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直江兼続 120万石から30万石になった上杉藩を差配した智将

直江兼続 120万石から30万石になった上杉藩を差配した智将
 上杉家の領地は、関ケ原合戦が起こるまで会津を中心に120万石もあった。関ケ原以後は4分の1の30万石になってしまった。西軍には参加しなかったが、徳川に敵対行動を取ったからだ。主君上杉景勝にそのような態度を取らせたのは筆頭家老の直江山城守兼続だ。わかりやすくいえば、彼の失敗が90万石の減俸に相当したわけだ。当然、彼が責任を取って切腹することもあり得たし、景勝が切腹を申し付けてもおかしくはない。ところが、現実にはそういうことにはならなかった。
 残った30万石の領地は、家老の直江が景勝から貰っていた米沢領だ。景勝がこの米沢30万石に移封となり、兼続は景勝から5万石を賜ったが、4万石を諸士に分配、さらに5000石を小身の者たちに与え、自分のためには5000石を残しただけだったという。そして、石高が4分の1に減ったのだから藩士を減らして当たり前なのだが、上杉家は家臣に対し米沢についてくる者は一人も拒まぬことを決め、120万石時代の家臣を米沢30万石に迎え、堂々たる(?)貧乏藩米沢のスタートを切る。この時代「すべて私の責任です」と切腹する方がどれくらい楽か知れないのに、苦しい辛い道を選んで平然としていた直江兼続とはどのような人物だったのか。
 木曽義仲四天王の一人に樋口次郎兼光がいた。直江兼続はこの樋口兼光の子孫で、直江家に入る前までの彼の名は樋口与六だ。樋口家は父の樋口兼豊の代にはかなり衰えていた。上杉謙信の家来に、能登の石動山城城主を務める直江実網という武将がいた。兼続が直江実綱の養子になったのは何年のことか分からないが、22歳の時に直江家を相続したのははっきりしている。天正9年(1581)のことだ、そして、翌年、兼続は山城守の称を許されている。まだ23歳の若さで家老クラスに昇ったわけだ。
というのも上杉謙信の養子となり後年、上杉家当主となる上杉景勝と、兼続は“ご学友”として直江実綱のもとで一緒に育った時期があるのだ。後年、二人の連携プレイが繰り広げられたのはこうした背景があるからだ。兼続は謙信にまもなく登用され、少年の身で参謀になるが、あまりにもスピードの速い栄進ぶりに家中では、「樋口与六は謙信公の稚児だ」との噂が立ったほど。
 直江兼続の名を一段と高めたのは織田信長亡きあと、天下人に昇りつめる豊臣秀吉だ。その過程で、柴田勝家を越前北ノ庄城に破り、次いで佐々成政を降伏させた後、上杉とは事を構えたくない秀吉が、当主上杉景勝の信用があって、非戦論の持ち主で、格好の交渉相手として白羽の矢を立てたのが直江兼続だ。この交渉の根回しをやったのは、兼続と同じ年齢の石田三成だ。
 翌年、上杉景勝は大軍を率いて上洛した。秀吉の関白就任祝賀が名目だが、つまり秀吉の覇権を公式に承認し、その下に屈することを表明するわけだ。兼続ももちろん同行するのだが、秀吉の兼続に対する態度はまるで大名に対するようだった。上杉と戦わずに済んだのはこの男のお蔭だという思いが強かったのだろう。景勝と兼続との信頼関係を十分に見抜いていたから、自分がどれだけ兼続を厚遇しても君臣の間にヒビの入るおそれもないと分かっていたからに違いない。
 慶長2年(1597)、上杉景勝は秀吉五大老の一人となり、その翌年、上杉家は会津120万石に移された。そして、このうち米沢30万石が直江兼続の所領になった。30万石の家老は空前絶後である。大名でも10万石以上となると、数えるほど少ない、そんな時代のことだ。上杉藩における兼続の存在の大きさ、重さの何よりの証だ。

(参考資料)藤沢周平「蜜謀」、童門冬二「北の王国 智将直江兼続」、奈良本辰也「日本史の参謀たち」                             

雪舟 明で「首座」の称号を得、「日本の水墨画」を完成させる

雪舟 明で「首座」の称号を得、「日本の水墨画」を完成させる
 幼少時から絵を描くことが何よりも好きだった雪舟は、京都相国寺での絵画修業の後、中国・明に渡り、天童山景徳寺で中国の雄大さと水墨画の技法を学んだ。そして、時の憲宗皇帝をはじめ多くの高官、文人に感嘆と賞賛を受ける作品を描き上げる。その結果、禅宗の最高位の「首座」の称号を得た。帰国後、雪舟は中国で学んだ強靭な線と正確な構図法に加え、わが国の大和絵の手法を大胆に取り入れた、明とは異なる独自の「日本の水墨画」を完成させたのだ。
 雪舟は室町時代のほぼ中頃、応永27年(1420)、備中国窪屋郡三須村字赤浜(現・岡山県総社市)で生まれている。幼名は等楊といった。江戸期の『本朝画史』には、生家を小田氏と記されているが、生没年さえ異説が多く、父母の名も不詳だ。恐らく地侍、土豪の子だったのではないかと思われる。幼少の頃、赤浜から3里ほど山奥へ入った宝福寺に預けられたとの伝承がある。その後、成長し12~13歳で宝福寺の小僧となっていた雪舟は、すでに何よりも絵を描くことが好きで、経も読まず、朝から晩まで筆ばかり持って、一向に禅宗の修行に精を出さない。師僧はたびたびこれを戒めたが、彼は叱られても言うことを聞かなかったという。
 雪舟はその後、京都五山の一つ、相国寺に姿を現す。文安4年(1447)、高名な禅僧春林周藤が相国寺鹿苑院に入り、「僧録司」の位(官寺の総裁職)に就いたが、寺内の記録にこの頃、初めて雪舟が現れるのだ。彼の役職は、来客をもてなす茶坊主のようなものだったのではないかといわれる。彼は恐らく相国寺にあって絵画修行に邁進していたのだろう。当時の京都五山は、“五山文学”とも呼ばれるように、儒学勃興の機運があり、漢籍詩文の研究が活発な時代だった。禅画としてスタートした日本水墨画も例外ではない。
 禅画僧の如拙とその弟子・周文、あるいは秀文に代表される興隆期を迎えていた。如拙は宋の馬遠・夏珪・牧渓らの水墨画を学び、多くの弟子を育てている。そして、これら3名の禅画僧は相国寺にいたのだ。雪舟は文字通り、京都という中央画壇の中心地にいたわけだ。
 ところが、「僧録司」の春林周藤は、相国寺山内の塔頭寺院は、文人画家の書斎やアトリエと化し、禅宗僧の修行は行われていない-との思いを強くし、山内の大改革を志した。そのため、雪舟は次第に窮屈な、身動きの取れない境遇へ、心身ともに追い詰められていったものとみられる。そして、寛正6年(1465)頃、彼は唐突に相国寺から姿を消し、漂泊の旅に出、周防の山口へ入る。雪舟
45歳前後のことだ。
 守護大名・大内氏の本拠地である山口は、対明貿易を背景に、経済・文化の一大中心地として栄えていた。雪舟はここで「雲谷庵」というアトリエを構え、画筆三昧の生活を送りつつ、中国渡航の機会を待った。応仁元年(1467)、遣明使節の末端の雑役で、48歳の彼は正使の船に乗り込む。京都で起こった応仁の乱で、遣明使の内部が分裂。結局大内氏の船だけが明国を目指し、翌年寧波に船は到着。雪舟は一行とともに、宋五山の一つ、天童山景徳寺に登った。そして3年ほど滞在し、精力的に風俗を見、中国の雄大さと水墨画の技法を学び続ける。しかし、当時の明の画壇には北宋や元のころのような活力はなく師匠として仕えるべき画人は見い出せなかった。
 ただ、明にあって雪舟の描く絵画に、時の憲宗皇帝をはじめ、多くの高官・文人は感嘆と賞賛の声を挙げた。彼は天童山第一座の位をもらい、「首座」(禅僧の最高位)の称号を得、首都の礼部院の壁画を描く名誉まで手に入れている。しかも、その出来栄えはすばらしかった。
 文明元年(1469)に帰国した雪舟は応仁の乱の戦火を避け、山口の「雲谷庵」に腰を据え、明国でみた宏大で荒っぽい気候と風土、赤土や岩石の山々を絵画の中で整理し、その中からきめ細やかな日本の山川草木を、改めて認識するようになる。日本の自然に魅かれて、行雲流水の旅に出ている。そして文明18年、終生の代表作といわれる『山水長巻』が完成した。延々16㍍にわたって描かれたこの作品は、中国で学んだ強靭な線と正確な構図法に加え、わが国の大和絵の手法が大胆に取り入れられた水墨画古今の傑作だ。これに続き『秋冬山水』『慧可断臂図(えかだんぴのず)』『花鳥屏風』、そして遂に80歳を過ぎて『天橋立図』へと到達する。明国にはなく、日本にしかない風景を彼は描き出したのだった。享年は83歳とも88歳などの諸説があって、いまだに定まっていない。

(参考資料)加来耕三「日本創始者列伝」

 

 

山田方谷 農民出身ながら藩政を代行 河井継之助が学んだ藩政改革の師

山田方谷 農民出身ながら藩政を代行 河井継之助が学んだ藩政改革の師
 最近ようやく注目を浴びるようになったが、山田方谷(やまだほうこく)の名を知る人はまだまだ少ないだろう。農民出身ながら徳川幕府最後のとき、首席老中を務めた備中松山藩(現在の岡山県高梁市)藩主・板倉勝静に代わって、家老として藩主の留守を守り抜き、藩政を代行した人だ。もっと知られているのが、明治維新直前の越後長岡藩を率いた河井継之助が学んだ藩政改革の師だ。
 岡山駅から鳥取県の米子に通ずる鉄道がある。伯備線という。この伯備線の備中高梁駅は山田方谷が活躍した最大の拠点だ。臥牛山と呼ばれる城山の山頂に松山城がある。麓に「牛麓舎」という塾の跡が残されているが、これが方谷の塾だ。このあたりには方谷林とか方谷橋など方谷の名がつけられた市民施設がたくさんある。それほど山田方谷は現在の高梁市民にとって誇れる存在なのだろう。伯備線でさらに20分ほど北へ向かうと「方谷」という駅に着く。この駅名も山田方谷の名を取ってつけられた。鉄道当局の強硬な反対に遭ったものの、最終的に住民たちの熱意が受け入れられ、全国のJRの駅の中でも珍しい人名が駅名となった第一号だった。
 山田方谷を登用した藩主板倉勝静は、もともと板倉家の人間ではない。板倉家の先祖は、京都所司代として有名な勝重であり、その子重宗である。勝静は桑名藩主松平定永の第八子で、天保13年(1842)に板倉家の当主勝職の養子となり、嘉永2年(1849)、27歳の時に藩主の座を継いだ。桑名の松平家は、「寛政の改革」を推進し、“白河楽翁”の号で有名な松平定信の子孫だ。こうした名家の血か、勝静は幕府の老中になることを熱望した。
 ただ、それには大きな障害を克服しなければならなかった。障害とは藩が極貧状態にあることだった。この頃、松山藩は窮乏のどん底にあり、藩の収入が雑税を含めて一切合財、換金しても5万両だというのに、その倍の10万両の借金を抱え込んでいた。これを解決しない限り、勝静の中央政界への進出は夢のまた夢だった。だが、勝静は山田方谷を登用することで、その夢を現実のものとした。全国政治に関わりたいという激烈な願望に突き動かされて、当時としては破天荒ともいえる方谷の登用をやってのけたことで、勝静は歴史に名を残すことができたのだ。
 方谷こと山田安五郎は文化2年(1805)、農業と製油業を営む山田五郎吉を父に、阿賀郡西方村に生まれた。家計は窮迫していたが、もとは武士だという家伝を誇りにしていた五郎吉は、苦しい中を息子の安五郎の教育に心をかけ、5歳の時、松山藩の北隣の新見藩儒丸山松隠のもとに入門させた。丸山塾で安五郎
はたちまち神童という評判をとり、6歳の時、新見藩主の面前で字を書いて見せたという。百姓の子が他藩主の前に出るなどということは異例中の異例のことだ。文政2年(1819)、15歳の時、父母を次々に亡くし、丸山塾での勉学を断念、西方村に帰り家業を継ぎ、鍬をふるい、製油業にも励んだ。17歳で結婚。
 家業に励みながらも、学問への願望はやみがたいものがあった。その方谷に運が拓ける。勝静が養子に入る前の松山藩が、方谷の学才を惜しんで、二人扶持を給してくれることになったのだ。一種の奨学金だ、藩校有終館での修学も許された。21歳の時のことだ。そして3度の京都への遊学、この過程で名字帯刀が許され、八人扶持を給される身となり、4度目は江戸へ遊学。当時の儒学の最高権威者であった江戸の佐藤一斎のもとでの2年余りの時間が、方谷をより大きくした。
方谷は佐久間象山と学問上のことで大激論し、互いに一歩も譲らなかったという。天保7年、帰藩した方谷は遂に藩校有終館の学頭となった。32歳だった。以来、城下に屋敷をもらい、私塾を開くことも許された。備中松山藩の藩儒としての方谷の地位は、これで不動のものとなった。
 嘉永2年(1849)、当主の養子で世子の勝静が襲封して新藩主となり、方谷を藩財政一切を任せるに等しい元締役兼吟味役として抜擢、登用する。身分制度の激しい当時のこと、百姓上がりの儒臣がいきなり藩政の中枢のポストに就くことには周囲の重臣たちの大反発があり、方谷自身もいったんは辞退した。しかし、方谷を使う以外に窮迫した藩財政を立て直す道はないとみた勝静の決意は固く、藩内の反対を抑え込んだことで、方谷も新藩主の期待に応えることを決心する。方谷45歳、勝静27歳のことだ。
 嘉永3年(1850)から備中松山藩の大改革が始まった。藩主から全権を委ねられて方谷は①自ら債権者が集中する大坂まで出向いて藩の内情を公開し、返済期限の5年ないし10年への変更、新しい借金はしない、借りた場合は必ず返済する②倹約(藩士の減俸、奢侈の禁止、宴会や贈答の禁止)③自分の家の出納を第三者に委任、家計を公開④撫育局を設置し殖産興業に務める-などを断行。
こうした一方で農兵制を敷いて「里正隊」を編成するなど軍制改革も行った。また、民間人のための学問所、教諭所を新設。貯倉を40カ所も設けて凶年に備えた。このほか、河川を活用して運送を便利にした。こうした諸施策が奏功、松山藩の方谷の改革は見事に成功した。この結果、藩主・勝静の中央政界への進出の夢実現の環境がようやく整ったわけだ。

(参考資料)童門冬二「山田方谷」、奈良本辰也「日本史の参謀たち」、司馬遼太郎「峠」

山岡鉄舟 江戸100万市民を戦火から救った江戸無血開城の陰の功労者

山岡鉄舟 江戸100万市民を戦火から救った江戸無血開城の陰の功労者
 明治維新の際、江戸城を平和のうちに明け渡し、江戸100万の市民を戦火から救った功労者の一人に、剣客山岡鉄舟がいた。江戸城明け渡しのための、西郷隆盛と勝海舟との江戸高輪の薩摩屋敷での会見には、実はこの山岡鉄舟も同席していた。
 会談が終わって、夕暮れ近くなってから、海舟が西郷を薩摩屋敷近くの愛宕山に誘った。愛宕山の上から江戸の市中を見て「明後日は、この江戸も焼け野原になるかもしれない」というと、西郷はそれには答えず、「徳川家はさすがに300年の大将軍だけあって、えらい宝物をお持ちですなあ」という。海舟が「徳川家の宝物とは何ですか」と聞く。すると、西郷はこの会談で西郷の身辺警護のためにずっと一緒にいた鉄舟をさして「あの人ですよ。あの人はなかなか腑の抜けた人だ。ああいう人は命もいらない。名もいらない。カネもいらない。実に始末に困る人だ。ああいう始末に困る人でなければ、天下の大事は共に語れない」と、こういう批評をした。
 鉄舟は江戸進軍の途中の西郷にすでに会っていた。上野寛永寺に謹慎中の徳川慶喜は、官軍の江戸入りを前に、静寛院宮ほか公卿を通じて恭順の意を伝える、いろいろな運動をしていた。それらがあまり成功しない中で、慶喜は側近の高橋泥舟に官軍の首脳部に直接交渉してくれるよう頼んだ。泥舟は辞退し、彼が最も信頼のおける人物として、義弟の鉄舟を推薦した。この時まで無名の剣客に過ぎなかった鉄舟は、慶喜の恭順を確かめたうえで、この大役を引き受けた。鉄舟は軍事総裁だった勝海舟に初対面した後、友人の薩摩藩士益満休之助を伴って、押し寄せる官軍の群れをくぐり抜け、駿府(現在の静岡)に陣取っていた西郷隆盛のもとまで出かけた。
 鉄舟の使命は「江戸城は平和裏に明け渡す。慶喜があくまで恭順の意を示していることを伝え、この慶喜を入城後の官軍がどう処するかを確認すること」などだった。勝と西郷との談判の前に、実は駿府での西郷、山岡の下交渉があって、これこそが劇的だったのではないかとの見方がある。勝海舟からの親書と、同伴の薩摩藩士益満休之助に助けられたとはいえ、無官の剣客鉄舟の、官軍総参謀西郷との談判は至難の交渉だったろう。西郷に対し権謀術数ではなく、死を覚悟して、ただ自分の誠心誠意をもってむき出しにいく。こうした鉄舟の姿勢、人間性が西郷の琴線に触れ、江戸無血開城となって結実したといえよう。
 徳川家の三河以来の旗本で、小野家というのがある。本家は210石余の身代だ。分家が四軒あるが、その一つに600石の身代の家がある。その何代目かに朝右衛門高福がいた。妻妾に7人の子女を生ませたが、妻と死別したので、常陸の鹿島神宮の神職塚原石見の二女磯と再婚して6人の男の子を生ませた。その後妻の生んだ一番上の子が、後に山岡鉄舟となる鉄太郎だ。
 鉄太郎は、天保7年6月10日江戸で生まれた。彼は武術に対して天性の素質と興味があった。小野家も代々武術に興味のある家柄だったが、母の生家塚原家は卜伝を出した家で、武術家の血筋だ。両家の遺伝だろう。9歳の時に、久須美閑適斎について、新影流の剣術と樫原流の槍術とを学んだ。11歳の時、父が飛騨高山の代官となって赴任したので、鉄太郎も連れていかれたが、ここで井上清虎について北辰一刀流を学んだ。井上は千葉周作の高弟だ。
 明治5年(1872)、鉄舟は西郷の推薦で明治天皇の侍従となった。平安朝以来、女官たちに囲まれていた天皇の生活に、武骨な男子の気風を注ぎ、宮中の空気を一変させようという西郷の宮中改革に協力したものだった。天皇の側近になってからも、鉄舟は一般の人と積極的に交わった。『怪談牡丹灯籠』をはじめ、多くの名作を生み、明治落語界の巨匠といわれた三遊亭円朝も、鉄舟の弟子の一人だ。

(参考資料)海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち」、海音寺潮五郎「江戸開城」、「日本史探訪22 /山岡鉄舟」(坂東三津五郎・大森曹玄)、五味康祐「山岡鉄舟」、藤沢周平「回天の門」

坂上田村麻呂 至難の蝦夷平定を達成した征夷大将軍第一号

坂上田村麻呂 至難の蝦夷平定を達成した征夷大将軍第一号
 奈良の平城京から京都の長岡京へ、そして平安京へと遷都が繰り返され、日本が新たな律令国家へと向かった歴史の転換期にあって、わが国最初の征夷大将軍、坂上田村麻呂の功績は絶大だった。
 第五十代桓武天皇は国家財政が破綻寸前にあった中で、奥州(陸奥・出羽)=東北の蝦夷の平定と、平城京から長岡京への遷都という難しい国家プロジェクトを並行して行うと宣言した。この計画は一見、一石三鳥に見えなくはなかった。成功すれば北方からの慢性的な脅威は去り、開拓された蝦夷地からは、莫大な税が徴収できる。その税を用いれば遷都は容易となり、天災の補填にも充てられる。
反面、この計画はリスクが大きかった。もし、蝦夷平定が順調に行かなかったらどうなるか。例えば奥州での戦線が膠着したら、兵站はそれだけで国家財政を瓦解させてしまうに違いなかった。そうなれば遷都どころか、国家は立ち往生を余儀なくされ、朝廷の存立自体が問われて、分裂・混乱の事態が出来しかねなかった。心ある朝廷人はこぞって桓武帝の壮挙を危ぶんだが、日本史上屈指の英邁なこの天皇は、自らの計画を変更することはなかった。
そして、この危惧は不幸にして的中してしまう。延暦3年(784)2月、万葉の歌人として著名であり、武門の名家でもあった陸奥按察使兼鎮守将軍の大伴家持が持節征東将軍に任じられ、7500の兵力とともに出陣したが、途中で急逝してしまう。また、長岡京の造営も桓武帝の寵臣で造営の責任者でもあった藤原種継が暗殺され、暗礁に乗り上げてしまう。延暦7年、今度こそはと勇み立った桓武帝は「大将軍」に参議左大弁正四位下兼東宮大夫中衛中将の紀古佐美(56歳)を任じ、5万2000人余の朝廷軍を編成して蝦夷へ派遣した。
しかし、地の利を生かした徹底したゲリラ戦に遭い、古佐美の率いた軍勢は壊滅的な大敗を喫してしまう。まさかの敗戦に、大和朝廷は存亡の危機を迎えた。兵力は底をつき、軍費も枯渇している。長岡京に続いて桓武帝が決断した平安京への遷都の事業も、もはや風前の灯となっていた。
この最悪の状態の中で桓武帝が切り札として北伐の大任に抜擢したのが坂上田村麻呂だ。延暦9年、田村麻呂32歳の時のことだ。ただ、その将才はほとんど未知数だった。正確に記せば初代の征夷大将軍は61歳の大伴弟麻呂が任命されている。弟麻呂は大伴家持が持節征東将軍となったおり、征東副将軍として兵站の実務を執った人物だ。田村麻呂は「征東副使」=「副将軍」への抜擢だった。だが、老齢の弟麻呂は軍勢を直接指揮することをせず、代わって実際の現地指揮は田村麻呂に一任された。
彼は可能な限りの兵力を動員し、征討軍を10万で組織したが、それをもって蝦夷と一気に雌雄を決することはしなかった。武具・武器をひとまず置き、将士には鋤や鍬を持たせた。そして、荒地を開墾しながら、防衛陣地を構築しては、徐々に最前線を北上させていったのだ。相手が攻撃してくれば、容赦なくこれを撃退したが、彼は蝦夷に対し“徳”と“威”をもって帰順を説き、農耕の技術まで教えるという懐柔策を取った。延暦16年11月5日、田村麻呂は「征夷大将軍」となり、4年後の44歳の時、遂に至難の蝦夷平定を達成した。
延暦24年6月、参議に任ぜられ、第五十一代平城天皇、第五十二代嵯峨天皇の御世まで生き続ける。弘仁2年(811)、54歳で病没すると、その亡骸は勅令により、立ちながら甲冑兵仗を帯びた姿のまま葬られたという。

