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海保青陵・・・近代日本の先駆的経済学者で藩・経営コンサルタント

 海保青陵は江戸時代後期の経世家、あるいは今日風に表現すれば、さしずめ藩・経営コンサルタントだ。武士、それも藩家老の長子として生まれながら、家督を弟に譲り、生涯の大部分を諸国を遊歴、見聞を広めながら、絶えず自己を自由な境涯に置いて独自の思想を展開し、近代日本の先駆的思想家・経済学者として注目される人物だ。海保青陵の生没年は1755(宝暦5)~1817年(文化14年)。

 海保青陵は丹後宮津藩・青山家の家老、角田市左衛門(青渓、家禄500石)の長子として江戸で生まれた。名は皐鶴(こうかく)、字は萬和(まんわ)、通称儀平、青陵は号。青陵の父と当時の藩主・青山幸道は従兄弟にあたっていたため、父は藩の勝手掛という重職に就き、藩財政の立て直しに努力したが、藩に内紛が起こったことで、隠居せざるを得なくなり、1756年(宝暦6年)数え年2歳の身で、青陵が家督を相続した。

 2年後、藩主が美濃郡上藩に移封になると、一家は暇願いを出し、浪人の身となった。但し、青陵の父は彼が生きている限り青山家から20人扶持に金100両ずつ毎年送られてくることになっていたので、一家が困窮することはなかった。

 青陵は荻生徂徠の弟子、宇佐美潜水に学んだ。その後、家督を弟に譲り、曽祖父の姓である「海保」の姓を名乗った。蘭学者、桂川甫周とも交流を持ち、30~52歳の間、江戸、京都を中心に諸国を遊歴し見聞を広めた。彼はとくに経済に関心があった。彼は、商人が社会の最劣位に置かれていることに、不合理なものを感じていた。

彼に言わせれば、天皇と公卿や藩主と家臣の関係もすべて市道ではないか-ということになる。市道とは売りと買い、すなわち商行為のことだ。つまり、君臣の関係を例にみれば、家臣は忠誠心を切り売りして、君主から俸禄をもらうのだから、その間には一種の契約関係があるという見方だ。こういう観点に立てば、商人の行っている商行為も、それほど悪しざまにいわれることはない。品物を通して、売りと買いが成立しているのだから、卑しめられることは全くない-というのが彼の考え方だった。

したがって、そうした商行為を行う商人を蔑むというのは筋が通らない、道理に合わない、ということになる。青陵の出身は宮津藩の家老の家だ。それだけに、自らの立場を擁護することなく、分け隔てのない、こうした考え方は当時としては随分先に進んだものといわざるを得ない。

そして、青陵は現実を直視した貨幣経済による産業政策振興を唱え、各地で諸侯・豪農層に自らの富藩論を啓蒙し、経営コンサルタント的なことを行った。藩営商業論を積極的に説き、具体例として江戸時代文化期に加賀藩などで藩交易を主とした富藩政策を展開し、積極的な領外への産物輸出によって富藩を実現しようと試みている。また、天保期には長州藩の村田清風の産業政策にも青陵の影響がうかがわれる。海保青陵の説は「経済」を、「士農工商」の儒教世界から解放したという意味で、心ある商人たちを大いに励ました。

 青陵は、晩年は京都に腰を落ち着け、著述業に専念した。著書に『稽古談(けいこだん)』『前識談』『洪範談』『老子国字解』『文法披雲』など20数作品がある。

(参考資料)神坂次郎「男 この言葉」、童門冬二「江戸のビジネス感覚」

久坂玄瑞・・・幕末の長州藩の尊攘運動を主導した、松下村塾の秀才

 久坂玄瑞(くさかげんずい)は松下村塾にあって、高杉晋作と並び称された秀才で、幕末の長州藩の尊攘運動の先頭に立って藩を導いたが、「禁門の変(蛤御門の変)」で一軍を指揮するうち膝に弾丸を受けて、鷹司邸内で同じ「松下村塾」の塾生だった寺島忠三郎とともに自刃した。24歳の若さだった。生没年は1840(天保11年)~1864年(元治元年)。

 長門国萩平安古(現在の山口県萩市)に藩医、久坂良迪(りょうてき)と富子の三男として生まれた。幼名は秀三郎、諱(本名)は通武(みちたけ)、のち義助。号は江月斎、玄瑞。両親が歳を取ってから生まれたため、両親の愛情を一身に受けて育った。家業である医学を勉強するため藩校医学所「好生館」に入学した後、藩校「明倫館」に入学。前途洋々のはずだった。

ところが、久坂玄瑞の人生はこの後、暗転。1853(嘉永6)年から1854年(嘉永7年)にかけて母、兄(玄機=げんき)、父が相次いで亡くなり、玄瑞はわずか15歳にして家督をつぐことになった(次男は玄瑞が生まれたときにはすでに死亡していた)。それと同時に名前を「玄瑞」と改めている。

 1856年(安政3年)、17歳のとき藩に願い出て九州に3カ月間遊学。吉田松陰の親友だった肥後の宮部鼎蔵を訪ねた際、松陰に学ぶことを奨められ、初めて生涯の師となる松陰の名を耳にする。帰藩後、吉田松陰に手紙を書き、松陰と書簡のやり取りを行い、その1年後、18歳となった玄瑞は松下村塾へ入塾し、松蔭の薫陶を受けることになった。このことが玄瑞のその後の人生の方向を決定づけることとなった。

 吉田松陰は久坂玄瑞を「防長(防府・長州)第一流の人物」と高く評価し、高杉晋作と競わせて才能を開花させるよう努めた。松下村塾においては、高杉晋作の「識」、久坂玄瑞の「才」と並び称された。松陰は自分の一番下の妹との結婚を玄瑞に勧めた。松蔭がいかに玄瑞に期待していたか、そんな気持ちの表れだ。1854年(安政4年)、玄瑞は松蔭の妹、文と結婚した。玄瑞18歳、文15歳のことだ。

 1858年(安政5年)、江戸と京都に遊学。安政の大獄により、義兄でもあった師・吉田松陰が刑死。この後、玄瑞は無念の死を遂げた松蔭の遺志を継ぐかのように、長州藩尊攘運動の先頭に立ち、日米修好通商条約を締結、安政の大獄を引き起こした幕政を批判し、他藩の志士と交わるなど活発に活動するようになった。

長州藩が長井雅楽の幕府寄りの公武合体政策、「航海遠略策」を採択したため、玄瑞はこれを激しく弾劾し、1862年(文久2年)同志と長井雅楽暗殺を企てた。また同年、高杉晋作らと攘夷血盟を行い、「御楯組」を結成。攘夷督促の勅使が東下した際には自らも江戸へ赴き、高杉晋作、伊藤博文らとイギリス公使館焼き討ち事件を起こした。

 このころ久坂は「玄瑞」から「義助」に改名。1863年、攘夷実行の下関外国艦隊砲撃事件に参加し、「八月十八日の政変」による長州藩勢力の京都追放後も京都に潜入して、木戸孝允らとともに長州藩の失地回復に努めた。

1864年(元治1年)、その後の長州藩の方向を決定づけることになった禁門の変に参加。久坂義助は指導部にあって自重、後続の軍を待つ作戦を主張したが、進発論に押し切られ参戦。一軍を指揮するうちに膝に弾丸を受け負傷。鷹司邸内で、松下村塾で同じ塾生だった寺島忠三郎とともに自刃した。明治維新に向けた戦いの最中、“道半ば”やり残したことがまだまだある、あっけない最期だった。

(参考資料)古川薫「花冠の志士 久坂玄瑞」、司馬遼太郎「世に棲む日日」、童門冬二「私塾の研究」、奈良本辰也「叛骨の士道」、奈良本辰也「幕末維新の志士読本」

小松帯刀・・・幕末、28歳で薩摩藩家老職を務め、藩政をリードした英才

 小松帯刀(こまつたてわき)は、幕末の薩摩藩の藩主後見人・島津久光の側近、そして若き家老として幕末動乱期の薩摩藩運営を担当、また大久保利通らとともに藩政改革に取り組んだ。惜しくも35歳の若さで亡くなったが、西郷隆盛や大久保利通らの上席にいた人物だけに、健在なら明治維新政府の中で一定の地位を占め、今日に何か足跡を残したに違いない。小松帯刀の生没年は1835(天保6)~1870年(明治3年)。

 小松帯刀は薩摩国鹿児島城下の喜入領主・肝付兼善(5500石)の三男として生まれた。通称は尚五郎。1856年(安政3年)、指宿・吉利領主の名門、小松清猷(2600石)の跡目養子となって家督を継承し、清猷の妹千賀(お近)と結婚した。1858年(安政5年)、帯刀清廉(たてわききよかど)と改名した。肝付尚五郎は、後に徳川十三代将軍家定の正室となった篤姫(天璋院)や篤姫の兄、島津忠敬らとともに吉利領主の小松清猷から学問を学んだとされるが、篤姫と肝付尚五郎の接点を示す史料は残されていない。

 名君といわれた藩主島津斉彬が急死した後、小松帯刀は1861年(文久元年)、藩主後見人・島津久光に才能を見い出されて側近となり、大久保利通とともに藩政改革に取り組んだ。1862年(文久2年)には久光による上洛に随行し、帰国後には28歳という若さで家老職に就任した。薩英戦争後、集成館を再興して、とくに蒸気船機械鉄工所の設置に尽力する一方で、京都に駐在し、久光の意向を汲んで公武合体を念頭に、主に朝廷や幕府諸藩との連絡・交渉役を務め、薩摩藩の指導的立場を確立した。参与会議等にも陪席した。他方で、御軍役掛、御勝手掛、蒸気船掛、御改革御内用掛、琉球産物方掛、唐物取締掛などの要職を兼務するなど藩政をリードし、大久保や町田久成とともに洋学校開成所を設置した。

 1864年、禁門の変では幕府から出兵を命じられるも、当初は消極的な態度を示した。だが勅命が下されるや、小松は薩摩藩兵を率いて幕府側の勝利に貢献した。禁門の変後、長州藩から奪取した兵糧米を戦災で苦しんだ京都の人々に配った。第一次長州征討では長州藩の謝罪降伏に尽力している。

 また、勝海舟から土佐藩脱藩浪士の坂本龍馬とその塾生の面倒をみてくれと頼まれたのがきっかけで、龍馬と昵懇となり、亀山社中(後の海援隊)設立を援助したり、その妻お龍の世話をしている。
 1866年(慶応2年)、京都二本松の小松邸で龍馬の仲介のもと、小松帯刀と西郷隆盛の薩摩藩と桂小五郎の長州藩が会談。全六箇条からなる「薩長同盟」が成立した。翌年には薩摩藩と土佐藩の盟約、「薩土同盟」を成立させるなど、小松はいかんなく外交手腕を発揮した。

 1867年、大政奉還発表の際、小松は薩摩藩代表として徳川慶喜に将軍辞職を献策し、摂政二条斉敬に大政奉還の上奏を受理するよう迫った。この頃から小松は痛風もしくは糖尿病と考えられる病魔に侵されていたようだ。

 明治維新後、小松はその交渉能力を評価されて明治政府の参与と総裁局顧問の公職を兼務したほか、外国事務掛、外国事務局、判事などを兼務した。総裁・議定(ぎじょう)・参与は三職と呼ばれ、明治政府の中央政治機構の重要な官職だった。

 1869年、病気のため官を辞し、オランダ人医師ボードウィンの治療を受けることに専念した。しかし病状は悪化、すでに手遅れの状態だった。そのため、将来には総理大臣をも嘱望されながら、薩摩の英才・小松は志半ばで、わずか35年の生涯を閉じた。

(参考資料)海音寺潮五郎「西郷と大久保」、宮尾登美子「天璋院篤姫」

川路聖謨・・・幕府と武士道に殉じた幕末を代表する外交官の一人

 1853年(嘉永6年)、開国・通商を求めてロシアのプチャーチンが長崎にやってきた際、ロシア使節と事実上、交渉を行ったのが、勘定奉行・露使応接掛を命ぜられた川路聖謨(かわじとしあきら)だ。川路の任務は重かった。領土問題から開国問題まで一身に背負っていた。単なる随行員の一人ではないのだ。川路は北方領土に対する主張を堂々と述べて、一歩も退かぬ気概を示し、プチャーチンと渡り合った。また、開港に関してもその時期を数年後というあいまいなまま最後まで譲らず、優柔不断な幕閣・老中たちの時期引き延ばしの考えに沿って、ロシア側の開国要求を退けた。これだけ、幕府に貢献した川路だったが、将軍継嗣問題で大老井伊直弼に嫌われて、幕府の要職から追放され隠居差控となるなど不遇だった。

 川路聖謨は幕末を代表する外交官の一人だ。幕末、海外の列強が開国・通商を求めて日本へやってきた。それだけに、外交官の力量次第でその結果は大きく異なってくるのだ。現実に川路がロシア側の要求を退け、江戸への帰路、幕府がアメリカのペリーの開国要求に屈したことを彼は聞いている。同じ幕命を帯びて交渉に臨んでも、交渉役の力量次第で不首尾に終わることがあることを幕閣は痛感したことだろう。アメリカ・ペリーとの交渉が如実に物語っている。

 では、川路聖謨のどのような点が優れていたのだろうか。ロシアのプチャーチンとの交渉の様子をゴンチャロフが描いている。それによると、川路は非常に聡明だった。彼は私たち(ロシア)に反駁する巧妙な論法をもって、その知力を示すのだが、(私たちには受け容れがたい。)それでもその人を尊敬しないわけにはいかなかった。彼の発する一語一語が、眼差しの一つ一つが、そして身振りまでが、すべて常識とウィットと練達を示していた。民族、服装、言語、宗教が違い、人生観までも違っていても、聡明な人々の間には共通の特徴がある-と記している。川路は交渉相手にこれだけの評価を得ていた人物だったのだ。

 川路聖謨は江戸末期の旗本。豊後国(現在の大分県)日田で、日田代官所属吏・内藤吉兵衛歳由の長男として生まれた。官位は従五位下左衛門少尉。号は敬斎、幼名は弥吉。1812年(文化9年)、12歳で小普請組の川路三左衛門の養子となった。翌年元服して萬福(かずとみ)と名乗り、小普請組に入る。その後、勘定奉行所支配勘定出役という下級幕吏からスタートし、支配勘定を経て御勘定に昇進、旗本となった。その後、寺社奉行吟味調役として寺社奉行所に出向。このとき仙石騒動を裁断しており、この一件によって勘定吟味役に昇格。その後、佐渡奉行を経て、幕府老中、水野忠邦時代の小普請奉行・普請奉行として御改革に参与した。このころ、名を萬福から聖謨に改めた。

 川路は江川英龍や渡辺崋山らとともに尚歯会に参加し、当時の海外事情や西洋の技術などにもある程度通じていた。水野忠邦が天保の改革で挫折して失脚した後、奈良奉行に左遷された。奈良奉行時代には行方不明となっていた神武天皇陵の捜索を行い、「神武御陵考」を著して朝廷に報告している。後に孝明天皇がこれを元に神武天皇陵の所在地を確定させたといわれる。

 1854年(安政元年)、下田で日露和親条約に調印。1858年(安政5年)には堀田正睦に同行して日米修好通商条約を調印。井伊直弼が大老に就任すると、西丸留守居役に左遷され、さらに翌年その役も罷免されて隠居差控を命じられた。1863年(文久3年)、勘定奉行格外国奉行に復帰するも、外国奉行とは名ばかりで一橋慶喜関係の御用聞きのような役回りに不満を募らせ、病気を理由にわずか4カ月で役を辞した。

 引退後は中風による半身不随や弟、井上清直の死など不幸が続いた。1868年(慶応4年)、勝海舟と新政府軍の西郷隆盛の会談で江戸城開城が決定した報を聞き、自決を決意した。その日、川路は妻を用事に出した後、浅く腹を斬り、拳銃で喉を撃ち抜いて果てた。拳銃を用いたのは半身不随のために刀ではうまく死ねないと判断したからではないかといわれる。

 川路は要職を歴任したが、別に閣老に列したわけではなく、生涯柔軟諧謔(かいぎゃく)の性格を失わなかったのに、見事に幕府と武士道に殉じた。徳川武士の最後の“花”ともいうべき凄絶な死に方だった。

(参考資料)奈良本辰也「不惜身命 如何に死すべきか」、佐藤雅美「官僚 川路聖謨の生涯」、吉村昭「落日の宴 勘定奉行 川路聖謨」

栗本鋤雲・・・維新政府の出仕要請を固辞、幕臣の矜持を貫いた多才の人

 幕末期の幕臣、栗本鋤雲(くりもとじょうん)は幕府の昌平坂学問所に学び“お化け”といわれるほどの秀才だったが、維新後も政府からの出仕要請を固辞。幕臣の矜持を貫き通した人物だ。生没年は1822(文政5)~1897年(明治30年)。

 栗本鋤雲は幕府の典医を務めていた喜多村槐園(きたむらかいえん)の三男として生まれた。名は鯤(こん)。初名は哲三(てっさん)。瑞見。通称は瀬兵衛。1830年(文政13年)9歳のとき、安積艮斎の塾に入門。1843年、幕府の昌平坂学問所に入学し、校試において優秀な成績を修め褒賞を得ている。また、多紀楽真院、曲直瀬養安院のもとで医学と本草学を学んでいる。

1848年、17歳のとき奥医師・栗本瑞見の養子となり、六世瑞見を名乗り、家督を継ぎ、次いで奥医師となった。安政年間、医学館で講書を務めており、各年末には成績優秀により褒美を与えられている。このままゆけば、ずっと医師のコースを進み、法眼か法印ぐらいまで出世する、はずだった。

 順風満帆だった鋤雲だが、思いもかけない“蹉跌”が訪れる。1855年(安政2年)34歳のとき、オランダから献上された幕府蒸気船観光丸の試乗に応募したことから「漢方を旨とする奥詰医師が西洋艦に乗りたいとは不届き」と時の奥詰医長の咎めを受けたのだ。そして遂には侍医から追われて一時謹慎。1858年(安政5年)、蝦夷地在住を命じられて、函館に赴任することになったのだ。左遷だ。37歳のときのことだ。以後、鋤雲は函館で医学院の建設、薬園経営に尽力した。ただ、すぐその実力を認められて1862年、箱館奉行組頭に任じられ、樺太や南千島の探検を命じられた。

1863年、思いもかけない転機が訪れる。探検から戻ると幕府から即座に江戸へ戻るよう命令が出る。幕府も箱館における鋤雲の功績を評価していたため、昌平坂学問所の頭取、目付に登用された。鋤雲は箱館時代、フランス人宣教師メルメ・ド・カションと親交を結んだほか、フランス駐日公使ロッシュの通訳を務める人物と面識があったため、その経緯からロッシュとも仲が良くなった。上司の指示でメルメ・ド・カションに日本語と日本の書物の読み書きを教え、同時にカションからフランス語の伝授を受けたのだ。そのため幕府よりフランスとの橋渡し役として外国奉行に任じられる。そこで鋤雲は幕府による製鉄所建設や軍事顧問招聘などに尽力している。

また、彼は徳川昭武一行がパリで開催された万国博覧会の視察に訪れたときには、その補佐を命じられフランスに渡った。そして、そこで日本の大政奉還と徳川幕府の滅亡を知った。
 ヨーロッパにいた留学生をまとめ、引率して日本へ帰ったのが1868年(明治元年)の5月だった。幕府はすでになくなっている。47歳の鋤雲は隠退の道を選んだ。新政府からどんなに求められても官職には就かなかった。幕臣として幕府に忠義を誓い、重用された恩があるとの思いからだった。鋤雲とはそんな人物だった。

 1872年『横浜毎日新聞』に入り、翌年『郵便報知新聞』に編集主任として招かれた。この『郵便報知新聞』が維新後の鋤雲の、控えめな活動の舞台だった。月給150円。主筆を務めたこともあるが、自分はもっぱら文芸欄を担当、早いうちに主筆のポストを藤田茂吉に譲って一記者に戻った。主に随筆を書いて、1885年に同社を退くまで才筆を振るい、成島柳北、福地桜痴らとともに、当時の新聞界を代表するジャーナリストとして声名を馳せた。

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」、大島昌弘「小栗上野介 罪なくして斬らる」

小村寿太郎・・・幕末以来の不平等条約解消、関税自主権回復に尽力

 小村寿太郎は外務大臣として、日露戦争における戦時外交を担当し、1905年ポーツマス会議の日本全権として、ロシア側のウィッテと交渉し、ポーツマス条約を調印。また、幕末以来の不平等条約を解消するために尽力、1911年に日米通商航海条約を調印し、関税自主権回復による不平等条約の完全撤廃を実現した人物だ。生没年は1855(安政2)~1911年(明治44年)。

 小村寿太郎は日向国飫肥(おび、現在の宮崎県日南市)藩の下級武士の子として生まれた。1870年、大学南校(東京大学の前身)入学。第一回文部省海外留学生に選ばれハーバード大学へ留学、法律を学んだ。帰国後、司法省に入省した。小村25歳のときのことだ。ただ、司法官時代の小村は英語ができるだけの無能な男と評価されていた。また、職務を離れると大酒を飲み女遊びが激しかった。

大審院判事を経て、明治17年、外務省へ転出。小村29歳だった。その頃の小村は父から相続した多重債務と、美人だが家事などは一切できないわがままな妻のヒステリーに悩まされ、精神的に荒んだ時期を過ごしていた。小村の月給150円に時代に、彼の父の負債額は未払い利息を含めて1万6000円にも達していた。

ところが、不遇の連続だった小村だが、幸運にも時の外務大臣、陸奥宗光の目にとまる。1893年(明治26年)、清国日本公使館参事官に抜擢されたことにより、ようやく小村の活躍が始まった。清国代理公使を務め、日清戦争の後、駐韓弁理公使、外務次官、駐米・駐露公使を歴任。1900年の義和団事件では講和会議全権として事後処理にあたった。

 1901年(明治34年)、小村は46歳という若さで第一次桂太郎内閣の外務大臣に就任。1902年締結の日英同盟を積極的に主張し、回避不可避と考えられていた日露戦争に対する備えをした。日露戦争における戦時外交を担当し、1905年、ポーツマス会議の日本全権としてロシア側のウィッテと交渉し、ポーツマス条約を調印した。日露戦争開戦当初、日本は有利に戦いを進めることができたものの、圧倒的な軍事力を誇るロシアに対して長期戦になった場合、日本の国力ではやがて形勢は逆転することは必至と判断した小村は、早くからロシアとの講和の必要性を説いた。しかし、緒戦での戦勝で日本が優勢にある状況下での講和は弱腰外交と受け取られ、受け入れてもらえず非難を浴びる。それでも小村は自らの信念を貫き、講和条約調印にこぎつけた。一筋繩ではいかない相手とのハードでタフなネゴだったが、これによって小村は優れた外務官僚としての評価を得た。ただ、その後アメリカの鉄道王ハリマンが日本に、満州における鉄道の共同経営を提案した際、首相や元老らの反対を押し切って拒否した。この件については評価の分かれるところだ。

 小村は1908年成立の第二次桂太郎内閣でも外務大臣に再任され、後世に名を残す役割を果たす。幕末、列強との間で締結した不平等条約の解消に取り組むことになったのだ。明治期の為政者の長年の懸案だった条約改正の交渉を行い、1911年、日米通商航海条約を調印し、関税自主権の回復を果たした。また、日露協約の締結や韓国併合にも関わり、小村は一貫して日本の大陸政策を推し進めた。

(参考資料)吉村昭「ポーツマスの旗」

岸田吟香・・・最初の社会部記者で、ヘボン博士の辞書編纂パートナー

 岸田吟香は日本において新聞が創刊されて間もない頃、ひらがなを多く使って読みやすく、分かりやすい文章表現をした、いわば最初の社会部記者であり、ヘボン式ローマ字で現代の日本にいまなお影響を及ぼしているヘボン博士の辞書編纂パートナーでもあった。

また、岸田吟香は目薬「精_水(せいきすい)」を販売するなど、薬業界の大立者としても知られる。幼名を辰太郎。名前は大郎、大郎左衛門、達蔵、称子麻呂、清原桜、作良(さくら)、銀次あるいは銀次郎などがある。また、墨江岸国華、墨江桜、墨江岸桜、岸国華、岸吟香、岸田屋銀治、桜井銀治郎などとも名乗った。号は吟香、東洋、桜草、筆名には吟道人がある。

 岸田吟香は1832年(天保4年)、美作国久米郡垪和(はが)村の酒造農家、岸田秀治郎の長男として生まれた。岸田家は天正年間、摂津から移住してきたと伝えられるが、先祖は記紀にも出てくる岸田朝臣だという説もあり、岸田自身それを意識していたふしがある。17歳のとき江戸へ出て津山藩の昌谷精渓、次いで林図書頭の塾に入って漢学を学んだ。そこで彼は藤田東湖と知り合い、水戸藩邸に出入りするようになったが、安政の大地震で負傷し、いったん郷里へ戻った。

その後、再び江戸へ出て、今度は下谷に塾を開いていた藤森天山の門に入った。天山は水戸派で徳川斉昭の信任を受け、海防策を建言したこともあり、藤田東湖とも親交があった。この頃、三河の挙母(ころも)藩から藩主内藤丹波守の侍講として招かれた。岸田は赴任したが、ほどなく「安政の大獄」が起こって、水戸派に対する大老・井伊直弼の徹底的な弾圧が行われた結果、岸田は理不尽にも閉門を命じられる破目になってしまった。

