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唐招提寺の證玄和尚の遺骨容器に弟子の遺骨

唐招提寺の證玄和尚の遺骨容器に弟子の遺骨

奈良の元興寺文化財研究所の調査によると、奈良・唐招提寺の復興に功績のあった鎌倉時代の高僧、證玄(しょうげん)和尚の遺骨を納めた容器の中に少なくとも3人の遺骨が入っていたことが分かり、寺では弟子の遺骨も追葬したとみている。
容器は直径17㌢、高さがおよそ34㌢の銅製で、表面の銘板には證玄の出身地や没年が刻まれていた。容器からは弟子の名前などが墨で書かれた骨も6つ見つかった。容器は当初から追葬を想定してつくられたとみられていて、同じ容器に追葬した例はこの時代では極めて珍しいという。
證玄は鎌倉時代に金堂や講堂の修復を手掛け、43年にわたり長老として寺の伽藍の復興に尽力した高僧。この容器は2019年2月から奈良国立博物館で公開される。

浄土真宗の顕如が秀吉に宛てた書状2通見つかる

浄土真宗の顕如が秀吉に宛てた書状2通見つかる

東京大学史料編纂所によると、浄土真宗の顕如が羽柴秀吉に宛てた書状が2通見つかった。書状は1通が、織田信長が明智光秀に討たれた「本能寺の変」の翌年、天正11(1583)年に書かれたと考えられ、文面は大坂に入ることになった秀吉に対して、あいさつのため使者を送るというもの。もう1通は、秀吉の昇進の祝いに刀を献上するという内容が記され、秀吉が初めて朝廷から位を授かった天正12(1584)年に送られたとみられる。
延暦寺の焼き討ちに象徴されるように、信長は宗教勢力と激しく対立した。顕如とも同様で、これら2通の書状は信長の死後、秀吉に接近しようと顕如が書いたものだ。
調査にあたった同編纂所では、顕如がこの時点で秀吉を”ポスト信長”の有力な人物と認識していたことがはっきりと分かる、貴重な史料だと指摘している。顕如は「石山合戦」でおよそ10年にわたり信長と激しく対立し、和睦の後、拠点としていた大坂の石山本願寺を出て、紀伊に移った経緯がある。

快慶の一番弟子・行快作の仏像「木造阿弥陀三尊像」発見

快慶の一番弟子・行快作の仏像「木造阿弥陀三尊像」発見

京都国立博物館の調査によると、京都市の聞名寺が所蔵する木彫りの仏像について、鎌倉時代の仏師、快慶の一番弟子で現存する作品の少ない行快が手掛けたものであることが分かった。
今回、行快作と判明したのは「木造阿弥陀三尊像」で、高さがそれぞれ80㌢の1体と60㌢の2体の木彫りの仏像。像を台座に固定するためのほぞに、墨で行快の署名が見つかった。行快は現存する作品が少なく、貴重な発見だという。

天皇誕生日の一般参賀に平成最多の8万2,850人

天皇誕生日の一般参賀に平成最多の8万2,850人

天皇陛下の85歳の誕生日を祝う一般参賀が12月23日、皇居で行われた。2019年4月末の退位を控え、誕生日の一般参賀は今回が最後。そうした区切りや改元・時代の移り変わりを意識して、参賀の列に加わった人も多く、記帳を含め平成30年間で最多の8万2,850人が皇居を訪れた。
ちなみに2016年は3万8,588人、2017年は5万2,300人だった。宮内庁は今年初めて2台の大型モニターを設置し、会場の端からでも陛下の様子が分かるようにした。

奈良「西安寺」跡で金堂跡 四天王寺式伽藍配置判明

奈良「西安寺」跡で金堂跡 四天王寺式伽藍配置判明

奈良県王寺町教育委員会などの調査によると、聖徳太子が建立したとされる同町の「西安寺」の跡で、塔の跡の北側から金堂の跡が見つかり、建物の配置は同じ聖徳太子ゆかりの四天王寺(大阪市)と同じであることが分かった。
今回見つかったのは金堂の土台である「基壇」の一部と大量の瓦。瓦の特徴などから、金堂は7世紀後半から8世紀初頭に建てられたとみられ、基壇の大きさは東西が約15㍍、南北が約12㍍と推測されている。また、正面は南向きであることが分かった。
同町教育委員会は、金堂と塔の位置関係などから寺の建物の配置「伽藍配置」は、同じ聖徳太子ゆかりの寺、四天王寺と同じで、塔の真北に金堂を建てた「四天王寺式」とみている。
西安寺は現存していないが、聖徳太子が建立したと文献に記されている寺。

神戸の生誕地に嘉納治五郎翁の石碑建立

神戸の生誕地に嘉納治五郎の石碑建立

「柔道の父」と呼ばれる嘉納治五郎の功績を称えようと、現在の神戸市東灘区、幕末の1860年当時の御影村に、西端の場所を示す石碑が建立され、12月20日披露された。御影石でつくられた石碑は高さ1.4㍍、幅2㍍、横書きで「嘉納治五郎翁 生誕地」と刻まれている。
嘉納は日本古来の柔術を「柔道」として発展、普及させた。また、日本人初の国際オリンピック委員としても活躍し、戦争の影響で”幻”となった1940年の東京オリンピックの招致に尽力した。