(参考資料)加来耕三「日本創始者列伝」、司馬遼太郎「この国のかたち」、「日本の歴史4/平安京」北山茂夫

 

 

 

 
                             

佐久間象山 幕末、一貫して開国論を唱え続けた天才・自信家

佐久間象山 幕末、一貫して開国論を唱え続けた天才・自信家
 佐久間象山は元治元年(1864)7月11日夕刻、京都三条木屋町で刺客、肥後藩士・河上彦斎に暗殺された。享年54歳だった。象山は当時でも稀な大自信家だった。果たして実像はどうだったのか。
佐久間象山の塾で教えを受けた吉田松陰は、兄の杉梅太郎に送った手紙のなかで、象山を「慷慨気節あり、学問あり、識見あり」と称え、「当今の豪傑、江戸の第一人者」と記し、山鹿素水・安積艮斎らをも凌ぎ「江戸で彼にかなう者はありますまい」とまで書いている。象山には“大法螺(おおぼら)吹き”とか“山師”といった批判もあった反面、非常に見識のあった人物だ。ペリーの来航を機に攘夷の虚しさを認識し、これ以後、開国策を終始一貫して全く変えないで、あの時代に主張したのは彼だけだ。象山とともに開国論を唱えていた横井小楠は攘夷の側へブレているが、30年間ずっと世界の大勢を説いて、開国論を唱えてきたのは彼以外にいないのだ。
 象山の言葉にこんなのがある。
「余、年二十以後、すなわち匹夫にして一国に繋ることあるを知る。三十以後、すなわち天下に繋ることあるを知る。四十以後、すなわち五世界に繋ることあるを知る」 
 意味するところは、20代は松代藩、つまり藩単位でものを考えていた。30歳を過ぎると、天下=日本の問題としてすべてを考えるようになってきた。40歳以降になると、全世界というものを考えるようになってきた-というわけだ。勉強すればするほど問題意識が広がるし、それにつれて自分の使命感も重くなる。そんな心境を表現しているとみられる。
 勝海舟の妹にあたる妻の順子に、象山自作のカメラのシャッターを押させて撮った写真が残っている。晩年の象山の姿だという。これをみると、象山は西洋人ではないかと思われるような、ちょっと変わった顔をしている。安政元年正月、ペリーが和親条約締結のため二度目に日本に来たとき、象山は横浜で応接所の警護の任にあたっていて、たまたま、ペリーが松代藩の陣屋の前を通り、軍議役として控えていた象山に丁寧に一礼したことがあったという。日本人でペリーから会釈されたのは象山だけだというので、当時、語り草になった。これは象山の風采が堂々としていて、当時の日本人としては異相の人だったことを物語るエピソードだ。
 象山は天才意識が強く、大変な自信家だった。彼は自分の家の血統を誇りに思って、優れた子孫を遺そうと必死になっている。蘭学の勉強を始め、普通は1年かかるオランダ文法を大体2カ月でマスターした。そして8カ月も経った頃には、傍らに辞書をおけばもうすべて分かるようになったと手紙に書いている。ショメールの百科全書を読みながらガラスを作ったりもしているのだ。また、大真面目にあちこちへお妾さんを世話してくれという手紙を書いている。これも自分のような立派な男子の種を残すということは、国家に対して忠義だというような調子で語っている。少し度を超えた自信家である。現代の日本人にぜひ欲しいくらいの自信だ。
 象山は文化8年(1811)、信州松代藩の下級武士の家に生まれた。彼は誰に教わることもなく、3歳にして漢字を覚えた。早くから彼の才能に目をつけた城主、真田幸貫の引き立てで学問などに修養。天保12年(1841)幸貫が幕府の老中に就任するや、翌年、彼を海防係の顧問に抜擢した。象山32歳のことだ。それまで漢学に名をなしていた象山が、洋学に踏み入ったのもこの幸貫の信頼に報いるためだった。優れた漢学者としての“顔”に加え、後半生、洋学に心血を注いだ象山は、それがもたらした科学を西洋の芸術と称え、これと儒教の道徳との融合を自分の人生と学問の究極と考えていた。
 幕末、京都における象山の立場はかなり自由なものだった。彼は幕府の扶持を貰いながら、山階宮や一橋慶喜からの招請に応じ西洋事情を説くなど、その諮問に応じ、また朝廷に対する啓蒙活動を続けていた。ただ彼が日本の将来を考えて飛び回り、活躍すればするほど、その死期が刻々と近づきつつあった。
彼のその風采ともあいまって、京の街では目立ち過ぎたのだ。
 象山を暗殺した河上彦斎は、幕末の暗殺常習者の中でも珍しく教養のある方だったが、この後、彼は人が変わったように暗殺稼業をやめた。斬った瞬間、斬ったはずの象山から異様な人間的迫力が殺到してきて、彼ほどの手だれが、身がすくみ、心が萎え、数日の間、言い知れない自己嫌悪に陥ったという。

(参考資料)奈良本辰也「歴史に学ぶ」、日本史探訪/開国か攘夷か「佐久間象山 和魂洋才、開国論の兵学者」(奈良本辰也・綱淵謙錠)、奈良本辰也「不惜身命」、奈良本辰也「幕末維新の志士読本」、平尾道雄「維新暗殺秘録」、司馬遼太郎「司馬遼太郎が考えたこと4」

高野長英 鳴滝塾でシーボルトの薫陶を受けたオランダ語の天才

高野長英 鳴滝塾でシーボルトの薫陶を受けたオランダ語の天才
 高野長英は文化元年(1804)、水沢藩士後藤実慶の三男として生まれた。9歳のとき父が病死したため母は実家の高野家に戻り、長英は母の兄である水沢藩医、高野玄斎の養子になった。
 長英は18歳のとき、養父の玄斎の反対を押し切り、江戸へ遊学。故郷を出奔同様に離れた折の後ろめたさは、彼の胸に深い傷として残されたが、江戸に着いてからの記憶も苦々しいもので、生活費にも事欠く有様だった。
翌年、内科専門の蘭方医として知られる吉田長淑の塾に学僕として入門し、ようやく学問に専念できるようになった。彼の学才は次第に発揮され、長淑は彼の将来性を認め、それまで高野郷斎と名乗っていた彼に、自分の長淑の長の一字を与えて、長英と改めさせた。
長英の人生において大飛躍のきっかけとなったのが、21歳のときのシーボルトが主宰する長崎・鳴滝塾への入塾だ。文政8年(1825)、長英は長崎の医師、今村甫庵に誘われ、長崎に赴く。長崎には2年前に来日したシーボルトが郊外の鳴滝に塾を開き、すでに湊長安、岡泰安、高良斎、岡研介、二宮敬作ら全国の俊秀が、塾生として蘭学の修業に専念していた。
当初、学力の乏しさに暗い気持ちになった長英だったが、生まれつき語学の才に恵まれていた彼は、塾の空気に慣れるにつれて頭角を現した。シーボルトは、長英の才質を高く評価し、様々なテーマを彼に与えた。長英もこれに応え、5歳年長の初代塾長の岡研介とともに鳴滝塾の最も優れた塾生と称されるまでになった。
長英は、三河国田原藩年寄末席の渡辺崋山に初めて会った天保3年、わが国最初の生理学書「西説医原枢要」を著し、優れた語学力を駆使して洋書を読みあさり、医学、化学、天文学への知識を深めていた。さらに崋山との接触によって、社会に対する関心も抱くようになった。
しかし、暗雲もかかり始めた。崋山が「慎機論」、そして長英が「夢物語」を書き、幕府の対外政策に対する危惧を訴えたことなどがきっかけとなり、「蛮学社中」が幕府の目付鳥居耀蔵に目をつけられることになった。鳥居は大学頭林述斎の子で儒学を信奉し、極端に洋学を嫌っていて、崋山とその周囲に集まる洋学者に激しい反感を抱いていた。それは生半可なものではなく、その矛先は崋山と親しく交わり西洋の知識を身につけた川路聖謨(としあきら)、江川英龍らの幕臣にも向けられたほど。これが近世洋学史上、最大の弾圧である“蛮社の獄”に発展する。
天保10年(1839)5月、崋山が投獄され、その4日後、長英は北町奉行所に自ら赴いた。長英は追放刑程度で済むと思っていたのだが、投獄7カ月余の後、申し渡された刑は、死ぬまで牢内生活を強いられる永牢だった。それから6年後、小伝馬町の牢に不審火があって、囚人が一時、解放される。長英もその一人として一散に走り出た。そして彼は3日の期日が過ぎても牢へ帰らなかった。
こうして友人、門弟たちとも消息を絶ち、彼の孤独な逃亡生活は始まった。北は陸奥国水沢から南は鹿児島へ逃れたとされる。「沢三泊」と名を変え、悲惨な逃亡生活だったが、西南雄藩に身を寄せた時期もあった。中でも伊予宇和島藩主・伊達宗城や薩摩藩主・島津斉彬庇護のもとに洋書を翻訳したりした時期もあった。
というのは当時、西洋の軍事、砲術を取り入れようとすると、オランダ語が必要になる。当時、日本で一番語学ができるのは、万人が認めるところ高野長英だ。師、シーボルトは単に医学だけでなく百科学、いわゆる科学全般を教えるという立場で鳴滝塾を開いていたのだ。
その当時の軍事では、一番必要なのが「三兵」に関する訓練だった。三兵とは歩、騎、砲で、三兵をいかに把握して、これを総合的に動かすかということが用兵のポイントだ。それを最もうまく駆使したのがナポレオンだ。そのナポレオン戦法を書いたのが『三兵答古知幾(さんぺいタクチーキ)』。だから、この本をぜひ翻訳したい。ところが、この日本語訳をやれるのは、長英以外にはいないといわれていたわけだ。
長英は宇和島でこれを翻訳し、砲台建設の指導をする。逃亡中の身で彼はこれらのことをやったのだ。薩摩藩主・島津斉彬は後にこの翻訳書をもとに大訓練をやっている。
 長英にようやく少しは穏やかな生活が訪れるかにみえた矢先、不幸に襲われる。逃亡・潜行生活5年、嘉永3年(1850)10月11日、江戸・青山百人町で夫婦に子供3人の「沢三泊」という町医者が高野長英であることを突きとめた捕方に取り囲まれ、彼は小刀をのどに当て、頚動脈を断ち切り自決した。47歳だった。

(参考資料)吉村昭「長英逃亡」、奈良本辰也「不惜身命」、同「歴史に学  ぶ」、山手樹一郎「群盲」、杉本苑子「みぞれ」

 

 

橋本左内 幕政改革の半ばで散った早熟の天才リーダー

橋本左内 幕政改革の半ばで散った早熟の天才リーダー
 橋本左内(景岳)は、天保5年(1834)3月11日、福井藩奥外科医橋本
彦也長網の長男として、越前福井城下に生まれ、安政6年(1859)10月7
日、「安政の大獄」により江戸伝馬町の獄舎で斬首された。その生涯は、
わずか26年である。そして、藩主・松平慶永(春嶽)の命を帯びて、水戸
薩摩など雄藩と朝廷の間を駆け巡った期間はほんの1~2年位にすぎない
にもかかわらず、彼は偉大な足跡を遺したと言わざるを得ない。
 左内は早熟の天才だった。幼少時の彼は父の志士的気概の影響を多分に
受けて育ち、7歳の時から漢籍・詩文・書道などを学び始めるとともに、
12歳で藩立医学所済世館に入学した。これは医家の子弟としては予定され
たコースだが、その傍ら武芸の稽古にも熱心だったというところに、父の
影響がはっきり表れている。
 15歳の時、左内は藩儒吉田東篁に師事して経書を学んだ。彼はよほど傑
出した学問的能力に恵まれていたようで、ここでも高い評価を得ている。
 嘉永元年(1848)、数えで15歳の左内は感興の赴くままに『啓発録』と
題する手記を著した。この中で彼は、武士であった7、8代前の祖先と
同じく士籍に列し、堂々と政治の世界で腕を振るってみたいが、医家の
長男に生まれたことで、自分の志を成し遂げることができないことを嘆い
ている。
左内が大坂・適々塾に入門したのは、嘉永2年(1849)、主宰者の緒方
洪庵が種痘事業に本腰を入れ始めた前後のことだった。その当時、同塾
の塾頭は大村益次郎だったが、残念なことに左内と益次郎の交遊に関し
ても詳しくは分からない。察するに、同塾での左内はひたすら勉学に打
ち込んだようだ。福沢諭吉の『福翁自伝』などに記された、自由闊達で
いささか放恣な塾風に対しても左内は同化せず、終始批判的な態度を取
り続けた。
彼は同塾所蔵の原典をことごとく読破し、原典の筆写の誤謬を訂正できるほどの学力を備えるまでになった。その精進ぶりは、洪庵からも高く評価され「いずれわが塾名を上げるものは左内であろう、左内は池中のこう竜である」との褒詞を授けられたという。「池中のこう竜」とは、やがて時を得れば天下に雄飛するに違いない英雄・豪傑のことをさす。
 適々塾での修学は、左内に福井藩第一号の給費生という栄誉をもたらしたが、何とか医家から武士身分に取り立てられたいという彼の切なる期待も虚しく、2年と3カ月ほど後にピリオドが打たれる。嘉永5年(1852)閏2月、父の病臥の報を得たからだ。父が左内の治療の甲斐なく没したことで、藩命により橋本家を相続。父と同じく藩医に任じられて職務に精励する。とはいえ、藩医の地位に安住する日々の過ごし方は、彼にとっては不本意だった。
 安政元年(1854)、彼は藩当局に江戸遊学を願い出る。江戸の土を初めて踏み、坪井信良、次いで杉田成卿・戸塚静海に師事して蘭学を究めようとした。彼はこの江戸でまた学問上の頭角を現し、幾人かの人々から賞賛を浴びる。その結果、安政2年(1855)、「医員を免じて士分に列す」という藩命が下り、遂に晴れて藩士の身分を獲得したわけだ。
 安政4年(1857)正月、左内は藩校明道館の学監心得となって、藩校の教育体制改革の中心的地位に昇りつめる。左内23歳のことだ。さらに、藩主春嶽はこの青年を国事周旋の場における己の片腕とすることに決める。同年8月、左内は春嶽の侍読兼御用掛に任命され、以後、一橋慶喜を推す将軍継嗣に関する春嶽のブレーンとして、一橋派の雄藩(薩摩・土佐・宇和島・水戸)への周旋や大奥、そして京都・朝廷に対する工作のため、精力的に入説してまわった。
その結果、いったんは幕閣内でも一橋慶喜こそ次期将軍に相応しいといわれた。だが、井伊直弼の大老就任で事態は急転、紀州藩の慶福を推す南紀派が勝利。一橋派に厳しい処分を下されることになる。井伊直弼による「安政の大獄」の幕が切って落とされるのだ。
 左内は1年余りの取り調べの結果、安政6年(1859)10月7日、江戸伝馬町の獄舎刑場で斬罪に処された。数えの26歳だった。島流しに遭い、南の島でこれを聞いた西郷隆盛は「橋本さんまで殺すとは、幕府は血迷っている。命脈は尽きた」と嘆息したという。同じ獄舎につながれた吉田松陰の刑死に先立つこと、ちょうど20日前の処刑だった。両者は互いにその名を知り、同じ獄舎にあることを知りながら、遂に相まみえる機会を持てなかった。

(参考資料)百瀬明治「適塾の研究」、橋本左内/伴五十嗣郎全訳注「啓発録」、奈良本辰也「歴史に学ぶ」、海音寺潮五郎「史談 切り捨て御免」、津本 陽「開国」

 

 

槇村正直 東京奠都後の京都の近代化政策を推進した中心人物

槇村正直  東京奠都後の京都の近代化政策を推進した中心人物
 槇村正直(まきむらまさなお)は明治時代初期、東京奠都で衰退しつつあった京都の近代化政策を強力に推進した中心人物だ。当時、全国に先駆けて行おうとしたものも少なくなかった、槇村の施策に呼応した「町衆」と称される商工業者たちにより、京都の近代化が確立していった。槇村の生没年は1834(天保5)~1896(明治29年)。
 槇村正直は山口県美東町出身。長州藩士羽仁正純の二男として生まれ、槇村満久の養子となった。初名は半九郎、のち龍山と号した。
 槇村の出世は藩閥を抜きには語れない。1868年(明治1年)、長州出身で維新政府の要職に就いた木戸孝允は、幕末時代から連絡役として重用してきた同じ長州出身の槇村を京都府に出仕させ、政治の世界の経験に乏しい初代京都府知事の長谷信篤の補佐をさせた。槇村は議政官試補皮切りに、徴士・議政官、大阪府兼勤。そして権弁事を経て京都権大参事となった。1870年の小野組転籍事件に関連し、謹慎を命じられたが、その後、34歳の若さで1871年、京都府大参事となり、実質的に京都府の政治の実権を左右できる立場になった。長谷知事退任に伴い、1875年京都府権知事になり、1878年第二代京都府知事(1875~1881年)に就任した。彼は会津藩出身の山本覚馬と京都出身の明石博高ら有識者を重用して、果断な実行力で文明開化政策を推進した。
 槇村が行った主な京都近代化政策は①1869年(明治2年)、小学校の開設②1870年(明治3年)、舎蜜局(せいみきょく)の創建③1871年(明治4年)、京都博覧会の開催④1872年(明治5年)、都をどりの創設⑤1872年(明治5年)、新京極の造営⑥女紅場(にょこうば)の創建-などだ。
全国に先駆けて学区制による小学校開設に着手し、町組ごとに64校の小学校をつくった。大阪市本町の舎蜜局とは独立して、京都における舎蜜局(理化学工業研究所)を明石博高の建議により、京都の産業を振興する目的で、槇村が勧業場の中に仮設立した。理化学教育と化学工業技術の指導機関として、ドイツ人科学者ワグネルら外人学者を招き、島津源蔵ら多くの人材を育て京都の近代産業の発達に大きく貢献した。博覧会は日本で最初で、三井八郎衛門や小野善助、熊谷直孝ら京都の有力商人により主催され、西本願寺を会場に1カ月間開催され入場者は約1万人。
 都をどりは槇村の提案で京都博覧会の余興として開催された。これにより、本来座敷舞だったものを舞台で大掛かりに舞うようになった。新京極は寺町通の各寺院の境内を整理して、その門前の寺地を接収して寺町通のすぐ東側に新しく1本の道路をつくり、恒常的に賑わう繁華街をつくり上げた。女紅場は女子に裁縫、料理、読み書きなどを教えるため設立された日本で最初の女学校だ。
 こうして生産機構や技術面で飛躍的な発展を遂げた京都の産業は、海外貿易などでも躍進を遂げた。これは槇村の積極的な助成と西洋の技術文化導入による近代化の成果だった。ただ、近代国家の体制ができ上がり、地方政治の制度が整ってくると、槇村の裁量権の幅も次第に縮小し、やや強権的な政治手法は新たにできた府議会などとの対立も引き起こした。
 槇村は1881年(明治14年)辞表を提出、知事の座を北垣国道に譲って京都を去った。そして東京へ移って、元老院議官となり、行政裁判所長官(1890~1896年)、貴族院議員(1890~1896年)などを歴任した。

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」

 

北条義時 若いときは平凡人、だが中年から凄腕の政治家へ大変身

北条義時 若いときは平凡人、だが中年から凄腕の政治家へ大変身
 人には早熟型と大器晩成型のタイプがある。ここに取り上げる北条義時は、まさに後者のタイプだ。彼は40歳を超えたころから、鎌倉幕府内で不気味な光を放ち始めたのだ。伊豆の小豪族、北条氏が財閥クラスの大豪族と付き合ううち、徐々に実力を付け、人々が気がついたとき、いつの間にか北条氏は、幕府内で押しも押されもせぬ大派閥に伸し上がっていた。
頭がよくて、大胆で、しかも慎重で、ちょっと見には何を考えているのか分からないような男、それが北条義時だった。病的なくらいに用心深く、疑り深い人物だったあの源頼朝でさえ、信用し切っていたというから、“猫かぶり”の名人だったかも知れない。そして、源氏の「天下」を奪ったのは紛れもなく、この北条義時なのだ。義時は恐らくこう宣言したかったに違いない。「天下は源氏の天下ではなく、武士階級全体の天下であり、源氏はその本質は飾り雛に過ぎない」と。
 北条義時の父は時政。姉は政子、つまり源頼朝は彼の義兄にあたる。彼が17、18歳になったころ、頼朝の挙兵があり、一家は動乱の中に巻き込まれるのだが、その中で彼は目立った活躍はしていない。平家攻めにも出陣しているが、彼の手柄話は全くない。つまり、このころは面白くもおかしくもない、極めて印象の薄い人物だったのだ。それから約10年、鳴かず飛ばずの日々が続く。気の早い人間が見たら、「こいつはもう出世の見込みはない」と決め込んでしまうところだ。
 ところが、義時は40歳を超えてから輝きだす。初めは父の時政の片腕として、後にはその父さえも自分の手で押しのけて、姉の政子と組んで、北条時代の基礎を固めてしまう。彼はいつも姉の政子を上手に利用した。頼朝の未亡人だから、政子の意志は随分権威があったのだ。政子には男勝りの賢さがあった。また彼女は、頼朝との間に生まれた頼家(二代将軍)や実朝(三代将軍)にはもちろんのこと、頼家の子の公暁にも深い愛情を持っていた。そんな政子は義時の巧妙で自然なお膳立てにあって、それを支持しないわけにいかず、遂に婚家を滅ぼし、その天下を実家のものにしてしまう結果になった。
結果的に北条氏の勢力拡大に大いに手を貸したのが、鎌倉三代将軍源実朝だった。実朝はもはや政治への出番がなく、彼自身はいわば北条氏の“操り人形”に過ぎず、実権のない将軍を演じることと引き換えに、和歌の世界を生きがいとして、のめり込んでいったからだ。実朝は藤原定家に和歌を学び、京都風の文化と生活に傾斜していった。武士団の棟梁であるはずの鎌倉殿のそんな姿に関東武士たちの間に失望感が広がっていった。
 北条義時はこの情勢を格好の機会とみて、“源氏将軍断絶”と“北条氏による独裁支配”の計画を推し進めたのだ。義時は1213年(建保1年)、関東の大勢力の和田義盛を打倒。これまでの政所別当に加え、義盛が担っていた侍所別当を合わせて掌握。これにより政治権力と軍事力、北条義時はいまやこの二つを手中にした。そして、いよいよ北条氏による執権政治の基礎を築いたわけだ。
 実朝暗殺事件はこれまで、北条義時の企んだ陰謀と思われてきた。彼の辣腕ぶりをみれば、そうみられるのもやむを得ないことだし、政治・軍事両面をわがものとした義時が、将軍の入れ替えを計画したのではないかと誰しも考えるところだ。ただ、この暗殺事件を企図したのが、北条氏でなくて、ライバル潰しを目的としたものだったと仮定すれば、事件の首謀者は北条氏のライバル=三浦氏一族とも見られるのだ。
 ともかく、こうして幕府は北条氏のものとなった。将軍はいても何の力もない“ロボット”で、義時が執権という名で、天下の政(まつりごと)を取ることになったのだ。
 また、「承久の乱」の毅然とした後処理によって、北条義時は北条執権体制をいよいよ確立する。承久の乱は、実朝の後継者をめぐって、幕府側が朝廷に後鳥羽上皇の皇子をもらい受けたいと申し入れたのに対し、後鳥羽上皇側が交換条件に土地の問題を持ち出し幕府に揺さぶりをかけ、地頭職の解任要求を打ち出してきたのだ。ここは義時が頼朝以来の原則を守り通し、後鳥羽側の要求を拒否した。これに対し、後鳥羽側も皇子東下はピシャリと断ってしまった。ただ、朝廷側にとってそのツケは大きかった。義時は後鳥羽上皇以下の三上皇と皇子を隠岐、佐渡などに配流処分として決着した。
 北条執権体制、この政治形態を永続性あるものにしたのは義時の子、北条泰時だ。

