源兼昌
淡路島かよふ千鳥の鳴く声に
いく夜ねざめぬ須磨の関守
【歌の背景】人里離れた須磨の関所の関守の夜ごとの寂寥を思いやって、哀感の迫ってくる優れた一首。
【歌 意】淡路島へ飛び通っていく千鳥の哀れな声に、須磨の関守は幾度、眠れずに目を覚ましたことだろう。
【作者のプロフィル】美濃守源俊輔の子。従五位下皇后宮大進だったらしいが、伝記はよく分からない。鳥羽天皇の天永3年(1112)39歳で亡くなったという。


源兼昌
淡路島かよふ千鳥の鳴く声に
いく夜ねざめぬ須磨の関守
【歌の背景】人里離れた須磨の関所の関守の夜ごとの寂寥を思いやって、哀感の迫ってくる優れた一首。
【歌 意】淡路島へ飛び通っていく千鳥の哀れな声に、須磨の関守は幾度、眠れずに目を覚ましたことだろう。
【作者のプロフィル】美濃守源俊輔の子。従五位下皇后宮大進だったらしいが、伝記はよく分からない。鳥羽天皇の天永3年(1112)39歳で亡くなったという。
左京大夫顕輔
※藤原顕輔
秋風にたなびく雲の絶え間より
洩れ出づる月の影のさやけさ
【歌の背景】手の込んだ技巧のない、素直で分かりやすい歌。平凡にみえるが、当時としてはこうした歌いぶりに新味があった。
【歌 意】秋風に吹かれてたなびいていた雲が一瞬切れた。すると、その切れ間から洩れ出た月の光の、なんとすがすがしいことか。
【作者のプロフィル】藤原顕輔は修理大夫顕季の三男。中宮亮を経て右京大夫になった。堀河・鳥羽・崇徳・近衛の四代の帝に仕えた。久寿2年(1155)66歳で没。父顕季は、俊頼や基俊の二派とは別に、一派を立てていた。顕輔は父のその遺志を継いで、いわゆる六条家をはじめ俊成・定家らの御子左家に対立した。六条派は、当時流行の技巧的な歌を否定し古風に返ろうとした。
待賢門院堀河
※堀川は待賢門院璋子に仕えていた。
長からむ心も知らず黒髪の
乱れて今朝は物をこそ思へ
【歌の背景】この歌は「小倉百人一首」の中でも、恋の激しさと恋の不安とを詠んだ女性の歌で最も優れたものの一つといわれる。
【歌 意】あなたに末永く私を愛し続ける心があるのかどうか、私にはわかりません。お別れしたばかりの今朝は、寝乱れた黒髪のように私の心は思い乱れて悩んでいるのです。
【作者のプロフィル】神祇伯源顕仲のむすめで、初め前斎院白河皇女令子内親王に仕えて六条、後に鳥羽院中宮待賢門院しょう子に仕えて堀河と呼ばれた。康治元年(1142)の待賢門院の落飾に殉じて出家した。父も和歌に巧みだったが、彼女も女流歌人として第一級の実力者という名声を持っていた。
後徳大寺左大臣
※藤原実定
ほととぎす鳴きつる方を眺むれば
ただ有明の月ぞのこれる
【歌の背景】暁にほととぎすを聞くという題で詠まれた歌。ほととぎすは万葉集以来、秋の月、冬の雪、春の花に並ぶ夏の代表的題材として繰り返し詠まれてきた。なぜなら、山間ならともかく、都では滅多に声を聞くことのできない鳥、もし幸い聞くことができたとしてもほんの一声、しかもその姿を捉えることはほとんどできない鳥だからだ。
【歌 意】ほととぎすが一声鳴いたので、はっと思って声のしたと方を眺めると、ほととぎすの姿は見えず、ただ有明の月が残っているだけだ。聞いたと思ったその声さえ、空耳ではなかったかと思われるはかなさだ。
【作者のプロフィル】藤原実定のこと。右大臣公能の子。祖父実能が徳大寺左大臣といったので、それと区別して「後」をつけた。左大臣になったのは文治5年(1189)。建久2年(1191)53歳で没。学識もあり、才能にも恵まれた人で、歌人としても優れていた。
道因法師
※俗名藤原敦頼
思ひわびさても命はあるものを
憂きにたへぬ涙なりけり
【歌の背景】恋する男の心情を詠んだもの。ただ情(こころ)ではなく理屈の歌。
【歌 意】恋のために思い悩んで、それでも死なずに生き長らえている。それなのに自分でどうにかなりそうな涙は、恋のつらさに耐えられなくてあふれ出てくる。人間の生理はままならないものだ。