 こうして行く先がなく、食うに困っていた岸田の生活が劇的に変わるのは、ヘボンを訪ね、彼の家に移り住むことになってからだ。岸田30歳のことだ。ヘボン式ローマ字で有名なヘボン博士は、正しくはジェームス・カーティス・ヘップバーンといい、プレスビテリアン派教会の宣教師として1859年(安政6年)、妻クララとともに初めて日本の土を踏んだ。

ヘップバーンという名前は、現在では少しも発音しにくいものではない。しかし、幕末の日本人にはヘップバーンという発音は口にしにくかったようで、誰いうともなく、ヘボンになってしまった。ヘボンは1815年ペンシルバニア州の生まれで、プリンストン大学の神学科を卒業した後、ペンシルバニア大学で医学を修めた。医療は布教の強力な手段だからそういうコースを取る者は少なくなかった。

 来日したヘボン夫妻は神奈川の成仏寺に居住し、翌年近くの宗興寺で施療所を設けた。はじめは近寄らなかった日本人も、ヘボンの診察を受けてみるみるうちに回復するのをみて、続々と患者が押しかけるようになった。日本人はちゃっかりしていて、病気は治してもらうが、神の教えは敬遠するものが多かった。

ヘボンは布教の進まない原因の一つは、言葉のカベにあると考えた。ヘボンも妻のクララも診察には片言の日本語でも不自由することはなかったが、思想を伝えるとなると手に負えなかった。ヘボンは良い辞書が必要なことを痛感したが、当時は和英、英和の辞書はほとんどなかった。それなら自分で作ってみようとヘボンは決心した。

 ヘボンの家に移り住んだ岸田は、午前中はヘボンの診療を手伝い、午後には辞書の編纂に取り組むという生活だ。岸田の英語の勉強に最も効果があったのが、ヘボンが引き合わせてくれたジョセフ・ヒコこと浜田彦蔵が創刊した「海外新聞」の編集の手伝いだった。「海外新聞」は日本人の手による日本語の、誰もが自由に購読できる新聞として最初のものだった。

岸田は「海外新聞」では、ほとんど無給に近い条件で働いた。ヒコのところで働くのは給料が目的ではなく、あくまでも英語の修得のためだ。その意味では、この新聞作りは大いに役立った。ヒコの訳した文章と原文の新聞記事を比較対照できるのだ。岸田の英語力は急速に伸びて、ヘボンの辞書編纂にも役立った。収容語数約2万語という、当時としては画期的な辞書の原稿が1865年、完成した。結局この辞書は1872年(明治5年)に出た第二版まで上海で印刷し、第三版(1886年・明治19年)からは日本で印刷されて、第七版(1903年・明治36年)まで出た。

(参考資料)三好徹「近代ジャーナリスト列伝」、小島直記「無冠の男」

黒岩涙香・・・スキャンダル記事と翻案小説で『萬朝報』を東京一にした天才

 黒岩涙香は明治時代の作家、ジャーナリストで、彼が1892年(明治25年)に創刊した『萬朝報(よろずちょうほう)』は一時、“社会派”ネタと翻案ものを特徴として、最大発行部数30万部と東京一の発行部数を誇った超人気の新聞だった。

 黒岩涙香は土佐国安芸郡川北村大字前島(現在の高知県安芸市川北)に郷士の次男として生まれた。本名は黒岩周六。「香骨居士」、「涙香小史」などの筆名を用い、翻訳家、作家、記者として活動した。兄は黒岩四方之進。

涙香は、大阪専門学校で1年ほど英語を学び、その後上京して、成立学舎、慶応義塾に入り新聞に投稿することが多かった。そのうちの1本「輿論新誌」に投稿した、北海道官有物払い下げ問題の批判論文が官吏侮辱罪に問われて、16日間の懲役刑を食らった。出所してから『日本たいむす』『絵入自由新聞』の記者を経て、『都新聞』に入社した。そして、記者のかたわら、翻案の探偵小説を書いた。『都新聞』ではのちに主筆を務めた。

 涙香の翻案ものは、読者から非常な好評を博した。彼は、原作を日本人に向くように構成を変え、主人公の名前も日本名を使い、題名なども工夫を凝らした。ちなみに、彼の名を高めた第一作「法廷の美人」の原作名は「暗き日々(ヒュー・コンウェイ)」だ。これでは味も素っ気もない。ところが、「法廷の美人」となると、被告席に立たされる薄幸の悲しい運命が、そこはかとなく連想されるではないか。つまり、彼は見出しの付け方が抜群に上手だったのだ。

 涙香は1892年(明治25年)、『萬朝報』を創刊した。30歳のときのことだ。
題字には「よろず重宝」の意味がかけられていた。後年、力をつける幸徳秋水、内村鑑三、堺利彦らが参画したタブロイド版の日刊新聞だった。萬朝報は簡単・明瞭・痛快をモットーとし、社会悪に対しては徹底的に追及するという態度と、涙香自身の連載翻案探偵小説の人気によって急速に発展、1899年(明治32年)には発行部数が、東京の新聞中1位を達成した。

当時の新聞は、現代と違って見出しは極めて簡略で、ぶっきらぼうなものだった。時代は少し下るが、例えば日露戦争の旅順戦を伝える読売新聞のニュースの見出しをみると、「旅順陥落」「旅順開城の手続」「開城談判の調印」といった具合だ。そんな中で、涙香はとくに、小説の題名については非凡なセンスを発揮した。デュマの『モンテクリフト伯』を『巌窟王』とし、ユーゴーの『レ・ミゼラブル』を『噫(ああ)無情』と改題したのは、よく知られている。

 涙香は、読者に好奇心を起こさせるような題名をつけた『鉄仮面』『白髪鬼』『幽霊塔』『巌窟王』『噫無情』などの代表作を次々に掲載し、評判を取り、萬朝報のウリとなった。また人気を博した企画が、連載「名士蓄妾調べ」だった。これは当時の、いわゆる名士たち四百数十人が囲っていた愛人を徹底的に調べあげたもので、彼女たちの前身から、いつごろそういう関係になったか、どういうきっかけがあったか、どこに住んでいるか、その別宅の購入費や規模までを書いたのだ。徹底的なスキャンダル記事だ。伊藤博文、桂太郎、山県有朋らの政界の大物はむろんのこと、渋沢栄一らの財界人、北里柴三郎、森鴎外、勝海舟らの知名人は、根こそぎ萬朝報の餌食になった。これが「三面記事」の語源ともなった。

 黒岩涙香の萬朝報と当時、発行部数で覇を競ったのが秋山定輔の『二六新報』だ。二六新報は明治33年2月から発行され、翌年に10万部を超え、それまで1位だった萬朝報を2万部もリードした。秋山は涙香より5歳年下だった。だが、三好徹氏は涙香と秋山を「天才的な資質において、同時代の誰よりも抜きん出ていた」としている。涙香にとって秋山は強力なライバルだったわけだ。

 萬朝報が発行部数で東京の新聞中1位を取る前年、明治31年に涙香が打ち出したユニークで、型破りな宣伝コピーがある。彼は萬朝報の永遠無休日を宣言し、「世界は今日より萬朝報なくては夜の明けぬことと為れり」と宣伝。文字通り「永世無休」の看板を掲げたのだ。

(参考資料)三好徹「近代ジャーナリスト列伝」、小島直記「無冠の男」

紀 淑望・・・ 『古今和歌集』の真の序文、真名序の作者 道真鎮魂が目的

 『古今和歌集』には仮名序と真名序がある。仮名序の作者は紀貫之であり、真名序の作者がここに取り上げる紀淑望(きのよしもち)だ。普通の『古今和歌集』の写本では仮名序が巻頭に、真名序が巻末にある。また仮名で書かれた『古今和歌集』には、仮名の序文がふさわしいと思われるので、仮名序こそ10世紀初め、醍醐天皇の勅命によって紀貫之らが編集した『古今和歌集』の序文だと考えられてきた。

ところが、最近の研究によって、いろいろな点から、真名序すなわち漢文の序文こそが『古今和歌集』の真の序文であり、仮名序は真名序成立より後につくられたものであることが明らかになった。つまり、この紀淑望が書いた漢文の序文が、『古今和歌集』の真の序文というわけだ。

 では、なぜ真名序を『古今和歌集』の撰者ではなかった、この紀淑望が書いたのか。彼は、菅原道真の第一の弟子、紀長谷雄の嫡子だ。そこで、梅原猛氏は『万葉集』が柿本人麻呂の鎮魂を目的としたように、『古今和歌集』は菅原道真の鎮魂を目的としたものだった-という。紀貫之ら撰者が紀淑望に『古今和歌集』の序文を依頼したのは、勅撰集でありながら、紀氏の家集という色彩の強い『古今和歌集』の序文の作者として、立派な漢文の書ける「氏の長者」が書くことが適当だと判断したのだろう。それと、道真の第一の弟子の紀長谷雄の嫡子・淑望に序文を書かせて、暗に道真の鎮魂を図ろうとしたのだ-と梅原氏。

 真名序には『古今和歌集』成立の経緯が述べられているが、それによれば『古今和歌集』は、元々『続万葉集』と名付けられていた。それほどに、いにしえの奈良の都の『万葉集』は後代にも重んじられていたわけだが、『続万葉集』の内容、構成が不備であったために、改めて編纂しなおし、その名も『古今和歌集』と面目を一新。京の都の人と自然、思想と感情を基盤とした新しい平安朝の歌集が誕生したのだ。

そのため、『万葉集』の撰集のときが、古来より平城天皇の806年(大同元年)と伝えられてきたので、そこから十代、百年後の醍醐天皇の905年(延喜5年)を、『古今和歌集』の撰集のときとしたものとみられる。

 『万葉集』の時代の、永遠に後世に名を残す歌人の代表は柿本人麻呂だろうが、『古今和歌集』の時代は菅原道真だろう。人麻呂と同様、道真は、現世の悲劇的な人生にもかかわらず、あるいはそれ故にこそ、永遠に後世に名を残すため、道真にゆかりの深い人物に序文を書かせ、梅原氏が指摘するように、鎮魂の思いをも込めたのか。

 紀淑望の生年は不詳、没年は919年(延喜19年)。平安時代中期の学者・歌人。文人・紀長谷雄の長男。896年(寛平19年)、文章生となり、901年(延喜元年)、式部少丞平篤行を問者として方略式に応じ合格。醍醐朝のもとで備前権掾・民部丞・刑部少輔・勘解由次官・大学頭・東宮学士を歴任、913年、信濃権守を務めた。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、大岡信「古今集・新古今集」

小泉八雲・・・日本文化に深い愛情と理解を示した「日本紹介者」の一人

 ギリシア生まれのイギリス人、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は日本文化に深い愛情と理解を示し、日本の伝承に取材した、「耳なし芳一」「雪女」「ろくろ首」「むじな」などの『怪談』をはじめ多くの作品を残した。アーネスト・フェノロサ、ブルーノ・タウト、アンドレ・マルローらと並び著名な「日本紹介者」の一人だ。小泉八雲の生没年は1850(嘉永3)~1904年(明治37年)。

 小泉八雲の本名はパトリック・ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn)。ファーストネームはアイルランドの守護聖人・聖パトリックに因んでいるが、ハーン自身キリスト教の教義に懐疑的でこの名をあえて使用しなかったといわれる。ファーミリーネームは来日当初「ヘルン」とも呼ばれていたが、これは松江の島根県立中学校への赴任を命ずる辞令に「Hearn」をローマ字読みして「ヘルン」と表記したのが広まり、当人も「ヘルン」と呼ばれることを非常に気に入っていたことから定着したもの。名前の「八雲」は島根県松江市に在住していたことから、出雲国の枕詞の「八雲立つ」に因むとされる。

 ラフカディオ・ハーンはギリシアのレフカダ島でアイルランド人の父と、ギリシア人の母との間に生まれた。2歳のとき、アイルランドのダブリンに移るが、まもなく父母の離婚により、同じダブリンに住む大叔母に引き取られた。16歳のとき、ケガで左眼を失明、父の病死、翌年大叔母の破産など不幸が重なり、学校を退学する。そして19歳でアメリカへ渡り、24歳のとき新聞記者となった。その後、外国文学の翻訳、創作を発表して文才を認められ、ハーバー書店の寄稿家となった。

 ラフカディオ・ハーンは16歳のとき左眼を失明して隻眼となって以降、晩年に至るまで、写真を撮られるときは必ず顔の右側のみをカメラに向けるか、俯(うつむ)くかして、決して失明した左眼から写らないようにポーズを取っている。

 ラフカディオ・ハーンは1890年(明治23年)、特派記者として来日。その後、まもなく東京帝国大学のチェンバレン教授や文部省の紹介で、島根県尋常中学校および師範学校の英語教師となった。ここでは籠手田知事、西田千太郎などの知己を得たこともあって、松江の風物、心情が大変気に入った。そして、松江の士族、小泉湊の娘、小泉節子と結婚し、武家屋敷に住んだ。この後、節子との間に、三男一女をもうけた。

 しかし、日本贔屓のハーンも閉口したことがあった。冬の寒さと大雪だ。そのため、彼は1年3カ月で松江を去り、熊本第五高等中学校へ転任。熊本で3年間暮らし英語教師を務めた。長男も熊本で誕生している。1896年(明治29年)、帰化し、「小泉八雲」と名乗った。八雲が赴任していた当時の熊本は西南戦争の後、戦争の焼け跡から復興し、急速に西洋化されつつあった殺風景な町だったが、質実剛健で感情をあまり表に表そうとしない熊本人魂や、路地裏の地蔵祭りなど伝統的な風俗とか飾らない行商人との会話などにとくに興味を抱いていたといわれる。そして、その後、八雲は勤務先を神戸のクロニクル社、上京して東京帝国大学で英文学の講師、さらに早稲田大学と変えている。

 この間、彼は「日本瞥見記」「東の国から」「知られぬ日本の面影」などの随筆で、生活に密着した視点から日本を欧米に紹介した。1904年(明治37年)アメリカで刊行された「耳なし芳一」「雪女」「ろくろ首」「むじな」などの話で知られる『怪談』は日本の古典や民話などに取材した創作短編集だ。

 小泉八雲は日本文化の基層を成すものは「神道」と考えた。そして、神道を「祖先崇拝」の宗教と捉え、祖先崇拝とはまた死者崇拝とみた。ここで最も基本的な感情は、死者に対する感謝の感情だ。この死者に対する感謝の感情は、日本の庶民の中にはまだ根強く残っていて、それが極めて美しい道徳を形成していることを驚きの目で見つめている。日本の伝統的な精神や文化に興味を持った八雲は、明治以来のいかなる日本人より、はるかに深く日本の思想の意味を理解していたのだ。

(参考資料)梅原猛「百人一語」

吉備真備 いったん失脚の憂き目に遭いながら復活した実力者

 吉備真備は、聖武天皇の御世、橘諸兄政権下で“怪僧”玄●(日ヘンに方、読みはボウ)とともに重用された時期があり、玄_と同じように失脚の憂き目に遭いながら復活。称徳天皇の御世、右大臣に昇進して左大臣の藤原永手とともに政治を執るという、地方豪族出身者としては破格の出世を成し遂げた有為な人物だ。学者から立身して大臣にまでなったのは、近世以前ではこの吉備真備と菅原道真のみだ。吉備真備の生没年は695(持統天皇9)~775年(宝亀6年)。

 吉備真備は備中国下道郡(後の岡山県吉備郡吉備町、現在の倉敷市真備町)出身で、父は右衛士少尉下道圀勝(しものみちのくにかつ)、母は楊貴(八木)氏(大和国=後の奈良県の豪族)。下道氏は吉備地方で有力な地方豪族吉備氏の一族。

 吉備真備(当時の下道真備=しもつみちのまきび)は716年(霊亀2年)22歳のとき遣唐留学生となり、翌年入唐。以後18年間唐にあって、儒学、天文学、音楽、兵学などを学び、735年(天平7年)、経書(『唐礼』130巻)、天文暦書(『大衍暦経』1巻、『大衍暦立成』12巻)、日時計(測量鉄尺)、楽器(銅律管、鉄如方響、写律管声12条)、音楽書(『楽書要録』10巻)など多くの典籍を携えて帰国した。

 帰朝後の真備は、聖武天皇や光明皇后の寵愛を得て、橘諸兄が政権を握ると同時期に遣唐留学生・留学僧として派遣され、同時期に帰国した僧・玄●(ボウ)とともに重用された。しかし、740年(天平12年)に大宰府で起こった藤原広嗣の反乱が如実に物語っているように、それが度を超えていたため人々の批判を買うことになった。それでも真備は741年に東宮学士として皇太子阿倍内親王(後の孝謙天皇、称徳天皇)に『漢書』や『礼記』を教授した。また、そうした功績から746年(天平18年)には吉備朝臣の姓を賜った。

 ところが、孝謙天皇即位後の750年には同天皇を後ろ楯に、藤原仲麻呂が強大な権力を掌握。仲麻呂により、遂に真備は中央政界では失脚、筑前守、肥前守に左遷されてしまった。だが、決して真備はこれでは終わらなかった。751年に遣唐副使として再び入唐。そして753年には鑑真を伴って無事に帰国したのだ。

 真備は754年(天平勝宝6年)には大宰少弐に昇任、759年(天平宝字3年)に大宰大弐(大宰府の次官)に昇任した。そして764年には(天平宝字8年)には造東大寺長官に任ぜられ、70歳で帰京した。恵美押勝(藤原仲麻呂)が反乱を起こした際には従三位に昇叙され、中衛大将として追討軍を指揮して乱鎮圧に功を挙げた。称徳天皇の御世、弓削道鏡の下で中納言、大納言、そして右大臣に昇進して、左大臣の藤原永手とともに政治を執ったのだ。

 吉備真備は地方豪族出身者としてはまさに破格の出世だった。学者から立身 して大臣にまでなったのも、近世以前ではこの真備と菅原道真のみだ。それも、 一度は中央政界で失脚しながら、遣唐副使として入唐、再出発し、帰国後は大 宰府で実績を積み、70歳で遂に都へ復帰したのだ。学者から身を起こした彼の 忍耐強い性格はもちろんだが、ここまで頑張り抜けたのは、やはり執念としか いいようがない。
 吉備真備には様々な伝承がある。まず彼は唐で「仙術」を学んでいる。また彼は「夢」を買って出世したという(『宇治拾遺物語』)。このほか、梅原猛氏によると、「祭星法」という術を用い、実はこの法により出世したともいう。この秘法を用い出世したもう一人の人物が、藤原鎌足だ(『宿曜占文抄』)。

(参考資料)梅原猛「海人と天皇」、笠原英彦「歴代天皇総覧」

公慶・・・戦禍で焼失した大仏殿再建に生涯を懸けた三論宗の僧

 公慶は、戦火で無残に傷ついた奈良・東大寺の大仏の修理および、焼失した大仏殿の再建に生涯を懸けた江戸時代前期の三論宗の僧だ。公慶は幕府の許可を得てただ一人、勧進活動のため精力的に全国を行脚した。ただ、悲しいことに彼は大仏殿の落慶を見届けることなく、江戸で亡くなった。公慶の生没年は1648(慶安元)~1705年(宝永2年)。

 公慶は丹後(京都府)宮津出身。1660年(万治3年)、東大寺大喜院の英慶(えいけい)について出家。13歳のときのことだ。公慶は同寺竜松院に住したが、1567年(永禄10年)の兵火に遭い大仏殿が焼失し、以後は大仏が露座のままとなっていることを嘆き、1683年(天和3年)、大仏殿再興を発願。翌年、幕府・寺社奉行の許可を得た。ただ、その許可の内容は、勧進は「勝手次第」、「幕府は援助せず」というものだった。それでも公慶は全くめげず、大勧進職(だいかんじんしき)となり、全国に懸命に勧進。着工にこぎつけた。

1692年(元禄5年)、4年の歳月を経て大仏の修理が完成して開眼供養が行われた。この開眼供養は3月8日から4月8日まで1カ月間にわたり営まれ、1万2800人の僧、一般参詣者20万人余に達したといわれ、奈良全体が未曾有の賑わいをみせた。

大仏の修理が終われば後は、肝心の大仏殿の再興だった。公慶の見積りでは大仏殿再興にかかる費用は18万両だった。公慶はこれだけの大事業を成し遂げるには、公的な力に頼る以外ないと判断。大仏修理の功績があった今回は、護持院・隆光の仲立ちで桂昌院(第五代将軍徳川綱吉の母)-そして綱吉に拝謁することに成功。大仏殿の再興への協力を願い出たのだ。その結果、幕府の全面協力を取り付けたのだった。幕府は公慶が見積もった目標額に応えるため、勘定奉行・荻原重秀を最高責任者に据えた。これにより、大仏殿再建は事実上幕府の直轄事業となった

 幕府の支援を受けることになったことで、再建のメドはついたかに思われたが、公慶は勧進活動を止めることはなかった。民衆に対し、大仏との“結縁”の機会を広めるためだった。ただ、幕府の支援はあったが、恐らく資金的な問題からと思われるが、大仏殿のスケールは当初、公慶が考えたものよりは縮小されている。小さくなったのだ。

 これだけ精力的に勧進活動を展開した公慶だけに、あとは感動の大仏殿完成の日を待つだけ-のはずだった。だが、悲しいことに、彼は大仏殿の落慶を見ることなく1705年(宝永2年)、江戸で病を得て58年の生涯を閉じた。翌年、公盛が公慶の功績を称え、勧進所内に御影堂を建立し、仏師性慶と公慶の弟子即念が製作した御影像を安置した。現在、東大寺境内の一角に建っている公慶堂と、堂内に安置されている公慶上人像がそれだ。待望した大仏殿の落慶は公慶が没した4年後、1709年(宝永6年)のことだ。現在の大仏殿・中門・廻廊・東西楽門はこのとき再建されたものだ。

 東大寺大仏殿の本尊、大仏は華厳経の教主毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)の金銅座像で、高さ五丈三尺五寸(現尺、約14.7・)。聖武天皇の発願により749年(天平勝宝1年)竣工。752年(天平勝宝4年)開眼供養が盛大に営まれた。その後、1180年(治承4年)、源平合戦の際、平重衡の南都焼き討ち、1567年(永禄10年)、三好三人衆と松永久秀の合戦で、それぞれ兵火に遭い、大仏殿はじめ多くの伽藍、さらに大仏も被災している。そのため、大仏も改鋳され、台座蓮弁の一部だけが当初のもので、胴身は鎌倉時代、頭首は江戸時代元禄期のものだ。1180年の最初の被災の際は、俊乗房(しゅんじょうぼう)重源(ちょうげん)上人が抜擢されて、勧進職を務めた。

(参考資料)古寺を巡るシリーズ「東大寺」

佐野常民・・・幕末には珍しい非政治的人間で日本赤十字社の創立者

 佐野常民は周知の通り、日本赤十字社の創立者だ。彼の赤十字への関心は、2度の渡欧を通して知った西欧諸国の赤十字活動によって触発され、育っていった。決して独創ではない。だが、わが国にも赤十字組織は必要だと見抜く眼力の正確さ、そしてそう判断すると直ちにその移入を思い立ち、着実に精魂を込めて行動していく粘り強い実行力、それが常民の優れた点だ。また、彼は適塾で学んだが、幕末の激動期を生きた人物にしては珍しく、体制批判派でもなければ、もっといえば非政治的人間だったといっていい。

 佐野常民は肥前国佐賀藩士、下村充斌の五男として生まれたが、11歳の1832年(天保3年)、親戚の藩医佐野常徴(じょうちょう)の養子となった。このことも、常民の意識形成に少なからず影響を及ぼしたものと考えられる。元来、藩医は士の最末端というか、武士にして武士にあらずというような、身分的に極めて微妙な地位に置かれていた。したがって、ともすると上昇志向にとらわれやすい。この点は、常民と同様、藩医の子だった越前の橋本左内にも似たところがあったが、常々真正の武士になりたいものだと熱烈に願った。

 佐野家の場合はそれに加えて、常徴が藩主・鍋島斉直(鍋島閑叟の父)の侍医だったという事情もある。生家が「葉隠」的精神を濃厚に伝えた忠誠意識の強い家庭で、実父は藩財政に参画していたし、養家の社会的地位といい、常民が体制側に吸い寄せられていく素地は生まれながらに準備されていたわけだ。

 1854年(安政元年)、常民はオランダから蒸気船購入を一任されたものの、公金流用を疑われて、悪くすると切腹という窮地に追い詰められたことがあった。その頃、オランダとの貿易を取り仕切っていた長崎奉行所の役人らに酒食を饗応してリベートの引き下げを図ったのだが、藩のためにと考えたその裏取引を、思いがけず公金濫費と指弾されたのだ。

 ところが、藩主閑叟は常民に対し、免職のうえ30日間の謹慎という軽い処分を下しただけで、しかも免職者は以後30年間復職できないという定めがあったのに、わずか半年足らずで再び彼を要職に登用した。藩主のこの寛大な措置も常民をいよいよ体制に忠実にならしめる一つの契機になったことだろう。

そうかといって体制内で活発な政治的な動きを展開したわけではない。むしろ逆だった。常民の身辺は政治の持つ生臭い求心力とどこか縁が薄く、歴史のめぐり合わせか、何か事が起こりつつあるときに限って、いつも彼はその現場にいないのだ。1850年(嘉永3年)の義祭同盟結成の際は、江戸で蘭学修行に励んでいたし、江戸幕府が倒れ1867年、王政復古の大号令が発せられたとき、彼はフランス・パリの万国博の運営に携わっていた-という具合。