(参考資料)永井路子「源頼朝の世界」、永井路子「炎環」、永井路子「はじめは駄馬のごとく ナンバー2の人間学」、安部龍太郎「血の日本史」、海音寺潮五郎「覇者の条件」、司馬遼太郎「街道をゆく26」

福沢桃介 日本の電力王で、公私とも破天荒貫いた一流の実業家

福沢桃介  日本の電力王で、公私とも破天荒貫いた一流の実業家
 福沢桃介は福沢諭吉の女婿だが、「日本の電力王」と呼ばれたほか、エネルギー、鉄道など国のインフラに関わる事業会社や、後年、一流企業に育つ様々な会社を次々に設立した、一流の実業家だった。のち明治45年から一期だけだが政界にも進出、代議士となり政友倶楽部に属した。ただ、政治家は肌に合わないと痛感したのか、その後は絶対に政治には出なかった。後年は愛人“日本初の女優”川上貞奴と同居し、夫婦同然の生活だった。まさに、事業においても、プライベートな生活においても、一般的な常識ではとても計れない破天荒な人物だった。生没年は1868(明治元年)~1938年(昭和13年)。
 福沢(旧姓岩崎)桃介は武蔵国横見郡荒子村(現在の埼玉県吉見町)の農家に生まれ、川越の提灯屋岩崎家の次男として育った。彼の人生に、最初の大きな転機が訪れるのが大学生のときだ。慶応義塾に在学中、福沢諭吉の養子になり、20歳で入籍。米国留学を終えて22歳で諭吉の次女、房(ふさ)と結婚したのだ。しかし、福沢家には4人の息子がおり、「養子は諭吉相続の養子にあらず、諭吉の次女、房へ配偶して別居すること」と申し渡されていた。大学卒業後、北海道炭礦鉄道(のち北海道炭礦汽船)、王子製紙などに勤務。
桃介はこのころ肺結核にかかり、1894年から療養生活を余儀なくされた。療養の間、株取引で貯えた財産を元手に株式投資にのめり込んだ。当時は日清戦争の最中で、日本勝利による株価の高騰もあり、当時の金額で10万円(現在の20億円前後)もの巨額の利益を上げたという。
破天荒な生き方はまだまだ続く。病癒えた彼は独立して丸三商会という個人事業を興す。この事業も結局は頓挫。その最中に再び喀血、入院する。しかし、ここでまた不運と隣り合わせの幸運を掴んで起き上がる。株だ。今度は日露戦争前後の一大株式ブームに便乗して、たちまち200万円を儲けるのだ。
1906年、瀬戸鉱山を設立、社長に就任。木曽川の水利権を獲得し、1911年、岐阜県加茂郡に八百津発電所を築いた。1924年、恵那郡に日本初の本格的ダム式発電所である大井発電所を、1926年に中津川市に落合発電所などを次々建築。1920年に五大電力資本の一角、大同電力(戦時統合で関西配電⇒関西電力)と東邦電力(現在の中部電力)を設立、社長に就任。この事業によって「日本の電力王」と呼ばれることになる。
1922年には東邦瓦斯(現在の東邦ガス)を設立、他にも愛知電気鉄道(後に名岐鉄道と合併して名古屋鉄道となる)の経営に携わったほか、大同特殊鋼、日清紡績など一流企業を次々に設立。その後、代議士にもなり、政友倶楽部に属した。
こうして福沢桃介はほとんどあくせくせずに、人生とビジネスを同時に楽しみながら、生来の楽天主義と、義父福沢諭吉直伝の独立自尊の精神を通し、気ままに生きた。有名な、名妓、名女優とうたわれた川上貞奴とのロマンスもそうしたものの一つだったのだろう。60歳で実業界を引退してからは、文筆に明け暮れ、悠々自適の余生を楽しんだ。
桃介が興し、育てた様々な事業は彼の後輩で、後年「電力の鬼」と呼ばれるようになった松永安左衛門に引き継がれた。

(参考資料)小島直記「人材水脈」、小島直記「まかり通る」、小島直記「日本策士伝」、内橋克人「破天荒企業人列伝」

中島知久平 日本初の民間飛行機製作所を設立した飛行機王

中島知久平  日本初の民間飛行機製作所を設立した飛行機王
 中島知久平はわが国史上最大の軍需工場、中島飛行機製作所の創立者だ。大正・昭和初期にかけて国防思潮の主流となった「大艦巨砲主義」に異を唱え、早くから「航空機主義」を主張。「飛行機報国」の信念から、慣例を破って海軍を中途で退役し、日本初の民間飛行機製作所(後の中島飛行機株式会社、後の富士重工業)を設立。戦争拡大とともに軍用機生産で社業を拡張し、陸軍戦闘機「隼」はじめ飛行機の3割近くを独占生産する大企業に成長させた、日本では稀有な経歴を持つ大正・昭和期の実業家、政治家だ。生没年は1884(明治17)~1949年(昭和24年)。
 中島知久平は群馬県新田郡尾島村字押切(現在の群馬県太田市押切町)で、比較的豊かな農家の長男として生まれた。明治33年、17歳で家出を敢行。独学により海軍機関学校に入学し卒業。卒業後、中島は二つのことで注目を集めた。一つは「常磐」乗務のとき発明を構想した。艦船が編隊で航行するとき、各艦は一定の間隔を保つ必要がある。中島のアイデアは、そのためのエンジンの回転数を自動調整するメカニズムだった。頻繁に回転数を操作しなくていいから、運転者の負担が減り、石炭消費量を節約することができる。
 いま一つは「石見」乗務のころ、兵器としての飛行機の可能性に着目したことだ。海軍飛行機専門家として1910年、フランスの航空界を視察し、1912年
にはアメリカで飛行機組み立てと操縦術を学び、1914年に再度フランスに渡った。訪仏前に「大正三年度予算配分ニ関スル希望」を上司に提出した。中島は「大艦巨砲主義」を批判し、貧国が採用すべき航空機戦略主張した。軍人としては軍政と兵術に優れていた。
中島は、明治40年代初めより憑かれたように、航空機の研究に熱中した。横須賀海軍工廠内飛行機工場長を経て1917年(大正6年)に大尉で退官。同年飛行機研究所を創立。中島35歳のことだ。同研究所は後に中島飛行機株式会社と改称し、日本初の民間飛行機会社となった。軍用機生産で社業を拡張し大企業に成長させ、戦時下に一大軍需会社として発展した。
 太平洋戦争前から敗戦に至るまで、「愛国」「報国」「隼」「零戦(三菱が設計士、製造の半数を受け持った)」「疾風(はやて)」といった数々の軍用機を、次々とつくりだしたのが中島飛行機だ。中島知久平が築き上げたものは、世界に類のない巨大な」「軍需産業王国」で、最盛期の昭和20年には全国に工場100カ所、敷地面積合わせて1500万坪。就業人員26万人という膨大なもの。昭和50年ごろのわが国最大規模の企業であった新日鉄の就業者数が約7万人だから、当時の中島飛行機からみれば、約4分の1といったところだ。まさにわが国、空前絶後のマンモス企業家だったといえよう。
中島は1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に群馬5区から立憲政友会公認で立候補して初当選した。翌年、中島飛行機製作所の所長の座を弟、喜代一に譲り、営利企業の代表をすべて返上、政治家の道を歩き出した、その後も衆議院議員当選5回。その豊富な資金力をバックに、所属する“政友会の金袋”ともいわれた。商工政務次官を経て、第一次近衛文麿内閣の鉄道相を務めた。1938年以降、鳩山一郎と党総裁の地位を争い、翌年4月分裂後の党総裁(中島派政友会)となった。
その後、内閣参議、大政翼賛会総務などを経て、1945年敗戦直後、東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)内閣の軍需相となった。その後、GHQによりA級戦犯に指定され自宅拘禁となったが、1947年(昭和22年)解除、釈放された。

(参考資料)豊田穣「飛行機王 中島知久平」、内橋克人「破天荒企業人列伝」

 

前野良沢 蘭学に一生を捧げた『解体新書』発行の真の功績者

前野良沢  蘭学に一生を捧げた『解体新書』発行の真の功績者
 前野良沢といっても、いつ、どのようなことを成した人物かと問われても、とっさには出ない人が多いのではないか。良沢はオランダ医書『ターヘル・アナトミア』を翻訳した『解体新書』の編纂に携わった主幹翻訳者の一人だ。ところが、解体新書発行当時、良沢は自らの名前を出さなかったため、その業績は知られておらず、『解体新書』発行の功績は杉田玄白一人に帰した感がある。だが、現実に即していえばオランダ語に群を抜いた知識を持つ良沢を除外しては、翻訳事業が成り立たなかった。ひいては、1774年時点で、内容的にあのレベルの『解体新書』刊行はなかったと思われる。
杉田玄白はターヘル・アナトミアの翻訳事業を推進させた功績者ではあった。だが、彼にはその翻訳を一日も早く公にすることで名声を得たいという野心も十分にあった。それは人間としてある意味では当然の欲望だったが、学究肌の良沢にはそれが度を超えたものとして映った。そのため、良沢は翻訳事業が終了したとき、『解体新書』はまだ不完全な訳書であるとし、刊行はさらに年月をかけた後に行うべきだと考えていた。しかし、玄白は刊行を急いだ。良沢はそれについていく気になれず、学者としての良心から自分の名を公にすることを辞退した。玄白はそれを素直に聞き入れた。その結果、『解体新書』の訳者は杉田玄白ただ一人となったのだ。
 『解体新書』が華々しい反響を得た中で、前野良沢は書斎に閉じ籠った。53歳だった。病と称して門を閉じ、交際も極力避けた。訳書の量は増えていったが、名利を卑しむ彼は、それを刊行することすらしなかった。生活も貧しく、弟子をとることも避けていた。そして。研究は医学から天文・暦学・地理などにも及び、多くの訳書がその手によって残された。
対照的に杉田玄白の医家としての名はとみに上がり、蘭学創始者としての尊敬を一身に集めた。また玄白は医術に精励したという理由で十一代将軍家斉に拝謁も許された。それは蘭方医として初の大きな栄誉でもあった。しかし、玄白のオランダ語研究は『解体新書』刊行と同時にほとんどやんだ。玄白は開業医として経済的にも豊かな後半生を送り、85歳の天寿を全うした。玄白の出世の道が『解体新書』を刊行したことで拓けたとするなら、それはストイックなまでに学究肌の、名利を卑しむ前野良沢という蘭学に一生を捧げた人物がいたからこそ実現したのだ。良沢がいなければ、玄白の人生はあるいはもう少し違ったものになっていたかも知れない。
 前野良沢は豊前国中津藩(現在の大分県中津市)の藩医で蘭学者。生没年は1723(享保8年)~1803年(享和3年)。筑前藩士、谷口新介の子として江戸牛込矢来に生まれた。幼時に父は死亡、母も良沢を捨てて去り孤児となった良沢は、山城国淀藩主稲葉丹後守正益の医官で、叔父の宮田全沢に引き取られ育てられた。1769年(明和6年)、蘭学を志して晩年の青木昆陽に師事。その後、1770年(明和7年)藩主の参勤交代について中津に下向した際、長崎へと留学した。留学中に入手したのが西洋の解剖書『ターヘル・アナトミア』だった。
 良沢はこの書を翻訳するにあたって大宰府天満宮に参詣し「名声利欲にとらわれず、学問のため一生を捧げる」と誓った。『解体新書』が完成したとき、彼は天神への誓いを守って書中に自分の名をあらわさなかった。そうした蘭学に対する真摯な姿勢により、藩主・奥平昌鹿から「蘭学の化け物」と賞賛された。そして、彼はこれを誉として「蘭化」と号した。
 寛政の三奇人の一人、高山彦九郎とは親しかった。弟子に司馬江漢、大槻玄沢などがいる。

(参考資料)吉村昭「冬の鷹」、吉村昭「日本医家伝」

真田幸村 天才軍師は虚像 配流生活の“総決算”が大坂冬・夏の陣

真田幸村  天才軍師は虚像 配流生活の“総決算”が大坂冬・夏の陣
 真田幸村は江戸時代以降に流布した、小説や講談における真田信繁の通称。真田十勇士を従えて大敵、徳川に挑む天才軍師、真田幸村として取り上げられ、広く一般に知られることになったが、彼自身が「幸村」の名で残した史料は全く残っていない。また、真田家の戦(いくさ)上手の評価も、父昌幸由来のもので、信繁の戦功として記録上、明確に残っているものは1600年、真田氏の居城・上田城で父昌幸とともに徳川秀忠軍と戦ったものと、大坂冬の陣・夏の陣(1614~15年)での活躍しかない。戦いに明け暮れた智将・軍略家のイメージがあるが、これはあくまでも小説や講談の世界のもので、実態は意外に地味なもののようだ。
 真田信繁は真田昌幸の次男で、武田信玄の家臣だった真田幸隆の孫。信繁の生没年は1567(永禄10)~1615年(慶長20年)、ただ一説には生年1570年(永禄13年)、没年1641年(寛永18年)ともいわれる。
 関ケ原の戦いに際しては、信繁は父昌幸とともに西軍に加勢し、妻が本多忠勝の娘で徳川軍の東軍についた兄信之と袂を分かち戦った。昌幸と信繁は居城・上田城に籠もり、東軍・徳川秀忠軍を迎え撃った。寡兵の真田勢が相手だったにもかかわらず、手こずった秀忠軍は上田城攻略を諦めて去ったが、結果として秀忠軍は関ケ原の合戦には間に合わなかった。
 しかし、石田三成率いる西軍は東軍に敗北。昌幸と信繁は本来なら切腹を命じられるところだったが、信之の取り成しで紀伊国高野山麓の九度山に配流された。信繁は34~48歳までの14年間、この配所の九度山で浪人生活を送った。父昌幸は1611年(慶長16年)、失意のうちにこの配所で死去している。
 信繁が再び歴史の表舞台に登場するのは大坂冬の陣・夏の陣だ。1614年(慶長19年)に始まる冬の陣では信繁は当初、毛利勝永らと籠城に反対し、京を押さえ宇治・瀬田で積極的に迎え撃つよう主張した。しかし籠城の策に決すると、信繁は大坂城の弱点だった三の丸の南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城を築き、鉄砲隊を用いて徳川方を挑発し、先方隊に大打撃を与えた。これにより越前松平勢、加賀前田勢などを撃退し、初めて“真田信繁”として、その武名を知らしめることになった。
 冬の陣の前に大坂城に集まった浪人は10万人を超えた。主家を滅ぼされたり、幕府の酷政によって取り潰された者たちが、豊臣家の勝利に出世の望みを託して集まったのだ。だが、冬の陣の和議によって大坂城の堀を埋め立てられ、本丸だけのいわば裸城となって勝利の望みがなくなった今も、7万人もの浪人が城に残っていた。生き長らえても、徳川の世に容れられる望みのない者たちばかりだ。夏の陣に家康は16万の軍勢を大和路と河内路の二手に分け布陣した。
 対する大坂方は悲惨だった。兵力は敵の半数以下で、しかも総大将たるべき者がいなかった。秀頼には合戦の経験がなく、大野治長は闇討ちに遭って重傷を負い、総大将と目されていた織田有楽斎に至っては早々と城を逃げ出していた。真田信繁、毛利勝永、後藤又兵衛、木村重成、長曽我部盛親ら、大阪方の武将は、誰が全体の指揮を執ると決めることができず、互いに横の連絡を取り合って、戦わざるを得なかった。
 夏の陣では、信繁は道明寺の戦いで伊達政宗の先鋒を銃撃戦の末に一時的に後退させた。その後、豊臣軍は劣勢となり、戦局は大幅に悪化。後藤又兵衛や木村重成などの主だった武将が討ち死にし疲弊。そこで信繁は士気を高める策として豊臣秀頼自身の出陣を求めたが、側近衆や母の淀殿に阻まれ失敗した。
豊臣軍の敗色が濃厚となる中、信繁は毛利勝永と決死の突撃作戦を敢行する。その結果、徳川家康本営に肉薄。毛利勢は徳川方の将を次々と討ち取り、本多勢を蹴散らし、何度も本営に突進した。真田勢は越前松平勢を突破し、毛利勢に手一杯だった徳川勢の隙を突き徳川家康の本陣まで攻め込んだ挙句、屈強で鳴らす家康の旗本勢を蹴散らした。しかし、手薄な戦力ではここまでが限界だった。信繁の手勢は徐々に後退、最終的には数で勝る徳川軍に追い詰められ、信繁は遂に四天王寺近くの安居神社(現在の大阪市天王寺区)の境内で斬殺された。
男盛りの14年間を九度山で、不自由で困窮を極めた配流生活を送った信繁の人生の“総決算”が、この大坂冬の陣・夏の陣だったのだ。そう考えると、信繁の不器用な生き方が少し哀れな気もする。虚構の真田幸村とは大きく異なり、真田信繁は実利や権勢は全く求めず、武将としての潔さが目を引く人物だったのだろう。
 信繁討死の翌日、秀頼、淀殿母子は大坂城内で自害、ここに大坂夏の陣は徳川方の勝利に終わった。そして、磐石な徳川の時代が始まった。

(参考資料)司馬遼太郎「軍師二人」、司馬遼太郎「関ケ原」、安部龍太郎「血の日本史」、神坂次郎「男 この言葉」、池波正太郎「戦国と幕末」、海音寺潮五郎「武将列伝」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

松平容保 不本意ながら引き受けた「京都守護職」が貧乏くじに

松平容保  不本意ながら引き受けた「京都守護職」が貧乏くじに
 松平容保(かたもり)は江戸時代末期、将軍後継となった一橋慶喜や政事総裁職となった福井藩主・松平慶永らに強く勧められて、「京都守護職」という大役を引き受けたばかりに、後の会津の白虎隊の悲劇につながっていく遠因をつくることになった。
容保はもともと病弱のため、このときも風邪をひき病臥していて、初めは固辞していたのだが、会津藩祖・保科正之が定めた家訓を守るべく、やむなく不本意ながら引き受けざるを得なくなったわけで、これはまさしく“火中の栗”を拾うに等しい“貧乏くじ”だった。そして、将軍家を守るために忠勤に務めた結果、“賊軍”のレッテルを張られてしまった。
また、意外に知られていないが、京都守護職を務めた当時の容保を、孝明天皇が宸翰の中で職務勉励ぶりを嘉する文章がある。孝明天皇がいかに容保を信頼していたか物語るものだ。ただ、このことは容保を“乱臣賊子”とし、「所詮、会津松平は朝敵」の異名を着せ、押し切ろうとする薩長主体の新政府にとっては極めて厄介な存在だったと思われる。幕末動乱期を、薩長にとって危険分子と思われた容保が、どうしてその危機を切り抜けることができたのか。
 松平容保は陸奥国会津藩九代藩主であり、最後の藩主でもある。血統的には水戸藩主、徳川治保の子孫。美濃国高須藩主・松平義建の六男で、母は側室古森氏。兄に徳川慶勝、徳川茂徳、弟に松平定敬などがあり、高須四兄弟の一人。幼名は銈之丞。官は肥後守。正室は松平容敬の娘、敏姫。生没年は1836(天保6年)~1893年(明治26年)。
 1846年(弘化3年)、八代会津藩主・容敬の養子となり、1852年(嘉永5年)に会津藩を継いだ。1860年(万延元年)に大老井伊直弼が水戸浪士に殺害された「桜田門外の変」では水戸藩討伐に反対した。井伊直弼暗殺後、一橋慶喜や福井藩主・松平慶永らが文久の改革を開始すると、1862年(文久2年)に新設の幕政参与に任ぜられ、のち新設の京都守護職に推された。容保は初めは固辞していたのだが、最終的には松平慶永らの強い勧めに遭い、不本意ながらこの大役を引き受けることになった。
その結果、容保は幕末動乱期の京都の治安を維持するため、「新選組」などを使い、西南雄藩の志士たちを含め討幕派の動きを弾圧。そのため、維新後は幕府派の重鎮とみられて敵視されることになった。
 容保は1867年(慶応3年)、参議に補任されたが、1868年(慶応4年)、鳥羽・伏見の戦いの後、解官。藩主の地位を降り、改元して明治元年、白虎隊で知られる会津戦争の後、因幡国鳥取藩に幽閉・永預り処分となった。1869年(明治2年)、紀伊国和歌山に移されるなど逼塞生活が続いたが、1872年(明治5年)、預け処分が免ぜられ、公人として復活した。そして1880年(明治13年)、日光東照宮の宮司となり、正三位まで叙任した。
 容保は「禁門の変」での働きを孝明天皇から認められ、その際書簡と御製(和歌)を賜った。彼はそれらを小さな竹筒に入れて首に掛け死ぬまで手放すことはなかったという。また、幕末維新については周囲に何も語ることはなかった。“沈黙は金”ではないが、何も語らなかったことが、維新直後の蟄居・逼塞期を経て、明治半ばまで彼を生き延びさせる遠因となったことは間違いない。

