「壬生狂言」の衣装を40年ぶり新調 4月公演で披露
京都市中京区の壬生寺はこのほど、毎年節分と春、秋に同寺で上演される国の重要無形民俗文化財「壬生狂言」の、約40年ぶりに新調された衣装を報道陣に公開した。4月29日の公演で初披露される。新調されたのは人気演目「ほうらくわり」に登場する役人の衣装で、素襖長袴(すおうながばかま)と呼ばれる。上半身に羽織る素襖はナスのような深い紺色に染められている。
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吉田松陰の辞世の句見つかる 長野修繕の手紙の巻物から
吉田松陰の辞世の句見つかる 長野修繕の手紙の巻物から
井伊美術館(京都市東山区)は1月23日、幕末の思想家、吉田松陰(1830~59年)の辞世の句が見つかったと発表した。辞世の句は縦27.5㌢、横19.5㌢の和紙に「此程に思定めし出立はけふきく古曽嬉しかりける(これほどに おもいさだめし いでたちは きょうこそ うれしかりける)」(死を覚悟しており、今日やっとその日が来て嬉しい、の意)と記されていた。
この辞世は井伊直弼(1815~60年)の家臣、長野主膳の手紙の巻物に貼り付けられていたという。文言は家族宛ての辞世の句と同じで、専門家は松陰が同じ句を複数の人に宛てて書いたと考えられるとしている。
松陰は当時の大老、井伊直弼により断行された「安政の大獄」で、長州・萩から江戸に送られ、伝馬町の牢内で首を落とされた。松陰の辞世として、一般に広く知られている句に、「身はたとい 武蔵の野辺に朽ちるとも 留めおかまし大和魂」がある。松陰は筆まめで、獄中でも家族や弟子宛てに手紙などを書いていたことで知られている。
弥生時代前期の水田跡から玄米出土 奈良県の秋津遺跡
弥生時代前期の水田跡から玄米出土 奈良県の秋津遺跡
奈良県立橿原考古学研究所は1月19日、弥生時代前期(約2400年前)では全国最大の水田跡、秋津遺跡(奈良県御所市)で当時のものとみられる玄米が出土したと発表した。玄米は11粒あり、当時の耕作土の中から30㌢ほどの範囲内でまとまって出土した。大きさは約4㍉で色は茶色。外見上は長粒種ではないという。また胚が残存しており、ほぼ完全な状態という。
弥生時代のコメは各地で見つかっているが、ほとんどが真っ黒に劣化した状態で「炭化」と呼ばれ、今回ほど保存状態の良い例は極めて珍しいという。泥で包まれて酸素が遮断されるなど様々な条件が重なったとみられる。今後DNAなどを分析して品種や性質を詳しく調べる方針で、収量をはじめ初期稲作の実態解明につながると期待される。
三重県鈴鹿市で240万年前の新種のゾウの化石発見
三重県鈴鹿市で240万年前の新種のゾウの化石発見
三重県は1月20日、鈴鹿市で約240万年前(更新世初頭)の新種とみられるゾウの牙や臼歯などの化石を発見したと発表した。この時期のゾウの化石がまとまった形で出てくるのは初めてで、進化の過程が明らかになる可能性がある。日本には大陸と地続きだったころゾウがいたが、約2万年前に絶滅した。昨年5月、同市の川岸で、散歩中の男性が牙の根元の化石を発見。その後の調査で臼歯やあばら骨なども発掘された。
国内ではこれまで、300万~430万年前に生息していた国内最大級のミエゾウ(体高約4㍍)や、ミエゾウを祖先種とし、120万~200万年前に生息していた小型のアケボノゾウ(体高約2㍍)の化石が多く発見されているが、その中間の時代の地層からは十数点しか見つかっていなかった。化石は、4月に開館する三重県総合博物館で7~9月に公開する予定。
「越前和紙」民俗文化財に 山形の大松明行事も 文化審
「越前和紙」民俗文化財に 山形の大松明行事も 文化審
文化審議会は1月17日、和紙の伝統的な産地、福井県越前市の「越前和紙の製作用具おいび製品」を重要有形民俗文化財に指定するよう下村博文文部科学相に答申した。新年を迎えるための祭礼「松例祭の大松明行事」(山形県鶴岡市)など5件も重要無形民俗文化財に指定するよう求めた。近く答申通り指定され、重要有形民俗文化財は214件、重要無形民俗文化財は286件になる。
このほか「常陸大子のコンニャク栽培用具および加工用具」(茨城県大子町)など4件を登録有形民俗文化財、また「植柳の盆踊」(熊本県八代市)など5件を、消滅の恐れがあるため記録を残すべき無形民俗文化財にするよう、それぞれ答申した。
初の復元修理終え秀吉とねねの木像公開 京都・高台寺
滋賀県の豪商「四居家」の土蔵から江戸時代の小判
フリーマーケットで7㌦の絵 実はルノワールの作品
フリーマーケットで7㌦の絵 実はルノワールの作品
米南部バージニア州の地元裁判所は1月10日、同州の女性がフリーマーケットで7㌦(約730円)で購入したとする絵が、60年以上前に美術館から盗まれたフランスの印象派画家、ルノワールの作品であることが分かり、美術館への返還を命じる判決を言い渡した。ロイター通信などが報じた。絵は1879年に描かれたセーヌ河畔の風景画。1951年にメリーランド州ボルティモアの美術館から盗まれた。この絵は少なくとも2万2000㌦相当の価値があるとされる。
