するという事件があった。確かにタイトルに「悪党」とつけられては、正成が「悪人」だったという印象を受ける。これに対してNHKは「悪党は悪い連中という意味ではなく、歴史上の新興勢力を表す語」と説明した。実際にこれは正しいのだが、歴史上の「悪党」という言葉は、現代の国民的常識となっていないから、早合点すると、楠木正成は悪人だったのだと思い込む人がいないとも限らない。

 楠木正成は謎の人物だ。楠木氏は伊予国の伊予橘氏(越智氏)の橘遠保(たちばなのとうやす)の末裔という。しかし、正成以前の系図は諸家で一致せず、後世の創作とみられる。河内には楠木姓の由来となるような地名はない。つまり、先祖が分からず、家系が分からず、身分も定かでない。本拠地がどこだったのかについても諸説あり、確かなことは分からない。

にもかかわらず、戦前の日本人にとって楠木正成ほど有名な歴史上の人物はいなかった。日本一の大忠臣「大楠公」として、大日本帝国臣民が模範としなければならない第一の人物として、歴史教育の中で徹底的に叩き込まれたからだ。そのため、戦後は神功皇后などとともに歴史の教科書から真っ先に抹殺されることになった。

 伝えられる正成の出生地は河内国石川郡赤阪村(現在の大阪府河内郡千早赤阪村)。生年に関しての明確な史料は存在せず、正成の前半生はほとんど不明だ。様々な歴史家による研究にもかかわらず、正成の確かな実像を捉えられるのは、元弘元年の挙兵から建武3年の湊川での自刃までのわずか6年に過ぎない。

正成は1331年(元弘元年)、臨川寺領和若松荘「悪党楠木兵衛尉」として史料に名を残しており、鎌倉幕府の御家人帳にない河内を中心に付近一帯の水銀などの流通ルートで活動する「悪党」と呼ばれる豪族だったと考えられている。このとき、すでに官職を帯びていることから、これ以前に朝廷に仕え、後醍醐天皇もしくはその周囲の人物たちと接触を持っていたと思われる。この年に後醍醐天皇の挙兵を聞くと、下赤坂城で挙兵し、湯浅定仏と戦う(赤坂城の戦い)。

後醍醐天皇と正成を結びつけたのは伊賀兼光、あるいは真言密教の僧、文観と思われる。正成は後醍醐天皇が隠岐に流罪となっている間にも、大和国吉野などで戦った護良親王とともに、河内国の上赤坂城や金剛山中腹に築いた山城、千早城に籠城してゲリラ戦法や糞尿攻撃などを駆使して幕府の大軍を相手に奮戦している。正成は少数で大軍を破るという、天才的な策略家だった。1333年(元弘3年)、正成らの活躍に触発されて各地に倒幕の機運が広がり、足利尊氏や新田義貞、赤松円心らが挙兵して鎌倉幕府は滅びた(元弘の乱)。

 後醍醐天皇の建武新政が始まると、正成は記録所寄人、雑訴決断所奉行人、河内・和泉の守護となった。正成は後醍醐天皇の絶大な信任を受け、足利尊氏が離反して後、実質上、後醍醐天皇の作戦参謀として新政の軍事主体の主力の一方になり、最後まで勤皇を貫いたことは特筆される。ただ、中国の諸葛孔明と並び称される鬼謀の数々を発揮しながら、正成には最後まで実力に応じた地位が与えられなかった。このことが、実態としては「補佐役」でありながら、戦局を左右する様々な進言が、簡単に退けられ、最終的に敗死の悲劇につながった。

 1336年(建武3年)、足利方が九州で軍勢を整えて再び京都へ迫ると、正成は後醍醐天皇に、新田義貞を切り捨てて尊氏と和睦するよう進言するが受け容れられず、次善の策として、いったん天皇の京都からの撤退を進言するが、これも却下される。ここで後醍醐天皇を見限ってもなんら批判、非難されることはないはずだ。

 ところが、正成はそれでも陣営にとどまったのだ。そんな絶望的な状況下で、しかも意に染まぬ新田義貞の麾下での出陣を命じられ、湊川の戦い(兵庫県神戸市)に臨んだのだ。朝廷側の主力となるべきは新田軍だった。だが、新田軍は戦いが始まってすぐに総崩れとなり、戦場に残される形となった正成のわずか700余騎が足利直義軍と戦い敗れて、正成は弟の楠木正季とともに自決したとされている。

 南朝寄りの「太平記」では正成の事績は強調して書かれているが、足利氏寄りの史書「梅松論」でさえも正成に同情的な書き方をされている。この理由は、戦死した正成の首(頭部)を尊氏が「むなしくなっても家族はさぞや会いたかろう」と丁寧に遺族へ返還しているなど、尊氏自身が清廉な正成に一目置いていたためとみられる。

(参考資料)井沢元彦「逆説の日本史」、加来耕三「日本補佐役列伝」、梅原猛「百人一語」、百瀬明治「『軍師』の研究」、永井路子「歴史の主役たち 変革期の人間像」、永井路子「続 悪霊列伝」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

源信・・・ 『往生要集』で浄土教発展の基礎つくるが名利捨て念仏三昧

 源信は平安時代中期、『往生要集』を書いて、浄土教の発展の基礎をつくった僧として有名だが、天台僧として『一乗要訣』という天台の中心教義「一切衆生皆成仏」の理論の完成者だった。周知の通り、彼は一条天皇から僧都の位を賜り、「恵心僧都」と尊称された。だが、彼は信仰心篤い母の教えを忠実に守り、名利の道を捨てて隠棲し、まさしく市井で念仏三昧に生きた高僧だった。

 源信は大和国(現在の奈良県北葛城郡当麻)で生まれた。父は卜部正親、母は清原氏。幼名は千菊丸。源信の生没年は942(天慶5)~1017年(寛仁元年)。
源信は948年(天暦2年)、7歳のとき父と死別。950年(天暦4年)、信仰心の篤い母の影響で9歳のとき、荒廃した比叡山を再構築した中興の祖、慈慧大師良源(元三大師)に師事し、顕教、密教の奥儀を学んだ。そして、955年(天暦9年)出家、得度した。

956年(天暦10年)、源信は15歳で『和讃浄土教』を講じ、村上天皇により法華八講の一人に選ばれた。俊英の集まる良源門下で、源信の才能は若年時代から高く評価された。そして、下賜された布帛など褒美の品を故郷の母に送ったところ、母は源信を諌める和歌を添えて、その品物を送り返した。その諫言に従い、彼は以後、名利の道を捨てたのだ。

源信は985年(寛和元年)、『往生要集』を脱稿。この往生要集は貴族を中心とした上流階級に限られるが、日本初の一般人向けの仏教解説書だ。この中で彼は阿弥陀のいる極楽への往生の方法を説いたのだ。そして、最も効果のある「念仏」の方法として勧めているのが、称名(しょうみょう)念仏ではなく、観想(かんそう)念仏という方法だ。

観想念仏は浄土三部経の『観無量寿経』に説かれている方法で、阿弥陀や極楽浄土のありさまをできるだけ観想(思い浮かべる)することによって、念仏を行うというものだ。現代風に表現すれば、イメージトレーニングだ。これは貴族の好みと一致した。観想念仏をするための一番いい方法は、この世に極楽浄土のありさまを再現することだ。今日、国宝として残っている宇治の平等院鳳凰堂は、観想念仏のために建てられたものだ。

1004年(寛弘元年)、栄耀栄華を誇った藤原道長が病を得て帰依したが、彼は京に浄土の再現ともいうべき寺、法成寺(ほうじょうじ)を建立している。道長は死に際して、法成寺の本堂に床を敷き、本尊阿弥陀如来と自分の手を五色の糸でつないで臨終を迎えたという。これほど源信が勧めた観想念仏は貴族たちを虜にしたのだ。

こうした事績が認められて源信は権少僧都となった。しかし、1005年(寛弘2年)、母の諫言を守り名誉を好まず、わずか1年で権少僧都の位を辞退した。また比叡山の腐敗体質にも失望して、名刹を離れて、横川の恵心院へ隠棲し、念仏三昧の求道の道を選んだ。臨終にあたって、源信も阿弥陀如来像の手に結び付けた糸を手にして、合掌しながら入滅したという。
源信の著作は『一乗要決』『因明論疏四相違略蔦釈』『六即義私記』『阿弥陀経略記』など70部以上150巻に及ぶが、代表作として知られるのはやはり、985年に著した、念仏による極楽浄土信仰興隆の起爆剤となった『往生要集』だ。

源信の浄土信仰の影響は法然、親鸞にも受け継がれている。源信は、浄土真宗では七高僧の第六祖とされ、「源信和尚」「源信大師」と尊称される。親鸞は『高僧和讃』において七高僧を挙げており、うち2人は日本人だ。ちなみに七高僧とは龍樹・世親・曇鸞・道綽・善導・源信・法然だ。
源信を境に、阿弥陀如来来迎図や浄土曼荼羅・仏像彫刻などの仏教芸術の最盛期を迎えることになるのだ。

 紫式部の『源氏物語』、芥川龍之介の『地獄変』に登場する横川の僧都は、この源信をモデルにしているとされる。
 このほか、『今昔物語』にはしばしば源信が実名で登場する。教訓的な内容や、人としての教えを語るにも、多くの人に知られている人物として、源信の信仰・思想などを、分かりやすく彼を介した話として取り上げられているのだろう。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、井沢元彦「逆説の日本史・中世神風編」、司馬遼太郎「この国のかたち 三」

木戸孝允・・・“逃げの小五郎”時代を経て明治新政府の長州の代表者に

 木戸孝允は周知のとおり、西郷隆盛、大久保利通と並び称せられた「明治維新の三傑」の一人だ。確かに明治新政府における彼らの働きは群を抜いたものだった。薩・長・土・肥というが、これらの藩にはじめから統一した見解があったのではない。肥前は鍋島閑叟の態度にみられるように、完全に中立の態勢を取っていたし、土佐も山内容堂などは討幕に反対だった。坂本龍馬、中岡慎太郎ら家臣の一部が脱藩して、討幕に参加したまでのことだ。これに引き替え薩摩と長州は曲折があった後、連合し、新政府の推進力となった。この二藩が支えと成らなかったら、新政府は雲散霧消していただろう。木戸孝允の生没年は1833(天保4)~1877年(明治10年)。

 新政府で政局の中枢を握る者が、薩・長の二藩から出るのはまず妥当なことだった。長州を代表するのがこの木戸孝允だった。薩摩には西郷、大久保があるが、長州は木戸のみだった。長州藩に人材が少なかったのではない。維新後でいえば大村益次郎、もっと時代をさかのぼれば周布政之助、長井雅樂、高杉晋作、久坂玄瑞など多くの人材があったが、1869年(明治2年)京都の旅宿で刺客に襲われて死んだ大村はじめ、すでにすべて亡くなっていたのだ。

 木戸孝允の比重は高まるのみだった。彼は1849年(嘉永2年)、吉田松陰の門弟となり、その後江戸に出て、志士たちの集まる斎藤弥九郎道場の師範代を務め、水戸や土佐の藩士たちとの交渉もあったほか、全国的な顔の広さを持っていた。それに江川英龍に洋式砲術を学び、蘭学を学び、西洋事情にも詳しく、名実ともに長州藩を代表し、新政府の方向付けにはなくてはならぬ人材だった。

 その木戸、以前の名で桂小五郎は剣の道でも一流を極めながら、自ら刀を抜いて勝負を争ったことは一度もなかった。用心深い彼は、常にそうした争いの場所を避けて通ったのだ。1863年(文久3年)八・一八の政変のあとの京都は、会津藩の見廻組や、新選組などが探索の目を光らせ、志士にとっては実に物騒な場所だった。木戸は絶えず住所を変えながら、警戒の目をかいくぐって働いた。だから、彼には“逃げの小五郎”というようなあだ名さえ付いていた。池田屋騒動のとき、蛤御門の戦い(禁門の変)のときもそうだった。

 木戸は開明的だったが、急進派から守旧派までが絶え間なく権力闘争を繰り広げる明治維新政府の中にあっては、心身を害するほど精神的苦悩が絶えなかった。西南戦争の半ば、出張中の京都で病気を発症して重篤となったが、夢うつつの中でも「西郷、いいかげんにせんか!」と西郷隆盛を叱責するほど、明治政府と西郷隆盛軍双方の行く末を案じながら息を引き取ったという。

 長門国萩呉服町(現在の山口県萩市)で萩藩医、和田昌景の長男として生まれた。7歳のとき、桂家の末期養子となり長州藩の武士の身分と秩禄を得た。「木戸」姓以前の旧姓は、15歳以前が「和田」、15歳以後が「桂」だ。小五郎、貫治、準一郎は通称。「小五郎」は生家、和田家の由緒ある祖先の名前。「木戸」姓は第二次長・幕戦争前、1866年(慶応2年)に藩主毛利敬親から賜ったものだ。

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」、奈良本辰也「幕末維新の志士読本」、司馬遼太郎「幕末 逃げの小五郎」、南条範夫「幾松という女」

幸徳秋水・・・田中正造の依頼で天皇への直訴状を代筆、冤罪で死刑に

 幸徳秋水は周知の通り、大逆事件で死刑になった。明治時代、政府に対し徹底的に批判した人物は、幸徳秋水の師、中江兆民をはじめ、田中正造など数多い。しかし、その死の多くは病死だ。ところが、幸徳秋水の死は死刑だ。絞首刑に処せられた。明治国家は幸徳秋水の存在を許さなかったのだ。それほどに幸徳秋水は徹底した反逆者だったのか。

 幸徳秋水は1871年(明治4年)、高知県幡多郡中村町(現在の高知県四万十市)に生まれ、1911年(明治44年)刑死した。幸徳家は酒造業と薬種業を営む町の有力者で、元々は「幸徳井(かでい)」という姓で、陰陽道をよくする陰陽師の家だった。本名は幸徳伝次郎。秋水の名は、師事していた中江兆民から与えられたものだ。生地の中村は、土佐の中では例外的に板垣退助の自由党よりも、大隈重信系改進党の力が強かったところだ。幼少の頃から神童といわれ、中学校に進んだ幸徳は、自由党熱にうかされた少年に育っていった。

幸徳が勉強を続けるために東京に出たのは1887年(明治20年)、17歳のときのことだ。林有造の書生となるが、保安条例によって東京を追放されて高知に帰った。1888年(明治21年)、大阪で『東雲(しののめ)新聞』を発行していた中江兆民の学僕となり、大きな影響を受ける。ここで幸徳は初めてフランス流民権論を身につけることができた。やがて発布される大日本帝国憲法が真の人民の権利という見地からみると、全くお粗末なものであることを教えられたのも、兆民の同憲法に対する冷評によってだった。

1891年(明治24年)、再度上京し国民英学会を卒業した幸徳は、兆民の世話で『自由新聞』に入社して、経済的にどうにか一本立ちできるようになる。「秋水」という号はこのとき兆民が幸徳に譲ったものだ。秋水と名乗るようになった幸徳は、『広島新聞』『中央新聞』で論説を書いた後、1892年(明治25年)、黒岩涙香の『萬朝報(よろずちょうほう)』に入社した。自信家の幸徳秋水は、存分に筆を振るう条件を与えてもらえないと、いつも不満で、勤め先を変えてしまうのだ。

黒岩涙香はスキャンダルに喰いついて離さず、『萬朝報』に徹底的に書きまくる。とりわけ政界上層部の名士たちが狙われ、庶民は大臣たちの私行暴露に拍手を送り、『萬朝報』の売れ行きはどんどん伸びていた。しかし、スキャンダルだけで売るのは限界がある。少しは理論的な筋を通さなければいけないと思っていたところへ、兆民の弟子として理論と文章力とを兼ね備えた秋水が現われた。黒岩にとっては大歓迎だし、秋水にとっては思う存分書かせてもらえるというわけだ。

 秋水が社会主義のグループと接触するのは、『萬朝報』に書くようになったお陰だ。秋水は早速「社会腐敗の原因及び其政治」という論文を載せ始めた。するとすぐに片山潜と村井知至の連名で、社会主義研究会に参加しないかという誘いのハガキがきた。秋水は喜んで入会し、毎月の例会に欠かさず出席、翌年には「現今の政治社会と社会主義」という報告を行うほどの積極的な会員となった。足尾鉱毒事件を告発した田中正造との出会いもこの頃だった。『萬朝報』は、農民を救えという論陣を張り続けた。

 衆議院議員を辞職し、天皇に直訴しようと決意した田中正造が、直訴状の代筆を秋水に頼みにきたのは、1901年(明治34年)の12月だった。なぜ秋水だったのかといえば、秋水の名文家としての名はこの頃すでに高く、とりわけ兆民の依頼で書いた「自由党を祭る文」は有名だったからだ。また、現実問題として田中が執筆を依頼した者たちが、後難を恐れて尻込みしたという側面もあった。そうした中、秋水だけが断らず書いたといわれる。