(参考資料)司馬遼太郎「王城の護衛者」、司馬遼太郎「街道をゆく33」、綱淵謙錠編「松平容保のすべて」、童門冬二「流浪する敗軍の将 桑名藩主松平定敬」

松平定信 “田沼詣で”の屈辱が、私心から田沼政治の全否定に

松平定信 “田沼詣で”の屈辱が、私心から田沼政治の全否定に
 白河楽翁といわれ、名君の誉れ高い松平定信は、若い頃から清潔な身の処し方で有名だった。政治に対する高い理念もあった。だが、彼が生きた時代は田沼時代だ。田沼意次が老中首座として諸政策を展開していた時期だが、周知の通り田沼は大の賄賂好きだった。そのため“田沼詣で”の大名や旗本たちで連日、田沼邸はあふれた。ある日、そんな群れに松平定信の姿が加わった。定信が20代のころのことだ。清廉潔白を絵に描いたような松平定信にも、文字通り、“汚職”宰相、田沼意次に贈賄した“汚点”があった。そして、そのときの屈辱が後に定信が宰相になった際、田沼政治の全否定となって表れたのだ。
松平定信は、自分が否定し、心の底から忌み嫌う賄賂好きの田沼のところになぜ出かけていったのか?当時の権力のしくみが田沼詣でをしなければ、絶対に出世できなかったからだ。それほど田沼の権勢は絶大だったのだ。もちろん田沼詣でを決行するまで定信は悩みに悩んだ。清潔な生き方に取り返しのつかない汚点になるからだ。しかし、それと引き換えにしても定信は老中になりたかった。幕閣に参加して、自分の政治理念を実現してみたかったのだ。
 そんな重い決断をして出かけた定信に対し、田沼はあいまいな返事しかしなかった。それは定信が尊大な態度で、気取って格好をつけ、名門の自分が頼みに行きさえすれば田沼は何とかするだろうと、たかを括っている様子がみえたからだ。
田沼自身は足軽からの成り上がり者だから、名門だとか貴公子だとかは、もうそれだけで嫌いなのだ。田沼邸に日参する人たちは目的のためにはなりふり構わないではないか。それに対し、この青年(定信)は人の世の苦労を全く知らぬ。人にものを頼む態度ではない-と映ったのだ。しかも、土産もろくなものを持ってきていない。
田沼は賄賂をもらうことを全く悪いとは思っていない。連日田沼邸に持参される、いい品物や金は私に対する誠意の表れだ。だから、私は誠意に応える。その品物がよければよいほど、金が多ければ多いほど私はその人を重い役に就ける-などと田沼は公言したから、田沼邸には賄賂の金品が山のように積まれ、持参した人たちであふれたのだ。
 名門の貴公子(定信)が身を屈しての猟官運動に、色よい返事をしなかった田沼に、この日、定信は手ひどく面子を潰された。そして、それは田沼への深い遺恨となった。その後、松平定信は待望の老中になった。しかし、田沼の推挙によってではなかった。田沼の強力な後見人だった第十代将軍・家治が死んだからだ。政変が起こった。30歳の宰相、松平定信は人事異動で田沼派を一掃した。このとき罷免した高級官僚は数十人に及んだ。中でも田沼意次に対する処分は苛酷を極めた。老中職を解かれたうえ、相良(静岡県)二万石を没収され、江戸にあった邸もすべて没収、蟄居させられた。孫の意明(おきあき)に辛うじて一万石くれたが、領地は東北と越後(新潟県)の荒蕪地だった。
 松平定信が行った「寛政の改革」は“潰された面子、屈辱感からの報復”だった。一度でも田沼詣でを行った自身への自己嫌悪と、それを増幅するあの日の屈辱感がエネルギー源になっていた。広く万民のためではなく、所詮、私心から発せられたものだ。そのために、定信の改革は失敗した。
 松平定信は御三卿田安宗武の七男として生まれた。幼名は賢丸。生没年は1759(宝暦8)~1829年(文政12年)。幼少期から聡明で知られており、田安家を継いだ兄、徳川治察が病弱かつ凡庸だったため一時期は田安家の後継者、そしていずれ将軍家治の後継者とも目されていた。
しかし、当時は田沼意次が権勢を誇った時代。しかも、その政治を定信が「賄賂政治」と批判したため、そのしっぺがえしを恐れた一橋家当主・治済によって1774年(安永3年)陸奥国白河藩第二代藩主・松平定邦の養子にされてしまったのだった。
一般には名君の誉れ高い松平定信だが、人間的な器量という面では?の付く、たくましさに欠ける、線の細い人物だったのではないか。また老中としては、当時の経済システムはもちろん、一般庶民の思いや暮らしぶりを全く理解できない“暗愚”の宰相だったのではないか。

(参考資料)童門冬二「江戸管理社会 反骨者列伝」、童門冬二「江戸のリストラ仕掛人」、山本周五郎「日日平安」、司馬遼太郎「街道をゆく33」、奈良本辰也・南条範夫「日本史探訪/幕藩体制の軌跡 松平定信.」

松浦武四郎 全国を遊歴し、蝦夷地探検家で「北海道」の名付け親

松浦武四郎  全国を遊歴し、蝦夷地探検家で「北海道」の名付け親
 松浦武四郎は江戸時代末期に活躍した蝦夷地探険家であり、北にその一生を捧げ、「北海道」の名付け親として今日知られている。それだけに、当時の蝦夷地について数多くの著作を残している。彼はまたアイヌの人々が心から信頼した和人だった。封建的な江戸時代にあって、松浦武四郎にヒューマニズムあふれる近代的精神が育まれたのはなぜだろうか。生没年は1818(文化15)~1888年(明治21年)。
 松浦武四郎は伊勢国(三重県)一志郡須川村(現在の三雲町)小野江の郷士の四男として生まれている。名は弘(ひろむ)、字は子重。雅号は「北海道人(ほっかい・どうじん)」。幼名を竹四郎、長じて武四郎を通り名とした。ただ、著書の多くは竹四郎を用い、また多気志楼とも号した。先祖は肥前の松浦党の一族で、伊勢に移り、多気(たけ)の城主北畠氏の家臣として土着したという。父は時春(桂介)。本居宣長の門下として国学を修め、敬神家の名望があったのは、伊勢神宮のある伊勢という土地柄だと思われる。母はとく。
 武四郎は幼少から父の感化で俳諧などの風雅を好んだ。7歳で曹洞宗真学寺の和尚に手習を学び、名所図会や地誌などを好んで読み、他国の山河を写し取ったりして飽きることがなかったという。1830年(天保1年)、津の儒者、平松樂斎の塾に入った。3年後、国学を学んだ武四郎は突然のように平松塾を辞して家に戻った。そして江戸に下った。1833年(天保4年)、16歳のことだ。
 その後、諸国を遊歴。その一端を記すと、大坂では大塩中斎(大塩平八郎)を訪ねている。大坂東町奉行所の与力だったが、この頃はすでに隠居して、陽明学者として名高く、洗心洞塾を開いていた。大坂を後にした武四郎は播州、備前を経て四国に渡り、讃岐、阿波を回り淡路から紀州和田などへ足を伸ばしている。翌年、1835年(天保6年)、18歳になった武四郎は紀州の田辺、富田、串本を過ぎ、那智山に登り、熊野本宮に詣でた。高野山にも登り、粉河寺から和泉の槙尾峠を越えて観心寺に南朝の古跡を訪ずれている。その後、河内、大和、山城、摂津、丹波、播磨、但馬、丹後、若狭を経て越前へ出て、敦賀、福井、三国、吉崎、加賀の大聖寺、さらに美濃高山から三河、信濃を経て甲斐の金峯山寺、身延山に登り、霊峰富士山に初めて登っている。こうして17歳で家郷を出て以来、一度も戻らず、足掛け5年もの間、日本全国を遊歴、旅に明け暮れたのだ。
この間にロシアの南下による北方の危機を聞き、蝦夷地の探検を決意した。
しかし、旅人が蝦夷地奥地へ入ることは許されなかったため、1845年(弘化2年)、場所請負人和賀屋孫兵衛手代庄助と変名し、東蝦夷、知床岬まで到達、翌年は北蝦夷地勤番役の僕(しもべ)として樺太(サハリン)を探検した。さらに1849年(嘉永2年)には国後・択捉を探検し、この間見聞したことを「蝦夷日誌」「再航蝦夷日誌」「三航蝦夷日誌」に著した。
 1855年(安政2年)、幕府御雇に登用され、翌年箱館奉行支配組頭、向山源太夫手付として東・北・西蝦夷地を巡回。1857年には東西蝦夷地山川地理取調御用を命ぜられ、主要河川をさかのぼり内陸部をも踏査。「東西蝦夷山川地理取調図」「東西蝦夷山川取調日誌」として呈上したが公にされなかった。そのことが理由か定かではないが、1859年御雇を辞任。以後、約10年間著作活動に専念した。
1868年(明治1年)新政府から東京府付属、次いで翌年には開拓判官に任命され、北海道名や国郡名などの選定にあたった。しかし、アイヌ介護問題などについて、政府の方針と意見を異にしたため、病を理由に辞任。以来、著作のかたわら諸州を漫遊、死去直前に従五位に叙せられた。

(参考資料)佐江衆一「北海道人 松浦武四郎」、杉本苑子「決断のとき」、梅原猛「百人一語」、更級源蔵・船山 馨・吉田武三「日本史探訪/海を渡った日本人 松浦武四郎」

 

山本常朝 江戸時代の代表的な武士道書『葉隠』の口述者

山本常朝  江戸時代の代表的な武士道書『葉隠』の口述者
 「武士道と云うは死ぬ事と見付けたり」という有名な一節で知られる『葉隠』。この江戸時代の代表的な武士道書の口述者が山本常朝だ。山本常朝は第二代佐賀藩主鍋島光茂に30数年間にわたって仕えた人物で、『葉隠』は常朝の口述を田代陣基(つらもと)という武士が書き留めたものだ。
『葉隠』は戦時下で取り上げられたことも加わって誤った捉え方をする向きもあるが、他の死を美化したり、自決を推奨する書物とひと括りにすることはできない。『葉隠』の中には、嫌な上司からの酒の誘いを丁寧に断る方法や、部下の失敗をうまくフォローする方法など、現代のビジネス書や礼法マニュアルに近い内容の記述も多い。山本常朝の生没年は1659~1719年。
 山本常朝は佐賀藩士、山本重澄(しげずみ)の二男四女の末子として生まれた。幼名は松亀。通称は不携(ふけい)、名は市十郎、権之允(ごんのじょう)、神右衛門。9歳のとき、二代藩主光茂に御側小僧として仕え、14歳のとき小々姓となった。20歳で元服し、御側役、御書物役手伝となったが、まもなく出仕をとどめられた。その後、禅僧湛然(たんねん)に仏道を、石田一鼎(いってい)に儒学をそれぞれ学び、旭山常朝(きょくざんじょうちょう)の法号を受け、一時は隠遁を考えたこともあった。22歳のとき再び出仕し、御書物役、京都役を命じられた。
 常朝は42歳のとき、光茂の死の直前に、三条西家から、和歌をたしなみ深い光茂の宿望だった「古今伝授」の免許を受けて、その書類を京都より持ち帰り、面目を施した。光茂の死に際し、職を辞し、追腹(殉死)を願ったが、追腹禁止令により果たせず、願い出て出家。佐賀市の北方にある金立山の麓、黒土原(くろつちばる)に草庵を結び、旭山常朝と名乗って隠棲した。
 田代陣基が三代藩主綱茂の祐筆役を免ぜられ、常朝を訪ねたのは常朝51歳のときのことだ。陣基が常朝のもとに通い始め、実に7年の歳月を経て1716年(享保元年)、常朝の口述、陣基の筆録になる『葉隠』11巻が生まれた。その3年後の1719年(享保4年)、山本常朝は死んだ。
 『葉隠』の要点の一部を紹介する。生か死か二つに一つの場所では、計画通りにいくかどうかは分からない。人間誰しも生を望む。生きる方に理屈をつける。このとき、もし当てが外れて生き長らえるならば、その侍は腰抜けだ。その境目が難しい。また当てが外れて死ねば犬死であり、気違い沙汰だ。しかし、これは恥にはならない。これが武士道において最も大切なことだ。毎朝毎夕、心を正しては、死を思い死を決し、いつも死に身になっているときは、武士道と我が身は一つになり、一生失敗を犯すことなく、職務を遂行することができるのだ。
 我々は一つの思想や理想のために死ねるという錯覚にいつも陥りたがる。しかし、『葉隠』が示しているのは、もっと容赦ない死であり、花も実もない無駄な犬死さえも、人間の死としての尊厳を持っているということを主張しているのだ。もし我々が生の尊厳をそれほど重んじるならば、死の尊厳も同様に重んじるべきだ。いかなる死も、それを犬死と呼ぶことはできないのだ。
 常朝はほかに、養子の常俊に与えた『愚見草』『餞別』、鍋島宗茂に献じた『書置』、祖父、父および自身の『年譜』などの著述がある。

(参考資料)奈良本辰也「叛骨の士道」、奈良本辰也「日本の名著 葉隠」、三島由紀夫「葉隠入門」、童門冬二「小説 葉隠」

 

山片幡桃 江戸時代有数の学者で、番頭にして優れた経営コンサルタント

山片幡桃  江戸時代有数の学者で、番頭にして優れた経営コンサルタント
 山片幡桃は江戸時代有数の学者で、番頭にして優れた経営コンサルタントでもあった。「幡桃」というのは彼自身が大坂の豪商升屋の番頭をしていたため、「番頭」をもじって付けたペンネームだ。彼は単なる豪商の番頭ではなく、彼の唱えた学説は現在でも多くの学者が高く評価している。
 山片幡桃こと、升屋小右衛門は播州印南郡米田村(現在の兵庫県高砂市米田町)の農民の子として生まれた。彼は小さいときから学問好きで、大坂の中井竹山・履軒の営む懐徳堂で学んだ。また、日本科学の先覚者だった麻田剛立(ごうりゅう)に天文学や蘭学を学んだ。
幡桃の本姓は長谷川氏だ。長谷川の家は、大坂の升屋とは親戚にあたっていた。そこで、小右衛門は小さいときから升屋の丁稚小僧として奉公した。もっとも、その前に大坂の両替商河内屋へ丁稚奉公に上がったが、生来の読書好きのため店を追い出されたと伝える史料もある。当時の常識からいえば丁稚に学問は不要ということだろう。
 ともかく他の丁稚小僧と違って、多少は血のつながりがあったために、早く番頭の役に就いた。もちろん、このころの商家のしきたりとして、ただ親戚だからといって、すぐ取り立てることはしない。それでも小右衛門がどんどん出世したというのは、それなりに彼の能力が優れていたからだ。番頭になったとき、彼は24歳だった。
 小右衛門が番頭になったとき、升屋は対外的にも内部的にも大きな危機に見舞われていた。まさに“内憂外患”の状況だったのだ。内憂は、ときの当主に実子がいなかったため、養子をもらったが、この養子をもらうとすぐ、皮肉なことに実子が生まれてしまったのだ。そうなると、当主はやはり実子が可愛く、この子に家を継がせたくなった。そこで、養子にいろいろと注文をつけ「もし、お前の身持ちが悪かったら、いつでも養子縁組を解消して、実子に家を継がせるからな」と迫り、升屋にゴタゴタを起こす原因になりかねない情勢だった。
 外患は大名貸しの破綻だ。このころの大名家はすべて極度の財政難に陥っていたから、なかなか借りた金を返してくれない。それだけでなく、借金を踏み倒すような大名家も次々と出てきたのだ。そのため、升屋では資金繰りに苦慮、本業の米屋の方も思わしくなくなっていた。
 小右衛門はまず内部固めから始めた。そして打ち出したのが当主の隠居と、養子を説得し、当主の実子に店を継がせる-との方針だった。いわば痛み分けだった。ただ、当主はまだ年少だったから、彼は補完する組織として「番頭会議」を設置した。合議制による集団指導システムだ。つまり、隠居した当主は自分の望み通り実子に店を譲れた。しかし、実権は「番頭会議」にあって、実子にはない。形の上でも、実質的にも「痛み分け」としたのだ。小右衛門は店の大事なことはすべてこの番頭会議にかけた。
 これにより、番頭たちのモラルは一挙に上がった。これも小右衛門の狙ったところだった。彼はクールな合理性を持って判断し、日本人特有の“情”にあまり煩わされることはなかった。
 次は外患の解決だ。大名家に貸した金を返してもらうことだ。そんなとき、大口の貸付先、仙台の伊達家から「わが藩のコンサルタントになって、財政を再建してくれないか」と申し込んできた。それは常日頃、小右衛門が店の者にいっていることを評価したからこその依頼だった。
彼は「貸した金が取れないからといって、うろたえてただ催促するだけでは、ことは解決しない。なぜなら相手方も財政が逼迫しているからだ。それは日本の経済がコメを中心に動いているからだ。ところが、実際に品物を買って、その支払いをするのは金だ。コメと金の相場がうまくいっていればいいが、大抵うまくいかない。それと根本的に大名家の収穫高は、昔から決まっている。積極的に新田開発をしない限り、増収は望めない。貸した金を返してもらうためには、やはり借り手の方が富まなければだめだ。だから、貸した方も借り手に対し、積極的に知恵を提供すべきだ」というのがその主旨だ。
現在でいえば、金融機関の考え方だ。つまり、ただ金を貸し付けるだけでなく、金を借りた側の経営手法についても、いろいろコンサルタント的な知恵を提供して、一緒に富むことを考えるのだ。
 依頼のあった伊達家に対し、彼が経営コンサルタントとして①コメの生産量を上げ、品質を良くすること②コメは藩政府が買い上げ、これをできるだけ多く大坂市場に出して売ること③生産性を高めるため、農民に対して肥料や農具の貸し付け行うこと④農民からコメを買い上げるとき、藩政府は藩札で支払い、大坂で売ったコメの代金は正札で差し上げること-などを助言した。
これらの施策で仙台藩は財政を好転させた。そして、彼はその正札の中から貸し金を正貨によって全部回収してしまった。この方法は各藩で評判になった。そこで尾張、水戸、越前、館林、白河、古河などの藩が、藩財政の立て直しを依頼してきた。彼は可能な限りこれを引き受けた。その期間は、番頭になったときから約30年間にわたった。主家を支えると同時に、依頼のあった各大名家の財政の再建に努力したのだ。
 山片幡桃の代表作は「夢の代(ゆめのしろ)」という本だ。この本は天文、地理、神代、歴代、制度、経済、経論、雑書(陰陽)、異端、無鬼(神道、儒教、仏教)、雑論などの各章に分かれているが、彼の説は少し乱暴な表現をすれば、「この世に神や仏はない。すべて人間の作り出した想像物だ」と言い切っているところに特色がある。
江戸時代の稀有な経営コンサルタント、山片幡桃は、「夢の代」完成の1年後、74年の生涯を閉じた。

(参考資料)神坂次郎「男 この言葉」、童門冬二「江戸のビジネス感覚」、司馬遼太郎「この国のかたち 一」

三浦梅園 死後100年以上経過して認められた「条理学」の思想家

三浦梅園  死後100年以上経過して認められた「条理学」の思想家
 三浦梅園は、儒学と洋学を調和した独自の自然哲学によって、大宇宙の原理を解明しようとした江戸時代中期の自然哲学者、思想家だ。その思想は独学独想で構築されたもので、「条理学」といわれる。梅園の学問は当時認められなかったが、死後100年以上経過した明治の終わりになって、人々に知られ認められるようになった。生没年は1723(享保8)~1789年(寛政元年)。
 三浦梅園は豊後国、現在の大分県国東市安岐町富永で生まれた。本名は晋(すすむ)。梅園の生まれた三浦家は、この富永村で代々医者を家業としていた。二男六女、八人兄弟の次男に生まれたが、長男が幼くして死んだため、事実上、一人息子として育てられた。
 梅園は非常に小さいときから物事を何でも疑うという性質があった。他の人が説明してくれればくれるほど、自分は分からなくなる。人はそれで分かったというけれど、自分は話を聞くとますます分からなくなってくる。何でも疑わしくなってくるというわけだ。梅園の旧宅から山を越えて4㌔隔たった村に、西白寺(さいはくじ))という禅宗の寺がある。ここに少年時代の梅園の勉学ぶりをしのばせるエピソードがある。
15歳の頃、彼はまず中国の詩の本を一人で読み始めた。しかし、梅園の家には字引がない。あちこち探し、やっとこの禅寺にあることを知り、月に4、5回、分からない字をためておいて、ここまで字引を引きに通ったという。17歳になると、杵築(きづき)の城下まで毎日通学した。富永から杵築まで、山を二つ越えて往復30㌔の道のりだ。こうして梅園の真理探究の行脚が始まった。
 当時、ヨーロッパの自然科学が漢文に翻訳されて、中国から長崎にもたらされていた。梅園はこれらを通して、西欧の実証的な学問の方法を貪欲に取り入れていった。梅園自製の天球儀が旧宅に保存されている。梅園はこれを手元に置いて、富永村の空を仰いで天体の運行を観測したのだろう。
そして、30歳のとき梅園は自然界の現象の現れ方には決まった筋道があることを見い出した。梅園はこれを「条理」と名付けている。彼には、これこそ天地万物の謎を解く鍵だと思われた。そして、彼の独創的なことはこの条理を探求していく際、数学・数式ではなく、図形をもとに緻密な思索を繰り返している点だ。
 例えば、手を離せば石がなぜ落ちるかという疑問を手掛かりとして、梅園は自らの思索を進めていった。同じように、りんごの落ちるのを見て「万有引力の法則」を発見したアイザック・ニュートンの例がある。両人とも通常、人が不思議としないことを不思議として、自らの問いとしたのだ。しかし、そのために用いた方法は、全く違ったものだった。ニュートンが数学の発展を考えの土台にしたのに対して、梅園は古代中国の易の陰陽の考え方を基本とした。
 梅園が自分の思想を述べた著作には畢生の大著「玄語(げんご)」のほか、「贅語(ぜいご)」と「敢語(かんご)」とがある。これらを合わせて「梅園三語」と呼んでいる。この三著作が梅園の思想の骨格を成すものだ。このうち生前に印刷されたのは、「敢語」だけだった。せっかく刊行をみた「敢語」も、当時の多くの学者からは受け入れられなかった。それは、端的に言えば難解だったからだ。梅園自身それは、他の学者に話しても簡単に理解してもらえることではないだろうと思っていたのだ。
 梅園は近隣諸藩の仕官の招聘を固辞し、生涯、三回の旅行を除いては死ぬまで郷里を離れずに学問と思索の日々を送った。三回の旅行のうち、二回までは長崎への旅だった。長崎ではオランダ通詞(通訳)に会って西洋事情を聞いたり、珍しい外国の本を写している。56歳になって梅園は、オランダ語にも並々ならぬ関心を示した。梅園の旧邸に、オランダ通詞の吉雄耕牛から梅園に贈られた木製の顕微鏡がある。耕牛は、「ターヘル・アナトミア」の翻訳「解体新書」を著した中津藩の蘭学者兼医師、前野良沢のオランダ語の師だ。
 梅園の対象とした学問は天文事・物理・医学・博物・政治・経済・文学と、非常に幅広い範囲にわたっている。今日でいえば百科事典のようなものを自分でこしらえているほどだ。梅園にとっては、それらのすべては、天地万物の条理を究めていくために必要なものだった。郷里には大学者・大思想家、三浦梅園が生涯をかけて著した原稿はいまも残っており、思索を重ねた屋敷もほとんど変わらぬ姿で残されているという。