【作者のプロフィル】俗名は藤原敦頼。父は治部丞清孝。崇徳天皇に仕え、官位は従五位上左馬助になり、後に出家した。歌に熱心だったが、とくに優れた歌人ではなかった。寛治4年(1090)に生まれ、没年は不明だが90歳までの生存が確認されている
皇太后宮大夫俊成
※藤原俊成、定家の父。
世の中よ道こそなけれ思ひ入る
山の奥にも鹿ぞ鳴くなる
【歌の背景】保元・平治の乱や王朝の交代あるいは朝廷の没落と武家の台頭という転換期の慌しい世相に生きた人間の厭世的な思想をうたったもの。
【歌意】ああ、この憂き世の辛さから逃れる道はないものだなあ。世を捨ててしまいたいと堅く決意して山の奥へ分け入ってみると、ここでも鹿が悲しげに鳴いている。
【作者のプロフィル】藤原俊成は権中納言俊忠の子。後鳥羽天皇に仕え、正三位皇太后宮大夫になる。五条室町に住んだので「五条三位」と呼ばれた。63歳で出家して釈阿といった。歌は藤原基俊に師事、歌才に優れ、やがて歌壇を統一してこれに君臨した。元久元年91歳でなくなった。
藤原清輔朝臣
ながらへばまたこのごろやしのばれむ
憂しと見し世ぞ今は恋しき
【歌の背景】三条右大臣(藤原実行)が中将から昇進しないで嘆いているのを慰めた歌。
【歌 意】生き長らえていたならば、今の苦悩が懐かしく思い出されるのではないでしょうか。かつてつらいと思っていた昔の日々も、今思い返すと懐かしく思えるのですから。
【作者のプロフィル】藤原顕輔の子。太皇太后大進兼長門守になり、高倉天皇の治承元年(1177)74歳で没。俊成ら二条家の歌風に対抗して、六条家の「古風」を守った。六条家は歌よりも学問の家柄だ。「万葉集」はじめ勅撰集を研究した。歌人というより歌学者として優れ、「奥義抄」「和歌初学抄」「袋草紙」などの著書がある。
俊恵法師
※父は源俊頼
夜もすがらもの思ふころは明けやらで
閨のひまさへつれなかりけり
【歌の背景】女性の身になって詠んだ恋の歌。寝室でひとり夜を過ごす女性の悶々とした気持ちがよく表現されている。
【歌 意】一晩中訪れのないあなたを思って、恋の物思いにふけっている夜は、早く夜明けになればいいと思ってもなかなかならず、寝室の戸の隙間も白んでこない。寝室の戸の隙間までが無情に思われてつれないことです。
【作者のプロフィル】父は源俊頼、祖父は経信。東大寺に学んだ僧だが、貴賎僧俗にわたる歌好きを集めて小さな歌壇を形成したことで知られる。自分の家を「歌林苑」と名付け、毎月歌合を催した。永久元年(1113)に生まれ、70歳代後半まで生きたようだ。
西行法師
※俗名佐藤義清(のりきよ)
なげけとて月やはものを思はする
かこち顔なる我がなみだかな
【歌の背景】西行がまだ円位法師と名乗っていたころ、「月前の恋」という題を設定してその心を歌ったもの。
【歌意】嘆けといって、月が私に物思いをさせるのか、いやそうではない。けれども、いかにも月のせいであるかのように涙がこぼれ落ちてしまう。
【作者のプロフィル】俗名佐藤義清。藤原北家の左大臣魚名(房前の五男)の末孫。佐衛門尉康清の子で、母は監物源清経のむすめ。元永元年(1118)に生まれた。鳥羽上皇に北面の武士として仕えて左兵衛尉となったが、保延6年(1140)23歳の若さで妻子と別れ出家した。
はじめ円位と号し、後、西行と改めた。仏法修業と和歌に励みながら諸国を行脚。平重衡が焼いた東大寺復興の勧進にも携わった。建久元年(1190)79歳、京都でなくなった。
寂蓮法師
※父は醍醐の俊海阿闍梨。
むら雨の露もまだひぬまきの葉に
霧立ちのぼる秋のゆふぐれ
【歌の背景】上の句のむ・ま・まのM音の調べが特徴的。秋の夕暮れの情景が沁み込んでくるようだ。古典和歌の中で最もポピュラーで、分かりやすく覚えやすい歌。
【歌意】ひとしきり降った村雨の露も、まだ乾かずに濡れて光っているまきの葉に、霧が立ち昇っている秋の夕暮れは何と寂しいことか。