女性は2009年に地元のフリーマーケットで買ったと主張。ルノワールのサイン入りだったが、本物だと気付かず、ゴミ袋に入れて保管していたという。ただ、この絵の入手の経緯を疑問視する見方もある。
難波宮に大規模回廊跡 奈良時代に女帝が滞在した新宮か
大坂城再築用の石材の船着き場遺構 小豆島で確認
大坂城再築用の石材の船着き場遺構 小豆島で確認
同志社大の文化遺産情報科学研究センターによると、江戸時代の大坂城再築用の石材を、潮の干満を利用して積み出したとみられる船着き場の遺構が、香川県の小豆島で確認された。積み出し港はこれまで見つかっておらず、巨石の搬送方法の解明につながる発見という。大坂城は豊臣氏が滅んだ1615年の大坂夏の陣で焼けた後、徳川幕府が諸大名に命じて再築を開始、29年に完成した。多数の石材が使われ、小豆島など瀬戸内海の島々から切り出されたことが分かっている。ただ、最大約100㌧ともいわれる巨石を積み出した方法は不明だ。
今回同センターが小豆島周辺の海底調査を行ったところ、形状などから2つの岩は人工的に置かれたものと判明。周辺には桟橋を渡すために土台として置いたり、積み残したりしたとみられる石計約50個が散乱しているのも見つかり、2つの岩が石を積み出す船着き場だったと判断した。満潮時に船を2つの岩の間に挟み柱に係留した後、干潮時に桟橋を岩まで渡して石材を船まで運び、再び満潮になったときに出航したとみられる。
姫路で黒田官兵衛「大河ドラマ館」1/12オープン
1/18に古事記・日本書紀にゆかりの5県知事サミット
坂上田村麻呂造営の国史跡の堀誤って掘削 岩手県
伊の古代都市ポンペイ市民は多様な食生活をしていた
大河ドラマ「軍師 官兵衛」初回平均視聴率は18.9%
大河ドラマ「軍師 官兵衛」初回平均視聴率は18.9%
2014年1月5日に放映されたNHK大河ドラマ「軍師 官兵衛」の第1回の平均視聴率は18.9%(関東地区、ビデオリサーチ調べ)だった。関西地区は23.0%だった。前年の綾瀬はるか(28)主演の「八重の桜」は初回21.4%だったが、これを下回った。東京地区ではここ10年で。12年の「平清盛」(17.3%)に次いで、2番目に低い数字のスタートとなった。戦国時代、織田信長が本能寺の変で自刃した後、急遽、頭角を現し、一気に天下統一の道を突き進んだ豊臣秀吉。この太閤にまで上り詰める秀吉を支えた天才軍師・黒田官兵衛孝高(よしたか)の生涯を、「V6」の岡田准一(33)を主役に配し描く。
京都・下鴨神社で新春恒例「蹴鞠初め」巧みな技披露
隠岐で1200万年前の地層から二枚貝の新種の化石発見
隠岐で1200万年前の地層から二枚貝の新種の化石発見
島根大と北海道教育大の合同チームは12月28日、島根県・隠岐諸島の1200万年前の地層から二枚貝の新種2種の化石が見つかったと発表した。「オキノホタテ」と「ゴダイゴソデガイ」と命名し、2014年1月発行の日本古生物学会の国際誌に掲載される。
オキノホタテは大きさ2~8㌢で、ヤベホタテガイ属では最古の種となる。従来種に比べ、貝殻の扇状の広がりの角度が大きいのが特徴。ゴダイゴソデガイは、隠岐へ流罪になった後醍醐天皇にちなんで名付けられた。大きさ約1㌢と従来種より小さく、殻の模様が少ないことから新種と断定した。今回の2種は比較的水温の低い海の生息したとされる。当時は大陸と日本列島の間が隆起して陸続きになりつつあった時代で、対馬海峡から日本海に流れ込む暖流が少なくなり、水温が下がるなど環境が変化したと考えられるという。
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群馬の金井東裏遺跡で骨製小札を発見 よろいの一部か
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襖絵10枚が円山応挙の作と確認 京都の美術館で公開
後桜町天皇しのび式年祭 歴代最後の女帝200回目の命日
後桜町天皇しのび式年祭 歴代最後の女帝200回目の命日
後桜町天皇(1740~1813年)が亡くなって200回目の命日祭「式年祭」が12月24日、京都市東山区の泉涌寺の月輪陵(つきのわのみささぎ)と皇居で行われた。後桜町天皇は江戸時代中期の1762年、弟の桃園天皇が急逝したため、23歳で皇位を継承。桃園天皇の5歳の長男(後の後桃園天皇)を教育し、1780年に譲位した。歴史上、8人いた女帝のうち最後の女帝で、「大嘗祭(だいじょうさい)」を女帝として奈良時代の称徳天皇以来、約1000年ぶりに実施。和歌に秀で、約2000首を残した。生涯結婚せず、74歳で亡くなった。
この日は月輪陵に入る檜皮(ひわだ)ぶきの唐門が特別に開かれ、そのすぐ下の儀式場で午前10時から宮内庁式部職楽部の楽師が笛や笙(しょう)、篳篥(ひちりき)で奏楽を開始。供物台に米や酒、餅、海の幸の鯛と昆布、里の幸の大根とにんじん、りんご、ようかん、塩、水を載せた三方9台が運ばれ、祭祀を執り行う掌典が祝詞を奏上した。