(参考資料)湯川秀樹「日本史探訪/国学と洋学」、司馬遼太郎「この国のかたち一」

 

高橋泥舟 鳥羽伏見での敗戦後、恭順を説き、支え続けた慶喜の側近

高橋泥舟  鳥羽伏見での敗戦後、恭順を説き、支え続けた慶喜の側近
 高橋泥舟は槍術の名手で、第十五代将軍慶喜の側近を務めた。鳥羽伏見の戦いで敗戦後、江戸へ戻った慶喜に恭順を説き、慶喜が水戸へ下るまでずっと、側にあって護衛し支え続けた。勝海舟、山岡鉄舟とともに「幕末の三舟」と呼ばれる。生没年は1835(天保6)~1903年(明治36年)。
 高橋泥舟は旗本山岡正業の次男として江戸で生まれた。幼名は謙三郎。後に精一郎、通称は精一。諱は政晃。号を忍歳といい、泥舟は後年の号。母方を継いで高橋包承の養子となった。生家の山岡家は自得院流(忍心流)の名家で、精妙を謳われた長兄山岡静山について槍を修行。海内無双、神業に達したとの評を得るまでになった。生家の男子がみな他家へ出た後で、静山が27歳で早世。山岡家に残る妹、英子の婿養子に迎えた門人の小野鉄太郎が後の山岡鉄舟で、泥舟の義弟にあたる。
 1856年(安政3年)、泥舟は幕府講武所槍術教授方出役となった。21歳のときのことだ。25歳の1860年(万延元年)には槍術師範役、そして1863年(文久3年)一橋慶喜に随行して上京、従五位下伊勢守を叙任。28歳のことだ。1865年(慶応2年)、新設の遊撃隊頭取、槍術教授頭取を兼任。1868年(慶応4年)、幕府が鳥羽伏見の戦いで敗戦後、逃げるように艦船で江戸へ戻った慶喜に、泥舟は恭順を説いた。
以後、江戸城から上野寛永寺に退去する慶喜を護衛。勝海舟・西郷隆盛の粘り強い会談の結果、江戸の町を舞台とした官軍と幕府軍との激突が回避され江戸城の無血開城、そして慶喜の処遇が決まり、水戸へ下ることになった慶喜を護衛、支え続けた。
 勝海舟が当初、徳川家処分の交渉のため官軍の西郷隆盛への使者としてまず選んだのは、その誠実剛毅な人格を見込んで高橋泥舟だった。しかし、泥舟は慶喜から親身に頼られる存在で、江戸の不安な情勢のもと、主君の側を離れることができなかった。そこで、泥舟は代わりに義弟の山岡鉄舟を推薦。鉄舟が見事にこの大役を果たしたのだ。そして泥舟の役割はまだ終わっていなかった。後に徳川家が江戸から静岡へ移住するのに伴い、地方奉行などを務めた。
 明治時代になり、主君の前将軍が世に出られぬ身で過ごしている以上、自身は官職により栄達を求めることはできないという姿勢を泥舟は貫き通した。幕臣の中でも、明治時代になって新政府から要請があって、この人物が戊辰戦争で本当に敵・味方に分かれて戦ったのかと思うくらい、新政府の中で要職に登り詰めた人も少なくないが、泥舟は幕府への恩義は恩義として、金銭欲も名誉欲も持たず、終生変わらぬ姿勢を保持した人物の一人だった。
 山岡鉄舟が先に亡くなったとき、山岡家に借金が残り、その返済を義兄の泥舟が工面することになった。しかし、泥舟自身にも大金があるはずがなく、金貸しに借用を頼むとき「この顔が担保でござる」と堂々といい、相手も「高橋様なら決して人を欺くことはないでしょう」と顔一つの担保を信用して引き受けた-といった、泥舟の人柄を示す逸話が多く残っている。
 廃藩置県後、泥舟は引退して書家として生涯を送った。

(参考資料)海音寺潮五郎「江戸開城」

暗殺直前の龍馬直筆の手紙の草稿見つかる

暗殺直前の龍馬直筆の手紙の草稿見つかる
 高知県立坂本龍馬記念館(高知市)によると、幕末に坂本龍馬が暗殺される直前に、土佐藩の重臣、後藤象二郎へ宛てた直筆の手紙の草稿が見つかったことが4月7日、分かった。同館の学芸員ら龍馬研究者が筆跡から直筆と判断した。大政奉還後の新政府の財政担当者として推薦した越前・福井藩士、三岡八郎(後の由利公正)に会ったことを報告する内容で、日付がないことから草稿とみられる。
 同館によると、龍馬は慶応3年(1867年)10月24~11月5日の旅行で福井藩士の三岡八郎を訪ね、意見交換し、財政能力の確かさを確認。わずか10日後の11月15日、京都で暗殺された。由利公正と名を改めた三岡は、明治天皇が新政府の基本姿勢を示した「五箇条の御誓文」の起草に参画したことで知られている。

 

教育勅語の原本を50年ぶり確認 傷み激しく修復へ

教育勅語の原本を50年ぶり確認 傷み激しく修復へ
 文部科学省は4月8日、明治天皇が1890年に発布し、戦前の道徳教育の根本理念とされた「教育勅語」の原本を約50年ぶりに確認したと発表した。歴史的価値がある公文書として明治時代などの他の公文書と共に、近く国立公文書館(東京都千代田区)に移管する。傷みが激しいため修復され、公開される見通し。原本は4㌻の冊子。旧文部省で保管していたが、1923年の関東大震災で庁舎が全焼し、金庫内にあった原本も全体が黒く変色した。
 教育勅語の正式名は「教育ニ関スル勅語」で、父母への孝行や夫婦の和など12の徳目を記している。各地の小学校などに謄本がくばられ、その後の軍国主義教育に使われた。1948年に衆参両院が「排除」「失効」を決議した。

西殿塚古墳に石積み方形壇 大王墓の解明の手掛かりに

西殿塚古墳に石積み方形壇 大王墓の解明の手掛かりに
 宮内庁によると、卑弥呼の後継者、台与(壱与とも)の墓説があり、宮内庁が陵墓として管理する奈良県天理市の西殿塚古墳(3世紀後半~4世紀初め、前方後円墳)の前方部頂上に巨大な石積みの方形壇が築かれていたことが4月8日、分かった。2012年に盗掘され宮内庁書陵部が調べていた。書陵部によると、西殿塚古墳前方部の方形壇は一辺22㍍、高さ2.2㍍。中央部が東西2㍍、南北1㍍にわたって盗掘され、墳丘を覆う葺き石と似たこぶし大から人頭大の石が大量に見つかった。さらに下にも石が続いており、壇全体が石積みだった可能性が高いという。
 西殿塚古墳は全長230㍍。宮内庁は6世紀の継体天皇の皇后、手白香皇女の墓に指定しているが、研究者の間では箸墓古墳の次に造られた大王墓と推測されている。

与謝野晶子の未発表短歌か 親交の画家の屏風から発見

与謝野晶子の未発表短歌か 親交の画家の屏風から発見
 歌人、与謝野晶子の未発表とみられる直筆の短歌1首が、親交があった岡山県出身の画家、徳永仁臣の孫が所蔵する屏風から見つかった。岡山県立美術館から調査を依頼された就実短大の加藤美奈子准教授が明らかにした。短歌は屏風に貼られた短冊に書かれ、「車して神通川の大橋を昨日今日こえさてのちはいつ」と記されている。移り住んだ富山県で入院していた徳永を、1933年に与謝野鉄幹、晶子夫妻が見舞ったときの様子を詠んだものとみられる。
 屏風には与謝野夫妻が徳永に贈った短歌10首の色紙や短冊が貼られていたが、この1首は晶子の全集などに掲載されておらず、未発表の可能性が高いという。

『I f 』27「老中・阿部正弘が健在なら幕末の様相は変わっていた」

『I f 』27「老中・阿部正弘が健在なら幕末の様相は変わっていた」
 幕末、1840年代から1850年代、幕閣にあって幕府の民主的改革と開国政策
を推し進めようとした老中・阿部正弘が、急逝することなく健在なら、幕末
の様相はかなり変わったものになっていたでしょう。

老中・阿部正弘が健在なら条約調印、安政の大獄はなかった?
安政の大獄が起きる前、阿部伊勢守政権時代、大久保一翁ら幕府の一部の
官僚の中で、実は近代政治への芽が生まれていました。もし、老中阿部が
急逝していなかったら、恐らく井伊直弼が幕閣に名を連ねることはなく、
したがって大老・井伊直弼よる独断での日米修好通商条約の調印、そして
これに反対した武士、公家に対する大規模な弾圧、安政の大獄もなかった
のです。

開明派の阿部は当時の薩長より進歩的で欧州の近代政治に理解
阿部は備後福山藩主として男女共学などいろいろと新しい試みを手掛けた
人で、構想では日本を全国統一の郡県制度にして、国軍を設置し、開国政
策を進めようとしていました。大久保一翁もこのころ、議会民主制国家に
しようといったことを上申しています。
 つまり、この時期は薩摩や長州などの在野の人よりも、阿部をはじめとす
る幕府の官僚たちの方がヨーロッパの近代政治に理解があったということで
す。そのため、薩長側が安政年間あたりは、ペリー来航以来の外圧に対応で
きるような新しい政治体制はどうあるべきか、アイデアを持っていなかった
のに対し、大久保一翁や勝海舟といった人たちはいろいろな知恵を持ち出し
ていました。それも、幕府中心の社会ではなく、もっと大きな日本国という
観点に立った国づくりをしなければダメだと最初に言い出したのは、むしろ
幕府側の人たちでした。

当時は西南雄藩より幕府に人材が豊富だった
私たちが今日、正史として学んだ日本史を、明治維新からさかのぼって考
えると、実に意外なことなのですが…。今日では西南雄藩、とりわけ薩・
長・土・肥の諸藩では優れた人材を数多く輩出し、幕府には人材がいなか
ったかのように表現されることが多いだけに、このあたり実態を正確に把
握しておきたいも。のです。“勤続疲労”や“マンネリ”で酷評されるこ
とが多かった幕府も、案外捨てたものではなかったということでしょう。
 明治維新後、ジャーナリストになって「幕府衰亡論」を書いた福地源一郎
が、もし阿部伊勢守があと何年か生きていれば、ああいうことにはならなか
っただろうといっています。老中・阿部正弘が亡くなった後、日本という国
の、きちんとした責任と展望をもって決断できるリーダーが幕府にいなくな
ったのです。

安政の大獄が開明派に幕府重臣を失脚させたことが幕府崩壊に
 徳川幕府の存続をのみ願う井伊直弼が、安政の大獄で橋本左内、吉田松陰、
さらには薩長をはじめとする西南雄藩の開国・勤皇派の志士たちを粛清。ま
た、大老・直弼が指揮した幕政に批判的だった多くの開国・開明派の幕府の
重臣たちを失脚させたことが、やがて幕府を崩壊に導いた一因といえるでし
ょう。

 

 

 

 

 

 

『I f 』26「後水尾天皇の幕府に無断での譲位、女帝誕生は後水尾の反撃」

『I f 』26「後水尾天皇の幕府に無断での譲位、女帝誕生は後水尾の反撃」
 徳川幕府の三代将軍家光の時代、後水尾天皇が幕府に無断で退位し、女性
の明正に皇位を譲りました。一般には徳川幕府の基盤が磐石なものとなった
のが家光の時代といわれます。武家諸法度に続いて、禁中並びに公家諸法度、
天皇の叙任権、そして紫衣(しえ)事件などで公家や天皇・朝廷にも干渉。
そのため精神的に屈辱を味あわされた天皇が追い詰められて退位、二代将軍
徳川秀忠の娘、中宮・和子(まさこ)が後水尾との間でもうけた明正(めいし
ょう)天皇に譲位させられたと考えがちです。

後水尾天皇の退位・譲位は幕府の専横に対する反撃・嫌がらせ
 しかし、これは実は後水尾天皇が退位も譲位も、本来、幕府に事前に相談
し、形としては幕府の了承を得たうえで実行するはずのところを、いきなり
幕府には無断で推し進めたことでした。後水尾天皇の幕府に対する反撃とい
うか、強烈な嫌がらせだったのです。
 改めてこの「にわかの譲位」事件を記すと、1629年(寛永6年)11月8日早
朝、異例の参内命令が出され、困惑する公卿たちを尻目に、皇位継承という
重大事が、前関白・近衛信尋すら知らされないまま、ごく一部を除いて秘密
裡に運ばれたのです。このとき退位したのは後水尾天皇ですが、新たに践祚
(せんそ)したのは年齢わずかに7歳という少女、興子(おきこ)内親王(=明正
天皇)でした。異例中の異例な天皇交替劇だったのです。

武家政権の下での初の女帝は驚天動地の事態
 「承久の乱」(1221年)に武家が天皇廃立を行ったのを最初に、幕府に無
断で行った皇位継承は事実上無効、との慣例が定着していました。それを無
視した退位強行でした。また、武家の世になって以来、例をみない女性の天
皇の出現は、男性原理・家父長制の権化というべき徳川幕府にとって、驚天
動地の事態でした。
 興子内親王は大御所・秀忠の孫にあたり、この践祚によって徳川将軍家は
外戚となるわけですが、和子の入内は決して女帝の登場を期待して行われた
わけではありませんでした。“首謀者”後水尾天皇はまんまと幕府を出し抜
いて譲位を敢行したのでした。
 江戸時代の天皇は、非常に気の毒な存在でした。石高はわずか4万石です。
「士農工商」の農民に対する年貢ではないですが、“生かさぬように、殺さ
ぬように”という、家康以来の精神が、天皇・朝廷に対しても及んでいまし
た。

 

『I f 』25「旧体制を覆す『大化の改新』は本当にあったのか?」

『I f 』25「旧体制を覆す『大化の改新』は本当にあったのか?」
 「大化の改新」(645年)は果たして本当にあったのか?日本史学者、考古
学者が著した文献によると、大化の改新以後の政策は蘇我氏によって準備さ
れていたもののようです。天皇家の外戚となり、権勢を飛躍的に強化した蘇
我氏独裁のなかで、その大臣・蘇我馬子が構想していた政治路線を入鹿が断
行していくのです。

大化の改新以後の政策は蘇我氏が立案したもの
が、その専横ぶりに嫌気した中大兄皇子、中臣鎌足、軽皇子らが、軍事ク
ーデターを起こして入鹿を殺害し、その政策を横取りしたのです。正確に
いえば、蘇我氏の本家が滅んだ後、皇極朝を継いだ孝徳天皇(軽皇子)が実
権を握って蘇我氏の政治路線を実行していったのです。これが実態なら、
真に政治改革「大化の改新」と呼べるものは存在したのかどうか、いささ
か怪しくなってきます。

中大兄皇子、皇極・斉明天皇は保守派、だから孝徳天皇と対立した
 従来は、実際の推進者は中大兄皇子(後の天智天皇)というのが通説のよ
うです。ただ、中大兄皇子も母親の皇極・斉明天皇も保守的な、反動的な人
物だったと思われます。その点、孝徳天皇は新しい官僚制をつくるなど、蘇
我氏の路線に乗って非常に進歩的です。皇極・斉明天皇とは同母姉弟関係、
中大兄皇子とは甥・叔父関係にありながら、こうした対立があったからこそ
孝徳は、中大兄と斉明の一種のクーデターに遭い、難波宮にひとり残されて
失意のうちに亡くなったのです。

大化の改新で政治方針の変更はなかった
だから、今日「大化の改新」と呼称していますが、正確には政治方針の変
更はなかったようなのです。となると、「大化の改新」の実態は、軍事ク
ーデター「乙巳(いっし)の変」で、為政者が蘇我蝦夷・入鹿から中大兄
皇子一派に代わっただけで、外交を含め政治方針は継続されたままだった
ということです。

 

『I f 』24「天武天皇が天智天皇の同母弟なら『壬申の乱』はなかった」

『I f 』24「天武天皇が天智天皇の同母弟なら『壬申の乱』はなかった」
 いささか唐突に受け止められるかも知れませんが、天武天皇(当時は大海人
皇子)が天智天皇の同母弟なら、古代史上最大の内乱「壬申の乱」(672年)は
起こらなかったでしょう。

天武天皇は天智天皇の同母弟ではなかったから「壬申の乱」が起こった
 読者の方には、「何を言っているんだ。現実に天武天皇は天智天皇の同母
弟ではないか」といわれそうですが、私たちが教科書で学んだ、いわゆる
“正史”ではその通りですが、真実は恐らく違うと思います。違うから、同
母弟ではなかったから「壬申の乱」という戦乱が起こったのだと思います。
作家の井沢元彦氏ら何人かの人が指摘していることですが、天武天皇と天
智天皇は同母兄弟ではなく、天武の方が天智より年上だったのでしょう。
しかも、天武は大和朝廷の実力者だったが、天智の正統な後継者ではなか
ったということです。

天武は正当な後継者でも「年下」でもなかったから戦乱になった
 天武が正統な後継者で「年下」なら、「年上」の天智が自然死するのを待
って、それから皇位奪取にかかればいいわけです。さらには『日本書紀』が
伝えるような、天武(当時は大海人皇子)が急ぎ出家し間一髪、吉野に逃れ
るという切迫した場面に遭遇することはなかったはずです。だが、天武が年
上で、正統な後継者でもないとしたらどうでしょう。悠長に構えてはいられ
ません。

天武は天智が4人の娘を嫁がせても味方につけておきたい実力者
 また、天武は天智がぜひとも味方につけておきたい実力者でした。だから
こそ、天智は自分の娘を4人も次々と天武(当時は大海人皇子)に嫁がせて
いるのです。この中で最も有名なのが鸕野讃良(うののさらら)皇女(後の持
統天皇)です。この時代、近親結婚は珍しくなく、叔父と姪の結婚も決して
タブーではありません。しかし、どう考えても4人も「兄」の娘をもらうと
いうのは尋常ではありません。極めて異例です。むしろ、これは天武と天智
の二人が兄弟ではなかったことの有力な傍証といえるでしょう。

『日本書紀』が天武の年齢を明記していないのは年上を隠すため
 ご存知の方は多いと思いますが、実は歴代天皇の中で天武天皇だけが『日
本書紀』に年齢が明記されていません。これは、天智と天武が本当の兄弟で
はないことを隠すためと、天武のほうが年上だということを隠さなければな
らなかったからなのです。
 後に整理し再構築されたものとは明らかに異なる、このような様々な裏事
情があったからこそ、天智の子、大友皇子と大海人皇子との間で平和的な協
議で決着をつけることはできず、皇位継承をめぐる戦乱「壬申の乱」が必要
だったということです。

『I f 』23「ハリスに帯同してきた通訳がもう少し善人だったら」

『I f 』23「ハリスに帯同してきた通訳がもう少し善人だったら」
 幕末、日本に開国を迫り、アメリカの総領事ハリスが連れてきた通訳ヒュ
ースケンが、特別な野心も持たない、普通の通訳官だったら、“唐人お吉”
の悲劇は起こらなかったでしょう。

野心家の通訳ヒュースケンが起こした”唐人お吉”の悲劇
 お吉は、伊豆下田の船大工・市兵衛とおきわの二女として1841年(天保12
年)に生まれました。お吉のもとに下田奉行所の役人から「アメリカの総領
事として下田に赴任しているハリスの看病をしてほしい」という話が持ち込
まれたのはお吉が17歳のときのことです。ハリスは病気がちなので、看護婦
を提供してほしいというのが、その依頼の主旨だったようです。
 ただ、ここで言葉の壁が立ち塞がりました。ハリスは日本語がしゃべれま
せん。そのため、通訳としてヒュースケンという当時25歳の青年を連れてき
ていました。実はこのヒュースケンが曲者(くせもの)でした。このとき
ハリスの要求を通訳した言葉に大きな問題があったのです。当時、日本には
看護婦という言葉もないし、もちろんそういった職業の女性もいません。
 ヒュースケンはある意図を持って「看病」ではなく、「身の回りの世話を
する女性」を提供してほしいと下田奉行所の役人に伝えたようです。その結
果、ハリスにお吉、そしてヒュースケンにもお福という15歳の娘がつけられ
たのです。若いヒュースケンは、自分が夜の相手に日本女性を欲しいものだ
から、わざと「身の回りの世話をする女性」と通訳したのでしょう。

通訳の要求どおり慰安婦として送り込まれた二人の女性
 とはいえ、日本側も簡単に了承したわけではありません。当時、下田奉行
所は「そのような先例がない」と断っています。ところが、ハリスは持病の
胃病が悪化し、吐血するまでになり、「この要求が受け容れられないならば、
これまでの条約交渉は破談にする」と厳しい対応で迫ってきたのです。結局、
この強硬なハリスの要求に負けてハリスとヒュースケンに、それぞれ若い女
性を差し出すことになったというわけです。

お吉に与えられた給金は破格の月10両、支度金25両
 お吉とお福、この二人の女性に与えられた給金と支度金をみると、その大
金に驚かされます。お吉の手当ては、何と月10両です。支度金も25両与えら
れています。仮に1両をいまの金額にして8万円と換算しても月給が80万円と
いうわけです。いかに外国人相手の看護婦といっても、月給80万円は破格の
待遇といわざるを得ません。

下田市役所所蔵の史料に残る役人たちの苦慮のあと
 しかも、下田市役所所蔵の関係史料の中に、「もし彼女たちの生理がとま
ったらどうするか」といった内容の文書もあったといいます。つまり、奉行
所の役人たちは、彼女たちが妊娠したときのことを心配していたのです。
こうしてみると、本人たちに細かい説明があったかどうかは別にして、お吉
とお福はそれぞれ、ハリスとヒュースケンの侍妾として送り込まれたことは
確実です。

浜辺に残る石塚が、生まれた混血児を闇に葬った墓-の記録も
こうして、“唐人お吉”の悲劇が現実のものとなったのです。お吉の菩提
寺の下田の宝福寺住職・竹岡範男氏が著した『唐人お吉物語』には、米国
総領事館が置かれていた玉泉寺の近くの柿崎の浜辺には小さな石塚がいく
つもあり、それが外国人と下田の女性との間に生まれた混血児を闇から闇
に葬った墓だという古老の話が掲載されています。
記録によると、ハリスおよびヒュースケンの相手をした女性として、お吉
・お福・おさよ・おつる・お松らの名前が挙がっています。では、なぜ
お吉だけが「唐人お吉」などと蔑視され続けたのでしょうか。それは、お
吉が別格の米国総領事ハリスに提供された女性だったことや、その後の
生き方の違いにあったのでしょう。

”総領事ハリスの女”のレッテルがついてまわったお吉は投身自殺
お吉に与えられた給金は圧倒的に多かったようです。また、お福は、ヒュ
ースケンに抱かれたことなどきれいに忘れて普通の結婚をしています。こ
れに対し、お吉は“総領事ハリスの女”というレッテルがずっとついてま
わり、明治になって女髪結いや小料理屋を営み、男と同棲したこともあり
ましたが、1890年(明治23年)稲生沢川に身を投げ亡くなりました。日本
の開国の裏にこうした女性の悲劇があったのです。

