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藤原頼長 貴族政治立て直しのため“暴走”したが、度外れた勉強家

藤原頼長 貴族政治立て直しのため“暴走”したが、度外れた勉強家

 藤原頼長(ふじわらのよりなが)は平安時代後期の政治家で、藤原北家の嫡流、摂関家という名門再興を志すとともに、貴族政治の立て直しを図った人物だ。ただ、その思いが強すぎて、その施政は呪い・裏切り・陰謀など手段を選ばず“暴走”してしまったきらいがある。そのため、恐怖の左大臣、「悪左府(あくさふ)」と称された。反面、1136年(保延2年)、17歳で内大臣、1149年(久安5年)、30歳で左大臣となった頼長は、いわば“斜陽名家”の貴公子であって、決してカネや人脈だけで出世したわけではない。彼は日本一の大学生といわれたほどの勉強家だったのだ。

 藤原頼長は、父・藤原忠実、母・土佐守藤原盛実の娘の子として生まれた。幼名は菖蒲若(あやわか)。頼長は父忠実に愛され、父の強力な後押しで、兄の関白・忠通をさし措いて、藤原氏長者・内覧として執政の座に就いた。だが、鳥羽法皇の信頼を失って失脚。そこで、頼長は鳥羽法皇により譲位させられていた崇徳上皇に接近、政権奪取を図って後白河天皇、兄・忠通と対立したが、「保元の乱」で敗死した。生没年は1120(保安元)~1156年(保元元年)。

 頼長が執政として返り咲くための、最初で最後の決戦の場が「保元の乱」だった。ここで彼はメンツ、あるいはタテマエにこだわり、勝機をみすみす逃してしまったのだ。『保元物語』によると、頼長は崇徳上皇を擁し、後白河天皇に対して兵を挙げたのだが、源為朝(みなもとのためとも)の夜襲の建議を退けてしまった。そして、後白河天皇、兄・忠通方から逆に夜襲を受け、上皇方を敗戦に導いてしまったのだ。王統の争いに、夜襲などという卑怯な手は使えないとの判断からだった。絶対に勝つ、そのためにはどのような作戦も取る-といった必死な姿勢はなかったのだ。

 「保元の乱」(1156年)の構図を記すと、後白河天皇と崇徳上皇の対立で、関白・藤原忠通(ただみち)と左大臣・頼長の争いがこれにからんでいた。天皇方に馳せ参じた武士は、平清盛や源義朝(頼朝の父)など800。対する上皇方は平忠正や源為義など、500にも満たない。そこで急遽、為義は九州・大宰府にいた息子の為朝を呼び寄せた。忠通と頼長は兄弟、忠正と清盛は叔父甥、為義と義朝は親子だ。

 この戦の大本の原因は、白河法皇が養女の藤原璋子(しょうし)を孫の鳥羽天皇の中宮とした、1118年(元永元年)にまでさかのぼる。このとき璋子は白河法皇の子を身籠っていた。生まれたのが顕仁(あきひと)親王だ。鳥羽天皇にとって名目上は長男にあたるが、実質的には祖父の子だから叔父にあたる。そのため、鳥羽天皇は顕仁親王を「叔父子(おじご)」と呼んで憎悪した。

 しかも、白河法皇は1123年(保安4年)には、21歳の鳥羽天皇を廃し、わずか5歳の顕仁親王を即位させ崇徳天皇とした。このため、鳥羽上皇の憎悪は深まり、1141年(永治元年)に崇徳天皇を廃し、寵姫、美福門院得子との間に生まれた体仁(なりひと)親王を近衛天皇とした。

 近衛天皇が1155年(久寿2年)17歳という若さで崩御すると、崇徳上皇は自分が再び皇位に就くか、わが子の即位を望んだが、鳥羽法皇はその希望を踏みにじり、自分の第四子、雅仁(まさひと)親王を皇位に就けた。後白河天皇だ。そのため、崇徳上皇は後白河天皇を激しく憎んでいた。病床の鳥羽法皇の生死いかんで、即、戦になりかねない状況にあった。

 そして開戦。いったんは敗色濃厚となった天皇方が、頼長が退けた夜襲を決断、これが勝敗を分けた。乱後の処理は陰惨を極めた。首謀者の頼長は、合戦の最中に首を射抜かれ、奈良まで落ち延びて死んだ。兄・忠通と対立し、最後は父・忠実にも見放された、寂しい生涯だった。崇徳上皇は捕えられ、讃岐に幽閉された。上皇方についた武士の大半は斬られた。しかも、清盛には平氏を、義朝には源氏を斬らせるというむごい仕打ちだった。

 ところで、慈円がその著書『愚管抄』で頼長を「日本第一の大学生(だいがくしょう)」と評したほど、頼長は古今稀な、博学な政治家だったが、人に厳しく、行動にもバランスを欠いていた。頼長が残した日記『台記(たいき)』は、異色の日記だ。この『台記』には本来、絶対に秘すべきことが堂々と、あるいは露骨に語られている。彼の召使の国貞(くにさだ)を殺した下部(しもべ)が殺されたことが記され、その注で実は私が家来に命じて殺したのだ-と告白しているのだ。関白・忠実の最愛の次男の左大臣の仕業なら、罰せられるようなことはない-とタカをくくっていたのか。

また、この日記には同性愛、男色の記述が多い。それは当時の貴族として、とりわけ不倫なことではなかったのだが、鳥羽上皇、後白河天皇、頼長の父、忠実、兄・忠通、忠雅と頼長とが男色愛好者だったという。それだけに、当時の人間関係を考えるには、この男色関係を的確に把握する必要があろう。

 こうした異常な性癖の一方で、頼長は度外れた勉強家で、牛車の中にすら『太平御覧(たいへいぎょらん)』など厖大な巻数の書籍を持ち込み、禁中への行き帰りに、揺れる車内で読書三昧に耽ったといわれる。旅にまで本を離さず、抜き書きや校合に夜を徹することもしばしばあったという。1136年(保延2年)、17歳で内大臣に任ぜられて以来、筆を起こし1155年(久寿2年)までかけ、既述した、12巻にわたる『台記』を著している。これは禁中の諸儀式、故実、摂関家の一員である頼長自身の、公私にわたる進退や動静を詳述した漢文体の日記だ。今日なお、これが根本史料の一つとして、平安朝史の研究に役立っている。

 そんな頼長だけに、蔵書は夥しい数になったため1145年(久安元年)、自ら設計して立派な書庫をつくった。彼の威勢、財力からみれば、別に驚くことでもなかったろうが、防火対策はもちろん防湿・通風にも配慮された設備が施されていたという。

(参考資料)安部龍太郎「血の日本史」、梅原 猛「百人一語」、杉本苑子「決断のとき 歴史にみる男の岐路」、笠原英彦「歴代天皇総覧」

藤原時平 菅原道真を讒言で大宰府へ左遷、失脚させた切れ者・左大臣

藤原時平 菅原道真を讒言で大宰府へ左遷、失脚させた切れ者・左大臣

 藤原時平は、史上初めて摂政・関白、太政大臣を務めた巨人、藤原基経の長男だ。若くして栄達したが、21歳のとき父が亡くなったため、政治の実権は彼の血脈を離れ、計らずも天皇による親政が復活した。宇多天皇は彼の父・基経に何らの抵抗もできなかったが、そのため不満が内攻、天皇の政治上の権限強化に燃えていた。そこで宇多天皇は、皇親の源氏や学者の菅原道真を積極的に起用した。藤原氏、とくに時平に対する対抗策だった。

 宇多天皇の後を受けて醍醐天皇が即位すると、時平は道真とともに左右大臣に並んだ。だが、時平は次第に道真と対立し、先代の宇多天皇時代に重用され強力な後ろ楯ともなっていた、その宇多がいなくなった道真の排除に動く。そして901年、遂に道真を讒言して大宰府に左遷させることに成功した。

 この讒言による道真左遷で後世、彼は決定的な“悪役”イメージでみられることになった。だが、果たして彼はそれほど腹黒い悪人だったのか。政治上の藤原氏の権勢を抑えるために、宇多天皇が意識的に道真を、異例のスピード出世、そして破格の高官へ登用したことで、高級貴族の間で道真に対する反感が強まっていたことも讒言を後押ししたのではないか。時平自身、その後、国政改革に意欲を燃やしたが、摂政や関白になることもなく、その意味であまりいい目をみないまま、わずか39歳の若さで亡くなっているのだから。

藤原時平の生没年は871(貞観13)~909年(延暦9年)。母は操子女王。子に保忠、顕忠など。弟に仲平、忠平などがいる。

 藤原時平は当時、東西随一の秀才と呼ばれた。それと父・基経の威光も加わって異例の出世を果たしている。21歳で参議になり、23歳で中納言、27歳で大納言、氏長者、29歳で左大臣となっている。もっとも、父は彼が21歳のとき亡くなっているから、彼自身の優れた才能、実力が評価された面も当然あったのだろう。

 一方、菅原道真の出世の早さは異常だ。蔵人頭となって政界にデビューし、その翌々年、参議にまで出世しているのだ。宇多天皇のバランスを欠いた“えこひいき”の産物だった。ただ年齢をみると、時平との比較上、対立を意識させるものではない。なぜなら道真は49歳で参議になり、51歳で中納言、55歳で右大臣になっているのだ。

 ところで、57歳の道真が突然、大宰府に左遷されてしまうことになった罪状だが、要約すると「急に大臣まで取り立てられたにもかかわらず、分をわきまえず、さらに高い地位を望んでいる。しかも専制的な権力を欲しがり、醍醐天皇に代わる天皇を立てようと企んでいた」というものだった。醍醐天皇とは宇多天皇の第一皇子の敦仁(あつきみ)親王のことで、宇多天皇が時平に追い出されて「逃位(とうい)」したのに伴い、897年、若干13歳で皇位に就いたのだ。罪状にある醍醐天皇に代わる天皇とは、橘広相(たちばなのひろみ)の娘を母とする第三皇子の斎世(ときよ)親王のことを指している。皇太子選びの中で候補に上がっていたことからみても、道真からみて次に天皇にしたい人物だったろう。

 では、実際にそのような企てを道真はしていたのか。大方の歴史家たちの見方は冤罪説をとっている。しかし、『扶桑略記』が引用している「寛平御記」では、醍醐天皇が、大宰府に左遷されて幽閉同然の道真の様子を、側近の藤原清貫(きよつな)に見てこさせたときのことが書かれている。清貫は「道真自身が左遷された理由について、承服しているようだ」としており、さらに道真自身が「自分で企てたことではないが、源善(みなもとのよし)の誘いを断りきれなかった」と語ったというのだ。

 果たして事実無根の冤罪だったのかどうかは謎のままだが、少なくともそれらしい行動があったことは否定できないのではないか。打倒、藤原氏を掲げて、宇多天皇とともに画策しようとしたことは多くの状況証拠が語っているからだ。

 901年、道真を失脚させた直後、時平は妹の穏子(おんし)を醍醐天皇の女御として入内させた。彼女は902年(延喜2年)、醍醐天皇の第二皇子を産んだ。保明(やすあきら)親王と名付けられた、この皇子は翌年早くも皇太子に立てられた。若い時平も摂関家的な土壌を踏襲し、天皇家の次代に対して外舅という関係をつくろうとしていたわけだ。

 ところが、全く想定外のことが起こった。時平自身が39歳の若さで亡くなり、保明親王も夭折して、不幸にも名門・時平の血脈は絶え、政治の実権は弟・忠平の子孫に移った。時平の早すぎる死は6年前、彼が死に追いやり、怨霊となった道真の祟りと噂された。さらに道真の死後20年経った923年、皇太子の保明親王が亡くなったのも、道真の怨念を感じた人が多かった。

 時平が亡くなった翌日、正一位、太政大臣が贈られた。 

(参考資料)北山茂夫「日本の歴史④ 平安京」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、歴史の謎研究会 編「日本史に消えた怪人」、久松潜一「全釈 小倉百人一首」

中根正盛 江戸時代前期の幕府のCIA長官で、“密事”を嗅ぎ出し、探索

中根正盛 江戸時代前期の幕府のCIA長官で、“密事”を嗅ぎ出し、探索

 中根正盛は徳川三代将軍家光の時代、幕府要人の言動や諸大名の動静を報告する、幕府のいわば“CIA長官”だった。こうした役目は通常、表には顔を見せない隠密が担当するものだが、中根はそんな裏稼業を担っていたわけではない。彼は5000石取りの高官であり、二の日の評定所会議にも出席し、老中、諸奉行の発言を克明に脳中にメモってくる資格を持っていた。また、彼の配下の22人の与力は常時、諸国に派遣され、大名の動きを探っていた。

 探索の際、中根は幕府のため、各国(藩)の密事を嗅ぎ出せ。腐臭、腐肉のみに眼を向けよ。また嗅ぎ出した腐臭、腐肉はありのまま報告せよ。自分の判断や評価はしてはならない-と与力たちに指示した。まさに、幕府の諜報機関そのものであり、与力は22人の諜報員だった。

 そんな徳川版CIAが扱った事件・事案として記録が残っているのが、「松平定政事件」の処分に端を発した、浪人救済を意図した1651年(慶安4年)の「慶安事件」(油比正雪の乱)だ。

 松平定政は、徳川家康の異父同母弟の子で家康の甥にあたる。家光の小姓をしていたが、家光も好感を持っていた。1651年(慶安4年)春、家光が亡くなった。後継の四代将軍家綱はまだ少年だ。将軍交代を待っていたかのように、くすぶっていた浪人の生活困窮問題が突然火を噴いた。関ヶ原の戦い以来、大坂冬・夏の陣で取り潰しになった大名家が数多くあり、それに伴い多数の武士が失業に追い込まれたからだ。

 松平定政は7月突然、幕府に対し自分が受けている2万石は全部返上するから、これで失業浪人を救ってくれ-と言い出して大名職を辞し、雲水に身を変えた。それだけでなく、江戸市中を歩き回り、浪人救済のために、ご喜捨を-などと物乞いを始めたのだ。世間は驚倒した。仮にも、前将軍の叔父にもあたるような定政が、大名を捨てて乞食坊主になるなど、本人の意思や思惑はともかく、幕府に対する最大の嫌がらせと受け止められた。

 早速、幕閣は定政を狂気の者とし、兄の松平隠岐守に預け、所領を没収した。しかし、これで事が収まったわけではなかった。この中根正盛も定政の真意が浪人救済にあるのではなく、むしろ幕政批判にあるとみていたからだ。家光死後の閣僚、土井利勝、酒井忠勝、阿部忠秋、松平信綱らの政策が、定政はことごとく気に入らないのだ。とくに松平信綱が気に入らない。大名職と封土の返上は、いまの幕政に一石を投じたつもりだろう。したがって、定政が取った行動の根は深く、罪も重い-と中根は判断した。

 松平定政の処分が発表された後、油比正雪に関する密告が、松平信綱や町奉行の石谷(いしがや)貞清のところにあったとの情報が中根のもとに入ってきた。密告者の多くは中根や松平信綱が前々から神田連雀(れんじゃく)町の裏店(うらだな)にある油比正雪の学塾に、門人として潜入させておいた者ばかりだ。“やらせ訴人”だ。

 中根は配下の与力(=諜報員)を、かなり前から駿河(現在の静岡県)、河内(同大阪府)、大和(同奈良県)、紀伊(同和歌山県)、京都などへ派遣していた。油比正雪の素性、学問歴、そして正雪が唱える楠木流の軍学などを調べさせていた。

 これは、松平信綱と正盛に、油比正雪一派の鎮圧とともに、先の松平定政よりももっと大きな幕政批判者、紀伊頼宣(紀州藩藩祖・徳川家康の十男)を、この際、一挙に叩き潰そうという謀計があったからだ。頼宣は豪放かつ英明な器量人で、武功派の盟主だった。彼は幕政が次第に、合戦を知らない若い吏僚の手で運営されることに反発し、浪人をすすんで抱えた。