【作者のプロフィル】俗名は藤原定長。父は醍醐寺の俊海阿闍梨。保延5年(1139)生まれ、建仁2年(1202)入寂。伯父の藤原俊成の養子となり、従5位下・左中弁・中務少輔になったが、俊成に実子、定家が生まれたので出家した。「新古今和歌集」の代表的歌人。
皇嘉門院別当
※皇嘉門院は崇徳天皇の中宮。作者はこの人に仕えた女別当。
難波江の芦のかり寝のひと夜ゆゑ
みをつくしてや恋ひ渡るべき
【歌の背景】後法性寺入道前関白太政大臣藤原兼実がまだ右大臣だったころ、その家で催された歌合の会で「旅の宿で会った恋」という題で詠んだ歌。
【歌 意】難波の入り江に生い茂っている芦の“刈り根の一節”、そんなかりそめの一夜を契ったばかりに、私は難波の入り江の“澪標(みをつくし)”ではないが、一生恋い慕いながら年月を過ごさなければならないのだろうか。
【作者のプロフィル】皇嘉門院は崇徳天皇の中宮で、法性寺関白藤原忠通のむすめで聖子といった。母は大納言宗通のむすめ。大治元年(1189)中宮となり、永治元年皇太后、久安6年2月門院号を贈られた。作者はこの人に仕えた女別当だ。太皇太后宮亮源俊隆のむすめ。
式子内親王
※後白河天皇の第三皇女。以仁王は兄に当たる。
玉の緒よ絶えなば絶えね長らへば
忍ぶることの弱りもぞする
【歌の背景】源平争乱、朝廷・公卿の没落と武家の台頭という歴史の転換期を生きた作者が、人に知られずにする忍ぶ恋の苦しさを歌ったもの。
【歌 意】私の命よ、絶えるならいっそ絶えてしまってくれ。このまま生き長らえるならば、この恋の苦しさを耐える力が弱ってしまうだろうから。
【作者のプロフィル】後白河天皇の第三皇女。二条・高倉両天皇、以仁王は兄にあたる。母は従三位藤原成子。平治元年(1159)以後11年間、賀茂の斎院となり、嘉応元年(1169)7月病気のため退下した。建久8年(1187)蔵人橘兼仲・僧観心などの事件に連座した嫌疑を受け、京の外に移されようとしたが、不問に付された。のち剃髪して承如法といった。建仁元年(1201)正月に50歳前後で亡くなっている。「新古今和歌集」の代表的女流歌人。
殷富門院大輔
※後白河院の判官行憲の孫。
見せばやな雄島の海士の袖だにも
ぬれにぞぬれし色はかはらず
【歌の背景】殷富門院に仕えてきた大輔という女房が、歌合の会で恋に泣く恨みの心情を詠んだもの。
【歌 意】恋しい人を思って流す血の涙のために色まで変わってしまった私のこの袖を、つれないあなたに見せてあげたいものです。あの陸奥の松島の雄島の海士の袖さえ濡れてはいても、私の袖のように色までは変わっていませんよ。
【作者のプロフィル】従五位下藤原信成のむすめで、後白河天皇第一皇女亮子内親王に仕えた。亮子内親王は式子内親王の姉。大輔はその女房名。妹を殷富門院の播磨という。当時女流歌人として知られていた。
後京極摂政太政大臣
※藤原良経
きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに
衣方敷きひとりかも寝む
【歌の背景】晩秋の夜のひとり寝のわびしい思い、自然と人情との交感を感じさせる恋の歌。
【歌 意】こおろぎが鳴く、この霜降る寒い夜、寒そうな筵(むしろ)のの上に自分の着物だけを敷いて、またひとり寝の夜を過ごすのでしょうか。(心優しいあなたは、いつかきっと来てくださると信じています。)
【作者のプロフィル】藤原良経法性寺入道忠通の孫。九条兼実の二男。母は従三位藤原季行のむすめ。嘉応元年に生まれ、後京極殿・中御門院と称せられた。式部史生・秋篠月清などと号した。元久元年(1204)従一位、太政大臣となった。歌学を定家に、詩文を親経に学び、後鳥羽院に愛された。秀歌が多い。「新古今和歌集」の撰にも参加し、仮名序を書く。能書家としても知られる。建永元年(1206)38歳で急死。
二条院讃岐
※二条院に仕えた讃岐という女官。
わが袖は潮干に見えぬ沖の石の
人こそ知らねかわく間もなし
【歌の背景】片思いを海中の石に見立てた、少し技巧的すぎるが、魅きつける力のある歌。