 常民が兵部少丞として新政府の官途についたとき、すでに50歳に近かった。元老院議官、大蔵卿、元老院議長、枢密顧問官などを歴任、晩年には農商務大臣を務めて伯爵に叙せられた。しかし、明治期の常民の独自な立場と識見を浮き彫りにするのは、赤十字運動との関わりだ。事実、常民は赤十字運動をわが国に根付かせることに後半生のほとんどを捧げており、またその行動によってこそ彼の名は歴史に深く刻み込まれることになったといえよう。

 明治27年勃発した日清戦争は、日本赤十字社にとってその創立の理念の真価を問われる試練の時だった。常民は大本営の置かれた広島に赴き、戦地の戦況を絶えず確認しながら、救護活動の陣頭指揮を執った。史料によると、このとき1050人の赤十字社救護員が大陸に渡り、10万人前後の内外傷病者を救護したという。

(参考資料)百瀬明治「『適塾』の研究」

島 左近・・・石田三成が禄高の半分を与えて召し抱えた歴戦の兵法家

 島左近は生涯に主君を、畠山高政を皮切りに筒井順政-筒井順慶-筒井定次-豊臣秀長-豊臣秀保-石田三成と7人変えたと伝えられている。筒井順慶に仕えた頃は侍大将を務めたほど、当代の兵法家として知られていた。「孫子」や「呉子」などの中国古典にも明るかったという。後に羽柴秀長に仕え、その死後は秀長の世嗣・秀保に従い、文禄の役(1592年)にも渡海し、朝鮮においても数々の武功を挙げた。

だが、1595年(文禄4年)、秀保が病死し、左近は出家を覚悟していたところ、石田三成から声がかかり、7人目の主君に仕えることになった。もっとも、戦国武将としてのキャリアにおいて、卓越していた左近を、39歳と年少の三成が召し抱えるのは、この当時の武将気質として、まとまる話ではなかった。恐らく左近にすれば、己の戦歴を上回るぐらいの相手でなければ、いまさら仕える気にもならなかったに違いない。そこで、婉曲に断ろうとした。それを三成は、左近への高い評価を俸禄で示して覆す。三成は1586年(天正14年)、左近を、三成の当時の禄高4万石の半分、2万石の知行を与えて召し抱えたといわれる。まさに破格の待遇だ。

ただ、左近の三成への仕官の時期の違いで、召し抱えたときの三成の知行にはいくつかの説がある。そのとき三成は北近江に19万4000石を与えられて佐和山城主になっていたとか、「多聞院日記」には近江に30万石の知行を得ていたとも記されている。

 島左近の生涯はいまなお謎に包まれている部分が多い。例えば、彼の諱が清興(きよおき)、勝猛(かつたけ)、昌仲、友之、清胤(きよたね)といくつも伝えられているほか、生没年も判然としない。伝えられているのは1540(天文9年)~1600年(慶長5年)。

 豊臣秀吉の死後、雌伏していた徳川家康は遂に天下取りに向けて動き出した。豊臣政権の存続を願う三成は、知力の限りを尽くして家康に決戦を挑んだ。1600年に勃発した「関ケ原の戦い」だ。三成を事実上の総大将とする西軍の総勢8万4000と、家康を総大将とする東軍の総勢7万5000が激突したはずだった。だが周知の通り、総勢1万5000を揃えた総大将格の毛利本体が動かず、一進一退が続く中、西軍の小早川秀秋が東軍に寝返り、勝敗は決した。

 三成の「補佐役」、島左近の勇猛果敢な奮戦ぶりは後々までの語り草とされた。西軍の事実上の主将・三成に東軍の諸将が集中攻撃を仕掛けてくるのは明らかだった。開戦から1時間後、馬上の島左近は手勢100人で、右手に槍、左手に麾(き=指図旗)を握って、柵の口から打って出た。銃撃戦が始まり、先鋒の兵の小競り合いがあって後、東軍側では黒田隊が左近の率いる100人の前に出た。これに加藤嘉明、田中吉政、細川忠興らの軍勢が続く。左近はこれを巧みに押し返し、押し込め、タイミングを計っては、実に巧妙にいなすのだ。黒田隊はまるで左近の魔術にでもかかったように翻弄されて、挙句の果ては死地へはめられてしまった。

このとき黒田隊の菅六之助という者が、別働の鉄砲隊を率いて、左近らを捉える射程内の小丘に登っていなければ、黒田隊は全滅の恐れすらあった。横合いからの、鉄砲隊の攻撃で石田隊は次々と倒れていった。馬上の左近も狙い撃たれて馬から落ちた。ひどい出血だった。左近は将士の肩に担がれて、手勢を撤収し柵内へ退いた。陣所内で左近は止血の手当てを受けたが、かなりの重傷。本来なら動くこともままならなかったが、東軍の攻撃が激しさを加え、休息の時間を与えてくれなかった。

 石田隊の強さは群を抜いていた。だが、頼みの西軍諸将は、宇喜多秀家の軍勢や小西行長、大谷吉継らの隊を除いて、ほとんどが動かない。所詮は多勢に無勢だった。怒涛の如く押し寄せる東軍を、西軍の実戦諸隊は遂に支えきれず、左近も津波に呑み込まれたように、ここで姿を消した。その後、左近はどうなったのか。銃撃によって戦死したと書き留めている史料から、太田牛一の「関ケ原軍記」のように行方不明とするもの、「古今武家盛衰記」のように西国へ落ちのびたと記しているものまであり、確かなことは分からない。

(参考資料)百瀬明治「『軍師』の研究」、佐竹申伍「島左近」、加来耕三「日本補佐役列伝」

島津重豪・・・西洋文化に造詣が深かった浪費家は同時に藩の革命児だった

名君にも様々なタイプがある。悪いことをたくさんしているが、それを上回る大きな功績があり、その藩の地位を高めた藩主だ。その典型が島津氏第二十五代当主で、薩摩藩八代藩主・島津重豪(しげひで)だ。幕末、西南雄藩の中でも名君といわれた島津斉彬の曽祖父で、彼は32年の長きにわたって藩主の座にあって藩政を独占。贅沢三昧をして藩の財政を破綻させ、数々の苛政も行ったことで、愚君の評価を下す人が多い。

しかし薩摩藩は「革命児」ともいえる、この型破りの殿様の「無茶」の数々がなければ、明治維新の原動力などには到底なり得なかっただろう。生没年は1745(延享2年)~1823年(天保4年)。
 重豪は徳川十一代将軍家斉の岳父だが、徳川十五代の将軍の中で最も贅沢で、浪費家だったこの家斉に「薩摩の舅どのには及ばん」といわせたほど、並外れた浪費家だった。それくらい重豪の生活は華麗で、豪奢だった。その名が示すように、性豪放で進取の気性に富んでいた。泰平の世の大名にしては気宇が広大にすぎた。やること成すことが桁外れで規格にはまらない。国持大名らしさを求める幕府は何かにつけて枷(かせ)を着せた。怜悧な人だったから、我執を包みくらました。そのため、はけ口のない重豪の雄心は、わがままと贅沢となって表れた。

 江戸・薩摩藩下屋敷の茶屋を改めた高輪御殿に隠居していた重豪の居室は、西洋の文物であふれていた。晴雨出没人形、砂時計、吹笛琥珀、硝子刷毛、天眼鏡、紅毛硯、虫眼鏡、硝子鈴、オルゴール楽器、剣杖、鼓弓、硝子掛燈爐などのオランダ渡りの品々が異国的な雰囲気を高めていたという。それほど西洋文化に造詣が深く、蘭学に大変な興味を示し、自ら長崎のオランダ商館に出向いたり、オランダ船に搭乗したりしている。

 彼が行った事績をみると、1773年(安永2年)、藩校・造士館や演武館を設立し、教育の普及に努めている。1779年(安永8年)には明時館(天文館)を設立し、暦学や天文学の研究を行っている。医療技術の養成にも尽力し、1774年(安永3年)医学院を設立、武士階級だけにとどめず、百姓・町人などにも教育の機会を与えた。

 このほか、老いてますます盛んな重豪は、曾孫の斉彬の才能を高く評価し、斉彬とともにシーボルトと会見し、当時の西洋の情況を聞いたりしている。ちなみに彼はローマ字を書き、オランダ語を話すこともできたといわれている。

重豪の金に糸目をつけぬ贅沢品の蒐集で、薩摩藩の財政は破綻。晩年、彼はようやく藩の財政改革に取り組み、その立て直し役として調所笑左衛門広郷を重用。調所の大胆かつ狡猾な手法と、琉球を通じた密貿易により、その財政再建は孫の島津斉興の新政時に成果をみている。調所は500万両の赤字を埋め、60万両の黒字を出すまでに立て直した。

(参考資料)加藤_(けい)「島津斉彬」、八幡和郎「江戸三百藩 バカ殿と名君」
      奈良本辰也「日本史の参謀たち」、綱淵謙錠「島津斉彬」

島津久光・・・斉彬の遺志継ぎ藩の存在感を誇示するが、保守派のため限界

 島津久光は、薩摩藩・島津家の“お由羅騒動”の要因ともなった、斉彬の異母弟だ。斉彬の急逝の後、薩摩藩主(島津忠義)の後見役として、「国父」の尊称を受け藩政の実権を握り、幕末~明治維新の藩運営を実質的に担った人物だ。

島津久光の生没年は1817(文化14)~1887年(明治20年)。
 島津久光は第十代薩摩藩主・島津斉興の五番目の子として鹿児島城本丸で生まれた。母は側室、江戸三田の四国町に住む大工の娘、お由良(お遊羅とも)。8歳上の嫡兄が斉彬だ。

 1851年(嘉永4年)、第十一代薩摩藩主となった島津斉彬は、積極的に藩政改革と軍備の近代化を断行。しかし、志半ばで急に病に伏し1858年(安政5年)、死を悟った斉彬は久光を枕頭に招き、久光の長子、茂久(のち忠義に改名)を後嗣とし、久光を後見とする旨、遺言し、亡くなった。西南雄藩の中でもとりわけ開明派の名君と評された人物だけに、藩内には若き日の西郷隆盛、大久保利通ら、その死を惜しむ声が多かった。

 それだけに、薩摩藩内の若手家臣たちには失望感が強く、それほどの期待感はなかったが、島津久光は異母兄、斉彬の遺志を継いで、この後、公武合体のために努力奔走する。ただ、もう一つの遺志、薩摩の近代化という藩の内政面では至極、冷淡だった。そのため、斉彬が今後の時代を見据え、薩摩藩を“産業国家”に改造することを目指し、西洋技術習得のために設けた諸施設は無残に解体・縮小されていた。

 斉彬が推し進めていた西洋技術習得の意味を、久光は全く理解できず、ただ傍観しているほかなかったのだ。しかも、兄の斉彬が亡くなったからといっても、父、斉興が自分の出番とばかりに藩運営に出しゃばってきたからだ。久光はまた、この事態を静観しているほかなかった。斉彬の死後、一年で老公の斉興も亡くなって、ようやく実権は久光に移った。

 斉彬の死で沈滞したかに見えた薩摩藩内の動きも、徐々に活気を取り戻す。京を中心に倒幕・尊皇攘夷運動が吹き荒れていたからだ。現実派の大久保利通らは、要所で久光を担ぎ出し、この後、西南雄藩の中でも主導的な立場で様々な手を打ち薩摩藩の声望を高めていくことになるのだが、先君・斉彬に心酔していた西郷隆盛は結局、最後までこの久光の行動や事績を認めることはなかったようだ。そのため、西郷はこの久光に徳之島、喜界ヶ島などへの流罪処分を受けている。

 話を戻すと、やがて「国父」の尊称を受け、藩政の実権を握った久光は、大久保利通ら藩内有志の脱藩事件を契機として彼らを「誠忠士」と称し、挙藩一致し国難にあたらせることに成功した。1862年(文久2年)、久光は1000余の藩兵を率いて上京、国事周旋にあたり、攘夷激派の有馬新七らの伏見・寺田屋事変を抑え、挙藩一致の方向を堅持した。公武一和のためとはいえ、薩摩藩士が薩摩藩士を斬り殺すという惨劇は、藩内に傷を残した。

 次いで、久光は勅使、大原重徳を擁して東下し、幕政改革を命じて公武合体運動の中心人物となった。江戸からの帰途、生麦村で行列を横断したイギリス人を殺傷した「生麦事件」を起こし、その結果、1863年(文久3年)、「薩英戦争」となった。

 王制復古後は、久光は政府の開明政策に不満で藩地にとどまることが多かったが、征韓論の分裂による明治政府の弱体化に備え、明治6年、勅使派遣により上京し、内閣顧問から同7年、左大臣に任ぜられた。

 ただ、保守派の久光は政府の欧化政策には反対で、その旨たびたび建言した。しかし、それはことごとく退けられ、受け容れられることはなかった。そのため、明治8年、遂に久光は官を辞し帰国。以後、政治の舞台からは遠ざかり、修史の業に従い、『通俗国史』(86冊)などを編纂させた。薩摩国内が最後の舞台となった「西南戦争」には中立を守り、休戦を建議したが、明治維新政府には容れられなかった。

 島津久光は、その死因が不可解で毒殺との説もある、急死した異母兄、斉彬が健在なら表舞台に登場することはなかった。それだけに、久光が行った藩運営や雄藩諸侯の中で果たした役割も、決して十分ではなかったかも知れない。しかし、それでも薩摩は、明治維新政府で長州とともに主導的役割を果たし、存在感を示したのだから、良しとしなければなるまい。

(参考資料)海音寺潮五郎「西郷と大久保」、松永義弘「大久保利通」、司馬遼太郎「きつね馬」、加藤_「島津斉彬」、司馬遼太郎「この国のかたち 一」

調所広郷・・・破綻していた藩財政を立て直し、薩摩藩の地位高める

 調所笑左衛門広郷(ずしょ・しょうざえもん・ひろさと)は薩摩藩の前藩主(八代)・島津重豪(しげひで)に茶坊主として仕え、のち還俗。その後、御用人・側役を兼任、5年後、藩財政の困窮に際して財政改革担当を命じられ、大番頭・大目付格を経て1833年、家老となった。その間の改革全権を委任され、破綻していた藩財政を立て直した。

その過程で、琉球を通じた密貿易はじめ法スレスレの諸施策もあったが、その事績は薩摩藩への貢献大なるものがある。具体的にいえば、調所は財政改革に取り組んで20年で500万両の赤字を埋め、60万両もの黒字を出し、幕末政界において薩摩の位置を重くした人物だ。

 調所広郷は下級士族、川崎主右衛門の子で、13歳で調所清悦の養子になった。幼名は清八、友治、笑悦。通称・笑左衛門。調所家は御小姓与(ぐみ)の家格だった。島津家の家臣では最も低い家格だ。西郷隆盛の家と同じだ。勤めは茶坊主だ。笑左衛門も15歳のとき茶坊主として勤めるようになった。茶坊主の給米は4石というわずかなもの。そのために髪を切らねばならない。その屈辱が彼の成長に何らかのプラスになったのではないか。生没年は1776~1848年。

 調所広郷は25歳で江戸に出、前藩主(島津氏25代当主)重豪付きの茶坊主になった。この重豪との出会いが調所の人生を一変させる。重豪は徳川八代将軍吉宗の武断主義に、十一代の家斉の豪奢を合わせたような傑物だ。その家斉は重豪の二女を夫人にしていた。

重豪は長崎を通じて外国の学問文化に目を注いでいた。参勤交代が終わって帰国の途中、わざわざ長崎に寄って20日間も滞在。出島やオランダの船を見学したことがある。数ある大名のうち、自分で長崎を見たのは彼ぐらいだろう。歴代の商館長とはいつも書信を交わしていたし、有名な医師シーボルトには自分から願って教えてもらったこともある。「成形図説」という大部の農学百科を編集、領内に頒布して農業技術の向上を図った。漢語もかなり話せたようだし、学術用語ぐらいならオランダ語も分かった。

重豪は77万石の大守で、将軍家斉の義父という体面があるから、江戸の外交経費も惜しまない。高輪の屋敷には西洋風の家を造ったこともある。また、薩摩には宝暦の木曽川治水工事お手伝いという財政上の大苦難があった。巨額の費用と多くの人材を失い、幕府の命令どおりに工事を終了したが、この痛手がすっかり直らないところに、重豪の収入を上回る積極財政が展開されたから、藩財政は困窮した。こうした事態に陥って、重豪はバカ殿様ではないから考え、本来この財政難を立て直すのが自分の任務だろうが、それは性分には合わないと判断。1787年(天明7年)、藩主の座を斉宣(15歳)に譲った。ただし、「政務介助」の名目のもとに実権は握り続けた。

新藩主・斉宣の側近、樺山主税・秩父秀保・清水盛之らは「近思録派」と呼ばれ、保守的・精神主義・素朴復古・倹約最優先だったから、重豪が32年間にわたって展開してきた開明政策を批判、あるいは否定するものだった。そうなると、重豪は黙っていられない。真っ向から対立、お家騒動に発展した。「近思録くずれ」「秩父騒動」などと呼ばれ、薩摩藩はこのとき完全に二分した。翌年、重豪は斉宣を藩主の座から引きずり降ろし、斉宣の子の斉興を据えた。

江戸詰めで重豪の側に仕えていた調所は、大騒動のあった2年目に茶道頭になった。それから4年、40歳で御小納戸頭取御用、御取次見習になった。この時点で調所は幹部の一員になったといっていい。彼を昇進させたのは重豪だ。その後、1822年(文政5年)から2年間、彼は鹿児島の町奉行を務めた後、江戸に呼び返され御側御用人、御側役になった。藩庁と藩主個人との間をつなぐ役だ。また同じ頃、先々代重豪と先代斉宣の生活費を工面する仕事を仰せつかる。実はこれが琉球貿易による独立会計だった。

1827年(文政10年)、調所の人生にとってヤマがきた。重豪の名代として改革をやれ、家老を指揮すべし、という命令が下ったのだ。調所は拝命にあたり「絶対に罷免しない、批判は許さない」という重豪の「直書」をもらい、この後、20年もの長期にわたって藩政改革を指導することになる。重豪は大坂商人との500万両踏み倒しの成功を見ぬうち、1833年(天保4年)、88歳で死んだが、斉興は重豪の改革方針継続を表明。以後、調所と斉興は二人三脚で大改革を推進していく。そして、破綻していた藩財政の立て直しに成功する。

(参考資料)加藤_「島津斉彬」、奈良本辰也「日本史の参謀たち」、童門冬二「江戸管理社会反骨者列伝」

大黒屋光太夫・・・鎖国下、漂流から9年半かけロシアから日本に生還

 現代と違い、船に羅針盤など装備していなかった時代の航海は、天候次第で死と隣り合わせの、極めてリスクの大きいものだった。大黒屋光太夫はそんな時代の船頭で、乗った船が嵐に遭って大漂流。鎖国下の江戸時代、ロシア領に漂着。首都ペテルブルグで皇帝エカテリーナ2世に謁見して帰国を願い出、漂流から約9年半もの月日を経て、日本へ生還した人物だ。

この間、彼が移動した距離は壮大なスケールになる。それも、移動手段として犬ゾリぐらいしかなかった時代のことだから、その距離感は現代の何倍にも相当することだろう。それだけに、肉体的な頑健さはもちろんだが、それを成し遂げた精神力の強さ、生命力の強さには目を見張るものがある。
 大黒屋光太夫は江戸時代後期の伊勢国白子(現在の三重県鈴鹿市)の港を拠点とした回船(運輸船)の船頭だ。生没年は1751(宝暦元年)~1828年(文政11年)。1782年(天明2年)12月、藩の囲い米などを積み、総勢18人が乗り込んだ神昌丸は江戸へ向け白子の港を出港した。

ところが、駿河沖付近で嵐に遭いそのまま半年以上も漂流。やがて、船は日付変更線を超えて1783年7月、北の果てアリューシャン列島のアムチトカ島に漂着。この寒さ厳しい島で8人の仲間が亡くなった。漂流中に1人死亡しており、これで死者は9人となった。

 4年後、この島にラッコの皮をとりにきたロシア人が彼らをカムチャッカ半島のロシア人の町ニジニカムチャッカに連れて行ってくれた。ここで光太夫らは日本に帰りたいので助けてほしいと必死に当地の役人に願い出るが、当時日本は鎖国中。願いは不許可となる。ここでも3人の仲間が死亡。残った6人は翌1788年、帰国の件をシベリア総督に直接願い出ようとソリで8カ月を要し、シベリアの中心都市イルクーツクへたどり着く。しかし、シベリア総督の返事は「NO」だった。

 失意の彼らに救いの手を差し伸べたのはフィンランド出身のキリル・ラクスマンという植物学者。彼はロシアの科学アカデミー会員に名を連ねており、自分と一緒に首都ペテルブルグまで行って皇帝から直接帰国の許可と支援を願い出ようと誘う。1791年、一行を代表して光太夫がラクスマンとともに、速ソリで6000・・をわずか2カ月で横断、首都ペテルブルグまで行った。
ラクスマンと光太夫の2人は皇帝エカテリーナ2世に2度も謁見することに成功。エカテリーナ2世は彼らに同情するとともに、これを機会にかねてから考えていた日本との交易を実現したいと考え、ラクスマンの息子のアダム・ラクスマン陸軍中尉(当時26歳)に遣日使節の命を与え、光太夫らとともに日本へ行くよう命じた。

この時点でイルクーツクの6人のうち1人が亡くなっており、庄蔵、新蔵の2人はロシアに残る道を選んだ(このうち新蔵はロシア人女性と結婚した)。そして光太夫、礒吉、小市の3人だけが帰国の途につくことになった。ラクスマンは彼ら3人を連れてオホーツクの港から船で根室へと入った。1792年10月、漂流から9年半後のことだった。待ちに待った帰国だったが、3人のうち小市はその根室で死亡してしまう。結局、生還できたのは光太夫と、最年少だった礒吉の2人だけだった。

 光太夫、礒吉が帰国したとき、幕府の老中は松平定信で、彼は光太夫を利用してロシアとの交渉を目論んだ。だが、2人が江戸に回送されるまでに定信が失脚してしまう。そのため、光太夫らのその後の運命も大きく左右されることになった。定信が老中職にあれば、恐らく2人はジョン万次郎(中浜万次郎)のように、外国との交渉役としての役割を与えられ活躍しただろう。

ところが、彼らは一転して「鎖国の禁を破って、外国に出た犯罪者」として扱われる身となってしまったのだ。その後は江戸で屋敷を与えられ、軟禁状態で過ごさなければならない破目に陥ってしまう。それでも数少ない異国見聞者として桂川甫周や大槻玄沢ら蘭学者と交渉し、蘭学発展に寄与。桂川甫周による聞き取りを受け、その記録は「漂民御覧之記」としてまとめられ、多くの写本が残された。

また、桂川甫周は光太夫の口述と「ゼオガラヒ」という地理学書をもとにして「北槎聞略」を編纂した。光太夫の波乱に満ちた人生史は小説や映画などで度々取り上げられている。

(参考資料)井上靖「おろしや国酔夢譚」、井上靖「日本史探訪/海を渡った日本人 大黒屋光太夫」、吉村昭「大黒屋光太夫」

玉木文之進 ・・・吉田松陰をスパルタ教育で鍛えた硬骨・清廉潔白の士

 玉木文之進は「松下村塾」と名付けた塾を開き、長州藩子弟の教育に努めた教育者であり、山鹿流の兵学者だが、吉田松陰の叔父でもあり、松陰を幼少よりスパルタ教育で厳しく鍛え、松陰の人格形成にあたって最も影響を与えた人物として知られる。生没年は1810(文化7)~1876年(明治9年)。

 玉木文之進は長州藩士・杉七兵衛の三男として萩で生まれた。1820年(文政3年)、10歳のとき長州藩士で四十石取りの玉木十右衛門正路の養子となって家督を継いだ。今日知られている吉田松陰の「松下村塾」も、元をたどればこの玉木が1842年(天保13年)開いた塾なのだ。後に第三軍司令官・陸軍大将として日露戦争で旅順攻撃を指揮した乃木希典も玉木の薫陶、教育を受けている。

 玉木は松陰が19歳で藩校明倫館に出仕するまで、その後見役としてあった。そして後年、松陰がその主義と主張のために罪を受けたときも、彼は最後まで松陰を庇護し、「松陰の学術が純粋でないというなら、まず私から処分せよ」といって政府に迫ったほどだ。硬骨であるとともに、清廉潔白な性格から、郡奉行となって加増などがあると、すぐにその返上を申し出て、余分の収入はすべて治下の農民たちのために使った。まさに武士道に生きた人物といえよう。

 1856年(安政3年)には吉田代官に任じられ、以後は各地の代官職を歴任した。1859年(安政6年)、郡奉行に栄進するが、同年の「安政の大獄」で甥の松陰が捕縛されると、その助命嘆願に奔走した。しかし松陰は処刑され、それに連座して1860年(万治元年)、代官職を剥奪された。

 1862年(文久2年)、奉行として復帰し、1863年(文久3年)からは代官として再び藩政に参与した。藩内では尊皇攘夷派として行動し、1866年(慶応2年)の第二次長州征伐では萩の守備を務めた。1869年(明治2年)には政界から退隠し、再び松下村塾を開いて子弟の教育に努めている。

 ところが、玉木の教育者としての心静かな生活が一変する事件が起こる。1876年(明治9年)、前原一誠が萩で新政府に対して兵を起こした。「萩の乱」だ。この不平士族の反乱に養子の玉木正誼や、松下村塾の門弟の多くが参加したため、彼は律儀にもその責任を取る形で、先祖の墓前で自害した。