続いて、天皇陛下からの供物として絹の反物が捧げられ、陛下の「ご祭文」を黒色の装束姿の勅使が読み上げた。関係者ら約40人が参列し、儀式は約30分で終了した。皇居でも天皇陛下らが拝礼された。
1300年前の東北最古級?の木簡出土 製鉄作業者の名簿
1300年前の東北最古級?の木簡出土 製鉄作業者の名簿
宮城県教育委員会によると、宮城県山元町の熊の作遺跡から、製鉄作業に従事していた人を管理する名簿とみられる約1300年前の木簡が見つかった。東北地方で出土した木管の中では最古級という。木簡は一部が破損。上に「信夫郡安岐里人」、その下に「大伴部法麻呂」など4人の男性の名前が書かれていた。信夫郡安岐里は、福島市と福島県川俣町の境界付近に当たる地名。大宝律令の郡里制に基づく表記から、制度が施行されていた701~717年の木簡とみられる。
遺跡では製鉄工房跡も確認されており、約40㌔離れた安岐里から製鉄作業に動員された人を管理する名簿と推測されるという。同県教委は8世紀初めに、律令制度による支配がこの地域に及んでいたことを示す貴重な史料としている。木簡は2014年1月26日まで山元町歴史民俗資料館で展示される。
私説 小倉百人一首 No.1 天智天皇
天智天皇
秋の田のかりほの庵の苫をあらみ
わが衣手は露にぬれつつ
【歌の背景】天皇が農夫の秋の田を刈る前の労苦を思いやって詠まれた歌。ただ、歌の調子は決して奈良時代の万葉調ではなく、平安朝初期のもの。万葉の歌から派生し、天智天皇御製として伝えられてきた間に、平安朝の歌風の“洗礼”を受け、変化したとみられる。
【歌 意】秋の豊かに実った稲を刈り干すための仮小屋は、その屋根を葺いた苫の目が粗いので、そこで夜番をする私の衣の袖はその隙間から漏れ落ちる露に、いつも濡れ通しである。
【作者のプロフィル】第38代の天皇。舒明天皇の皇子。母は皇極天皇。中大兄皇子として、藤原鎌足らと蘇我入鹿をたおし、大化の改新を断行。斉明天皇の崩御6年で都を近江の大津に遷し、翌年即位。在位4年(672)目に46歳で亡くなった。斉明天皇の6年5月8日(陰暦)、初めて水時計を作られた。6月10日(陽暦)を「時の記念日」としているのは、これに基づいている。
私説 小倉百人一首 No.2 持統天皇
持統天皇
春過ぎて夏来にけらし白妙の
ころもほすてふ天の香具山
【歌の背景】「来たるらし」と「来にけらし」、「ほしたり」と「ほすてふ」との差は万葉調と新古今調との差である。
【歌 意】まだ春だと思っているうちに、いつのまにか春は過ぎて、もう夏が来たようだ。天の香具山では新しい季節のしるしに白い衣を干しているということだ。
【作者のプロフィル】天智天皇の第2皇女で、_野讃良(うののさらら)皇女といった。草壁皇子の母。天武天皇の皇后で、天武崩御後の4年で即位(690)、都を藤原京に遷す(694)。在位7年で文武天皇に皇位をを譲り、太上天皇と尊称された。58歳で亡くなった。
私説 小倉百人一首 No.3 柿本人麻呂
柿本人麻呂
あしひきの山鳥の尾のしだり尾の
ながながし夜をひとりかも寝む
【歌の背景】枕詞と序を重ねていって「長い」という感じを表現、それを「ながながし夜」で受けて、いかにものろのろした時間の流れを感じさせる。これがまた、ひとり寝の不満を恨めしく訴えており、全体として内容にふさわしい表現となっている。
【歌意】山鳥の尾の、しだれ尾のように長い長い秋の夜を、恋しい人にも会えないで、たった一人で寝ることであろうか。
【作者のプロフィル】生没年、経歴とも不詳。持統・文武朝の宮廷歌人。後世、歌聖といわれた。柿本氏は和爾氏、小野氏の同族とされるが、人麻呂自身は五位以上に進んだ官歴がなく、都では大舎人、地方では四国や石見(島根県)に赴任したことが記録に残っている。
私説 小倉百人一首 No.4 山部赤人
山部赤人
田子の浦に打ち出でて見れば白妙の
富士の高嶺に雪はふりつつ
【歌の背景】万葉集では「田子の浦ゆうち出でて見ればま白にぞ不尽の高値に雪は降りける」とある。第三句の「ま白にぞ」には「しろたへの」という表現よりも、白さの実感が強く、結句も「雪は降りける」の方が描写が自然で感動も強い。「新古今和歌集」に収録するときか、あるいはそれ以前に、滑らかな口調になってしまったようだ。
【歌意】田子の浦に出て見ると、真っ白な富士の高い峰に雪が積もっている。実にすばらしい眺めだ。
【作者のプロフィル】生没は不明。宮廷歌人。赤人の作歌年代は神亀元年(724)から天平8年(736)までであり、聖武天皇の天平年間まで生存したようだ。赤人の歌は叙景に特徴があり、その整然とした端正な自然描写に秀でている。
この歌は万葉集の中でも最も有名な長歌「天地の 分れし時ゆ 神さびて高く貴き 駿河なる 不尽の高嶺を 天の原 ふり放け見れば 渡る日の 影も隠ろひ 照る月の 光も見えず 白雪も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語りつぎ 言ひつぎ行かむ 不尽の高嶺は」の反歌。