『I f 』22「仕官の途を譲り運が拓け、将軍家政治相談役に昇った新井白石」

『I f 』22「仕官の途を譲り運が拓け、将軍家政治相談役に昇った新井白石」
 新井白石は江戸中期、第六代将軍家宣(いえのぶ)、七代将軍家継(いえつ
ぐ)に仕えた学者政治家ですが、この出世の経緯をみると、実は初めに師の
木下順庵が推薦してくれた加賀藩への仕官の途を、同門の加賀出身の岡島
仲道に懇願されて譲ったことによって、彼の道が開けたのでした。

出世のきっかけは甲府藩主・徳川綱豊に仕えた37歳のとき
 白石の出世のきっかけは、彼が37歳になったときのことです。師の木下
順庵の推挙で、甲府藩主・徳川綱豊に仕えるようになりました。ところが、
この綱豊が子供のなかった五代将軍綱吉の養子になり、家宣と名を改めて
六代将軍に納まったので、自然と彼も横滑りして幕臣に昇格、1000石取り
にのしあがったのです。全く人間の運は分からないものです。

初めに師に推挙され譲った仕官の口は加賀100万石の大藩
白石が、師の順庵に初めに推挙された加賀藩(100万石超)に仕えていれば、
一生、地方の藩儒で終わっていたでしょう。加賀藩前田家の城下では知ら
れる存在になっていたとしても、幕府政治に影響を及ぼす器量の人物にま
でなることは絶対になかったはずです。それが、たまたま同門で加賀出身
の人物に懇願されて、最初、師に推挙された仕官の途を譲った結果、後に
めぐり巡って天下の将軍家の政治相談役にまでなってしまったのですから
…。
 ところで、白石が断った最初の仕官の途、加賀藩といえば地方とはいえ、
学者として身を立てるには、大藩だけに好待遇が期待できる、いわば一流会
社のポストです。これを他人に譲ろうというのですから、自分本位の現代人
にはちょっとマネのできないことだったといえるでしょう。

同門の人物に懇願されて譲った白石を師・順庵は賞賛
当時としても、これは珍しいことだったようで、師の順庵も、白石のこの
所業に涙を流して感心したといわれています。事実、当時も学者としての
就職は、喉から手の出るほど魅力のあることだったはずです。そこを、じ
っと我慢したのは見事です。その代償として、後の甲府藩主への仕官につ
ながったとすれば、利己心を抑えた初めの白石の判断は十分報われたとい
えるでしょう。

 

『I f 』21「徳川家基が急死しなければ、十一代家斉の時代はなかった」

『I f 』21「徳川家基が急死しなければ、十一代家斉の時代はなかった」
 徳川十一代将軍家斉といえば、在位50年間に1妻40妾を抱え50数人の子供
をつくりました。だが、将軍として求められる治世能力はほとんどなかった
といわれます。世継ぎを設けることは将軍の重要な役割の一つでしょうが、
本来彼は、将軍位に就ける立場ではなかったのです。

十代家治の世継・家基急死で転がり込んだ将軍の座
 それは、彼にとっては思わぬ幸運に恵まれた故のものでした。十代将軍・
家治の世嗣・家基が急死したため、八代将軍吉宗の孫で一橋徳川家二代当主
の父・一橋治済(はるさだ/はるなり)と老中・田沼意次(おきつぐ)の画策で
将軍の座が転がり込んだというわけです。
 世嗣・家基は、幼年期より聡明で文武両道に才能を見せ、成長するにつれ
政治にも関心を深めていました。それだけに父・家治の期待も大きかったの
です。そんな家基が1779年、鷹狩りの帰り、立ち寄った品川の東海寺で突然
体の不調を訴え、そのわずか3日後に急死してしまったのです。享年18(満
16歳没)。それまで元気に鷹狩りしていたわけですから、いかにもその死は
不自然で、不可解です。

家基の不可解な死に流れた毒殺説
そのため当時、毒殺説が囁かれました。首謀者として、家斉の父・一橋治
済や、家基が老中・田沼意次の幕政に批判的だったことから、田沼意次一
派の名も挙げられました。しかし、家治にほかに男子の子がいなかったた
め、父と田沼の裏工作通り家斉の世継ぎが決定。1781年、家斉は家治の養
子になって江戸城西の丸に入り、1786年の家治の急死を受け、1787年、15
歳で十一代将軍に就任したのです。徳川歴代将軍の中でも傑出した絶倫、
記録男・将軍家斉の誕生でした。

 

『I f 』⑳「徳川宗春がもう少し器量の大きい人物だったら」

『I f 』⑳「徳川宗春がもう少し器量の大きい人物だったら」
 尾張藩第七代藩主・徳川宗春は、八代将軍徳川吉宗の政治を批判、反逆し
た人物というのが定説となっています。

吉宗を上回る部分も少なくなかった宗春の目指した政治理念
 確かにそういう側面はありましたが、宗春の目指した政治理念は、吉宗の
それを上回る部分も少なくなかったのです。それだけに、宗春がもう少しう
まくPRし、周囲を十分納得させたうえで、理想を具体化していくという手
順を踏んでいたら、あれほど完全に浮き上がった存在になってしまうことは
なかったと思います。また、あれほど吉宗側の思い通りの“反逆児”に仕立
て上げられていくことはなかったのではないか-と惜しまれます。
 宗春が吉宗に対して抵抗し続けた理由は、尾張徳川家という家格に対する
誇りです。いわゆる御三家は、徳川家康が自分の九男・義直、十男・頼宣、
十一男・頼房にそれぞれ分家を起こさせたことに端を発しています。尾張徳
川家、紀州徳川家、水戸徳川家がそれです。しかし、水戸徳川家は、三代将
軍家光のころから「副将軍」という非公式な職名が与えられ、同時に江戸定
府を命ぜられました。参勤交代を免ぜられたのです。

尾張徳川家口伝の御三家は本家・尾張徳川家・紀州徳川家を指した
そんなこともあって、尾張初代の藩主義直は自分の子や家臣団に、「御三
家は徳川本家と尾張徳川家並びに紀州徳川家をいい、水戸は入らない。父
の家康公が、徳川家に何かあった時は御三家でよく相談するようにといわ
れたのは、徳川本家と尾張徳川家と紀州徳川家の三家で相談しろというこ
とだ。その意味では、尾張徳川家と紀州徳川家は徳川本家と同格である」
と告げていたのです。

宗春は政治の根源に「慈」「忍」に二文字を掲げた
 宗春は藩祖・義直の精神に則(のっと)って、藩政を執り行おうと考えて
いました。彼は政治の根源に「慈」と「忍」の二文字を掲げ、領民の立場で
政治を考える、いわば「安民」の思想で尾張藩を治めようとしたのです。彼の
政治理念を書いた『温知政要』によると、「治める側の立場に立つのではな
く、治められる民の立場に立ってものを考えよう」という精神が一貫して流
れているのです。そのため、役人のあり方としては、「民の身になって政治
を考える」ことを求めました。そして、『温知政要』の内容をみると、明ら
かに「吉宗政治批判」あるいは「反吉宗」の項目が随所にみられます。

「倹約」と「法律」偏重の吉宗政治を批判
 吉宗の政治の根本は、「倹約」と「法律」に集約されます。これに対し、
宗春は①倹約一辺倒では人間の心が狭く小さくなってしまう。確かに倹約は
大切だが、度が過ぎると世の中が暗くなる。人間も生きがいを失う②法律は
少ないほど、よく守られる。やたらにこれをしてはいけない、あれもしては
いけないなどと法律を多くすれば、窮屈で民は守らなくなる③治者は下情に
通じていなければいけないことはいうまでもないが、下情に通じ過ぎて細か
い物の値段まであれこれ口を出すようになるのは、かえって民が迷惑する-
といった具合に、吉宗政治を批判しているのです。倹約一辺倒の吉宗、ある
いは法律を次から次と新しく出す吉宗に対し、真っ向から「あなたの政治は
間違っている」と宣言したのです。
 さらに、宗春は「質素・倹約」の吉宗を挑発するように、町に賑わいを取
り戻すべく、芝居見物の禁令を解いたり、触れ(法律)の壁書きを撤去、質
素に行うことされていた祭礼を元に戻すなど、服装、髪の結い方まで含め細
かな禁令をすべて解いてしまいました。これでは、吉宗側も黙って見過ごし
てはいられません。こうして、究極的には吉宗側に「尾張宗春には謀反心あ
り」のレッテルを貼らせてしまったのです。

賢君・吉宗には正論は通らず、「謀反心」ありのレッテル
 客観的に判断すれば、為政者としてみれば宗春に理があるのは明らかで
す。しかし、相手によってその判断基準は大きく異なってきます。宗春にと
ってはターゲットとした相手が悪かったということです。徳川十五代将軍の
中でも吉宗は賢君で、「享保の改革」など善政を行った人物として記されて
います。それだけに、彼が意図した当時のそうした社会規範の下では、必ず
しも正論は正論として通りません。

人間的器量で吉宗に劣った宗春
 また、宗春の人間的“器”も吉宗と比較すると、小さかったようです。吉
宗は、どんな時にも絶対に顔色を変えて部下を叱りつけるようなことはしな
かったといいます。その点、宗春は自分の意を迎えて協力するものはどんど
ん登用しましたが、そうでないものは排除してしまいました。これが名古屋
城内に混乱をもたらしたようです。家臣団に十分説明し、理解、納得させる
努力を怠ったというわけです。
その結果、「お家大事」の家臣団の中で、将軍吉宗に“喧嘩”を売るよう
な言動を続ける藩主に不信感を招き、尾張藩内においても宗春は浮き上が
り、孤立化していったのです。不器用な生き方が惜しまれます。

 

 

『I f 』⑲「岩倉具視らの奇策がなければ、征韓論争の逆転勝利はなかった」

『I f 』⑲「岩倉具視らの奇策がなければ、征韓論争の逆転勝利はなかった」
 1873年(明治6年)、8月17日の正院で、参議・西郷隆盛を隣国朝鮮へ使節
として派遣することが決定しました。岩倉具視ら政府首脳が欧米視察に出か
けている留守の間の「留守政府」で決められたことでしたが、ここから征韓
論争が始まったのです。

朝鮮への使節派遣決定を”ウルトラC”の奇策で覆した岩倉
 明治新政府の首脳には、薩摩藩・長州藩の出身者が主要ポストに就いてい
ましたが、公家出身者では三条実美(さねとみ)の太政大臣、岩倉具視の右
大臣の二人が双璧でした。そして、この三条実美太政大臣、岩倉具視右大臣
のとき、「明治6年政変」が起きているのです。
岩倉らの帰国後、改めて開かれた10月14~15日の正院でも西郷らを派遣す
ることが決められました。このとき、西郷らの派遣論に反対したのが岩倉
と大久保利通らでした。とくに大久保は「時期尚早」として反対論を唱え
ましたが、結果的には敗れました。
 ところが、ここから岩倉の巻き返しの“ウルトラC”が始まるのです。岩
倉と大久保は太政大臣の三条実美に辞表をたたきつけたのです。公家には似
つかわしくないほどの策士といわれた岩倉とは全く違い、三条実美は本質的
にはできる限り対立を避け、混乱を回避したい、実直な公家です。岩倉、大
久保の辞表提出という“奇策”のショックで、精神錯乱に陥った三条は卒倒
してしまったのです。

大久保と組み、太政大臣・三条実美の性格を読んだ計算ずくの勝利
三条が卒倒するところまで計算していたかどうか分かりませんが、岩倉は
「自分らが身を引くといえば、動揺した三条がショックで政務を投げ出す
のではないか」と読んでいたのではないでしょうか。ともかく、三条が倒
れた以上、明治天皇は三条に代わる誰かを太政大臣にしなければなりませ
ん。そうしなければ政界の混乱は収まらないと考えました。そのとき、裏
から大久保が手を回していたといわれています。その結果、天皇から太政
大臣代理の指名を受けたのが岩倉だったのです。
 太政大臣代理となった岩倉は、正院の決定を天皇に奏上しました。そのと
き、「派遣に決定しましたが、私は反対です」と自分の考えを述べているの
です。そこで、“飾りもの”でしかない天皇は、本来尊重すべき正院の決定
を無視し、「すべて岩倉の意見通りにせよ」という勅書を出してしまったと
いうわけです。
 すべて、太政大臣・三条実美の性格を読み切ったうえでの、岩倉の計算ず
くの作戦勝ちでした。本当なら、もはや打つ手なしの状態からの“起死回生
の”逆転勝ちでした。

『I f 』⑱「関白・秀次の挫折がなければ、天下の柳生新陰流はなかった?」

『I f 』⑱「関白・秀次の挫折がなければ、天下の柳生新陰流はなかった?」
 柳生新陰流は徳川将軍家の御家流として繁栄しました。将軍家指南役とし
て柳生宗矩(むねのり)は大名にまでなりました。だが、これは柳生家にと
ってはこれ以上望めない幸運に恵まれた結果だったのです。
 柳生三代といわれる宗厳(むねよし)・宗矩・三厳(みつよし)と徳川家
との関わりは、初代・石舟斎(せきしゅうさい)宗厳と家康との関係がそも
そもの始まりです。1594年(文禄3年)5月、家康は柳生の評判を聞き、一度
実際に自分の目で柳生の剣の使い方をみてみたいと考え、宗厳を招いたので
す。このとき宗厳は子の宗矩を連れていき、求められるまま、家康の面前で
柳生新陰流の妙技“無刀取り”を披露しました。
 家康は一目見ただけで気に入ってしまい、即座に「入門したい」といい、
宗厳・宗矩父子を召し抱えたいと考えたのです。ところが、あいにくその時
点では、宗厳は関白・豊臣秀次に仕える身で、結局まだ仕官していなかった
子の宗矩が家康に召し抱えられることになりました。後に但馬守の受領名を
与えられ、柳生但馬守として知られています。宗矩はこのとき24歳、1000石
からのスタートでした。

関白秀次が健在なら柳生家親子は戦場で対立する可能性があった
 柳生家がこれだけ繁栄、徳川の剣、「天下の剣」になるには、宗矩だけの
才覚、努力では恐らく無理だったでしょう。なぜなら、既述の通り、父・宗
厳は関白秀次に仕えていたのですから、秀次が健在なら早晩、父子が双方の
指南役の一人として対立する、あるいは戦場で激突する可能性があったので
す。
 また、そうした状況になれば、徳川家も柳生家を信頼して重く用いること
はできなかったはずです。とくに戦になりそうな情勢になれば、疑心暗鬼で
宗矩は出世どころか、徳川家の中枢からかえって遠ざけられたのではないで
しょうか。

秀頼誕生による関白秀次の挫折に救われた柳生親子
 ところが、ここで歴史の流れは柳生家に味方しました。そうした事態をつ
くってくれたのは天下人・豊臣秀吉でした。秀吉は側室・淀君が産んだ秀頼
を跡継ぎにするため、秀次排除に動いたのです。宗矩が徳川家に召し抱えら
れた翌年、宗厳が仕えていた秀次は高野山で切腹させられたのです。こうし
て柳生家はちょうど、うまいタイミングで豊臣家から徳川家に乗り換えられ
たわけです。
 三代将軍家光のとき、宗矩は「惣目付」の一人に任命され、これが後に、
諸大名・旗本の監察役、「大目付」と改称されるのです。大目付の中で、
柳生家は別格でした。これと連動して出てくるのが「十兵衛隠密説」です。
柳生十兵衛は、宗矩の長男で、名乗りを三厳といいますが、一般的には十兵
衛の名でよく知られています。山岡荘八の『柳生十兵衛』、五味康祐の『柳
生武芸帳』などに登場するヒーローです。

『I f 』⑰「織田信長の出自が平氏ではなく、源氏だったら」

『I f 』⑰「織田信長の出自が平氏ではなく、源氏だったら」
 「本能寺の変」(1582年)で明智光秀に討たれた織田信長の出自が平氏で
なく、源氏だったら、信長はいま少し生き延び、名実ともに征夷大将軍か関
白、あるいは太政大臣となって信長治世の時代が続いていたのではないとの
見方があります。

本能寺の変の前、朝廷は信長を征夷大将軍にする腹を固めていた
 本能寺の変が起きる3カ月ほど前、信長は甲斐の武田勝頼を討ち、武田氏
を滅亡させています。その結果、朝廷ではこれで東国が治まったと判断して、
信長を征夷大将軍にする腹を固めていたようです。確実な史料がないので、
断定はできないのですが。
 ただ、そのことをうかがわせる公家の日記はあります。勧修寺晴豊
(かじゅうじはれとよ)の日記『日々記(にちにちき)』によって、このと
き朝廷では、信長に「征夷大将軍でも、関白でも、太政大臣でも、お好きな
官に任命しましょう」といって、信長側の反応を打診していたのです。そし
て、信長は征夷大将軍になりたいとの希望を持っていたようです。

光秀は平姓・信長の将軍出現を許せなかった?
 この朝廷とのやり取りを知り得る立場にいた織田家の家臣は、森蘭丸など
の小姓たちを別にすると、重臣クラスでは明智光秀だけでした。光秀は信長
の将軍任官を黙って見過ごすことができなかったのです。それはなぜか。
信長が平氏の人間だったからです。征夷大将軍には、古代の坂上田村麻呂
や、後醍醐天皇の皇子たちを別にすれば、武士では源氏の人間しか任命され
てこなかったのです。出自が美濃源氏の光秀にとって、そうした先例を破る
平姓将軍の出現を許すことができなかったのではないでしょうか。
 光秀謀反の真因については、怨恨説をはじめ諸説あり、いまだに謎です。
ライバル豊臣秀吉に追い越される不安、いつ織田家におけるその立場を追わ
れるかも知れないという不安が要因としてあったことは間違いないでしょ
う。が、一番の原因はこれまであまり指摘されていないことですが、信長に
よる「平姓将軍の出現阻止」だったのではないでしょうか。

家康は天下取りの展望が開けた時点で出自を平氏→源氏に
 そんなことが謀反を起こす大きな原因になるのか?と思われる読者の方も
おられるかと思いますが、実は武家社会においてこの出自は、非常に大事
な、ある場合には歴史を動かすモチベーションにもなるのです。当時、それ
まで流人の身だった源頼朝が、東国武士に担ぎ上げられて征夷大将軍とな
り、遂に鎌倉幕府を開くのも彼が源氏の嫡流だったからです。室町幕府の
足利家も、出自は清和源氏の流れです。また、徳川家康が系図上、一時は
そのルーツを平氏としていたにもかかわらず、天下取りの展望が開けてきた
時点で書き換え、出自を源氏としたのも、何よりも武家として征夷大将軍に
任じられるには、資格上、源氏の流れでなければならない、あるいは平氏の
ままでは難しいと認識していたからにほかなりません。
 いずれにしても、信長が本能寺で討たれていなければ、朝廷から信長が
征夷大将軍に任じられ、安土に幕府が開かれ織田政権が誕生。そうなると、
後継の豊臣政権への移行過程が変わり、恐らくその「安土・桃山時代=織豊
政権」の性格も実際の歴史とは異なったものになっていたことでしょう。

 

『I f 』⑯「大久保利通が内務省を新設していなかったら」

『I f 』⑯「大久保利通が内務省を新設していなかったら」
 一般にはあまり広くは知られていないことで、少し専門的になりますが、
後に政官界のナンバーワンに躍り出た大久保利通の大出世のきっかけになっ
たのが、内務省の新設と、彼自らがそのトップの内務卿に就任したことなの
です。

内務省の新設と内務卿就任が大久保の大出世のきっかけ
  誰の目にも分かるきっかけは、1873年(明治6年)の征韓論争で西郷隆
盛、板垣退助ら征韓派5人の参議が“下野”したことでしたが、後の「大
久保独裁」は、実は冒頭に述べた内務省の新設および、自身の内務卿就任
が実態としては大きかったといえるでしょう。
 もし、征韓派参議の下野後、大久保が政権中枢に座を占めていたとして
も、効果的な権力掌握や政権運営の実を示せていなければ、あるいはこの
内務省の新設、内務卿就任がなければ、後の歴史ほど大久保による明治維
新政府の運営が円滑に進んだかどうか?殖産興業、さらには近代天皇制の
絶対的権力樹立に果たした役割からみると、それほどに重要なステップだ
ったということです。

内務省新設が「大久保独裁」体制への伏線に
 内務省は、それまであった大蔵省・工部省・司法省の三つの省から、殖産
興業関係と民政関係の部局を移管して新設されたもので、一等寮として勧業
寮と警保寮の二つが置かれました。これは、内務省の主な仕事が殖産興業と
警察の二つにあったことを如実に物語っています。とくに注目されるのは警
保寮で、これは司法省では二等寮だったものが、内務省新設とともに格上げ
されているため、内務省新設の狙いがそこにあったといっても言い過ぎでは
ありません。ちなみに、内務省の二等寮には戸籍寮・駅逓寮・土木寮・地理
寮が置かれていました。
 内務省の新設後、政府は内務省・大蔵省・工部省の三つの省庁が中心とな
り、しかも内務卿・大久保利通は地方官を指揮する広範な権限を持つことに
なり、「大久保独裁」と呼ばれる大久保政権が樹立されることになったので
す。

天皇の補佐役という形で中央集権化と天皇神格化をセットで推進
 近代天皇制の絶対的権力樹立に際し、この内務省、とりわけ警保寮の果た
した役割は極めて大きなものがあったと思います。というのは、警察権力が
それまでの犯罪人の捜査・逮捕といったレベルから、一挙に思想統制なども
含めた“公安”警察のレベルに引き上げられたと考えられるからです。
 大久保が征韓論争で手を組んだ岩倉具視も含め、彼らには西郷隆盛のよう
なカリスマ性はありません。むしろ明治天皇を頂点にいただくことによっ
て、自分たちはあくまでもその補佐役-という形を取りながら、実際には実
権を握る方法を取りました。その場合、「万世一系」という皇統を強調し、
それを神格化させることによって、天皇の権威を持ち出す道を考え出したと
いうわけです。つまり、明治維新政府の中央集権化の動きと、天皇神格化の
動きがセットになって推進されていったのです。

天皇の地方”巡幸”で民衆に「現人神」を印象付ける
 とはいえ、民衆にとって天皇は遠い存在でしかありませんでした。そこ
で、大久保らが考え出したのが天皇の地方“巡幸”でした。明治天皇の地方
“巡幸”をみると、1872年(明治5年)の近畿・中国・四国・九州方面への
“巡幸”を手始めに、ほぼ毎年この“巡幸”が行われ、天皇の「現人神
(あらひとがみ)」を民衆の中に強く印象付ける旅が繰り返されたのです。
 こうして明治維新政府で強固な基盤を築いた大久保は、幼友達で無二の親
友、西郷隆盛と最も激しく対立することになり、西郷が起こした「西南戦争」
(1877年)では、大久保自らが大阪に出向き、西郷討伐の最高指揮を執って
います。