 こうした事実だけをつなぎあわせると、萩の乱に連座した形で責任を取ることに本人は納得していたのか?と考えるが、実際は違うようだ。前原一誠が蜂起した際、指摘したように内治、外交に新政府は失敗が多い。内治は地租改正のため、農村の純朴な風が失われてきた。士族から武器を取り上げて四民平等などといっているが、禄高まで取り上げて、その後に何の定職もない多くの犠牲者をつくりだした。そして、政府の高官は商人と結託して巨万の富を私している。外交の面でいえば、千島・樺太の交換など大変な不利益をもたらして、それを少しも悔いようとしないなど、納得できないことばかりなのだ。それらを指摘する前原の直情径行なところが、松陰によく似ていて好ましかった。それに前原は松陰再下獄のとき、真っ先に立って政府にその非を糾弾している。そのために罰まで受けている。

 玉木文之進の切腹、それはまさに維新の原動力だった一つの思想の終末だった。長州藩の下級武士として生まれ、尊皇・攘夷の大義に則ってその道をまっしぐらに進んだ男。松陰を教育することによって、その大義は長州のみならず、四方に影響を及ぼした。それが大藩・毛利家の幕末乱世をリードする根本になったことはいうまでもない。

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」、司馬遼太郎「世に棲む日日」

平将門・・・単なる謀反・犯罪人とは一線を画す“義”人の部分も

 平安時代中期、各地で成長した中小の武士団が、貴族の血筋を引く者を棟梁としてより大きな集団へと成長していった。その代表格が桓武天皇から出た桓武平氏と、清和天皇から出た清和源氏だ。東国を本拠とする桓武平氏の出身の平将門は、様々な経緯があったにせよ朝廷に反旗を翻し、「新皇(しんのう)」と名乗った。現代風にいえば国家反逆罪で不敬罪?にあたるかとも思われる大罪悪人のイメージだが、その実態はどうだったのだろうか。

 平将門は、桓武天皇の曾孫で、平氏の姓を授けられた高望王(たかもちおう)の孫で鎮守府将軍平良将(よしまさ)の三男。彼は平安京に出仕して、藤原北家の氏の長者だった藤原忠平と主従関係を結ぶ。だが、935年に父良将が急死したため、領国へ戻った。しかし、相続をめぐって争いが起こり、一族の抗争へと発展。

抗争を続ける中で、将門に庇護を求めてきた藤原玄明をかくまい、引渡しを拒否したことなどから国司とも対立。常陸国府から宣戦布告されたため、やむなく手勢1000人余で3000の常陸国府軍と戦うことになり、これに圧倒的な勝利を収めた。だが、関東諸国の国衙を襲い、印鑑を没収したことから、朝廷から敵と見做され939年、将門は不本意ながら朝廷に反旗を翻した。

さらに武蔵権守興世(おきよ)王の勧めで坂東征服を企て、将門は常陸、下野、上野の国府を攻め落とし、関東一円を手中に収めた。そして、京都の朝廷に対抗して独自に天皇に即位し「新皇」を名乗った。これがいわゆる「平将門の乱」(935~940年)だ。

 ただ、将門がどうしてこの乱を起こしたのか。その原因についてはいくつかの説があり、今日も確定されていない。その有力な説を挙げると1.長子相続制度の確立していない当時、父良将の遺領が伯父の國香や良兼に独断で分割されていたため、争いが始まった2.常陸国(茨城県)前大掾の源護の娘、あるいは良兼の娘をめぐり争いが始まった3.源護と平真樹の領地争いへの介入によって争いが始まった-などがある。どれがというより、いくつかの要因が重なって行き着くところまでいってしまった、というのが真相ではないだろうか

 しかし、関東諸国の国府を相手に戦になった場合も、将門が自己の野心から対立勢力に戦を仕掛けて、これを征伐していったというイメージはほとんどない。様々な事情を抱えて行き詰まった人物が庇護を求めてきた、あるいは彼を頼ってきた場合に行き掛かり上、不本意ながら出座し、やむにやまれず戦いに赴いた感が強いのだ。“義”に篤い人物の姿を垣間見ることができる。ただ、残念ながらこのあたりは不確定要素が多い。したがって、将門に対する歴史的評価はまだ低い。

 朝廷からの独立国建設を目指した将門は、藤原秀郷、平貞盛らに攻められ、敗死した。死後は御首神社、築土神社、神田明神、国王神社などに祀られており、この点、氏素性確かな彼の死が単なる謀反・犯罪人のそれとは異なることを示している。

(参考資料)童門冬二「平将門」、村松友視「悪役のふるさと」、海音寺潮五郎「悪人列伝」、海音寺潮五郎「覇者の条件」、永井路子「続 悪霊列 伝」、杉本苑子「野の帝王」、安部龍太郎「血の日本史」

重源・・・源平の争乱で焼失した東大寺を15年かけて復興した高僧

 俊乗房重源(しゅんじょうぼう・ちょうげん)上人は、当時61歳の高齢で東大寺大勧進職に就き、幾多の困難を克服して、源平の争乱で焼失した東大寺を復興した高僧だ。重源の生没年は1121(保安2)~1206年(建永元年)。

 重源は紀氏の出身で、紀季重(すえしげ)の子。17歳で刑部左衛門尉に任ぜられて、重定と名乗った。出家の動機は定かではない。真言宗の醍醐寺に入り、出家する。のち浄土宗の開祖、法然に学んだ。四国、熊野など各地で修行、中国(南宋)を3度訪れたという。

 1181年(養和元年)、重源は前年「南都焼き討ち」によって焼け落ちた東大寺の被害状況を視察にきた後白河法皇の使者、藤原行隆に東大寺再建を進言し、それに賛意を示した行隆の推挙を受けて東大寺勧進職に就いた。重源、61歳のときのことだ。この後、86歳で没するまで15年間、晩年の熱情のほとんどを大仏再建に燃やし切ったのだ。

 東大寺の再建には財政的、技術的に多大な困難があった。周防国の税収を再建費用に充てることが許されたが、重源自らも勧進聖や勧進僧、土木建築や美術装飾に関わる技術者・職人を集めて組織し、勧進活動によって再興に必要な資金を集め、それを元手に技術者や職人が実際の再建事業に従事した。また、重源自らも京の後白河法皇や九条兼実、鎌倉の源頼朝などに浄財寄付を依頼し、成功している。

 重源は自らも再建作業に深く関わった。彼は建築技術を習得したといわれ、中国の技術者、陳和卿(ちんなけい)の協力を得て、職人を指導した。自ら巨木を求めて山に入り、奈良まで移送する方法も工夫したという。また、伊賀、紀伊、周防、備中、播磨、摂津に別所を築き、信仰と造営事業の拠点とした。

 課題も少なくなかった。最大の課題は、大仏殿の次にどの施設を再興するかという点だ。塔頭を再建したい重源と、僧たちの住まい、僧房すら失っていた大衆たちとの間に意見対立があり、重源はその調整に苦慮している。また、重源は東大寺再建に際し、西行に奥州への砂金勧進を依頼している。

 こうした幾多の困難を克服して重源と、彼が組織した人々の働きによって、東大寺は見事に再建された。1185年(文治元年)、大仏の開眼供養が行われ、1195年(建久6年)には大仏殿を再建し、1203年(建仁3年)に総供養が行われている。これらの功績から、重源は大和尚の称号を贈られている。

 重源が再建した大仏殿は戦国時代の1567年(永禄10年)、三好三人衆との戦闘で、松永久秀によって再び焼き払われてしまった。現代の東大寺には重源時代の遺構として南大門、開山堂、法華堂礼堂(法華堂の前部分)が残っている。

 重源の死後は臨済宗の開祖、栄西が東大寺勧進職を継いだ。東大寺には重源を祀った俊乗堂があり、「重源上人坐像」(国宝)が祀られている。鎌倉時代の彫刻に顕著なリアリズムの傑作として名高い。

(参考資料)杉本苑子「決断のとき 歴史にみる男の岐路」

高木兼寛・・・海軍の脚気撲滅に尽力した最初の医学博士「ビタミンの父」

 高木兼寛は1880年代、海軍の脚気罹病者の増大で国防上の大問題となった際、その原因を突き止め、脚気の撲滅に尽力し「ビタミンの父」とも呼ばれる人物だ。明治・大正期の海軍軍医で、東京慈恵会医科大の前身を創設した。生没年は1849(嘉永2)~1920年(大正9年)。

 高木兼寛は日向国諸県郡穆佐郷(現在の宮崎県宮崎市、平成の大合併前の東諸県郡高岡町)で高木兼次の子として生まれた。兼寛(かねひろ)から「けんかん」とも呼ばれた。幼名は藤四郎。8歳から山中香山に漢学を学び、13歳のときに医学を志し、18歳で鹿児島に出て蘭医石神良策に師事した。明治元年、鹿児島九番隊付の20歳の軍医として戊辰の役に従軍。東北征討軍とともに遠く会津若松の戦場に赴いた。

しかし、この戦争に参加した兼寛は、医師として激しい衝撃を受けた。各藩の医者の大半は漢方医で治療が拙劣であり、それに比して西洋医学を身につけた軍医たちは豊かな医学知識と技術をもって治療にあたっていた。医師として無力であることを恥しく思った彼は、西洋医学を修めねばならないと思った。 
 
そして、細々と貯えておいた13両2分の金を懐に、再び鹿児島に戻って医学開成学校に入学した。ここで、彼はその後の人生を決定づける人物にめぐりあう。西郷隆盛の推薦で鹿児島へ校長として赴任してきたイギリス人医師ウイリアム・ウイリスだ。彼はこのウイリスに、イギリス医学と英語を教えられるとともに、その才能を認められイギリス留学を勧められた。

 1872年(明治5年)、海軍軍医となり、1875年(明治8年)イギリスへ留学。ロンドンのセント・トーマス病院医学校に入学し、1880年(明治13年)に同校を優秀な成績で卒業した。帰国後、海軍病院長、海軍省医務局長を歴任。1885年(明治18年)に海軍軍医総監、1888年(明治21年)にわが国最初の医学博士の一人となった。

 その間、兼寛は1881年(明治14年)に成医会を結成し「成医会講習所(東京慈恵会医科大の前身)」を創立、また1883年(明治16年)には「大日本私立衛生会」の創立にも加わった。
 高木兼寛の最大の功績は、脚気の原因究明および、その撲滅に尽力したことだ。1882年(明治15年)ころの海軍の脚気罹病者は1000人当たり400人にも達し、国防上の大問題となった。当時、脚気は細菌による伝染病と考えられていた。この学説の急先鋒が一等軍医森林太郎(鴎外)で、異説を唱える兼寛に痛烈な批判を浴びせかけていた。

これに対し兼寛は、ある種の栄養素の欠乏によるものと考え、食事にその原因があることを突き止め、海軍兵食の改善を図った。白米の中に大麦を混ぜた麦飯食で、脚気の発症を封じ込めるのに成功した。海軍が果たした役割の大きさを考えるとき、脚気撲滅作戦の成功は、日露戦争における日本海海戦の間接的な勝因の一つという評価もあるほど。

 やがて、明治44年、東大農学部の鈴木梅太郎によって動物の栄養上欠くことのできない成分としてオリザニンが発見され、ほとんど同時にポーランドの化学者フンクによって同様成分が得られ、それがビタミンの発見となった。そして、脚気病はビタミンB1の欠乏により起こることが分かった。つまり兼寛はビタミンの発見にまでは至らなかったが、実証的にその存在を暗示した医家だったのだ。イギリスのビタミン学界の第一人者レスリ・ハリスは世界の八大ビタミン学者を写真入りで紹介したが、その際、兼寛を二番目に取り上げ、彼の偉大な功績を称えている。

(参考資料)吉村昭「白い航跡」、吉村昭「日本医家伝」

徳川斉昭・・・藩政改革に成功したが、幕政で井伊直弼と対立し急逝

 徳川斉昭は幕末、第九代水戸藩主として藩政改革に成功した名君の一人だ。海防参与、軍制改革参与などを務め幕政にも関与したが、将軍継嗣問題と米国との通商条約調印問題などで大老・井伊直弼と対立。謹慎を命じられ幕府中枢から排除された。

また、攘夷決行を巡って尊王思想の「水戸学」の本家、水戸藩に密勅を下されたことが大老・井伊直弼の逆鱗に触れ、斉昭は水戸での永蟄居を命じられ、事実上政治生命を断たれた形となった。そして、蟄居処分が解けないまま、心筋梗塞により急逝した。諡号・烈公の通り、気性の激しい、強烈な個性が災いし、死期を早めたとみられる。

 徳川斉昭は水戸藩第七代藩主・徳川治紀の三男として、水戸徳川家の江戸小石川藩邸で生まれた。幼名は虎三郎、敬三郎。諡号は烈公、字は子信。号は景山、潜龍閣。徳川第十五代将軍慶喜の実父。妻は有栖川宮熾仁親王の皇女、登美宮吉子。斉昭の生没年は1800(寛政12)~1860年(万延元年)。

 斉昭は幼少時から会沢正志斎のもとで、尊王思想「水戸学」を学び、聡明さを示した。1829年(文政12年)、長兄で第八代藩主・徳川斉脩の死後、家督を継ぎ、第九代藩主となった。この際、大名昇進を画策する附家老の中山信正を中心とした門閥派より、徳川第十一代将軍家斉の第20子・恒之丞(徳川斉彊)を養子に迎える動きがあったが、これを抑えて下士層の支持を得た。

 斉昭は藩校「弘道館」を設立し、下士層から広く人材を登用することに努めた。こうして戸田忠太夫、藤田東湖、安島帯刀、会沢正志斎、武田耕雲斎、青山拙斎ら、斉昭擁立に加わった比較的軽輩の武士を用い、藩政改革を断行した。1837年(天保8年)、斉昭が掲げた改革骨子は1.経界の義(全領検地)2.土着の義(藩士の土着)3.学校の義(藩校弘道館及び郷校建設)4.総交代の義(江戸定府制の廃止)-だ。また、「追鳥狩」と称する大規模軍事訓練を実施したり、農村救済に稗倉の設置などに取り組んだ。このほか、幕府に蝦夷地開拓や大船建造の解禁などを提言している。その影響力は幕府のみならず、全国に及んだ。

 斉昭は1844年(弘化元年)子の慶篤(よしあつ)に藩主の座を譲る。だが、決して楽隠居するためではなかった。その後は、自ら提言することも含め、幕政に様々な形で関与していく。海外の列強諸国の動きを見据え、恐らく性格的に幕政を黙視していることができなかったのだろう。

 1853年(嘉永6年)、ペリーの浦賀来航に際して、老中首座・阿部正弘の要請により、海防参与として幕政に関わったが、水戸藩の立場から斉昭は強硬な攘夷論を主張した。このとき江戸防備のために大砲74門を鋳造し、弾薬とともに幕府に献上している。1855年(安政2年)、軍制改革参与に任じられるが、同年の「安政の大地震」で藤田東湖や戸田忠太夫らのブレーンが事故死してしまうなどの不幸に遭った。そして、その後は誇らしい場面で脚光を浴びることはなかった

 1857年(安政4年)、阿部正弘が急死して、堀田正睦が老中首座になると、開国論に対して斉昭は猛反対し、開国を推進する大老・井伊直弼と対立。また、十三代将軍家定の継嗣に実子の一橋慶喜が候補に上ると、紀州・慶福派(のちの徳川十四代将軍家茂)に対する、一橋派の黒幕として登場。今度は大老・井伊直弼と対立し、謹慎、水戸での永蟄居を命じられ、事実上政治生命を断たれた。「安政の大獄」だ。そして、無念の思いが高じてか、激しい気性が災いし、蟄居処分が解けないまま急逝した。死因は心筋梗塞と伝えられる。

(参考資料)中嶋繁雄「大名の日本地図」、童門冬二「私塾の研究」

武市半平太・・・参政・吉田東洋暗殺の首謀者 藩政改革の志半ばで切腹

 武市半平太(たけちはんぺいた)は土佐勤王党の盟主で幕末、土佐藩政を担った公武合体派の参政、吉田東洋の暗殺を指示。その後の土佐藩を主導しようとしたが、“暗殺”という非常手段に訴える、その激烈な手法が明るみに出るに及んで支持を得られず、東洋暗殺の首謀者として真相発覚後、志半ばで死んだ。

しかし、彼は単なるテロリストの頭目だったわけではない。西南雄藩、とりわけ薩摩・長州両藩が表面的には討幕へ統一されていくのにひきかえ、土佐藩内が藩上層部および上・下士がばらばらで、これでは薩長と伍していくことができないと判断。そうした焦慮の思いから、短絡・直情的に事を運び断行したものとみられている。では実際に、彼は直情径行的な人物だったのか。いや、周囲の情勢を見極めたうえでも、そうした行動を取らざるを得なかったのか?半平太の生没年は1829(文政12)~1865年(慶応元年)。

 武市半平太は土佐長岡郡仁井田郷吹井(ふけい)村で、郷士・武市半右衛門正恒の長男として生まれた。幼名は鹿衛、諱は小楯(こたて)、号は瑞山。通称半平太。身長六尺、鼻が高く顎が張って、色は白く喜怒が分かりにくい容貌だったといわれる。武市家はもともと土地の豪農だったが、身分は低く、半平太より5代前の半右衛門が1726年(享保11年)、郷士に取り立てられた「下士」の家だ。

後に半平太は上士格に昇格するが、これも「白札」という身分としては郷士だが、当主は上士に準ずるといった扱いだった。幕末においても土佐藩では上士・下士の間で動かし難い、また厳しい階級・身分格差があった。そのため、「下士」身分の者は生涯、「上士」の者からは動物と同等の卑しい者と見なされ、たとえどのような理不尽なものであれ、「上士」に斬り殺されても「下士」の者は口ごたえすることは許されず、苦しめられていた。

 1856年(安政3年)、半平太は江戸の桃井春蔵の門に入り、鏡心明智流を学び、その後、剣客として知られるようになった。そして文久元年、長州の久坂玄瑞、薩摩の樺山三円らと会して薩長土三藩が提携し、尊攘運動を推進することを約束して、帰国。「土佐勤王党」を結成し、盟主となった。その盟約書には坂本龍馬はじめ中岡光次(慎太郎)、間崎哲馬(滄浪)、浜田辰弥(田中光顕)、平井収二郎ら192名が署名血判しており、そのほとんどが終身二人扶持の武市と同じような身分の低い「下士」である郷士・庄屋・従士・足軽階級の若者だった。

 半平太はまず当時、土佐藩政を握っていた公武合体・開国派の参政、吉田東洋を那須信吾、大石団蔵、安岡嘉助に指示、暗殺させ、その首を城下雁切橋のたもとに晒した。そして、彼は諸藩の有志と接触し、勅使・三条実美、姉小路公知の雑掌、柳川左門と名乗って随うなどの活躍で同志の間に重きを成し、上士格に出世した。この頃がいわゆる「天誅」が横行する時期の始まりだ。彼は吉田東洋暗殺による藩首脳人事の変化をみて、暗殺という非常手段の効果の大きさを知ったのだ。したがって以後、配下の岡田以蔵、薩摩の田中新兵衛らによる一連の「天誅」「斬奸」は、必ずしもすべてが半平太の指示によるものではないが、彼が深く関与していたものとみられる。

 土佐藩主後見役の山内容堂は、勤王党による「天誅」「斬奸」が横行している状況を苦々しい思いでみていた。ただ、対策として打つ手はなかった。ところが、事態は京都の「八月十八日の政変」(1863年)を境に激変する。この政変でこれまで朝議をリードしていた長州藩は京都政界から追われ、三条実美ら七人の公家が長州に落ちたためだ。

昨日までの正義派は一夜にして、朝廷の不興を被っている者どもということになったのだ。容堂にとっては、待ちに待った機会だ。「天朝に対し奉って、そのままにさしおき難き不審の者ども」という名目で、半平太をはじめ勤王党の主だった者数人に出頭を命じ、一網打尽に入牢させた。

 東洋暗殺の下手人は誰か?厳しい取り調べが始まった。拷問も行われたが、誰も白状しない。藩庁では苦慮していた。ところが、岡田以蔵が京都で捕えられて国許に移送されてきたことで、事態は急変。以蔵が拷問に耐えられず、白状したため遂に一切が明らかになり、半平太以下処刑される。半平太は切腹、岡田以蔵は梟首、岡本次郎、村田忠三郎、久松喜代馬は斬首、その他は永牢となった。1867年(慶応元年)のことだ。

 この事件は土佐勤王党を壊滅させた。同党の同志は藩庁の処置を憤って反抗したため、捕えられ斬首され、生き残った連中はそのほとんどが脱藩してしまったからだ。維新運動の末期に、土佐藩は薩摩・長州両藩と協力して、後藤象二郎は大政奉還運動の立役者となり、板垣退助は藩兵を率いて伏見・鳥羽に戦い、東征し会津にも行って武功を立てているが、二人とも「上士」出身で、この時点ではアンチ武市派で、勤王党を迫害した仲間だ。

(参考資料)海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち」、司馬遼太郎「司馬遼太郎が考えたこと 4」、司馬遼太郎「歴史の中の日本」、童門冬二「坂本龍馬の人間学」

徳川宗春・・・独自の藩“経営”ビジョンで将軍吉宗に目一杯反抗

 尾張藩七代目藩主・徳川宗春は、御三家の立場にありながら、「享保の改革」を断行した徳川幕府八代将軍・徳川吉宗に、目一杯反抗した稀有な藩主だ。そのため、吉宗の逆鱗に触れ、最終的に宗春は監禁され、死後、墓石にまで金網がかけられた。そして尾張藩藩祖の義直(家康の九男)の血筋は絶えて、吉宗の子孫が藩主になった。そうした事実をつなぎ合わせていくと、宗春には当然バカ殿のレッテルが張られ、愚かな主君だったと思われ勝ちだが、果たしてどうか?生没年は1696(元禄9年)~1764年(明和元年)。

 尾張藩藩祖・徳川義直は、二代将軍秀忠の三男・忠長が自害して、三代家光の長男・家綱が生まれるまでは、将軍後継候補No.1だった。また、六代将軍家宣は家継という実子があるにもかかわらず幼少だったため、尾張藩四代目の吉通に将軍位を譲ろうとしたほどだ。ところが、吉通は七代将軍になった家継より先に死んだので、八代将軍に経験豊かな紀州藩の吉宗がなってしまったという経緯があるのだ。それだけに、宗春には吉宗に対して様々に含むところがあったわけだ。

こうした背景もあって宗春は、幕府財政を立て直すためとはいえ、家財道具から衣服、それに祭礼などの行事、賭博や男女関係の乱れに対してまで、こと細かく藩士・領民に“強いる”だけの吉宗の倹約令に対抗。彼らを精一杯働かせるためには、ストレスを発散できる場や施策も必要と判断。吉宗の倹約令を無視して自らも範を示すべく贅沢な生活をし、藩士にもそれを許し、規制を緩和し、遊興も奨励した。

したがって、宗春は表面的にはバカ殿呼ばわりされるが、事実は違ったのだ。吉宗とは異なった、独自の藩経営ビジョンを持っていた藩主だったといってよい。その証拠に、彼は死刑の執行を停止するというユニークな政策も実行している。宗春の考え方を記したものに「温知政要」という本がある。この中で「慈」「忍」について説いている。これが彼の藩政を与かる根本の思想だった。この思想自体は当時、儒教を学んだ者が考え得るものだったかも知れないが、彼が他の人々と違っていたのは、この思想を人間尊重の最も深いところで捉えていたということだろう。

この結果、名古屋の町には倹約令にあえぐ三都から芸人や遊女たちが流れ込み、活況を呈した。名古屋が東京、大阪とは異なる、独自の気風を持ち、大消費都市として三都に続く存在になったのは、ひとえにこの宗春の時代の遺産なのだ。また、名古屋城の天守閣は、1657年に江戸城の寛永年間建造の天守閣が明暦の大火で焼亡してから、1931年に大阪城天守閣が鉄筋コンクリートで再現されるまで、274年もの間、日本最大の城郭建築だったのだ。

時の為政者(吉宗)からは完全に異端児と見做され、屈辱的とも思える“バカ殿”のレッテルを張られ、成敗の対象となった宗春だが、その実、お仕着せの政策を排除し、藩士・領民に極めて近い感覚を持った名君だったのかも知れない。

(参考資料)海音寺潮五郎「悪人列伝」、八幡和郎「江戸三百藩 バカ殿と名君」
      奈良本辰也「叛骨の士道」、神坂次郎「男 この言葉」、大石慎三郎「徳川吉宗とその時代」

竹中半兵衛・・・元の主君には柔弱・愚鈍の人物が、「天下人」の軍師に

 竹中半兵衛は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の参謀として活躍した名将だ。秀吉が仕えた織田信長に、家臣として仕えるように請われたが、これを断り、後に「天下人」となる秀吉の器量を見込み、参謀として仕えた。その戦(いくさ)上手は稀有な存在で、黒田孝高(官兵衛)と並んで戦国時代を代表する軍師として知られる。半兵衛の生没年は1544(天文13)~1579年(天正7年)。

 竹中半兵衛は美濃斎藤氏の家臣で不破郡岩手城主・竹中重元の長男として生まれた。名は重治、諱は重虎、ただし通称の「半兵衛」が有名。弟に重矩。従兄弟に竹中重利。子に竹中重門(しげかど)がいる。