私説 小倉百人一首 No.5 猿丸大夫
猿丸大夫
※伝説の人で生涯は不明。
おくやまに紅葉踏み分け鳴く鹿の
声聞く時ぞ秋はかなしき
【歌の背景】この歌は『古今和歌集』で「詠み人知らず」とある。なぜ百人一首で猿丸大夫の作となったのか?それは平安中期、第一級の知識人であった藤原公任が猿丸大夫として『三十六撰』に選んだからだ。
【歌 意】人里離れた寂しい山で、散った一面の紅葉を踏み分けるように、山奥に入っていく牡鹿の妻恋いの声を聞くとき、もの悲しい秋がとりわけ悲しく思われる。
【作者のプロフィル】伝説の人で、その生涯は不明。奈良朝末期か平安初期の人と思われる。個人歌集として『猿丸大夫集』があるが、内容は『万葉集』抄出と『古今和歌集』読み人知らずの歌で、これが猿丸大夫と特定できるものは一首もない。
私説 小倉百人一首 No.6 中納言家持
中納言家持
※大伴家持
かささぎの渡せる橋におく霜の
白さを見れば夜ぞふけにける
【歌の背景】7月7日、七夕の夜、鵲(かささぎ)という鳥が翼を広げて天の川に橋を作り、牽牛・織女の両星を合わせるという伝説がある。寒い冬の夜に仰ぎ見る天の川の寒々とした光と、宮中御殿の階の上の真っ白な霜とが重なり合って、凍りつくような冬の深夜を感じさせる。
【歌意】鵲が天の川に渡すという橋に例えられる宮中の階。そこに降っている霜の真っ白いさまを見ていると、本当に夜も更けてしまったことだ。
【作者のプロフィル】大伴家持。父は旅人。日本古代を代表する名族の嫡流でありながら、奈良後期の大伴・藤原両氏の対立の中で政争に巻き込まれ不遇を繰り返した。それは、とりわけ天平勝宝8年(756)に左大臣橘諸兄が引退し、聖武天皇が崩御後、急速に権勢拡大した藤原氏に抗しきれず顕著になった。止めは早良親王の廃太子事件に巻き込まれたことで、持節征東将軍として陸奥の多賀城の政庁で没した後には、官位剥奪、遺骨の埋葬さえ許されぬ屈辱を受けている。官位は従三位中納言まで進んだ。
万葉集の最後を飾る代表的歌人。万葉集が幅広い層から、また反政府的な歌を含めて様々な秀歌が収録されているのは、編纂者の家持の存在が大きかったようだ。
私説 小倉百人一首 No.7 安倍仲麿
安倍仲麿
あまの原ふりさけ見れば春日なる
みかさの山に出でし月かも
【歌の背景】仲麿は唐へ留学生として派遣され、長く唐朝に仕え高位に出世した。しかし、望郷の思いが強くなりしばしば帰国を願い出たが、唐朝の許可が下りなかった。35年後、遣唐使が行ったとき、その一行と一緒に帰朝しようとして明州(寧波)の海辺で唐の友人たちと別れの宴を催した。夜になり、月が非常に美しかったのを見て詠んだのがこの歌。
【歌 意】大空をはるかに眺めやると月が昇っているが、あれは故国の都の春日にある三笠山に出た月と同じ月なのだなあ。
【作者のプロフィル】父の名は安倍船守。元正天皇の霊亀2年(716)、吉備真備、丹治比県守らとともに、玄宗皇帝時代の唐へ16歳で遣唐留学生として入唐。唐に学んだ後、名を仲満また、朝衡と改め玄宗に仕えた。孝謙天皇の天平勝宝4年(752)、遣唐使の藤原清河らが入唐した時、翌年一緒に帰朝しようとして安南に漂流。再び唐に戻り、粛宗皇帝に仕え、安南都護その他の大官に任じられ、代崇皇帝の大暦5年(770、称徳天皇の神護景雲4年)、正月唐で死んだ。70歳。わずか16歳で日本を離れ人生の大半、54年にわたり唐代の中国で過ごした。
私説 小倉百人一首 No.8 喜撰法師
喜撰法師
わが庵は都のたつみしかぞ住む
世をうじ山とひとはいふなり
【歌の背景】宇治山に庵を結んで閉居している作者が、恐らく庵の場所を尋ねられて、答えて詠んだものと思われる。法師の洒脱な精神が感じられる。
【歌 意】私の庵は都の東南の宇治山にあって、鹿が棲んでいる。そこに濁りのない心境で暮らしている。ところが、口さがない世間の人々は私が世の中を住みづらく思って、隠れ住んでいるなどと噂しているらしい。
【作者のプロフィル】伝記は不明。六歌仙の一人。仁明天皇(840ごろ)から宇多天皇(890ごろ)の人で、京都の東南宇治山に隠遁生活をしていた僧と思われる。
私説 小倉百人一首 No.9 小野小町
小野小町
花の色はうつりにけりないたづらに
わが身世にふるながめせしまに
【歌の背景】桜の花の盛り、降り続く長雨に、家に引きこもり物思いにふけっているうちに、花の色のあせてしまったことに気づき、同時にわが容色の衰えを嘆いた歌。
【歌意】桜の花はすっかり色あせてしまったことだ。降り続いた長雨のために、家に引きこもって、物思いにふけっているうちに。そして、私の容色も衰えてしまった。恋の物思いに虚しく人生を過ごしていた間に。
【作者のプロフィル】小野小町といえば美人の代名詞として使われるが。その確かな伝記はない。出羽国の郡司小野良真のむすめで、小野篁の孫と伝えられる。
歌風は情熱的であり奔放。恋に生涯を懸けた美人として、多くの伝説が伝えられている。六歌仙の一人に数えられており、在原業平、僧正遍昭、文屋康秀、凡河内躬恒らと歌を贈答した。
