2013年度「天空の城」竹田城跡に50万人で過去最高に
兵庫県朝来市によると、「天空の城」として知られる国史跡・竹田城跡(兵庫県朝来市)を2013年度に訪れた観光客が、過去最高の50万7589人に上ったことが分かった。前年度は23万7638人で、入場者数は2倍以上となった。竹田城跡の入場者は05年度に約1万2000人を記録して以降、ほぼ増加を続けている。06年に「日本100名城」に選ばれたことで注目され、近年は映画のロケ地になったことや、雲海に包まれる姿がメディアで取り上げられ、爆発的な人気となった。
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イタリアでゴーギャンの作品 44年ぶりに発見
イタリアでゴーギャンの作品 44年ぶりに発見
英国放送協会(BBC)などによると、イタリア警察は4月2日、フランスの画家ゴーギャンとボナールの絵画を約44年ぶりにシチリア島で発見したと発表した。工場従業員が台所に約40年間、飾っていた。少なくとも計1060万ユーロ(約15億円)の価値があるという。
絵画は1970年にロンドンの収集家の自宅から盗まれ、イタリアの列車内に放置された75年に行われた国鉄の落し物の競売で、イタリア自動車メーカーの従業員が当時、現在の貨幣価値で23ユーロ(約3000円)相当の金額で落札したという。絵画は従業員が退職してシチリア島に持ち出すまでは、イタリア北部トリノの自宅に掛けられていた。息子が他のゴーギャン作品に似ていることに気付き、専門家に相談。警察が盗品と確認した
静物を描いたゴーギャンの絵画は1000万~3000万ユーロの価値があると推定されている。
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「天空の城」竹田城跡の石垣修復 現代の名工が指揮
「天空の城」竹田城跡の石垣修復 現代の名工が指揮
雲海に包まれる姿が「天空の城」と人気の国史跡・竹田城跡(兵庫県朝来市)で石垣の修復がほぼ終了した。現場で指揮を執ったのは「穴太衆(あのうしゅう)」と呼ばれる戦国時代から続く石工集団の流れを受け継ぎ、「現代の名工」のも選ばれた粟田純司さん(73)だ。穴太衆は比叡山延暦寺の門前町、大津市坂本付近に住んでいた石工集団で、織田信長の安土城をはじめ全国の城郭の工事に携わったとされる。
粟田さんはこの石工集団の技術を代々受け継ぐ家に生まれ、石積みの技術者で人間国宝だった父、万喜三さんから技を継承した。穴太衆積みは各地に残る城跡の8割以上に使われ、「築石(つみいし)」と呼ばれる表面に見える大きな石の裏側に、直径5㌢前後の「栗石(ぐりいし)」を敷き詰める。これによって、堅固な城郭ができ上がるというわけだ。
「天正遣欧少年使節」伊東マンショの肖像画発見
「天正遣欧少年使節」伊東マンショの肖像画発見
九州のキリシタン大名が16世紀後半にローマに派遣した「天正遣欧少年使節」を務めた伊東マンショのものとみられる肖像画が、イタリアで見つかった。調査にあたった北部ミラノのトリブルツィオ財団の担当者がこのほど、財団の学術誌に論文を発表した。肖像画は北部在住の同財団関係者が所有。絵の裏面には「Mansio」などと記されている。調査や鑑定の結果、1585年にマンショら遣欧使節が北部ベネチアを訪れた際、ルネサンス期のイタリア画家ティントレットの息子、ドメニコ・ティントレットが描いたものと判断した。
肖像画のマンショは着物姿ではなく、スペイン風の衣装を着用している。天正遣欧使節は伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノの少年4人で、日本でのキリスト教布教の支援を得るために派遣された。85年3月、当時のローマ法王グレゴリウス13世に謁見し、90年に帰国した。
ダチョウ似の新種の恐竜の化石 米6600万年前
ダチョウ似の新種の恐竜の化石 米6600万年前