 竹中半兵衛は1560年(永禄3年)、父の死去により家督を継ぎ、美濃菩提山城主となって、斎藤義龍に仕えた。1561年(永禄4年)、斎藤義龍が死去すると、その後を継いだ斎藤龍興に仕えた。しかし、この龍興が若年で凡庸だったために、家臣団が動揺。そんな状況を察知した織田信長の侵攻を受けることになる。ただ、ここで“知将”半兵衛が動く。1561年(永禄4年)、1563年(永禄6年)と2度にわたる織田勢の侵攻には、半兵衛の巧みな戦術で切り抜け、勝利した。

ところが、主君の龍興は酒色に溺れて政務を顧みようとしなかった。そこで、半兵衛はそんな主君に猛省を促すため、一計を案じ“ショック療法”に打って出る。大胆な「稲葉山城乗っ取り事件」がそれだ。彼は弟の重矩や舅の安藤守就ら一族16~17人の配下とともに、龍興の居城、稲葉山城(後の岐阜城)を、わずか1日で奪取することに成功する。あれだけ織田信長が攻めあぐんだ居城をである。半兵衛、19歳のときのことだ。

半兵衛が何故、このような“暴挙”とも思える挙に出たのか。それは、主君・龍興とその側近たちの半兵衛に対する評価、見方が関係している。半兵衛は少年のころから読書が好きだったばかりでなく、柔弱・愚鈍にみられたので、龍興は軽侮して、ややもすれば無礼をはたらいた。そのため、龍興の近習の者たちも半兵衛を軽く見て、折に触れては侮辱的な言動をした。この時代、男は強剛な上にも強剛、激烈な上にも激烈であることを良しとし、男たるもの絶えず煮えたぎっているような、激しい気概を持っているべきものと、皆が考えていたのだから、半兵衛はこれとは正反対だっただけに、双方にあつれきが生まれるのも無理はなかった。

こうして、日頃の汚辱を晴らすべく、心理作戦を織り込んだ、半兵衛の渾身の「稲葉山城乗っ取り作戦」が展開され、狙い通り稲葉山城は彼の手に帰した。城主・龍興は歯噛みをして悔しがりながらも、城外に逃げた。

 しかし半兵衛は半年後、稲葉山城を龍興に返還した。戦国の“下克上”の時代、主君に叛旗を翻し有力大名に伸し上がるケースも少なくないが、半兵衛の目的はそうではなかったのだ。彼は決して主君に叛旗を翻したのではないことを、身をもって示した。そして、自らは斎藤家を去り、北近江の浅井長政の客分として仕えたのだ。半兵衛が去った美濃斎藤氏は1567年(永禄10年)、信長の侵攻により滅亡した。

 この後、竹中半兵衛は浅井長政から、請われるままに羽柴秀吉へと主君を変え、秀吉の天下取りに向けた数々の戦場において、効果的かつ巧みな調略活動などで秀吉軍を勝利に導いた。1579年(天正7年)、播磨三木城の包囲中に病に倒れ、36年の生涯を閉じた。死因は肺炎もしくは肺結核という。

(参考資料)海音寺潮五郎「武将列伝」

伊達宗城・・・蘭学に傾倒した開明派で、軍制の近代化に着手

 伊達宗城(だてむねなり)は開明派の第八代宇和島藩主で、七代藩主宗紀の殖産興業を中心とした藩政改革を発展させ、木蝋の専売化、石炭の埋蔵調査などを実施した。また、開明派のこだわりがそうさせるのか、幕府から追われ江戸で潜伏していた蘭学者・高野長英を招き、さらに長州より村田蔵六(後の大村益次郎)を招き、軍制の近代化にも着手した。生没年は1818(文政元)~1892年(明治25年)。

 伊達宗城は大身旗本・山口直勝の次男として江戸で生まれた。母は蒔田広朝の娘。正室は鍋島斉直の娘・益子。祖父・山口直清は宇和島藩第五代藩主・伊達村候の次男で、山口家の養嗣子となった人物だ。宗城の幼名は亀三郎。1827年(文政10年)、参勤交代による在国に際し、宇和島藩主伊達宗紀の仮養子となった。1828年(文政11年)、宇和島藩家臣・伊達寿光の養子となったが、翌1829年(文政12年)、なかなか嗣子と成り得る男子に恵まれない藩主宗紀の養子となった。宗紀の五女・貞と婚約し、婿養子の形を取ったが、貞は早世してしまい婚姻はしなかった。

 宗城は1844年(天保15年)、宗紀の隠居に伴い藩主に就任した。宗城は福井藩主・松平慶永(隠居後、春嶽)、土佐藩主・山内豊信(隠居後、容堂)、薩摩藩主・島津斉彬とも交流を持ち、「幕末の四賢候」と称された。彼らは幕政にも積極的に口を挟み、老中・阿部正弘に幕政改革を訴えた。ところが、阿部正弘が急死し、事態は一転、四賢候ら開明派大名と幕閣との距離は一気に遠くなる。

1858年(安政5年)、第十三代将軍家定の将軍後継問題で対立する立場の井伊直弼が大老に就いたからだ。紀州藩主・徳川慶福(よしとみ)を推す井伊に対し、一橋慶喜を推した四賢候、水戸藩主・徳川斉昭らは真っ向から対立。井伊は大老の地位を利用し強権を発動、結局、慶福が十四代将軍・家茂になることになり、一橋派は排除された。いわゆる「安政の大獄」だ。これにより宗城は春嶽、斉昭らとともに隠居謹慎を命じられた。

 先代の宗紀は隠居後に実子の伊達宗徳をもうけており、宗城は宗徳を養子として藩主の座を譲ったが、隠居後も藩政に影響を与え続けた。謹慎を許されて後は再び幕政に関与するようになり、1862年(文久2年)、生麦事件の賠償金支払いに反対している。また島津久光とも交友関係を持ち、公武合体を推進した。

 1867年(慶応3年)、王政復古の後は新政府の議定(閣僚)に名を連ねた。しかし、1868年(明治元年)戊辰戦争が始まると、心情的に徳川氏寄りだったので薩長の行動に抗議、新政府参謀を辞任した。1869年(明治2年)、民部卿兼大蔵卿となって、鉄道敷設のため英国からの借款を取り付けた。

 宗城は長州から村田蔵六を招き、医学しか知らなかった彼にオランダ語の専門書を翻訳して、船を設計するよう命じた。一方で、和船に大砲を積んで砲撃実験を始め、さらに黒船に似た外輪を持つ人力の和船を取り寄せ、研究させた。肝心の蒸気機関は、城下にいた嘉造(後の前原巧山)という提灯屋の男を抜擢して、製作を命じた。藩を挙げての試行錯誤の末、遂に実験的な蒸気船が完成した。黒船来航からわずか3年後のことだ。一般には外国人技師を雇った薩摩藩の船が日本初の蒸気船とされているが、宇和島藩の船は日本人だけでつくった蒸気船の第一号だった。

(参考資料)司馬遼太郎「伊達の黒船」、司馬遼太郎「花神」、吉村昭「長英逃亡」

長井雅楽・・・幕末、一時は国論をリードするが挫折、不当に低い評価

 長井雅楽(ながいうた)は、幕末の長州藩にあって一時期、直目付(じきめつけ)の要職を務めるとともに、「航海遠略策」を建白して朝廷や幕府にも歓迎され、国論を開国に導こうとしたほどの傑物だ。ところが、当時、予想以上に激しさを増していた尊皇攘夷派と対立。その後、幕府の公武合体派老中らの失脚で、追い詰められ孤立。そして、時代の流れは彼に全く味方せず、悲しいことに最終的に長州藩の奸臣として切腹を命じられ、散った。享年45だった。

 司馬遼太郎氏は、「幕末の長州藩は多彩な人物を出したが、その中で長井雅楽を超えるほどの人物は容易に見あたらない。それほどの人物が時代の狂気に圧殺されたというか、実に困った死を遂げる」と記している。そして、長井について「非常な秀才で堂々たる美丈夫でもあり、人物も重厚で、しかも見識の高さは及ぶものがない」と絶賛している。そのため、藩では彼を抜擢し周布政之助という秀才官僚とともに、藩の対外政策面での推進者にした。長井は長州のホープのように期待され、桂小五郎(後の木戸孝允)なども水戸藩の志士に「わが藩は長井・周布という優れた両翼を持っている」と自慢したほどだった。

 長井雅楽は萩藩士大組士中老、長井次郎右衛門の長男として生まれた。諱は時庸、通称は雅楽のほか、与之助、与左衛門など。長井の始祖は、鎌倉幕府を支えた大江広元の次男で、主家の毛利家はその四男だったという。つまり、長井家の始祖は、主家と同格だというわけだ。したがって、長井家は毛利家臣団の中でも名門中の名門で、長井自身、藩主の信頼厚い重臣だった。長井の生没年は1819(文政2)~1863年(文久3年)。

 長井は1822年(文政5年)、4歳のとき、父が病死したため家督を継いだが、このとき彼が幼少のためということで、家禄を半分に減らされた。その後、藩校の明倫館で学び、時の藩主、毛利敬親の小姓、奥番頭となった。その後、敬親から厚い信任を受け、敬親の世子、毛利定広の後見人にもなった。そして、1858年(安政5年)、長州藩の直目付の要職に抜擢された。

 国内で外交をめぐる政争が熾烈となった1861年(文久元年)、長井は公武一和に基づく「航海遠略策」を藩主に建白し、これが藩論とされた。その後、朝廷や幕府にこれを入説して歓迎され、藩主毛利敬親とともに江戸へ入り、老中久世広周、安藤信正と会見。正式にこの「航海遠略策」を建白して、公武の周旋を依頼されたのだ。

 長井の「航海遠略策」は、端的に表現すれば、通商を行って国力を増し、やがては諸外国を圧倒すべし-というのが論旨。当時、吉田松陰が唱えていた「大攘夷」に通じるものがあった。松陰も攘夷論者でありながら、攘夷をするためには外国を知らねばならないとして密航を企てたが、その思想からの行動だ。だが、両者はその実行論において対極にあった。長井は松陰の行動主義を批判し、松陰も長井を姑息な策を弄する奸臣と見做し憎悪した。

 幕府からこの「航海遠略策」で公武の周旋を依頼されるほどの立場にあった長井だが、実は困った状況にあった。それは、長州藩内の尊皇攘夷派とは対立関係にあり、藩政運営は容易ではなかったからだ。とくに井伊直弼が断行した「安政の大獄」のとき、吉田松陰の江戸護送を直目付の長井が、制止も弁明もしようとしなかったことから、職務上のこととはいえ、松下村塾系の藩士から強い恨みを買うことになった。このため、松陰の弟子、久坂玄瑞や前原一誠らに命を狙われることになったのだ。藩論は対立したまま、事態は一進一退を繰り返していた。

 その後、長井にとって事態はさらに悪化する。1862年(文久2年)、幕府で公武合体を進めていた老中安藤信正や久世広周らが「坂下門外の変」で失脚したのだ。すると、長州藩内の攘夷派が勢力を盛り返し、長井の排斥運動が激しくなった。そして、時間の経過とともに、尊皇攘夷・激派の著しい台頭で、長井の立場はさらに厳しく、追い詰められていった。

こうなると、まだわずか1年前、国論をリードしようかという「航海遠略策」をまとめ上げ、建白した人物を、長州藩はためらいもなく斬ってしまう。1863年(文久3年)長井雅楽は“長州藩の奸臣”のレッテルを張られ、切腹を命じられ、その生涯を閉じた。

 明治維新後、この長井の積極開国論を長州人たちは維新史の恥部として、すべて長井の個人的運動で、藩は何ら関知していなかったと主張して、やり過ごしてきた。その結果、現代において長井は、高杉晋作、木戸孝允らの事績と比べ、不当に低い評価しか与えられていないようだ。

(参考資料)司馬遼太郎「世に棲む日日」、司馬遼太郎「歴史の中の日本」、三好徹「高杉晋作」、童門冬二「伊藤博文」、松永義弘「大久保利通」、海音寺潮五郎「西郷と大久保」

中岡慎太郎・・・ 「薩長連合」の立役者だが、龍馬“暗殺”の巻き添えに

 1867年(慶応3年)、京都見廻組-佐々木唯三郎一派が坂本龍馬と、この中岡慎太郎を暗殺した。これは幕府側としては大きな収穫だった。もっとも狙ったのは龍馬であり、中岡はちょうどその下宿先へ来合わせていたところで、中岡にとっては不幸な“魔”の一日となってしまった。もちろん当時としては中岡も見廻組や新選組のブラックリストに載せられていたのはいうまでもないが、このときは巻き添えであったことは間違いない。中岡慎太郎の生没年は1838(天保9)~1867年(慶応3年)。

 中岡慎太郎は土佐国安芸郡北川郷の大庄屋、中岡小伝次の長男として生まれた。しかし、父が60歳に近い晩年の子だったので、3人いた姉のうちで次姉に養子が迎えられていたようだ。少年のころは寺の住職や近在の医者に読み書きを学んだが、その上達ぶりは人々の眼を驚かすほどだったという。

 ただ、何といっても中岡の思想的な成長に大きな影響を与えたのは間崎滄浪(まざきそうろう)と武市瑞山(たけちずいざん)だろう。文学の師と剣の師だった。間崎滄浪は、若くして江戸に出て安積艮斎(あさかごんさい)の門に学んで、たちまち塾頭に抜擢されたという俊秀で、山岡鉄太郎や清河八郎などとも交際があった。武市瑞山は通称半平太、幕末の三剣士と呼ばれた江戸の桃井春蔵に剣を学び、そこの師範代となった人物だ。そして、後の土佐勤王党の盟主といった方が分かりやすい。

 中岡は20歳のとき庄屋見習になったが、治績にはなかなかみるべきものがあった。1860年(万延元年)のころ、この地方が深刻な飢饉に見舞われたことがある。このとき彼は、東奔西走して芋を買い入れたり、備貯米の蔵を開いたりして農民たちを助けた。そのころは備貯米の蔵を開くということは、たとえ飢饉でも簡単ではないのだが、それが敢えてやれたというのはかなりの覚悟があってのことだ。

彼には自分が庄屋として預かる農民は、一人も傷つけたり殺したりしてはならないという使命感があった。そしてそれが、間崎や武市の影響で天下・国家に広がっていくのだ。ただ、彼がそのために大きく踏み出すためには、何かの機会が必要だった。

 ところで、土佐にいまを時めく薩摩や長州に肩を並べるほどの発言権を与えたのは何といっても武市瑞山だ。藩主の山内容堂は武市らの考えには反対だったが、適当にあしらって泳がせていた。武市もまた容堂を適当におだてて、諸藩の中に土佐勤王党の実力を認めさせる努力をしていた。土佐勤王党の名が、中岡慎太郎を浮かび上がらせたのだ。中岡の飾らない性格、そして一度正義と決めたら一歩も譲らない剛毅な態度、もちろん学問もある人間性、そうしたものが彼を次第に人々の間に認めさせていった。

 1863年、「八月十八日の政変」以後、遂に中岡は土佐を出て長州、そして京都へも潜入する。「池田屋事件」の際も、中岡はたまたま長州の三田尻に帰っていただけで、同事件で亡くなった人物たちとも交遊があった。彼は1864年に起こった「禁門の変」にも参戦、足に敵弾を受けるが、うまく逃れている。

 中岡の功績として特筆されるのはやはり、坂本龍馬とともに「薩長連合」の立役者となったことだ。犬猿の仲だった薩長を、薩摩の西郷隆盛と長州の桂小五郎の間を粘り強く説き、手を結ばせ連合を成立させる。これにより、明治維新への動きは加速するのだ。しかし、この後、中岡は坂本とともに歴史的役割は終わったかのように、刺客に襲われその生涯を閉じた。

(参考資料)奈良本辰也「幕末維新の志士読本」、平尾道雄「維新暗殺秘録」、平尾道雄「陸援隊始末紀」

長与専斎・・・わが国の医事行政、公衆衛生の基礎を確立した人物

 長与専斎は医学者であり、わが国の医事行政、公衆衛生の基礎を確立した人物で、明治の衛生行政機構を確立した優れた官僚でもあった。ちなみに、「衛生」は専斎の造語だ。専斎の生没年は1838(天保9)~1902年(明治35年)。

 長与専斎は、肥前国大村藩(現在の長崎県大村市)に数代仕えた漢方医の家に生まれた。号は松香、姓は藤原、名は秉継。父中庵は大村藩の侍医で、漢方を当時江戸幕医の最高権力者、多紀元堅樂春法印に学んでいる。4歳のとき父と死別、祖父俊達に養育された。この俊達も若いときから医術の才に恵まれ、30歳前後で大村藩はじめ近隣近在までその名が聞こえ、門前には診察を乞う人々であふれるほどの名医だった。

専斎は3歳で大村藩の藩校「五教館」(長崎県立大村高等学校の前身)で漢学の修行を始めたといわれる。その後、1854年(安政元年)、大坂の緒方洪庵の適塾に入門、専斎17歳のことだ。1858年(安政5年)には福沢諭吉に代わって塾頭となった。

1859年(安政6年)、緒方洪庵の助言を受けて長崎に赴き医学伝習所に入り、オランダ人医師ポンペに師事、西洋医学を学んだ。次いで、その後任のボードウィン、マンスフェルトに師事、医学教育近代化の必要性を諭される。そして、西洋の近代医学の根底にある基本的な思想に触れたものと思われる。それは、ポンペが著書の中で明快に語っているので、その言葉の一部をここに引用しよう。

「医療の対象は病気そのものである。患者の身分、階級、貧富の差、思想や政治の立場の違いを取り上げてはならない。(略)医術を出世や金儲けの道具にするものがいるが、全く唾棄すべきことである。人は自分のためでなく、何よりも公の社会のために生きなければならない」。

1864年(元治1年)、大村藩の侍医となり、1866年(慶応2年)再び長崎に出て医学研究に努め、1868年(明治元年)、長崎精得館(のち長崎医学校)の医師頭取(病院長)に就任した。翌年、精得館に予科を設けたが、日本の医学教育で予科が設置されたのは、これが最初だ。

1871年(明治4年)上京し文部省に入り、同年岩倉具視遣欧使節団に加わったが、途中、別れてドイツやオランダの医学および衛生行政を視察するとともに、医学教則・医師制度を調査した。1873年(明治6年)に帰国。1874年(明治7年)専斎は、相良知安に代わって文部省の医務局長となり、同年、東京医学校(現在の東京大学医学部)の校長を兼務した。

1875年(明治8年)、文部省医務局が内務省に移管、翌年に衛生局と改称。専斎は1891年まで衛生局長に在任しその間、医制、創始期の衛生行政を確立。司薬場、牛痘種痘所の設置、コレラなど伝染病の予防規則の布告などを推進するとともに、衛生思想の普及に尽力した。「衛生」の語はHygieneの訳語として専斎が採用したものだ。

 1891年(明治24年)専斎は衛生局長を退いたが、1892年には専斎の意中の人、後藤新平が衛生局長となり、専斎の政策を継承し推進した。専斎は退任後、元老院議官、貴族院議員、宮中顧問官、中央衛生会会長などを歴任。また、石黒忠悳、三宅秀、佐野常民らと大日本私立衛生会(のち日本衛生会、現在の日本公衆衛生協会)を興し、会頭などを務めるなど、衛生行政界に重きを成した。

 自叙伝「松香私志」は、福沢諭吉の「福翁自伝」とともに、往時の適塾のありさまをうかがう貴重な史料だ。

(参考資料)百瀬明治「適塾の研究」

二宮忠八・・・設計はライト兄弟より早かった、航空機の先駆的研究者

 二宮忠八は明治時代の航空機の先駆的研究者で、実際の飛行成功の偉業はライト兄弟に譲ったが、飛行機の設計はこの二宮忠八が早かった。あくまでも仮定の話だが、軍部が忠八の上申書を受理し、早くに航空機開発・研究に着手していたら、その後の日本の戦備、とくに空軍の力は当時でもより進んだものになり、違った歴史を刻み込んでいたかも知れない。忠八の生没年は1866(慶応2)~1936年(昭和11年)。

 二宮忠八は伊予国宇和郡八幡浜浦矢野町(現在の愛媛県八幡浜市矢野町)で商家の四男として生まれた。

 忠八は21歳のとき、丸亀の歩兵第12連隊に看護卒として入営。1889年(明治22年)の演習中に鳥が飛ぶのを見て飛行機の研究を志し、ゴム動力による紙製模型飛行機などを試作。そして、このゴム動力の鳥型飛行器の飛行実験に成功したことで、「人間が鳥のように飛ぶことができるかも知れない」という思いは確信に変わった。

 忠八はさらに2年間研究を積み重ね、1893年、人を乗せて飛ぶことができる両翼の長さが2・の玉虫型飛行器を完成させた。残る問題は飛行するための動力だけになった。ただ、この動力の確保が彼にとって極めて“重い”課題として残された。そして、思いもよらぬ“挫折”につながっていくのだ。

1894年、日清戦争が勃発。忠八もこの戦争に従軍する。従軍中、飛行機の必要性を痛感した彼は、設計図をつけて飛行機研究の重要性を述べた上申書を3度にわたって提出したが、ことごとく却下された。失望した彼は1898年、軍を除隊した。資力を蓄えてから独力で飛行機を完成させるためだ。
就職先として選んだのが製薬会社だ。忠八は大阪の大日本製薬⑭に入社。商才に長けたアイデアマンだった彼は10年足らずで大阪を代表する実業家の一人となった。こうして資金もできた彼は1908年、京都府八幡町に作業所を構え、飛行機の製作を再開した。

そして、飛行機の枠組みもでき上がり、動力としてオートバイ用のエンジンを取り寄せるだけとなっていた1909年のある朝、忠八の人生は暗転する。新聞に掲載されていた記事で、1903年のライト兄弟の有人飛行実験の成功を知ったからだ。(当時、このニュースはすぐには伝わらず、6年ほど遅れてようやく新聞に掲載された。)少年時代からの夢、「世界で最初に自分の作った飛行器が空を飛ぶ」ことは達成直前で、遂に果たせず、破れた。呆然自失の彼は完成間近の飛行器を壊し、以後、二度と飛行器を作ることはなかった。

 1915年(大正4年)、京都府八幡町(現在の八幡市)に飛行神社を造営、航空殉難者の霊を祀った。

*文中、飛行機を「飛行器」と「器」の文字を使っているのは忠八が、自分が作るものは飛行器とこだわって呼称しているため、それを尊重、そのまま使用しています。

(参考資料)吉村昭「虹の翼」

乃木希典・・・日露戦争の英雄は“虚構”光った文学の“才”

 「乃木大将」「乃木将軍」などの呼称で呼ばれることも多い乃木希典(のぎまれすけ)は、東郷平八郎とともに「日露戦争」の英雄とされているが、“殉死”の評価について諸説あるように、見方は分かれる。司馬遼太郎氏などのように「愚将」とする考え方も厳然としてある。その一方で、山口県、栃木県、京都府、東京都、北海道など全国各地に神として乃木を祀った「乃木神社」がある。乃木の生没年は1849(嘉永2)~1912年(大正元年)。

 乃木希典は現在の東京都港区で、長州藩の支藩である長府藩の藩士、乃木希次(のぎまれつぐ)の長男として生まれた。現在六本木ヒルズになっている長府藩上屋敷が生誕の地だ。幼少期に事故により左眼を失明した。1858年(安政5年)、乃木は長府藩に帰郷。1865年(慶応元年)、長府藩報国隊に入り、奇兵隊に合流し幕府軍と戦った。1871年(明治4年)、陸軍少佐に任官。1877年(明治10年)、歩兵第14連隊長心得として西南戦争に参加した。

 乃木は1886年(明治19年)、川上操六らとともにドイツに留学。1894年(明治27年)、陸軍少将として「日清戦争」に出征。旅順要塞を一日で陥落させた包囲に加わった。1895年(明治28年)、陸軍中将として「台湾征討」に参加。1896年(明治29年)、台湾総督に就任。1898年(明治31年)、台湾統治失政の責任を取って台湾総督を辞職。

1904年(明治37年)、休職中の身だったが、「日露戦争」の開戦に伴い、第三軍司令官(大将)として旅順攻撃を指揮した。様々な史料によると、少なくともこの戦いにおける乃木はどうしようもない凡将だったといわざるを得ない。児玉源太郎の作戦てこ入れがなければ、“無為無策”の乃木大将の指揮のせいで、なお何十万人もの兵士の尊い生命が奪われていただろう。児玉の活躍で乃木は救われたのだ。その代わりといっては語弊があろうが、乃木の2児の勝典、保典が戦死した。

1907年(明治40年)、乃木は学習院院長として皇族子弟の教育に従事。昭和天皇も厳しく躾けられたという。1912年(大正元年)、明治天皇大葬の9月13日の夜、妻静子とともに自刃した。明治天皇の後を追った乃木夫妻の殉死は当時の国民に多大な衝撃を与えた。

 乃木は若い頃は放蕩の限りを尽くしたが、ドイツ留学した際、質実剛健なプロシア軍人に感化され、帰国後は古武士のような生活を旨とするようになったという。彼は省部経験・政治経験がほとんどなく、軍人としての生涯の多くを司令官として過ごした。

 乃木には武将に似合わないほど詩や歌の心があり、広く世に流布するほど多くの漢詩を残した。それは彼が16歳のころ、吉田松陰を育てた萩の玉木文之進を訪ね、学問の師として教えを請うたためだ。玉木のもとで乃木は、鎌や鋤を手にとり、肥桶を担がされるなど百姓仕事をしながら修業。こうした玉木の教育があったからこそ、乃木は文学で身を立てた方が良かったのではないか、との評価を受けるほどの作品を残せたのではないか。