私説 小倉百人一首 No.10 蝉 丸
蝉 丸
※伝説中の人物。
これやこの行くも帰るも別れては
知るも知らぬも逢坂の関
【歌の背景】逢坂の関は山城国から近江国へ出る道にある関所で、美濃国の不破の関、伊勢国の鈴鹿の関、越前国の愛発(あらち)の関の、いわゆる三関のうち愛発の関に代わって三関の一つになった。のち「関」といえば逢坂を指すほど名高くなった。したがって交通量も多く、都から地方へ、地方から都への人の行き来は激しかったことであろう。ここを往来する人たちの姿を捉えて対句と、掛詞を使い、調子よく歌い上げている。
【歌 意】これがすなわち、都から地方へ行くものも、地方から都へ帰るものも互いに別れては逢い、また知っているものも知らないものも逢うという逢坂の関ですよ。
【作者のプロフィル】伝説中の人物で、その生涯の確かなことはほとんど分からない。「今昔物語集」では逢坂の関に住む盲人で雑色として式部卿の宮に仕えていた間に聞き覚えた琵琶の秘曲を源博雅に伝授したと語られ、鴨長明の「無名抄」には出家前の遍昭が和琴を習いに関の蝉丸のもとに通ったと伝えるが、博雅と遍昭では時代に隔たりがありすぎ信憑性に欠ける。ただ、それだけに蝉丸が古くから伝承的人物だったことをうかがわせる。
私説 小倉百人一首 No.11 参議 篁
参議 篁
※小野 篁
わたのはら八十島かけて漕ぎ出でぬと
人には告げよあまのつりぶね
【歌の背景】仁明天皇の承和年間に乗船のことについて、遣唐大使と争ったため、嵯峨天皇の怒りを受け、官位を剥奪され隠岐島へ流された。これは、その島流しのため、難波から船で出発するとき詠んだもの。
【歌 意】広い大海原を多くの島々の間を通り過ぎながら、(私の舟が)沖へ漕ぎ出していったと、(都にいる)あの人にだけは伝えてくれよ、波に浮かぶ海人の釣り舟よ。
【作者のプロフィル】参議小野峯守の長男。淳和天皇の承和元年、遣唐副使として出発したが、暴風に遭って引き返し、その後再三の出発も果たさなかった。彼は病気と称して役を辞し、同5年「西道謡」という詩を作り、遣唐使のことを批判したので嵯峨上皇の咎めを受け、隠岐に流された。承和7年、文才を惜しまれて召し返され、14年参議になる。仁寿2年(852)12月没。51歳。
私説 小倉百人一首 No.12 僧正遍昭
僧正遍昭
天つ風雲のかよひ路吹きとぢよ
乙女の姿しばしとどめむ
【歌の背景】毎年11月、宮中で催される豊明節会の折り、公卿や国司の未婚の美女を召して舞を舞わせた。その舞姫をみて天女を連想して詠んだもの。
【歌 意】空を吹く風よ、(天女が往来するという)雲の中の通り道を、雲を吹き寄せて閉じてくれ。あの天女たちの華やかな姿をいましばらく地上にとどめておきたいから。
【作者のプロフィル】大納言良岑安世の八男。素性の父。安世は桓武天皇の皇子で、良岑の姓を賜った。遍昭は出家してからの名で、それ以前は良岑宗貞と称していた。仁明天皇の恩顧のもとに蔵人頭にまで至ったが、35歳で帝の崩御に遭い出家した。以後各地で修行の後、叡山の慈覚大師(円仁)、智証大師(円珍)に師事して伝法灌頂を受け、権僧正、僧正に至り、元慶寺座主、花山僧正と呼ばれた。75歳で没。
私説 小倉百人一首 No.13 陽成院
陽成院
※第57代天皇
筑波嶺のみねより落つるみなの川
恋ぞつもりて淵となりぬる
【歌の背景】光孝天皇の第一皇女綏子内親王に宛てて詠んだ恋の歌。光孝天皇は55歳の高齢で陽成天皇に代わった人。綏子内親王はのち陽成妃になっているから、この恋は成就している。
【歌 意】古来、男が歌いかけ女が答えられなかった時は、女が男の一夜妻にならなければならなかったという歌垣の山、筑波山。その筑波山の峰から落ちる男女川は、その水が積もり積もって深い淵となってしまうが、そのように私のあなたへの激しい恋の思いも積もり積もって深い淵のようなものになってしまったことだ。
【作者のプロフィル】第57代の天皇。名は貞明。清和天皇の第一皇子。貞観10年(868)12月生まれ。生母は藤原長良のむすめ高子すなわち二条の后で、藤原基経の妹。元慶元年、9歳で即位。外戚の基経が摂政となって政治を執った。病気のため同8年、光孝天皇に譲位し、陽成院に住む。太上天皇の尊号を贈られた。基経をはじめ藤原総領家に疎まれ8年の在位だったが、結局、退位後60数年を生き、82歳という前例のない長寿を生きた。
私説 小倉百人一首 No.14 河原左大臣
河原左大臣
※源 融(とおる)
みちのくのしのぶもぢずりたれ故に
乱れそめにし我ならなくに
【歌の背景】上二句「みちのくのしのぶもぢずり」は、「乱れそめにし」というための序詞。したがって、陸奥の信夫の郡でつくられたという信夫もぢずりは当時、京ではおそらくもてはやされたのであろう。恋の歌のやりとりで、自分の不実をなじる相手を逆にやんわりとなじる駈け引きの歌。
【歌 意】陸奥の信夫郡から産出するもじ摺りの衣の乱れ模様のように、私の心は乱れ始めた。一体誰のせいでこのように心が乱れ始めたのでしょう。それはあなたのせいです。(それなのに私の心をお疑いとは心外です。)