【歌 意】私の着ている衣の袖は、あの潮が引いた時にも現れない沖の石のようなもので、人は知ってはくれないけれど、片思いのつらい涙で乾く間もないのです。
【作者のプロフィル】二条天皇に仕えた讃岐という女官で、源三位頼政のむすめ。頼政は宮中の鵺(ぬえ)退治をしたという話で有名な武将だが、和歌もよくし風流の才にも富んでいた。そのむすめだけに彼女も歌才に優れ、また兄やいとこたちにも歌人がいた。当時、式子内親王と並び立つ女流歌人の第一人者だった。二条院が崩御後、藤原重頼と結ばれた。後鳥羽天皇中宮宜秋門院任子にも仕えたが、のち出家。建保5年(1217)ごろ、77~78歳で没
鎌倉右大臣
※源実朝。鎌倉幕府第三代将軍。
世の中は常にもがもな渚こぐ
あまの小舟の綱手かなしも
【歌の背景】漁夫の小船の綱手に興味を感じて詠んだものだが、実はこの世の無常を感じながら人生の永遠を願っている。しかし、やがて迎える悲劇的な死と重ね合わせてみると、悲痛な思いを感じさせる一首。
【歌意】世の中はいつも変わらないものであってほしい(死なないでいたいなあ)。そうすれば、いつでもこの浜辺に来て波打ち際を漕ぐあの漁夫の小船の引き綱が見られる。あの小船はなんと興味深い眺めだろう。
【作者のプロフィル】源実朝。頼朝の子。母は北条時政のむすめ政子。建久3年(1192)生まれ。兄頼家に次いで建仁3年(1203)12歳のとき鎌倉幕府第三代将軍となった。27歳で右大臣。承久元年(1219)甥の公暁に暗殺された。享年28歳。その短い生涯にもかかわらず、優れた歌を残している。当時の歌調に染まらず、万葉的な歌風が特徴。
参議雅経
※藤原雅経
みよし野の山の秋風さよふけて
ふるさと寒く衣うつなり
【歌の背景】その昔、離宮があり、天皇の行幸などもあった吉野の里の晩秋の夜のひなびた情趣の感じられる歌。
【歌 意】その昔、天皇の行幸もあった吉野だが、いまはそのようなことも久しく絶え、山から吹きおろす秋風の中、夜も更けた吉野の古い里に寒々とした、衣打つ砧(きぬた)の音が聞こえてくる。
【作者のプロフィル】藤原雅経は刑部卿頼経の子。母は顕雅のむすめ。建仁・建永のころ、越前介、加賀介を経て、左近衛少将となった。後鳥羽院の勅を受けて、定家らとともに「新古今和歌集」の撰者となった。承久2年に参議となり、同3年(1221)52歳で没。歌学を定家の父俊成に学び、飛鳥井家と称した。彼は多才で、和歌だけでなく、蹴鞠も名手で、兄宗長とともに有名であった
前大僧正慈円
※関白藤原忠通の子
おほけなくうき世の民にもおほふかな
わが立つそまに墨染の袖
【歌の背景】慈円がまだ法印だった時に、僧侶として衆生済度の大任を果たせるかどうかという覚悟が、謙虚に表現されている歌。伝教大師、最澄の歌にならったものとみられる。
【歌 意】私は身のほど知らずにも、この比叡山に住みついて私の墨染めの袖を、つらくて悩み多いこの世の人々の上に覆いかけて、済度しようとしているのだ。
【作者のプロフィル】関白藤原忠通の子。久寿2年(1154)生まれ。11歳で延暦寺座主覚快法親王に師事し、14歳で出家した。初め道快と名のったが、のち慈円と改めた。吉水和尚ともいう。建久3年権大僧正、天台座主となり、前後4度も天台座主になる。若いころ西行に和歌を習った。その著「愚管抄」はわが国最初の史論。後堀河院の嘉禄元年(1225)9月、71歳で没。おくり名を慈鎮(じちん)という。
入道前太政大臣
※藤原公任
花さそふあらしの庭の雪ならで
ふりゆくものはわが身なりけり
【歌の背景】権勢を誇り栄華を極めた藤原公経が「落花」を詠んだ歌。後半の「ふりゆくものはわが身なりけり」のベースには、小野小町の「花のいろはうつりにけりな いたづらに我が身世にふる ながめせしまに」の歌があり、とくに「我が身世にふる」の女人の嘆きを転じて男の感慨に変えたものとみられる。
【歌 意】花を誘うように春の嵐が吹き、花吹雪が舞い庭一面に散り敷く。ただ、降りゆくものは花吹雪ばかりではなく、(春はまた巡り花はまた咲くが)ふりゆく(年をとってゆく)ものは私の身なのだ。