 

『I f 』⑮「平将門が源頼朝並みの武家政権づくりの野望を持っていたら」

『I f 』⑮「平将門が源頼朝並みの武家政権づくりの野望を持っていたら」
 平将門は桓武天皇の曾孫で、平氏の姓を授けられた高望王(たかもちおう)
の孫で鎮守府将軍・平良将(よしまさ)の三男です。将門は平安京に出仕し
て藤原北家の氏の長者、藤原忠平と主従関係を結びますが、935年に父・良将
が急死したため領国に戻ります。しかし、相続をめぐって争いが起こり、一
族の抗争へと発展します。

将門は939年「新皇」を宣言 国家への反逆者に
 抗争を続ける中で、将門は行き掛かり上、国司と対立。さらには常陸、下
野、上野など関東諸国の国衙を襲い印鑑を没収、各地の戦いで勝利を収め、
やがて、関東一円、いわゆる関八州(常陸・下野・上野・武蔵・相模・上総
・下総・安房)を支配下に治めました。しかし、当然、朝廷からは一連の行
動が敵対行為と見なされてしまいます。そこで939年、将門は不本意ながら
朝廷に反旗を翻し、京都の朝廷に対抗し、独自に天皇に即位して「新皇」を
名乗りました。これがいわゆる「平将門の乱」(935~940年)です。つまり、
将門は国家に対する反逆者となってしまったのです。

将門の本意は、あくまでも”義”の精神から出た行動
 しかし、将門は庇護を求めてきた、あるいは頼ってきた者に救いの手を差
し伸べたにすぎません。あくまでも“義”の精神から出た行動でした。まし
て、最初から関東独立国構想を描いていたわけではありません。ですから、
「新皇」宣言も彼自身の意識としては、国家反逆などという、そんな大それ
たことを仕出かした、あるいは決して野心から、あの行動に出たわけではな
いのです。

将門に武家政権構想があれば、歴史は違っていた
 鎌倉に幕府を開き、日本で初めて武家政権をつくった源頼朝が、歴史の表
舞台に登場する250年前のことです。もし、この時点で将門が頼朝のような
武家政権づくりの野望をもっていたとしたら、もしくは頼朝に近い緻密な武
家政権構想があれば、将門を頼りとした、あるいは彼に親近感を抱いていた
周辺武士団の動きも出てくることが予想され、もう少し効果的な連携が生ま
れたのではないでしょうか。
そうした状況が生まれれば、征東大将軍の関東到着前に、下野の押領使だ
った藤原秀郷および平貞盛らの兵によって、940年(天慶3年)、あれほど
簡単に敗れることもなかったはずです。平安京の天皇に対抗して、関東独
立国樹立の宣言をした将門の乱は、わずか2カ月で鎮圧されてしまったの
です。
 将門に本格的な武家政権づくりの思いがなかったのは、端的にいえば彼の
出自および育った境涯から、思い詰めるほどのハングリー精神がなかったか
らでしょう。頼朝は源氏の嫡流として育てられましたが、14歳から34歳まで
の20年間もの長い間の流人生活を経験しています。これにひきかえ、将門は
桓武天皇五代の孫で、このことを将門自身強く意識し、行動していました。

 

 

『I f 』⑭「菅原道真が学者の分を守っていたら」

『I f 』⑭「菅原道真が学者の分を守っていたら」
 どんな人間にも出世欲・名誉欲はあるものです。それが後世、神として祀
られるような人物であっても変わらないようです。菅原道真は周知の通り、
学問の神様の天神様として祀られ有名です。京都の北野天満宮は、受験シー
ズンともなると、道真のご利益に与ろうと毎日、参拝客が後を絶たないとい
われ、今もって篤い信仰に支えら、民衆に親しまれている神様です。

大宰府への左遷には藤原氏の思惑に加え、道真にも非が
 菅原道真といえば、異例の出世で藤原氏の妬みを買い、事実無根の罪を着
せられ九州・大宰府に左遷・幽閉された悲劇の主人公です。ただ、道真だけ
が是で、藤原氏だけに非があってこの悲劇が生まれたのではないのです。実
は多くの場合見落とされがちですが、道真にも非を攻められても仕方がない
部分があったようです。
 基経の嫡子・時平が899年(昌泰2年)、左大臣兼左大将に任じられたと
き、道真が右大臣兼右大将に任じられ、ライバルとして拮抗する形になりま
した。しかも、道真は長女の衍子(えんし)を宇多天皇の女御に入れ、名前
の伝わらないもう一人の女を斎世(ときよ)親王の妃に入れています。まさ
に、このころが道真の絶頂期でした。

藤原氏と同様、天皇との姻戚関係づくりに走った道真
 しかし、冷静になって考えてみれば道真は、藤原氏がやることと同じよう
に閨閥、天皇との姻戚関係づくりに走りすぎました。右大臣に昇り詰めたの
は良しとしても、道真は学者です。父・是善(これよし)も、祖父・清公
(きよきみ)も、学者として最高位であり、誇りでもある文章博士(もんじ
ょうはかせ)となっています。あくまでもトップクラスの学者として、ポス
トに固執する姿勢などは持たず、まして娘を宇多天皇の女御に入れるなど
は、藤原氏の神経を逆撫でするに等しいことで、決してやるべきではありま
せんでした。

文章博士として異例の速さでの昇進に学者仲間から妬み
 道真自身、23歳で文章特業生となり、877年(元慶元年)33歳で式部少
輔・文章博士に任ぜられ、その異例の速さでの昇進に学者仲間から白い眼で
みられ、妬みの対象になっているのです。そんな学者仲間の妬みに拍車をか
ける事態が進行していきます。880年(元慶4年)、父の是善が亡くなったの
です。父の跡を継いで、彼は菅原氏の私塾「菅家廊下(かんけろうか)」、
現代風に表現すれば、超一流私立大学の理事長兼総長に就任しています。36
歳のときのことです。
 学者たちは、羨望の眼差しといった生易しいものではなく、道真に嫉妬し
始め、彼を引きずりおろそうとし出したのです。その結果、886年には式部
少輔・文章博士を解任され、讃岐守に任ぜられているのです。つまり、讃岐
国の国司へ左遷されたのです。

阿衡事件の収拾、橘広相弁護の論陣張り、都に復帰
 したがって、道真はそのまま一生を讃岐国の国司として送らざるを得なか
ったかも知れません。ところが、讃岐国の国司在任中の887年、一つの事件
が起こったのです。阿衡(あこう)事件です。阿衡の紛議(ふんぎ)ともい
います。このとき、天皇は宇多天皇で、藤原基経を関白にしようとして、橘
広相に基経を関白に任ずるための詔を起草させました。問題はその詔に、
「阿衡に任ず」と書かれていたことでした。基経は、「阿衡は位のみで、職
掌を伴わないから、政治をやる必要はない」といって、完全なサボタージュ
を決め込んでしまったのです。政治が混乱したことはいうまでもありませ
ん。
 このとき、基経に対し意見書を提出し、橘広相弁護の論陣を張ったのが道
真でした。基経のやった無理が通れば、今後、学者の書く文章は萎縮してし
まう-という、学者の使命感のようなものが恐らくあったのでしょう。基経
をはじめとする藤原一族は、田舎国司の意見など無視していたようですが、
宇多天皇は道真の行為を重く受け止めていたのです。そこで、道真は幸運に
も国司の任期切れを待って、都に呼び戻されることになったのです。

学者が政治家に 若年の”蹉跌”の教訓は全く生かされず
 以後、道真は再びトントン拍子の出世をすることになります。しかし、
今度は学者としてではなく、宇多天皇は藤原氏の対抗勢力となることを期待
して、政治家として道真を遇しだしたのです。すると、学者仲間が「学者が
政治家になるとは何事か」と今度も攻撃し出したのです。
 ここで、道真は36歳のとき讃岐国の国司に左遷されたときの経緯を思い起
こすべきでした。自分だけが飛びぬけて昇進すれば、周囲の妬みが生まれ、
やがて自分に跳ね返ってくることを肝に銘じておくべきでした。
 若い時代の“蹉跌”の教訓は全く生かされませんでした。出世しても、政
治家・藤原一族とは一線を画し、道真自身が皇位をめぐる争いなどには一切
口をはさむような言動を慎み、学者の“分”を意識し守っていたら、最後の
大宰府への左遷は回避できたのではないでしょうか。

 

『I f 』⑬「藤原不比等の出自が天智帝と無関係だったら」

『I f 』⑬「藤原不比等の出自が天智帝と無関係だったら」
 藤原不比等は持統女帝の信任のもとで①「養老律令」の制定②平城京遷都
③『日本書紀』の編纂など様々な優れた功績を残した人物です。そして、前
記の3つの事業に先立つ「大宝律令」の制定、藤原京遷都、『古事記』の編纂
にも最重要人物として関わっています。それは、不比等が父・藤原鎌足が信
頼の証として天智天皇からもらった二人の妻のどちらかに産ませた子か、も
しくは天智天皇の子ではないか-との謎の部分があるため、持統女帝は自分
の異母弟かも知れない不比等を自分の側近にし、重用した結果だとみられる
のです。

藤原不比等は本来出世しにくいはずの近江朝に縁の深い人物
 不比等は天智天皇をバックアップした藤原鎌足の遺児ですから、近江朝に
縁の深い人物です。また、不比等が育てられた山科の田辺史大隅(たなべの
ふひとおおすみ)と関係ある田辺史小隅(おすみ)は、「壬申の乱」のとき
の近江朝の将軍で、天武天皇が最も憎んだ中臣連金(なかとみのむらじかね)
の直系の配下の人物なのです。ですから天武天皇はもちろん、持統天皇の御
世も普通なら、不比等はなかなか出世できないはずです。

目を見張るスピード出世は、謎に包まれた彼の出自に起因
 ところが、689年(持統3年)、『日本書紀』に初めて現れるのです。不
比等31歳のときのことです。竹田王(たけだのきみ)ら8人とともに判事に
任じられ、直広肆(じきこうし)となったと記されています。判事というの
は刑部省の所属で、律を解釈する実務家です。突然変異のように実務官僚の
列に加えられ、以後、目を見張るスピードでのし上がっていくのです。
 不比等の、この異例の出世ぶりの背景にあるのが、謎に包まれた彼の出自
です。父・鎌足は654年(白雉5年)、天智天皇から紫冠を授けられていま
す。と同時にこのとき、天智天皇の二人の妻をもらって、自分の妻にしてい
ます。一人は采女(うねめ)の安見児(やすみこ)で、もう一人は鏡女王
(かがみのおおきみ)です。鏡女王は額田王の姉という説と、舒明天皇の皇
女という説がある女性です。

不比等は天智天皇の子の可能性 持統天皇には異母弟?
 今日的にみれば、少し異様なことといえるのでしょうが、当時、非常に親
しい王と臣下との間で、王が妊娠させた女性を臣下に渡すといったことが行
われていました。不比等は鎌足が紫冠を授けられた後に生まれた子ですから、
安見児か鏡女王の子供、つまり天智天皇の子でもある可能性があるわけです。
 天武天皇は天智天皇を憎んでいましたが、持統天皇は天智天皇が実の父で
すから、ひょっとしたら不比等は自分の異母弟かも知れないと考え、彼を自
分の側近にしたとも考えられるのです。

不比等と草壁皇子に連なる血脈とのつながりが権力の源泉
 不比等はまず、持統女帝の最愛の息子、草壁皇子(くさかべのみこ)に接
近していきます。彼は20代後半から30代にかけて、まだ無位だったにもかか
わらず、草壁皇子と非常に深い関係を持つようになります。草壁は死ぬとき、
有名な黒作懸佩刀(くろつくりかきはきのたち)を不比等に渡しています。
これはいま正倉院にあります。
不比等はそれを、持統女帝の孫、文武天皇に渡しています。そして若くし
て文武天皇が亡くなるとき、また不比等に返しており、不比等はそれを今
度は聖武天皇に渡しているのです。これは有名な説話で、史実です。それ
ぐらいに不比等と草壁および草壁に連なる血脈はつながっていたわけです。
無位だった不比等が、どうして草壁皇子に近づけたのか。その仲介者は明
らかに持統女帝でした。
 こうして律令国家の影の制定者、藤原不比等は後の藤原“摂関”政治体制
の礎をつくっていったのです。

『I f 』⑫「島津斉彬が急死していなかったら」

『I f 』⑫「島津斉彬が急死していなかったら」
 幕末の薩摩藩主・島津斉彬は開明派の名君の一人で、西郷隆盛、大久保利
通ら幕末から明治維新にかけて活躍する人材を育てました。

薩摩藩を産業国家に改造すべくいち早く着手した島津斉彬
 ペリーが浦賀に来航したとき、彼は欧州の近代文明の根源が、この半世紀
前から起こった産業革命にあると見抜き、薩摩藩を産業国家に改造すべく手
をつけ始めたのです。
まず幕府に工作して巨船建造の禁制を解かせ、国許の桜島の有村と瀬戸村
に造船所をつくり、大型砲艦十二隻、蒸気船三隻の建造に取り掛かり、そ
のうちの一隻、昇平丸を幕府に献上しています。また、彼は藩政を刷新し
殖産興業を推進。城内に精錬所、磯御殿に反射炉、溶鉱炉などを持った
近代的工場「集成館」を設置しました。この集成館では大小砲銃、弾丸、
火薬、農具、刀剣、陶磁器、各種ガラスなどを製造していました。

最新鋭の軍事力を装備、将軍後継問題で一橋派を推した斉彬
斉彬は当時、薩摩藩に富国強兵策を導入、軍事力を整備。同藩は西南雄藩
の中でも最新鋭の軍事力を備えていました。海外列強が日本に開国を迫る
中、幕府内は病弱の第十三代将軍・徳川家定の将軍継嗣問題で紀州藩の
徳川慶福(よしとみ)を推す紀州派と、一橋慶喜を推す一橋派とが朝廷を
も巻き込み対立していました。幕府の老中首座・阿部正弘と合議のうえ
斉彬は、越前藩主・松平慶永、宇和島藩主・伊達宗城、土佐藩主・山内豊
信、慶喜の実父・徳川斉昭らと強力に一橋派を推していました。斉彬は、
公家を通じて慶喜を擁立せよとの内勅降下を請願していたともいわれます。

大老井伊直弼の裁断で紀州派が勝利し開明派が敗北
ところが、1857年(安政4年)老中・阿部が急死すると事態が大きく変わっ
ていきました。急遽、大老に就任した彦根藩主・井伊直弼の裁断で紀州派
が勝利。大老・井伊はその地位を利用して強権を発動し、反対派(=一橋
派)の大弾圧を開始します。「安政の大獄」(1858年)です。
敗れた斉彬は、抗議のため藩兵5000人を率いて上洛することを計画してい
ました。海外列強が日本への攻勢を強めている状況下、もはや旧来の幕府
の御法優先の対応では早晩、日本が侵略されてしまいかねないという危機
意識の下に、斉彬は朝廷を動かし、幕府に揺さぶりをかける腹づもりだっ
たのです。そんな斉彬の計画に期待する諸大名も少なくなかったのです。
しかし、そんな期待はその直後、見事に裏切られてしまうことになりまし
た。悲劇的な結末が待っていました。

反転攻勢へ軍事行動の直前、変死した斉彬
斉彬は上洛を前に7月8日、炎天下、鹿児島城下で大軍事訓練を敢行。陣頭
指揮した場面もあったといわれています。いずれにしても、斉彬はその閲
兵中、にわかに体調を崩し発病。高熱や下痢が続き、重篤な状態が続いた
後、7月16日、あっけなく亡くなったのです。まさに不可解な死でした。
西郷や大久保ら、さらに側近、開明派の幕府方官僚たちをも含め、周囲を
悲嘆にくれさせる死でした。享年50(満49歳)。死因は、薩摩藩医の診断
ではコレラと記録されているようですが、毒殺説も囁かれました。
 とにかく、斉彬にこのまま軍事行動されては困る幕府側の“闇”の力が働
いたのではないか。あるいは幕府の強い意思・意向を受けた勢力が、密かに
斉彬の抹殺に動いたとも考えられるのです。それほど、幕府側にとって斉彬
は、影響力の大きい怖い存在だったのです。また、斉彬にこのまま藩を委ね
たら、薩摩藩の行く末が危ういと考えた藩内部の保守勢力が、斉彬の上洛を
阻止するために毒殺したとの見方もあります。

斉彬健在なら、その後の幕末史はかなり変わっていた
 もし、この危機を乗り越えて斉彬が健在なら、その後の幕末史はかなり変
わったものになっていたのではないでしょうか。斉彬が藩兵5000人を率いて
上洛、大デモンストレーションを敢行していたら、合流する藩や脱藩志士た
ちが加わり、反幕勢力となっていた可能性があります。これに朝廷の意向が
乗ってしまうと、幕府にとっては大きなプレッシャーとなって、早晩、幕府
が瓦解に向かっていたかも知れません。一気にそこまでいかなくても、幕閣
が弱腰の対応に変わっていたことは十分考えられます。

 

『I f 』⑪「平清盛が白河法皇のご落胤でなかったら」

『I f 』⑪「平清盛が白河法皇のご落胤でなかったら」
 平清盛は平安時代、日本で初めて武家政権を開いた人物で、武士では初め
て太政大臣となりました。しかし、清盛の大出世、運にも恵まれた側面はあ
るものの、実はその出自と決して無関係ではないようです。諸説あります
が、清盛の生母は祇園女御の妹という説が有力です。母の死後、この祇園女
御の猶子になったといわれます。そして清盛はこの祇園女御の庇護の下に育
てられたのです。祇園女御は白河法皇の晩年の寵妃です。また、『平家物
語』では懐妊した女御が清盛の父、忠盛に下賜されて清盛が生まれたとあり
ます。詳細は定かではありませんが、つまり清盛は白河法皇のご落胤という
わけなのです。
清盛は保元・平治の乱(1156年・1159年)を経て、源氏との戦いに勝利。破
竹の勢いで実力者に昇り詰めていきます。清盛だけではありません。一門
挙げて目を見張る勢いで、急速に権勢拡大していきます。普通ならここで
牽制する勢力との対決があっても決して不思議ではありません。

わずか8年で武家では初の太政大臣に、平家一門の栄達を実現
ところが、そうした勢力が現れないまま、清盛はわずか8年間に正四位か
ら従一位へ、ポストは左右大臣を飛び越えて太政大臣に就くのです。これ
は決してただごとではありません。それは、やはり公然の秘密として、清
盛が白河法皇のご落胤、あるいは縁者だと認知されていたからではないで
しょうか。だからこそ、有力貴族、高級官僚も一目置かざるを得なかった
のでしょう。
その結果、清盛の強烈な統率力のもとに「平氏に非ずんば人に非ず」と豪
語するほどの平家の時代を築き上げられたのです。『源平盛衰記』による
と、平家一門の栄達は重盛の内大臣をはじめ公卿16人、殿上人30余人、そ
の他の国司や衛府の武官80余人を数えたといいます。
 しかし、清盛が白河法皇のご落胤でなかったら、あれほどの出世は望めな
かったでしょう。となると、権勢に満ちあふれた、あのような大規模な平家
一門全盛の時代は訪れていなかったのではないでしょうか。そう仮定すると、
後の歴史も幾分変わっていたと思わざるを得ません

 

『I f 』⑩「大伴家持が藤原氏に対する対抗意識を捨てていたら」

『I f 』⑩「大伴家持が藤原氏に対する対抗意識を捨てていたら」
 現存最古の歌集『万葉集』の実質的な編集者とされている大伴家持が、藤
原氏に対する対抗意識を捨てていたら、間違いなく彼はもっと出世していた
と思われます。『万葉集』は全20巻に及び、中に長歌と短歌合わせて実に
4500余首の歌が収められています。この4500余首の1割を超す479首もの歌が
大伴家持の歌なのです。

新興勢力・藤原氏に阻まれた大伴氏の権勢と出世の道
 こうしてみると、家持はよほど優れた歌人だったのでしょうが、彼は同時
に名門大伴氏の長、すなわち武人的貴族としての顔もあったのです。その面
からみると、家持は新興勢力・藤原氏の台頭を常に苦々しい思いで眺めてい
たに違いなく、またそれゆえに対抗意識を持ち続け、何度も出世の妨げにな
ったことは間違いありません。
 大伴氏の長としての立場を忘れることができたなら、歌人・大伴家持は藤
原氏と中立的な距離を保つことで、中央政界でももう少し重職に就くことが
できたのではないでしょうか。揺るぎない権勢を手にしつつあった藤原氏に
とって、当面敵とならない存在であれば、藤原氏も家持の処遇に作為的に口
をはさむことは避けるでしょうから、後代にも長く重んじられた『万葉集』
の最大の歌人、家持のより高い官位へ昇る道は開かれていたはずです。

物部氏と並んで軍事力の中心となっていた大伴氏
 そもそも大伴氏は、大和王権の段階から大連(おおむらじ)として、物部
氏と並んで軍事力の中心となっていた家です。一時衰えはしましたが、「壬
申の乱」(672年)のときに大海人皇子方について家運を挽回し、安麻呂・
旅人の活躍によって、名族復活を印象付けており、旅人は大納言まで出世し
ています。
 その旅人の長男が家持で、旅人の死後、大伴氏の長として一族を束ねる地
位にあったのです。しかも、それは苦難の道のりでした。藤原氏でない者が
置かれた宿命的なものでしたが、彼の一生は藤原氏の専横に対する不満の一
生でした。
 例えば757年(天平宝字元年)、橘奈良麻呂の乱のときには、家持自身は
これに加担しなかったが、一族の者が加わっていたということで、一時失脚
しています。この乱は、藤原仲麻呂(恵美押勝)の専横に反対する勢力が橘
諸兄の子、奈良麻呂を担ぎ出して反乱を起こしたものでした。
 また、762年(天平宝字6年)にも、反仲麻呂のクーデターが計画され、
今度は家持もそれに加わっていましたが、この計画は未然に発覚してしまい、
家持自身、官位昇進などでは相当なハンディを背負ってしまいました。

藤原氏への対抗意識が邪魔した家持の生涯
 その結果、家持は中納言どまりで、とうとう父・旅人の大納言の位まで昇
ることができませんでした。古く、大連として物部氏と並んで軍事部門を担
当する家だったという伝統から、当然のように782年(延暦元年)陸奥按察
使鎮守府将軍、784年(延暦3年)、持節征東将軍に任じられていますが、
これなどは大伴氏を中央政界から遠ざけてしまおうという藤原氏の陰謀によ
るものでしょう。邪魔者を遠ざけ、しかも危険な場所に送り込むということ
は、いつの時代にもみられることです。藤原氏にとっての対抗勢力の一つ、
大伴氏がこのような形で地方に追いやられたということです。

 