そのため、外様大名や浪人、庶民から非常に好感されていた。それだけに、幕閣の文治派閣僚はそんな頼宣に警戒していた。とくに松平信綱は、厳しい眼差しで紀州をにらんでいた。中根が配下の与力を紀州に派遣したのも頼宣と由比正雪との関係を何としても立証しようというためだった。たとえ火のない煙でも、探り出せ-と厳命した。頼宣、正雪の両者に少しでも関係があれば、強引に処罰、断罪しようという姿勢だった。

 しかし、紀州の探索方3人からは、信綱、中根が期待した答えは返って来なかった。頼宣、正雪の両者に関わりは全くない-というものだった。これでは、頼宣の弾劾はとてもおぼつかない。だが、信綱、中根とも、それで諦めたわけではなかった。

 由比正雪の死体が駿府の河原で磔(はりつけ)にされ、丸橋忠弥らが品川で

処刑されて、この騒乱は一応終わった。が、その直後、頼宣は江戸城に召喚された。そこでは頼宣の言葉が引用された、由比正雪の遺書が用意されていた。頼宣が正雪を示唆、煽動したと解されてもやむを得ない文面がつづられていた。そのため頼宣も、もう覚えがないでは切り抜けられなかった。完全な頼宣の敗北だった。あぶら汗の出るような屈辱の怒りを、こらえるほかなかった。

 頼宣は四代将軍家綱あてに、全く二心なきことを認めた誓紙を書かされたうえ、この日から1659年(万治2年)まで10年間、国許の紀伊国(和歌山県)へ帰ることは許されず、江戸城内で暮らした。松平信綱、中根正盛の勝利だった。

(参考資料)童門冬二「江戸管理社会 反骨者列伝」、童門冬二「慶安事件 挫折した幕府転覆計画」、童門冬二「男の器量」、安部龍太郎「血の日本史」

水野忠邦 改革の着眼点はよかったが、ブレーンに恵まれず改革失敗者に

水野忠邦 改革の着眼点はよかったが、ブレーンに恵まれず改革失敗者に

 水野忠邦は、1841年(天保12年)から断行された「天保の改革」を推進した老中首座として知られている。水野忠邦の狙いは、諸事、徳川家康が定めた御法の通り、家康の時代に戻すことだった。財政を復興させ、幕府という一党独裁体制の維持を目指す。そのため、倹約令、奢侈禁止令などが発せられた。そして、その実践者として起用された甲斐守・鳥居耀蔵が目を光らせ、その過酷な検察ぶりに憎悪と戦慄を覚えさせるほどの“恐怖政治”をここに出現させることになり、挙げ句、改革は大失敗した。

 水野忠邦は唐津藩第十代藩主・水野忠光の次男として江戸同藩上屋敷で生まれた。幼名は於莵五郎、諱は忠邦。別号は松軒、菊園。母は側室・恂(じゅん)。長男が早世したため跡継ぎとなり、19歳の若さで唐津藩第十一代藩主となった。忠邦の生没年は1794(寛政6)~1851年(嘉永4年)。

 唐津藩は代々、幕府の長崎警備という役目を担っている。そのため、藩主は中央での昇進は望めないという慣例があった。ところが、忠邦は中央=幕政での昇進願望が極めて強い人物だった。自分の思いを遂げるためには国替えしかなかった。

そこで、忠邦は半ば自ら希望する形で唐津藩から、実収の少ない、財政的にはデメリットの多い浜松藩へあえて移った。浜松藩主は、幕閣での出世コースといわれていたからだ。1817年(文化14年)、忠邦24歳のときのことだ。その後、1828年(文政11年)、35歳のとき西丸・老中となり、幕閣の中枢の一員に列せられた。1834年(天保5年)、本丸・老中、そして1839年(天保10年)には思惑通り老中首座に昇り詰めた。

 江戸文化の花を咲かせた文化・文政時代は、一方で十一代将軍・徳川家斉による浪費のため、幕府の財政は窮迫の一途をたどっていた。そして迎えた天保時代、人々は上下とも贅沢に慣れ、反面、地方では飢饉に続く一揆・打ちこわしが頻発していた。近海に外国船が姿を現し、日本国内の様子をうかがい始めていた。十二代将軍家慶の時代になっていた。

 「天保の改革」に乗り出した老中・水野忠邦が最初に出したのが倹約令だった。町人に対し、木綿以上の着物は一切、着てはならない-とのお触れを出した。そして、髪結い、風呂屋から櫛(くし)、笄(こうがい)の類に至るまで細かく全部制限した。実際に女髪結いというものまでを禁止してしまったので、自分の家では誰も髪が結えないので、町家の女房たちの髪形がすっかり変わってしまったという。

 また、天保のころは町家で一般の人々は絹の着物か紬を着ていたので、それが禁止され、もう着る人がほとんどいなかった木綿の着物を着ろという命令に大変困った。木綿の着物なんて一枚も持っていない人が多かった。大坂や京都の町家の人たちは、生活に余裕があって、絹の着物を着ているのではなく、世間一般の風俗でそれを着ているので、木綿の新しい着物を買い求める余裕がない。

 芝居も禁止された。歌舞伎の市川団十郎が江戸から追放された。女歌舞伎も禁止された。茶屋なども禁止され、花街もほとんど火が消えたような状態になっていった。禁止令のおかげで失業者が続出し、首くくりや捨て子が頻発した。

 こうした民衆の風俗の締め付けの一方で、水野は幕府の財政改革にも乗り出そうとした。例えば二宮尊徳を重用した利根川の治水、印旛沼の干拓、さらには大坂の十里四方、江戸の十里四方をすべて直轄地にしようとする案だ。彼は大英断をもってこの政策を打ち出した。だが、大坂、江戸の直轄地化は取り上げられる連中の総反撃を食ってしまう。利根川、印旛沼の治水・干拓も依頼された二宮尊徳が、付近の農民があれほど搾取されて弱っていたのではとても大工事はできないと判断。そこで、尊徳はまず治水事業に先立ち、この付近の農民をいかに立ち直らせるかという計画を立て、実際の治水事業は、農民が立ち直る30年ぐらい後になってから開始すべきだと提言した。

 しかし、幕府としては30年は待ってはいられない。それなら、もう結構だと断った。そして、尊徳に代わって登用したのが鳥居耀蔵だった。これが、最悪の選択だった。この人選に象徴されるように、水野忠邦の周りには、科学に明るい開明派の学者や役人がほとんどいない、旧式の人物ばかりだった。開明派の学者、役人らは、幕府中枢から遠ざけられていた。これが、水野にとって最大の不幸、不運だった。結論をいえばこのことが「天保の改革」失敗の最大の要因だった。

 周知の通り、鳥居は林大学頭の子で、学問にコンプレックスを持っている水野には付け入りやすい。鳥居は頑固で信念はあるが、科学的な才能はない。まして治水をやれるような人物ではない。鳥居は、房総半島と相模の地図を作る競争でも、高野長英門下の内田弥太郎と競うが、誰が見ても勝敗は明らか。それで、始末の悪いことに、鳥居は蘭学者を逆恨みし、でっち上げて「蛮社の獄」(1839年)を起こすのだ。水野は鳥居に振り回されてしまった。結局、鳥居は借金を重ねるだけで、大失敗してしまう。

 ただ、奇妙なことに、当然、水野は1843年(天保14年)、いったん老中御役御免となるのだが、幕閣に人材がいなかったのか、首座の引き受け手がなかったのか、彼は1844年(弘化元年)老中に再任され、さらに老中首座に返り咲く。しかし、翌1845年(弘化2年)老中を辞職、隠居、蟄居に追い込まれた。失政の責任を取らされた形だ。

 水野忠邦の政策の着眼点が悪いわけではなかった。彼の周囲に優れた顧問や、いいブレーンがいなかったことが致命的だった。このことが、彼を後世、不名誉な改革失敗者あるいは悪役として仕立て上げることになった大きな要因だ。 

(参考資料)奈良本辰也「歴史に学ぶ 水野忠邦の悲劇」、松本清張・岡本良一「日本史探訪/幕藩体制の軌跡 水野忠邦」、吉村 昭「長英逃亡」、中嶋繁雄「大名の日本地図」

 

 

酒井忠次 家康の心理をくみ取れず、悲劇を生んだ単細胞男の暗転人生

酒井忠次 家康の心理をくみ取れず、悲劇を生んだ単細胞男の暗転人生

 酒井忠次(さかいただつぐ)は、徳川家で「徳川四天王」といわれた「酒井、榊原、井伊、本多」の一人だ。そして、忠次はその四天王の筆頭に位置づけられていた。だが、彼の忠誠心や誠実心は、他の補佐役を務めた武将たちとは少し異なっていた。そのため、彼の取った行動は問題になり、悲劇を生むもとになった。忠次の生没年は1527(大永7)~1596年(慶長元年)。

 忠次の対応が物議をかもした端的な例を挙げると、豊臣秀吉と徳川家康が対決した「小牧・長久手の戦い」の後、天下を取った秀吉が行った論功行賞というか、徳川家主従に対する気配りへの対応だ。秀吉は、家康はもちろん忠次ほか何人かの勇将にいろいろな贈り物をした。忠次には京都に大きな屋敷を与え、「その屋敷の維持管理費に、近江の国で1000石やろう」といった。さらに、従四位下に叙され、左衛門尉という官位も与えた。

 ところが、他の武将は違った。彼らの中にはいきなりその場で秀吉に「私は徳川家康の部下です。あなたからこんなにいろいろなものをいただくわけにはまいりません」と断った者もいた。あるいは、「主人と相談してまいります」といって、一度秀吉の前から退り、家康にこのことを報告したうえで、改めて秀吉のところに行き、「主人と相談致しましたが、とてもお受けすることはできません。ご好意は、ありがたいと思います」と辞退する者もいた。

 あっけらかんと、くれるものは全部もらってしまったのはこの忠次だけだ。こういう補佐役を見ていて、家康がどんな感じをもったか、想像に難くない。だが、忠次にしてみれば「秀吉様がくださるというものを、もし辞退すれば機嫌が悪くなる。秀吉様の機嫌を悪くするということは、そのまま主人の家康様に対する感じ・印象を悪くするということだ。だから自分は別に欲しいとは思わないが、自分が我慢してもらうことが、家康様への忠義につながるのだ」と考えていたのだ。

忠次の忠誠心や誠実心はあまりにも単純で、トップ=徳川家康の人間研究が甘かったといわざるを得ない。忠次は生涯、ただひたむきに、ひたすら家康に忠誠を尽くし、誠実さを吐露することによって終わってしまった。

 家康は複雑な人間だ。彼は、それほど部下を信じなかった。子供のときから人質になった彼は、ある意味で強い人間不信に固まっていたといっていい。忠次は、人質生活を一緒に送っているにもかかわらず、トップのそうした心理面の研究が足りなかったのだ。

 忠次は徳川氏の前身、松平氏の譜代家臣・酒井忠親の次男として三河国額田郡井田城(現在の岡崎市井田町)で生まれた。幼名は小平次、小五郎。元服後は徳川家康の父、松平広忠に仕え、酒井小五郎、のち左衛門尉と称した。家康(当時は竹千代)が、今川義元への人質として駿府へ赴くとき、家康に従う家臣の中では最高齢者として同行した。

 1560年(永禄3年)、桶狭間の戦いで、その今川義元が織田信長に殺されると、家康は岡崎城に帰った。このころから忠次は家康の補佐役として活躍し始める。1564年(永禄7年)、吉田城攻め、1570年(元亀元年)姉川の戦い、1572年(元亀3年)三方ヶ原の戦い、1575年(元正3年)長篠の戦いなど、彼は家康の合戦には常に先頭に立った。戦場に出たことは数知れない。そして奮戦した。とくに長篠の戦では別働隊を率いて、武田勝頼の背後にあった鳶巣山砦を陥落させ、勝頼の叔父、河窪信実らを討ち取る大功を挙げた。

 こうした功績を挙げた一方で、忠次は取り返しのつかない大きな罪を犯した。忠次は自分の身に降り掛かる火の粉をきれいに払い落とせず、というより、相手の意のままに振り回され、結果として家康の息子、信康と、正室・築山殿を死に追い込んでしまったのだ。

 このあらましは次のようなことだ。桶狭間の戦いに劇的な勝利を収めた織田信長が、その後、勢力を拡大するために家康と同盟した。そのために、信長の娘と家康の息子(信康)との政略結婚が行われた。ところが、信長の娘は一面スパイの性格を持っていたので、信康と築山殿について、「二人は密かに武田に通じて徳川家と織田家を滅ぼそうとしている」などと、父(信長)にいろいろと悪い報告をした。

 この真相については諸説あり、詳らかではない。しかし、いずれにせよ、信長はこれを黙殺しなかった。信長は忠次に対し「申し開きをしに来い」と命じた。だが、実をいえばこれはおかしい。忠次の主人は家康で信長ではない。その家康の配下に対して、信長が直接名指しで、申し開きに来いというのは、越権行為だ。本当なら、忠次は断るべきだった。

 ところが、忠次は信長に命じられた通り、すぐ信長の城に行った。行ってから彼は後悔した。忠次に対する信長の尋問は厳しかった、忠次は驚いた。そして動転した。結局このとき忠次は完全に申し開きできなかったということで、信康は切腹させられ、築山殿も殺された。このことは徳川家に大きな傷跡を残した。忠次を見る周囲の目は険しくなった。“裏切り者”というような眼差しを、しきりに投げつけられることになった。

 忠次は1588年(天正16年)、長男・家次に家督を譲り、隠居した。家康は1590年(天正18年)、関東に入国し、功労のあった家臣団に知行を与えた。四天王のうち三人は、すべて10万石以上与えたが、忠次の息子だけはわずか3万石しか与えられなかった。家康は息子と正室を殺されて以後、その遠因をつくった忠次を許せなかったのだ。家康にとって、忠次は悪役そのものだった。 

(参考資料)童門冬二「男の器量」

河上彦斎 佐久間象山を殺害した、筋金入りの攘夷派の殺し屋

河上彦斎 佐久間象山を殺害した、筋金入りの攘夷派の殺し屋

 河上彦斎(かわかみげんさい)は肥後熊本藩士で、幕末の英才・佐久間象山を殺害したことで知られる、維新史の刺客の中でも屈指の人物だった。幕末・維新の時代に“人斬り”という異名を冠して呼ばれた人物には、概して無学の者が多かった。しかし、河上彦斎は一通りの学問はあった。上手ではないが、漢文を書き、和歌も詠んでいる。したがって、彼の場合、誰かの示唆や指示のもとにターゲットとする人物を殺害した単なる“殺し屋”というより、理論の裏打ちがあるように思える。また、名利の念は全くないのが特徴だ。彦斎の生没年は1834(天保5)~1872年(明治4年)。

 彦斎は、肥後熊本藩士小森貞助、母わかの子として熊本城下神馬借町に生まれた。幼いとき同藩の河上源兵衛の養子となった。諱は玄明(はるあきら)。通称は彦次郎、のち彦斎。16歳のとき、細川家の花畑邸のお掃除坊主となり、後に江戸に勤番して家老付きの坊主となった。彦斎と名乗るのはこのためだ。

 彼は儒学を轟木武兵衛(とどろきぶへい)に学び、兵学を吉田松陰の親友、宮部鼎蔵に学び、国学を林桜園について学んだ。桜園は熊本の学者だ。桜園の原道館の同門に、後に「神風蓮の乱」(1876年)を起こした太田黒伴雄や加屋栄太らがいて親交があった。儒学にも通じていたが、兵学者でもあった。国学についてはとくに精通しており、国粋主義者で、敬神の念が厚かった。

 こんな彦斎が、ペリー来航以来の時勢に心を揺さぶられ、尊王攘夷の思想を持つようになったのは、最も自然なことだった。彼は、いわゆる“肥後もっこす”的性格だったから、その思想は牢固たる信念になって、終生決して動かないのだ。このことが、後の彼の運命を決めることになるのだが…。

 文久元年、藩主の名代として上京した長岡護美に随行。このとき随従員として彦斎とともに上京したメンバーに肥後勤王党の轟武兵衛(儒学者)、宮部鼎蔵らがいた。彦斎はそれまでの国老付坊主という職を免ぜられて蓄髪を許された。その後、彦斎は滞京して、熊本藩選抜の親兵になった。