 秋水は日露戦争開戦時に社会主義新聞、週間『平民新聞』を創刊して、反戦の論陣を張った。のちクロポトキンなどの影響で無政府主義思想に傾倒。1910年(明治43年)、明治天皇暗殺計画の首謀者として権力によってでっち上げられ(大逆事件)、翌1911年(明治44年)、無実の罪(冤罪)のまま処刑された。代表的著作に『社会主義神髄』がある。

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」、小島直記「無冠の男」

紀貫之・・・ 『古今和歌集』の「仮名序」を執筆した歌人の第一人者

 紀貫之は、官人としては意外に知られていないが、木工権頭(もくのごんのかみ)、従五位上に終わり、恵まれず、不遇をかこった。だが、歌人としては極めて華やかな存在で、初の勅撰和歌集『古今和歌集』の編纂にあたり、仮名による序文「仮名序」を執筆、当時、名実ともに第一人者となった。紀貫之の生年は866年(貞観8年)もしくは872年(貞観14年)などの説があり定かではない。没年は945年(天慶9年)。

 紀貫之は、紀望行の子、下野守・紀本道の孫として生まれた。幼名は阿古久曽(あこくそ)。紀友則は従兄弟にあたる。幼くして父を失ったためか、官職には恵まれなかった。宮中で位記(位階を授与する際の辞令)などを書く内記(中務省所属の官職)の職などを経て40歳半ばでようやく従五位下となり、以後、930年(延長8年)に土佐守に任じられるなど地方官を務めたが、最後は木工権頭、従五位上に終わった。

 だが対照的に、貫之は歌人としては華やかな存在だった。892年(寛平4年)の「是貞親王家歌合(これさだのみこのいえのうたあわせ)」、「寛平御時后宮歌合(かんぴょうのおんとききさいのみやうたあわせ)」に歌を残すが、当時はまだそれほど目立つ存在ではなかった。905年(延喜5年)、醍醐天皇の命により、初の勅撰和歌集『古今和歌集』を紀友則、壬生忠岑、凡河内躬恒らとともに編纂。従兄、友則の死に遭って、編纂者の中で指導的な役割を果たすことになった。そして画期的な、仮名による序文「仮名序」を執筆、『古今和歌集』の性格を事実上決定づける存在となった。彼は古今和歌集中、第一位の102首を入れ、歌人として名実ともに第一人者となった。「和歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける」で始まるそれは、後代に大きな影響を与えた。

 貫之の『古今和歌集』以後の活躍は目覚しく、そのころからとりわけ盛行した屏風歌(びょうぶうた)の名手として、主として醍醐宮関係の下命に応じて、多数を詠作した。907年(延喜7年)の宇多法皇の大井川御幸は9題9首の歌を序文に献じ、913年には「亭子院歌合(ていじいんのうたあわせ)」に出詠した。この間、藤原兼輔・定方の恩顧を受け、歌人としての地歩を固めた。土佐守在任中には『新撰和歌』を撰したが、醍醐天皇はすでに崩御されていたため、帰京後、序を付して手元にとどめた。

 貫之には随筆家としての顔もある。『土佐日記』の著者として有名だ。これは、貫之が土佐守として4年の任期を終えて京に向けて旅立つ12月21日から翌2月16日までの、55日にわたる船旅を女性の文章に仮託して表現したもので、日本文学史上恐らく初めての仮名による優れた散文であり、その後の日記文学や随筆女流文学の発達に大きな影響を与えた。

 貫之の最大の功績は漢詩文、『万葉集』の双方に深く通じて、伝統的な和歌を自覚的な言語芸術として定立し、公的な文芸である漢詩と対等な地位に押し上げたことだ。『古今和歌集』の仮名序では「心」と「詞(ことば)」という二面から和歌を説明し、初めて理論的な考察の対象とすることになった。和歌の理想を「心詞相兼」とすることは、後年の『新撰和歌』で一層確かなものになっている。ただ、彼自身の歌は理知が勝って、情趣的な味わいに欠ける傾向がある-といわれる。

 『小倉百人一首』には「人はいさ 心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香ににほひける」が収められている。この歌の歌意は、「人の心はさあ知るすべもない。でもこの懐かしい家、梅の花は昔と変わらず、芳しく香って私を迎えている。人の心はさあいかがなものか知らないが…」。貫之の歌の中ではとくに有名な一首だ。

(参考資料)大岡信「古今集・新古今集」、曽沢太吉「小倉百人一首」

児玉源太郎・・・格下げの参謀次長を引き受け、対露戦争に賭けた名参謀

 児玉源太郎は嘉永5年(1852)2月、周防徳山藩廻役80石取りの児玉半九郎の長男として生まれた。徳山藩は萩の毛利本家の支藩で、そこでの80石という禄高は中級士族だ。幼名は百合若、のちに健、元服し源太郎と改名した。

しかし、そこまでの児玉は辛酸をなめ尽した。父親の半九郎が藩の重役に憎まれて謹慎を言い渡され、児玉が5歳の時、病死した。児玉家は半九郎の死後2年経ってから長女ヒサに養子巌之丞を迎え、名を次郎彦と改名して家督を継がせた。次郎彦は藩の助教を務めたが、元治元年(1864)京都・池田屋の変、禁門の変などを経て、尊攘派だった次郎彦は自宅前で保守派に斬殺された。児玉12歳の時のことだ。この後、児玉家は藩からわずか1人半の扶持しか与えられない身となり一家5人が親戚の家を転々とする、食うや食わずの極貧生活を送るはめになる。ただ、このローティーン時代の苦難が児玉の精神形成に大きく影響したことは間違いない。

 慶応元年(1865)7月、徳山藩の政情が一変した。本藩で高杉晋作が決起し佐幕派が一掃され、支藩の俗論党が退陣。藩政の主導権が次郎彦の属していた尊攘派の手に移り、13歳の児玉が次郎彦の跡目相続人として中小姓に取り立てられ、新知25石を賜ることになったのだ。異例の人事だった。

 児玉は明治4年8月に少尉、9月に中尉となり、熊本鎮台創設のとき大尉になった。すごいスピード昇進だが、もちろん長州出身だったからだ。以後、児玉は順調に出世した。

 明治16年、児玉は大佐に昇進し、参謀本部に入った。同18年、陸軍はドイツ陸軍からメッケル少佐を招き、近代的な戦略戦術はもとより、陸軍の軍制に至るまで教えを受けた。児玉は明治19年に陸軍大学の幹事になってから、メッケルの講義を聴き、メッケルとともに参謀旅行に同道した。参謀旅行とは机上の講義ばかりでは実戦の役に立たないと考えるメッケルが発案したもので、例えば関ケ原へ行き、東西両軍の配置などを想定し、実戦に即して、戦術を研究するやり方だ。

メッケルは、近代戦は新兵器や火力の優劣などの科学的要因と兵站能力が大きくモノをいうことは確かだが、その他に兵員の精神力という計算できないものが重要であり、参謀の想像力も精神力と同様、大切だと説いた。仮に前方に敵軍の布陣している山があるとする。参謀には目に見えない山の背後がどういう地形か、それを想像できる能力が必要だというのだ。参謀旅行に同道した陸軍大学の学生が残した記録によると、メッケルは「将来、日本の陸軍は陸軍の児玉か児玉の陸軍かというようになろう」というほどに、児玉の才能を高く評価していたという。

 児玉は後の旅順攻略戦の時、メッケルのこの時の教えを見事に実践する。彼は満州軍総参謀長として、強行しては失敗を重ね5万9000余名の死傷者を出した、乃木希典が軍司令官を務める第三軍を見るべくやってきた。乃木の司令部は最前線から遠かった。ロシア軍の砲弾の絶対に届かない安全なところにあった。そして、参謀たちは司令部を一歩も出ようとせず、最前線の状況を知ろうともしないで、死の突撃で部下を死なせたくない大隊長や中隊長が、強攻策に再考を求めると、「命が惜しいのか」と臆病者扱いしていた。この参謀たちは陸軍大学を優秀な成績で卒業したエリートだったが、あくまでも机上の作戦家でしかなかったのだ。

 日露戦争が始まったとき、メッケルはすでにドイツに帰国していたが、彼はクロパトキンがロシア軍の最高指揮官になったのを知ると「児玉が勝つ」と予言した。クロパトキンは欧州各国にも名将として知られていたが、児玉は知られていなかった。しかし、児玉は下級兵士の心が分かるリーダーであり、クロパトキンはそれが分からないリーダーであることをメッケルは知っていた。メッケルにしてみれば、児玉が勝って当たり前なのだった。

 明治38年、満州での陸戦を勝利に導いた児玉は、密かに日本に戻り伊藤博文らの重臣や桂太郎首相、小村寿太郎外相らに、講和交渉を開始して一日も早くまとめるように忠告した。これは満州軍総参謀長の権限外の行為だが、日本軍がこれ以上の大規模な戦闘に耐えられないことを承知していたからだ。児玉としては、陸軍のことだけを考えればいい参謀から脱却し、いわば日本の運命を考える参謀にならざるを得なかったのだ。しかし彼は、日本国の名参謀になる前に、1年後の明治39年7月に脳出血で急死した。54歳だった。その後、神奈川県江の島に児玉神社が有志によって建立された。

(参考資料)古川薫「天辺の椅子」、三好徹「明治に名参謀ありて」、司馬遼太郎「この国のかたち 一」、小島直記「志に生きた先師たち」

行基・・・“無私没我”の愛の行動だけが物語る高僧の事業や行為

 “行基菩薩”という呼び方がある。人間でいながら菩薩とまで尊ばれたケースは滅多にあるものではない。それだけ行基が80余年の全生涯を通じて、黙々と行った事業や行為が、人々に慕われ敬愛された証左といえよう。ただ、行基の場合、生い立ちについての記録はもとより、偉大な宗教家につきものの、誕生にまつわる奇跡譚のようなものも、さらに青・壮年期に入ってからさえ、個人的な逸話は全く残っていないのだ。人のために働き、人のために尽くし切る“無私没我”の愛の行動だけが、行基という僧の全貌を私たち後世の者に雄弁に物語っている。

 行基の体内には帰化人の血が色濃く流れている。父は高志才智(こうしさいち)といい、母は蜂田古爾比売(はちだのこにひめ)といった。どちらも先祖をたどると、中国系帰化人の家系だ。前漢の支配力が朝鮮半島に及んでいた当時、その出先機関に王姓の官吏が多数、赴任してきていたのは確かだから、それらのうち誰かが百済を経由する外交ルートで日本に迎えられ、文化的指導者の地位に就いたとみられる。この王氏の子孫から書(ふみ)氏なる一族が枝分かれし、さらに書氏から高志氏が分派したわけで、行基の血には生まれながらに、代々知的職能に携わってきた優秀な先進民族の血が流れていたことになる。

 行基が生まれたのは668年、天智帝の称制7年で、場所は河内の大鳥郡だ。現在の大阪府泉北郡と、堺市にまたがる辺りだ。彼は飛鳥寺の道昭について、得度剃髪した。15歳のときのことだ。道昭も、船氏の出身という来歴が物語るように、帰化人系の僧だ。造船技術に秀でていた帰化系エンジニアの集団が、船氏の俗姓を冠していたのだ。道昭は30歳のとき、留学生となって大唐国に渡り、玄奘三蔵から法相(ほっそう)の教学を学んだ。行基が弟子となったのは、帰朝後で道昭が54歳だった。

 造船だけでなく架橋や治水利水、建造物の構築などにも道昭は抜きん出た技術を持っていたといわれる。様々な土木工事によって、民衆の利益を図った実績が道昭にもある。若き日の行基はこの師について、法相宗の教学とともに、利他行(仏教でいう、他人の苦しみを救うために全能力を発揮する行為)の精神と技法を一心不乱に学んだに違いない。

 僧尼令の決まりに従って戒を保ち、勉学し続けてさえゆけば、やがていつの日か行基も寺主に補され上座に昇り、律師、僧都、僧正など僧界での僧位を次々に手にすることができたはずだった。しかし、道昭に師事し、利他の愛に目覚めた彼にとって、僧位や僧官の取得など無意味だった。未練なく行基は僧界での出世コースに背を向け、一介の在野の聖として、市井の塵の中へ入っていったのだ。

 それからの行基は、民衆の福利のために全力を挙げて働き出した。辻に立ち、路傍に座して、分かりやすく法を説き、貧しくよるべない人々の、不安におののく魂に光明を与える。一方、橋のない川には橋を架け、水利の不便さに泣く農民のためには灌漑用池の掘削を指導し、洪水の頻発する河川には堤防を造るなど、目を見張るばかり精力的に、実践活動に挺身し始めたのだ。

 仏の教えは渡来して以来、貧しい人々とは無縁だった。朝廷や政府の、仏教への対処のしかたは本質から大きく外れていた。当時の皇族、貴族らが、これこそ正しいことだと信じて躍起になったのは、堂塔伽藍の建立だった。仏像を造り、経文を写し、法会や儀式を整備し、僧尼令を公布するなど、見かけの飾りばかりだった。お陰で上っ面だけを眺めれば、仏教は未曾有の盛時を迎えたかに受け取れた。国分寺、国分尼寺が全国に建ち、教界の体制は確立して、日本も先進国並みの仏教国家になったのだが、形ばかりで心が伴わない、民衆からは極めて遠い存在だった。行基の偉大さは、様々な行動を通して仏教と民衆を初めてしっかり結び付けた点にある。
(参考資料)杉本苑子「決断のとき」、杉本苑子「穢土荘厳」、永井路子「美貌の大帝」

後藤新平・・・総理大臣を目前に、請われて東京市長に就任した真の政治家

 江戸時代後期の蘭学者、高野長英を大叔父に持つ後藤新平は、明治~大正時代の政治家で逓信大臣、外務大臣、内務大臣、鉄道院総裁などを歴任、総理大臣をも嘱望される存在だった。それにもかかわらず、請われて東京市長に就任し、国家の首都・東京のあるべき姿を、大きなスケールでグランドデザインした人物だ。

それだけではない。長年にわたって東京都政に手腕を発揮し、首都東京にふさわしい様々な事業を成し遂げた。政治家を志した後藤だっただけに、もし彼がその頂点である総理大臣の椅子にだけこだわる人間なら、どれだけ請われたとしても、東京市長に就くわけはない。後藤新平という人物の真骨頂はここにあるといっていい。後藤の生没年は1857(安政4)~1929年(昭和4年)。

 後藤新平は陸奥国胆沢郡塩釜村(現在の奥州市水沢区)の水沢藩士の後藤実崇の長男として生まれた。胆沢県大参事だった安場保和に認められ、後の海軍大将、斎藤実とともに13歳で書生として引き取られ、県庁に勤務。後に15歳で上京し、東京太政官少史・荘村省三のもとで門番兼雑用役になった。

 後藤は政治家を志していたが、母方の大叔父の高野長英が弾圧された影響もあって、医者を奨められ、恩師、安場の勧めもあって17歳で福島の須賀川(すかがわ)医学校に気のすすまないまま入学した。

ただ、同校では後藤の成績は優秀で卒業後、山形県鶴岡の病院勤務が決まっていたが、安場が愛知県令を務めることになり、それについていくことにして、愛知県の愛知県医学校(現在の名古屋大学医学部)で医者となった。後藤にとっては志とは違う進路だったが、ここで彼は目覚しく昇進し、24歳で学校長兼病院長となった。この間、岐阜で遊説中、暴漢に刺され負傷した板垣退助を診察している。

 医師として、それなりに名を成した後藤だが、ここから彼は幼少時から志していた政治家への道に舵を切る。まず目指したのは官僚だ。1883年(明治16年)、後藤は内務省衛生局に入る。2年間のドイツ留学の後、1892年に衛生局長となり、公衆衛生行政の基礎を築いた。この間、相馬家の財産騒動に巻き込まれ、入獄も経験した。さらに1898年から8年間、児玉源太郎総督の下で、台湾総督府民政局長を務め、島民の反乱を抑え、諸産業の振興や鉄道の育成を図るなど植民地経営に手腕を振るった。その実績を買われて1906年(明治39年)には南満州鉄道株式会社初代総裁に就任した。

 そして後藤は、いよいよ政治家への道に踏み出す。貴族院議員に勅選され、1908年第二次桂太郎内閣に入閣、逓信大臣兼鉄道院総裁に就任する。1912年(大正1年)第三次桂内閣でさらに拓殖局総裁を兼ね、1916年寺内正毅内閣では内務大臣、鉄道院総裁を務め、後に外務大臣としてシベリア出兵を推し進めた。1920年に東京市長に就任、8億円の東京市改造計画を提案し、1922年には東京市政調査会を創立し、関東大震災(1923年)後の復興にあたっては、第二次山本権兵衛内閣の内務大臣と帝都復興院総裁を兼任するなど都市改造に尽力した。