【作者のプロフィル】源融のこと。嵯峨天皇の第十二皇子。母は正四位下大原金子。承和5年臣籍に降り、源姓となる。皇位への思いままならぬ無念さを晴らすごとく、巨富に任せて邸宅河原院や嵯峨山荘棲霞観を営み、豪奢な生活を送った。貞観の初め従三位、同14年左大臣。陽成天皇元慶元年に正二位となる。宇多天皇のとき従一位まで昇り、寛平7年(895)8月、74歳で没。
私説 小倉百人一首 No.15 光孝天皇
光孝天皇
君がため春の野に出でて若菜摘む
わが衣手に雪はふりつつ
【歌の背景】光孝天皇がまだ即位する前の時康親王といったころ詠んだ歌。自分で若菜を摘んで贈ったとも、贈った日にちょうど雪が降っていたのでこのように詠んだともいわれている。ただ、その若菜および歌を届けた相手の人とは誰か?定かではないが、藤原基経ではないかといわれる。基経は10代という若い陽成天皇を帝位から下ろし、55歳という高齢の光孝天皇に代えた“実力者”だけに、そう考えると恋歌のかたちを取りながら、別の意味を含んだ歌だ。
【歌 意】あなたに差し上げたくて、春の野に出て、かつては神に捧げたという若菜を摘んでいますと、私の衣の袖に雪はしきりに降ってきます。
【作者のプロフィル】第58代の天皇。名は時康。仁明天皇の第三皇子で、御母は贈皇太后藤原沢子。幼少から経書史書をよく読み、賢く穏やかなひととなり だったので、祖母の橘太后に可愛がられた。55歳という高齢で即位し58歳で亡くなった。
私説 小倉百人一首 No.16 中納言行平
中納言行平
※在原行平。業平の兄。
たち別れいなばの山の峰におふる
まつとしきかばいまかへりこむ
【歌の背景】因幡守に任じられた行平が、任地へ赴くため京を出立するにあたり、親しい人に名残りを惜しんで詠んだもの。「因幡」の国にある「稲羽」山、「松」と「待つ」というように掛詞を二つ使っているところにおもしろさがある。
【歌意】私はこうしてあなたと別れて行きます。でも、あの稲羽山の峰に生えている松の「待つ」という言葉のように、あなたが私を待っていると聞いたら、すぐにも帰って来よう。
【作者のプロフィル】在原行平。平城天皇の皇子・阿保親王の第二子。母伊豆内親王は桓武天皇の皇女。天長年間(826)在原氏として臣籍に下る。業平の兄。経済の才能があり治績をあげた。天慶年間、中納言正三位となり、寛平年間(893)76歳でなくなる。仁明・文徳・清和・陽成・光孝・宇多の六朝に仕えた。
私説 小倉百人一首 No.17 在原業平朝臣
在原業平朝臣
ちはやぶる神代もきかず竜田川
からくれなゐに水くくるとは
【歌の背景】二条の后・藤原高子がまだ清和天皇の女御で、東宮(後の陽成天皇)の御息所といわれていたとき、屏風に龍田川に散った紅葉が流れている絵が描かれているのを題にして詠んだ。
【歌意】いろいろ不思議なことのあった神々が住んでいたと想像された時代においても聞いたことがない。たつ田川の水をこんなに真っ赤にくくり染め(絞り染め)にするとは。
【作者のプロフィル】在原業平は現代風にいえば名うてのプレーボーイだった。彼の恋の相手は二条の后・藤原高子と恬子内親王。藤原高子は清和天皇の后であり、陽成天皇の母である。恬子内親王は文徳天皇の皇女であり、伊勢神宮の斎宮として男性との一切の交渉を禁じられていた女性である。このほか、清和天皇の后であり、貞数親王の母である姪の在原文子、仁明天皇の皇后で、文徳天皇の母である藤原順子らもアバンチュールの相手と噂された。いずれも高貴な女性であり、すべて禁忌(タブー)の不倫だ。
彼は平城天皇の子、阿保親王の第五子であり、その母伊豆内親王は桓武天皇の皇女。したがって、本来ならこの平城天皇の系譜に彼の皇位は伝えられるべきであった。しかし、「薬子の乱」によって一門は失脚し、子供たちもやむなく臣籍に下り「在原」姓を名のったというわけだ。
そんな不遇の生い立ちがアバンチュールの相手として、何事もなければ社会的に同列に並んでいたであろう天皇の后妃たちを選び、彼をタブーの恋に駆り立てたのではないだろうか。
「伊勢物語」の作者。六歌仙に一人。
私説 小倉百人一首 No.18 藤原敏行朝臣
藤原敏行朝臣
すみの江の岸による浪よるさへや
ゆめのかよひ路人めよくらむ
【歌の背景】宇多天皇の母后班子親王の御殿で催された歌合に詠んだ歌。「住の江の岸による浪」までは「夜」を言い出すための序として使われている。住の江は住吉の古称。
【歌 意】かつて難波の都があり殷賑を極めた住の江の浦。そこに寄せる波のように、あなたに寄り添い一つになりたいと願っている私なのに、昼間実際に通って行く道でならともかく、夜でさえも夢の中で通って行く道においてまで、どうしてこんなに人目を避けるのであろうか。