 文久3年、30歳のとき、彦斎は熊本藩親兵選抜で宮部鼎蔵らと同格の幹部に推された。環境が異なれば、この後、宮部鼎蔵らに近い生き方をしてもおかしくなかったのだ。ところが、彼はこの後、密かに“人斬り”としてその惨劇を演じることになる。

 元治元年(1864年)7月11日、愛馬に跨った松代藩士・佐久間象山が従者2人、馬丁2人を従えて京都・三条通木屋町を通りかかったとき、通行人に紛れていた刺客2名が飛び出し、馬上の象山に斬りかかった。しかし、この一刀は象山が馬上にあったため、傷は浅かった。ただ、この後、象山には不運な偶然が重なった。この急襲を受けて象山は馬腹を蹴って、この場を逃れようとした。

ところが、馬丁の1人が刺客に気付かず、馬が狂奔したのだとみて、大手を広げて前に立ちふさがったのだ。このために馬が棒立ちになったところを、追いすがる刺客の1人が、躍り上がって斬りつけてきた。たまらず象山は鞍上から、もんどり打って地に落ちた。さらに刺客は隙を与えず、一、二刀あびせると、混乱する場に紛れ、姿を消した。白昼の凶行だった。

この刺客こそ、彦斎だった。手馴れたものだった。ただ急襲されたにせよ、馬丁が事の成り行きをつぶさに見ていたなら、象山は最初のひと太刀だけで、浅い傷を負っただけで逃れていただろう。しかし、こうして不幸にも幕末、一貫して開国論を唱え続け、吉田松陰らに影響を与えた天才、佐久間象山は暗殺されてしまった。

彦斎はこの後、藩の仲間と別れ長州軍に身を投じる。象山暗殺後の8日後の7月19日、「八月十八日の政変」(1863年)で京都を追放された長州藩が、巻き返しを企図して起こした「禁門の変」(1864年)で、彦斎は長州家老の国司信濃隊に入って戦っている。しかし、圧倒的兵力差の前に敗れ去った長州軍はバラバラに撤退。彦斎も国司信濃と別れ、しばらく鳥取藩邸に身を隠している。

第二次征長戦(四境戦争)では、彦斎は芸州口、石州口を守り戦っている。が、幕府軍で肥後熊本藩が、小倉で長州軍と対峙したと聞き、怒り、悲しみ、思い悩んだ。そして、桂小五郎や高杉晋作らが猛反対する中、長州軍を抜け、一人熊本へ帰っていった。時勢に気付いていない藩首脳たちを説得するためだった。

 慶応2年(1866年)2月、彦斎は熊本へ帰ったところを脱藩罪で捕らえられ、投獄された。説得どころか、佐幕派の藩首脳には全く聞き入れられなかった。しかし、彦斎が投獄されていた一年の間に大政奉還、戊辰戦争があり、幕府側は朝敵となった。そのため明治2年(1869年)2月には投獄されていた勤王派志士たちとともに釈放され、藩の役員に取り立てられた。彦斎は外交係に任命され、まもなく名を高田(こうだ)源兵衛と改め、肥後熊本藩の藩命を受けて東北地方へ遊説に出かけている。こうして、名うての人斬りも時代に迎合して…といいたいところだが、彦斎の場合、筋金入りの攘夷家で、維新後の明治政府の開化政策にも順応することができなかった。そして、遂に政府転覆を企てたかどで、明治4年(1871年)12月4日、38歳で断首された。

 彦斎の容姿は身長5尺前後(150cm程度)と小柄で色白だったため、一見女性のようだったという。剣は、伯香流居合を修行したという説もあるが、我流で片手抜刀の達人だったと伝えられている。また、“人斬り”の異名を持ちながら、彦斎が斬ったとはっきり分かっているのは佐久間象山だけで、あとは定かではない。 

(参考資料)海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち 河上彦斎」、平尾道雄「維新暗殺秘録」、奈良本辰也・綱淵謙錠「日本史探訪⑲開国か攘夷か 和魂洋才、開国論の兵学者 佐久間象山」、司馬遼太郎「司馬遼太郎が考えたこと 4」

 

 

 

 

 

 

井上 馨 西郷に“三井の大番頭”といわれた“貪官汚吏”の権化

井上 馨 西郷に“三井の大番頭”といわれた“貪官汚吏”の権化
 井上馨(いのうえかおる)は、薩長藩閥の恩恵もあって明治維新政府の大官になったが、明治初頭の尾去沢銅山事件、藤田組の贋札事件など、彼にかかっている疑惑の雲は容易に拭い去ることができないものだ。それだけに、彼がやらかした公私混同も甚だしい、その行為は“貪官汚吏(たんかんおり)”の権化とされた。井上馨の生没年は1836(天保6)~1915年(大正4年)。
 井上馨は萩藩の郷士、100石取りの井上五郎三郎光享(みつゆき)の次男として生まれ、後に250石取りの志道慎平(しじしんぺい)の養子になった。幼名は勇吉、通称を1860年(万延元年)、長州藩主・毛利敬親から賜った名前、聞多(もんた)で呼ばれた。諱は惟精(これきよ)。
 井上馨が三井財閥や長州系の政商と密接に関わり、賄賂と利権で私腹を肥やしたダーティーなイメージの強い人物であることは間違いない。一時は実業界にあっただけに、三井財閥においては最高顧問になるなど密接に関係しているだけに、否定のしようがないわけだ。こうしたあり方を快く思わなかった西郷隆盛からは、井上は政府高官ながら“三井の大番頭”ともいわれたほどだ。
 井上は明治維新後、官界に入り、主に財政に力を入れた。だが、1873年(明治6年)、司法卿・江藤新平に予算問題や尾去沢銅山の汚職事件を追及され辞職。その悪質さは目に余るものだったのだ。司馬遼太郎氏によると、明治の汚職事件は常に井上馨が中心だった。彼は公の持ち物と自分の持ち物が分からない、天性汚職の人だった-と司馬氏が記しているほど。
ところが、懲りないというか、明治の元勲たちにもあった“互助”意識とでも表現すべきものが存在したわけだ。井上は一時は三井組を背景に、先収会社を設立するなどして実業界に身を置いたが、伊藤博文の強い要請のもと復帰。様々な要職を歴任、鹿鳴館を建設、不平等条約の改正交渉にもあたっているが、汚職・不正疑惑の噂が常につきまとう、“貪官汚吏”の権化とされる人物だった。
 こんな井上だが、初めから悪人、いや悪役だったわけではない。彼は幕末期の長州藩の若い志士たちの間で支配的だった尊皇攘夷派に属し、1862年(文久2年)、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文らとともに、品川御殿山のイギリス公使館の焼き討ち事件にも参加している。
1863年(文久3年)、井上は伊藤博文、野村弥吉、山尾庸三、遠藤謹助らとロンドンに密航するため、英国船の石炭庫に隠れて横浜を出港した。イギリスでの留学中、攘夷騒ぎ、外国船砲撃のことを英国新聞で知って、井上と伊藤は半年で帰国したが、それでも英語力はかなりついていたらしい。この1年半後、坂本龍馬や中岡慎太郎が仲介、奔走して成立した「薩長同盟」の成果として、薩摩藩名義で「亀山社中」が購入窓口となった武器買い付けの際、井上と伊藤らは亀山社中のメンバーとともに長崎の武器商人、トーマス・グラバーを訪ね、ゲベール銃の購入契約を結んでいるのだ。
 この武器購入には、二つの歴史的意義があった。一つは「蛤御門の変」以来、犬猿の仲となっていた両藩が歩み寄り、幕府への強力な対抗勢力となったからだ。いま一つは、この新式武装によって長州軍は面目一新し、幕府の征討軍を武力打倒できる軍備を備えることになったからだ。
 幕末期の井上には、少なくとも“悪役”イメージはない。また、維新後の太政官制時代に外務卿、参議となり、黒田内閣で農商務大臣、第二次伊藤内閣で内務大臣、第三次伊藤内閣で大蔵大臣など数々の要職を歴任している。
では、どうして彼のダーティーな、疑惑の雲が生まれたのか。当時の長州藩の情勢が、その気風を養成した点も大いにあった。長州藩主・毛利慶親(よしちか)も、世子の元徳(もとのり)も賢いという人物ではなく、普通の殿様だった。家老にもまた、たいした人物はいなかった。馬関戦争の後始末ができず、当時座敷牢に入れられていた高杉晋作を、大急ぎで引っ張り出して事にあたらせたことをみても、それは明らかだ。こんな藩のありさまでは気力、気概にあふれた若い連中の活発な動きなど統制できるはずはなかった。統制どころか、その連中に鼻面を取って引きずり回されるありさまだった。
 この時代の長州の若い志士たちは、何とか名目をつけては藩から金を引き出しては、品川の遊郭・土蔵相模その他で遊興しているが、それはこの表れの一つだ。こんなとき藩の重役たちに談じ込んで金を引き出す役目にあたったのが井上だったのだ。維新政府ができたとき、井上が大蔵大輔に任命されて、維新政府の財政の局にあたったのは、幕末、長州藩内におけるこの因縁に違いない。維新草創期の大らかさともいえるが、近代日本・再生のスタートの時期だっただけに、「適材適所の人員配置」という物差しでみると、時代遅れで見当違いも甚だしい。

(参考資料)司馬遼太郎「歳月」、司馬遼太郎「世に棲む日日」、司馬遼太郎「この国のかたち 六」、童門冬二「伊藤博文」、三好徹「高杉晋作」、奈良本辰也「不惜身命 如何に死すべきか」、小島直記「人材水脈」、小島直記「福沢山脈」、海音寺潮五郎「乱世の英雄」

中井源左衛門 売薬から身を興し成功した近江を代表する名家

中井源左衛門 売薬から身を興し成功した近江を代表する名家

 中井源左衛門は、売薬から米商人に転じて成功し、巨富を得た。瀬田の唐橋の改修費に3000両を献金したのをはじめ、神社や公共事業に多額の寄付をした。滋賀県に生まれ、幼名を長一郎、やや長じて源三郎と改め、源左衛門となったのは店を持ってからのことだ。生没年は1716(享保1)~1805(文化2)年。

  中井源左衛門は「金持に成らむと思はば、酒宴遊興奢(おご)りを禁じ、長寿を心掛け、始末第一に商売を励むより外に仔細は候はず」(「金持商人一枚起請文」)と子孫に書き残している。著名な「三方よし」(売り手よし、買い手よし、世間よし)の精神は、他国への行商で財を成した近江商人の知恵だ。行商先や出店を開いた地域に配慮した経営でなければ、外来商人としての存続も、出店の定着もあり得なかったのだ。

 日野特産の日野椀をつくっていた中井家は、もともと佐々木源氏に仕えて船奉行をしていた家柄だったが、織田信長に佐々木の一党が滅ぼされた時、武士をやめて、塗椀業者になった。ところが孫の光武の代になったころ、家運が衰えて取引先が倒産した。そのため家屋敷も人手に渡り、源左衛門光武は日野椀の絵付け仕事に雇われて職人暮らしを続け、ようやく19歳になった。

 何とかして失った家や地所を回復したいと思った彼は相坂半兵衛という日野商人に連れられて、関東へ行商の旅に出た。1734(享保19)年のことだ。母の実家から日野の合薬60貫分(約15両)を借り受け、自己資金2両と、遺産3両を旅費として、創業の野心に燃えた19歳の青年は、東へ向かって旅立っていった。これを持ち下り商内といっている。

 神応丸、奇応丸、帰命丸、六味地黄丸など日野の合薬は各地で評判がよかった。一度目は失敗に終わったが、二回目は何とか損をせずに済んだ。以来一日として休むことなく、雨の日も雪の日も歩き続けて、1745(延享2)年になると、ようやく下野の越堀町に小さな店を持った。同年、郷里に家を建てて妻を迎えた。それが30歳の時で、2年後には775両1分の金を貯め込んでいた。2両の資本から始めて、よくも増やしたものだが、まだ千両には手が届かない。

 奥州街道に沿った大田原藩1万1000石の城下町・大田原に拠点をつくった彼は合薬だけでなく太物(木綿)も扱うようになって、上野の小泉村や結城の白河にも支店を設けた。1769(明和6)年、仙台に出店したころ、貯蓄は7468両2分に膨れ上がっていた。創業以来35年、ようやく長者番付の片隅に名前が載るようになった。

 木綿の採れない奥州に、関西の綿布を届け、さらに好まれる古手(古着)も運んでいった。そして奥州の生糸や紅花を買い付けて関西へ運んできた。これを産物廻しというが、現在の商社活動の原点は、この産物廻しにあった。さらに彼は奥州の生糸を大量に丹後の機業地へ売り捌こうというので”組合商内”を実行した。これは今でいう株式組織で、まず出資者を募った。中井源左衛門 出資 7500両、杉井九右衛門 出金 1000両、寺田善兵衛 出金 1000両、矢田新右衛門 出金 500両 合計1万両、これだけの資金を動かしての商内は滅多にあるものではない。しかし、奥州と丹後では距離が遠すぎるので中継基地をいくつかつくった。

 京都では川港のある伏見に店を置いた。京都市内に出店を置くと、京都の糸問屋仲間の妨害を受けやすいからだ。京・大坂の古着類を伏見に集め、綿、油、菜種などとともにこれを仙台に運んだ。そして仙台を拠点として奥州各地で売り捌いた。さらに豊富な資金を使って、奥州の生糸、青芋(う)、紅花、大豆、小豆、漆類を大量に買い集めて、関西へ荷をを引いてきた。こうして大量の生糸を丹後の機業地へ運び込んだばかりか、大商いをして、さらに商売を拡げていった。

  やがて、丹後店、伏見店を閉鎖して、京都に大型店を開いた。このころになると、金融業も営んで大名貸しにまで手を広げている。仙台に長男の二代目源三郎を派遣して支配人とし、京都店に三男を配し、本店は源左衛門自らが総轄していた江州店(ごうしゅうだな)といって、近江商人は各地の出店に店員を派遣するが、すべて当主の手元で読み書き算盤をみっちり仕込まれた同郷者に限られていた。番頭になると妻帯が許されるが、これもまた同郷人に限られていて、新婚の妻を近江に残して、夫は任地で商いに励むことになる。

 その代わり35歳ぐらいになると、別家して独立することができる。退職金が200両ほどもらえ、そのうえ積立金もあるので資金はたっぷりある。そこで郷里に田畑と家を買って小作人に耕作を任せて、旦那衆の仲間入りもできるとあって、悪事を働くような店員はほとんどいなかった。人一倍几帳面な性格の源左衛門は、各出店から届いた報告に基づいて、”店卸記”と”永代店卸勘定書”をきちんと記録して、一日も休むことなく業務に精励したという。商機とみると機敏に行動したが、決して人を騙したり、あくどい商いをしたことはなく、薄利で”牛の涎(よだれ)”のごとく、細く長く続く商いに徹した。

 その結果、1804(文化元)年、89歳の折、その資産は11万5375両1分になっていた。そして、翌年9月、90歳の天寿を全うした。数多い近江商人の中でも、彼ほど長寿を保ち巨富を積んだ者は他に例をみない。源左衛門の没後、二代目、三代目とよく初代の精神を守って業務に励んだので、中井家は近江商人を代表する名家となった。

 始末、才覚、算用、この三つは江戸期の商人の原理といっていい。才覚は今でいうアイデア、始末は無駄金を使わないこと、算用は経理で、すべて現代にも通用する商法の原理だ。近江商人は、無駄金は使わないが、道路や橋の建設にはよく金を出している。これはそうして交通が便利になれば、いずれ自分たちにも利益となると見越していたからだ。活きた金の出費は惜しまなかった。

(参考資料)邦光史郎「豪商物語」

本間四郎三郎 江戸中期、巨大な経済力で山形地方に君臨した豪商

本間四郎三郎 江戸中期、巨大な経済力で山形地方に君臨した豪商

 本間四郎三郎は江戸時代、巨大な経済力で山形地方に君臨していた豪商、豪農、本間家の中興の祖といわれる。天下第一の豪農として庄内藩14万石の領内において、藩主をはるかに凌ぐ24万石の大地主だったのだ。本間四郎三郎の生没年は1732(享保17)~1801年(寛政13年)。