【作者のプロフィル】藤原公経。坊城内大臣実宗の二男。母は前中納言基家のむすめ。彼の妻が源頼朝の妹の夫である中納言能保のむすめのため政治力があった。承久の乱(1221)には幕府方を支持した。後堀川天皇が即位されるとすぐ内大臣となり、貞応元年(1222)8月太政大臣となった。従一位。寛元2年(1244)、74歳で没。西園寺家の祖。
権中納言定家
※藤原定家
来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに
焼くや藻塩の身もこがれつつ
【歌の背景】内裏の歌合のとき、定家が恋人を待つ女の立場になって詠んだもの。掛詞・縁語の無理のない使い方、じりじりとした気持ちで人を待つものの心情を歌った明晰さ、調べの巧みさが感じられる。
【歌 意】いくら待ってもやって来ないあなたを待ち続け、ちょうどあの松帆の浦の夕なぎのころに、海女が焼く藻塩のように、わが身も焦がれるほどに(あなたに)恋い焦がれているのです。
【作者のプロフィル】藤原定家。五条三位俊成の子。母は若狭守親忠のむすめで、美福門院の女房で加賀といった。応保2年に生まれた。早くから歌学者および歌人として、後鳥羽上皇に重んじられ当代第一人者となった「新古今集」撰者の一人。貞永元年権中納言となり、後堀河天皇の勅命で、「新勅撰集」を選ぶ。天福元年剃髪し、明静と称し仁治2年(1241)8月80歳で没。死後、紀貫之とともに歌聖といわれた
従二位家隆
※藤原家隆
風そよぐならの小川のゆふぐれは
みそぎぞ夏のしるしなりける
【歌の背景】寛喜元年(1229)藤原道家のむすめが後堀河天皇に女御として入内するときの屏風に書いた歌の一首。「みそぎ」は禊で、6月と12月の末日に行われたが、ここは6月の末日。旧暦では4・5・6月の3カ月が夏だから、この句は晩夏にあたる。
【歌 意】楢の木の葉が風にそよぐならの小川の夕暮れ時。あたりの風情はすでに秋がやってきたような気配だが、小川であのようにみそぎをしているのを見ると、まだ夏だったのだなあ、と思い知らされる。
【作者のプロフィル】藤原家隆のこと。正二位中納言光隆の子。母は太皇太后亮実兼のむすめ。保元3年(1158)生まれ。俊成に歌を学んだ。その歌才は素晴らしく、後鳥羽院の殊遇を受け定家と並び称された。元久2年(1205)には定家らと「新古今集」の撰者となった。嘉禎元年(1235)従二位に進み、壬生に住んだので「壬生の二位」といわれたが翌年出家して仏性と号した。同3年(1237)80歳でなくなった
後鳥羽院
※第82代天皇
人もをし人も恨めしあぢきなく
世を思ふ故にもの思ふ身は
【歌の背景】後鳥羽院は武家から政権を取り戻すことと、歌を作ることの二つに生涯を懸けた天皇だ。ただ、承久の乱の結果が示すように、天皇の政治上の画策は失敗した。この歌はその苦悶の生涯から自然に生まれた嘆きだ。憎い連中に対する怒り、思うようにならない世の中に対する嘆きが強烈に詠まれている。
【歌 意】世の中をつまらなく思っているので、いろいろと物思いする私は、愛しく思う人もあれば、恨めしく思う人もある。
【作者のプロフィル】第82代の天皇。高倉天皇の第四皇子。諱は尊成。御母七条院。治承4年7月14日生まれ。安徳天皇が平家とともに西国へ落ちられたので、寿永2年(1183)7月20日、4歳で即位。15年間の在位中も譲位後も武家からの政権奪回に腐心し、承久の乱の結果、隠岐に流され、19年の長い寂しい生活の後に、同地で延応元年(1239)2月22日、60歳で崩御。多芸多才、琵琶にも蹴鞠にも優れていたが、とくに歌人として著名。
順徳院
※第84代天皇
百しきや古き軒端のしのぶにも
なほあまりある昔なりけり
【歌の背景】父、後鳥羽院とともに討幕を計って、政権を朝廷に取り戻そうと苦心した天皇の、古き良き昔(王朝の盛時=延喜・天暦の頃か)への生涯の夢が詠み込まれている。