米カーネギー自然史博物館などの研究チームは3月20日、米中西部の約6600万年前(白亜紀末期)の地層から、ダチョウをひと回り大きくしたサイズの恐竜の化石が見つかり、新属新種に分類したと米科学誌プロスワンに発表した。化石はノースダコタ、サウスダコタ両州で計3体分見つかった。体長は3.5㍍、体重は200~300㌔あったと推定される。頭の上部が薄い円盤状になっており、異性などにアピールする飾りだった可能性がある。前脚には大きな鋭い爪があり、尾が長い。骨格化石しか見つかっていないが、近縁種には羽毛があることから、羽毛が生えていたとみられる。これまで中国やモンゴルで化石が見つかっている「オビラプトル」類に近いという。
ダチョウのような飛べない鳥に似た姿だったとみられ、学名は古代メソポタミア神話の怪鳥「アンズー」にちなんで「アンズー・ワイリエイ」と名付けられた。
建仁寺の「蘭渓道隆坐像」の像内から鎌倉時代の彫刻
建仁寺の「蘭渓道隆坐像」の像内から鎌倉時代の彫刻
東京国立博物館によると、京都市東山区の建仁寺塔頭(たっちゅう)の西来院が所蔵する江戸時代前期の彫刻「蘭渓道隆坐像」の像内から、鎌倉時代に作られたと推定される古い蘭渓道隆像の頭部の一部が見つかったことが分かった。同館によると、造像当初から建仁寺にあった可能性が高いとみられる。建仁寺は応仁の乱などで何度も火災に遭い、鎌倉時代から同寺にある彫刻は失われたと考えられていたという。
今回見つかった頭部は頬がそげ、口角が上がっている顔の特徴が、蘭渓道隆の存命中に描かれた肖像画などに似ており、同館は鎌倉時代に作られた頭部と推定した。西来院の像は、同館で3月25日から開かれる特別展「栄西と建仁寺」で展示。頭部は像内にあり、取り出せないため写真パネルで紹介する。
蘭渓道隆は南宋出身の渡来僧。神奈川県鎌倉市の建長寺の開山で、後に建仁寺の住職を務めた。建仁寺は、日本に臨済宗を広めた栄西が1202年に開いた京都最古の禅寺。
「東寺百合文書」記憶遺産に推薦 政府15年登録目指す
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没後450年 三好長慶の座像建立へ 脱「悪役」イメージ
没後450年 三好長慶の座像建立へ 脱「悪役」イメージ
大阪府堺市のまちづくり団体「堺・ちくちく会」は戦国武将、三好長慶(1522~64年)の初の座像建立計画を進めている。没後450年にあたる今年7月にゆかりの南宗寺(堺市堺区)に建てたい意向だ。
三好長慶は織田信長に先立ち、戦国時代に京都と大阪、四国東部の9カ国(阿波、讃岐、淡路、摂津、和泉、河内、丹波、山城、大和)を支配。一時は足利将軍家を京都から追放し、約15年間、実質的に中央政権を担った武将だ。連歌にも堪能で品格のあった人物だが、将軍を一時追放したことに加え、長慶の没後、後を継いだ三好一族らが、十三代将軍・足利義輝を殺害したことで、”下克上”の代表格とされ、「悪役」イメージがある。このため、堺・ちくちく会では、少しずつ長慶の悪役イメージを変えていきたいとしている。
だが、没後450年を迎え長慶が統治した大阪(堺市、高槻市)、四国東部(徳島県)などで彼の事績、功績や人物像の見直し機運が高まっている。一般に戦国時代から既成秩序の破壊、否定などの面で織田信長がその代表と目されているが、実は信長に先んじて先見性のあったのが長慶と捉える見方が、いま大きく浮上している。
長慶が初めて足利将軍家を擁立せずに、自分の力で京都、すなわち首都を支配。天皇も足利将軍家を通さず、長慶と相談し元号を変えている。堺の掌握にみられる都市・流通政策の重視やキリスト教の保護、茶の湯を含めて、信長が推進したことの原型を長慶がやっているのだ。
一茶が妻を気遣う手紙など新資料を公開 記念館
一茶が妻を気遣う手紙など新資料を公開 記念館
長野県信濃町にある一茶記念館は3月19日、小林一茶(1763~1827年)が妻きくに宛てた手紙と俳句など計44点の新資料が貼られた折り本を報道陣に公開した。手紙は病弱な妻の体調を気遣い、具合が悪くなったときに備えて、自分の出先の連絡先を伝えている。一茶が江戸から故郷に戻り、信濃町を拠点に活動していた1817年か1820年のいずれかに書かれたとみられる。俳句の弟子を訪ねて回っていた一茶が長野市の善光寺から、信濃町柏原の自宅にいる妻に送った。