 本間家の祖は寛永年間(1624~1644年)すでに商業を営み、酒田36人衆の一人として町政に参与し、元禄年間、海の商人として庄内地方や最上平野に産する米、藍、漆、晒臘(さらしろう)、紅花(べにばな)などを買い占め大坂に回漕し、帰り船に上方の精製品や古着などを積み込み、これを庄内地方で売りさばいたのが当たって巨利を得た。そして、その利益で酒田周辺の土地を買い上げ、「千町歩地主」と呼ばれる大地主にのしあがっていった。

 本間家三代目・四郎三郎が、父・庄五郎光寿の後、本間家を継いだのは1754年(宝暦4年)のことだ。彼は父の遺志を継いで酒田、西浜の防砂林の植林に取り組んだ。が、これは尋常な事業ではなかった。黒松の苗木は植えても植えても、厳しい風害を受け飛来する砂に埋没し、幾年もの間、根付き育つことはなかった。そこで、苗木を保護するための竹矢来を組むなど、吹き付ける砂嵐と、まさに格闘すること12年、ようやく延々30kmにも及ぶ防砂林の完成にこぎつけた。藩主は、それほどの難事業を成し遂げた四郎三郎の功を賞し町年寄を命じ、のち士分に取り立て小姓格となった。

 このほかにも、四郎三郎は庄内藩および山形地方に様々な事業を通じて地域貢献している。1768年(明和5年)、鶴岡、酒田両城の普請を成し遂げ、備荒備蓄米として藩庁に2万4000俵を献上、この米が1783(天明3)~1788年(天明8年)の大飢饉から藩士や領民を救った。また、焼失した庄内藩江戸藩邸の再建をはじめ、庄内藩の窮乏を救うため財政すべてを委ねられることになった。そのうえ、幕府から安倍川、富士川、大井川の改修工事を命ぜられ、その資金借り入れに大坂、兵庫の豪商たちを訪ね、協力を取り付けることに成功するなど、まさに八面六臂の活躍ぶりをみせた。

 こうした四郎三郎の経済手腕の鮮やかさをみて、藩主を通じて財政再建を委嘱する諸藩があとを絶たなかった。窮迫貧困ぶりを天下に知られた米沢藩もその一つで、上杉治憲(のちの鷹山)の要請に応えて、彼は米沢藩のため数回にわたって金穀を献貸している。このほか彼は、酒田港口に私費で灯台を建て、氷結する最上川の氷上に板を敷き、旅人の陥没を防ぐなど、病で職を辞するまで、36年にわたって公共のため激務に従事した。

 それだけに、庄内藩14万石・酒井家の財政は、酒田の大地主として名高い、この本間家を抜きにしては語れない。この時代、本間家は庄内藩の“金倉(かねぐら)”みたいなものだった。当初は新顔の町人だった本間家だが、1710年(宝永7年)、300両を献金し、1737年(元文2年)、領内の豪商のトップとなった。その子、四郎三郎の代には、1800余俵収穫の田地から一挙に規模を広げ、1万3900余俵収穫高の田地を有するようになったのだ。四郎三郎のケタ外れの才覚がうかがわれ、彼が本間家にあっても中興の祖といわれるゆえんだ。

 1990年、この本間家が筆頭株主だった商事会社、本間物産が倒産したと新聞で報じられた。時代の流れとはいえ、事業を担った人の精神は変わってしまったのかどうか分からないが、名門・本間家の表舞台からの退場は惜しまれる。 

(参考資料)神坂次郎「男 この言葉」、中嶋繁雄「大名の日本地図」

白石正一郎 幕末、尊皇攘夷の志士たちを支援した下関のインテリ豪商

白石正一郎 幕末、尊皇攘夷の志士たちを支援した下関のインテリ豪商

 白石正一郎は幕末、勢威を誇った下関の豪商で、当時のインテリだ。長州藩の志士はもちろんのこと、関門海峡を通過する志士らを分け隔てなく世話した、勤王党の志士らのシンパでもあった。土佐藩を脱藩した坂本龍馬なども一時、白石邸に身を寄せていた。まさに新時代を築き上げる人材を、経済面で支援したスポンサー的存在だった。1863年(文久3年)、高杉晋作が結成した「奇兵隊」にも援助し、自身も次弟の白石廉作とともに入隊。正一郎は奇兵隊の会計方を務め、士分に取り立てられている。

 白石正一郎は長門国赤間関竹崎に回船問屋、小倉屋を営んでいた白石卯兵衛・艶子の長男(八代目)として生まれた。名は資風、通称は駒吉、熊之助。号は橘円。白石正一郎の生没年は1812(文化9)~1880年(明治13年)。小倉屋は米、たばこ、反物、酒、茶、塩、木材などを扱い、ほかに質屋を営み酒もつくった。もともと下関は西国交通の要衝だったため、長州藩など多くの藩から仕事を受けて、資金は豊富だった。

 正一郎は国学に深い関心を持ち、鈴木重胤(すずきしげたね)から国学を学び、尊王攘夷論の熱心な信奉者となった。43歳ころのことだ。そして重胤の門下生を通じ諸藩の志士とも親交が生まれた。薩摩藩の西郷隆盛も正一郎を訪ね親しくなり、小倉屋は1861年(文久元年)には薩摩藩の御用達となった。西郷は正一郎を「温和で清廉実直な人物」と書き記している。

正一郎は月照、平野国臣、真木和泉らとも親しく交流したが、それは尊皇攘夷の志に共感したためだ。長州藩の高杉晋作、久坂玄瑞らを資金面で援助したほか、土佐藩を脱藩した坂本龍馬なども一時、白石邸に身を寄せていた。白石邸は、さながら志士たちに開かれた交流、集会の場だった。武士に限らず、公家も同様だった。都を追われた、明治天皇の叔父にあたる中山忠光や三条実美ら六卿もここに滞在した。六卿の一人、錦小路頼徳(にしきのこうじ よりのり)は下関に到着後、病に倒れ、この白石邸で息を引き取っている。

 白石邸は歴史の舞台ともなっている。1863年(文久3年)、藩命により下関を訪れた高杉晋作と白石正一郎の話し合いにより、この白石邸で「奇兵隊」が結成されたのだ。奇兵隊は結成以後、白石邸に寄宿していたが、すぐに隊員が増えて手狭になったため、阿弥陀寺(現在の赤間神宮)へ屯所を移した。奇兵隊結成と同時に、正一郎自身も弟の廉作とともに入隊した。正一郎は奇兵隊の陰の力となって、惜しげもなく資金面で志士たちを支えた。そのため、晩年には豪商の身代も傾いてしまったほど。白石家は正一郎も、その弟の廉作も、伝七も皆、志ある人だった。日本初期の社会主義者で、革命直後のロシアで踪跡不明になった大庭呵公(かこう、景秋)は弟・伝七の子だ。

 明治維新後は、赤間神宮の二代目となった。赤間神宮の背後の紅石山に奥都城が建てられ、隣には真木和泉の次男・真木菊四郎の墓が並んでいる。

(参考資料)海音寺潮五郎「西郷と大久保」、海音寺潮五郎「史伝 西郷隆盛」、司馬遼太郎「世に棲む日日」、平尾道雄「中岡慎太郎 陸援隊始末記」

島井宗室 大友宗麟と結び、豊臣秀吉とも親交のあった博多の豪商

島井宗室 大友宗麟と結び、豊臣秀吉とも親交のあった博多の豪商

 島井宗室(しまいそうしつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した博多の豪商、茶人で、大友宗麟と結び、金融・貿易で巨富を築き上げた人物だ。島井宗室の生没年は1539(天文8)~1615年(元和元年)。名は茂勝。通称は徳太夫。号は白軒、別号は瑞雲庵、虚白軒。

 島井宗室は博多で酒屋や金融業を営むかたわら、明や李氏朝鮮とも貿易に乗り出し、日本でも指折りの財を成した。宗室は、さらにその財力を背景に、九州の諸大名とも交渉を持つようになった。1573年(天正元年)、当時の博多の領有者、大友宗麟との取引を開始。同じころ、堺の茶人兼豪商、千宗易(利休)や天王寺屋道叱らと懇意になった。宗室は大友氏や対馬の宗氏らの軍資金を調達する代わりに、大友宗麟から様々な特権を得て、豪商としての地位を確立していった。

 大友氏が没落し、代わって島津氏が台頭してくると、大友氏寄りの宗室は自身の特権が島津氏に奪われることを危惧して、堺の千利休ら茶人としての親交ルートから織田信長に接近。その庇護のもとに活動することを企図した。信長には贔屓にされたが、本能寺で明智光秀に討たれ、彼の思惑は頓挫するかにみえた。が、今度は豊臣秀吉の保護を受けて畿内から博多、さらには対馬に至る輸送・交通路を築き上げた。これにより宗室は南蛮・朝鮮などとの貿易で栄華を極めることになった。

 宗室は、秀吉の九州征伐にも随分頼りにされ協力した。このとき博多復興に尽力した功績によって、彼は免税の特典を受けている。天下統一後、秀吉が行った朝鮮出兵には彼の合理主義的感覚から「この戦争はそろばんに合わない」と判断。賛成しなかったため、秀吉の怒りを買って、蟄居を命じられた。さすがに宗室もその後は柔軟な対応に転じたのか、後に許されてからは五奉行の一人、石田三成と協力して日本軍の後方兵站役を務める一方、明との和平の裏工作を行っている。 秀吉没後、関ヶ原の合戦後、博多が黒田氏の支配下に入ると、黒田長政の福岡城築城などに協力している。

 宗室が養嗣子に残した、遺訓17カ条は町人訓として知られている。

 当時の博多では多くの豪商がひしめいていたが、とくに島井宗室は神谷宗湛(かみやそうたん)、大賀宗九とともに「博多の三傑」と称された。ただ、島井宗室と神谷宗湛は秀吉に取り立てられた商人で、大賀宗九は黒田氏に取り立てられた商人であり、少し事情や色合いが違う。島井宗室と神谷宗湛とは親族間にあたる。

(参考資料)永井路子「にっぽん亭主五十人」

竹川竹斎 勝海舟と小栗忠順の政治顧問を務めた伊勢射和の豪商

竹川竹斎 勝海舟と小栗忠順の政治顧問を務めた伊勢射和の豪商

 竹川竹斎は、伊勢射和(いせいざわ)に拠点を持っていた由緒ある伊勢の豪商だ。竹斎は相当変わった人物で、国学、測量学、また農事や土木の方法まで学ぶなど、学問に造詣が深かった。しかも、学んだだけでなく竹斎はこれを地域で実行した。そして、何より驚かされるのは、竹斎は商人でありながら、幕末、「海防護国論」と題した意見書を提出。勝海舟と小栗上野介という幕府首脳部にあって、相対立する二人の実力者の政治顧問=黒幕的存在だったことだ。

 竹川竹斎は、伊勢国(現在の三重県)飯野郡射和村で父・竹川政信、母・菅子の長男として生まれた。幼名は馬之助、元服(1823年)して新兵衛政肝と改め、隠居(1854年)して竹斎と号した。父は文化人で、母は山田の国学者、荒木田久老の娘。竹斎の生没年は1809(文化6)~1882年(明治15年)。

 竹川家は幕府御為替御用を務め、当時、三井家と肩を並べるほどの豪商で、本家の竹川と、新宅の竹川と、東の竹川という三つの流れがあった。竹斎は東・竹川家の七代目だ。本拠は伊勢に置いてあったが、江戸で両替商を営む金融業だった。

 竹斎は国学を荒木田久守や竹村良臣(よしおみ)に学び、農事や土木の方法を、この方面の権威だった佐藤信淵(のぶひろ)に、そして天文地理の測量学を奥村喜三郎などに学んだ。また、多くの経世家や文化人と接し、知識を深めた。だが、彼が単に知識欲が旺盛だったわけではない。学んだことを地域で実行した。地域住民の多くを参加させ、近江の水利をはかるための灌漑工事を行った。もちろん、工事の費用は全部自分が出した。それによって、地域住民の意識を高めようとしたのだ。また、彼は当時1万巻といわれた蔵書、自分の持っている本を全部放出し、「射和文庫」をつくった。

 竹斎は「地域が富むためには、産業を興さなければならない。それには地域の特産品をつくって、他国に売り出すことだ」と唱えた。そのため、彼は「万古焼(ばんこやき)」を復活させた。「射和万古」と名付けた陶器を次々と生産させた。こうして、彼は伊勢射和の地域振興に尽くした。

 ただ、竹斎は地域だけではなく、幕末の日本全体を見ていた。ペリー来航後、当時の老中首座・阿部正弘は開明的な政治家で、情報公開と身分を問わず、様々な意見を求めるとの方針を打ち出し、国政参加への回路を開いた。これに応じて竹斎が提出した意見書が「海防護国論」だった。この意見書は、題名からくる印象とは違って、積極的な開国策だった。彼は後に、誰よりも先駆けて、日本に鉄道を敷設すべきだとか、北海道の開拓が急務だなどと唱えるが、学問の蓄積が彼の目を研ぎ澄まさせたのだ。

 竹斎の海防護国論にひどく感動したのが、勝海舟と大久保忠寛(一翁)だった。勝はとくに竹斎に惚れ込んでしまった。以後、勝は折に触れて様々な問題について、竹斎に相談し、アドバイスを受けたという。勝自身、明治になってから何でも自分ひとりで考え出したようなことを言っているため、一般的に、勝は相当な自信家のイメージが強いが、必ずしもそうではない。彼には、この竹川竹斎という政治顧問=黒幕がいたのだ。

 竹川竹斎は実は、海舟の青年時代からの支援者だった北海道の商人、渋田利右衛門が自分に万一のことがあったらといって、海舟に浜口梧陵、嘉納治右衛門(柔道・講道館の開祖、治五郎の親)らとともに紹介した人物の一人だ。このことは、海舟自身が『氷川清話』に書いていることだ。

 そして、驚くことに竹斎が黒幕的な役割を務めたのは、勝海舟に留まらなかった。竹斎は明治維新前後、勝と鋭く対立した勘定奉行・小栗上野介忠順の黒幕でもあったという。小栗は開明的な能吏だが、徳川幕府を立て直し、戦艦、武器・弾薬など軍備のうえからは、新政府軍とはまだ十分勝負になると判断。最後まで徹底抗戦を唱えていた。そのため小栗は、最終的に朝敵になることを怖れ、不戦=恭順派に傾いていた最後の将軍、徳川慶喜に嫌われて、江戸城内で職を罷免されてしまった人物だ。小栗上野介とは、新政府軍にとって、それほどに要注意人物だったのだ。竹斎は、そんな人物の政治顧問でもあった。

 竹斎が亡くなったとき、勝は墓前に「世のことを 望みなき身の心しりて友のすくなく成るぞわびしき」の句を捧げている。

(参考資料)童門冬二「江戸の怪人たち」、勝海舟 勝部真長編「氷川清話付 勝海舟伝」、大島昌宏「罪なくして斬らる 小栗上野介」

灰屋紹益 島原の名妓・吉野太夫を妻に娶った京都の知識人・豪商

灰屋紹益 島原の名妓・吉野太夫を妻に娶った京都の知識人・豪商

 灰屋紹益(はいやじょうえき)は江戸時代前期の京都の豪商だが、和歌・俳諧・蹴鞠・茶の湯・書などを当時の一流の人物から学んだ知識人でもあった。遊里・島原の名妓、吉野太夫を、関白・近衛信尋(のぶひろ)と争って身請けし、妻とした話はあまりにも有名だ。灰屋紹益の生没年は1610(慶長15)~1691年(元禄4年)。

 灰屋紹益は本名・佐野重孝、別名は承益、又三郎、通称は三郎左衛門。佐野家は本阿弥光悦の縁故の生まれだ。灰屋は屋号。父は本阿弥光悦の甥・光益。のち佐野紹由の養子となった。薬品のない時代、染めには灰が用いられた。紺染めに用いる灰を扱うため“灰屋”と号したというわけだ。この紺灰業を営み、灰屋紹益は巨万の富を築き、京の上層町衆を代表する豪商だった。