(参考資料)郷 仙太郎「後藤新平」、小島直記「無冠の男」、小島直記「志に生きた先師たち」、古河薫「天辺の椅子」

井原西鶴・・・1日で2万句を詠み10年で30作を著した元禄の鬼才

 井原西鶴はわずか1日で2万を超える句を詠み、10年とちょっとで30もの人気作品を著した元禄の鬼才だ。醒めた眼で金銭を語り、男と女の交情をあますところなく描き、芸能記者にして自らも芸人、そしてエンタテインメント作家として絶大な人気を博した。しかもその作風は実に多様で、江戸時代前期、300年以上も前の人物でありながら、幸田露伴、樋口一葉、芥川龍之介、太宰治、吉行淳之介など近代から現代まで、現在活躍している作家たちにも様々な影響を与えてきた。

 ただ、井原西鶴のこうした名声の割には、伝記的なことがさっぱりわかっていない。資料が少ないのだ。大坂の裕福な町人の出といわれているが、詳細は分かっていない。本名は平山藤五(ひらやまとうご)、生没年は1642年(寛永19年)~1693年(元禄6年)。江戸時代の浮世草子・人形浄瑠璃作者、俳人。別号は鶴永、二万翁。晩年名乗った西鶴は、時の五代将軍綱吉が娘、鶴姫を溺愛するあまり出した「鶴字法度」(庶民が鶴の字を使用することを禁じた)に因んだもの。

 西鶴といえば「好色一代男」に代表される小説家のイメージが強いが、もともとは俳人だ。西鶴が1日で2万余句の記録を打ち立てたのは、小説デビュー作となった「好色一代男」を出版した翌々年のことで、その後、作句活動を一時期中断したこともあるが、晩年は再び俳句に情熱を燃やしている。15歳の頃から俳諧を学び始め、当時は俳句の方が小説よりも芸術として上位にみられていただけに、終生俳人のプライドを軸にしながら、生涯最後の10年間を小説にも活躍の場を広げたというのが的を射ているのかも知れない。

 俳句の神様とされる松尾芭蕉と同世代で、同じ時代に生きた。だが、「量より質」の芭蕉に対し、西鶴は「質より量」で、記録が先行気味で作品の影は薄い。小説家としての西鶴の作品は、愛欲の世界を描く好色物、武士社会を扱う武家物、説話を換骨奪胎した雑話物、経済生活を描く町人物などに分類されることが多い。

 西鶴の略年譜をみると、15歳の頃、俳諧を学び始め、21歳の頃、人の俳句を採点する点者に、そして25歳のとき「遠近(おちこち)集」の「鶴永」の号で俳句入集。西鶴俳句の初見だ。33歳の正月、俳句に初めて「西鶴」と署名。36歳のとき、生玉本覚寺で一昼夜1600句独吟を興行、「西鶴俳諧大句数」と題して刊行。41歳のとき、最初の浮世草子「好色一代男」刊行。43歳のとき、「諸艶大鑑」(好色二代男)刊行。住吉神社にて一昼夜2万3500句の独吟を興行。44歳のとき、「西鶴諸国ばなし」刊行。45歳のとき、「好色五人女」「好色一代女「本朝二十不孝」刊行。46歳のとき、「男色大鑑」「武道伝来記」刊行。47歳のとき、「日本永代蔵」「武家義理物語」「嵐無常物語」「好色盛衰記」刊行。48歳のとき、「一目玉鉾」「本朝桜陰比事」刊行。51歳のとき、「世間胸算用」刊行52歳のとき、「浮世栄花一代男」刊行し、この年大坂で亡くなっている。死を迎えるまでの10年ちょっとの間に次々と小説を刊行、濃密な時間を過ごしたことがよく理解される。

(参考資料)浅沼 璞「西鶴という鬼才」

島津斉彬・・・幕末・維新に活躍する人材を育て薩摩藩の地位を固める

 島津斉彬は幕末の開明派の名君の一人で、西郷隆盛、大久保利通ら幕末から明治維新にかけて活躍する人材も育てた。そして、彼が積極的かつ強力に推進した薩摩藩の様々な近代化政策こそが、西南雄藩の中でも薩摩藩が主導的な立場を保つことができた遠因かもしれない。斉彬の生没年は1809(文化6)~1858年(安政5年)。

 薩摩藩の第十一代藩主(島津氏第二十八代当主)島津斉彬は第十代藩主・島津斉興の嫡男として江戸薩摩藩邸で生まれた。幼名は邦丸、元服後は又三郎。号は惟敬、麟洲。斉彬は、開明的藩主で中国、オランダの文物にも目を向け、洋学に造詣の深かった曽祖父、第八代藩主・重豪(しげひで)の影響を強く受けて育った。そのため、彼は洋学に強い興味を示した。

 オランダ医、シーボルトが長崎から江戸を訪れたときは、重豪は82歳の高齢ながら、自ら18歳の斉彬を伴って出迎えに行き、シーボルトと会見している。25歳で曽祖父の死を迎えるまで、斉彬はその向学心に大きな影響を受け、緒方洪庵、渡辺崋山、高野長英、箕作阮甫(みつくりげんぽ)、戸塚静海、松木弘庵など当代一流の蘭学者やオランダ通詞、幕府天文方とも交流。洋書の翻訳、化学の実験なども行い、彼自身もオランダ語を学んだ。

そして、斉彬はまだ世子(後継ぎ)の身分でありながら、藩主の斉興とは別に、幕府老中・阿部正弘、水戸藩・水戸斉昭、越前福井藩・松平春嶽、尾張藩・徳川慶勝、土佐藩・山内容堂、伊予宇和島藩・伊達宗城ら開明派の諸大名とも親交を結んでいた

このことが周囲の目に蘭癖(オランダ・外国かぶれ)と映り、皮肉にも後の薩摩藩を二分する抗争の原因の一つになったとされる。「お由羅騒動」あるいは「高崎崩れ」と呼ばれる一連のお家騒動がそれだ。嫡男・斉彬派と、父・斉興の側室、お由羅の子で斉彬の異母弟にあたる島津久光の擁立を画策する一派との抗争だ。

 事態は重豪の子で筑前福岡藩主・黒田長薄の仲介で、斉彬と近しい幕府老中・阿部正弘、伊予宇和島藩主・伊達宗城、越前福井藩主・松平春嶽(慶永)、らによって収拾され、斉興がようやく隠居し、1851年(嘉永4年)斉彬が藩主の座に就いた。斉彬43歳のことだ。周知の通り、まもなくペリーが浦賀に来航した。

しかし、彼は欧州の近代文明の根源が、この半世紀前から起こった産業革命にあると見抜き、「日本はわずかに遅れているに過ぎぬ。奮起すれば追いつけぬことはない」として、薩摩藩を産業国家に改造すべく手をつけ始めた。まず幕府に工作して巨船建造の禁制を解かせ、国許の桜島の有村と瀬戸村に造船所をつくり、大型砲艦十二隻、蒸気船三隻の建造に取り掛かり、そのうちの一隻、昇平丸を幕府に献上した。長さ11間、15馬力の機関を付けた蒸気船で、これが江戸湾品川沖に回航された安政2年、芝浦の田町屋敷で幕府の顕官、有志の諸侯その他が見学し、さらに芝浦海岸には数万人の江戸市民が押し寄せ、非常な評判になった。

 また、斉彬は藩政を刷新し、殖産興業を推進した。城内に精錬所、磯御殿に反射炉、溶鉱炉などを持った近代的工場「集成館」を設置した。集成館では大小砲銃はじめ弾丸、火薬、農具、刀剣、陶磁器、各種ガラスなどを製造。また製紙、搾油、アルコール、金銀分析、メッキ、硫酸など多岐にわたる品目の製造を行った。これらに携わった職工、人夫は1カ月に1200人を超えたという。このほか、写真研究もしている。幕府に対して日章旗(日の丸)を日本の総船章とすることを建議して、採用された。これらはいずれも当時、日本をめぐる国際情勢について、とりわけ外交問題についても斉彬が明確な認識を持っていたからだ。

 薩摩藩は表高77万石、日本最南端の僻地藩といっても、支配下の琉球を手始めに清国との密貿易、奄美大島ほかの砂糖きびを独占して大坂で売買することなどで莫大な利益を挙げ、蓄積していたといわれる。

(参考資料)加藤 _「島津斉彬」、宮尾登美子「天璋院篤姫」、綱淵謙錠「島津斉彬」、司馬遼太郎「きつね馬」

最澄・・・天台宗の開祖だが、信念のため妥協許さない姿勢が孤立招く

 平安仏教の双璧といえば、いうまでもなく天台宗と真言宗だ。そして、それぞれの開創者がここに取り上げる最澄と、後に仲違いし、決別することになる空海だ。最澄は桓武天皇の信任を得て、804年(延暦23年)、遣唐使派遣の際、還学生(げんがくしょう)として入唐。空海もこのとき、留学生(るがくしょう)に選ばれ渡航した。二人は偶然、同時期に渡航することになったが、還学生と留学生であり、二人の待遇・立場は全く違っていた。最澄がはるかに上だったのだ。最澄は天台を学び、帰朝後、天台宗を開いた。

 最澄は近江国滋賀郡古市郷で三津首百枝(みつのおびとももえ)の子として生まれた。幼名は広野。彼は12歳で同国の国師(諸国に置かれた僧官)行表(ぎょうひょう)について出家した。783年(延暦2年)、この俊敏な少年は得度し、15歳で法華経以下数巻の経典を読みこなしている。2年後に東大寺で具足戒(ぐそくかい)を受けて一人前の僧になったが、ほどなく比叡山に入った。彼は、先に帰化した唐僧鑑真がもたらした典籍の中の天台宗に関するものに導かれて、新しい宗派への関心を深めていった。15~18歳までの間に沙弥としての修行は十分積んでしまったと考えられる。彼は都に行って、大安寺でさらに高度の勉学に励んだとみられる。

 最澄の存在は仏家の間で注目されるところとなり、内供奉(宮中に勤仕する僧)の寿興との交際が始まり、797年(延暦16年)、彼は内供奉十禅師の列に加えられた。そのころから彼は一切経の書写に着手し、南都の諸大寺そのほかの援助を得て、その業を完成させている。また、798年(延暦17年)に、初めて山上で法華十講をおこし、801年(延暦20年)には南都六宗七大寺の十人の著名な学僧を比叡山に招いて、天台の根本の経、法華経についての講莚(こうえん)を開いた。日本における天台法華宗の樹立という彼の事業が法華講莚という最澄らしいスタイルで始まったのだ。

 最澄はこのころ、すでに和気広世(清麻呂の子)というパトロンを持っていた。広世は和気氏の寺、高雄山寺に最澄を招いて法華の大講莚を開いた。こうして和気氏は最澄を広く世間に売り出した。ただ、最澄自身は独自に天台法華宗の樹立への志向を胸に秘め、桓武天皇への接近を周到に準備していた。その意味で、桓武天皇の恩顧を受けていた和気氏は、最澄にとって天皇への有力な橋渡し役となった。最澄には前途洋々たる未来が拓かれていたはずだった。

 ところで、唐に渡った最澄は、還学生という立場から滞在期間わずか8カ月半という短さのため、直ちに天台山のある台州に向かい、そこの国清寺の行満から正統天台の付法と大乗戒を受けている。多数の経典を書写するなどして目的を達した一方、最澄は唐において密教が盛んになっていることに驚き、にわかに密教を学んでいるが、これは時間的に短すぎて成果を得られなかった。最澄が帰国後、唐で恵果から密教の根本の教えを授けられた空海の帰国を待って、接近していくのはそのためだった。

 最澄は空海より7歳年上で、仏教界でも先輩にあたる。だが、唐で密教を十分に学ぶことができなかったことを後悔し、自分よりはるかに地位が低い空海に対し、教えを乞うたのだ。というのも最澄自身、密教を学ばなければならない立場に置かれていたのからだ。

空海は最澄に、自分が恵果から学んだことを教えた。そして、最澄は改めて空海から金剛・胎蔵両界の灌頂を受けているのだ。空海、最澄の親密な関係は、こうしてしばらくは続いた。ところが、その後、弟子の一人、泰範をめぐるトラブルなどから二人の関係は険悪化、やがて決別する。

 また、最澄は高い理想を掲げながら相次ぐ挫折を強いられる。信任を得ていた桓武天皇が亡くなって後、平城天皇、そして嵯峨天皇の御世となった。最澄にとっては厳しい時代を迎えていた。詩文を愛好した教養人、嵯峨天皇は空海と深い親交を持ち、対照的に最澄は時代の変遷から置き去りにされた。それでも、最澄はひるむことなく、あくまでも気高く道を求めて止まなかった。空海が包容力に富んだ弾力性を持った生き方をしたのに対し、最澄はどちらかといえば、信念のためには一点の妥協も許さないといった態度を貫き通した。そのことが最澄の孤立感をさらに増幅したといえよう。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、永井路子「雲と風と 伝教大師 最澄の生涯」、司馬遼太郎「空海の風景」、司馬遼太郎「街道をゆく33」、北山茂夫「日本の歴史 平安京」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、井沢元彦「逆説の日本史・中世神風編」

親鸞・・・日本仏教史上初めて“肉食妻帯”を宣言した、浄土真宗の開祖

 親鸞は平安時代の末から鎌倉時代にかけ、90年の生涯を波乱・動揺の社会の中で送った人物で、“肉食妻帯”を日本仏教史上初めて宣言して、これを実践した在家仏教徒であった。そして周知のとおり、現在、日本最大の信徒を持つ「浄土真宗」の基礎をつくった人だ。

 親鸞が生きた時代は、今日からみると実に様々な政治・社会、そして宗教界において興味深いことが起こっている。親鸞が8歳のとき、源頼朝が平家に対して挙兵し、1185年(文治元年)13歳のとき平家は壇ノ浦で滅んでいる。延暦寺の山徒の横暴に苦しんだ後白河法皇の崩御は、彼の20歳ときのことだ。そして49歳のとき、鎌倉幕府によって後鳥羽法皇が隠岐、順徳上皇が佐渡、土御門
上皇が土佐に流されている。

 また仏教界では1175年(安元元年)、親鸞3歳のとき、法然(源空)が専修念仏の教えを説き始めた。栄西が宋から帰朝して臨済禅を伝えたのは親鸞19歳のときのことだ。親鸞40歳のとき、師の法然が亡くなっている。道元が宋から帰朝して越前大仏寺(後の永平寺)を開創したとき、親鸞は72歳だった。日蓮が北条時頼に『立正安国論』を起草して差し出した1260年(文応元年)は、親鸞入滅の2年前だった。

 親鸞は公家の皇太后宮大進・日野有範の子として生まれた。9歳のとき母が亡くなると、その年、青蓮院の慈円の弟子となり、範宴(はんねん)と号して出家した。その後20年間、範宴は比叡山において一生不犯の清僧の修行に費やした。29~35歳の6年間は法然の膝下にあった時代だ。当時の仏教研究の根本道場だった比叡山に決別した彼は、妻帯を決意し、本願念仏の教えによる成仏の道を一心に求めることになった。師法然に巡り会ったことは、彼の生涯を決定する重要な機縁となった。

 後鳥羽院による法然の専修念仏教団に加えられる弾圧がひどくなり、1207年(承元元年)念仏停止により法然は土佐国へ、親鸞は越後国国府へと流罪に処せられた。35歳のときのことだ。39歳の1211年(建暦元年)、親鸞は流罪勅免となったが、すでに恵信尼と結婚生活に入っていた彼は、このとき愚禿(ぐとく)親鸞と名乗って、子供たちを含めた家族とともに国府にとどまっている。
その後は都には帰らず、42歳のとき常陸に赴き、そこで20年余、関東の地にいて主著『教行信証』の制作に没頭するとともに、社会の底辺で働く人々に念仏の生活を勧めた。そして、多くの弟子をつくった。しかし、どういう心境の変化か、63歳の親鸞は多くの弟子を振り捨て家族とともに都へ帰った。京都の生活は著述と念仏三昧の日々だった。そして90歳の天寿を全うした。

 ところで、親鸞の教えの根本となっているものが“悪人正機説”だ。親鸞がいう「悪人」は、窃盗や殺人を犯すような悪人という意味ではない。「煩悩だらけの凡夫」といった意味だ。つまり、肉食・妻帯という、一般的な遁世の聖にしてみれば破戒といわれる行為を行う者のことをいっており、まさしく親鸞自身も「悪人」ということなのだ。したがって、悪人正機説は、自分のような悪人こそが自力作善の行に頼ることなく、弥陀の本願を無条件に信ずることができるのだ-というわけだ。そして、親鸞は「阿弥陀仏は、私のような破戒の愚か者さえ救ってくれるのだ」と宣言しているのだ。このような平易な教えが一般民衆の中に受け入れられていったのは当然だろう。