折り本「柏原雅集」は信濃町の問屋、中村利貞が明治時代に作成し、新たに見つかった9句を含む俳句や、知人と詠んだ連歌が書かれた和紙を厚紙18㌻に貼り付けてある。見つかった資料は、一茶が33~65歳の作品で、年齢の変化による筆跡の変遷も分かる。
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関東大震災の地震計の記録紙をウィーンで発見
関東大震災の地震計の記録紙をウィーンで発見
1923年に発生した関東大震災を、世界にいち早く知らせたとされるウィーンのオーストリア気象庁に、当時の地震計の記録紙が残っていることが3月10日、分かった。内閣府の資料によると、関東大震災は23年9月1日午前11時58分に発生。地震の規模はマグニチュード(M)7.9と推定され、約10万5000人が死亡した。
オーストリア気象庁には、地震発生から約12分後(オーストリア時間同日午前4時10分すぎ)に地震の初期微動(P波)が到達して地震計の針が揺れ始め、その後主要動のS波も記録されるなど、振幅の大きな波形が続いている。同気象庁は2011年3月11日の東日本大震災でも、地震発生から約12分後に地震波を観測している。
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隕石衝突で硫酸の海 白亜紀末の生物絶滅に新説
隕石衝突で硫酸の海 白亜紀末の生物絶滅に新説
千葉工業大学の大野宗祐上席研究員らは、白亜紀末の6500万年前に恐竜など生物の約6割が絶滅したのは巨大隕石の衝突で硫酸の海が生じたためとする新説をまとめた。衝突後の地球岩石を使って再現した実験で突き止めた。地球規模で起きた大絶滅をうまく説明できるという。英科学誌ネイチャー・ジオサイエンス(電子版)に3月10日発表する。
白亜紀末、恐竜や空を飛ぶ翼竜など陸上の多くの生物だけでなく、海の大型爬虫類やアンモナイト、プランクトンの多くが死に絶えた。直径約10㌔㍍の隕石が今のメキシコのユカタン半島に衝突し、巻き上がった土やほこりが地球を襲って太陽光を遮り、寒冷化したためとする説が有力視されている。
研究チームは大阪大学の施設を使い、隕石に見立てた金属片をレーザーで秒速20㌔㍍に加速してユカタン半島と同じ硫黄の多い成分でできた岩板にぶつけた。衝突の衝撃で高温になった岩板から多くの成分が蒸発。そのガスを調べたところ、大部分が硫酸だった。硫酸ガスは地球を覆い、酸性雨となってあらゆる場所に降り注いだ。衝突後1~3年は海の浅い部分が硫酸まみれになってプランクトンが死滅。食物連鎖が崩れたことが大型生物の絶滅につながったとみている。
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古墳時代の機織り姿 栃木で埴輪2体出土 全国初
古墳時代の機織り姿 栃木で埴輪2体出土 全国初
栃木県下野市教育委員会は3月5日、同市国分寺の6世紀後半の甲塚(かぶとづか)古墳で、機(はた)織りをしている女性の埴輪2体が見つかったと発表した。機織り姿の埴輪の出土は全国初。埴輪は弥生-古墳時代後期に一般的だった古いタイプの原始機(げんしばた)と、結城紬の機織り機の原型とされる台を使うタイプの地機(じばた)の2種類。
原始機の埴輪は全長約45㌢、幅約30㌢、高さ約54㌢で、女性の両腕の一部が残っていた。地機は布を織る女性の姿も復元され、合わせると高さ約69㌢。2体とも赤、白、灰、黒の4色に彩色されていた。同市教委は、古墳時代の機織り機の構造が分かり、当時の技術水準や織物の歴史を知る手掛かりになるとしている。甲塚古墳は全長約80㍍で、前方部が短い帆立て貝形前方後円墳。
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歌麿の幻の大作「深川の雪」66年ぶりに見つかる
歌麿の幻の大作「深川の雪」66年ぶりに見つかる