 当主・灰屋紹由の跡継ぎに見込まれて養子となったはずの紹益だったが、彼は商売よりも風雅を愛し、商売そっちのけで和歌、茶道、書道などに凝った。それも単なる遊びで楽しんだわけではなかった。和歌を烏丸光広、俳諧を松永貞徳、蹴鞠を飛鳥井雅章、茶の湯を千道安、書を本阿弥光悦、という具合に当時一流の人物から本格的に学ぶという徹底ぶりで、商人ながら、名の知られた知識人でもあった。

このため、交流のあった人物も幅広い。風雅・文化人はもとより、後水尾天皇、八条宮智忠親王らとも交わったという。そのため、一般庶民の間でも知られていた、井原西鶴の『好色一代男』の主人公、世之介のモデルともいわれているほどだ。

 中でも文筆に優れ、随筆『にぎはひ草』は風流人としての紹益の思想をよく表しており、近世初期の随筆文学の名著との指摘もある。また、紹益がこよなく愛したのが女性だ。彼は最初の妻と死別後、遊里・島原の名妓、吉野太夫を関白・近衛信尋(後水尾天皇の実弟)と争って身請けし、妻としたのだ。1631年(寛永8年)、紹益22歳、吉野太夫26歳のときのことで、4歳年上の女房だった。当初、父・紹由は、遊里の女を身請けするに及んで、紹益に愛想をつかして一時は勘当したほどだ。その後、吉野太夫の人となりを知って紹益の勘当を許した。

 人気の吉野大夫を妻に娶った嬉しさを詠んだ紹益の句がある。

 「ここでさへ さぞな吉野の 花ざかり」

 恋い焦がれて妻に迎えた吉野太夫だったが、美人薄命。吉野大夫は36~38歳ごろ病死してしまう。紹益にとっては身を裂かれるほどの悲しみだったろう。

 「都をば花なき里になしにけり 吉野は死出の山にうつして」

と詠んで、吉野太夫を偲んでいる。

 それだけではない。実は凄まじい話が残されている。紹益は吉野を荼毘に付した後、その遺灰を壺の中に残らず納めた。そして、その遺灰を毎日少しずつ酒盃の中に入れて、吉野を偲びながら全部飲んでしまったというのだ。

 現在、京都市北区鷹ヶ峰の常照寺には紹益、吉野(大夫)二人の墓がある。

 

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、「朝日日本歴史人物事典」

加島屋 幕末まで「大名貸し」で、維新後は大同生命再建に心血注ぐ

加島屋 幕末まで「大名貸し」で、維新後は大同生命再建に心血注ぐ

 江戸時代、加島屋は鴻池と肩を並べる大阪の豪商だった。初代・広岡久右衛門正教が大阪で精米業を始めたのが1625年。徳川三代将軍家光がその職に就いて間もないころのことだ。後に両替商を営むと屋号に「加島屋」を掲げた。四代当主・正喜は1730年に発足した世界初の先物取引所「堂島米会所」で要職を務め、業容を拡大した。八代将軍吉宗、九代将軍家重のころの時代だ。 

 1829年(文政12年)の「浪花持丸長者鑑」をみると、東の大関に鴻池善右衛門、西の大関は加島屋久右衛門とある。そして1848年(弘化5年)の「日本持丸長者集」によると、東の大関は鴻池善右衛門、西の大関はやはり加島屋久右衛門となっている。加島屋は鴻池と同様、引き続き隆盛を誇っていたのだ。徳川十一代家斉のころ、さらには十二代家慶、そして十三代家定のころもまさに指折りの大阪の豪商だった。

 時代は一気に下るが、その系譜を受け継ぐのが大同生命保険だ。九代当主・正秋は生保3社の合併を主導し、1902年に大同生命を発足させ初代社長に就いた。加島屋と大同生命は常に時代の最先端を歩んできた。

 豪商「淀屋」の例をみるまでもなく、商人の世界は、とりわけ浮き沈みが激しい。中でもこの加島屋の場合「七転び八起き」をはるかに上回る、さながら”九転び十起き”ともいえる激しさだったろう。こんな中、一貫して同家を率いた当主には、不撓(ふとう)不屈の精神と、挑戦のDNAが脈々と流れていた。

 幕末の1865年時点で全国に266の藩が存在していた。加島屋はそのうち、実に約100藩と取引があり、年貢米や特産品を担保にした融資「大名貸し」は総額900万両(現在の4500億円相当)に及んだ。幕末ならではの逸話として、1867年には新選組にも400両を貸し付け、借金の証文には近藤勇と土方歳三が署名していたという。

 だが、明治維新で不幸にもこれらの大名貸しの大半が回収不能となった。そこへ救世主ともいうべき人が現れる。三井一族から加島屋の分家に嫁いだ広岡浅子という女性だ。夫の広岡信五郎は正秋の実兄で、分家の養子に出されていた。まだ若かった本家の正秋に代わり、浅子が陣頭指揮に立った。

 男顔負けの太っ腹で、持参金をはたき、米蔵を売却、焦げ付いた大名貸しに対する明治政府の補償も注ぎ込んで、福岡県の潤野炭鉱を買収した。荒くれ者が多かったであろう炭鉱労働者が働かない時は、拳銃持参で鉱山に乗り込み、直談判で血路を開いたという。

 やがて、勢いを取り戻した加島屋は銀行業や紡績業に進出する。信五郎は1889年発足の尼崎紡績(現ユニチカ)で初代社長を務めた。

 正秋は1899年、真宗生命の経営を引き受ける。浄土真宗の門徒を対象にした生保だったが、経営に失敗し、門徒総代格だった広岡家が再建を託されたのだ。正秋は朝日生命保険(現在の朝日生命保険とは別)と改称し、本社を名古屋から京都に移したが、契約獲得競争は激烈で、経営はいぜんとして厳しかった。

 そこで、また登場するのが浅子だ。彼女は同業の北海生命保険、護国生命保険と合併するシナリオを描き、1902年7月に大同生命が誕生する。同年3月15日付の合併契約書では「東洋生命」だったのを改め、「小異を捨てて大同につく」姿勢を合併新会社の社名に込めたのだ。

 大事を成し遂げたからといっても、その功績にあぐらをかいて居座るような考えは、浅子には微塵もなかった。その後、娘婿の広岡恵三に後事を託すと浅子は実業界から身を引き、日本女子大学の設立に情熱を傾けた。

 1909年に大同生命の二代目社長となった恵三は、33年間にわたって会社を率いた。この間、堅実経営を貫き、外務員の教育に務めた。

 正秋の女婿で十代当主を継いだ正直が1942年に大同生命三代目社長に就任すると、装いを新たにする。正直は米国で金融の実務を経験した国際派だった。1947年、大同生命は相互会社に転じた。これまでの加島屋が営む会社から、保険契約者がオーナーの会社に移行したのだ。

 1971年には「第2の創業」を果たす。貯蓄性のある養老保険・終身保険主体から、安い保険料で中小企業経営者に高額の保障を提供する定期保険主体へと舵を切った。保障が最高1億円の「経営者大型総合保障制度」は発売から2年足らずで契約4万7841件、保険金額5102億8700万円に達した。そして2002年には他社に先駆けて株式会社に転換した。

 明治以降の、かつての豪商の系譜を継ぐ加島屋の歴史は、大同生命の再建・再生の歴史だった。

(参考資料)邦光史郎「日本の三大商人」、日本経済新聞・「200年企業-成長と持続の条件」

頼山陽 日本外史,日本政記を著した明治維新の思想的・理論的指導者

頼山陽 日本外史,日本政記を著した明治維新の思想的・理論的指導者

 今から150年ほど前、日本の最大の文豪は誰か?と問われたら、当時の日本人はみんな頼山陽と答えただろう。それほどに偉い作家、文学者だった。といっても、別に大衆受けするベストセラー作家だったわけではない。明治維新の思想的・理論的指導者だったのだ。

 当時の青年たちの最も心を捉えたのは頼山陽が著した二つの歴史書だった。それは「日本外史」と「日本政記」だ。「日本政記」は天皇家の歴史を書き、「日本外史」は平家から徳川氏に至る武家の歴史を書いている。頼山陽はその中で、時の勢いが歴史の流れを変えていく-と主張する。平家が滅び、鎌倉幕府が滅びていったのは、それらが歴史の動きに取り残され、政権を担当する力を失ってしまった当然の結果だとする。歴史は必然的に動いていく。この歴史観が、尊王倒幕の意気に燃える青年たちを煽り立てた。

 頼山陽の父、頼春水は、安芸国、現在の広島県竹原出身の学者だ。頼家の先祖はその姓を頼兼(よりかね)といい、竹原で紺屋を営んでいた。学者となった春水は、中国風にその一字を取り、頼と名乗ったという。若い頃、大坂で学び、自らも塾を開いていた。頼山陽は、その春水の長男として大坂で生まれた。幼名は久太郎。生没年は1780(安永9年)~1832年(天保3年)。母静子も大坂の有名な学者、飯岡義斎の娘で、当時としては開けた女性だった。山陽が生まれてまもなく、父春水は広島藩の儒官となった。学問の力で町人から武士となったのだ。

 子供の頃、山陽は非常に体が弱かった。ただ、厳格な父は初めのうち、息子を「病気」だと認めようとしなかった。さらに儒官の父は、藩主の供をして江戸へ出ているときが多く、広島の留守宅は母親と病弱の子供の母子家庭みたいなものになっていた。そして父は時々、藩主と一緒に藩に戻ってきて、息子を厳格に叱り、躾けようとする。ただその途中で江戸へ出てしまう。すると、母は寂しがり、またそれを平気で言動に出す人だったから、その寂しさが全部子供にかかってくる。そこで、山陽は溺愛される。この溺愛と厳格とを交互に繰り返される。こんなところから、山陽のいろいろな性格上の特異な点が強く出てきたものと思われる。

 山陽は生涯に3度、この環境からの脱出を図っている。一度はせっかく入学した「江戸昌平こう」からの退学。二度目は広島藩からの脱藩。そして三度目は、先生として迎えられていた菅茶山(かんさざん)の塾からの脱走だ。中でも広島藩からの突然の脱藩は大問題となった。当時の法律では、許可なしに藩の領地を離れると、追っ手がかかり上位討ちされてしまう。しかし、山陽は病気ということで、脱走先の京都から連れ戻され、屋敷内の座敷牢に幽閉されてしまう。厳格な父も、息子山陽の病気を認めざるを得なくなった。21歳から3年間の座敷牢生活。この間に山陽は「日本外史」の筆を執り始めたのだ。

 山陽は躁うつ病を患い、周囲を心配させつつ、次から次へ、この頼家一族および広島藩そのものに衝撃を与えるようなことをやる。そういうことを通しながら、やがて彼は自分で人生を作り上げていく。つまり、自分の可能性を好きなように伸ばすように、自分の生活を作るということを覚えていって、遂に頼山陽というあの巨大な存在にまで自分を仕立て上げたのだ。

 山陽の子も二つの生き方をした。山陽が53歳で死んだとき、京都の家には二人の男の子がいたが、兄又二郎は父山陽の学者としての面を受け継ぎ、のち東京大学の教授となった。弟三樹三郎は、父山陽の改革者としての面を受け継いだ。反体制運動の実行者として、安政の大獄に倒れた。三樹三郎は、山陽の孫弟子にあたる吉田松陰の墓の隣に葬られている。山陽の死後27年目のことだ。

 

(参考資料)奈良本辰也「不惜身命 如何に死すべきか」、童門冬二「私塾の研究」、中村真一郎「日本史探訪/国学と洋学」、司馬遼太郎「この国のかたち 一」

 

近藤重蔵 北方領土に注いだ篤い志は上層部にうるさがられ左遷の連続

近藤重蔵 北方領土に注いだ篤い志は上層部にうるさがられ左遷の連続

 九州の大宰府に左遷された菅原道真や、豊臣秀吉に切腹を命じられた千利休らとは格は違い、それほど有名ではないが、北辺の探検家だった近藤重蔵も江戸幕府の実力者に疎まれて、左遷に次ぐ左遷の中で生き、死んだ後、人々から「雷」になったと噂された。それは彼が死ぬ前「俺は死んだら必ず雷になって、択捉島や樺太の守護神になる」としきりに告げていたからだ。したがって、近藤重蔵の雷への変身願望は、個人的な怨念を晴らすためではなく、あくまでも北方領土防衛のために、死んだ後も闘い続けるという意気が込められている。

 近藤重蔵は終始一貫して北方領土に深い愛情を注いだ志の高い日本人だった。しかし彼の篤い志は、必ずしも幕府上層部の受け容れるところとはならなかった。むしろ、彼の頑固一徹の性格も災いして、志が篤過ぎたために、かえってうるさがられ、遠ざけられてしまったのだ。

 近藤重蔵は江戸時代後期の幕臣、探検家。御先手組与力、近藤右膳守知の三男として江戸駒込に生まれた。諱は守重(もりしげ)、号は正斎・昇天真人。間宮林蔵、平山行蔵とともに“文政の三蔵”と呼ばれる。山本北山に儒学を師事。同門に太田錦城・小川泰山・太田全斎がいる。幼児の頃から神童といわれ、8歳で四書五経を諳んじ、17歳で私塾「白山義学」を開くなど、並々ならぬ学才の持ち主だった。生涯、六十余種千五百余巻の著作を残している。生没年は1771(明和8年)~1829年(文政12年)。

 父の隠居後の1790年(寛政2年)、御先手組与力として出仕。火附盗賊改方としても勤務。1794年(寛政6年)には松平定信が行った湯島聖堂の学問吟味において最優秀の成績で合格。1795年(寛政7年)、長崎奉行手付出役、1797年(寛政9年)に江戸へ帰参し支払勘定方、関東郡代付出役と栄進した。

 1798年(寛政10年)、幕府に北方調査の意見書を提出して松前蝦夷地御用取扱。4度、蝦夷地(北海道)へ赴き、最上徳内と千島列島、択捉島を探検、同地の「大日本恵土呂府(えとろふ)」の標柱を立てた。松前奉行設置にも貢献。蝦夷地調査、開拓に従事し、貿易商人の高田屋嘉兵衛に国後から択捉間の航路を調査させた。

 1803年(享和3年)、譴責により小普請方。1807年(文化4年)にロシア人の北方侵入に伴い、再び松前奉行出役となり、5度目の蝦夷地入り。その際、利尻島や現在の札幌市周辺を探索。江戸に帰国後、十一代将軍徳川家斉に謁見を許された。その際、札幌地域の重要性を説き、その後の札幌発展の先鞭をつけた。

 1808年(文化5年)、江戸城紅葉山文庫の書物奉行となる。しかし、自信過剰で豪胆な性格が見咎められ、1819年(文政2年)、大坂勤番弓矢奉行に左遷。1821年(文政4年)、小普請入差控を命じられて江戸滝ノ川村に閉居。1826年(文政9年)、長男の近藤富蔵が町民を殺害して八丈島に流罪となり、連座して近江国大溝藩にお預けの身となった。

 

(参考資料)童門冬二「江戸の怪人たち」、杉本苑子「癖馬」 、司馬遼太郎「街道をゆく37」

 

 

三浦鞍針 俸禄を与えられ徳川家康に仕えた英航海士・貿易家

三浦鞍針 俸禄を与えられ徳川家康に仕えた英航海士・貿易家

 三浦鞍針ことウイリアム・アダムスは、江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイギリス人航海士・水先案内人・貿易家だ。家康から俸禄とともに、「三浦鞍針」という日本の名を与えられ、異国人でありながら、日本の武士として生きるという数奇な境遇のもとで、その生涯を終えた。奇人、ウイリアム・アダムスの生没年は1564~1620年。

 イングランド南東部のケント州ジリンガムの生まれ。船員だった父親を亡くして故郷を後にし、12歳でロンドンのテムズ川北岸にあるライムハウスに移り、船大工の棟梁ニコラス・ディギンズに弟子入り。造船術より航海術に興味を持つ少年だったという。

 ウイリアム・アダムスが、自身の人生を大きく変えることになったのは、1598年、弟のトーマスらとオランダのロッテルダムから極東を目指す、5隻からなる船団の航海士として乗船したことだった。ウイリアム・アダムス34歳のときのことだ。彼は英国海軍の貨物補給船に身を置き、海戦にも参加したことがあったが、当時は軍を離れて「バーバリー商会ロンドン会社」の航海士・船長として北方航路やアフリカへの航海で多忙で、ほとんど家にいることはなかったらしい。そして、25歳のときに結婚したメアリー・ハインとの間に娘デリヴァレンスと息子ジョンの二子をもうけていた。