『I f 』⑨「聖徳太子が蘇我馬子に敗れていなかったら」

『I f 』⑨「聖徳太子が蘇我馬子に敗れていなかったら」
 聖徳太子については様々な謎があります。突き詰めていえばその存在自体
が謎といわれます。実は聖徳太子という人物はいなかった-という説もある
のです。確実にいたのは厩戸皇子です。倭=日本という国を、対外的に決し
て野蛮な国ではなく、男性大王のもと、きちんとした治政がおこなわれてい
る国であることを対外的にPRするために、聡明で神がかり的な“聖徳太子
像”がつくられたようです。

蘇我馬子抜きに聖徳太子の事績は語れず
 聖徳太子には様々な事績や功績があったといわれています。太子は摂政と
して、「冠位十二階」制定(603年)や「十七条憲法」を制定(604年)し、
小野妹子を隋に派遣(607年、608年)し、隋との国交を開くなど華やかな活
躍をしたことになっています。しかし、その背後には蘇我馬子の強大な存在
がありました。当時の最高権力者、馬子の存在を抜きにして、聖徳太子を語
ることはできません。それが、どのようなことであれ、馬子の賛意もしくは
了解を得ずに進められたことはなかったはずです。
 しかし、ある時点で聖徳太子の「思い」と馬子の「思惑」にずれ、あるい
は隔たりができたとき、太子と馬子の間に対立が生まれたのです。聖徳太子
は仏教や道教を学んで、人間平等主義の思想を育てていきました。それとと
もに、仏教を政治の道具として利用する馬子に反発するようになっていきま
す。

聖徳太子の治政に立ちはだかった巨人・馬子
もともと馬子がどこまで仏教を理解していたかは疑問です。神祇権を持つ
物部氏に対抗するためと、大王家のカリスマ的権威を落とすために、仏教
を担ぎ出したまでで、敬虔な仏教徒だったとは思えません。馬子はリアル
な政治家、聖徳太子は理想主義的なロマンティスト。こんな二人が所詮、
合うはずがないのです。
その結果、太子の施政の、それまで確固とした庇護者だったはずの馬子
が、とてつもなく大きなカベとなって立ちはだかったのです。その時期は
恐らく、601年(推古9年)、聖徳太子が斑鳩に宮を建て、そこに遷った
ころからでしょう。太子は斑鳩宮にいってから、自分なりの政治や生活を
模索し、馬子と一線を画すようになり、自分は大王という意識を持ち始め
ていたのではないでしょうか。

馬子に敗れた聖徳太子、譲位の目消える
 608年(推古16年)、遣隋使・小野妹子の帰国と一緒にやってきた裴世清
(はいせいせい)が隋の皇帝・煬帝(ようだい)の使者として聖徳太子に
会います。このとき太子は倭王として応対するわけですが、裴世清は倭王は
聖徳太子だと完全に認識して帰っていきます。この後、610年(推古18年)、
新羅と任那の使者が来るのですが、このころから馬子は太子を警戒し、推古
女帝と手を組んで、太子から権力を奪い始めていくのです。

年少の太子が馬子の死後に照準を置いて治政に臨んでいたら…
もし、聖徳太子が蘇我馬子に敗れていなかったら、あるいは対等の関係を
保持できていたら、推古女帝から譲位を受け、太子は天皇になり(実は聖
徳太子は天皇になっていたという説もあるのですが)、太子一族の血脈を
その後も残していたかも知れません。対中国(隋・唐)を考えた場合、律
令のもとでは、女帝は考えられなかったわけですから。何事もなければ、
聖徳太子が皇位に就くのは自然な成り行きだったはずです。もちろん、
その場合、聖人君子的な太子像はもう少し薄れていたでしょうが。そうな
ると、太子は馬子より当然長生きし、その後の歴史はかなり変わったもの
になっていたのではないでしょうか。
 聖徳太子は622年(推古30年)に49歳で亡くなり、その4年後、蘇我馬子が
亡くなります。76歳ぐらいだったと思われます。ですから、聖徳太子と馬子
は20歳以上違うのです。太子が馬子の死後に照準を置いて、辛抱強く摂政と
して治政に臨んでいたら、太子自身、絶望することはなかったはずです。
惜しまれます。

『I f 』⑧「藤原秀衡がもう少し長生きしていたら」

『I f 』⑧「藤原秀衡がもう少し長生きしていたら」
 奥州藤原氏の全盛期を築いた藤原秀衡。その秀衡がもう少し長命だったら、
その後の様々な歴史が変わっていたでしょう。

秀衡健在なら「平泉王国」の栄華は続いていた
まず奥州藤原氏による「平泉王国」はまだまだ続いていたはずです。秀衡
が健在なら、慎重に事を運ぶ源頼朝が奥州藤原氏に戦を仕掛けることはな
かったでしょう。頼朝にとって奥州藤原氏を攻め滅ぼすことは重要な課題
でした、が、かなり高い確率で、頼朝は秀衡の死を待つ作戦にでたはずで
す。
なぜなら無理に仕掛けるとすれば、豊富な財力に裏打ちされた「奥六郡」
の軍事力と、軍略の天才、源義経の指揮の下に逆襲されたら、鎌倉頼朝軍
は簡単に攻め落とすことなどできません。長期戦になってしまうからです。
それに伴うダメージを考えるなら、秀衡の死後がポイントとみていたはず
です。
 また、秀衡が健在で藤原氏の栄華が続いている以上、秀衡に匿われていた
義経も健在で、近い将来の対鎌倉軍の戦のための訓練や準備に忙しい日々を
過ごしていたでしょう。秀衡の全面的なバックアップがあれば、義経は縦横
無尽な働きをみせるべく、準備していたことは間違いありません。そうなる
と、秀衡が存命な限り、鎌倉の世と一定の距離を取りながら「平泉王国」も
命脈を保ち続けたのではないでしょうか。

秀衡は義経を匿い通すことを遺言
 ところが、1187年(文治3年)その秀衡が死んでしまったのです。60代半
ばでした。そして、後を継いだのが初代清衡、二代基衡、三代秀衡に次ぐ四
代目の泰衡でした。33歳でした。秀衡は亡くなるに際し、義経を匿い通すこ
とを遺言したと思われます。そのことは、泰衡がしばらくの間、頼朝からの
義経引き渡し渡し要求を突っぱねていることによって分かります。

秀衡の死後、わずか2年で平泉王国は滅亡
 しかし、奥州藤原氏にとって秀衡の死は大きな痛手でした。単なる一人の
当主の死にとどまりませんでした。継いだのが33歳の当主なら普通、問題は
ないはずですが、家の“束ね役”はそれなりの人格と見識を必要とするもの
なのです。泰衡が家督を継いでから、奥州藤原氏の権勢は下り坂になり、わ
ずか2年後、義経を攻めて殺し、やがて「北方の王者」と呼ばれた「平泉王
国」が、坂道を転げ堕ちるように滅亡に追い込まれていくのです。

 

 

 

『I f 』⑦「田沼時代に異常気象と大飢饉がなかったら」

『I f 』⑦「田沼時代に異常気象と大飢饉がなかったら」
 田沼意次といえば、一般に賄賂をむさぼった悪徳政治家のイメージが強い
のですが、近年は彼が打ち出した、従前には見られなかった様々な政策が見
直され、評価が一新されつつあります。意次は、いわゆる由緒ある家柄の幕
閣・保守グループに足を引っ張られながらも、斬新な政策を次々に打ち出し
た開明派の政治家でした。

賄賂政治家から開明派の政治家に評価一新の田沼意次
田沼意次による政権運営がもうすこし続いていたら、江戸時代を通じて見
ても、もっとみるべき実績を挙げていたでしょう。少なくとも、時代遅れ
の松平定信による「寛政の改革」などよりは、客観的に見て経済政策面で
はるかに優れていたはずです。
その田沼意次が失脚した要因は、保守的な譜代大名たちの巻き返しによる
部分が大きかったのですが、この「田沼時代」、未曾有ともいえる飢饉や
異常気象が頻繁に起こったことが意次の足を引っ張ったのです。
 根本順吉氏の『歴史気象学の進展-“江戸小氷期”と飢饉』によると、江
戸時代は全体として寒い時代で、とくに寒い「小氷期」が3回あったといいま
す。この時期は冬の寒さが厳しく、夏も冷涼・多雨でした。そこで「田沼時
代」をみると、暴風雨・洪水・火山の噴火など、自然災害が相次いでいるこ
とに驚かされます。

未曾有の飢饉、異常気象に足を引っ張られた田沼政治
 例えば、意次が老中に就任した1772年(安永元年)、7月に九州で暴風雨、
8月上旬には東海から関東にかけて、やはり暴風雨と洪水、下旬には中国・
四国・近畿・東海各地を暴雨風と洪水が見舞っており、ちょうどその時期、
稲刈り間近で、せっかく実らせた稲が流されたり倒れたりして、農作物に甚
大な被害が出てしまったのです。元号の「明和」をやめて「安永」へ改元し
たくらいですから、被害の大きさは並みではなかったことが分かります。し
かも、前々年、前年は干ばつで、3年連続の不作になったのです。

相次ぐ火山の噴火、春に大雪、大地震、大飢饉頻発の不運
 しかも、どうしたわけか、「田沼時代」は、火山も活発な活動をしていま
す。1778年(安永7年)春と秋には、伊豆大島の三原山が噴火、この時期、
三宅島の雄山、浅間山、桜島なども噴火しているのです。こうした影響もあ
ってか、春の大雪など異常気象に見舞われています。1779年(安永8年)に
は4月に大雪が降っています。旧暦4月は現在の5月ですが、5月の大雪など
あまり例はありません。
さらにその年8月には、東海・関東から奥羽にかけての広い範囲に暴風雨
と大洪水の被害が起き、また大地震もあり、次から次に、まさに天災に狙
い撃ちにされたような状況でした。そして、決定的なものが1783年(天明
3年)の浅間山の大噴火です。この年も異常気象で、夏に綿入れを着なけ
ればならないほどの寒さだったといわれます。浅間山の噴火の火山灰が空
を覆い、冷夏に拍車をかけ、関東から奥羽にかけて大飢饉になりました。

保守グループの攻勢と息子・意知、後ろ盾・将軍家治の死で失脚
 こうした自然災害の場合、普通「あれは天災」と、為政者の責任にはしな
いものです。ところが、この意次の場合、常に保守グループが意次のあら探
しをし、「失政がないか」と虎視眈々とみており、天災をも意次のせいにし
ようとする動きがあったのです。
 さらにもう一つ、意次にとって不幸な事件が重なりました。1784年(天明
4年)、意次の子で若年寄になっていた意知(おきとも)が江戸城中で新番
士の佐野善左衛門政言(まさこと)に斬られ、それがもとで死んでしまった
のです。そして、意次にとって不運だったのは1786年(天明6年)、田沼政
治の後ろ楯だった十代将軍家治が亡くなったことだった。その結果、遂に保
守グループの攻勢に抗し切れなくなり、意次は政権の座から引きずり下ろさ
れてしまったのです。

陽の目見なかった田沼意次の斬新な政策
 このため、意次が打ち出した斬新な政策も、多くは陽の目を見ず頓挫、
実施・断行されないままに、葬られてしまいました。後は保守派の松平定信
などの全く新鮮味のない、場当たり的な政治に終始していきます。田沼意次
による政権運営が続いていたら、蝦夷地の開発はじめ、旧来の幕閣政治とは
一線を画した政治が具体化されたはずです。意次の挫折が惜しまれます。

 

『I f 』⑥「『奥の細道』が単なる紀行文でなかったら」

『I f 』⑥「『奥の細道』が単なる紀行文でなかったら」
 松尾芭蕉の有名な著作、『奥の細道』は優れた旅行文学の古典として今も
なお多くの人々に愛読されています。だが、この『奥の細道』には実は多く
の謎が隠されているのです。

同行した曾良の日記とは80カ所も日時と場所が異なる
 端的に言えば、芭蕉に同行した弟子・河合曾良(かわいそら)の日記との
食い違いが実に多いのです。曾良という人は几帳面な性格だったらしく、旅
をした場所と天候、それに日付を毎日欠かさず、初日からメモ風に書き残し
ていました。『奥の細道』が仮にフィクションだったとしても、曾良の日記
とは80カ所も日時と場所が異なっているのです。それは2日に1度の割合で違
いを見せています。こうなると、果たしてどちらが本当の行動だったのか、
首をひねらざるを得ない。

芭蕉には史跡を巡るほかに、別の目的があった
 曾良は師匠・芭蕉に同行していたはずなのに、日記と比較してみると、互
いに別々の宿に泊っていたり、会った人の名前や場所が違うなど、常に二人
が一緒ではなかったことが明らかになります。芭蕉は何か別の目的があっ
て、この旅に出て、弟子とは別行動を取る必要があったと考えれば、この食
い違いは納得がいきます。
 つまり『奥の細道』は、芭蕉と弟子の曾良が2日に1度ぐらいの割合で会い
ながらも、芭蕉が史跡を巡る旅をして句を詠むほかに、ある意味で、芭蕉は
重要な別の目的を持って旅をしていたことを裏付ける旅行記でもあった、と
見た方が自然です。したがって、『奥の細道』の日付・内容など事実とは明
らかに違う、加工が施されている部分があるというわけです。
 例えば伊達藩の平泉のくだりです。『奥の細道』では中尊寺の経堂に安置
されている仏像を見たことになっているのですが、曾良はここで仏像を見る
ことができなかったと書いています。

旅のペースが緩急極端・不自然で不可解な旅程
 また、不思議なのは旅のペースです。何かを追いかけるように急いだり、
あるいは何かを待つように何日も同じ場所に逗留しています。曾良の日記に
基づいて検証すると、現在の埼玉県の春日部から、日光を目指して歩き、6
日後に東照宮を参拝しています。そして、一泊すると福島県にほど近い黒羽
まで3日間で歩くという強行軍で、そこで今度はなぜか13日間も逗留していま
す。旅の疲れが出たとも考えられますが、普通の旅ならいかにも不自然で
す。こうした不自然、あるいは不可解な旅程が続くのです。
 『奥の細道』では福島に入るときに数時間で42㌔㍍歩いたようにすらなっ
ています。こうなると、芭蕉は単なる45歳の俳人ではなく、忍者のような頑
健な体力の持ち主だったということになります。

俳聖・芭蕉、実は”諜報員”説さえ浮上
 まだあります。芭蕉は仙台の松島をぜひ見たいと楽しみにしていたはずな
のです。ところが、なぜかこの松島では一句も詠んでいません。松島は伊達
藩にあり、その行程をみると仙台から塩釜を通り、松島そして石巻へと抜け
るのですが、各地でそれぞれ一泊しかしていません。二人はまるで逃げるよ
うにして、旅の目的でもあった名勝地を通り過ぎているのです。その後、
芭蕉のペースはまた緩やかになりますから、不可解としか言いようがありま
せん。
 こうしたことを考え合わせると、俳聖・芭蕉は実は諜報員だったのではな
いか、という説が浮上しても全く不思議ではありません。むしろ、そのよう
に考えた方がつじつまが合うようです。

 

『I f 』⑤「乙巳の変で蘇我入鹿が殺害されていなかったら」

『I f 』⑤「乙巳の変で蘇我入鹿が殺害されていなかったら」
 蘇我入鹿は周知の通り、皇極女帝の時代、「乙巳(いっし)の変」で暗殺
され、それが大化の改新の口火となります。そして、蘇我本宗家が滅びます。
しかし、もしここで蘇我入鹿が殺害されず、この難を逃れていたら、彼は最
終的に大王位の禅譲を受けていたかも知れません。

学識者で大陸の情勢にも明るかった入鹿
 蘇我入鹿は開明的な人物で、学識も備えていました。遣隋使として中国に
渡り、隋・唐と24年間にわたって留学していた僧・旻(みん)は帰国後、学
問所、講堂を開いています。その講堂に入鹿も中大兄皇子、中臣鎌足も通っ
ています。その僧・旻が「わが講堂に入る者で、宗我(蘇我)大郎(=そが
のたいろう)より優れた者はいない」と伝えています。

入鹿は禅譲制で大王位に就くことを考えていた?
 通説では、入鹿は大王になることまでは考えていなかったといわれている
のですが、彼は相当な学識者で大陸の政治情勢や文化に明るい人物でした。
ですから、蘇我本宗家の権勢を永続させるためにも、大王位に就くことを考
えたはずです。
 入鹿が狙いとしたその方法が、中国帰りの学問僧たちによってもたらされ
た禅譲制という制度です。入鹿は、祖父・蘇我馬子の娘が舒明天皇の妃にな
って産んだ古人(ふるひと)大兄皇子を大王にして、その大王から位を禅譲
させるという方法を考えていたようです。実はこれは、隋・唐で行われた方
法なのです。

いくつもある、入鹿が大王位を意識していた傍証
 蘇我入鹿が大王位を意識していた傍証は実はいくつもあるのです。『日本
書紀』によると、入鹿の父・蝦夷が葛城の高宮で、中国の天子にのみ許され
る「八佾(やつら)の舞い」を行ったり、今来(いまき)に双墓をつくって、
これを「大陵・小陵」と呼ばせ、大きい方を自分の、小さい方を息子の入鹿
の墓と定めたとも書かれています。
それから、645年には甘橿(あまかし)丘に巨大な屋形を建て、蝦夷の家を
「上の宮門(みかど)」、入鹿の家を「谷(はざま)の宮門」と呼ばせ、
子供たちを王子(みこ)と呼ばせています。これらはすべて入鹿の発案で、
彼が父の蝦夷を説得して行ったことなのです。中国では禅譲の前に権力者
が皇帝と同じようなことをするのです。

最大の豪族の家に生まれたエリートの弱さが、野望を未達に終わらせた
 ここまで準備しながら、入鹿の野望はなぜ成就しなかったのでしょうか。
それは入鹿が最大の豪族の家柄に生まれたエリートで、人間の苦界を見ない
で育った点にあるのではないでしょうか。「乙巳の変」の主導者の一人、
中臣鎌足などは地を這うようにして育ち、そこからのし上がってきた人物で
す。そんな鎌足に比べると、やはり入鹿には性格の甘さが感じられます。
入鹿の野望(=大王位)を真っ先に見抜いたのは恐らくこの鎌足でしょう。

 

 

『If 』④「足利尊氏が鎌倉で幕府を開設していたら」

『If 』④「足利尊氏が鎌倉で幕府を開設していたら」
 足利尊氏が幕府を鎌倉に置いていたら、足利氏による幕府政治も随分、様
相の異なったものになっていたでしょう。

南朝勢力の帰趨を大きく左右した幕府設置場所
 まず後醍醐天皇率いる吉野の南朝勢力が勢いを盛り返していたのは間違い
ないところです。楠木正成や新田義貞など後醍醐天皇の軍事勢力がそれまで
とは違った攻勢にでることも十分考えられます。それに伴って、南朝方に付
く勢力も出てきていたはずです。
 ただ、それには、天皇親政のスローガン一点張りではなく、武家に対する
論功行賞も約束する姿勢を打ち出すことが必要だったでしょうが。
 九州で勢力を挽回した尊氏は1336年(建武3年、延元元年)4月、上洛行
動を開始し、5月、楠木正成を大将とする建武政府軍を湊川の戦いで破り、
6月には再び入京に成功。そして、重要なのはこのとき、尊氏が光明天皇を
擁立した点です。一方、吉野に逃れた後醍醐天皇も「自分こそが正統の天皇
である」と主張したため、ここに北朝と南朝の二つが並立する60年にわたる
南北朝の争乱が始まることになったのです。

尊氏は「鎌倉」か「京都」か、幕府開設場所を諮問
 尊氏は1338年(暦応元年、延元3年)8月に待望の征夷大将軍に任命され
ました。将軍になれば、当然、幕府をどこに置くかという問題が、にわかに
クローズアップされることになりました。候補として挙げられたのは鎌倉と
京都です。源頼朝以来の武家政権の伝統から考えると、鎌倉ということにな
るでしょう。それが、京都に決められたのはどうしてなのでしょう。
 この問題を考えていくうえでヒントになるのが、1336年11月7日に制定され
た「建武式目」です。これは全文17カ条からなる尊氏による成文化した施政
方針というべきものですが、その冒頭に、幕府をそれまで通り鎌倉に置いた
方がいいか、他所(京都)に置いた方がいいか諮問した一文があります。
尊氏関係者の間でも意見が分かれていたことが分かります。上層武士たちの
多くは、鎌倉にそれぞれの屋敷を持っていたため鎌倉に幕府を置くことを主
張したでしょう。尊氏の弟・直義(ただよし)は「建武の新政」のときも
鎌倉の守りについていたので、鎌倉を主張したのではないでしょうか。

南朝勢力を牽制するため尊氏が「京都」に決断
 ところが、鎌倉主流と思われた情勢の中で、尊氏本人は鎌倉より京都の方
がよいと考えていたようです。一つは軍事的に、幕府を鎌倉に置くと、吉野
にいる南朝勢力が勢いを盛り返してくる可能性があるためです。吉野の動き
を牽制するためには、幕府は京都に置かなければならないという論法です。
そしていま一つは政治的な理由で、「国家行政権を握るには、国家の中央に
位置する必要がある」という考え方です。鎌倉にいて朝廷をリモートコント
ロールするのは大変です。それで京都に幕府を置いて直接的にコントロール
しようとしたのではないでしょうか。

鎌倉に幕府を置いていたら南朝の御所奪還の動きは強くなっていた
 もし、尊氏が周囲の意見に押されて鎌倉に幕府を置いていたら、後醍醐天
皇の配下の者たちが暗躍し、その京・御所奪還への動きは活発になっていた
でしょう。後醍醐天皇はかなり自己中心的な人物だったという印象は強いの
ですが、よくいえば「強烈な個性でぐいぐい引っ張って行った」ということ
です。賢明な判断に基づいて京都に幕府を置いた尊氏が京にいたにもかかわ
らず、後醍醐天皇はあれだけ粘り強く戦い続けたのですから。

 

 

 

狩野山楽のふすま絵「四季耕作図」が大覚寺に帰郷

狩野山楽のふすま絵「四季耕作図」が大覚寺に帰郷
 桃山~江戸時代初期に活躍した絵師・狩野山楽の作とされるふすま絵「四季耕作図」(米ミネアポリス美術館所蔵)のデジタル複製が4月3日、京都市右京区の大覚寺に奉納され、報道陣に公開された。田植えや稲刈りなど農耕の風景が、繊細な筆遣いで四季ごとに4面ずつ計16面(1面縦約78~177㌢、横約84~92㌢)描かれている。
 NPO法人京都文化協会によると、四季耕作図は元々、大覚寺が所蔵しており、1755年に寺外の絵師に譲られた。その後、経緯は不明だが海を渡り、1980年ミネアポリス美術館が購入。複製ながら約260年ぶりに「帰郷」した。キヤノンと京都文化協会が「文化財未来継承プロジェクト」の一環として作製した。高精細デジタルカメラで撮影し、特殊な和紙に印刷、京都の職人がつくったふすまに仕上げた。