江戸時代の浮世絵師、喜多川歌麿の晩年の肉筆画で、1948年から所在不明になっていた「深川の雪」が66年ぶりに見つかったと、神奈川県箱根町の岡田美術館が3月2日、発表した。4月4日から6月30日まで同館で公開される。
同館によると、「深川の雪」は「品川の月」「吉原の花」(いずれも米国の美術館所蔵)とともに、歌麿が描いた「雪月花」3部作の一つとして知られている。
「深川の雪」は歌麿の晩年にあたる1801~04年ごろに描かれたとされ、縦約2㍍、横約3.4㍍の大作。絵の保存状態は良く、東京・深川の料亭で、遊女ら27人が雪見をしたり、火鉢を囲んだりする様子が色鮮やかに描かれている。
「東寺百合文書」国宝の画像を3/3からネットで公開へ
「東寺百合文書」国宝の画像を3/3からネットで公開へ
国宝「東寺百合文書(ひゃくごうもんじょ)」を所蔵する京都府立総合資料館(京都市)は3月3日以降、約2万5000通に及ぶ全文書の精密なデジタル画像(約8万カット)をインターネットの特設ホームページ(http://hyakugo.kyoto.jp/)で順次公開する。後醍醐天皇、足利義満の直筆文書、織田信長の「天下布武」印が入った文書から庶民の声を書き留めたものまで、奈良時代から江戸初期の約1000年にわたる歴史の息遣いがネットで体感できる。
「百合文書」は京都市の東寺(教王護国寺)に伝わる史料群。3月中にも国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に推薦される予定。
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7世紀前半と判明 難波宮跡で出土の柱を新手法で測定
7世紀前半と判明 難波宮跡で出土の柱を新手法で測定
大阪府文化財センターは2月24日、大阪市の国史跡、難波宮跡近くで出土した柱材を、年輪のセルロース(繊維素)を分析する年代測定の新たな手法で調べたところ、7世紀前半のものと分かったと発表した。この手法は従来の年輪年代法と違い、すべての樹種に応用できるという。出土遺物の調査に応用したのは初めてで、考古学の進展につながると期待される。
この手法はセルロースに含まれる酸素同位体、酸素16と酸素18の比が夏季の降雨量によって毎年異なる点に着目。年輪ごとに同位体の比率を測り、変動パターンを解析して「物差し」を作成し、出土した木材に当てはめて年代を測定する。開発した総合地球環境学研究所の中塚武教授によると、弥生時代から現代までの「物差し」を作成済みという。
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鹿児島・白亜紀後期の地層から大型草食竜の歯の化石
鹿児島・白亜紀後期の地層から大型草食竜の歯の化石
鹿児島県薩摩川内市教育委員会は2月14日、下甑島(しもこしきじま)の鹿島地区で約8000万年前の白亜紀後期の地層から、大型草食恐竜「竜脚類」の歯の化石1本が見つかったと発表した。白亜紀後期の化石は福島、岩手、熊本各県に続き国内4例目という。縦17㍉、幅5㍉、厚さ5㍉で細長い円柱形。下顎の歯とみられ、葉を噛み切る際に擦られてできたV字状の磨耗面が先端にあり、竜脚類と判断した。全長は10㍍以上と推定される。モンゴルのゴビ砂漠で見つかったネメグトサウルスに近いという。
竜脚類は長い首と尾を持ち、4本足での歩行が特徴。首と尾を伸ばし帆船のように風を受けて歩いていたと想像される。ジュラ紀後期(約1億5000年前)の温暖な気候に適応して大型化し、最も大きな種は体長35㍍、重さ40㌧。ただ歯はまばらで、葉を噛み切ることに向かず、歯が発達した他の草食恐竜との生存競争に敗れ衰退したとされている。
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岩倉具視の暗号表、将軍・慶喜の直筆哀訴状など発見
岩倉具視の暗号表、将軍・慶喜の直筆哀訴状など発見