 極東を目指した航海は惨憺たるありさまで、マゼラン海峡を抜けるまでに、スペイン船に拿捕される船、沈没する船が出る一方、インディオの襲撃に遭うなど次々に船員を失った。弟のトーマスもインディオに殺害された。その結果、極東に到着したのはウイリアム・アダムスが航海士として乗船していたリーフデ号1隻で、出航時110人だった船員は、日本到着までに24人に減っていた。

 1600年(慶長5年)リーフデ号は豊後の臼杵に漂着した。疲労と憔悴で、自力では上陸できなかった乗組員は、臼杵城主、太田一吉の出した小船でようやく日本の土を踏んだ。その後、当時、豊臣政権の下で五大老首座だった徳川家康がアダムス、ヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン、メルキオール・ファン・サントフォールトらを初めて大阪で引見。

イエズス会士の注進でリーフデ号を海賊船だと思い込んでいた家康は、路程や航海の目的、オランダや英国など新教国とポルトガル・スペインら旧教国との紛争を臆せず説明するアダムスとヤン=ヨーステンを気に入って誤解を解いた。家康はしばらく彼らを投獄したものの、何度か彼らを引見した後、釈放。そして城地の江戸へ彼らを招いた。

 江戸に到着後、アダムスは繰り返し英国への帰国願いを出したが叶わず、家康は米や俸禄を与えて慰留。外国使節との対面や外交交渉に際して通訳を任せたり、助言を求めることが多かった。この時期、幾何学や数学、航海術などの知識を家康以下の幕閣に授けたといわれている。帰国を諦めつつあったアダムスは1602年頃、日本橋大伝馬町の名主で家康の御用商人でもあった馬込勘解由の娘、お雪(マリア)と結婚。彼女との間に息子のジョゼフと娘のスザンナが生まれている。

 結婚し家族を得たことでアダムスは精神的に安定、家康の意向に沿って動いている。船大工としての経験を買われて、伊東に日本で初めての造船ドックを設けて80㌧の帆船を建造した。1604年(慶長9年)完成すると、家康は気を良くしてアダムスに大型船の建造を指示、1607年には120㌧の船舶を完成させた。

 この功績を賞した家康は、更なる慰留の意味もあってアダムスを250石取りの旗本に取り立て、帯刀を許したのみならず、相模国逸見(へみ)に采地も与えた。また、三浦鞍針の名乗りが与えられた。まさに、破格の扱いだ。“三浦”は領地のある三浦半島に因むもので、“鞍針”は彼の職業で水先案内人の意。この結果、彼は異国人でありながら、日本の武士として生きるという数奇な人生を送ることになった。この所領は息子のジョゼフが相続し、三浦鞍針の名乗りもジョゼフに継承されている。

 鞍針の墓は長崎県平戸市の「崎方公園」にある。また、神奈川県横須賀市西逸見(にしへみ)町の「塚山公園」には鞍針夫妻の慰霊碑があり、1923年、国の史跡に指定された。

 

(参考資料)白石一郎「航海者」、邦光史郎「物語 海の日本史 三浦按針」

 

 

南方熊楠 粘菌研究で知られる破天荒な博物・生物学者

南方熊楠 粘菌研究で知られる破天荒な博物・生物学者

 南方熊楠は博物・生物・民俗学者で、柳田國男とともに日本の民俗学の草創者だ。とくに菌類学者として、動物の特徴と植物の特徴を併せ持つ粘菌の研究で知られている。熊楠の「熊」は熊野本宮大社、「楠」はその神木クスノキに因んでの命名という。主著に「十二支考」「南方随筆」などがある。生没年は1867年(慶応3年)~1941年(昭和16年)。萎縮腎により自宅で死去。満74歳。

 熊楠は子供の頃から驚異的な記憶力を持つ神童だった。また常軌を逸した読書家でもあり、蔵書家の家で100冊を超える本を見せてもらい記憶、家に帰ってその記憶をたどり書写するという特殊な能力を持っていた。9歳の時、儒者で医師でもあった寺島良安が編纂した厖大な百科事典「和漢三才図会」の筆写を始め、5年かけ全105巻を筆写した。

このほか、9歳から12歳にかけて、植物学大事典ともいうべき明の李時珍が著した「本草綱目」52巻21冊、「諸国名所図会」、「日本紀」、貝原益軒の「大和本草」なども筆写したという。何日も家に帰らず、山中で昆虫や植物を採集することがあり、「てんぎゃん(天狗)」というあだ名があった。

 子供の頃の性格はその後も変わることなく、1884年、大学予備門(現在の東京大学)に入学するが、彼は学業そっちのけで遺跡発掘や菌類の標本採集などに明け暮れた。同窓生には塩原金之助(夏目漱石)、正岡常規(正岡子規)、秋山真之、山田美妙などがいた。

 熊楠は1892年、渡英しロンドンの天文学会の懸賞論文に1位で入選した。大英博物館東洋調査部に入り、資料整理に尽力。人類学・考古学・宗教学などを独学するとともに、世界各地で発見、採集した地衣・菌類に関する記事を科学雑誌「Nature」などに次々と寄稿した。1897年にはロンドンに亡命中の孫文と知り合い、親交を始めている。孫文32歳、熊楠31歳のことだ。

 帰国後は和歌山県田辺町(現在の田辺市)に居住し、柳田國男らと交流しながら、卓抜な知識と独創的な思考によって、日本の民俗、伝説、宗教を広範な世界の事例と比較して論じ、当時としては早い段階での比較文化人類学を展開した。

 菌類の研究では新しい70種を発見し、また1917年(大正6年)自宅の柿の木で粘菌新属を発見。これが1921年(大正10年)“ミナカテルラ・ロンギフィラ”(Minakatella longifila 長糸南方粘菌)と命名された。1929年には田辺湾神島(かしま)沖の戦艦「長門」艦上で、紀南行幸の昭和天皇に進講する栄誉を担っている。

 熊楠はエキセントリックな行動が多く、酒豪だったが半面、酒にまつわる失敗も多かった。語学には極めて堪能で英語、フランス語、ドイツ語はもとより、サンスクリット語におよぶ19カ国語の言語を操ったといわれる。

 田辺では1906年に布告された「神社合祀令」によって神社林、いわゆる「鎮守の森」が伐採されて生物が絶滅したり、生態系が破壊されてしまうことを憂い、熊楠は1907年より神社合祀反対運動を起こした。今日、この運動は自然保護運動、あるいはエコロジー活動の先駆けとして高く評価されており、その活動は2004年に世界遺産(文化遺産)にも登録された「熊野古道」が今に残る端緒ともなっている。

 

(参考資料)鶴見和子「南方熊楠」、神坂次郎「縛られた巨人-南方熊楠の生涯」

      津本陽「巨人伝」

本居宣長 ライフワークとして「古事記伝」全44巻を著した国学者

本居宣長 ライフワークとして「古事記伝」全44巻を著した国学者

 本居宣長は生涯、桜を愛した国学の大成者だ。当時すでに解読不能に陥っていた「古事記」の解読に成功し、「古事記伝」を著した。このように表現すると、堅苦しい、文人気質の学者タイプの人物を想像してしまうが、実際はかなり違ったようだ。確かに本居宣長は常軌を逸した振る舞いが非常に嫌いで、日々の生活態度がかなり厳格な人だった。ところが、彼は医師だった関係で、日々の患者のこと、調剤のこと、謝礼のことなどを、実に細かくつけていたのだ。また、23歳の春、医師になるため京都に留学したが、彼の「在京日記」をみると、勉強もしたが、相当遊びもしたのではないかと思われる。とくに歌舞伎は相当通であったことがうかがえるし、乗馬をしたり、お茶屋へも遊びに行ったのではないかと思われ、酒も相当飲め、とくにタバコが好きだったようだ。その意味では、当然必要だったとはいえ、また青年時代のこととはいえ、従来のイメージの、真面目で、ストイックで、文人気質一辺倒とは裏腹の、日常性に徹するというか、とにかく普通の生活者タイプの学者だったといえる。

 本居宣長は伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)の木綿問屋、小津三四右衛門定利(おづさじえもんさだとし)の次男として生まれた。幼名は富之助。名は栄貞。通称は瞬庵、春庵(しゅんあん)、鈴屋大人(すずやのうし)と号した。

 伊勢商人は近江商人と並んで、各地の大都会に繰り出して商売を広げてきた。とくに江戸の大伝馬町には、伊勢店(いせだな)と呼ばれる出店がずらりと軒を並べて、手広く松坂木綿を商っていた。しかし江戸の出店の経営は、支配人に任せ、主人は松坂に住んで、趣味的な生活を送る-。これが伊勢松坂の木綿問屋なのだ。宣長の父もまた、そのような旦那衆の一人だった。

 ところが、任せていた支配人の過ちから父は家産を失い、宣長が11歳のとき失意の中で病死した。江戸の出店も、松坂の本宅も整理された。宣長は母かつの手で育てられ、叔父の江戸の店で商いの見習いもしたが、本を読めぬ生活を嫌い帰郷。小さいときからおとなしく、書物が好きだった宣長をみて、母は彼を商人よりも、医者にすることにした。京都に留学した宣長は、堀景山という儒学者の家に寄宿。まず儒学を学び、その後、小児科の医者を目指して5年4カ月を京の都で学んだ。

 28歳。松坂に帰った宣長は、小児科医として開業し、診察、往診、家伝の子供用の飴薬作りもした。そして、忙しい間を縫いながら、なお独力で古典研究を続けた。とくに賀茂真淵の著書を読み、その学問に傾倒した。こうして医業と学問の生活を続けて5年余り。結婚し、長男(後の本居春庭)も生まれたその年の初夏、かねてから心の師と仰ぐ賀茂真淵との対面が実現。1763年(宝暦13年)、賀茂真淵67歳、本居宣長34歳だった。

 真淵は国学者としてすでに名声が高く、国学研究の究極は「古事記」にあり、と考えていた。そして、その「古事記」研究の前段階として「万葉集」の研究が必要だと考えていた真淵は、すでにこれを完成していた。しかし、真淵は「万葉集」の研究に多くの歳月を失い、「古事記」研究を成し遂げるには老い過ぎたことを自覚していた。一方、宣長もまた、古典研究の最終テーマは「古事記」にあると考えていた。同じ志を持つ者の、熱い思いに駆られた二人は、夜の更けるのも忘れて語り明かした。

 真淵は自分の「万葉集」の研究成果を基礎にして、「古事記」の研究を大成するよう宣長を励まし、自らの注釈を施した「古事記」の書入れ本を宣長に託した。二人はここに師弟の縁を結び、宣長は正式に真淵の門人に名を連ね、江戸と松坂の間を書簡で結んで学び合った。しかし、この師弟が直接会って言葉を交わしたのはこの時の面会が最初で最後だった。

 宣長は、真淵から託された「古事記」の研究にそのすべてを注ぎ込んだ。以来、およそ30年、古い茶室を改造して住まいの二階に付け加えた、四畳半にも満たない「鈴屋」と名付けた狭い書斎で続けられた。1798年(寛政10年)、宣長は遂に「古事記伝」全四十四巻を完成した。35歳から始めて69歳まで、実に34年が経過していた。ライフワークを果たした宣長は、その喜びを友人に書き送り、鈴屋に知人や門下生を集めて祝賀の歌の会を催した。

 

(参考資料)西郷信綱「日本史探訪/国学と洋学」、童門冬二「私塾の研究」、司馬遼太郎・ドナルド・キーン対談「日本人と日本文化」

福沢諭吉 「天は人の上に人を造らず…」で門閥制度を嫌った啓蒙思想家

 

福沢諭吉 「天は人の上に人を造らず…」で門閥制度を嫌った啓蒙思想家

 福沢諭吉は封建社会の門閥制度を嫌った。中津藩士で、儒学に通じた学者でもあったが、身分が低いため身分格差の激しい中津藩では名をなすこともできずにこの世を去った父と幼少時に死別、母の手一つで育てられたためだ。福沢は『福翁自伝』の中で「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」とさえ述べている。『学問のすすめ』の冒頭に記されている「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」という有名な人間平等宣言も、こうした生い立ちがその根底にある。そのため、明治維新後、新政府からの度々の出仕要請も断り、もっぱら民間にあって慶応義塾の教育と国民啓蒙のための著作とを使命とする態度を変えなかった。福沢の生没年は1834(天保5)~1901年(明治34年)。

 明治時代の啓蒙思想家で慶応義塾の創立者、福沢諭吉は大坂の中津藩蔵屋敷で十三石二人扶持の藩士、福沢百助とお順の二男三女の末っ子として生まれた。わずか2歳のとき父と死別、母子一家は中津(現在の大分県中津市)へ帰った。現在、中津市内に福沢旧邸が昔のままに保存されているが、これは二度目の住居であり、中津帰郷当初住んでいた家は倒壊寸前のひどい荒屋(あばらや)だったという。その荒屋で姉たちと福沢は、18歳までの歳月を送った。

1854年(安政1年)、福沢は長崎へ蘭学修行に出て、翌年大坂の緒方洪庵の適々塾に入門。1856年(安政3年)、兄三之助が病死し福沢家を継ぐが、適々塾に戻り、1858年、藩命で江戸中津藩屋敷に蘭学塾を開くことになった。これが後の慶応義塾に発展する。   

1859年、福沢は横浜に遊び、愕然とすることになった。開港されて、外国人の行き交う姿が珍しくない横浜の街で見かける看板は、オランダ語ではなく、英語が幅を利かせていたからだ。これまで必死で学んできた蘭学の無力さを痛感。英学に転向、以後、独学で英学に取り組む。

 1860年(万延1年)、福沢は咸臨丸に艦長の従僕として乗り込み渡米。1862年(文久2年)には幕府遣欧使節団の探索方として仏英蘭独露葡6カ国を歴訪。1864年(元治1年)に幕臣となった。1866年(慶応2年)、既述の洋行経験をもとに『西洋事情』初編を書き刊行。欧米諸国の歴史、制度の優れた紹介書となった。

1867年(慶応3年)、幕府遣米使節に随従するが、このとき福沢は、幕府はもうどうにもならぬと見当をつけていたので、自分の手当から公金まで全部動員して書物を買い込んだ。大中小の各種辞書、経済書、法律書、地理書、数学書など大量に持ち帰った。そのため、福沢は勝手に大量の書物を買い込んだかどで、帰国後3カ月の謹慎処分を受けた。しかし、そのお陰で、後述するように、福沢の慶応義塾では、生徒一人ひとりがアメリカ版の原書を持たせてもらって、授業を受けることができたので、次第に人気が高まるのだ。

 1868年(明治1年)、福沢はこれまでの家塾を改革し、慶応義塾と称し「商工農士の差別なく」洋学に志す者の学習の場とした。同年5月15日、上野の彰義隊戦争の最中、福沢は大砲の音を聞きながら、生徒を前にして経済学の講義をしていたという。同年、幕臣を辞し、中津藩の扶持も返上。明治新政府からの度々の出仕要請も断った。1871年の廃藩置県を歓迎した彼は、国民に何をなすべきかを説く『学問のすすめ』初編(1872年刊)を著す。冒頭に「天は人の上に人を造らず…」というあの有名な人間平等宣言を記すとともに、西洋文明を学ぶことによって「一身独立、一国独立」すべきだと説いた。この書は当時の人々に歓迎され、第17編(1876年)まで書き続けられ、総発行部数340万部といわれるベストセラーとなった。これにより、福沢は啓蒙思想家としての地位を確立した。

 『学問のすすめ』(明治5~9年刊)や『文明論之概略』(明治8年刊)などを通じて、明治初年から10年ごろまでのわが国開明の機運は、福沢によって指導されたといっても過言ではない。1882年(明治15年)には『時事新報』を創刊して、この後、福沢の社会的な活動はすべてこの媒体で展開され、新聞人としても多大な成功を収めた。晩年の著作の「福翁自伝」(明治32年刊)は日本人の自伝文学の最高峰として定評がある。