【歌 意】大宮(皇室の御殿)の荒れ果てた古い軒端には忍ぶ草が生えている。それを見るにつけ、政権が王朝にあって皇室の盛んだった古き良き時代のことが偲ばれ、どんなに偲んでも偲び尽くせない。
【作者のプロフィル】第84代の天皇。後鳥羽院の第三皇子。御母は従二位藤原範季のむすめで修明門院重子。建久8年(1197)9月10日誕生。諱は守成。父後鳥羽院のご寵愛が深く、承元4年(1210)土御門院に代わって即位された。後鳥羽院とともに鎌倉幕府討伐を企て承久の乱後、佐渡へ流された。20余年後、仁治3年(1242)9月13日、46歳で崩御。武事、文事いずれにも優れ、早くから父君から歌の道を学ばれ、歌学にも通じており、「八雲御抄」は歌学史の重要文献。
弥生時代の環濠集落跡から鉄生産用の地上炉跡見つかる
長崎県壱岐市教育委員会は12月14日、弥生時代の環濠集落跡「カラカミ遺跡」(壱岐市)で、鉄生産用の地上炉跡が見つかったと発表した。弥生時代の地上炉跡の発見は、国内で初めて。専門家は、弥生時代には明確に確認されていない製錬炉の可能性があると指摘、同市教委は今後も調査を進めるという。同市教委によると、炉跡は弥生時代後期(紀元1~3世紀ごろ)のもので、少なくとも6基が見つかった。床面に直径約80㌢の範囲で焼けた土が広がっており、床面に直接炉をつくる「地上式」と確認した。
国内で確認されている炉は地下式で、カラカミ遺跡の炉は韓国の遺跡にみられる精錬炉跡に似ている。周辺からは鉄製品の加工時に発生する鉄片は見つかっていないため、鉄自体を精錬していた可能性があるという。日本では6世紀後半ごろ鉄の精錬が始まったとされている。壱岐市には『魏志倭人伝』に記された「一支(いき)国」の王都とされる「原の辻遺跡」もあり、カラカミ遺跡も一支国の集落だったとされる。
吉良邸討ち入り時の江戸庶民の話を近江商人が書簡に
江戸時代、元禄15年12月14日(1703年1月30日)に起きた赤穂浪士の吉良上野介邸討ち入りについて、江戸の庶民の間に飛び交った話を書き留めた近江商人の書簡が見つかり、話題になっている。書簡の日付は元禄15年12月15日。縦約20㌢、横約30㌢の折り畳んだ和紙に縦書きされている。差出人や宛先が書かれた包み紙はない。滋賀県日野町の近江商人の旧家に残されていたもので、古物商から購入した人が同町の町立近江日野商人館に鑑定を依頼した。
書簡には、午前2時ごろ、吉良邸前で赤穂浪士が太鼓を打ち鳴らし「火事だ」と騒ぐと、奉公人などとして邸内に潜入していた4人が「かねて心得ていた通りに、門を開けた」などと記され、騒然とした江戸の町の様子が生き生きと伝わってくる。書簡は同館で2014年1月5~30日に公開される。
明治の道頓堀をCGで再現 関西大プロジェクト
関西大学大阪都市遺産研究センター(大阪府吹田市)が、上方文化を発信した明示末~大正初期の大阪・道頓堀のにぎわいをコンピューター・グラフィックス(CG)で再現するプロジェクトを進めている。当時の写真に写った人物を合成し、動画で散策を楽しめる。時代考証も進め、2014年春の公開を予定している。同プロジェクトは2000年に解体された道頓堀のすし店の衝立屏風(縦82㌢、幅162㌢)が同大に寄贈されたのを機に11年1月に始まった。
道頓堀はかつて浪花座や中座など「道頓堀五座」と呼ばれる芝居小屋を中心に栄えた。制作中の動画(8分弱)は堺筋~戎橋間約500㍍の通り沿いの建物や川などが再現される。
旧日本軍の真珠湾攻撃の戦果図4370万円で落札
1941年の旧日本軍による真珠湾攻撃から12月7日で72年となるのを前に、部隊を指揮した淵田美津雄中佐が攻撃後に作製した戦果説明図が6日、ニューヨークで競売に掛けられ、42万5000㌦(約4370万円)で落札された。AP通信が報じた。戦果図は縦約80㌢、横約60㌢の紙に「軍極秘」と赤字で記され、攻撃を受けた米艦船の名前や位置、被弾させた爆弾と魚雷の数などが書き込まれている。落札者は明らかになっていない。