【作者のプロフィル】従四位下陸奥出羽按察使富士麿の長男。母は刑部卿紀名虎のむすめで、妻が在原業平の妻の妹だったことから、業平らのグループと親しかった。仁和2年6月に従六位上、左兵衛権佐、右近少将、さらに右衛門督になる。彼の代表作は『古今和歌集』に収められている「秋きぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞ驚かれぬる」で、優れた歌として名高い。没年については二説ある。昌泰4年(901)、延喜7年(907)のいずれか不明。若死にだったようだ。
私説 小倉百人一首 No.19 伊 勢
伊 勢
※伊勢守藤原継蔭のむすめ。
難波潟みじかき芦のふしの間も
逢はでこの世を過ぐしてよとや
【歌の背景】宇多天皇の皇后温子の兄、藤原仲平との恋を詠んだもの。恋人に対する思慕と怨恨とが入り混じった、恋する女性の心情を詠んでいる。
【歌意】難波の潟に生えているあの芦の短い節の間ほどのわずかな間でも、恋しいあなたに逢わないで、私たち二人の間を過ごしてしまえというのですか。(それはあんまりです。)
【作者のプロフィル】伊勢守、藤原継蔭のむすめ。仁和の頃、七条の后に仕えたので、父の官名を呼び名にしていた。はじめ藤原仲平、次いで宇多天皇の寵愛を受け、さらには宇多天皇の第四皇子敦慶親王と、恋人を変えた情熱的歌人。ただ、小野小町が情熱をそのまま表現したのに対し、彼女の歌は情熱を抑えた慎ましい表現であったのが特色。宇多天皇との間で行明親王を産んだため「伊勢の御息所(みやすどころ)」とも称せられた。
私説 小倉百人一首 No.20 元良親王
元良親王
わびぬれば今はた同じ難波なる
みをつくしても逢わむとぞ思ふ
【歌の背景】元良親王が不倫の恋人との秘め事が露見して問題になったとき、逢うこともままならない侘しい心情を不倫相手の京極御息所に送った激情の歌。京極御息所とは藤原時平のむすめ、褒子。
【歌意】こうして心が晴れず寂しくつらい思いをしているのだから、今はもう逢わないでこうしているのも、逢って世事の煩わしさに苦しむのも同じことだ。だから、難波の海の澪標(みおつくし)のように、たとえこの身を滅ぼすことになっても、あなたにお逢いしたいと思う。
【作者のプロフィル】陽成天皇の第一皇子。母は主殿頭藤原遠長のむすめ。三品・兵部卿。和歌に優れ、抒情歌を多く詠まれた。また、非常に色好みな性格で、美しいと風聞のある女性には必ず言い寄られた。天慶6年(943)54歳でなくなられた。
私説 小倉百人一首 No.21 素性法師
素性法師
※俗名は良岑玄利(よしみねはるとし)。父は僧正遍昭。
今来むといひしばかりに長月の
有明の月を待ち出でつるかな
【歌の背景】恋する女性の立場に立って詠まれたもの。男のかりそめの言葉を頼りにして、もう来るか、もう来るかと秋の夜長を一晩中、待ち明かし、有明の月を見る結果になったというやるせない気持ちを詠んだもの。男性、それも僧が恋歌を作っている点に陰翳が感じられる。
【歌 意】「すぐ来ます」とあなたが言ったばかりに、私はその言葉を信じてもう来るか、もう来るかと待ちました。そのうちに長い九月の夜も明けて、肝心のあなたは来ないで、待ってもいない有明の月を見ることになってしまったことです。
【作者のプロフィル】父は僧正遍昭で、その在俗中に生まれた。素性は俗名を良岑玄利といった。由性法師は弟。初め清和天皇に仕え、右近衛将監であった。父の意志で出家し、その後上京の雲林院に住み、権律師に任ぜられ、また大和の石上寺の良因院の住持となった。彼がなくなったとき、紀貫之、凡河内躬恒らが哀悼歌を贈ったほど当時有名な歌人だった。
私説 小倉百人一首 No.22 文屋康秀
文屋康秀
吹くからに秋の草木をしをるれば
むべ山風をあらしといふらむ
【歌の背景】この歌の作者については、文屋朝康(文屋康秀の子)の作とする説もある。山風をあらしということに対して、草木がしおれてしまう、つまり草木をあらすから、あらしというのだろうという理屈をつけた歌。言葉の遊びとしての面白みだけのもの。
【歌 意】風が吹くとすぐに秋の草木がしおれて枯れるので、なるほど山の風を(続けて書けば)“嵐”という文字の読みの通り“あらし”というのであろう。
【作者のプロフィル】「姓氏録」には、文屋の姓は天武天皇の皇女二品長親王の後なりとある。貞観2年(860)に刑部中判事となり、後、三河掾になり、元慶元年に山城大掾、同9年に縫殿介となった。六歌仙の一人。
私説 小倉百人一首 No.23 大江千里
大江千里
月みればちぢにものこそかなしけれ
わが身一つの秋にはあらねど
【歌の背景】是貞親王の歌合せに詠んだもの。秋の月を見て人の心に宿る悲しみを嘆いている。秋を悲しいもの、感傷的なものと見る季節観の型に合わせて作られた歌。
【歌意】秋の月を見ると、あれこれ悲しいことが思い起こされる。秋は世の中のすべての人に来た秋だのに、なぜか自分だけに来た秋のような気がして。
【作者のプロフィル】平城天皇の皇子・阿保親王(在原業平の父)の曾孫にあたり、参議大江音人の第三子。父音人の時代、もとは大枝と書いていたが、大江氏を賜り臣籍に下った。父に似て漢学、文学に優れ、とくに和歌に巧みだった。生没年不詳。
私説 小倉百人一首 No.24 菅 家
菅 家
※菅原道真