(参考資料)早島鏡正「親鸞入門」、早島鏡正「歎異抄を読む」、梅原猛「百人一語」、百瀬明治「開祖物語」

坂田藤十郎・・・上方の和事を創始,近松作品で人気を高め上方の第一人者に

 京の四条河原の掛け小屋に始まったといわれる芝居が、今日の絢爛たる歌舞伎にまで発展した経路には、いろいろな人と時代が反映して、そうなった紆余曲折があるが、その中の最も大きい転機をつくったものに、江戸の「荒事(あらごと)」、上方の「和事(わごと)」がある。その「荒事」は江戸の市川団十郎、上方の「和事」は坂田藤十郎によって創始されたといわれている。坂田藤十郎の屋号は山城屋、定紋は星梅鉢。

 元禄時代の名優、坂田藤十郎(初代)は1647年(正保4年)頃に、京の座元、「坂田座」の坂田市右衛門の息子として生まれた。当時、京の芝居小屋は鴨川の四条あたりの河原に集まっていた。現在も毎年の顔見世興行で有名な南座のあたりが今、わずかに往時の殷賑ぶりをしのばせている。劇場の横には歌舞伎発祥の記念の石碑があり、ここが日本の演劇史上、とりわけ大切な場所だったことを示している。

 ただ、京の坂田座は藤十郎の少年時代、観客同士の喧嘩から血をみる事件になり、遂に廃座となっている。しかも、これが官憲の忌避するところとなり、四条はじめ京中の芝居小屋は、ことごとく長い興行禁止に追い込まれている。それが、都万太夫はじめ、座元たちの嘆願哀訴がようやく実り、延宝年間に至って復興することができた。藤十郎が姿を見せたのはその時だ。1676年(延宝4年)11月、縄手の芝居小屋に藤十郎が出演したという記録がある。その時、彼は28歳で円熟の境にあった。
しかし、坂田座の子に生まれて以来、その間、藤十郎について何の記録も残っていない。彼はまず当時、東西比類なしといわれた大坂の嵐三右衛門を頼って、その膝下で修行したと思われる。また、上方ばかりで芝居をしていたわけではなかったようだ。江戸からきた役者と大坂で交友があったことも関連史料で分かる。しかし、江戸に居つかなかったことは確かで、気分が合わず、上方の和事師として一生を終わったと思われる。

出雲阿国をルーツとする歌舞伎、その流れの「女歌舞伎」が風俗を乱したというので差し止められた。これを受けて発生した男だけの「若衆歌舞伎」。そして、官憲がその役者の前髪を剃ってしまった。前髪を剃られると普通の男の形になる。そこで、「野郎歌舞伎」というものが生まれたのだ。この野郎歌舞伎が生まれて漸次、芝居という形を整えた延宝4年に、坂田藤十郎が初めて記録に出現したわけだ。江戸の荒事に対して、上方の和事というものを彼が戯作したのだ。それが今日伝わっている大阪・京都の一つの芸道だ。

 江戸の市川團十郎、上方の坂田藤十郎、二人はともに東西を代表する名優だ。團十郎は三升屋兵庫(みますやひょうご)の名でいろいろな脚本を書き、藤十郎は「夕霧名残(ゆうぎりなごり)の正月」などの傑作を残している。「夕霧名残の正月」は1678年(延宝6年)、藤十郎が初演して空前の大当たりを取った。伊左衛門役が大評判となり、藤十郎は生涯にわたってこの伊左衛門役を演じ続けた。また、近松門左衛門の作品に多く主演して人気を高め、上方俳優の第一人者となった。藤十郎が完成した和事は上方を中心とした代々の俳優に受け継がれた。

 坂田藤十郎の名を一躍、現代に有名にしたのは、大正初期に菊池寛が書いた「藤十郎の恋」だろう。藤十郎はある夜、京のお茶屋の内儀、お梶をかきくどいた。あまりの藤十郎の真剣さにほだされて、遂にお梶が意を決して行灯の灯を消した時、藤十郎は暗闇の中を外へ忍び出た…。人妻と密通する新しい狂言の工夫を凝らすあまりの、それは藤十郎の偽りの恋だった。あくまで写実に徹しようとした藤十郎の芸熱心に、世人は改めて驚嘆の目を見張った。
 坂田藤十郎の名跡は長い間途絶えていたが、2005年、231年ぶりに三代目中村雁治郎が四代目坂田藤十郎を襲名、復活した。

(参考資料)中村雁治郎・長谷川幸延「日本史探訪/江戸期の芸術家と豪商」

杉原千畝・・・国家や政府の枠を超えユダヤ人にビザを発給し続けた外交官

 第二次世界大戦中、国家や政府の枠を超え、自らの立場や身の危険を顧みず、6000人の命を救う道を選んだ一人の日本人外交官がいた。その人物こそ、ここに取り上げる杉原千畝(すぎはらちうね)だ。杉原の生没年は1900(明治33)~1986年(昭和61年)。

 杉原千畝は海外では「センポ・スギハラ」、「東洋のシンドラー」とも呼ばれる。「ちうね」という名の発音のしにくさから千畝自身がユダヤ人に音読みで「センポ」と呼ばせたとされている。いずれにしても杉原は勇気ある人道的行為を行ったと評価され、イスラエル政府から1969年、勲章を授与された。1985年には日本人として初めて「ヤド・バジェム賞」を受賞し「諸国民の中の正義の人」に列せられた。また、リトアニア政府は1991年、杉原の功績を讃えるため、首都ヴィリニュスの通りの一つを「スギハラ通り」と命名した。

 杉原は岐阜県加茂郡八百津町で父好水、母やつの次男として生まれた。旧制愛知県立第五中学(現在の愛知県立瑞陵高等学校)卒業後、千畝が、医師になることを嘱望していた父の意に反し、1918年(大正7年)、早稲田大学高等師範部英語科(現在の教育学部)予科に入学。1919年(大正8年)、日露協会学校(後のハルピン学院)に入学。早大を中退し、外務省の官費留学生として中華民国のハルピンに派遣され、ロシア語を学んだ。そして、1920年(大正9年)12月から1922年(大正11年)3月まで陸軍に入営。1923年(大正12年)3月、日露協会学校特修科を修了。

 1924年(大正14年)、杉原は外務省に奉職。以後、満州、フィンランド、リトアニア、ドイツ、チェコ、東プロイセン、ルーマニアの日本領事館に勤務。そして1940年夏、リトアニア共和国・首都カウナスの日本領事館領事代理時代に、その後の彼の運命を変え、後世に語り継がれる“壮挙”を実行することになる。ソ連政府や日本本国からの再三、退去命令を受けながら、杉原と妻幸子は日本政府の方針や外務省の指示に背いて、ナチス・ドイツの迫害を逃れようとするユダヤ人に、1カ月あまりの間、退去する日、ベルリンへ旅立つ列車が発車する直前まで、駅のホームでビザを発給し続けたのだ。

 ナチス・ドイツに迫害されていたポーランドのユダヤ人は、中立国と思われていたリトアニアに移住した。だが1940年7月15日に親ソ政権が樹立され、ソ連がリトアニアを併合することが確実となった。そうなると、ユダヤ人たちは国外に出る自由を奪われてしまう。またヒトラーの戦略から、いずれは独ソ間で戦争が始まることも十分予想された。そのため、ソ連に併合される前にリトアニアを脱出しなければ、逃亡の経路は断たれてしまうとユダヤ人たちは予感していた。もはや一刻を争う状態だった。

 すでにポーランド、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、フランスがドイツの手に落ちていたので、ユダヤ人の逃亡手段は日本の通過ビザを取得し、そこから第三国へ出国するという経路しか残されていなかった。だが、日本の通過ビザを取るためには受入国のビザが必要だった。ソ連併合に備え領事館が撤退する中、ユダヤ人難民に対して入国ビザを発給する国がない。この窮状を解決したのが、カウナスの各国領事の中で唯一ユダヤ人に同情的だったオランダ名誉領事、ヤン・ツバルテンディクだ。ユダヤ人救済のため彼が便宜的に考えた、カリブ海に浮かぶオランダ植民地キュラソー島行きの「キュラソー・ビザ」を持ってユダヤ人が日本領事館に押し寄せた。1940年7月18日のことだ。

 杉原は7月25日に日本政府の方針、外務省の指示に背いてビザ発給を決断。以後、9月5日までユダヤ人にビザ(=渡航証明書)を発給し続けた。現在、外務省保管の「杉原リスト」には2139人の名前が記されている。その家族や公式記録から漏れている人を合わせると、杉原が助けたユダヤ人は6000人とも8000人ともいわれている。

 1947年4月、杉原は帰国。2カ月後、外務省から突然、依願免官を求められ、外務省を退職。退官後は生活のために職を転々としたが、語学力を活かし東京PXの日本総支配人や貿易商社、ニコライ学院教授、NHK国際局などに勤務。1960年から川上貿易⑭モスクワ事務所長として再び海外での生活を送ることになり、国際交易⑭モスクワ支店代表を最後に退職。日本に帰国したのは75歳のときだった。

(参考資料)杉原幸子「新版六千人の命のビザ」

坂上田村麻呂・・・至難の蝦夷平定を達成した征夷大将軍第一号

 奈良の平城京から京都の長岡京へ、そして平安京へと遷都が繰り返され、日本が新たな律令国家へと向かった歴史の転換期にあって、わが国最初の征夷大将軍、坂上田村麻呂の功績は絶大だった。

 第五十代桓武天皇は国家財政が破綻寸前にあった中で、奥州(陸奥・出羽)=東北の蝦夷の平定と、平城京から長岡京への遷都という難しい国家プロジェクトを並行して行うと宣言した。この計画は一見、一石三鳥に見えなくはなかった。成功すれば北方からの慢性的な脅威は去り、開拓された蝦夷地からは、莫大な税が徴収できる。その税を用いれば遷都は容易となり、天災の補填にも充てられる。

反面、この計画はリスクが大きかった。もし、蝦夷平定が順調に行かなかったらどうなるか。例えば奥州での戦線が膠着したら、兵站はそれだけで国家財政を瓦解させてしまうに違いなかった。そうなれば遷都どころか、国家は立ち往生を余儀なくされ、朝廷の存立自体が問われて、分裂・混乱の事態が出来しかねなかった。心ある朝廷人はこぞって桓武帝の壮挙を危ぶんだが、日本史上屈指の英邁なこの天皇は、自らの計画を変更することはなかった。

そして、この危惧は不幸にして的中してしまう。延暦3年(784)2月、万葉の歌人として著名であり、武門の名家でもあった陸奥按察使兼鎮守将軍の大伴家持が持節征東将軍に任じられ、7500の兵力とともに出陣したが、途中で急逝してしまう。また、長岡京の造営も桓武帝の寵臣で造営の責任者でもあった藤原種継が暗殺され、暗礁に乗り上げてしまう。延暦7年、今度こそはと勇み立った桓武帝は「大将軍」に参議左大弁正四位下兼東宮大夫中衛中将の紀古佐美(56歳)を任じ、5万2000人余の朝廷軍を編成して蝦夷へ派遣した。

しかし、地の利を生かした徹底したゲリラ戦に遭い、古佐美の率いた軍勢は壊滅的な大敗を喫してしまう。まさかの敗戦に、大和朝廷は存亡の危機を迎えた。兵力は底をつき、軍費も枯渇している。長岡京に続いて桓武帝が決断した平安京への遷都の事業も、もはや風前の灯となっていた。

この最悪の状態の中で桓武帝が切り札として北伐の大任に抜擢したのが坂上田村麻呂だ。延暦9年、田村麻呂32歳の時のことだ。ただ、その将才はほとんど未知数だった。正確に記せば初代の征夷大将軍は61歳の大伴弟麻呂が任命されている。弟麻呂は大伴家持が持節征東将軍となったおり、征東副将軍として兵站の実務を執った人物だ。田村麻呂は「征東副使」=「副将軍」への抜擢だった。だが、老齢の弟麻呂は軍勢を直接指揮することをせず、代わって実際の現地指揮は田村麻呂に一任された。

彼は可能な限りの兵力を動員し、征討軍を10万で組織したが、それをもって蝦夷と一気に雌雄を決することはしなかった。武具・武器をひとまず置き、将士には鋤や鍬を持たせた。そして、荒地を開墾しながら、防衛陣地を構築しては、徐々に最前線を北上させていったのだ。相手が攻撃してくれば、容赦なくこれを撃退したが、彼は蝦夷に対し“徳”と“威”をもって帰順を説き、農耕の技術まで教えるという懐柔策を取った。延暦16年11月5日、田村麻呂は「征夷大将軍」となり、4年後の44歳の時、遂に至難の蝦夷平定を達成した。

延暦24年6月、参議に任ぜられ、第五十一代平城天皇、第五十二代嵯峨天皇の御世まで生き続ける。弘仁2年(811)、54歳で病没すると、その亡骸は勅令により、立ちながら甲冑兵仗を帯びた姿のまま葬られたという。

(参考資料)加来耕三「日本創始者列伝」、司馬遼太郎「この国のかたち」、「日本の歴史4/平安京」北山茂夫

                             

坂本龍馬・・・少年時代は劣等性 勝海舟と出会い開眼 第一級の人物に

 坂本龍馬は土佐藩脱藩後、貿易会社と政治組織を兼ねた「亀山社中・海援隊」の結成、「薩長連合」の斡旋、「大政奉還」の成立に尽力するなど、志士として目覚しい活躍をしたといわれる。しかし、龍馬は生前より、むしろ死後に有名になった人物だ。とりわけ司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』で、新たなヒーロー、龍馬像がつくり上げられたようで、それまでの龍馬研究者からは本来の龍馬とは遊離している部分もあるとの指摘も出ている。ここではできるだけつくられたヒーローではない、実像の龍馬を取り上げてみたい。龍馬の生没年は1836(天保6)~1867年(慶応3年)。

 龍馬は土佐20万石の城下、高知に生まれた。諱は直陰(なおかげ)、のち直柔(なおなり)。龍馬は通称。他に才谷梅太郎などの変名がある。本家は才谷屋といって、本町三丁目に広く門戸を張る豪商だった。才谷屋が城下へ出てきた頃は一介の商人に過ぎなかったが、富裕になるに従って郷士の株を買い、二本差しの身分となり、殿様の拝謁を受けるまでになった家筋だ。龍馬はその才谷屋から出た坂本八平の二男三女の子女の中の末子として生まれている。次男で末子ということも彼の活躍を自由にしたのだろう。

 龍馬の少年時代は、あまり芳しいものではない。12歳のとき、小高坂の楠山塾で学ぶが、「泣き虫」と呼ばれ、「寝小便たれ」とからかわれて、遂に抜刀騒ぎまで引き起こし、そのために退塾している。そんな少年龍馬を一所懸命に教え導いたのが、姉の乙女だった。この姉は世にありふれた女性とは異なり、「お仁王様」と呼ばれたほどの女で、学問より武芸のほうが好きだった。龍馬はこの姉を家庭教師に、世間一般の少年が学ぶ課程を終えたのだ。

この点、長州などの勤皇の志士らと随分違うことが分かる。吉田松陰はじめ、高杉晋作、久坂玄瑞、前原一誠など大体は難しい中国の典籍を読み、漢詩などもつくれるというのが相場。土佐勤王党の領袖、武市瑞山も単なる剣術使いではなかった。だが、龍馬にはそれがなかった。だから、少年時代を武張った稽古を中心に育った龍馬には、そうした学問に関する基礎的な知識は遂に身につかなかったのだ。

 龍馬が曲がりなりにも自信を持ってきたのは、学問や知識ではなく、剣道だった。14歳で高知城下の日根野弁治の道場へ入門し、彼はここで並ぶ者なき剣士として成長した。しかし、所詮は田舎でのものだ。そこで、1853年(嘉永6年)剣術修行のため江戸へ出て、北辰一刀流剣術開祖、千葉周作の弟、「小千葉」といわれた千葉定吉の道場(現在の東京都千代田区)に入門した。17歳のときのことだ。佐久間象山の私塾にも通い、砲術を学んでいる。この年は、ペリーが黒船4隻を率いて浦賀に来航、世情が騒然としてきた時期でもあった。

 1854年(安政元年)、龍馬は高知に帰郷。画家で、学者としても知られていた河田小龍(しょうりょう)を訪ねた。小龍は1852年(嘉永5年)ころ高知へ帰ってきた中浜万次郎(ジョン万次郎)から米国の事情など世界認識の眼を大きく開いた人物だった。このとき龍馬は小龍から開国必然説と、後の海援隊につながるビジョンを説かれ、構想を膨らませていったのだ。