淵田中佐は「トラ・トラ・トラ」(われ奇襲に成功せり)の電文を打ったことで知られる。主催した競売大手のクリスティーズは広報資料で、昭和天皇に図を指差しながら説明したと振り返る淵田中佐の自伝を引用している。
36億年前 火星に湖があった NASA無人探査機で確認
米航空宇宙局(NASA)の研究チームは、約36億年前の火星に微生物などの生命を育むことができる湖があったことを無人探査機「キュリオシティ」で確かめたと12月9日、米科学誌サイエンスに発表した。昨年8月に火星のクレーターに着陸したキュリオシティの観測結果を分析。着陸地点から約450㍍離れた「イエローナイスベイ」と呼ばれる深さ5㍍ほどのくぼ地に、水を湛えた湖が少なくとも数万年にわたって存在したと結論付けた。
微生物の痕跡そのものは見つかっていないが、NASAはさらに生命活動の直接の証拠を探す方針。キュリオシティは着陸地点から緩やかに傾斜しているくぼ地に向けて走りながら、岩石や地形を分析。水が流れたような痕跡を複数見つけたほか、湖に川が流れ込む場所に特有の細かい泥が溜まってできる堆積岩をくぼ地内で確認した。堆積岩は少なくとも4平方㌔の範囲に広がっていた。NASAは、新たな探査機を火星に送り込み、有望なサンプルを地球に持ち帰ることも構想している。
グリーンランドで38億年前の最古の生物の痕跡を発見
東北大の掛川武教授とデンマークのコペンハーゲン大のグループは、グリーンランドの岩石の中から、38億年前の海に暮らしていたとみられる生物の痕跡を発見した。12月8日付の英科学誌ネイチャージオサイエンス(電子版)に発表した。これまでに見つかった最も古い痕跡は34億年前だった。研究グループは2004年、グリーンランド西部イスア周辺にある溶岩の中から、海で堆積してできたとみられる岩石を採取。炭素の結晶を取り出して詳しく分析した。
掛川教授は生物は細菌類のような微生物で、海底に沈殿した岩石が溶岩の熱にさらされたのではないか-と分析している。痕跡が見つかった岩石は37億年前のものだが、長い時間かけてできるため、微生物は38億年前には存在した可能性が高いとみている。
皇室に伝わる古文書など約39万点を所蔵する宮内庁書陵部の図書寮文庫は、歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の題材で知られる赤穂浪士の吉良邸討ち入りに関する資料6点を、12月2日から同庁のホームページ(HP)に初めて掲載する。公開されるのは討ち入り時の「吉良上野介屋敷図」や、大石内蔵助らが徳川幕府に事件の経緯を語った「浅野内匠頭家来□上書等」など江戸後期から幕末に作られた写本。細かい間取りを示した屋敷図には、討ち入り時の各浪士の配置が赤い文字の名前で記されている。
討ち入り事件は、江戸城内で吉良上野介に切りかかり切腹となった赤穂藩主・浅野内匠頭の仇討ちのため、大石内蔵助や堀部安兵衛ら赤穂浪士47人が翌年の元禄15年12月14日(1703年1月30日)、現在の東京都墨田区にあった吉良邸を襲撃した。
京都府教育委員会は11月30日までに、聖武天皇が造営した恭仁宮(京都府木津川市、8世紀前半)の中枢部にあたる朝堂院跡の建物は、木の板で囲った基壇に建てられていたことが分かったと発表した。木製基壇は近江国庁跡(大津市)、遠江国分寺(静岡県磐田市)でも見つかっている。同府教委によると、朝堂院跡で、南北一列に並んだ5つの柱穴を確認。北端の柱だけ他の4本と比べて細いうえ、接するように板を立てた跡とみられる幅20㌢の溝があった。このことから北端の柱は建物があった基壇の土が崩れないように建てられた板を支える束柱で、木製基壇と判断した。
北端の柱穴は50㌢四方、ほかの4本の柱穴は1㍍四方の大きさだった。柱穴は昨年見つかった建物跡の東側の一部とみられ、建物の規模は東西18㍍、南北15㍍のほぼ正方形だったとみられる。当時は細長い建物が一般的で、ちょっと異例だが、聖武天皇が災厄から逃れるために遷都を繰り返しただけに、都の適地選定には限界があって、同府教委では平城宮に比べて狭く、苦肉の策だったのではないか-とみている。