(参考資料)司馬遼太郎「殉死」、司馬遼太郎「街道を行く」、古川薫「天辺の椅子」、奈良本辰也「男たちの明治維新」

支倉常長 歴史上果たした偉業とは裏腹に禁教下の日本に帰国後は冷遇

 1613年(慶長18年)、仙台藩主・伊達政宗は、家臣の支倉常長をヌエバ・エスパニア(現在のメキシコ)との直接通商交渉を目的とし、メキシコ経由で、スペインおよびローマへ派遣した。一行は日本人とスペイン人合わせて180人余り。この偉大な業績は「慶長遣欧使節」の名称で知られ、「天正遣欧少年使節」と並んで、日本の対外交渉史ならびにカトリック史上の画期的な事績として扱われる。

しかし、その遣欧使節の実態については、とくにこの副使を務めた支倉常長の帰国後の暮らしぶりとともに、あまり知られていない。出国直後から、不幸にも日本国内でのキリスト教に対する環境が急速に悪化したこともあって、常長の存在そのものが江戸時代の歴史から消えてしまうのだ。

 支倉常長は山口常成の子として生まれた。幼名は与一。初名は六右衛門長経。洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ。常長は子供に恵まれなかった伯父支倉時正の養子となった。ところがその後、時正に実子・久成が生まれたため、伊達政宗の主命で家禄1200石を二分し600石取りとなった。

 1609年(慶長14年)、前フィリピン総督ドン・ロドリゴの一行がヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)への帰途台風に遭い、上総国岩和田村(現在の御宿町)の海岸で座礁難破した。地元民に救助された一行に、徳川家康がウイリアム・アダムス(三浦鞍針)の建造したガレオン船を贈り、ヌエバ・エスパーニャへ送還した。このことをきっかけに、日本とエスパーニャ(スペイン)との交流が始まった。

 伊達政宗の命を受け、支倉常長はエスパーニャ人のフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを正使に、自分は副使となり、遣欧使節として通商交渉を目的に180人余を引き連れ、スペインを経てローマへ赴くことになった。石巻で建造したガレオン船サン・ファン・バウティスタ号で1613年(慶長18年)、月ノ浦を出帆。ヌエバ・エスパーニャ太平洋岸のアカプルコへ向かった。アカプルコから陸路大西洋岸のベラクルスに、ベラクルスから大西洋を渡り、エスパーニャ経由でローマに至った。常長はマドリードの修道女院の教会で洗礼を受けた。

ただ、当時はやむを得ない側面もあったが、この外交使節には大きな成果を得るには限界があった。それは外交文書の作成から外交交渉まですべてを使節一行の正使で通訳兼案内役を務めたルイス・ソテロに任せていた、他力本願型の外交姿勢にあった。伊達政宗は当時の海外事情に精通していなかった。また、常長ら派遣された一行も自らスペイン語やイタリア語を修得して独自の外交手腕を発揮しようという意欲を持たず、ソテロから指示されるまま行動しただけだった。
 そのため、一行は1615年(慶長20年)、エスパーニャ国王フェリペ3世に、そしてローマへ入り、ローマ教皇パウルス5世に謁見したが、スペインとの交渉は成功せず、1620年(元和6年)帰国した。
 伊達政宗の期待のもと出国した常長だったが、不幸にも出国直後から日本国内でのキリスト教に対する環境は急速に悪化した。常長の帰国後の扱いを危ぶむ内容の政宗の直筆の手紙が残されている。果たして政宗が危惧した通り、常長が帰国したとき日本はすでに禁教令が出されており、歴史上、彼が果たした偉業とは裏腹に、キリシタンの洗礼を受けた彼はひっそりと暮らしていたらしく、失意のうちに死んだ。というのも常長の前半生と晩年について、確実なことはほとんど分からないのだ。こうして常長は江戸時代の歴史から消えてしまう。

 不幸はまだ続く。1640年(寛永17年)、常長の息子の常頼は、召使がキリシタンだったことの責任を問われて処刑され、名門支倉家は断絶した。1668年(寛文8年)常頼の子の常信の代に、ようやく赦されて家名を再興することができた。仙台藩においては、主命により引き起こされた事態であるため忸怩(じくじ)たるものがあったようだ。

 時を経て、支倉常長の偉業が再び世に出る。それは明治維新後、岩倉具視が欧米視察団としてイタリアを訪れた際、「支倉」の署名が入った文書を発見したからだ。
 常長らが持ち帰った「慶長遣欧使節関係資料」は仙台市博物館に所蔵されており、2001年(平成13年)に国宝に指定されている。その中には常長の肖像画があり、日本人を描いた油絵としては最古のものとされる。

 この遣欧使節の名目上の目的は通商だったが、本当の目的は当時世界最強国だったエスパーニャ(スペイン)を味方につけ、天下を覆そうという壮大な政宗の計画が秘められていたという説もある。確固たる史料が残っているわけではないので、あくまでも推測の域を出ないのだが…。

(参考資料)大泉光一「支倉常長 訪欧の真実」、遠藤周作「侍」

土方歳三 新選組の副長から、戊辰戦争を転戦した徹底した実践派

 土方歳三は1868年(慶応4年)、下総(現在の千葉県)流山で近藤勇と別れた後、「戊辰戦争」を通して幕臣として官軍と戦い、鳥羽・伏見の戦い、甲州勝沼の戦い、宇都宮城の戦い、会津戦争、箱館戦争を転戦。幕府側指揮官の一人として図抜けた軍才を発揮して、蝦夷共和国・陸軍奉行並箱館市中取締裁判局頭取の要職にも就いている。

しかし、歳三の公式の剣の腕前は高くはなかったようだ。天然理心流道場では歳三は中極意目録までの記録しか現存していない。行商中に学んだ様々な流派のクセが取れなかったのか?ただ、型には一切とらわれず、縦横無尽に闘い、最後は相手を倒すという徹底した実践派で、まさに実戦では滅法強かったといわれている。そうした合理精神は近代戦術にも抵抗なく、柔軟に理解を示して実践させることにつながり、戊辰戦争でも成果を挙げている。歳三の生没年は1835(天保6)~1869年(明治2年)。

 土方歳三は武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市石田)に10人兄弟の末っ子として生まれた。諱は義豊。雅号は豊玉。土方家は多摩に広がる豪農の家系で「お大尽(だいじん)」と呼ばれる大百姓だった。出生前に父、土方義諄(ぎじゅん)が亡くなり、6歳の時に母も失い、次兄の喜六夫妻に育てられた。14~24歳ごろまで奉公に出ていたといわれる。奉公先には松坂屋上野店の支店、江戸伝馬町の木綿問屋などが挙げられる。

 その後、歳三は実家秘伝の「石田散薬」(骨折・打ち身の秘伝薬)を行商しつつ、各地の道場で他流試合を重ね修業を積んだといわれる。日野の佐藤道場に出稽古にきていた天然理心流四代目の近藤勇(後の新選組局長)とはこのころ出会ったと推測され、歳三は1859年(安政6年)、天然理心流に正式入門した。

 1863年(文久3年)、歳三は近藤道場(試衛館)の仲間とともに、十四代将軍家茂警護のための浪士組に応募し、上洛する。同年8月18日の「八月十八日の政変」後、壬生浪士組の活躍が認められ「新選組」が発足。その後、新見錦切腹、芹沢鴨などを自らの手で暗殺。そして、権力を握った近藤勇が局長となった。歳三は副長の地位に就き、局長・近藤勇の右腕として京都治安警護維持にあたった。新選組は助勤、監察など職務ごとに系統的な組織づくりがなされ、頂点は局長だが、実際の指揮命令は副長の歳三から発せられたとされる。

 1864年(元治元年)の池田屋事件の際は半隊を率いて、長州・土佐藩士が頻繁に出入りしていた四国屋方面を探索して回ったが、こちらには誰もいなかった。そこですぐ池田屋の応援に駆け付けたが、直ちに突入せずに池田屋の周囲を固め、後から駆け付けた会津藩、桑名藩の兵を池田屋に入れず、新選組ただ一隊の手柄を守った。まだ立場の弱い新選組のことを考えての行動で、歳三らしい冷静な機転だ。このパフォーマンスの効果は絶大で、池田屋事件の恩賞は破格なものとなった。その結果、新選組の“勇名”は天下に轟いた。

 幕府からは近藤を与力上席、隊士を与力とする内示があったが、ここでも歳三は策を講じる。歳三は近藤を諌め、狙いは与力よりも大名と、次の機会を待つよう近藤を説得したといわれている。こうした一方、歳三は鉄の戒律「局中法度」をつくり、新選組内部では常に規律を隊士らに順守させ、規律を破った隊士に対しては切腹を命じており、隊士から恐れられていたという。そのため、新選組隊士の死亡原因の第一位は切腹だったといわれているほど。

(参考資料)司馬遼太郎「燃えよ剣」、鈴木亨「新選組99の謎」、三好徹「さらば新選組」

藤田東湖・・・幕末、尊皇志士たちから絶大な信頼と輿望を集めた傑物

 藤田東湖は水戸藩第九代藩主・徳川斉昭の側近を務め、その懐刀として活躍した。とくに水戸学の大家として著名で、幕末、全国の尊皇志士たちから絶大な信頼と輿望を一身に集め、彼らに大きな影響を与えた。

薩摩藩主・島津斉彬が水戸家を訪れた際、接待役を務めた藤田東湖に西郷の名を挙げ、「よろしく教導して引き立ててくれるように」と挨拶している。若き日の薩摩藩士、西郷隆盛も1854年(安政元年)、同志、樺山三円とともに東湖の元を訪れ、東湖の学識、胆力、人柄、態度に感銘を受けている。戸田忠太夫と水戸藩の双璧を成し、斉昭の腹心として「水戸の両田」、また武田耕雲斎を加えて「水戸の三田」とも称された。東湖の生没年は1806(文化3)~1855年(安政2年)。

 藤田東湖は常陸国東茨城郡水戸(現在の茨城県水戸市)城下の藤田家屋敷(水戸上町梅香)で、水戸学者(彰考館総裁)、藤田幽谷(ゆうこく)の次男として生まれた。母は町与力、沢氏の娘。名は彪(たけき)、字を斌卿(ひんけい)といい、虎之助、虎之介、誠之進の通称を持っていた。「東湖」は号で、生家の東に千波湖があったことに因む。ほかに梅庵という号も用いた。藤田家は遠祖が平安時代前期の政治家、小野篁に遡るといわれ、中世に常陸へ移り住んだといわれている。

 東湖は幼少の頃より、父で水戸学の儒臣、藤田幽谷から薫陶を受けて育ち、父の家塾「青藍舎(せいらんしゃ)」で儒学を修めるなど、学問に精進し、次第に藩内で頭角を現した。1827年(文政10年)家督を相続し、進物番200石となった後は、尊王思想「水戸学」藤田派の後継として才を発揮し、彰考館編修、彰考館総裁代役などを歴任した。そして、当時、藤田派と対立していた立原派との和解に尽力するなど水戸学の大成者としての地位を確立した。

 1829年(文政12年)の第八代藩主・徳川斉脩(なりのぶ)の継嗣問題に際しては、徳川斉昭派に加わり、斉昭襲封後は郡奉行、江戸通事御用役、御用調役と順調に昇進。1840年(天保11年)には側用人として藩政改革にあたるなど藩主、斉昭の絶大な信頼を得るに至った。そして、その名は藩の内外に知れ渡るようになった。

その結果、水戸は維新の震源地だといわれ、全国の藩士・志士たちから絶大な信頼と輿望を一身に集める存在=藤田東湖がそのマグマとなった。各藩の志ある若者は江戸に出た際は、必ずといっていいほど、東湖の元を訪れ、薫陶を受けたといわれるほどだ。信州から佐久間象山、長州から吉田松陰、越前から橋本左内、熊本から横井小楠、薩摩から有村俊斎(海江田信義)、西郷隆盛など次々と訪ねてきた。そこで、単に東湖の怪気炎に圧倒されるだけでなく、訪ねてきた若者同士が議論した。そういう日本の若者たちの“場づくり”をした意味でも、東湖の果たした役割は大きい。

 ここまで順風満帆な人生を送ってきた東湖だったが、この後、思わぬ挫折を味わうことになる。1844年(弘化元年)、藩主・斉昭が隠居・謹慎処分を受けたのだ。これに伴い東湖も失脚し、その後、禄を剥奪された。さらに1846年(弘化3年)、斉昭が謹慎解除されると、東湖はそれまでの責めを受け、江戸屋敷に幽閉され、翌年謹慎処分となった。1850年(嘉永3年)、ようやく水戸に戻ることを許され、1852年(嘉永5年)やっと処分を解かれたのだ。

 約8年間にわたる、東湖自身の“冬”の時代から一転、大きく変わり始めた日本の世相・時代が、東湖を表舞台に引っ張り出す。1853年(嘉永6年)、ペリーが浦賀に来航し、徳川斉昭が海防参与として幕政に参画することになった。すると、東湖も江戸藩邸に召し出され、幕府海岸防禦御用掛として再び斉昭を補佐することになったのだ。そして、1854年(安政元年)には側用人に復帰している。舵取りの難しい激動の時代を迎え、これで水戸藩の体制も整ったかに見えた。

 ところが、そんな東湖を不慮の事故が襲う。1855年(安政2年)に発生した「安政の大地震」だ。関東地方を襲った、マグニチュード7とも伝えられるこの地震で、彼は母親を守り、脱出させるため、落下してきた梁(鴨居)の下敷きとなって圧死したのだ。あっけない最期だった。享年50。
 主な著書に『弘道館記述義』『回天詩史』『正気歌(せいきのうた)』『常陸帯(ひたちおび)』などがある。

(参考資料)童門冬二「私塾の研究」、童門冬二「明日は維新だ」、海音寺潮五郎「史伝 西郷隆盛」、小島直記「無冠の男」

藤原能信・・・摂関政治から院政への橋渡し役を演じた陰の実力者

 藤原能信(よしのぶ)といっても、一般にはあまり知られてはいない。彼は藤原摂関政治の生みの親、藤原道長の子だ。父の道長亡き後、王朝社会の陰の実力者となり、表舞台に出ることはなかった。だが、皮肉なことに彼自身は、そうした意識を持っていたのかどうかは分からないが、計らずも摂関政治から院政への橋渡し役を演じた人物だ。平安時代の政治史の節目を彩る藤原氏のキーパソン、藤原氏北家の礎を築いた藤原冬嗣、そして天皇の外戚として、まさに我が世を“謳歌”した道長の二人に比べると、彼の地位は大納言どまりで、随分見劣りする。しかし、この時代の真の主役は、藤原頼通や教通ではなく、間違いなく能信だった。

 藤原能信は藤原道長の四男、母は源明子。官位は権大納言で、春宮大夫を務めたが、頼通・教通らと比べると、随分地味なものだ。生没年は995(長徳元)~1065年(康平8年)。

 父・道長には主な夫人が2人いた。頼通・教通を産んだ源倫子(左大臣源雅信の娘)と、能信の母・源明子だ。倫子は道長の最初の妻であると同時に、当時の現職大臣の娘で、道長の出世の助けになったのに対し、明子の父高明は同じ左大臣でもすでに故人で、しかも「安和の変」で流罪になった人物だった。そのため、倫子の子供たちは嫡子扱いを受けて出世を遂げたのに対し、明子の子供たちはそれ以下の出世に限られていた。

そこで、能信の他の兄弟は頼通と協調して自己の出世を図ろうとした。ところが、能信はそれを拒絶し公然と頼通と口論して、父の怒りを買うことさえあった。こうした姿勢が結果的に出世の途を閉ざしたのか、能信は1021年(治安元年)、正二位権大納言昇進を最後に、その後は官位の昇進をみることはなかった。彼はあくまでも「ゴーイング・マイウエイ(わが道を行く)」の姿勢を貫き通した。もっといえば、彼は開き直って、異母兄弟との出世競争の不利は十分承知のうえで、大胆にも対立陣営に身を置いたのだ。

 1037年(長元10年)、後朱雀天皇の中宮(後に皇后)に禎子内親王(後の陽明門院)が決まると、その側近である中宮大夫に能信は任じられた。実はすでに実力者の頼通の養女、_子が天皇の新しい中宮として入内することが確定しているにもかかわらず、あえてその対立陣営のトップに立ったのだ。そして、彼は禎子内親王所生の尊仁親王(後の後三条天皇)の後見人を引き受けることになった。ここで彼は異常な粘り強さをみせる。1045年(寛徳2年)に後朱雀天皇が重体に陥ると、彼は天皇に懇願して、後を継ぐ後冷泉天皇(親王の異母兄)に対して「尊仁親王を皇太弟にするように」という遺言を得たのだ。

 しかし世間ではここに至っても、後冷泉天皇には頼通・教通兄弟がそれぞれ自分の娘を妃に入れており、男子が生まれれば皇太子は変更されるだろう-と噂していた。また、それだけに尊仁親王やその春宮大夫となった能信への周囲の眼は冷たいものがあり、現実に親王が成人しても妃の候補者が決まらなかった。有力貴族が実力者の頼通・教通兄弟の敵になることを恐れて、娘を妃に出すことを遠慮したためだ。そこで、今度は能信はやむを得ず、自分の養女(妻祉子の兄である藤原公成の娘)、藤原茂子を妃に入れ、「実父の官位が低すぎる」という糾弾を引き受けることで、辛うじて「皇太子妃不在」という異常事態を阻止したのだ。

 これほど献身的にサポートし、以後20年にわたり春宮大夫として尊仁親王の唯一の支持者であり続けた能信だが、悲しいことにその“果実”を自ら手にすることはできなかった。彼は、恐らく夢にまで見たであろう、親王の即位を見ることもなく、しかも右大臣・藤原頼宗(能信の同母兄)の急死で後任大臣への道が開かれたにもかかわらず、その6日後にその生涯を閉じてしまうのだ。

 だが、その3年後に後冷泉天皇が男子を遺さずに死去すると、尊仁親王が後三条天皇として即位、続いて茂子の息子の白河天皇が即位した。亡き能信の悲願が達成されたわけだ。そして、後三条天皇は能信の養子で、養父の死後に春宮大夫を継いだ藤原能長(実父は頼宗)を内大臣に抜擢した。また白河天皇は能信に太政大臣の官を遺贈、必ず「大夫殿」と呼んで、生涯尊敬の念を忘れることはなかったと伝えられている。まさに、能信の長年にわたる労苦が報われたのだ。

 能信に果たして摂政関白への野心があったか否か、定かではない。だが、後三条・白河天皇による政治とその後の「院政」の開始は、能信の人生に暗い影を落としてきた摂関家による摂関政治を終焉に導いたことは確かだ。

(参考資料)永井路子「望みしは何ぞ」、笠原英彦「歴代天皇総覧」

北条時頼・・・策謀も駆使し他氏族を屠り、北条執権家の安定強化図る

 北条時頼は鎌倉幕府の第五代目執権だ。能楽『鉢の木』に登場する時頼は、花も実もある、立派な為政者に仕立て上げられている。それは温和で最も実直なイメージの三代泰時に重なる。だが、実態は陰の主役となって、血なまぐさい陰謀の数々をやってのけ、執権家としての北条氏の基礎を初めて確立した二代義時の姿に近い人物だった。つまり、時頼こそ北條氏の“執権らしい執権”だったのだ。

 北条時頼は、北条時氏を父とし、安達景盛の娘(後の松下禅尼)を母として生まれた。幼名は戒寿丸、通称は五郎。11歳のとき祖父泰時の邸で元服。烏帽子親は当時、鎌倉府の首長だった摂_将軍、藤原(九条)頼経(よりつね)だ。1243年(寛元元年)、左近将監に任ぜられ従五位下に進んだが、1245年(寛元3年)、四代目執権北条経時と図って、時頼は27歳の将軍頼経を辞任させ、子の頼嗣を新将軍の座に据えてしまった。頼経の年齢が、ロボットとして操りにくい段階にまで達したからだった。この交替からまもなく、経時が病死したため、執権職は弟の時頼に回ってきた。

 経時の死が、23歳という若死にのせいもあり、不可解な部分もある。権位への野望のために時頼が兄を殺したのではないかとの疑問だ。何故なら、兄を立てるなら経時の遺児たちが幼少の間、一時政権を預かったにせよ、成長後はこれを返上してやるはずなのだ。しかし、経時の子供たちはいずれも出家し、経時の系統はそのまま絶えてしまっている。そして、この後、代々得宗として一族の上に君臨したのは時頼の子孫なのだ。それだけに、黒い噂がより真実味を帯びてくる。

 しかし、五代目執権職に就いた20歳の時頼はしたたかだった。時頼の強引なやり口に疑惑と反感の目を向ける者には、一門であっても、反対に彼らを挑発し、機先を制して屠ってしまう。三浦一族に対してもそうだった。

 三浦氏は、幕府の創業時代から目覚しい武威を持ちながら常に北条氏の走狗となって裏切り、煽動、離間など血みどろ仕事の先棒担ぎ、他族の蹴落としに一役買ってきたため、北条側の弱味も握っており、時政(初代)や義時(二代目)、泰時(三代目)にさえ一目置かせていた存在だったのだ。当然、時頼にとっても目の上の瘤(こぶ)だった。そこで彼は謀略の限りを尽くして三浦氏を挑発し、虚をついて、これを滅亡させた。こうして彼は北条執権家の基盤の、より一層の安定強化を図ったのだ。

 時頼は30歳で出家し、嫡男の時宗が幼弱だったため一時、執権職を一門の長時に譲ったが、なお最高指導者としての活動はやめず、自宅で秘密会議を開き、重要政務を決定した。時頼は37歳で亡くなったが、やり遂げた仕事の量は、彼が生きた歳月の量をはるかに上回っていたといえる。
 六代目長時のあとは泰時の弟で当時、長老的な立場にあった政村が担当、時宗を連署(副執権)とし、その成長を待って八代目を時宗に譲った。

 130年、十六代にわたって執権職を務めた北条氏。これほど長きにわたって権力を保持するにはどすぐろい、権謀術策の限りを尽くし、さぞかし人間的に“欲望の塊”と化した人物が揃っていたのだろうと思いたくなるところだ。だが、違うのだ。確かに、得宗と呼ばれている宗家嫡流の権力保持には、後世の人々に陰険な氏族として毛嫌いされているにもかかわらず、一人ひとりの生き方は、権位にありながら珍しいほど清潔だった。藤原道長、平家の公達、足利将軍義満、義政、豊臣秀吉、徳川家斉ら数多い。ところが、北条執権職を務めた人物のうち、権力に伴う富を、個人の栄華や耽美生活の追求に浪費した者は、十四代の高時を除いてほとんど見当たらない。

(参考資料)杉本苑子「決断のとき 歴史にみる男の岐路」、司馬遼太郎「街道をゆく26」

保科正之・・・名君と誉れ高い会津藩藩祖だが、評価は“割引”が必要

 会津藩藩祖の保科正之は、徳川二代将軍秀忠の隠し子という血筋の確かさから、また三代将軍家光の死に際して、四代将軍家綱の後見役を仰せつかり、理想的な名君と誉れ高い存在だが、果たしてどうか?生没年は1611~1672年。

 会津藩主としての保科正之の評判はいい。これは、高遠藩3万石から山形藩20万石という破格の加増によって、家臣の給与を3倍から4倍に上げたからだ。戦いで命を張ったわけでも、民政で功労があったのでもないのに、禄高がこれだけ上がれば、藩士や領民が“名君”と感謝感激しても当たり前だ。さらに、会津に23万石で転封されたときも、2割から3割もの加増が一律に行われている。

 飢饉対策として、正之が儒学者・山崎闇斎の助言で古代中国に倣って社倉(米や麦を貯蓄する倉)制度を推進したのはそれなりに成功したが、これも手放しで評価できない部分がある。というのは、これは一種の強制預金で、運用の仕方では租税に上乗せした収奪になりかねないからだ。また、90歳以上の高齢者に生活費を与えたのはすばらしい高齢者対策で、「国民年金の創設」などというのも、ちょっと的外れの評価といわざるを得ない。当時の90歳以上など現在の100歳以上より少なかったはずで、そのような全く例外的扱いをもって福祉対策が充実していたなどと表現することはおかしい。

 幕政の担当者としての事績をみると、「殉死の禁止」「大名証人制の廃止」「末期養子の許可」が四代将軍家綱のもとでの三大美事とされ、正之の功績とされている。殉死は戦場で功を立てることが難しくなったこの頃になって急に流行りだしたものだ。殉死者は家康にはいなかったし、秀忠にも一人だけだった。ところが、家光の死に際して5人になった。そこで、この愚劣な流行を抑制すべきというのは当たり前の考え方だ。

大名証人制の廃止は、主要35藩の家老嫡子の江戸在住だけが廃止されたのであって、決して大名家族の人質政策が廃止になったのではない。末期養子の許可は、嫡男がいないだけでお家取り潰しするのは、もともと厳しすぎる、極端な政策だったから緩和は妥当だ。ただこの廃止により、できの悪い大名を残すことになった。そして石高の固定化は、大名についても一般の武士や庶民についても、有為な人材にとってチャンスが少なくなることを意味した。

まだある。明暦の大火(1657)の後、蔵金が底を尽くという批判をものともせず、罹災者に救援金を与えたことや、江戸の大々的な都市改造を行ったことも美談とされる。しかし、その結果、家光時代に金銀だけで400万両から500万両、物価水準を考えると、およそいまの1兆円の蓄えがあったのを、ほぼ使い果たしてしまった。単なるばらまきで財政を破綻させたのだ。