このたびは幣もとりあへず手向山
もみぢのにしき神のまにまに
【歌の背景】宇多天皇が退位後、昌泰元年(898)10月ちょうどもみぢの美しい季節、奈良の山荘へ行かれた。そこで、幣を奉るよりはと、もみぢの美しさを讃えて詠んだもの。
このたびは「この度」と「この旅」の掛詞。「手向」は「たむける」と「手向山」の山との掛詞。大和国から山城国へ越す奈良山の峠をいう。
【歌意】手向山の神よ、今度の旅ではたむける幣も取る暇もなくここへやってきました。でも、この手向山は色とりどりの、一面の美しいもみぢです。とりあえずこのもみぢの錦を手向け致します。どうか御意のままにお納めください。
【作者のプロフィル】菅原道真。参議是善の第三子。幼少から文才を知られた。遣唐使の廃止を奏した。これに伴い250年にわたって続いてきた日本と唐との国交は途絶えることになる。
昌泰2年(899)左大臣藤原時平(29歳)、右大臣道真(55歳)となったころが、宮廷における彼の人生のピークで、これ以後は藤原氏との覇権競争に敗れ、転落の一途。延喜元年(901)時平一派は道真が醍醐天皇を廃し、斉世親王を皇位に立てようとする陰謀を企てていると奏上。17歳の少年、醍醐天皇はそれを信じて道真の大宰府・権帥への左遷を勅裁してしまう。そこで道真は厚い信頼を受けていた宇多天皇に「ながれゆく 我はみくずとなりはてぬ 君しがらみと なりてとどめよ」の歌を届け哀訴したが、法皇にもなす術はなく、道真の配流を止めることはできなかった。延喜3年(903)大宰府で悲嘆のうちに59歳でなくなった。
時平一派の讒言によって左遷された、その無念の思いは怨霊となって都の貴顕を襲ったといわれる。そこで、鎮魂の意を込めて天暦元年(947)京都の北野に神殿が建てられ天満天神として奉られる。そして、それから1000年以上の時の中を生き続け、現在でも学問の神様として親しまれ、全国各地に天神様を祀る社は1万2000もあるという。また天暦4年本官を復され、太政大臣を追贈された。
私説 小倉百人一首 No.25 三条右大臣
三条右大臣
※藤原定方
名にし負わば逢坂山のさねかづら
人に知られでくるよしもがな
【歌の背景】忍ぶ恋の思いを歌ったもの。「逢坂山」には「逢う」、「さねかづら」には「さ寝」が、「来る」には「繰る」が掛けてあり、歌の作り方としてはなかなか凝っている。
【歌 意】逢うて寝るという名を持つ逢坂山のさねかづらよ、その名前通り恋人に逢って寝るという力を備えているものなら、誰にも知られることなく蔓を手繰ってあなたのもとにたどり着き、逢って共寝する。そんなこっそりと逢う方法があればいいのだが。
【作者のプロフィル】藤原定方。正二位内大臣藤原高藤の二男。母は宮内大輔弘益のむすめ。醍醐天皇の延長2年正月右大臣に任じられ、従二位になった。京の三条に邸を構えていたので三条の右大臣といわれた。管弦の名手としても知られた。承平2年(932)8月、60歳(57歳とも)で没。
私説 小倉百人一首 No.26 貞信公
貞信公
※藤原忠平
小倉山峰のもみぢばこころあらば
いまひとたびのみゆき待たなむ
【歌の背景】宇多上皇が大堰川に御幸されて、あまりよい景色なので醍醐天皇(宇多上皇の皇子)も一度行幸されればよいがといわれたので、藤原忠平がこのことを天皇に奏上しましょう-といって詠んだもの。
【歌 意】小倉山峰のもみぢ葉よ、お前の見事な美しさを上皇がめでられ、み子の醍醐天皇にもお見せになりたいといわれたぞ。もしお前にもののわかる心があるならば、天皇の行幸までもみぢ葉の美しさを保って待ってほしいものだ。
【作者のプロフィル】藤原忠平。藤原基経の第四男。母は弾正尹人康親王のむすめ。兄時平の後を継いで藤原氏全盛の基を磐石にした。醍醐天皇の昌泰14年に右大臣、朱雀天皇即位にあたり摂政、承平6年太政大臣、天慶4年関白となり、村上天皇の天暦3年(949)に70歳で没。法性寺に葬られ、貞信公とおくり名された。
私説 小倉百人一首 No.27 中納言兼輔
中納言兼輔
※藤原兼輔。
みかの原湧きてながるるいづみ川
いつ見きとて恋しかるらむ
【歌の背景】みかの原は京都府相楽郡加茂町にあり、ダム建設以前は水量豊かな大河だった木津川を南に、北、東、西の三方を山に囲まれた要害の地で、かつて元明天皇の甕原離宮、聖武天皇の恭仁京があった、いわば古京の地。「湧きてながるる」から「出づ水」であって、それに地名(今の木津川)を掛けている。
【歌 意】かつてなんぴとかが甕をいくつも埋めた。そのおびただしい甕の口が泉となって水があふれるという甕の原。その湧き出て流れる泉川のように、いったいいつ見たからあの人がこんなに恋しいのだろうか。まだあの人とは会ったことはないのに。
【作者のプロフィル】勧修寺家の先祖良門の孫で、右中将利基の子。加茂川の堤の下の下粟田に住んでいたので堤中納言といわれた。寛平9年7月昇殿し、同10年正月讃岐掾に任ぜられ、延喜5年正月、従五位下、延長5年正月、従三位中納言、同8年12月、右衛門督を兼ね、承平3年(933)2月、57歳で没。