 

(参考資料)百瀬明治「適塾の研究」、奈良本辰也「男たちの明治維新」、小島直記「福沢山脈」、小島直記「無冠の男」、司馬遼太郎「この国のかたち 三」

 

 

 

中江藤樹 身分の上下を超えた平等思想を説いた「近江聖人」

中江藤樹 身分の上下を超えた平等思想を説いた「近江聖人」
 中江藤樹は江戸初期の儒学者で、わが国の陽明学の祖だ。藤樹が説いたのは、身分の上下を超えた平等思想に特徴があり、武士だけでなく商・工人まで広く浸透し、没後、彼は「近江聖人」と称えられた。代表的門人に熊沢蕃山、淵岡山、中川謙叔がいる。生没年は1608(慶長13年)~1648年(慶安元年)。
 中江藤樹は近江国小川村(現在の滋賀県高島市安曇川町上小川)で、農業を営む中江吉次の長男として生まれた。字は原(はじめ)、諱は惟命(これなが)、通称は与右衛門(よえもん)。別号は珂軒(もくけん)、顧軒(こけん)。9歳のとき伯耆国(現在の鳥取県)米子藩主加藤家の150石取りの武士、祖父中江吉長の養子となり、米子に赴く。1617年(元和2年)、米子藩主加藤貞泰が伊予大洲藩(現在の愛媛県)に国替えとなり、藤樹は祖父母とともに移住する。1622年(元和8年)、祖父が亡くなり、藤樹は家督100石を相続する。
 1632年(寛永9年)、郷里の近江に帰省し、母に伊予での同居を勧めるが、拒否される。藤樹は学者として藩内の武士たちに「孝を尽くせ」と教えながら、自分が近江の琵琶湖畔に母親を一人残していることに悩み続けた。そのため、思い悩んだ藤樹は1634年(寛永11年)、27歳で母への孝行と健康上の理由により、藩に対し辞職願いを提出するが、拒絶される。そのため脱藩し、京に潜伏の後、郷里の小川村に戻った。そこで母に仕えつつ、私塾を開き学問と教育に励んだ。1637年(寛永14年)、藤樹は伊勢亀山藩士・高橋小平太の娘、久と結婚する。藤樹の居宅に藤の老樹があったことから、門下生から“藤樹先生”と呼ばれるようになる。塾の名は「藤樹書院」という。藤樹はやがて朱子学に傾倒するが、次第に陽明学の影響を受け、「格物致知論」を究明するようになる。
 「格物致知」を朱子学、陽明学、藤樹のそれぞれの流派に沿って読み下すと次のような違いがある。
朱子学-物に格(いた)り知を致(いた)す
陽明学-物を格(ただ)し知を致(いた)す
藤 樹-物を格(ただ)し知に致(いた)る
 1646年(正保3年)、妻久が死去。翌年、近江大溝藩士・別所友武の娘、布里と再婚する。1648年(慶安元年)、藤樹が亡くなる半年前、郷里の小川村に「藤樹書院」を開き、門人の教育拠点とした。江戸時代の「士農工商」という厳然とした階級社会にあって、その説くところは画期的な、身分の上下を超えた平等思想にあった。そのため、その思想は武士だけでなく、商・工人まで広く浸透した。没後、藤樹先生の遺徳を称えて、「近江聖人」と呼ばれた。
 中江藤樹には様々な著作があるが、そのうち1640年(寛永17年)に著した『翁問答(おきなもんどう)』にある言葉を紹介しよう。
○「父母の恩徳は天よりもたかく、海よりもふかし」
 父母から受けた恵みの大きさはとても推し量ることができない。どんな父母もわが子を大きく立派に育てるために、あらゆる苦労を惜しまないものだ。ただ、その苦労をわが子に語ることはしないので、そのことが分からないのだ。
○「それ学問は心のけがれを清め、身のおこなひをよくするを本実とす」
 本来、学問とは心の中の穢れを清めることと、日々の行いを正しくすることにある。高度な知識を手に入れることが学問だと信じている人たちからすれば、奇異に思うかも知れないが、そのような知識の詰め込みのために、かえって高慢の心に深く染まっている人が多い。
○「人間はみな善ばかりにして、悪なき本来の面目をよく観念すべし」
 私たちは姿かたちや社会的地位、財産の多寡などから、その人を評価してしまう習癖がある。しかし、すべての人間は明徳という、金銀珠玉よりもなお優れた最高の宝を身につけてこの世に生をうけたのだ。それゆえ、人間はすべて善人ばかりで、悪人はいない。
こうしてみると、中江藤樹の教えは、まさに、“人間賛歌”の言葉だといわざるを得ない。江戸時代初期の儒学者ながら、身分の上下を超えた平等思想を説いた、“近江聖人”の呼び名そのものだ。

(参考資料)内村鑑三「代表的日本人」、童門冬二「中江藤樹」、童門冬二「私塾の研究」

中江兆民 日本の自由民権運動の理論的指導者でジャーナリスト

中江兆民 日本の自由民権運動の理論的指導者でジャーナリスト
 中江兆民はフランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーを日本へ紹介して自由民権運動の理論的指導者だったことで知られ、「東洋のルソー」と評された。第一回衆議院議員総選挙当選者の一人だ。彼の名を不朽にしたのは著述活動で、明治15年、36歳のとき出版した『民約訳解』、明治20年、41歳のとき出版の『三酔人経綸問答』の二つがとくに注目される。
1865年(慶応元年)、土佐藩が派遣する留学生として長崎へ赴きフランス語を学んだが、このとき郷士の先輩、坂本龍馬と出会っており、龍馬に頼まれてたばこを買いに走ったなどの逸話を残している。江戸時代後期から明治の思想家、ジャーナリスト、政治家。生没年は1847(弘化4年)~1901年(明治34年)。
 兆民は土佐藩足軽の元助を父に、土佐藩士青木銀七の娘、柳を母として高知城下の山田町で生まれた。兆民は号で、「億兆の民」すなわち「大衆」という意味。「秋水」とも名乗り、弟子の幸徳秋水(伝次郎)に譲り渡している。本名は篤介(とくすけ、篤助)。幼名は竹馬(ちくま)。中江家は初代伝作が1766年(明和3年)に郷士株を手に入れ、新規足軽として召し抱えられて以来の家系で、兆民は四代にあたる。長男の丑吉は1942年(昭和17年)に実子のないまま死去し、中江家は断絶している。
 兆民は15歳のとき父を失って家督を継ぎ、翌年藩校文武館開校と同時に入学。漢学、英学、蘭学を学び、19歳のとき、土佐藩留学生として英学収容のため長崎へ派遣された。長崎には土佐藩の長崎商会、正式には開成館貨殖局長崎出張所があった。その商会の経営を任されていたのが岩崎弥太郎だった。また、坂本龍馬の海援隊があった。
  1866年(慶応2年)、兆民は江戸へ出て、1871年(明治4年)洋学者・箕作秋坪(みつくりしゅうへい)の「箕作塾三叉(さんさ)学舎」に入門。どうしてもフランスに行きたいと思っていた彼は政府中、最大の実力者、大久保利通に直談判し成功。同年、岩倉ヨーロッパ使節団の一員に加わって留学生となった。1874年(明治7年)アメリカを経てフランスに入り、リヨンやパリで学ぶが、このころルソーの著書に出会い、パリで西園寺公望や岸本辰雄、宮崎浩蔵らと親しくなった。
 1874年(明治7年)帰国し、東京で仏学の私塾「仏蘭西学舎」を開き、ルソーの著書『民約論』や『エミール』などをテキストとして使用する。1875年(明治8年)、明治政府より元老院書記官に任命されるが、翌年辞職。『英国財産相続法』などの翻訳書を出版する。
 1881年(明治14年)、西園寺公望とともに「自由」の名を冠した東洋最初の日刊紙(新聞)『東洋自由新聞』を東京で創刊(西園寺公望・社長、中江兆民・主筆)した。同紙はフランス流の思想をもとに自由・平等の大義を国民に知らせ、民主主義思想の啓蒙をしようとしたものだ。当時勃興してきた自由民権運動の理論的支柱としての役割を担うが藩閥政府だった明治政府を攻撃対象としたため、政府の圧力が強まった。
とくに九清華家(せいがけ)の一つ、京都の公家だった西園寺が、明治政府を攻撃する新聞を主宰することの社会的影響を恐れた三条実美、岩倉具視らは、明治天皇の内勅によって西園寺に新聞から手を引かせたため、結局同紙は「東洋自由新聞顛覆(てんぷく)す」の社説を掲げて第34号で廃刊となった。
 1882年(明治15年)仏学塾を再開し、『政理叢書』という雑誌を発行。1762年に出版され、フランス革命の引き金ともなったジャン・ジャック・ルソーの名著『民約論』の抄訳『民約訳解』をこの雑誌に発表してルソーの社会契約・人民主権論を紹介した。また、自由党の機関誌「自由新聞」に社説掛として招かれ、明治政府の富国強兵政策を厳しく批判。1887年『三酔人経綸問答』を発表。三大事件建白運動の中枢にあって活躍し、保安条例で東京を追放された。
そこで兆民は大阪へ行くことを決意。1888年以降、保安条例による“国内亡命中”なのに、大阪の『東雲(しののめ)新聞』主筆として普通選挙論、部落開放論、明治憲法批判など徹底した民主主義思想を展開した。
前年、保安条例による東京追放が解除されたため、1890年の第一回総選挙に大阪4区から立候補し当選したが、予算削減問題で自由党土佐派の裏切りによって政府予算案が成立したことに憤慨、衆議院を「無血虫の陳列場」とののしって、議員を辞職した。まさに怒りの辞職だった。
 漢語を駆使した独特の文章で終始、明治藩閥政府を攻撃する一方、虚飾や欺瞞を嫌ったその率直闊達な行動は、世人から奇行とみられた。
ところで、意外なことに兆民は、学者、思想家、役人、代議士などの経歴に自ら決別して、実業家を志したことがあった。明治25年、46歳のときのことだ。しかし、次から次に手をつけたが、ことごとく失敗に終わった。札幌での紙問屋を皮切りに、北海道山林組、帰京して毛武鉄道、川越鉄道、常野鉄道などの交通事業に関係し、また京都パノラマ、中央清潔会社に手をつけたが、一つとして成功しなかった。
 主な著書に明治34年に出版された随想集『一年有半』、兆民哲学を述べた書『続一年有半』などがある。この中には、様々な人物を俎上に挙げたユニークな人物論があり、おもしろい。彼は議論、時事評論の最も優れた人として5人を挙げている。福沢諭吉、福地桜痴(源一郎)、朝比奈碌堂、徳富蘇峰、陸羯南だ。また、近代における非凡人として31人を選んでいる。藤田東湖、猫八、紅勘、坂本龍馬、柳橋、竹本春太夫、橋本左内、豊沢団平、大久保利通、杵屋六翁、北里柴三郎、桃川如燕、陣幕久五郎、梅ヶ谷藤太郎、勝安房(勝海舟)、円朝、伯円、西郷隆盛、和楓、林中、岩崎弥太郎、福沢諭吉、越路太夫、大隅太夫、市川団洲、村瀬秀甫、九女八、星亨、大村益次郎、雨宮敬次郎、古河市兵衛。伊藤博文、山県有朋、板垣退助、大隈重信など、ときの政界の大物を入れず、多くの芸人を挙げているところに、兆民らしい反骨ぶりが出ている。
 両著ともに人気を呼び、売れに売れた。そして、そんな状況に胸をなでおろして?か、兆民は両著が出版された明治34年暮れ、54年の生涯を閉じた

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」、司馬遼太郎「この国のかたち 一」、小島直記「無冠の男」、小島直記「逆境を愛する男たち」、三好徹「近代ジャーナリスト列伝」

竹本義太夫 人形浄瑠璃の歴史上不朽の名をとどめる、義太夫節の開祖

竹本義太夫 人形浄瑠璃の歴史上不朽の名をとどめる、義太夫節の開祖
 人形浄瑠璃は江戸時代の民衆の中から生まれた、日本が世界に誇る伝統芸能だ。最近は若い男女の間にも年々愛好者が増えているという。この日本の誇る伝統芸能、人形浄瑠璃の歴史上に、不朽の名をとどめるのが、竹本義太夫だ。江戸時代の浄瑠璃太夫、義太夫節の開祖だ。
 竹本義太夫が摂津国(大坂)で農家に生まれたのは1651年(慶安4年)だ。この年、三代将軍家光が亡くなり、由比正雪の事件が発生している。本名は五郎兵衛。小さいときから音曲の道に趣味があった。初期には清水理太夫と名乗った。
 義太夫節は、中世から近世にかけて広く一般民衆の間で享受された平家琵琶や幸若、説経節などの「語り物」の流れを受け継いでいる。とくに竹本義太夫に先駆けて、万治・寛文期(1658~1672年)に一世を風靡した「金平浄瑠璃」は、この時代の「語り物」の姿をよく表している。これは酒呑童子の物語を発展させたもので、坂田金時の子で、金平という超人的な勇士を仮想し、これが縦横に活躍するストーリーを骨子とするものだった。この金平節を語り出した江戸の和泉太夫は、二尺もある鉄の太い棒を手にして拍手を取ったと伝えられるほど、その語り口は豪快激越だった。
 現在では浄瑠璃を語るということは、そのまま義太夫節を語るという意味に使われているが、もともと義太夫節は数ある浄瑠璃の中の一つで、浄瑠璃の総称ではない。浄瑠璃には常磐津もあれば、清元、新内、一中節もある。それが、もう今、浄瑠璃といえば義太夫節を指すようにいい、いわば浄瑠璃が義太夫節の代名詞のようになっているということは、それだけ竹本義太夫の存在が大きかったからだ。
 1684年(貞享元年)、大坂道頓堀に竹本座を開設し、1683年に刊行された近松門左衛門・作の「世継曽我」を上演した。翌年から近松門左衛門と組み、多くの人形浄瑠璃を手掛けた。近松が竹本座のために書き下ろした最初の作品は「出世景清」。竹本義太夫以前のものを古浄瑠璃と呼んで区別するほどの強い影響を浄瑠璃に与えた。厳密にはこの「出世景清」以前が古浄瑠璃、「出世景清」以降が当流浄瑠璃と呼ばれる。1701年(元禄14年)に受領し筑後掾と称した。  
1703年には近松の「曽根崎心中」が上演され、大当たりを取った。これは大坂内本町の醤油屋、平野屋の手代、徳兵衛と、北の新地の天満屋の女郎、お初とが曽根崎天神の森で情死を遂げたという心中事件を取り扱ったもので、まさにその当時の出来事をそのまま劇化して舞台に仕上げたところに、同時代の観衆を強く惹きつけた点があり、日本演劇史上でも画期的な意味を持つものだった。近松門左衛門が心血を注いで書いた詞章を、53歳の最も油の乗り切った竹本義太夫は、その一句一句に自分のすべての技量と精魂を傾けて語った。「曽根崎心中」で示された義太夫の芸は、二人の師匠、宇治嘉太夫と井上播磨掾の芸を見事に乗り越え統合したものだった。そこに、義太夫の新しい個性の発見があったのだ。この大ヒットで竹本座経営が安定し、座元を引退して竹田出雲に引き継いだ。
 竹本義太夫は1714年(正徳4年)、64歳で世を去った。徳川五代将軍綱吉の時代、幕府側用人として幕政を担当した柳沢吉保が没し、大奥の中老絵島が流刑された年にあたる。竹本義太夫が千日前の地で没して、すでに300年近い歳月が流れている。