刑罰の軽減化などに具体化された独特の「性善説」に基づく正之の哲学は、ユニークで魅力があり、江戸時代の名君の原型に挙げる人が少なくない。ただ、あるべき指導者の姿としての「名君」としては、かなり割り引いて考えざるを得ない。カネと権力あればこその「名君」だったといえるのではないか。

(参考資料)八幡和郎「江戸三百藩 バカ殿と名君」、司馬遼太郎「街道をゆく33」

前田利家・・・壮語せず篤実な姿勢が好感され、大藩の基礎作りに貢献

 加賀藩の藩祖・前田利家は織田信長、豊臣秀吉に仕え、徳川の世に、全国で最大の120万石を領有する大藩の基礎をつくった人物だ。加賀藩の華麗さは今日もよく知られている。100万石以上もの大名第一等の大封を持ちながら、幕府への遠慮から、殊更に武の印象を抑え、学問と美術工芸を奨励した。このため藩都の金沢は、小京都といっていいほどに優美だった。

 前田利家は、尾張愛智郡荒子村で土豪の前田縫殿助(ぬいのすけ)利春(利昌ともいう)の四男として生まれた。幼名は犬千代。通称は又左衛門、又左、又四郎、孫四郎、越中少将。渾名は槍の又左衛門、槍の又左。利家の生没年は1537(天文6)~1599年(慶長4年)。

 利家が生まれたのは、まさに戦国時代の真っ只中だ。このとき武田信玄18歳、上杉謙信9歳、織田信長5歳、そして徳川家康は4年後に生まれている。天下平定の覇気に燃える武将の中で尾張一円を勢力下に置き、まず頭角を現すのが織田信長だが、この信長の配下に属し、その勢力圏内で、荒子一帯を領していたのが前田利春だった。

 若い頃の利家は負けん気でやんちゃ、ことに信長に仕え始めたころは“かぶき者”で、周囲のひんしゅくを買う青年だった。こうした若い頃の無軌道ぶりや挫折が、中年以後の利家の器の大きさをもたらしたといえよう。利家は信長の父・信秀の死後、起こった「尾張海津の戦い」が信長配下としての初陣だ。この戦いで活躍した後、信長の伯父・津田孫三郎信家を烏帽子親として元服。犬千代から孫四郎利家と名乗ることになった。その後、1556年(弘治2年)、「尾張稲生(いのう)の合戦」に参戦。この戦いは、信長の弟・信行を擁した林美作守の反乱だったが、ここでも戦功を挙げ、利家は100貫の加増を受け150貫(石高にすると357石)の禄高となった。またこの合戦の後、利家の上手なとりなしで柴田勝家が信長の配下となった。

 ところで、利家はその生涯で二度、大きな挫折を味わっている。最初の挫折は1559年(永禄2年)、信長の同朋衆・拾阿弥を斬り、信長の勘気に触れ追放されたのだ。この後、変転目まぐるしい戦国の最中、2年もの間、主を持たない浪々の時期を過ごしている。そして「美濃森部の戦い」の功により晴れて帰参。「赤母衣(あかほろ)衆」に取り立てられ、300貫加増された。赤母衣衆とは指揮班の将校にあたる。

 1582年、主君・織田信長が京都・本能寺で明智光秀に討たれると、利家は初め柴田勝家に付くが、後に秀吉に臣従。豊臣家の宿老として秀吉の天下平定事業に従軍し、秀吉より加賀・越中を与えられ、加賀百万石の礎を築いた。1598年(慶長3年)には秀吉から徳川家康と並び、豊臣政権の五大老の一人に、また秀頼の傅役(後見人)に任じられた。秀吉がいま少し長寿であれば、まだ平穏な時が続くはずだった。

 ところが、同じ1598年(慶長3年)、五大老・五奉行など豊臣政権の行く末を定めた数カ月後、その要の秀吉が亡くなると時の流れは一気に加速。徳川家康に付く福島正則らの武断派と、石田三成らの文治派の対立が顕在化、事態は激しさを増していく。この争いに利家は加わらず、仲裁役として懸命に働き、覇権奪取のため横行する徳川家康の牽制に尽力する。
しかし、利家には傅役を全うする時間はもう残されてはいなかった。秀吉の死後、わずか8カ月後、病没した。

俗に“加賀百万石”と呼ばれ、大名のトップとしての権勢を誇った前田家は、菅原道真の後裔ということになっている。この菅原道真と戦国大名の前田と、どこに接点があるかといえば、配流された筑紫(九州)で生まれた子供の一人が前田氏の先祖となり、その一族が尾張愛智郡荒子村(現在の名古屋市中川区荒子町)に住みつき、前田姓を名乗ったという。

さらに、前田家にとって運が良かったことは利家が「関ケ原の戦い」(1600年)の前年に亡くなったことだ。前田家として、豊臣恩顧は利家までで、子の代になると、その点が身軽になった。秀吉の死後、豊臣家は石田三成派と徳川家康派に分裂したが、前田家はこの内紛に直に引き込まれずに済んだ。

 家禄を含め前田家を守るに際しては、利家の未亡人、芳春院(まつ)の果たした役割が大きい。頑固であまり融通の利かない利家とは違い、なかなかな政略家だった。彼女は若い頃からの友達だった秀吉の未亡人、高台院(北政所=ねね)と語り合い、徳川家康方に加担。お家取り潰しや改易を狙う徳川方からの挑発には一切乗らず、前田家(利家の晩年の石高、83万5000石)を守るべく、彼女は自ら江戸へ赴き、人質になった。徳川方にとっては想定外の離れ業だったに違いない。

(参考資料)酒井美意子「加賀百万石物語」、司馬遼太郎「街道をゆく37」、司馬遼太郎「豊臣家の人々」

前田綱紀・・・藩主在位78年間で加賀前田家の家風を確立した名君

 加賀藩第五代目藩主・前田綱紀は加賀前田家の家風を確立した名君で、前田家で最初の教養人でもあった。綱紀が在位した78年間、領国の政治に緩みがなく、新田開発などの経済面だけでなく、一種の社会福祉政策も遂行したことで知られる。江戸城における謁見の席も、1698年(元禄2年)、徳川第五代将軍綱吉から、外様大名ながら御三家に準ずる待遇を与えられた。

 前田綱紀は、加賀藩第四代目藩主・前田光高の長男として生まれた。母は水戸藩・徳川頼房の娘(徳川第三代将軍家光の養女)清泰院。幼名は犬千代丸、元服後の名は綱利。元服して亡き父と同じ官位を授けられ、後年、四代将軍家綱の一字を賜って綱紀を名乗り、加賀守に任ぜられた。藩祖・前田利家の曾孫。綱紀の生没年は1643(寛永20)~1724年(享保9年)。

綱紀の78年の在位を将軍の代で数えると、三代将軍家光の1645年(正保2年)、3歳で家督を継ぎ、八代将軍吉宗の1723年(享保8年)に隠居した。6代(家光・家綱・綱吉・家宣・家継・吉宗)の将軍に仕えたことになる。

 1645年(正保2年)、31歳の若さで早世した父・光高の後を受けて綱紀(当時は犬千代丸)は、わずか3歳で五代目藩主の座に就いた。藩政は、小松で隠居していた祖父・利常(三代目藩主)が取り仕切ることになった。1654年(承応3年)、元服して綱利と名乗った。そして、徳川家との絆を維持するため、保科正之の二女摩須子(徳川第二代将軍秀忠の孫)を妻に迎えた。綱紀16歳、迎えた姫はまだ10歳だった。

1658年(万治元年)、利常が脳溢血で亡くなると、岳父・保科正之の後見のもとで、綱紀は藩政改革を行うことになった。新田開発や農政から着手、彼が始めた「荒政の九法」は飢饉や不作などに備えた、いわば郡村の組織化で、長く農政の規範となった。当時、備荒貯蓄米を蓄えるため藩が設けた義倉は、金沢に一カ所、越中に三カ所、能登に二カ所、常時十万石から二十万石に及ぶ米が貯蔵されていた。そのため、江戸時代は全国でしばしば大飢饉に襲われ、悲惨な結果を招く例は少なくなかったが、加賀藩領では飢饉のために領民が困窮したという記録はほとんどない。

 綱紀は稗の種子を朝鮮から輸入したり、農民に副業として養蚕を奨励するなど凶作の対策に心を砕いている。「百姓は生かさぬように、殺さぬように」「百姓と菜種は絞れば絞るほどよし」といった思想が農政の根底にあった時代、利常・光高・綱紀ら三代の指導のもと、加賀藩が取った農政は稀有な例と高く評価されている。

 徳川八代将軍・吉宗のブレーンとして世に知られた荻生徂徠は、その著『政談』で「加賀の国に非人一人もなし、真に仁政なり」と絶賛している。当時の藩主は綱紀だ。祖父や岳父の後見も卒業して、彼が自ら政務を執るようになったのは27歳のときからだった。
ところで、治世上何かミスやトラブルがあれば、それを引き合いに領地没収や改易などを課そうと、幕閣は虎視眈々と狙っていた感のあったこの時代、お家を守ることは大変だった。前田家は並大抵の努力でその大身の家を守ったのではなかった。江戸城の龍の口にあった江戸・前田家の上屋敷は1657年(明暦3年)1月の振袖家事(明暦の大火)という江戸時代最大の火事で焼けた。火元は本郷丸山の本妙寺で、火は乾(北西)の烈風に煽られて江戸市街地ばかりか、江戸城の天守閣をも焼き、内堀の大名・旗本屋敷も焼き尽くし灰になった。

 その後の防火計画では、空地をつくること、道路を広くすること、町家の草葺きを禁じることなどが盛り込まれたが、江戸城の周りについても、大名屋敷をことごとく取り除いて空地とした。このため、加賀前田家は移転せざるを得なくなり、代替地として、本郷に大きな地所をもらった。後の東大構内の主要部で、本郷から不忍池に至る10万3000坪という広大なものだった。

 前田家は財政のいい家だった。だが、倹約して金を貯めたりすると、幕府からどんな疑いを受けるか分からないという理由から、財政能力を上回るほどの豪華さで、新しい本郷上屋敷をつくり上げた。ここで、前田家にとっては不運というか、全くありがた迷惑な事態が起こった。五代将軍綱吉が「加賀殿の屋敷は、庭といい、普請といい、見事というではないか」といったらしいと聞かされ、一大事となった。1702年(元禄15年)のころのことだ。

綱吉は幕閣政治を好まず、権力を一身に集め、苛烈に信賞必罰の政治をやり、このため幕臣の気風が萎縮した。その結果、側用人・柳沢吉保など側近に権勢が集まった。綱吉の言葉を聞き流すわけにはいかない。綱吉に誉められた以上、前田家としては御成りを乞うほかない。前田綱紀にすれば、一代の危機というべきだった。

 何故なら、綱吉がおしのびでやってくるわけではなく、側近から老中、若年寄などもくる。警護の番士もくる。そのうち、「加賀殿の新邸を拝見したい」という者が多くなり、規模が膨れ上がって、遂に5000人の供という前代未聞の招待になったのだ。江戸城の大工の棟梁たちまで加わったという。
 江戸時代は階級社会だ。客を同身分ごとに集めて酒肴を出さねばならない。老中や側用人の権勢の者には、とくに気を使う。大工の端々まで、それ相当の席を設け、酒肴を出すのだ。将軍や大名たちが満足してくれても、それ以外の者に対して粗相があっては、苦心も水の泡になる。

 司馬遼太郎氏の『街道をゆく 本郷界隈』によると、綱紀はこのために未曾有の借金をした。国許や江戸、あるいは上方の商人から莫大な金を借り、その後それを返すのに十数年かかった。将軍綱吉の半日の遊覧のために、迎賓館ともいうべき御成御殿を建てた。敷地8000坪、建坪3000坪、棟の数が45という壮麗なものだった。それに伴って、林泉も整えられた。さらに、もてなすために江戸詰めの家臣だけでは手が足りないので、国許から大勢の人数を呼び寄せた。それらの宿舎を400棟も建てたという。

 当日、将軍綱吉は大いに満足した。他の5000人も喜んだ。わずか一日の歓を得るために、加賀前田家は戦争そこのけの総力を挙げたのだ。だが、この壮麗な御成御殿も翌年の関東・東海大地震でことごとく焼けた。江戸末期の安政地震(1854~55年)でも加賀藩上屋敷は大きな被害を受けた。その後も地震が頻発し、本郷の加賀藩上屋敷は1855年(安政2年)の直下型の地震で壊滅したらしい。

(参考資料)司馬遼太郎「街道をゆく37」、酒井美意子「加賀百万石物語」

前野良沢・・・蘭学に一生を捧げた『解体新書』発行の真の功績者

 前野良沢といっても、いつ、どのようなことを成した人物かと問われても、とっさには出ない人が多いのではないか。良沢はオランダ医書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した『解体新書』の編纂に携わった主幹翻訳者の一人だ。ところが、解体新書発行当時、良沢は自らの名前を出さなかったため、その業績は知られておらず、『解体新書』発行の功績は杉田玄白一人に帰した感がある。だが、現実に即していえばオランダ語に群を抜いた知識を持つ良沢を除外しては、翻訳事業が成り立たなかった。ひいては、1774年時点で、内容的にあのレベルの『解体新書』刊行はなかったと思われる。

杉田玄白はターヘル・アナトミアの翻訳事業を推進させた功績者ではあった。だが、彼にはその翻訳を一日も早く公にすることで名声を得たいという野心も十分にあった。それは人間としてある意味では当然の欲望だったが、学究肌の良沢にはそれが度を超えたものとして映った。そのため、良沢は翻訳事業が終了したとき、『解体新書』はまだ不完全な訳書であるとし、刊行はさらに年月をかけた後に行うべきだと考えていた。しかし、玄白は刊行を急いだ。良沢はそれについていく気になれず、学者としての良心から自分の名を公にすることを辞退した。玄白はそれを素直に聞き入れた。その結果、『解体新書』の訳者は杉田玄白ただ一人となったのだ。

 『解体新書』が華々しい反響を得た中で、前野良沢は書斎に閉じ籠った。53歳だった。病と称して門を閉じ、交際も極力避けた。訳書の量は増えていったが、名利を卑しむ彼は、それを刊行することすらしなかった。生活も貧しく、弟子をとることも避けていた。そして。研究は医学から天文・暦学・地理などにも及び、多くの訳書がその手によって残された。

対照的に杉田玄白の医家としての名はとみに上がり、蘭学創始者としての尊敬を一身に集めた。また玄白は医術に精励したという理由で十一代将軍家斉に拝謁も許された。それは蘭方医として初の大きな栄誉でもあった。しかし、玄白のオランダ語研究は『解体新書』刊行と同時にほとんどやんだ。玄白は開業医として経済的にも豊かな後半生を送り、85歳の天寿を全うした。玄白の出世の道が『解体新書』を刊行したことで拓けたとするなら、それはストイックなまでに学究肌の、名利を卑しむ前野良沢という蘭学に一生を捧げた人物がいたからこそ実現したのだ。良沢がいなければ、玄白の人生はあるいはもう少し違ったものになっていたかも知れない。

 前野良沢は豊前国中津藩(現在の大分県中津市)の藩医で蘭学者。生没年は1723(享保8年)~1803年(享和3年)。筑前藩士、谷口新介の子として江戸牛込矢来に生まれた。幼時に父は死亡、母も良沢を捨てて去り孤児となった良沢は、山城国淀藩主稲葉丹後守正益の医官で、叔父の宮田全沢に引き取られ育てられた。1769年(明和6年)、蘭学を志して晩年の青木昆陽に師事。その後、1770年(明和7年)藩主の参勤交代について中津に下向した際、長崎へと留学した。留学中に入手したのが西洋の解剖書『ターヘル・アナトミア』だった。

 良沢はこの書を翻訳するにあたって大宰府天満宮に参詣し「名声利欲にとらわれず、学問のため一生を捧げる」と誓った。『解体新書』が完成したとき、彼は天神への誓いを守って書中に自分の名をあらわさなかった。そうした蘭学に対する真摯な姿勢により、藩主・奥平昌鹿から「蘭学の化け物」と賞賛された。そして、彼はこれを誉として「蘭化」と号した。
 寛政の三奇人の一人、高山彦九郎とは親しかった。弟子に司馬江漢、大槻玄沢などがいる。

(参考資料)吉村昭「冬の鷹」、吉村昭「日本医家伝」

槇村正直・・・東京奠都後の京都の近代化政策を推進した中心人物

 槇村正直(まきむらまさなお)は明治時代初期、東京奠都で衰退しつつあった京都の近代化政策を強力に推進した中心人物だ。当時、全国に先駆けて行おうとしたものも少なくなかった、槇村の施策に呼応した「町衆」と称される商工業者たちにより、京都の近代化が確立していった。槇村の生没年は1834(天保5)~1896(明治29年)。

 槇村正直は山口県美東町出身。長州藩士羽仁正純の二男として生まれ、槇村満久の養子となった。初名は半九郎、のち龍山と号した。

 槇村の出世は藩閥を抜きには語れない。1868年(明治1年)、長州出身で維新政府の要職に就いた木戸孝允は、幕末時代から連絡役として重用してきた同じ長州出身の槇村を京都府に出仕させ、政治の世界の経験に乏しい初代京都府知事の長谷信篤の補佐をさせた。槇村は議政官試補皮切りに、徴士・議政官、大阪府兼勤。そして権弁事を経て京都権大参事となった。1870年の小野組転籍事件に関連し、謹慎を命じられたが、その後、34歳の若さで1871年、京都府大参事となり、実質的に京都府の政治の実権を左右できる立場になった。長谷知事退任に伴い、1875年京都府権知事になり、1878年第二代京都府知事(1875~1881年)に就任した。彼は会津藩出身の山本覚馬と京都出身の明石博高ら有識者を重用して、果断な実行力で文明開化政策を推進した。

 槇村が行った主な京都近代化政策は・1869年(明治2年)、小学校の開設・1870年(明治3年)、舎蜜局(せいみきょく)の創建・1871年(明治4年)、京都博覧会の開催・1872年(明治5年)、都をどりの創設・1872年(明治5年)、新京極の造営・女紅場(にょこうば)の創建-などだ。
全国に先駆けて学区制による小学校開設に着手し、町組ごとに64校の小学校をつくった。大阪市本町の舎蜜局とは独立して、京都における舎蜜局(理化学工業研究所)を明石博高の建議により、京都の産業を振興する目的で、槇村が勧業場の中に仮設立した。理化学教育と化学工業技術の指導機関として、ドイツ人科学者ワグネルら外人学者を招き、島津源蔵ら多くの人材を育て京都の近代産業の発達に大きく貢献した。博覧会は日本で最初で、三井八郎衛門や小野善助、熊谷直孝ら京都の有力商人により主催され、西本願寺を会場に1カ月間開催され入場者は約1万人。

 都をどりは槇村の提案で京都博覧会の余興として開催された。これにより、本来座敷舞だったものを舞台で大掛かりに舞うようになった。新京極は寺町通の各寺院の境内を整理して、その門前の寺地を接収して寺町通のすぐ東側に新しく1本の道路をつくり、恒常的に賑わう繁華街をつくり上げた。女紅場は女子に裁縫、料理、読み書きなどを教えるため設立された日本で最初の女学校だ。

 こうして生産機構や技術面で飛躍的な発展を遂げた京都の産業は、海外貿易などでも躍進を遂げた。これは槇村の積極的な助成と西洋の技術文化導入による近代化の成果だった。ただ、近代国家の体制ができ上がり、地方政治の制度が整ってくると、槇村の裁量権の幅も次第に縮小し、やや強権的な政治手法は新たにできた府議会などとの対立も引き起こした。

 槇村は1881年(明治14年)辞表を提出、知事の座を北垣国道に譲って京都を去った。そして東京へ移って、元老院議官となり、行政裁判所長官(1890~1896年)、貴族院議員(1890~1896年)などを歴任した。

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」

松平春嶽・・・開明的藩政指導行うが、幕政参画後は“労”報われず

 御家門筆頭の国持大名として家格が高かった越前松平家の養子となり、第十六代越前福井藩主となった松平慶永(のちの春嶽)は、藩政改革に着手、積極的な人材登用、殖産興業・富国強兵による藩財政の立て直しを推進した。だが将軍継嗣問題で井伊直弼らと激しく対立し、隠居・謹慎処分を受けることになる。そこで彼は家督を養子茂昭に譲り、一時は5年にも及ぶ謹慎生活を送った。

だが、春嶽は井伊大老亡き後、見事に復活、幕府の要職に復帰する。幕府から政事総裁職を拝命、幕政に参画したのだ。そして、・参勤交代制の緩和・洋式軍制の採用・幕府職制の改正・京都守護職の新設-などを実施。第十四代将軍家茂による229年ぶりという将軍上洛を実現させた。

ただ、幕末の開国と攘夷、倒幕派勢力の台頭と幕府安泰・朝廷尊崇の理念の狭間で、春嶽の行動自体が振り子のように揺れ動き、そのために当事者たちに絶対の信頼を得られなかったためか、調停役としての春嶽の多くの“労”は報われなかった。

 松平慶永は徳川御三卿、田安家三代斉匡の八男として生まれた。母は閑院宮家木村某の娘礼井。幼名は錦之丞。徳川第十二代将軍家慶の従弟。天保9年、11歳のとき将軍の命で越前福井藩32万石の藩主・松平斉善(なりさわ)の養子となり、斉善の病没後を継承、藩主となった。将軍家慶の一字を賜り慶永、元服して越前守を称したが、隠居後、生涯愛用した雅号「春嶽(しゅんがく)」の方が有名だ。春嶽の生没年は1828(文政11)~1880年(明治23年)。

 福井松平家の藩祖・秀康は徳川家康の次男で、嫡男信康早世後、三男秀忠の唯一の兄で、豊臣秀吉の名をもらって結城家に養子に出されていなければ、家康の後継男子としては最年長だった立場だ。慶永は16歳で初入国し、90万両の負債を抱えた福井藩財政立て直しのため、近侍御用役に股肱の臣、中根雪江をはじめ、村田万寿、若手の逸材、橋本左内、三岡三四郎(後の由利公正)らを登用。また、「国是三論」を著した横井小楠を熊本から顧問として招き、洋式兵制の導入や種痘館、藩校明道館を創設。殖産興業策を推進して開明的藩政指導を行った。

 春嶽は幕末、幕政に参画してからは島津久光、山内容堂、伊達宗城らとともに有力賢候の一人として一目置かれたが、労多くあまり成果は挙げられなかった。彼の持論でもあった政権返上は、土佐の懸案を容れた大政奉還奏上によって実現、次いで王政復古の大号令が発せられる。ここで十五代将軍徳川慶喜の「辞官納地」が挙げられると、春嶽は徳川家のために抗議、慶喜の朝政参加を図ろうと努めたが、鳥羽伏見の戦いが勃発。遂に慶喜は朝敵となって政治復権の道は断たれた。

 春嶽は維新後、明治新政府側において徳川家の救済に尽力。内国事務総督、議定となり、明治2年、民部卿、大蔵卿を兼ね、大学別当兼侍続となった。だが、明治3年、一切の官職を辞して以後、文筆生活に入った。「逸事史輔」などの幕末維新史の記録、武家風俗史上、貴重な著述類を執筆。また伊達宗城らと「徳川礼典録」を編纂、注目すべき業績を残した。

(参考資料)尾崎護「経綸のとき」、童門冬二「小説 横井小楠」

三浦梅園・・・死後100年以上経過して認められた「条理学」の思想家

 三浦梅園は、儒学と洋学を調和した独自の自然哲学によって、大宇宙の原理を解明しようとした江戸時代中期の自然哲学者、思想家だ。その思想は独学独想で構築されたもので、「条理学」といわれる。梅園の学問は当時認められなかったが、死後100年以上経過した明治の終わりになって、人々に知られ認められるようになった。生没年は1723(享保8)~1789年(寛政元年)。

 三浦梅園は豊後国、現在の大分県国東市安岐町富永で生まれた。本名は晋(すすむ)。梅園の生まれた三浦家は、この富永村で代々医者を家業としていた。二男六女、八人兄弟の次男に生まれたが、長男が幼くして死んだため、事実上、一人息子として育てられた。

 梅園は非常に小さいときから物事を何でも疑うという性質があった。他の人が説明してくれればくれるほど、自分は分からなくなる。人はそれで分かったというけれど、自分は話を聞くとますます分からなくなってくる。何でも疑わしくなってくるというわけだ。梅園の旧宅から山を越えて4・隔たった村に、西白寺(さいはくじ))という禅宗の寺がある。ここに少年時代の梅園の勉学ぶりをしのばせるエピソードがある。

15歳の頃、彼はまず中国の詩の本を一人で読み始めた。しかし、梅園の家には字引がない。あちこち探し、やっとこの禅寺にあることを知り、月に4、5回、分からない字をためておいて、ここまで字引を引きに通ったという。17歳になると、杵築(きづき)の城下まで毎日通学した。富永から杵築まで、山を二つ越えて往復30・の道のりだ。こうして梅園の真理探究の行脚が始まった。

 当時、ヨーロッパの自然科学が漢文に翻訳されて、中国から長崎にもたらされていた。梅園はこれらを通して、西欧の実証的な学問の方法を貪欲に取り入れていった。梅園自製の天球儀が旧宅に保存されている。梅園はこれを手元に置いて、富永村の空を仰いで天体の運行を観測したのだろう。

そして、30歳のとき梅園は自然界の現象の現れ方には決まった筋道があることを見い出した。梅園はこれを「条理」と名付けている。彼には、これこそ天地万物の謎を解く鍵だと思われた。そして、彼の独創的なことはこの条理を探求していく際、数学・数式ではなく、図形をもとに緻密な思索を繰り返している点だ。