江戸-明治の本草漢学塾「山本読書室」跡(京都市下京区)の土蔵に、右大臣・岩倉具視が使った暗号表や、最後の徳川十五代将軍・慶喜が官軍に江戸攻撃中止を求めた直筆哀訴状など重要文化財級を含む数万点の史料が、秘蔵されていたことが2月2日、分かった。京都外大の松田清教授(日本洋学史)が約2年半調査、目録を刊行した。重文級は少なくとも数百点で、ほかに菅原道真直筆の可能性が指摘される9世紀の写経もあり、新史実の解明が期待できる一大史料群として注目されそうだ。
暗号表は紙製で、大小2枚の円盤の周りにそれぞれカタカナが書いてある。直径約10㌢の小さい方の円盤を回して文字を変換するしくみ。東京の岩倉が大阪の大久保利通らと電報や暗号表など最新技術を駆使して交わした秘密通信文61通もあった。慶喜の哀訴状は、時代が江戸から明治へ移った1868年、江戸攻撃が8日後に迫った3月7日に官軍に届けられた。当時、回覧のため筆写されていたが、直筆は初めて。山本読書室は本草学(博物学)の西日本の拠点で、医学や儒学なども教えていた。
「山本読書室」跡から約150年前の最古の日本語新聞も
「山本読書室」跡から約150年前の最古の日本語新聞も
京都市下京区の本草漢学塾「山本読書室」跡から見つかった新史料の中に、日本語の新聞としては最古の日付とみられる「文久二(1862)年正月元日」と印刷したものがあることが2月3日、分かった。オランダ語で「新聞の写し」というタイトルで、松田清教授が京都外大の紀要にも発表した。
従来、日本語初の新聞は、江戸幕府の洋学研究機関・蕃所調所(ばんしょしらべしょ)がオランダ語新聞を翻訳し、「文久二年正月」に発行した「官板バタヒヤ新聞」とされていたが、日付が不明だった。今回は日付があることから、日本人が記事を執筆、編集した新聞としては最古とみられる、当時の新聞の形態や記事の内容など、新聞の変遷をうかがう上での貴重な史料となりそうだ。タイトルの右側には、発行日付と場所もオランダ語で「1862年1月1日、ミヤコ(京都)で」と記されていた。
松田教授は、ロビンソン漂流記の翻訳者として知られる膳所藩(大津市)の蘭学者、黒田麹蘆(1827~92年)が戯名を使い京都で発行したと結論付けた。
伊達政宗と戦っていた家臣宛て直江兼続の直筆書状発見
伊達政宗と戦っていた家臣宛て直江兼続の直筆書状発見
山形大は2月4日、上杉景勝に仕えた直江兼続(1560~1619年)が、関ヶ原の戦い(1600年)を前に、会津地方で伊達政宗軍と戦っていた上杉家の家臣に宛てた書状が見つかったと発表した。写本はあったが、兼続直筆の現物が見つかったのは初めて。書状は山形市内の個人宅に所蔵、山形大の松尾剛次教授(日本中世史)が花押や筆跡から現物であると鑑定した。上杉家の家臣4人に宛てたもので、日付は慶長5年(1600年)7月27日。徳川家康による景勝征伐に合わせて、伊達政宗が旧領地の会津地方を奪還しようと攻撃を強めていた時期にあたる。
戦国武将らしい力強い筆致で、伊達軍との戦いで善戦する家臣の頑張りを褒めながら、政宗の動向を知らせるよう指示するなど、知将とうたわれた兼続の一面をうかがわせている。
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千葉県雷下遺跡で日本最古の丸木舟の船底部分出土
千葉県雷下遺跡で日本最古の丸木舟の船底部分出土
千葉県教育委員会は1月31日、同県市川市の雷下(かみなりした)遺跡で、縄文時代早期(約7500年前)につくられた丸木舟の船底部分(全長約7.2㍍、幅約0.5㍍)が出土したと発表した。発掘した同県教育振興財団文化財センターによると、縄文早期の丸木舟の発見は国内では初めてで、日本最古とみられる。
丸木舟は2013年11月に土中に埋まった状態で見つかったという。米国の会社で放射性炭素年代測定を行った結果、年代が判明。素材はムクノキで、石器でくり抜いてつくったとみられる。
日本最古の丸木舟はこれまで、鳥浜貝塚(福井県)や入江内湖遺跡(滋賀県)でほぼ完全な形のものが出土しているが、いずれも縄文時代前期(約5500年前)のものという。
纏向遺跡に方向揃えた4つ目の建物跡 卑弥呼宮殿?