 1856年(安政3年)龍馬は再び江戸・小千葉道場に遊学。江戸で武市半平太(瑞山)らと知り合ったことが彼の運命を大きく変える。武市を指導者とする土佐勤王党の一員となるからだ。江戸で2年間の修行を終えた龍馬は北辰一刀流の免許皆伝を得て帰郷した。しかし、河田小龍に会って気付かされた大きな夢は、直面している現実とはかけ離れていた。そのため、龍馬は尊王・攘夷に凝り固まった人物たちとの交流を持つことにうんざりしたのだろう。彼の心は土佐勤王党とも離別、土佐という一国の地を離れて、もっと自由な境を求めて翔んでいたのかも知れない。

 1862年(文久2年)、龍馬は土佐藩を脱藩。千葉定吉の息子、重太郎の紹介で幕府政事総裁職の松平春嶽に面会。春嶽の紹介状を携え、勝海舟に面会して弟子となったのだ。龍馬が抱いてきた大きな夢が果たせるようになったのは、何といっても勝海舟との出会いだった。蒸気船で太平洋横断の壮挙を成し遂げ、米国に渡って使命を果たしてきた勝は、そのころ軍艦奉行並として第十四代将軍家茂の側近に仕えていた。すでに米国を見てきた男は、開国の思想を抱いていた。

 龍馬にとって勝は、日本第一の人物であり、天下無二の軍学者だった。驚くことにその勝に、少年時代“劣等生”に近かった龍馬は認められるのだ。剣術家・坂本龍馬は、いつのまにか世界の情勢にも明るく、軍艦操練の実際にも触れ、軍艦の運航にも詳しい知識人として頭角を現してくる。そして、幕末の政局を海の男として存分に闊歩するのだ。薩長の連合も、龍馬がいてこそ成立したものだ。さらに大政奉還の“大芝居”も龍馬が画策したのだ。こうした世間の意表を突くような大事件が次々に実行された背景には、龍馬の自由にして雄大な夢がいつもついて回っていたといえよう。

 龍馬になぜ、これほど大きなことができたのか。やはり、龍馬の陽気な性格、雄大な志、そして真っ直ぐな行動力を備えていたことに加え、勝海舟の門弟だったことが何より大きな要因だ。そして龍馬自身、海軍操練所の運営を任されるほどの成長を遂げていたからだ。勝が背後についていたからこそ、龍馬は西郷隆盛と会い、木戸孝允とも知り合うことができた。越前福井藩の松平春嶽や大久保一翁と言葉を交わすこともできたのだ。幕末における第一級の人物と、彼ほどに多く言葉を交わした男は少ないだろう。第一級の人物を相識(あいし)ることで、彼もいつのまにか第一級の人物と世間で認められるようになっていたのだ。

 龍馬は1867年(慶応3年)、京都河原町の寄宿先、醤油商・近江屋で来合わせていた中岡慎太郎とともに、京都見廻組-佐々木唯三郎一派に暗殺された。近江屋の主人、井口新助は龍馬が刺客に狙われているのを気遣い、裏庭の土蔵に密室をこしらえ、万一の場合には裏手の梯子を下りて、誓願寺の方へ逃れるよう準備していた。これは近江屋の家の者にも秘密としてあった。

ところが、不運にも遭難の当日、龍馬は前日から風邪気味で、裏庭の土蔵にいては用便などに不自由だからということで、主家の二階へ移っていたのだ。不便さを我慢して土蔵で会っていれば、中岡慎太郎ともどもこの危難に遭うことはなかったのではないか。龍馬は頭と背に重傷を受けて即死、中岡慎太郎は全身に11カ所に重軽傷を受けており、2日後、絶命した。

(参考資料)平尾道雄「坂本龍馬 海援隊始末記」、平尾道雄「維新暗殺秘録」、童門冬二「坂本龍馬の人間学」、奈良本辰也「幕末維新の志士読本」、安部龍太郎「血の日本史」、加来耕三「日本創始者列伝」、宮地佐一郎「龍馬百話」、豊田穣「西郷従道」

佐久間象山・・・幕末、一貫して開国論を唱え続けた天才・自信家

 佐久間象山は元治元年(1864)7月11日夕刻、京都三条木屋町で刺客、肥後藩士・河上彦斎に暗殺された。享年54歳だった。象山は当時でも稀な大自信家だった。果たして実像はどうだったのか。

佐久間象山の塾で教えを受けた吉田松陰は、兄の杉梅太郎に送った手紙のなかで、象山を「慷慨気節あり、学問あり、識見あり」と称え、「当今の豪傑、江戸の第一人者」と記し、山鹿素水・安積艮斎らをも凌ぎ「江戸で彼にかなう者はありますまい」とまで書いている。象山には“大法螺(おおぼら)吹き”とか“山師”といった批判もあった反面、非常に見識のあった人物だ。ペリーの来航を機に攘夷の虚しさを認識し、これ以後、開国策を終始一貫して全く変えないで、あの時代に主張したのは彼だけだ。象山とともに開国論を唱えていた横井小楠は攘夷の側へブレているが、30年間ずっと世界の大勢を説いて、開国論を唱えてきたのは彼以外にいないのだ。

 象山の言葉にこんなのがある。
「余、年二十以後、すなわち匹夫にして一国に繋ることあるを知る。三十以後、すなわち天下に繋ることあるを知る。四十以後、すなわち五世界に繋ることあるを知る」 

 意味するところは、20代は松代藩、つまり藩単位でものを考えていた。30歳を過ぎると、天下=日本の問題としてすべてを考えるようになってきた。40歳以降になると、全世界というものを考えるようになってきた-というわけだ。勉強すればするほど問題意識が広がるし、それにつれて自分の使命感も重くなる。そんな心境を表現しているとみられる。

 勝海舟の妹にあたる妻の順子に、象山自作のカメラのシャッターを押させて撮った写真が残っている。晩年の象山の姿だという。これをみると、象山は西洋人ではないかと思われるような、ちょっと変わった顔をしている。安政元年正月、ペリーが和親条約締結のため二度目に日本に来たとき、象山は横浜で応接所の警護の任にあたっていて、たまたま、ペリーが松代藩の陣屋の前を通り、軍議役として控えていた象山に丁寧に一礼したことがあったという。日本人でペリーから会釈されたのは象山だけだというので、当時、語り草になった。これは象山の風采が堂々としていて、当時の日本人としては異相の人だったことを物語るエピソードだ。

 象山は天才意識が強く、大変な自信家だった。彼は自分の家の血統を誇りに思って、優れた子孫を遺そうと必死になっている。蘭学の勉強を始め、普通は1年かかるオランダ文法を大体2カ月でマスターした。そして8カ月も経った頃には、傍らに辞書をおけばもうすべて分かるようになったと手紙に書いている。ショメールの百科全書を読みながらガラスを作ったりもしているのだ。また、大真面目にあちこちへお妾さんを世話してくれという手紙を書いている。これも自分のような立派な男子の種を残すということは、国家に対して忠義だというような調子で語っている。少し度を超えた自信家である。現代の日本人にぜひ欲しいくらいの自信だ。

 象山は文化8年(1811)、信州松代藩の下級武士の家に生まれた。彼は誰に教わることもなく、3歳にして漢字を覚えた。早くから彼の才能に目をつけた城主、真田幸貫の引き立てで学問などに修養。天保12年(1841)幸貫が幕府の老中に就任するや、翌年、彼を海防係の顧問に抜擢した。象山32歳のことだ。それまで漢学に名をなしていた象山が、洋学に踏み入ったのもこの幸貫の信頼に報いるためだった。優れた漢学者としての“顔”に加え、後半生、洋学に心血を注いだ象山は、それがもたらした科学を西洋の芸術と称え、これと儒教の道徳との融合を自分の人生と学問の究極と考えていた。

 幕末、京都における象山の立場はかなり自由なものだった。彼は幕府の扶持を貰いながら、山階宮や一橋慶喜からの招請に応じ西洋事情を説くなど、その諮問に応じ、また朝廷に対する啓蒙活動を続けていた。ただ彼が日本の将来を考えて飛び回り、活躍すればするほど、その死期が刻々と近づきつつあった。

彼のその風采ともあいまって、京の街では目立ち過ぎたのだ。
 象山を暗殺した河上彦斎は、幕末の暗殺常習者の中でも珍しく教養のある方だったが、この後、彼は人が変わったように暗殺稼業をやめた。斬った瞬間、斬ったはずの象山から異様な人間的迫力が殺到してきて、彼ほどの手だれが、身がすくみ、心が萎え、数日の間、言い知れない自己嫌悪に陥ったという。

(参考資料)奈良本辰也「歴史に学ぶ」、日本史探訪/開国か攘夷か「佐久間象山 和魂洋才、開国論の兵学者」(奈良本辰也・綱淵謙錠)、奈良本辰也「不惜身命」、奈良本辰也「幕末維新の志士読本」、平尾道雄「維新暗殺秘録」、司馬遼太郎「司馬遼太郎が考えたこと4」

                             

真田幸村・・・天才軍師は虚像 配流生活の“総決算”が大坂冬・夏の陣

 真田幸村は江戸時代以降に流布した、小説や講談における真田信繁の通称。真田十勇士を従えて大敵、徳川に挑む天才軍師、真田幸村として取り上げられ、広く一般に知られることになったが、彼自身が「幸村」の名で残した史料は全く残っていない。また、真田家の戦(いくさ)上手の評価も、父昌幸由来のもので、信繁の戦功として記録上、明確に残っているものは1600年、真田氏の居城・上田城で父昌幸とともに徳川秀忠軍と戦ったものと、大坂冬の陣・夏の陣(1614~15年)での活躍しかない。戦いに明け暮れた智将・軍略家のイメージがあるが、これはあくまでも小説や講談の世界のもので、実態は意外に地味なもののようだ。

 真田信繁は真田昌幸の次男で、武田信玄の家臣だった真田幸隆の孫。信繁の生没年は1567(永禄10)~1615年(慶長20年)、ただ一説には生年1570年(永禄13年)、没年1641年(寛永18年)ともいわれる。

 関ケ原の戦いに際しては、信繁は父昌幸とともに西軍に加勢し、妻が本多忠勝の娘で徳川軍の東軍についた兄信之と袂を分かち戦った。昌幸と信繁は居城・上田城に籠もり、東軍・徳川秀忠軍を迎え撃った。寡兵の真田勢が相手だったにもかかわらず、手こずった秀忠軍は上田城攻略を諦めて去ったが、結果として秀忠軍は関ケ原の合戦には間に合わなかった。

 しかし、石田三成率いる西軍は東軍に敗北。昌幸と信繁は本来なら切腹を命じられるところだったが、信之の取り成しで紀伊国高野山麓の九度山に配流された。信繁は34~48歳までの14年間、この配所の九度山で浪人生活を送った。父昌幸は1611年(慶長16年)、失意のうちにこの配所で死去している。

 信繁が再び歴史の表舞台に登場するのは大坂冬の陣・夏の陣だ。1614年(慶長19年)に始まる冬の陣では信繁は当初、毛利勝永らと籠城に反対し、京を押さえ宇治・瀬田で積極的に迎え撃つよう主張した。しかし籠城の策に決すると、信繁は大坂城の弱点だった三の丸の南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城を築き、鉄砲隊を用いて徳川方を挑発し、先方隊に大打撃を与えた。これにより越前松平勢、加賀前田勢などを撃退し、初めて“真田信繁”として、その武名を知らしめることになった。

 冬の陣の前に大坂城に集まった浪人は10万人を超えた。主家を滅ぼされたり、幕府の酷政によって取り潰された者たちが、豊臣家の勝利に出世の望みを託して集まったのだ。だが、冬の陣の和議によって大坂城の堀を埋め立てられ、本丸だけのいわば裸城となって勝利の望みがなくなった今も、7万人もの浪人が城に残っていた。生き長らえても、徳川の世に容れられる望みのない者たちばかりだ。夏の陣に家康は16万の軍勢を大和路と河内路の二手に分け布陣した。

 対する大坂方は悲惨だった。兵力は敵の半数以下で、しかも総大将たるべき者がいなかった。秀頼には合戦の経験がなく、大野治長は闇討ちに遭って重傷を負い、総大将と目されていた織田有楽斎に至っては早々と城を逃げ出していた。真田信繁、毛利勝永、後藤又兵衛、木村重成、長曽我部盛親ら、大阪方の武将は、誰が全体の指揮を執ると決めることができず、互いに横の連絡を取り合って、戦わざるを得なかった。

 夏の陣では、信繁は道明寺の戦いで伊達政宗の先鋒を銃撃戦の末に一時的に後退させた。その後、豊臣軍は劣勢となり、戦局は大幅に悪化。後藤又兵衛や木村重成などの主だった武将が討ち死にし疲弊。そこで信繁は士気を高める策として豊臣秀頼自身の出陣を求めたが、側近衆や母の淀殿に阻まれ失敗した。

豊臣軍の敗色が濃厚となる中、信繁は毛利勝永と決死の突撃作戦を敢行する。その結果、徳川家康本営に肉薄。毛利勢は徳川方の将を次々と討ち取り、本多勢を蹴散らし、何度も本営に突進した。真田勢は越前松平勢を突破し、毛利勢に手一杯だった徳川勢の隙を突き徳川家康の本陣まで攻め込んだ挙句、屈強で鳴らす家康の旗本勢を蹴散らした。しかし、手薄な戦力ではここまでが限界だった。信繁の手勢は徐々に後退、最終的には数で勝る徳川軍に追い詰められ、信繁は遂に四天王寺近くの安居神社(現在の大阪市天王寺区)の境内で斬殺された。

男盛りの14年間を九度山で、不自由で困窮を極めた配流生活を送った信繁の人生の“総決算”が、この大坂冬の陣・夏の陣だったのだ。そう考えると、信繁の不器用な生き方が少し哀れな気もする。虚構の真田幸村とは大きく異なり、真田信繁は実利や権勢は全く求めず、武将としての潔さが目を引く人物だったのだろう。

 信繁討死の翌日、秀頼、淀殿母子は大坂城内で自害、ここに大坂夏の陣は徳川方の勝利に終わった。そして、磐石な徳川の時代が始まった。

(参考資料)司馬遼太郎「軍師二人」、司馬遼太郎「関ケ原」、安部龍太郎「血の日本史」、神坂次郎「男 この言葉」、池波正太郎「戦国と幕末」、海音寺潮五郎「武将列伝」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

三条実美・・・維新政府の太政大臣、憲政内閣誕生後は内大臣を務めた名家

 三条実美(さんじょうさねとみ)は、藤原北家閑院流の嫡流で太政大臣まで昇任できた清華家の一つ、三条家という公家の中でも名家に生まれた。そして彼自身、明治政府の太政官では最高官の太政大臣を務めた。彼は岩倉具視とは正反対に、策を弄するなどということが一切できず、どこまでも素直であり、太政大臣になっても、自分のために政治を利用するなどということは決してなかった。
ちなみに、1879年(明治12年)、太政大臣・三条実美の月俸は800円、右大臣・岩倉具視の月俸は600円、巡査の月給は10円、米が一升7銭だった。やはり、太政大臣というのはそれだけの貴官しか就けない職責だったのだ。

当時の顕官の中には、飾り物として太政大臣の三条実美は役に立つなどと高言する者もいたが、彼は内外に眼がよく届き、それぞれ一城の主だった参議たちを宥め、首相としての職を果たした。民間に国会開設の声が盛んになると、1885年(明治18年)、自ら太政大臣の職を解いて、後継の首相を伊藤博文に任せ、初めて憲政内閣の誕生に努めた。内閣制度発足後は最初の内大臣を務めている。
 三条実美(正式には三條實美)の父は贈右大臣・実万(さねつむ)、母は土佐藩主・山内豊策の娘、紀子。実美の妻は関白・鷹司輔煕の九女、治子。実美は「梨堂」と号した。生没年は1837(天保8)~1891年(明治24年)。

 実美は1854年(安政元年)、兄の公睦の早世により家を継いだ。幕府の大老・井伊直弼が断行した「安政の大獄」で処分された父、実万と同じく尊皇攘夷派の公家として1862年(文久2年)、勅使の一人として江戸へ赴き、徳川第十四代将軍家茂に攘夷を督促し、この年、国事御用掛となった。長州藩と密接な関係を持ち、姉小路公知とともに、尊皇攘夷激派の公卿として幕政に攘夷決行を求め、孝明天皇の大和行幸を企画した。

 ところが、思わぬ事態が起こった。1863年(文久3年)、公武合体派の中川宮らの公家や薩摩藩・会津藩らが連動したクーデター、「八月十八日の政変」だ。これにより実美は朝廷を追われ、京都を逃れて長州へ移った(七卿落ち)。その後、長州藩に匿われ、福岡藩に預けられ、さらに大宰府へ移送され3年間の幽閉生活を送った。失意の日々だった。