 例えば、手を離せば石がなぜ落ちるかという疑問を手掛かりとして、梅園は自らの思索を進めていった。同じように、りんごの落ちるのを見て「万有引力の法則」を発見したアイザック・ニュートンの例がある。両人とも通常、人が不思議としないことを不思議として、自らの問いとしたのだ。しかし、そのために用いた方法は、全く違ったものだった。ニュートンが数学の発展を考えの土台にしたのに対して、梅園は古代中国の易の陰陽の考え方を基本とした。

 梅園が自分の思想を述べた著作には畢生の大著「玄語(げんご)」のほか、「贅語(ぜいご)」と「敢語(かんご)」とがある。これらを合わせて「梅園三語」と呼んでいる。この三著作が梅園の思想の骨格を成すものだ。このうち生前に印刷されたのは、「敢語」だけだった。せっかく刊行をみた「敢語」も、当時の多くの学者からは受け入れられなかった。それは、端的に言えば難解だったからだ。梅園自身それは、他の学者に話しても簡単に理解してもらえることではないだろうと思っていたのだ。

 梅園は近隣諸藩の仕官の招聘を固辞し、生涯、三回の旅行を除いては死ぬまで郷里を離れずに学問と思索の日々を送った。三回の旅行のうち、二回までは長崎への旅だった。長崎ではオランダ通詞(通訳)に会って西洋事情を聞いたり、珍しい外国の本を写している。56歳になって梅園は、オランダ語にも並々ならぬ関心を示した。梅園の旧邸に、オランダ通詞の吉雄耕牛から梅園に贈られた木製の顕微鏡がある。耕牛は、「ターヘル・アナトミア」の翻訳「解体新書」を著した中津藩の蘭学者兼医師、前野良沢のオランダ語の師だ。

 梅園の対象とした学問は天文事・物理・医学・博物・政治・経済・文学と、非常に幅広い範囲にわたっている。今日でいえば百科事典のようなものを自分でこしらえているほどだ。梅園にとっては、それらのすべては、天地万物の条理を究めていくために必要なものだった。郷里には大学者・大思想家、三浦梅園が生涯をかけて著した原稿はいまも残っており、思索を重ねた屋敷もほとんど変わらぬ姿で残されているという。

(参考資料)湯川秀樹「日本史探訪/国学と洋学」

山内容堂・・・武力倒幕画策の薩長尻目に「大政奉還」実現の演出者

 幕末、薩摩・長州両藩などが武力倒幕を画策する中、討幕を断念させたのが、土佐藩が幕府に建白した「大政奉還」だった。このとき、事実上藩政を掌握していたのが、「安政の大獄」で隠居、謹慎処分を受け、藩主を退いていた前藩主の山内容堂(隠居前は豊信=とよしげ)だった。「大政奉還」は容堂の腹心、後藤象二郎が坂本龍馬の立案した新国家構想「船中八策」をもとにしたもので、天皇のもとで大名らの合議による政権を樹立することがその主旨だった。血を見ずに革命を実現させる、まさに妙案だった。これにより、山内容堂の名が広く知られることになり、土佐藩は後世に名を残し存在感を示したのだ。

 土佐十五代藩主を継いだ豊信は門閥の南家の出で、十二代藩主豊資の弟、豊著(とよあきら)の子だ。この分家南屋敷の家禄は1500石だった。藩主豊信は、吉田東洋を仕置役(参政)に抜擢し藩政改革に努めた。また、この東洋によって後年、土佐藩を背負って立つ有能な人材が発掘された。後藤象二郎(のち参政)・福岡孝弟(たかちか、のち参政)・岩崎弥太郎・乾(板垣)退助・谷干城(たてき)らだ。

 司馬遼太郎氏は山内容堂について、「諸侯きっての剛腹な男で、大酒飲みであり、剣は無外流の達人で、言辞は針を含むように鋭く、しかも言い出したら後に引かない男だ」と記しているように、長州藩主・毛利敬親らの印象とはかなり異なる、アクの強い人物だったようだ。

 一口に西南雄藩といっても、それぞれ藩内は様々な事情を抱えていた。したがって、思想は異なっていたのだ。急進・過激的な諸藩の中でも、とりわけ薩長両藩が典型的な倒幕派であったのに対し、土佐藩は「上士」・「下士」で分かれていた。土佐藩郷士(下士)は倒幕派だったが、土佐藩上士は会津藩・幕府とともに公武合体派だった。この上士を指揮していたのが容堂というわけだ。したがって、土佐藩の幕末の様々な動きは、決して藩主が了解したうえで行われたわけではない。

いや、「上士」と「下士」という動かし難い階級・身分格差が厳然として存在した同藩の場合、藩上層部は上士とつながってはいたが、倒幕派に与した郷士(下士)が中心となって進められた改革の動きは、藩主および藩上層部の全くあずかり知らぬことだった。土佐勤王党の盟主、武市半平太(瑞山)は郷士の出であり、坂本龍馬や中岡慎太郎らは脱藩しているのだから、彼らの動きをコントロールできるはずがなかった。

 幕末の土佐は、この土佐勤王党の出現により、新しい政治の時代を迎えた。武市半平太は1856年(安政3年)、江戸に出て知名の剣客桃井春蔵の道場に入門し、1857年(安政4年)塾頭を務めた。諸国の尊攘志士と交わり、江戸築地の土佐藩別邸で土佐勤王党を結成した。盟約署名の党員は192名、志を通ずる者は数百人を超えた。武市は参政・吉田東洋を説き、土佐藩を薩摩・長州と同じく勤王に固めようとした。しかし、幕府との協調路線を取る東洋は説得に応じない。焦った武市らは遂に東洋暗殺を決意、決行。保守派の門閥家老らと結び、新政権を誕生させた。この政権を武市らは陰で操縦したのだ。

しかし、「八月十八日の政変」(1863年)を機に京都の尊攘派は急激に凋落。これを好機とみた容堂が江戸より土佐に帰国し、藩政を掌握。土佐勤王党の弾圧に乗り出した。東洋暗殺の報復だった。容堂は遂に武市を追い詰め、切腹させる。だが、多数の勤王党員は脱藩、もはや藩上層部の意思で事を収められる段階にはなかった。時代の新しい潮流はもう止めようがなかった。

 容堂は薩摩藩・島津斉彬、越前福井藩・松平春嶽、伊予宇和島藩・伊達宗城らとともに、「幕末の四賢候」と呼ばれた名君とされている。だが、土佐藩の場合、後藤象二郎ら一部藩士を除けば、容堂あるいは藩上層部が主体的に藩を動かしたのではなかった。むしろ、亀山社中・海援隊を組織した坂本龍馬、土佐商会を興した岩崎弥太郎ら脱藩藩士はじめ下士ら、もっぱら彼ら藩上層部が弾圧した者たちが、したたかに、逞しく時代を動かした要素が強い。

(参考資料)中嶋繁雄「大名の日本地図」、司馬遼太郎「酔って候」、司馬遼太郎「最後の将軍」、司馬遼太郎「竜馬がゆく」、司馬遼太郎「慶応長崎事件」、童門冬二「坂本龍馬の人間学」、豊田穣「西郷従道」

山片幡桃 ・・・江戸時代有数の学者で、番頭にして優れた経営コンサルタント

 山片幡桃は江戸時代有数の学者で、番頭にして優れた経営コンサルタントでもあった。「幡桃」というのは彼自身が大坂の豪商升屋の番頭をしていたため、「番頭」をもじって付けたペンネームだ。彼は単なる豪商の番頭ではなく、彼の唱えた学説は現在でも多くの学者が高く評価している。

 山片幡桃こと、升屋小右衛門は播州印南郡米田村(現在の兵庫県高砂市米田町)の農民の子として生まれた。彼は小さいときから学問好きで、大坂の中井竹山・履軒の営む懐徳堂で学んだ。また、日本科学の先覚者だった麻田剛立(ごうりゅう)に天文学や蘭学を学んだ。

幡桃の本姓は長谷川氏だ。長谷川の家は、大坂の升屋とは親戚にあたっていた。そこで、小右衛門は小さいときから升屋の丁稚小僧として奉公した。もっとも、その前に大坂の両替商河内屋へ丁稚奉公に上がったが、生来の読書好きのため店を追い出されたと伝える史料もある。当時の常識からいえば丁稚に学問は不要ということだろう。

 ともかく他の丁稚小僧と違って、多少は血のつながりがあったために、早く番頭の役に就いた。もちろん、このころの商家のしきたりとして、ただ親戚だからといって、すぐ取り立てることはしない。それでも小右衛門がどんどん出世したというのは、それなりに彼の能力が優れていたからだ。番頭になったとき、彼は24歳だった。

 小右衛門が番頭になったとき、升屋は対外的にも内部的にも大きな危機に見舞われていた。まさに“内憂外患”の状況だったのだ。内憂は、ときの当主に実子がいなかったため、養子をもらったが、この養子をもらうとすぐ、皮肉なことに実子が生まれてしまったのだ。そうなると、当主はやはり実子が可愛く、この子に家を継がせたくなった。そこで、養子にいろいろと注文をつけ「もし、お前の身持ちが悪かったら、いつでも養子縁組を解消して、実子に家を継がせるからな」と迫り、升屋にゴタゴタを起こす原因になりかねない情勢だった。

 外患は大名貸しの破綻だ。このころの大名家はすべて極度の財政難に陥っていたから、なかなか借りた金を返してくれない。それだけでなく、借金を踏み倒すような大名家も次々と出てきたのだ。そのため、升屋では資金繰りに苦慮、本業の米屋の方も思わしくなくなっていた。

 小右衛門はまず内部固めから始めた。そして打ち出したのが当主の隠居と、養子を説得し、当主の実子に店を継がせる-との方針だった。いわば痛み分けだった。ただ、当主はまだ年少だったから、彼は補完する組織として「番頭会議」を設置した。合議制による集団指導システムだ。つまり、隠居した当主は自分の望み通り実子に店を譲れた。しかし、実権は「番頭会議」にあって、実子にはない。形の上でも、実質的にも「痛み分け」としたのだ。小右衛門は店の大事なことはすべてこの番頭会議にかけた。

 これにより、番頭たちのモラルは一挙に上がった。これも小右衛門の狙ったところだった。彼はクールな合理性を持って判断し、日本人特有の“情”にあまり煩わされることはなかった。
 次は外患の解決だ。大名家に貸した金を返してもらうことだ。そんなとき、大口の貸付先、仙台の伊達家から「わが藩のコンサルタントになって、財政を再建してくれないか」と申し込んできた。それは常日頃、小右衛門が店の者にいっていることを評価したからこその依頼だった。

彼は「貸した金が取れないからといって、うろたえてただ催促するだけでは、ことは解決しない。なぜなら相手方も財政が逼迫しているからだ。それは日本の経済がコメを中心に動いているからだ。ところが、実際に品物を買って、その支払いをするのは金だ。コメと金の相場がうまくいっていればいいが、大抵うまくいかない。それと根本的に大名家の収穫高は、昔から決まっている。積極的に新田開発をしない限り、増収は望めない。貸した金を返してもらうためには、やはり借り手の方が富まなければだめだ。だから、貸した方も借り手に対し、積極的に知恵を提供すべきだ」というのがその主旨だ。

現在でいえば、金融機関の考え方だ。つまり、ただ金を貸し付けるだけでなく、金を借りた側の経営手法についても、いろいろコンサルタント的な知恵を提供して、一緒に富むことを考えるのだ。
 依頼のあった伊達家に対し、彼が経営コンサルタントとして・コメの生産量を上げ、品質を良くすること・コメは藩政府が買い上げ、これをできるだけ多く大坂市場に出して売ること・生産性を高めるため、農民に対して肥料や農具の貸し付け行うこと・農民からコメを買い上げるとき、藩政府は藩札で支払い、大坂で売ったコメの代金は正札で差し上げること-などを助言した。

これらの施策で仙台藩は財政を好転させた。そして、彼はその正札の中から貸し金を正貨によって全部回収してしまった。この方法は各藩で評判になった。そこで尾張、水戸、越前、館林、白河、古河などの藩が、藩財政の立て直しを依頼してきた。彼は可能な限りこれを引き受けた。その期間は、番頭になったときから約30年間にわたった。主家を支えると同時に、依頼のあった各大名家の財政の再建に努力したのだ。

 山片幡桃の代表作は「夢の代(ゆめのしろ)」という本だ。この本は天文、地理、神代、歴代、制度、経済、経論、雑書(陰陽)、異端、無鬼(神道、儒教、仏教)、雑論などの各章に分かれているが、彼の説は少し乱暴な表現をすれば、「この世に神や仏はない。すべて人間の作り出した想像物だ」と言い切っているところに特色がある。
江戸時代の稀有な経営コンサルタント、山片幡桃は、「夢の代」完成の1年後、74年の生涯を閉じた。

(参考資料)神坂次郎「男 この言葉」、童門冬二「江戸のビジネス感覚」

足利尊氏・・・「文武両道は、車輪の如し。一輪欠ければ人を度さず」

 これは室町幕府の創設者、足利尊氏が最晩年の延文2年(1357)に書き残した、二十一箇条からなる『等持院殿御遺言』の一節だ。国を治めるものは学問を身につけるべきである。とはいえ、戦だけを働きとする武者には学問などは無用である。

「五兵にたずさわる者に、文学は無用たるべし」。刀など五種類の武器をもって戦う男たちに学問は無用。生かじりの学問をもてあそべば、口先ばかり達者で心正しからざる侫(ねい)者となる者多し、心得るべきことだ-と尊氏は説く。

 足利氏の祖は八幡太郎源義家の第三子、源義国が晩年、足利の別業(別荘)にこもり、その次男の源義康が足利の庄を伝領したことから始まる。尊氏(初名は高氏)はこの直系、足利貞氏の嫡男として生まれている。彼の名前が歴史の舞台に表れるのは元弘元年(1331)9月、後醍醐天皇が鎌倉幕府の討伐を企て、途中で露見して笠置(現・京都府相楽郡笠置町)に潜幸したとき、幕府の差し向けた討手の六十三将の一人として登場する。27歳の時のことだ。

 ただ、高氏は鎌倉幕府への反逆を起こす立場になかった。なぜなら先祖は源頼朝や北条政子とも縁戚を結び、以後、足利氏は北条一門とも代々、密接な血縁関係を幾重にも結んできたからだ。本来彼は革新的な人物ではなかった。性格は保守的で、日和見主義者であったとさえいえる。現代風に表現すれば、名家のお坊ちゃんだ。足利家に代々伝わる遠祖義家の「置文」(遺言状)がなければ、後世の尊氏はなかっただろう。

「天下を取れなかった八幡太郎義家が、七代目の子孫に生まれ変わって、かならず天下を取る」がそれだ。そして足利家ではこれを信奉し、義家の七代後の子孫である家時は、ご先祖の「置文」の通りに天下が取れなかった自分を嘆き、恥じ、八幡大菩薩にわが命を縮めるかわりに、これより三代の後に今度こそ、望みを叶えてくれと置文を残して、切腹して果てた。その三代目が高氏だった。彼は周囲に押し上げられるように、謀反決起を考えねばならなくなった。

その点、尊氏は時代の趨勢を的確に読んでいた。鎌倉幕府に対する不平・不満は全国の武士の間に満ちていた。そこへ天皇が反旗を翻して、一部の公家が荷担した。幕府はこれを弾圧したものの、政権としての権威の失墜は明らかだった。

元弘3年、笠置で捕らえられ隠岐(島根県)に流された後醍醐帝は再び脱出。後醍醐帝軍を討つことを命じられた高氏は、密かに後醍醐帝の綸旨(みことのり)を得て丹波、篠村八幡宮で鎌倉幕府に反旗を翻して、軍を反転して六波羅探題を討ち、北条一族を滅亡に導いた。高氏は殊勲第一の者として鎮守府将軍に任ぜられ後醍醐帝の尊治の一字を賜り尊氏と改名する。ところが、尊氏はほどなく後醍醐帝と対立し、持明院統の豊仁親王を担ぎ皇位につけ、光明天皇として遂に足利十代にわたる悲願であった足利幕府を樹立する。

ただ、ここに至る行動の采配は実弟の直義や執事の高師直が振るっているのだ。室町幕府の創設期、幕府の実権は直義と師直の両者が握ることになる。この両者に実権を握られ続けながら、「人望」のある尊氏は時代の方向を的確に読み、カリスマ性を発揮しつつ、遂には征夷大将軍となった。
   
(参考資料)加来耕三「日本創始者列伝」、神坂次郎「男 この言葉」、海音寺潮五郎「覇者の条件」

在原業平・・・「つひに行く道とはかねて聞きしかど 昨日今日とは思はざりしを」

 人間の死に例外はない。誰にでも訪れる。しかし、昨日今日とは思わなかった-という驚きと不安と絶望、さらにはこの世に対する未練など様々な心情や思いが含まれた歌だ。 

 在原業平(825~880年)は平安初期の歌人で六歌仙の一人だが、「色好み」として知られている。業平の恋のアバンチュールの相手は二条后・藤原高子と恬子内親王とが主なものだ。藤原高子は清和天皇の后であり、陽成天皇の母だ。恬子内親王は文徳天皇の皇女であり、伊勢の斎宮として男性との一切の交渉を禁止されていた女性だ。このほか、清和天皇の后で貞数親王の母である姪の在原文子とも、仁明天皇の皇后で、文徳天皇の母である藤原順子、すなわち五条后とも男女関係があったとみられている。すべて貴顕の、いやもっといえば、通常は全くタブーの相手ばかりなのだ。

 こうみてみると、業平の恋の情熱は普通の形では燃え上がらず、なぜかタブーを犯した時に初めて激しく燃え上がるのではないか。その理由は彼の生まれにあるのではないだろうか。彼は平城天皇の皇子・阿保親王の第五子で、その母伊豆内親王は桓武天皇の皇女だ。平城天皇は嵯峨天皇の兄で、本来なら彼はこの平城天皇の系譜に伝えられるべきであった。しかし、「薬子の乱」によって一門は失脚し、阿保親王は親王の位として最も低い四品にとどまり、伊豆内親王は无品であり、その子供たちも826年、やむなく臣籍に下り、「在原」姓を名のったのだ。

 これは勝手な類推に過ぎないが、業平の心の中に“天皇”への野望が隠れていたのではないかと思われる。「薬子の乱」などの混乱が起こらなければ、本来、自分は天皇となるべき存在だったのに-との密かな思いがあったのではないだろうか。それで、現実には叶えられぬ痛切な、無念の思いを、タブーの天皇の后妃たちとの恋に身をやつし、人生のすべてを捧げたのではないか。

 業平はその容姿が美しく、美男の典型とされている。放縦で物事にこだわらず、天才肌で多くの優れた歌を残している。次の歌などはよく知られている。

 世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし
世の中に桜がなかったら、春の日々はもっとゆったりと暮らすことができるだろうに。桜があるために忙しくてしかたがない-という意味だ。それほど、この時代の人々は桜の咲く頃を、桜の美しさを讃えるとともに、桜に様々な思いを託して楽しんだのだ。
 
 『伊勢物語』は色好みの男としての伝説を歌物語に結晶させたものだ。この中のよく知られた秀歌も取り上げておきたい。

 名にしおはばいざ言問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと
これは武蔵と下総の境の隅田川で詠んだ歌だ。都鳥(ユリカモメ)という名をもつ鳥と聞いて都の恋人を想い起こすのは業平ならではだ。いま、東京の中心を流れる隅田川には言問橋(ことといばし)、その支流に業平橋がかかっている。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」
                             

伊能忠敬・・・「緯度一度の距離を測る」 日本全土の精密地図をつくる

 伊能忠敬は19世紀の初頭、それまでは存在しなかった日本全土の精密地図を、50歳を過ぎてから取り組んだ第二の人生でほぼ独力でつくり上げた。その基本となるのが上記の「緯度一度の距離を測る」ということであった。

といっても、実測する以前に難しい点や高いハードルがいくつもあった。周知の通り、徳川時代は「幕藩体制」で「中央集権と地方自治の混合時代」だ。幕末時点でも全国に280の大名家・藩があり、藩と藩との間には厳しい国境が設けられ、関所がつくられていた。人の出入りや、ものの流れのチェックが、現在ではとても信じられないほど厳しい時代だった。

また、固く確立した「士農工商」の身分制があった時代のことだ。「一農民が何人もの大名の領地に入って、いろいろと測量することは大きな反発を招く」というわけだ。そこで、忠敬の身分は「公儀お声掛り」という幕府公認の測量者という体裁がつくられた。

 忠敬は寛政12年(1800年)、55歳のときから文化13年(1816年)、71歳のときまで16年間にわたり10回もの日本国内測量を続けた。測量のために歩いた距離は4万3000・・。地球を一周してなお、おつりのくる長さだ。総日数3753日にもなる測量の旅で、第一の人生で家業立て直しや村政で培った合理主義と創意工夫で問題を一つ一つ解決しながら、測量法や測量機器の改善を重ねて、精密な「大日本沿海輿地全図」を完成させた。

 ただ、残念なことに忠敬は自分の手では完成させることはできなかった。文政元年(1818年)、持病のぜんそくが悪化し、忠敬は74歳の生涯を閉じる。それから3年後、忠敬の測量による「大日本沿海輿地全図」が、門人たちの手で幕府に納められた。

だが幕府はこの地図を公開せず、秘蔵してしまう。「伊能図」の優秀さが世界に知られるのは、それから40年後のことだ。文久元年(1861年)、来日した英国の測量艦隊は、幕府から派遣された役人が所持していた伊能小図を見て、その精密さに驚嘆した。

そのため、その測量艦隊は改めて測量する必要がないと判断。それを写させてもらい、日本近海の深さだけ測って帰ってしまったという。明治になっても、陸軍参謀本部測量局が作成した20万分の1の地図の中心となったのは、伊能中図だった。

 「人生わずか50年」といわれた200年も前に、50歳を過ぎて新しい学問に取り組み、これをマスター。そして、日本列島北から南までのほとんどを踏査、また独自に測量機器に改善を加えながら、当時の外国人からみても驚嘆するほどの精密な日本地図を完成させた伊能忠敬のすさまじいエネルギーには脱帽するしかない。

(参考資料)童門冬二「伊能忠敬 生涯青春」、加来耕三「日本創始者列伝」

上杉鷹山・・・ 「国家は私すべきものにあらず」 江戸期に「主権在民」謳う

 これは米沢藩・九代藩主上杉鷹山が前藩主の実子、治広に藩主の座を譲り隠居するときに藩主の心得として与えた『伝国之辞(譲封之詞)』にある言葉だ。

全体を記すと、
一、 国家ハ先祖より子孫へ伝候国家にして、我私すべき物にハ無之候
一、 人民ハ国家に属し足る人民にして、我私すべき物にハ無之候
一、 国家人民の為に立たる君にて、君の為に立たる国家人民には是なく候

 ここでいう国家とは米沢藩、人民とは領民のこと。「藩と藩民は大名やその家臣が私するべきものではない」と力強くその公共性を説いている。これは今日でいう「主権在民」の思想だ。まだジャン・ジャック・ルソーも生まれていないし、フランス革命も起こっていない。米国でリンカーンが「人民による、人民のための、人民の政治」と声高に叫んだあの有名な演説よりはるか前に書かれたものだ。徳川の厳しい幕藩体制の枠組みの中での発言だけに、その勇気には目を見張らせるものがある。現代の政治家にも、大いにかみ締めてもらいたい言葉だ。米国大統領ジョン・F・ケネディが尊敬する日本人として挙げたのもうなずける。

 鷹山は明和4年(1767)、17歳で米沢藩主になった時に、自分の決意を和歌に詠んでいる。「うけつぎて国の司の身となれば 忘れまじきは民の父母」がそれだ。きょうからは家臣や藩民の父となり母となり、彼らを慈しむ政治を行おう-との覚悟を述べたものだ。

 上杉鷹山(1751~1822)は日向(宮崎県)高鍋藩3万石秋月種美の次男で幼名直丸、のち治憲、鷹山は号。宝暦10年(1760)出羽(山形県)米沢15万石の藩主、上杉重定の養嗣子となる。家督を継いだ時の藩財政は、万策尽きた前藩主重定が藩主の地位を放棄し、15万石の領土を幕府に返上しようという前代未聞の決断をしたほどの窮状ぶりだった。

この倒産同然の老朽会社ともいえる米沢藩を鷹山は・従来の諸儀式、仏事、祭礼、祝事を取り止めまたは延期・50人の奥女中を9人に減らす・藩主以下全員、食事は一汁一菜、綿服の着用、贈答の廃止-など12カ条に及ぶ倹約令を公布。また農村の復興に取り組み、藩士たちにも開墾を奨励したほか、農家の副業を奨励し桑・コウゾ・漆の栽培を指導し、製糸技術の改良、織布技術の輸入を図り、京都や越後の小千谷から職人を招いて、産業技術振興に務めた。その結果、藩内に大いに織布工業が興り、江戸でも米沢の織物の声価を高めた。

こうした様々な諸施策によって、天明5年(1785)米沢藩を黒字財政に乗せた後、まだ35歳の若さで鷹山は藩主の座を譲り隠居した。当時はもとより、現代ではとても考えられない見事な進退の処し方だ。

(参考資料)童門冬二「上杉鷹山の経営学」、童門冬二「小説 上杉鷹山」、藤沢周平「漆の実のみのる国」、内村鑑三「代表的日本人」、神坂次郎「男 この言葉」