纏向遺跡に方向揃えた4つ目の建物跡 卑弥呼宮殿?
奈良県桜井市教育委員会は2月6日、邪馬台国の有力候補地、同市の纏向(まくむく)遺跡で方向や中軸線を揃えて立ち並んでいた3世紀前半の建物跡3棟の東側で、新たに建物跡1棟を見つけたと発表した。方向、中軸線とも3棟と一致し、同市教委は建物群の一つと判断。他にも建物が並んでいた可能性もあるとみている。
新たに建物跡が見つかったのは3棟から東に約36.5㍍離れた地点。規模は東西3.4㍍、南北6.7㍍と小さく、柱材が一部残っていた。建物群は方向を揃えて東西に1列に整然と並んでおり、うち2009年に見つかった1棟は復元すると東西約12㍍、南北約19㍍と3世紀前半では国内最大規模。有力者の居館とみられ「卑弥呼の宮殿」との説もある。
纏向遺跡は東西2㌔、南北1.5㌔におよぶ3世紀初め~4世紀初めの大集落跡。卑弥呼の墓との説がある箸墓古墳がある。関東から九州まで広範囲から搬入された土器などが出土し、古代国家形成期を探るカギとなる遺跡として13年、国史跡に指定されている。
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『If 』③「蒲生氏郷が会津へ移封していなかったら」
あまり知られていないことですが、天下人になった豊臣秀吉が最も恐れていたのが蒲生氏郷(がもううじさと)です。なぜなら氏郷は織田信長子飼いの直臣だったからです。
信長のもとで子飼いの直臣として育った氏郷
氏郷は近江国(滋賀県)日野城主だった蒲生賢秀(かたひで)の息子です。賢秀は地方豪族にしては先見の明があり、それまで佐々木源氏系の六角氏に仕えていましたが、これからは織田信長の時代になると見抜き、そこで密かに使いを出し、従属を誓いました。
信長にはそういう豪族がたくさんいたので、すべて人質を取っていました。賢秀も息子の氏郷を岐阜城に人質に出しました。岐阜城には当時100人余りの同じような少年がいたといいます。しかし、信長はその中から氏郷に目を向けていました。というのは、氏郷が非常に賢く、今日風に表現すれば“経営感覚”を持っていたからです。
楽市・楽座での”規制緩和”など信長の都市経営を学んだ氏郷
信長は、今後の大名はすべて領国経営に算盤勘定をいれなければいけないと考えていました。また、岐阜の城下町で展開した楽市・楽座で、単に呼び集めた商工業者の負担減だけではなく、今でいう“規制緩和”を積極的に行いました。撰銭令の発布、道路を整備し物流ルートを設定したほか、関所や船番所の撤廃なども行いました。
こうした信長の新しい都市経営に、蒲生氏郷少年は目を向け、同時に信長の理念を自分のものとして体得していきました。そこで信長は人質の中でも氏郷は非常に期待できると考え、自分の娘を氏郷の嫁にしました。したがって、蒲生氏郷は信長の婿なのです。
信長の娘婿・氏郷を警戒し、会津に移封した天下人・秀吉
豊臣秀吉は巧妙な政略によって天下人の座を占めましたが、内心では若いながら人使いがうまく、人望もあるこの氏郷を恐れていました。そこで、秀吉は「伊達政宗は油断できない。これを抑えられるのはあなただけだ」とうまい名目を付け、思い切って氏郷を会津に移封しました。近畿・東海地区から何とか、危険な氏郷を遠ざけ、伊達政宗を抑える駒として使う“一石二鳥”の妙案だったのです。
会津移封で天下取りを断念した氏郷
この異動命令を受けた氏郷は、秀吉の巧みな意図をくみ取り、会津で大禄を得たにもかかわらず、「会津に行ったのでは、もはや天下の座は得られない。それが悲しい」と家臣に語り、さめざめと涙を流したと伝えられています。このことからも分かるとおり、一般にはほとんど知られていないことですが、実は氏郷にも天下取りの野望があったということです。
氏郷が近畿もしくは東海地区にとどまっていたら、“信長の婿”の立場を最大限に活かし、天下人はともかく、豊臣政権から徳川政権へ移行する過程で、少なくとも後世に残る様々な影響力を行使していたのではないでしょうか。