 しかし、時代はまだ実美の出番を用意していた。1867年(慶応3年)の王制復古で表舞台に復帰したのだ。彼は成立した新政府で議定(ぎじょう)となった。議定は明治政府発足後(1867年12月~)設けられた中央管制の三職(総裁、議定、参与)の一つで皇族や公家、藩主などから10人が任じられた。翌年には1868年1月に新設された総裁を補佐する副総裁に就任。戊辰戦争においては関東監察使として江戸に赴いた。そして、1869年(明治2年)には右大臣、1871年(明治4年)には7月から採用された太政官制のもとで遂に太政大臣となったのだ。

(参考資料)文藝春秋編「翔ぶが如くと西郷隆盛」

平清盛・・・日本初の武家政権を開き、武士では初の太政大臣を務めた人物

 平清盛は平安時代、周知の通り日本で初めて武家政権を開いた人物だ。保元・平治の乱を経て、源氏との戦いに勝利した、清盛の率いる平家はその後、旭日昇天の勢いで勢力拡大していくことになる。清盛は8年間に、正四位から従一位へ、ポストは左右大臣を飛び越えて、武士では初めて太政大臣となった。『源平盛衰記』によると、一門の栄達も重盛の内大臣をはじめ、公卿16名、殿上人30人余、その他の国司や衛府の武官は80人余にも達した。

 また、娘の徳子を高倉天皇の「中宮」として参内させ、皇子をもうけるや1歳3カ月の幼帝(=安徳天皇)を誕生させた。清盛は天皇の外祖父となり、朝廷内に閨閥を張り巡らせ、天下の権を掌中にした。まさに、“平氏にあらずんば人にあらず”(『平家物語』)といわれたほどの隆盛ぶりだったのだ。

 ただ、清盛は新しい世の中のしくみをつくり変えるまでの意欲を示し得ぬまま、旧来の王朝政治を踏襲しつつ、多少の“繕い”を施したにとどまった。そのため、本格的な武家社会の構築は、次代の鎌倉幕府・源頼朝に委ねられた。

 平清盛は、伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡子として、伊勢産品(うぶすな、現在の三重県津市産品)で生まれた。生母は不明だが、祇園女御の妹という説が有力だ。母の死後、祇園女御の猶子になったといわれる。この祇園女御の庇護の下に育ったことから、清盛は一説には白河法王の落胤ともいわれる。清盛、浄海などに改名。別名・平大相国(たいらのだいしょうこく)、六波羅殿、福原殿、清盛入道などとも呼ばれた。清盛の生没年は1118(元永元)~1181年(治承5年)。

清盛の父、忠盛が死去し平氏の棟梁となったとき、清盛は36歳だった。時代はまさに大きな転換期を迎えていた。奈良朝から平安時代にかけて、日本は公地・公民の制度を政治の根幹としてきたが、長い泰平はいつしかこの基本をタテマエにすりかえてしまった。中央の貴族や大寺院・大神社などは、己れの特権を活かして、“荘園”という名目の私領をつくり、増やすことに熱中した。

そのため、中央での出世を諦めた官僚たちは、地方の役人として天下り、官権を利用して公民を使役し、原野を開墾したり、公地を詐取して、さらには婚姻政策で勢力を拡大。そうして得た領地(荘園)を、朝廷の権力外にある、勢力ある公卿や神社仏閣に寄進し、自らはその管理人となった。

 もちろん、このしくみは名目に過ぎない。寄進とはいえ、名義料的年貢を納入することで、国家の課税や課役を免れるのだから、その貯えは莫大なものになった。こうして全国に無数の在地地主(後の武士)が誕生した。その一方で、藤原氏の摂関政治に代わって、退位した天皇(上皇)が院庁を開き、“治天の君”と呼ばれ、朝廷の政治権力を掌握するシステム「院政」が生まれていた。

 平安時代末期、先の平治の乱では平氏に敗れたものの。東国武士団の頭領として源氏が登場、源義経など天才的な軍略家を輩出。配下の武将にも戦場で大活躍する多くの名将が出てくる。しかし、この清盛は戦場での名将とは言い難い。むしろ戦術を政略とからめて考察するタイプの武将だった。彼は終始、朝廷の機嫌を取り、次の後白河法皇による院政ではその保護を得て、前代未聞のスピードで昇進し、権力の座へかけ昇っていった。1167年に太政大臣となり、1171年に娘の徳子を高倉天皇の中宮として入内させ、生まれた子を安徳天皇として即位させ「天皇の外戚」という立場を手に入れた。

 位人臣を極めた清盛は、平氏一門を高位高官に取り立てた。その結果、一門の知行国は30を超え、所有する荘園は500カ所以上に上った。また、父忠盛が関与を始めた「日宋貿易」を積極的に行い、莫大な富を手中に収めることに成功、平氏政権の財政を支えた。

 さらには平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、1179年(治承3年)の政変で法皇を幽閉して、幼帝・安徳天皇を擁し、清盛は政治の実権を握ることに成功する。だが、平氏の独裁は貴族・寺社・武士などから大きな反発を受けることになる。やがて、各地で源氏による平氏打倒の兵が挙がり、緊迫した情勢の中、平氏にとってあってはならない悲劇が起こる。総帥・清盛が熱病を発症、あっけなくその生涯を閉じたのだ。

大黒柱の清盛を失った平氏はその後、まさに坂道を転げ落ちるようにその勢いは衰え、清盛の死後、わずか4年後の1185年、壇の浦の戦いで敗れ滅亡した。清盛の存在があまりにも大きすぎたことと、彼が武家による新しい世の中のしくみや、統治システムを用意できないまま亡くなったためだ。

(参考資料)海音寺潮五郎「武将列伝」、加来耕三「日本創始者列伝」、井沢元 彦「逆説の日本史・中世鳴動編」

沢庵宗彰・・・権力に与(くみ)せず、心の潔白を通した名僧

 沢庵宗彭(たくわん そうほう)は書画・詩文に通じ、茶の湯(茶道)にも親しみ、多くの墨跡を残した江戸時代の臨済宗の名僧で、大徳寺の住持として知られている。とくに第三代将軍徳川家光が、この沢庵に深く帰依したといわれている。また、一般的に「沢庵漬け」の考案者といわれているが、これについては諸説あり、詳細は定かではない。沢庵の生没年は1573(天正元)~1646(正保2年)。

 沢庵宗彭は出石城主山名祐豊の重臣、秋庭綱典の次男として但馬国出石(現在の兵庫県豊岡市出石町)で生まれた。諱は普光国師(300年忌にあたる1944年に宣下)。東海・碁翁などの号がある。沢庵が8歳のとき山名家は羽柴秀吉に攻められて滅亡し、父は浪人した。沢庵は10歳で出石の唱念寺で出家し、春翁の法諱を得た。14歳で出石の宗鏡寺に入り、希先西堂に師事、秀喜と改名した。1591年(天正19年)、希先西堂が没すると、この間に出石城主となっていた前野長康は大徳寺から春屋宗園の弟子、薫甫宗忠を宗鏡寺の住職に招いた。沢庵も宗忠に師事することになった。

 1594年(文禄3年)、薫甫が大徳寺住持となり上京したため、沢庵もこれに従い大徳寺に入った。大徳寺では三玄院の春屋宗園に師事し、宗彭と改名した。薫甫の死後、和泉国堺に出たが、堺では南宗寺陽春院の一凍紹滴に師事し、1604年(慶長9年)、沢庵の法号を得た。1607年(慶長12年)、沢庵は大徳寺首座となり、大徳寺塔頭徳禅寺に住むとともに、南宗寺にも住持した。1609年(慶長14年)、37歳で大徳寺の第154世住持に出世したが、名利を求めない沢庵はわずか3日で大徳寺を去り、堺へ戻った。1620年(元和6年)、郷里出石に帰り、藩主小出吉英が再興した宗鏡寺に庵を結んだ。

 江戸幕府は寺院法度や禁中並公家諸法度で、寺社および、寺社と朝廷との関係を弱めるため、規制をかけた。1627年(寛永4年)、後水尾天皇が幕府に諮ることなく行った紫衣着用の勅許について、幕府は早速、法度違反と見做して勅許状を無効とし、京都所司代に紫衣の取り上げを命じた。これに反対した沢庵は、急ぎ京へ上り前住職の宗伯(そうはく)と大徳寺の僧をまとめ、妙心寺の単伝(たんでん)、東源(とうげん)らとともに反対運動を行った。

 僧籍にあるものといえども、幕府の政事に異を唱えた代償は大きかった。1629年(寛永6年)、幕府は沢庵を出羽国上山に、宗伯を陸奥国棚倉、単伝は陸奥国由利、東源は津軽へそれぞれ流罪とした。上山藩主の土岐頼行は流されてきた名僧沢庵の、権力に与しない生き方と、心さえ潔白なら身の苦しみなど何でもない-とする姿に心を打たれ、歌人でもあった沢庵に草庵を寄進した。沢庵はここを「春雨庵」と名付けてこよなく愛したといわれている。頼行は藩政への助言を仰ぐなどして沢庵を厚遇した。

 1632年(寛永9年)、第二代将軍徳川秀忠の死により、大赦令が出され、南光坊天海や柳生宗矩の尽力により紫衣事件に連座した者たちは許された。沢庵は1634年(寛永11年)、宗伯とともに大徳寺に戻った後、将軍家光が上洛した際、天海や柳生宗矩らの強い勧めを受けて、家光と謁見した。このころから家光は沢庵に深く帰依するようになった。そのため同年、郷里に戻ったが、翌年家光に懇願されて再び江戸へ下った。

沢庵は江戸に留まることを望まなかったが、家光の強い要望があり、帰郷することはできなかった。1639年(寛永16年)、家光は萬松山東海寺を創建し、沢庵を住職とした。家光は政事に関する相談も度々行ったが、これは家光による懐柔工作と考えられている。それは、逆に言えば、沢庵の影響力がいかに強かったかを物語っている。

 だいこんの漬物、いわゆる「沢庵漬け」は、この沢庵が考案したものといい、あるいは関西で広く親しまれていたものを、沢庵が江戸に広めたともいう。後者の説によれば、徳川家光が東海寺に沢庵を訪れた際、だいこんのたくわえ漬けを供したところ、家光が気に入り、「たくわえ漬けにあらず、たくわん漬けなり」と命名したと伝えられているが、風聞の域を出ない。

(参考資料)紀野一義「名僧列伝」

徳川家康・・・ケタ外れの忍耐強さと用心深さ・賢明さが天下人の要因

 徳川家康は周知の通り、江戸に幕府を開いた開祖だ。だが、3歳で母と生き別れ、6歳の幼さで人質として駿府へ送られた家康(当時は竹千代)。そして信長、秀吉の時代を耐え忍び、1600年(慶長5年)9月の「関ケ原の戦い」で勝利を収めるまでの苦難の道のりは、「長くて遠い道」だった。関ケ原後も即、徳川政権へ道が開かれたわけではなかった。通常、よく引き合いに出される織田信長・豊臣秀吉と比較して、家康の天下取りに向けての忍耐強さは抜きん出ている。天下を取ったのは家康62歳のときのことだ。現代の62歳ではない。とても、尋常な生命力ではない。家康の生没年は1542(天文10)~1616年(元和2年)。

 関ケ原の戦いで家康が勝ったといっても、大坂城の豊臣秀頼の地位が低下したわけではなかった。家康はその後も秀頼を主君とする五大老の、筆頭であっても、地位はそのままだった。ところが、1603年(慶長8年)、家康が征夷大将軍に任じられた。これに対し、秀頼はそのまま豊臣政権のトップとして大坂城にいた。これによって、幕府を開いた江戸の徳川政権と大坂の豊臣政権という、二つの政権が併存するという変則的な形となった。それでも大坂方には、家康が征夷大将軍になったのは当座のこと。秀頼様が成人した暁には、政権を戻すはず-という楽観論があった。

 ところが、その2年後、そんな大坂方の楽観論が無残に打ち砕かれる。家康が突然、将軍職を子の秀忠に譲ってしまったからだ。家康は、将軍職は徳川家が世襲すると内外に宣言したわけで、大坂方にはショックだった。

さらに追い打ちをかけるように家康は、天皇の権威を使って豊臣家の権威を乗り越え、諸大名より一段上に立つための手を打つ。1606年(慶長11年)、家康は宮中に参内したとき、朝廷に対し「武家の官位は以後、家康の推挙なしには与えないように」と申し入れているのだ。すなわち直奏(大名家と朝廷との官位の直接取引)の禁止だ。戦国期のように、大名が金を積んで官位を買い取ることをできなくするとともに、大坂の秀頼が官位を左右することを防ぐためだ。これは、官位授与権の独占であり、このことによって、秀頼と家康の立場は完全に逆転したわけだ。

この後、老獪な家康は豊臣家に対し様々な謀略を仕掛け、豊臣政権の官僚・石田三成に不満を持つ豊臣家の大名を巧みに自派に取り込み、「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」を経て、遂に豊臣家を滅亡に追い込む。秀吉が全国を統一してから、まだわずか25年後のことだった。周知の通り、徳川家15人の将軍による治世は265年を数えたことを思えば、極めて短命だったといわざるを得ない。

 また家康は、朝廷側にとって一言も弁明できない不祥事=朝廷の弱味を握ることで、対朝廷工作を有利に、主導権を持って進めることができたのだ。朝廷側の不祥事とは1609年(慶長14年)の宮中の「官女密通事件」だ。「宮中乱交事件」などともいわれているもので、後陽成天皇の寵愛を受けている宮中の女官たち5人が、北野、清水などで、やはり数人の中下級の青年公家たちとフリーセックスを楽しんでいたというものだ。この事件を家康は巧みに政治的に利用したのだ。

 この密通事件に対する家康の内意は、処罰は天皇の叡慮次第としたのに対し、天皇は主謀者以下、全員を極刑(死罪)に処すべし-との判断が下ったのだ。幕府や京都所司代が予想していなかった厳刑だ。古来、官女の密通事件は珍しいことではない。確かにこのときほど大掛かりな事件は未曾有のことだったが、処罰が斬罪にまでなった例はなかった。官位授与にあたって、強引な家康の申し入れを飲まざるを得ない、朝廷として弁解の余地がない不祥事を起こされたことに対する、天皇の怒りの激しさが窺われる。

 朝廷の劣勢は続き、この処分についても最終的には家康の裁断に任された。後陽成天皇は愛妾数人に裏切られ、さらにその処罰について幕府の強い干渉を受け、二重に屈辱を被ったわけだ。
 こうして家康は、朝廷・公家を押さえ込むことに成功。1615年、大名の力を抑える、巧妙な大名統制システムをつくり上げる前提となった武家諸法度に加え、禁中並公家諸法度を制定し、朝廷の統制を図ったのだ。これは、天皇の行動まで規定した厳しいものだった。豊臣政権時代にはまず考えられなかったことだ。これによって、徳川の長期安定政権が実現されたといえよう。

 ここまで関ケ原の戦いに勝利した以後の家康の動きを見てきたが、そもそも戦国時代から安土・桃山(織豊政権)時代を経て、天下人・徳川家康が誕生するにあたって、家康のどのような点が優れていたのだろうか。
第一は忠誠無二で、最も良質な兵を持っていたことだ。戦国時代、最も良質な兵は武田氏の甲信兵と上杉氏の越後兵だが、家康の配下、三河兵も決してこれらに劣らず、あるいは優っていたとまでいわれる。

第二は家康の用心深い性格だ。幼いとき継母の父に裏切られ、長く他家の人質になっていたという悲しい経験がつくり上げたのだろう。彼は何度か、石橋を二度も三度も叩いて確実に安全であることを確かめてからでなければ渡らないことがあった。・それまで桶狭間の戦いで織田信長に敗れた今川勢が守っていた岡崎城に帰還したとき、主家の今川氏の許可なしには入城できないと、今川勢が引き揚げ、空き城になるまで待った・信長から同盟の申し込みがあったとき、・小牧・長久手の戦いの後、豊臣秀吉に帰服したときもそうだった。焦れた秀吉から、その妹と母とを人質に取ったうえで、やっと腰を上げて京へ赴き帰服したのだ。

 第三は、彼が真に勇気ある武将だったことだ。決断するまでは用心深く、臆病なくらいなのだが、いったん決心し戦場に臨むと、勇猛果敢に戦うのだ。その端的な例が「三方ヶ原の戦い」だ。京に上ることを決心した武田信玄が、家康の居城の近くを通ろうとしたとき、彼は一矢も射掛けないまま通したのでは、後世、徳川家は腰抜けと悪口をいわれるぞ-と配下に命じ、信玄に遮二無二、戦を仕掛けたのだ。結局、この戦いに彼の生涯に一度という惨敗を喫して、一命も危ういほどの目に遭うが、それでもこの戦いは、徳川家の武士の誇りと体面を保つ、彼の輝かしい戦歴の一つになった。
 第四は、家康が賢明さを持ち合わせた人物だったことだ。彼が小牧・長久手の戦いで、秀吉の大軍と対峙したときのことだ。秀吉軍約11万に対し、家康軍はわずか約1万8000だった。ところが、家康軍は局地戦では奇襲戦術で応じ、散々撃破したが、決して深追いせず、その後は素早く兵を引き揚げ、相手にならず、挑発にも決して乗ることはなかった。この合戦で実質上、天下人だった秀吉と休戦・講和に持ち込んだことが、その後どれほど家康を利したことか。