独マックスプランク研究所などのチームは、スペイン洞窟で発見された古い人骨からDNAを取り出し、遺伝子情報を解読することに成功したと、12月5日の英科学誌ネイチャー電子版に発表した。分析の結果、約40万年前の人類と分かった。DNA分析はこれまで、猿人から原人、旧人、現代人へという進化段階のうち求人の段階にとどまっていたが、今回は原人の時代(200万~30万年前)まで遡り、最古の例になるという。
洞窟からは28体分の骨が見つかった。欧州最古の人類で、原人と旧人の中間にあたるハイデルベルク人とみられる。研究チームは保存状態のよい大腿骨から、細胞内の小器官「ミトコンドリア」のDNAを取り出して解読した。これを旧人である欧州のネアンデルタール人(20万~3万年前)とシベリアのデニソワ人(5万~3万年前)のDNAと比較。長い年月の間に生じた変化の量などから洞窟の人類は約40万年前のものと断定した。この人類が」デニソワ人の祖先と70万年前に枝分かれしたことも分かった。
奈良県立橿原考古学研究所は11月20日、国内初の本格的な宮殿付属庭園、飛鳥京跡苑池(奈良県明日香村、7世紀後半)の南池の全体像が明らかになったと発表した。南池の中島はX字形と判明。東西約32㍍、南北約15㍍で、同時期の他の庭には見られない珍しい曲線構造だった。東西の岸からは柱を抜き取った跡が複数見つかった。池の観賞用施設があったらしい。近くの高台では、苑池全体を取り囲んでいたとみられる塀の跡も見つかった。同研究所では、想像以上の規模と景観。日本庭園史の出発点を飾る庭で、当時の総力を傾けた庭だったのだろう-としている。
苑池は1999年の調査で見つかった。池は南北2つあり、南池は東西約65㍍、南北約55㍍で、石積みの島や松のある中島、噴水のような石造物があることは分かっていたが、全体像は不明だった。
イタリアミラノ市などの調査によると、同市の観光名所スフォルツァ城にある、レオナルド・ダビンチの天井画が描かれた部屋の壁の塗料の下に、天井から続くダビンチの絵が隠れていたことが分かった。塗料を剥がして絵を復元する作業が行われており、2015年のミラノ万博開幕に合わせた一般公開が計画されている。ダビンチはミラノ滞在中の1498年、スフォルツァ家のミラノ公ルドビコ・イル・モロの依頼で、スフォルツァ城の「板張りの間」の天井に桑の木などをデザインした装飾画を制作。部屋の壁にも天井画から続く木の幹や根などを描いていたとみられる。
1499年にミラノがフランスに征服され、ルドビコはミラノを脱出したため、部屋の絵画は完成しなかった可能性が高い。18世紀初めには板張りの間はオーストリア軍の厩舎となり、このころにダビンチの絵は白い塗料で塗りつぶされたようだ。
文化審議会は11月15日、俳聖・松尾芭蕉が東北、北陸を旅した「おくのほそ道の風景地」(10県13カ所)などを名勝に指定するよう下村博文文部科学相に答申した。芭蕉は弟子の曾良と古歌にまつわる名所を訪ね「おくのほそ道」をまとめた。芭蕉が俳句を詠んだ名所など往時をしのばせる優れた風景のうち、地元で保全の準備が整った「草加松原」(埼玉県草加市)や「象潟および汐越」(秋田県にかほ市)な。ど13カ所を指定、保護する。今後、順次追加指定を求める方針だ。
また、室町幕府と伊達氏との結び付きを示す「宮脇廃寺跡」(福島県伊達市)など9件を史跡に、吉野川中流の「大歩危」(徳島県三好市)など3件を天然記念物とするよう求めた。近く答申通り告示される見込み。この結果、史跡は1724件、名勝378件、天然記念物1011件となる。このほか、「旧南部氏別邸庭園」(盛岡市)など4件を登録記念物に、「宮津天橋立の文化的景観」(京都府宮津市)など5件を重要文化的景観にすることも求めた。