利休の死後、千家の息子を匿った秀郷
千利休の不慮の死の後、千家の息子たちはそれぞれ諸国に散っていきました。その一人を匿ったのが蒲生氏郷でした。秀吉は当然そのことを知っていました。現在、会津若松市にはこの千家の息子の匿われた家が、歴史的遺産として保存されています。
氏郷急死に、秀吉による毒殺説も
氏郷のこういう行為を秀吉は気に入りません。秀吉にすれば、氏郷はいぜんとして信長公の婿という誇りを持ち、自分(秀吉)に心から臣従していない。対抗心を持ち続けていると受け取ります。やがて、氏郷は京都に呼び戻され、そして急死するのです。世間では「蒲生氏郷は秀吉に毒殺された」と噂されました。
『If 』②「豊臣秀頼が関ヶ原の合戦場に立っていたら」
豊臣政権下の武功派大名の、豊臣秀頼の父・秀吉に対する恩は極めて深いものがありました。そのため秀吉が亡くなった後も、これら武功派大名が秀吉の妻、北政所(ねね)のもとへ相談に出向く者も少なくなかったのです。
豊臣家滅亡は関ヶ原の戦いで秀吉恩顧の大名を味方にできなかったため
それだけに、豊臣秀頼が大坂城から出て来て関ヶ原の合戦場に立っていたら、これらの大名はくるりと向きを変えて、秀頼のもとに駆け付けたのではないでしょうか。福島正則、加藤清正、黒田長政などはとくにそうです。そんな、秀吉恩顧の大名たちをつなぎとめ、味方にできなかったことが、豊臣家の敗北、そして滅亡に追い込まれていくのです。
黒田長政は、小さいときに織田信長の人質となりました。父・黒田如水の行動が曖昧だったため、怒った信長が秀吉に「人質を殺せ」と命じたことがありました。が、秀吉は「そうします」といいながら、そうしなかったのです。長政の命を助けたわけです。したがって、長政にすれば豊臣秀吉は命の恩人なのです。
秀頼が戦場に赴かなかったことが、敵方の豊臣恩顧の大名を助けたその意味では、秀頼が大坂城から出なかったことは、この合戦の勝敗を決めた上で大きな役割を果たしたといえるでしょう。徳川家康にとっては実に幸運でした。周知の通り、小早川秀秋の裏切りもありましたが、それだけではありません。むしろ、この秀頼不出場の方が、影響が大きかったといえるのではないでしょうか。彼らは戦場で、敵方に恩ある太閤の遺児・秀頼の姿を見たら、とても討伐に向かえなかったことでしょう。
最後まで豊臣恩顧の大名を信用しなかった家康
それだけに、家康もこの豊臣系大名たちが、自分の味方をしても心の底からは信じませんでした。「何かあれば、彼らは必ず裏切る」と警戒していたといわれています。とくに福島正則や加藤清正に対してはその思いを深めていました。が、どうしたわけか加藤清正は、大坂の陣の前に急死しています。「徳川家康に毒饅頭を食わされた」という噂がとんだほど、彼の死に方は不自然でした。
関ヶ原の功績で120万石の大封得た福島正則は秀忠の代に改易に
福島正則は関ヶ原の合戦の功績で、毛利氏の拠点だった広島城を与えられ、120万石もの大封を得ました。ところが、家康が亡くなり、秀忠の代になって改易されてしまいました。徳川政権が安定したいま、警戒しながら大封を与えておく必要がない。「もう御用済み」というわけだ。不満があるならいつでも相手になるぞ-と威嚇されているにも等しい対応でした。
そして福島正則は辛うじて家名を残され、信州(長野県)川中島でわずかな俸禄をもらう存在にまでおとしめられてしまったのです。正則も、自分がここまで徳川将軍家に警戒され、信用されていないのだということを思い知ったことでしょう。
『If』①「石田三成があれだけ武功派に嫌われていなかったら」
豊臣政権下では「武功派」と「文治派」の争いが生まれていました。むろん、秀吉がまだ健在だったころのことです。直接の争いは、秀吉の朝鮮出兵時に起こりました。朝鮮に渡った諸大名の監察を行うために、石田三成が派遣されました。