秀吉が終世、家康を憚ったのは主としてこのためだ。秀吉は合戦の場で、家康を破り、屈服させることができなかったことで、名実ともに武家の棟梁を意味する征夷大将軍補任、すなわち幕府開設への道を閉ざされたわけだ。そして、家康のこの戦歴が後年、諸大名に対する無言の圧力となって効いてくるのだ。

合戦であの天下人となった太閤殿下(秀吉)に負けたことがなかった武将として、徳川家康は同列の武将から一歩抜きん出た存在として誰もが一目置かざるを得ない人物として、強烈に意識されクローズアップされるとともに、ついて従っていかざるを得ない状況がつくり出されることになるのだ

(参考資料)海音寺潮五郎「覇者の條件」、海音寺潮五郎「武将列伝」、司馬遼太郎「覇王の家」、司馬遼太郎「城塞」、司馬遼太郎「関ヶ原」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、井沢元彦「逆説の日本史」、今谷明「武家と天皇」

武田信玄・・・上杉謙信と武名を二分し、織田信長が恐れた武将

 武田信玄は甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第十九代当主で、戦国時代、越後の上杉謙信と武名を二分した名将だ。歴史に「…たら」「…れば」と仮定の話をしても仕方ないのは十分承知しているが、敢えて信玄があと10年健在だったら、歴史はかなり変わっていたのではないか-と考えざるを得ない。

果たして、織田信長の「天下布武」があったかどうか?そうなると、豊臣秀吉の天下は?とその後の歴史に?をつけてみたくなる。織田信長が、上杉謙信とともに最も恐れていた戦国大名、それが武田信玄だ。

信玄が人生の総決算として、戦国時代、とくに良質で屈強といわれた甲斐兵の大軍団を率い、満を持しての上洛の途上、病に倒れただけに、なおさらその可能性を膨らませてしまう。何しろ徳川家康は無謀な戦を仕掛け、惨敗して武田軍の強さに脅えているし、織田信長は初めから戦うことを放棄し、信玄の上洛を黙って見ているほかなかったのだから。

 武田信玄は甲斐国・躑躅ヶ崎館で第十八代当主・武田信虎の嫡男として生まれた。幼名は勝千代。諱は晴信。信玄は出家後の法名。信玄の生没年は1521(大永元)~1573年(元亀4年)。
 信玄は8歳のとき長禅寺という寺で手習いや学問を習った。上達が早く、一を聞いて十を知るというような利発な子供だった。玄恵法師が著したとされる『庭訓往来』を2、3日で内容をすべて学び取ってしまったといわれる。

 ただ、信玄が武田家の家督を継ぐまでには今日、信玄にとって理不尽で筆舌に尽くし難いほどの労苦が伝えられている。戦国武将の生い立ちをみると、本来、家督を継ぐはずの長子でありながら幼少期、様々な理由から意識的に疑問符を付けられ、その資格を剥奪され、廃嫡されかけた人物は少なくない。著名な例を挙げれば、織田信長がそうだし、伊達政宗もそうだった。ここに取り上げる武田信玄は、その極端な例といえる。

信玄の父、武田信虎は甲斐一国を統一したほど、戦(いくさ)上手だったが、最悪な性質で家来にも民にも忌み嫌われたと伝えられ、信玄を愛さなかった。信虎は弟の信繁を愛した。信玄にはことごとく辛く当たり、信玄が何かを言い返せば、言い返すほど叱責、罵倒の繰り返しとなった。信長の父、織田信秀や、政宗の父、伊達輝宗の場合は、まだ彼らを愛していた。それだけに救いがあったが、信玄の場合は救われようがなかった。

 このため、武田家の家臣団の動向もはっきりしていた。大部分の家臣が弟の信繁に傾き、信玄は子供の頃からバカにされていた。そこで信玄はそういう空気を察し、自ら“道化者”を装った。青少年時代の彼は、事あるごとに道化者の晴信として終始した。だから、武田家の家臣の多くは当然のことながら信繁に忠誠心がいった。

ところが、信玄にも忠臣がいた。甘利虎泰、板垣信方、飯富虎昌らだ。彼らは信玄の道化ぶりを信じなかった。むしろ、そういう道化者を自己演出している信玄の深慮ぶりに舌を巻いていた。そこで、彼らは陰となく日向となく信玄を支えた。

 やがて武田家臣団は、当主の信虎が能力の有無に関わりなく、私情の面で信玄を嫌っていると判断するようになった。その結果、家臣団の気持ちは信虎から離反、細心の注意と万全の準備をもって進められた、信玄による父、信虎の駿河追放は何の混乱もなく達成された。

 名実ともに甲斐国の国主となった信玄は隣国、信濃に侵攻する。その過程で対立した越後の上杉謙信と五回にわたる「川中島の合戦」を戦いつつ、信濃をほぼ平定し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領有するまで、武田氏の領国を拡大した。

 信玄は戦争が上手だっただけでなく、政治的手腕も卓抜だった。彼は新しく占領した土地は、決して武士たちの行賞の対象にせず、自分の直轄領として民政に熟練した者を代官として治めさせた。そのため、新付の土地でも彼が生きていた間は決して離反しなかったという。晩年、上洛の途上に三河で病を発症し信濃で病没した。死因は労咳(肺結核)、肺炎、あるいは『甲陽軍艦』では胃がん、もしくは食道がんによる病死説が有力だ。

 江戸時代から近代にかけて『甲陽軍艦』に描かれた信玄の伝説的な人物像が広く浸透。“風林火山”の軍旗を用い、甲斐の虎または、彼が龍朱印を用いたことから甲斐の龍とも呼ばれ、強大な武田軍を率い、謙信の好敵手としてのイメージが形成されたのだ。したがって、今日私たちが抱く信玄像には虚像の部分もあるのだろうが、信玄は立派な事績を残している。

 山梨県にはいまでも「信玄堤」と呼ばれる堤防がある。信玄は領国経営にも優れた力を発揮していた。治山、治水には「信玄工法」と呼ばれる技術を駆使した。甲州には釜無(かまなし)、御勅使(みだい)、荒川、笛吹などの暴れ川があって、しばしば氾濫した。信玄は国主になると、この暴れ川の鎮圧に乗り出したのだ。

 信玄の「座右の銘」がある。「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり」。この意味は、どれだけ城を堅固にしても、人の心が離れてしまったら世を治めることはできない。情けは人をつなぎとめ、結果として国を栄えさせるが、仇を増やせば国は滅びる-というものだ。

 「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」という言葉がある。これは良く知られている米沢藩主、上杉鷹山の言葉だ。だが、信玄はこれよりかなり前、鷹山とよく似た名言を残している。それは「為せば成る 為さねば成らぬ 成る業を 成らぬと捨つる 人のはかなさ」だ。
 信玄の弟、信繁の分をわきまえた人物像にも少し触れておく。既述の通り、信繁は父に深い愛情を注がれて育ったが、それに乗らなかった。それが武田家を安泰にし、武田軍団を混乱させることなく、甲斐武田を戦国の雄たらしめたのだ。彼は学問が深く、有名な「武田信繁の家訓」九十九ヵ条を書いた。これは、元々信繁が自分の子供に宛てた戒めの書だが、実際には「信玄家法」あるいは「甲州法度」の下巻として扱われている。

(参考資料)海音寺潮五郎「覇者の條件」、童門冬二「武田信玄の人間学」、井上靖「風林火山」、新田次郎「武田信玄」、井沢元彦「逆説の日本史」、司馬遼太郎「この国のかたち 一」

徳川光圀・・・善政、数々の文化事業で評価高い半面、藩財政の重荷に

 徳川光圀は、徳川御三家の一つ、水戸藩二代藩主として善政を行い、30年の長きにわたりその座にあり、幕政にも影響力を持った時代もあったため、天下の副将軍、「水戸黄門」のモデルとして知られる。ただ、『大日本史』の修史事業に着手したことや、古典研究や文化財の保護など数々の文化事業を行ったことで、評価が高い半面、為政者としては膨大な資金を要する文化事業を行ったことで、光圀以降の代々の藩財政悪化の遠因をつくったと指摘する見方もある。徳川光圀の生没年は、1628(寛永5)~1701年(元禄13年)。

 徳川光圀は水戸藩初代藩主・徳川頼房の十一男・十五女の第七子に生まれた。母は側室で、家臣谷重則の娘、久子。徳川家康の孫にあたる。諡号は「義公」、字は「子龍(しりゅう)」、号は「梅里」。三木長丸、徳川千代松、徳亮、光国、光圀と改名した。

 1633年(寛永10年)、光圀は後に讃岐国高松藩主になる兄の頼重を超えて継嗣に決まった。名を千代松と改め、7歳のとき江戸城に上り、当時の徳川三代将軍家光に拝謁。1636年(寛永13年)、9歳のとき将軍家光立ち会いの下、元服し家光の「光」の一字をもらい「光国」と名乗るようになった。1661年(寛文元年)父、頼房が亡くなり、34歳で第二代藩主の座に就いた。

 光圀は藩主として寺社改革や殉死の禁止、巨船「快風丸」の建造による蝦夷地(後の石狩国)の探検などを行った。また、民政にも力を入れ、勧農政策の実施、藩職制の整備、教育の振興などの善政も特筆される。殉死の禁止などは幕府に先駆けて行ったほか、藩士の規律、士風の高揚を図るなどの施策を講じた。とりわけ、五代将軍綱吉の時代には徳川一門の長老として幕政にも影響力を持った。

 光圀は藩主になる前、1657年(明暦3年)、江戸駒込の中屋敷の史局(後の彰考館)を置き、『大日本史』の編纂に着手したほか、古典研究や文化財の保存活動など数々の文化事業を行った。
 1690年(元禄元年)、家督を兄・頼重の子供の綱条(つなえだ)に譲った後、久慈郡新宿村(現在の常陸太田市)に西山荘を建てて隠居した。ただ、隠居後も八幡神社の整理と一村一社制の確立に努めるなど藩政に強い影響力を持った。

 光圀は『大日本史』の編纂に必要な資料収集のため家臣を諸国に派遣したことや、隠居後に水戸藩領内を巡視した話などから、テレビ番組でお馴染みの「水戸黄門」の諸国漫遊がイメージされたと思われるが、実際の光圀は日光、鎌倉、金沢八景、房総などしか訪れたことがなく、現在の関東地方の範囲から出た記録がない。

 光圀は学者肌で好奇心の強いことでも知られており、様々な逸話が残っている。日本で最初にこの光圀が食べたとされるものも少なくない。ラーメンはじめ餃子、チーズ、牛乳酒、黒豆納豆などがそうだ。肉食が忌避されていたこの時代に、光圀は五代将軍綱吉が制定した「生類憐みの令」を無視して牛肉、豚肉、羊肉などを食べていた。鮭も好物でカマとハラスと皮をとくに好んだといわれる。吉原遊郭近郊の浅草界隈で見た手打ちうどんの技術を自ら身につけ、うどんを打つこともあったという。

 晩年、光圀は子孫のために九カ条の訓戒『徳川光圀壁書』を残している。
一.苦は楽の種、楽は苦の種と知るべし
一.主人と親は無理(をいう)なるものと思え、下人は(頭の働きの)足らぬものと知るべし
一.掟に怯(お)じよ(法令を恐れよ)、火におじよ、分別がなきものにおじよ、恩をわする事なかれ
一.欲と色と酒をかたきと知るべし
一.朝寝をすべからず。咄の長座すべからず
一.(ものごとは)九分(どおりしてのけても)にたらず、十分はこぼるる
(やりすぎてもいけない)と知るべし
一.子ほど親を思え、子なきものは身にたくらべ(くらべ)て、ちかき手本と知るべし
一.小さき事は分別せよ、大なる事に驚くべからず(小さいと思える事でも、よく考えて処理せよ、大きな事であっても慌ててはならぬ)
一.(思慮)分別(する)は堪忍あるべし(堪忍に勝るものはない)と知るべし

(参考資料)尾崎秀樹「にっぽん裏返史」、神坂次郎「男 この言葉」、大石慎三    
      郎「徳川吉宗とその時代」、司馬遼太郎「街道をゆく37」

高野長英・・・鳴滝塾でシーボルトの薫陶を受けたオランダ語の天才

 高野長英は文化元年(1804)、水沢藩士後藤実慶の三男として生まれた。9歳のとき父が病死したため母は実家の高野家に戻り、長英は母の兄である水沢藩医、高野玄斎の養子になった。
 長英は18歳のとき、養父の玄斎の反対を押し切り、江戸へ遊学。故郷を出奔同様に離れた折の後ろめたさは、彼の胸に深い傷として残されたが、江戸に着いてからの記憶も苦々しいもので、生活費にも事欠く有様だった。

翌年、内科専門の蘭方医として知られる吉田長淑の塾に学僕として入門し、ようやく学問に専念できるようになった。彼の学才は次第に発揮され、長淑は彼の将来性を認め、それまで高野郷斎と名乗っていた彼に、自分の長淑の長の一字を与えて、長英と改めさせた。

長英の人生において大飛躍のきっかけとなったのが、21歳のときのシーボルトが主宰する長崎・鳴滝塾への入塾だ。文政8年(1825)、長英は長崎の医師、今村甫庵に誘われ、長崎に赴く。長崎には2年前に来日したシーボルトが郊外の鳴滝に塾を開き、すでに湊長安、岡泰安、高良斎、岡研介、二宮敬作ら全国の俊秀が、塾生として蘭学の修業に専念していた。

当初、学力の乏しさに暗い気持ちになった長英だったが、生まれつき語学の才に恵まれていた彼は、塾の空気に慣れるにつれて頭角を現した。シーボルトは、長英の才質を高く評価し、様々なテーマを彼に与えた。長英もこれに応え、5歳年長の初代塾長の岡研介とともに鳴滝塾の最も優れた塾生と称されるまでになった。

長英は、三河国田原藩年寄末席の渡辺崋山に初めて会った天保3年、わが国最初の生理学書「西説医原枢要」を著し、優れた語学力を駆使して洋書を読みあさり、医学、化学、天文学への知識を深めていた。さらに崋山との接触によって、社会に対する関心も抱くようになった。

しかし、暗雲もかかり始めた。崋山が「慎機論」、そして長英が「夢物語」を書き、幕府の対外政策に対する危惧を訴えたことなどがきっかけとなり、「蛮学社中」が幕府の目付鳥居耀蔵に目をつけられることになった。鳥居は大学頭林述斎の子で儒学を信奉し、極端に洋学を嫌っていて、崋山とその周囲に集まる洋学者に激しい反感を抱いていた。それは生半可なものではなく、その矛先は崋山と親しく交わり西洋の知識を身につけた川路聖謨(としあきら)、江川英龍らの幕臣にも向けられたほど。これが近世洋学史上、最大の弾圧である“蛮社の獄”に発展する。

天保10年(1839)5月、崋山が投獄され、その4日後、長英は北町奉行所に自ら赴いた。長英は追放刑程度で済むと思っていたのだが、投獄7カ月余の後、申し渡された刑は、死ぬまで牢内生活を強いられる永牢だった。それから6年後、小伝馬町の牢に不審火があって、囚人が一時、解放される。長英もその一人として一散に走り出た。そして彼は3日の期日が過ぎても牢へ帰らなかった。
こうして友人、門弟たちとも消息を絶ち、彼の孤独な逃亡生活は始まった。北は陸奥国水沢から南は鹿児島へ逃れたとされる。「沢三泊」と名を変え、悲惨な逃亡生活だったが、西南雄藩に身を寄せた時期もあった。中でも伊予宇和島藩主・伊達宗城や薩摩藩主・島津斉彬庇護のもとに洋書を翻訳したりした時期もあった。

というのは当時、西洋の軍事、砲術を取り入れようとすると、オランダ語が必要になる。当時、日本で一番語学ができるのは、万人が認めるところ高野長英だ。師、シーボルトは単に医学だけでなく百科学、いわゆる科学全般を教えるという立場で鳴滝塾を開いていたのだ。

その当時の軍事では、一番必要なのが「三兵」に関する訓練だった。三兵とは歩、騎、砲で、三兵をいかに把握して、これを総合的に動かすかということが用兵のポイントだ。それを最もうまく駆使したのがナポレオンだ。そのナポレオン戦法を書いたのが『三兵答古知幾(さんぺいタクチーキ)』。だから、この本をぜひ翻訳したい。ところが、この日本語訳をやれるのは、長英以外にはいないといわれていたわけだ。

長英は宇和島でこれを翻訳し、砲台建設の指導をする。逃亡中の身で彼はこれらのことをやったのだ。薩摩藩主・島津斉彬は後にこの翻訳書をもとに大訓練をやっている。
 長英にようやく少しは穏やかな生活が訪れるかにみえた矢先、不幸に襲われる。逃亡・潜行生活5年、嘉永3年(1850)10月11日、江戸・青山百人町で夫婦に子供3人の「沢三泊」という町医者が高野長英であることを突きとめた捕方に取り囲まれ、彼は小刀をのどに当て、頚動脈を断ち切り自決した。47歳だった。

(参考資料)吉村昭「長英逃亡」、奈良本辰也「不惜身命」、同「歴史に学ぶ」、
      山手樹一郎「群盲」、杉本苑子「みぞれ」

竹本義太夫・・・人形浄瑠璃の歴史上不朽の名をとどめる、義太夫節の開祖

 人形浄瑠璃は江戸時代の民衆の中から生まれた、日本が世界に誇る伝統芸能だ。最近は若い男女の間にも年々愛好者が増えているという。この日本の誇る伝統芸能、人形浄瑠璃の歴史上に、不朽の名をとどめるのが、竹本義太夫だ。江戸時代の浄瑠璃太夫、義太夫節の開祖だ。

 竹本義太夫が摂津国(大坂)で農家に生まれたのは1651年(慶安4年)だ。この年、三代将軍家光が亡くなり、由比正雪の事件が発生している。本名は五郎兵衛。小さいときから音曲の道に趣味があった。初期には清水理太夫と名乗った。

 義太夫節は、中世から近世にかけて広く一般民衆の間で享受された平家琵琶や幸若、説経節などの「語り物」の流れを受け継いでいる。とくに竹本義太夫に先駆けて、万治・寛文期(1658~1672年)に一世を風靡した「金平浄瑠璃」は、この時代の「語り物」の姿をよく表している。これは酒呑童子の物語を発展させたもので、坂田金時の子で、金平という超人的な勇士を仮想し、これが縦横に活躍するストーリーを骨子とするものだった。この金平節を語り出した江戸の和泉太夫は、二尺もある鉄の太い棒を手にして拍手を取ったと伝えられるほど、その語り口は豪快激越だった。

 現在では浄瑠璃を語るということは、そのまま義太夫節を語るという意味に使われているが、もともと義太夫節は数ある浄瑠璃の中の一つで、浄瑠璃の総称ではない。浄瑠璃には常磐津もあれば、清元、新内、一中節もある。それが、もう今、浄瑠璃といえば義太夫節を指すようにいい、いわば浄瑠璃が義太夫節の代名詞のようになっているということは、それだけ竹本義太夫の存在が大きかったからだ。

 1684年(貞享元年)、大坂道頓堀に竹本座を開設し、1683年に刊行された近松門左衛門・作の「世継曽我」を上演した。翌年から近松門左衛門と組み、多くの人形浄瑠璃を手掛けた。近松が竹本座のために書き下ろした最初の作品は「出世景清」。竹本義太夫以前のものを古浄瑠璃と呼んで区別するほどの強い影響を浄瑠璃に与えた。厳密にはこの「出世景清」以前が古浄瑠璃、「出世景清」以降が当流浄瑠璃と呼ばれる。1701年(元禄14年)に受領し筑後掾と称した。 
 
1703年には近松の「曽根崎心中」が上演され、大当たりを取った。これは大坂内本町の醤油屋、平野屋の手代、徳兵衛と、北の新地の天満屋の女郎、お初とが曽根崎天神の森で情死を遂げたという心中事件を取り扱ったもので、まさにその当時の出来事をそのまま劇化して舞台に仕上げたところに、同時代の観衆を強く惹きつけた点があり、日本演劇史上でも画期的な意味を持つものだった。近松門左衛門が心血を注いで書いた詞章を、53歳の最も油の乗り切った竹本義太夫は、その一句一句に自分のすべての技量と精魂を傾けて語った。「曽根崎心中」で示された義太夫の芸は、二人の師匠、宇治嘉太夫と井上播磨掾の芸を見事に乗り越え統合したものだった。そこに、義太夫の新しい個性の発見があったのだ。この大ヒットで竹本座経営が安定し、座元を引退して竹田出雲に引き継いだ。

 竹本義太夫は1714年(正徳4年)、64歳で世を去った。徳川五代将軍綱吉の時代、幕府側用人として幕政を担当した柳沢吉保が没し、大奥の中老絵島が流刑された年にあたる。竹本義太夫が千日前の地で没して、すでに300年近い歳月が流れている。

(参考資料)長谷川幸延・竹本津太夫「日本史探訪/江戸期の芸術家と豪商」

豊臣秀長・・・人格と手腕で不協和音の多い豊臣政権の要石の役割果たす

 豊臣政権でのナンバー2、秀吉の弟・豊臣秀長は羽柴秀長、あるいは大和大納言とも呼ばれた。秀吉の政権下で大和郡山に居城を構え、その領国は紀伊(和歌山県)・和泉(大阪府南部)・大和(奈良県)にまたがり、160万石を有していた。秀吉臣下としては、徳川家康に次ぐ大大名だったといっていい。ところが、この秀長に対する評価が「よく出来た方だった」と「全くの無能者」とがあり、はっきりと分かれているのだ。いずれがこの人物の真実なのか。

 豊臣秀長は秀吉の異父弟。幼名は小竹(こちく)、通称は小一郎(こいちろう)。秀吉の片腕として辣腕を振るい、文武両面での活躍をみせて天下統一に貢献したといわれる。大和を中心に大領を支配し大納言に栄進したことから、大和大納言と通称された。生没年は1540(天文9年)~1591年(天正19年)。

 「大友家文書録」によると、大友宗麟は秀長のことを「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候」と述べたとされている。その人格と手腕で織田家臣の時代から、内政や折衝にとくに力を発揮し、不協和音の多い豊臣政権の要石の役割を果たした。秀吉の天下統一後も支配が難しいとされた神社仏閣が勢力を張る大和、雑賀衆の本拠である紀伊、さらに和泉までを平和裏にのうちに治めたのも秀長の功績だ。

秀長は秀吉の朝鮮出兵には反対していたとされる。ただ、この出典が「武功夜話」のみのため信憑性に乏しい。秀長が進めようとしていた体制整備も、彼の死で不十分に終わり、文治派官僚と武功派武将との対立の温床になってしまった。秀吉死後もこの秀長が存命なら、秀次の粛清や徳川家康の天下取りを阻止し、豊臣政権は存続したか、もしくは少なくとも豊臣家の滅亡は避けられたとの声も多い。

 ところで、秀長の武将としての器量はどの程度のものだったのか。秀長が担当させられた山陰地方への応援については因幡(鳥取県東部)・伯耆(鳥取県東伯・西伯・日野三郡)両国に多少の足跡は認められるものの、やはり注目すべきは1582年(天正10年)6月2日の、「本能寺の変」直後の“中国大返し”だろう。同3日に信長横死の報を受けて急遽毛利との和平を取りまとめ、備中高松城の包囲を解き、同6日に毛利軍が引き払ったのを見て軍を返し、引き揚げを開始。この後、ポスト信長の天下取りに懸ける、2万を超える秀吉の大軍は、凄まじい速度で山陽道を駆け抜け、備中高松から山崎(京都府)まで約180・を実質5日間で走破。同13日の山崎の戦い(天王山の戦い)で明智光秀を破った。このとき、大軍勢の難しい殿軍(しんがり)を立派に務めたのが秀長だった。凡将だったとは考えにくい。

 次に秀長が脚光を浴びるのは秀吉と織田信雄(信長の次男)・徳川家康が対立した、小牧・長久手の戦いだ。秀長は指揮下の蜂須賀正勝、前野長康らを率いて、近江(滋賀県)、伊勢(三重県)の動向に備え、次いで伊勢に進撃すると松島城を陥落させ、尾張に入って秀吉軍と合流。秀吉と信雄の間に和議が成立しても、秀長は美濃(岐阜県南部)・近江のあたりをにらんで臨戦態勢を解かなかった。1585年(天正13年)、秀長は紀州(和歌山県)雑賀攻めに出陣して、これを平定した。

 秀長は誕生したばかりの豊臣政権内で、公的立場の秀吉を補佐する重責を担っていた。結果論だが秀長の存命中、豊臣政権は微動だにしていない。それが、1591年(天正19年)、秀長が病でこの世を去ると、並び称された千宗易(利休)も失脚、政権はやがて自壊の方向へ突き進んでしまう。

 秀長の享年51はあまりにも早すぎた死といわざるを得ない。家康よりわずかに2歳年長の秀長が、いま少しこの世にあれば、少なくとも千利休の切腹、後の秀次(秀吉の甥で嗣子となり、関白となった)の悲劇は未然に防ぎ得たに違いない。秀長の死後、表面に出ることは少なかったが、彼が果たしていた役割の大きさを改めて認識した人も多かったのではないか。秀長とはそんな補佐役だった。

(参考資料)堺屋太一「豊臣秀長-ある補佐役の生涯」、加来耕三「日本補佐役列伝」、司馬遼太郎「豊臣家の人々」

高橋是清・・・波乱万丈・七転び八起きの「ダルマ蔵相」紙幣にも

 高橋是清は明治・大正・昭和期の政治家・財政家で、第二十代内閣総理大臣(在任期間7カ月)を務めた。だが、“高橋財政”とも呼ばれる積極的な財政政策が特徴の、歴代内閣で何度も務めた大蔵大臣としての評価が高い。そのふくよかな容貌から「ダルマ蔵相」「だるまさん」と呼ばれて親しまれた高橋の人生は波乱万丈、まさに「七転び八起き」の表現がピッタリの人生だった。そして不幸なことに、蔵相として軍事費抑制方針を打ち出したことで軍部と対立し、1936年(昭和11年)、「二・二六事件」で暗殺された。高橋是清の生没年は1854(嘉永7)~1936年(昭和11年)。

 高橋是清は幕府の御用絵師、川村庄右衛門の庶子として江戸芝中門前町(現在の東京都港区)で生まれたが、生後まもなく仙台藩士高橋是忠の養子となった。その後、成長して横浜のアメリカ人医師ヘボンの私塾、ヘボン塾(現在の明治学院高校)で学んだ。だが1867年(慶応3年)仙台藩命で海外留学することになって、彼の人生は波乱に満ちたものとなる。

不幸のスタートは、渡航費・学費を騙し取られた13歳のときだ。その後の暗転の主なものを挙げると1.騙されてアメリカでの奴隷同然の生活を経験 2.芸妓の“ヒモ”同然の生活3.相場詐欺に遭う4.鉱山開発の詐欺に遭う-という具合。それでもその都度、立て直したり、そのうち手を差し伸べる人物が現れる。例えば、苦労を重ねてアメリカから帰国(1868年)後、その後の人生の出発点となる誘いがかかる。1873年(明治6年)、サンフランシスコで知遇を得た森有礼に薦められて文部省に入省し、十等出仕となったのだ。

それだけではない。高橋は英語の教師もこなし、大学予備門で教えるかたわら、当時の進学予備校の数校で教壇に立ち、そのうち廃校寸前にあった共立学校(現在の開成高校)の初代校長をも一時務めた。教え子には俳人の正岡子規、日露戦争でロシアのバルチック艦隊を撃滅した海軍中将、秋山真之がいる。その間、文部省、農商務省(現在の経済産業省および農林水産省)の官僚としても活躍。農商務省の外局として設置された特許局の初代局長に就任し、日本の特許制度を整備している。1887年(明治20年)のことだ。

 高橋が財政家となるスタートは40歳直前のことだ。1892年(明治25年)、日本銀行に入行。そして1899年(明治32年)、日本銀行副総裁になった。46歳のときのことだ。それから5年して、彼は日露戦争(1904~1905年)の外債募集の大任を担ってロンドンに渡った。この難題に見事な手腕を発揮、13億円の調達に成功したのだ。その後、横浜正金銀行頭取などを経て、1911年(明治44年)には遂に日本銀行総裁に就任した。

 後に高橋が、「ダルマ蔵相」の愛称で慕われ、財政のプロフェッショナルとして“高橋財政”と呼ばれる積極的な財政政策を断行するのは、何度も歴代内閣で蔵相を務めるからだ。第一次山本権兵衛、原敬、田中義一、犬養毅、斎藤実、岡田裕介の各内閣で蔵相を歴任している。加藤高明内閣では農商務相、そして立憲政友会総裁、さらに1921年(大正10年)には内閣総理大臣を務めている。
 高橋は歴代日銀総裁の中で唯一、その肖像が日本銀行券に使用された人物でもある。1951~1958年にかけて発行された五十円券がそれだ。それだけ、国民の間で人気が高かったからだ。

 1936年(昭和11年)、二・ニ六事件で高橋は暗殺された。彼を殺害すべく高橋邸を襲ったのは、近衛歩兵第三連隊の陸軍中尉中橋基明だった。邸内に兵数十人を率いて押し入った中橋を、高橋は「馬鹿者!」と言ったとも、「何をするか!」と怒鳴ったともいわれている。83歳の老人に対し、中橋は拳銃七発を浴びせて即死させた。

(参考資料)三好徹「日本宰相伝 天運の人」、三好徹「明治に名参謀ありて」、小島直記「志に生きた先師たち」、小島直記「人材水脈」、司馬遼太郎「街道をゆく33」

近松門左衛門・・・竹本義太夫と組み名作を次々に発表した劇作家

 近松門左衛門は江戸時代前期、元禄期に人形浄瑠璃(現在の文楽)と歌舞伎の世界で活躍した、日本が誇る劇作家だ。今日でも彼の多くの作品が文楽、歌舞伎、オペラ、演劇、映画などで上演・上映され、人々に親しまれている。生没年は1653(承応2)~1724年(享保8年)

 近松門左衛門は、松平昌親に仕えた300石取りの越前吉江藩士、杉森信義の次男として生まれた。幼名は次郎吉、本名は杉森信盛。通称平馬。別号は平安堂、巣林子(そうりんし)。ただ、出生地には長門国萩、肥前唐津などの諸説がある。2歳のとき、父とともに現在の福井県鯖江市に移住。その後、父が浪人し京都へ移り住んだ。近松が14、15歳のころのことだ。さらに、京都で仕えた公家が亡くなり、近松は武家からの転身を迫られることになった。

 近松は竹本座に属する浄瑠璃作者で、中途で歌舞伎狂言作者に転向したが、再度浄瑠璃に戻った。1683年(天和3年)、曽我兄弟の仇討ちの後日談を描いた『世継曽我(よつぎそが)』が宇治座で上演され、翌年竹本義太夫が竹本座を作り、これを演じると大好評を受け、近松の浄瑠璃作者としての地位が確立された。1685年の『出世景清』は近世浄瑠璃の始まりとされる。

 近松はその後も竹本義太夫と組み名作を次々に発表し、1686年(貞享3年)竹本座上演の『佐々木大鑑』で初めて作者名として「近松門左衛門」と記載した。この当時、作品に作者の名を出さない慣習から、これ以前は近松も名は出されていなかったのだ。

 近松は100作以上の浄瑠璃を書いたが、そのうち約2割が世話物で、多くは時代物だった。世話物とは町人社会の義理や人情をテーマにした作品だが、後世の評価とは異なり、当時人気があったのは時代物。とりわけ『国性爺合戦』(1715年)は人気が高く、今日近松の代表作として知名度の高い『曽根崎心中』(1703年)などは昭和になるまで再演されなかったほど。代表作『冥途の飛脚』(1711年)、『平家女護島』(1719年)、『心中天網島』(1720年)、『女殺油地獄』(1721年)など、世話物中心に近松の浄瑠璃を捉えるのは、近代以後の風潮にすぎない。

 1724年(享保8年)、幕府は心中物の上演の一切を禁止した。心中物は大変庶民の共感を呼び人気を博したが、こうした作品のマネをして心中をする者が続出するようになったためだ。そうした政治のあり方を近松はどう受けとめたのか?ヒット作の上演に水を差されるのを心底、嫌気したか、近松はその翌年没する。

 近松は「虚実皮膜論」という芸術論を持ち、芸の面白さは虚と実との皮膜にある-と唱えたとされる。芸術とは虚構と現実の狭間にあるというものだ。芝居など所詮実在しない「虚」の世界だと誰もが知っているわけだが、それでもすばらしい芝居をみると、いくらみていても飽きないし、感動するわけだ。それは感動した自分の中に実在する感覚・理想・イメージなどと、その「虚」が結びついたときに、引き起こされるのではないか。つまり、「虚」「実」が絡み、入り混じったときに、初めて魅力が生まれるといったことだ。だが、この「虚実皮膜論」は穂積以貫が記録した「難波土産」に、近松の語として書かれているだけで、残念ながら近松自身が書き残した芸能論はない。
(参考資料)長谷川幸延・竹本津大夫「日本史探訪/江戸期の芸術家と豪商」