三成の軽率な報告が招いた、その後の歴史をを左右した”禍根”
このとき福島正則、黒田長政、細川忠興、加藤清正たちは心を合わせて戦闘に従っていましたが、ある日、小康を得、たまたま碁か将棋を打っていました。その光景を、監察に来た三成が目撃、秀吉に報告しました。秀吉は怒って、諸将に引き揚げを命じたのです。このことが遺恨として残りました。前線で苦労していた諸将は、たまたま三成がやってきたときに将棋を打っていただけで、長い間のわずかな安らぎに過ぎない。それを三成は誇大に報告した-と一致して三成を恨んだのです。
「三成憎し」なければ、東軍・西軍の勢力図は大きく変わっていた
石田三成は近江(滋賀県)出身の文治派です。武功派の大名は三成を「算盤勘定と悪知恵だけで出世した奴」と軽蔑していました。ですから、三成とのこれほどの対立がなければ、これらの大名も果たして初めから徳川家康に味方したかどうか、全く分かりません。
関ヶ原の合戦で、豊臣恩顧の大名で、ひたすら「三成憎し」の思いから徳川家康に味方した人物は相当多かったのです。福島正則や加藤清正ら有力大名がそうでした。ですから、三成がそこまで武功派に嫌われていなかったら、東軍・西軍の勢力図は相当変わってしまい、様子見をしていた西軍の大名たちの戦への臨み方をも含め、勝敗の行方も分からなかったのです。
三角縁神獣鏡は「魔鏡」反射光に背面の文様浮かび上がる
三角縁神獣鏡は「魔鏡」反射光に背面の文様浮かび上がる
京都国立博物館は1月29日、3次元(3D)プリンターを使って「卑弥呼の鏡」との説がある古代の青銅鏡「三角縁神獣鏡」の精巧な金属製レプリカを製作したところ、壁に投影した反射光の中に鏡の背面に刻んだ文様が浮かび上がる「魔鏡」と呼ばれる現象が起きることが分かったと発表した。
この現象は太陽光線など平行光で特に顕著で、人心を掌握するのに用いた可能性や、太陽信仰との関連を指摘する意見もあり、古代鏡の研究に新局面をもたらしそうだ。鏡は古代の祭祀(さいし)で用いたと考えられているが、具体的役割は不明だった。今回のような現象を起こす鏡は古代中国の漢代に登場。日本では江戸時代に隠れキリシタンが用いたものなどが知られるが、国内の古代鏡で確認されたのは初めてという。
7000年前の日本固有のカメの完全な頭骨化石 兵庫で発見
遣欧使節派遣から交流400周年 イベントで仲深める
遣欧使節派遣から交流400周年 イベントで仲深める
今から400年前、スペインの小さな漁村に降り立った日本人たちの足跡が、日本・スペイン両国交流の端緒となった。その子孫とされる人々は姓に「日本(ハポン)」を名乗り、今も同じ場所で暮らし日本との縁を大事にしている。
江戸時代初期、仙台藩主・伊達政宗は家臣の支倉常長を大使とする大型使節団をスペイン国王やローマ法王のもとに派遣。使節団はメキシコなどを経由して出発からちょうど1年経った1614年10月、スペイン南西部セビリアからバスで40分ほどの小さな町・コリアデルリオに到着した。日本国内では、徳川家康が豊臣氏を滅ぼすべく最後の戦いを開始する「大坂冬の陣」のころのことだ。
支倉らは想像を絶する苦労の末、スペイン国王やローマ法王らに謁見するなどして、1617年に日本に向かったが、長期滞在したことで、使節団の中には家族や生活基盤ができてしまい、帰国せずに現地に土着した日本人もいた。この人たちがコリアデルリオで、今もハポン姓を名乗る人たちの祖先になったと考えられる。
日本・スペイン交流400周年をきっかけに多くのイベントが企画され、日本との関係は一段と深まっている。2013年6月には日本の皇太子さまがコリアデルリオを訪問、ハポン姓を持つ人たちと交流された。また、何人かのハポンさんは東日本大震災後、遠く離れた日本の被災地を訪れている。コリアデルリオでは、今も慰霊行事や慈善コンサートなどが開かれる。