(参考資料)長谷川幸延・竹本津大夫「日本史探訪/江戸期の芸術家と豪商」

西周 慶喜の政治顧問を務め、わが国に西洋の諸文明を総合的に紹介

西周 慶喜の政治顧問を務め、わが国に西洋の諸文明を総合的に紹介
 西周(にしあまね)は、大政奉還前後の期間、第十五代将軍・徳川慶喜の政治顧問を務めた人物だ。また、わが国に西洋の諸文明を初めて総合的に紹介した人物の一人で、西洋哲学の翻訳・紹介など哲学の基礎を築くことに尽力。福沢諭吉とともに西洋語の「philosophy」を音訳でなく、翻訳語として、「哲学」という言葉を創った。このほか、「芸術」「理性」「科学」「技術」「主観」「客観」「帰納」「演繹」など、今日ではあたり前になっている多くの哲学、科学関係の言葉は西の考案した訳語だ。
 西周は石見国津和野藩(現在の島根県津和野町)の御典医、西時義の長男として生まれた。父・西時義は、森鴎外の曽祖父・森高亮の次男で、周にとって鴎外は従兄弟の子にあたる。年齢は30歳以上違う。周の生家の川向いには親戚、鴎外の生家がある。幼名は経太郎、明治維新後、周(あまね)と称した。幼時から漢学に親しみ、1841年(天保12年)藩校養老館で蘭学を学んだ。江戸時代後期の幕末から明治初期の啓蒙家、教育者。生没年は1829(文政12)~1897年(明治30年)。
 数え年20歳のとき、朱子学に専心することを命じられ、大坂、岡山に遊学した後、藩校の教官となった。1854年、ペリー来航により江戸に派遣され、時勢の急迫を感じ、翌年脱藩して洋学に専心。1857年(安政4年)には徳川幕府の蕃書調所(ばんしょしらべしょ)の教授手伝並となり、同僚の津田真道、加藤弘之などとともに哲学ほか西欧の学問を研究。1862年(文久2年)には幕命で津田真道、榎本武揚らとともにオランダ留学し、フィセリングに法学を、またカント哲学、経済学、国際法などを学んだ。このときフリーメイソンに入会、その署名文書はライデン大学に現存する。
 1865年(慶応元年)に帰国した後、大政奉還前後においては、将軍徳川慶喜
 の政治顧問を務め、1868年(慶応4年)、幕府の沼津兵学校初代校長に就任。1870年(明治3年)、明治政府の兵部省に入り、以後、文部省、宮内省などの官僚を歴任。軍人勅諭、軍人訓戒の起草に関係するなど、軍制の整備とその精神の確立に努めた。
 軍人勅諭、正確には『軍人に賜りたる勅諭』は、西周が起草し、井上毅が全文を検討し、福地源一郎が兵にも分かるように、文章をやわらかくした。公布されたのは1882年(明治15年)だった。
 周は1873年(明治6年)、森有礼、福沢諭吉、加藤弘之、中村正直、西村茂樹、津田真道らとともに「明六社」を結成し、翌年から機関誌「明六雑誌」を発行。西洋哲学の翻訳・紹介に努めた。1890年(明治23年)、帝国議会開設にあたり、周は貴族院議員に任じられた。
 明治維新後の文化史を語るとき、西周は欠かすことのできない人物だが、同時代に活躍した福沢諭吉ほどよくは知られていない。それは、周が福沢のように政府の外部にあって自由主義を説く立場をとらず、体制内にあって漸進的立憲君主制の立場をとったからだ。そのため、周を“御用学者”と見做して過小に評価されている側面があるのだ。哲学、科学に限らず様々な分野で日本の近代化に貢献した功績は、再評価されてしかるべきと思われる。
 森鴎外は西周没後の1898年(明治31年)、正伝ともいうべき「西周伝」を書いている

(参考資料)司馬遼太郎「この国のかたち 四」

西郷隆盛 征韓論に敗れて下野,人間的スケールの大きさ、知名度でNo.1

西郷隆盛 征韓論に敗れて下野,人間的スケールの大きさ、知名度でNo.1
 西郷隆盛は周知の通り、大久保利通、木戸孝允と並び称される「明治維新三傑」の一人だ。そしてその人間的スケールの大きさ、知名度の点ではNo.1だろう。勝海舟に西郷という人物を観察してみろといわれた坂本龍馬は「西郷という男は、大太鼓のような男だ。大きく撞けば大きく鳴り、小さく撞けば小さく鳴る。もしバカなら大バカ、利口なら大利口だ」と報告した。分かりやすい例を挙げれば、さしずめ龍馬が西郷を撞いてできたのが、まず難しいと思われていた「薩長同盟」ということになる。西郷の生没年は1828(文政10)~1877年(明治10年)。
 第十一代薩摩藩主・島津斉彬は、当時はもちろん、後世の歴史家によっても、恐らく江戸時代を通じて有数の賢候だったといわれる人物だ。薩摩藩の若者らの中で、この斉彬に最初に見い出され、引き立てられ、最も寵愛されたのが、西郷隆盛だった。斉彬は藩主として初めて国許に帰ったとき、家中に「藩政その他について、我らの心得になるようなことがあったら、文書をもって申してくれるよう」と触れを出した。志あるものはそれぞれ建白したが、西郷もその一人だった。
 西郷の建白書は、斉彬の襲封を妨げ、その系統を絶滅させるために斉彬の子女を呪殺したり、多年にわたって悪逆の限りを尽くしてきた重臣らが、何の咎めも受けず、位にとどまっているのは、信賞必罰の政治の根本に反するばかりでなく、世の道義の観念を乱すことでもある。手始めにこうした徒輩を処分あって、終始忠誠を存した人々を賞せられるべきである-という趣旨のものだった。この建白書が斉彬の目に留まったのだ。
 時代は斉彬亡き後に移る。西郷は、島津斉彬・久光の跡取り騒動の「お由邏騒動」以来、久光を毛嫌いしていた。そのため、西郷は久光が出兵上洛するときも「(急死した前藩主)斉彬公が考えたことを、いまさらマネをしてもしようがない」と突き放す。そして、久光から「京で工作しておけ」といわれても、これを無視する。驚いた大久保利通が「どうして主君の指示通り動かないのか」と訊くと「ジゴロ(チンピラ)のいうことを聞く気はない」と答える。久光にすれば、こういう男は余計に憎いというわけだ。そこで事あるたびに、久光と西郷の間は険悪な状態になって処分(島流し)されてしまうのだ。
 その点、大久保は現実的で薩摩藩を動かすには、現在の権力者・藩主忠義の父久光を動かすことが必要と考え行動したのだ。久光が碁が好きと聞くと、久光の囲碁相手の僧に囲碁を習ったりして、久光に接近し藩の中枢に食い込んでいった。大久保もお由羅騒動で父が処分され、鬼界ヶ島に流されており、久光に決して良い感情は持っていなかったはずだが…。
 西郷は島流し(徳之島、沖永良部島)になっていたため、寺田屋騒動や薩英戦争など幕末の様々な局面に参加できなかった。しかし、それでも藩をまとめるために西郷のカリスマ性が必要といわれるのは、さすがとしか言いようがない。島から帰還してすぐ藩の志士たちをまとめ上げ、中心人物に座ってしまう。西郷の「人望の巨大さ」はやはり凄い。こんな西郷だが、探せば欠点がないわけではない。すぐに厭世的になり、隠遁したがる。自分の命を粗末にしたがる。時代の進歩に歩調を合わせようとしない-など破綻が多く、間違いが多いといえるかも知れない。しかし、そのためにかえって、西郷の人生は人間味の豊かなものとなったのではないか。
 西郷は島流しから復帰後、活躍の舞台に戻る。薩長同盟の成立、王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。新政府の参与、参議を務めるが、西郷生涯の大勝負の一つ、征韓論に敗れて下野。1877年(明治10年)、西南戦争が起こり、西郷は城山で50年の生涯を閉じた。だが、彼の名声はますます高く、国民の追慕の情は高まる一方で、政府は対応に苦慮した。
 西郷の語録『南洲翁遺訓』の一説に「命もいらず、名もいらず官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」という言葉がある。名もいらない、位もいらない、金もいらない、こういう人は実に始末に困ったものだ。しかし、このような困った人でなかったら、苦労をともにして国家の大事を成し遂げることはできない-というのだ。これは、まさしく西郷自身の自己告白の言葉だ。
 西郷隆盛は鹿児島城下の下加治屋町山之口馬場で生まれた。幼名は小吉(こきち)、長じて隆永、隆盛と名乗り、通称は吉之助(きちのすけ)で通した。号は南洲。一時、西郷三助、菊池源吾、大島三右衛門などの変名も名乗った。西郷家の家格は「御小姓与(おこしょうぐみ)」で、士分では下から二番目の身分の下級武士。次弟は戊辰戦争(北越戦争)で戦死した西郷吉二郎(隆廣)、三弟は明治維新の重鎮、従道、四弟は西南戦争で戦死した小兵衛(隆雄、隆武)。大山巖(弥助)は従弟、川村純義も親戚だ。

(参考資料)海音寺潮五郎「西郷と大久保」、海音寺潮五郎「江戸開城」、海音寺潮五郎「史伝 西郷隆盛」、童門冬二「西郷隆盛の人生訓」、奈良本辰也「男たちの明治維新」、平尾道雄「中岡慎太郎 陸援隊始末記」、加藤蕙「島津斉彬」、豊田穣「西郷従道」、「翔ぶが如く」と西郷隆盛 目でみる日本史(文芸春秋編)、海音寺潮五郎・色川大吉「日本史探訪/幕末維新の英傑たち 西郷隆盛」

 

 

杉原千畝 国家や政府の枠を超えユダヤ人にビザを発給し続けた外交官

杉原千畝 国家や政府の枠を超えユダヤ人にビザを発給し続けた外交官
 第二次世界大戦中、国家や政府の枠を超え、自らの立場や身の危険を顧みず、6000人の命を救う道を選んだ一人の日本人外交官がいた。その人物こそ、ここに取り上げる杉原千畝(すぎはらちうね)だ。杉原の生没年は1900(明治33)~1986年(昭和61年)。
 杉原千畝は海外では「センポ・スギハラ」、「東洋のシンドラー」とも呼ばれる。「ちうね」という名の発音のしにくさから千畝自身がユダヤ人に音読みで「センポ」と呼ばせたとされている。いずれにしても杉原は勇気ある人道的行為を行ったと評価され、イスラエル政府から1969年、勲章を授与された。1985年には日本人として初めて「ヤド・バジェム賞」を受賞し「諸国民の中の正義の人」に列せられた。また、リトアニア政府は1991年、杉原の功績を讃えるため、首都ヴィリニュスの通りの一つを「スギハラ通り」と命名した。
 杉原は岐阜県加茂郡八百津町で父好水、母やつの次男として生まれた。旧制愛知県立第五中学(現在の愛知県立瑞陵高等学校)卒業後、千畝が、医師になることを嘱望していた父の意に反し、1918年(大正7年)、早稲田大学高等師範部英語科(現在の教育学部)予科に入学。1919年(大正8年)、日露協会学校(後のハルピン学院)に入学。早大を中退し、外務省の官費留学生として中華民国のハルピンに派遣され、ロシア語を学んだ。そして、1920年(大正9年)12月から1922年(大正11年)3月まで陸軍に入営。1923年(大正12年)3月、日露協会学校特修科を修了。
 1924年(大正14年)、杉原は外務省に奉職。以後、満州、フィンランド、リトアニア、ドイツ、チェコ、東プロイセン、ルーマニアの日本領事館に勤務。そして1940年夏、リトアニア共和国・首都カウナスの日本領事館領事代理時代に、その後の彼の運命を変え、後世に語り継がれる“壮挙”を実行することになる。ソ連政府や日本本国からの再三、退去命令を受けながら、杉原と妻幸子は日本政府の方針や外務省の指示に背いて、ナチス・ドイツの迫害を逃れようとするユダヤ人に、1カ月あまりの間、退去する日、ベルリンへ旅立つ列車が発車する直前まで、駅のホームでビザを発給し続けたのだ。
 ナチス・ドイツに迫害されていたポーランドのユダヤ人は、中立国と思われていたリトアニアに移住した。だが1940年7月15日に親ソ政権が樹立され、ソ連がリトアニアを併合することが確実となった。そうなると、ユダヤ人たちは国外に出る自由を奪われてしまう。またヒトラーの戦略から、いずれは独ソ間で戦争が始まることも十分予想された。そのため、ソ連に併合される前にリトアニアを脱出しなければ、逃亡の経路は断たれてしまうとユダヤ人たちは予感していた。もはや一刻を争う状態だった。
 すでにポーランド、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、フランスがドイツの手に落ちていたので、ユダヤ人の逃亡手段は日本の通過ビザを取得し、そこから第三国へ出国するという経路しか残されていなかった。だが、日本の通過ビザを取るためには受入国のビザが必要だった。ソ連併合に備え領事館が撤退する中、ユダヤ人難民に対して入国ビザを発給する国がない。この窮状を解決したのが、カウナスの各国領事の中で唯一ユダヤ人に同情的だったオランダ名誉領事、ヤン・ツバルテンディクだ。ユダヤ人救済のため彼が便宜的に考えた、カリブ海に浮かぶオランダ植民地キュラソー島行きの「キュラソー・ビザ」を持ってユダヤ人が日本領事館に押し寄せた。1940年7月18日のことだ。
 杉原は7月25日に日本政府の方針、外務省の指示に背いてビザ発給を決断。以後、9月5日までユダヤ人にビザ(=渡航証明書)を発給し続けた。現在、外務省保管の「杉原リスト」には2139人の名前が記されている。その家族や公式記録から漏れている人を合わせると、杉原が助けたユダヤ人は6000人とも8000人ともいわれている。
 1947年4月、杉原は帰国。2カ月後、外務省から突然、依願免官を求められ、外務省を退職。退官後は生活のために職を転々としたが、語学力を活かし東京PXの日本総支配人や貿易商社、ニコライ学院教授、NHK国際局などに勤務。1960年から川上貿易㈱モスクワ事務所長として再び海外での生活を送ることになり、国際交易㈱モスクワ支店代表を最後に退職。日本に帰国したのは75歳のときだった。

(参考資料)杉原幸子「新版六千人の命のビザ」

山脇東洋 日本で初めて人体解剖を行った実験医学の先駆者の一人

山脇東洋 日本で初めて人体解剖を行った実験医学の先駆者の一人
 山脇東洋は江戸時代中期、日本で初めて人体解剖を行った実験医学の先駆者の一人で、このときの日本最初の人体解剖記録が、当時の医学界に大きな衝撃と影響を与え、後の時代の前野良沢、杉田玄白らのオランダ医学書のより正確性の高い翻訳事業につながっていくのだ。その意味で、山脇東洋は日本の医学の近代化に大きく貢献した人物だ。東洋の生没年は1706(宝永2)~1762年(宝暦12年)。
 山脇東洋は丹波国亀山(現在の京都府)の医家清水玄安の子として生まれた。名は尚徳、字は玄飛または子樹、号は移山、後に東洋と称した。幼いころから学問に長じ、父の没後も医学の研修に専念していたが、その才の非凡さは早くも周囲の驚異の的となっていた。
東洋が22歳のとき、父の師であった京都の医官山脇玄修の眼にとまり、山脇家の養子に迎え入れられた。山脇家は由緒ある医学界の名門であり、玄修の父玄心は宮中の侍医となり法印の位にも昇ったほどの医家。養子に入ってから数年間は、養父玄修について医を学んだが、東洋にとって気ぜわしい歳月だった。
 1727年(享保12年)養父玄修が死去したため、東洋は山脇家の家督を継いだ。そして家督相続の御礼言上の目的で京都から遠く江戸へ赴き、第八代将軍吉宗に御目見えをした。東洋24歳のことだ。翌年、法眼に任ぜられ、2年後には中御門天皇の侍医を命ぜられた。しかし、東洋は名門の当主であることに満足していなかった。
彼は一人の医家として、医学への知識追究に異常なほどの熱意を抱いていたのだ。そこで彼は当代随一の古医方の医家、後藤艮山(こんざん)に師事。後藤の医学に対する思想そのものともいえる実証精神を学んだ。その際立った業績の一つが、1746年(延享3年)、唐の王燾(おうとう)の著書『外台秘要方(げだいひようほう)』(40巻)の復刻だ。この書は幕府医官、望月三英が秘蔵していた漢方医学書で、東洋はそれを借り受けると私費で翻訳し、書物として刊行したのだ。東洋42歳のことだ。これにより彼は古医方家としての声価をいよいよ高めた。
 また、人体の内部構造についての五臓六腑説に疑いを持ち、先輩の話を聞いたり、内臓が人間に似ているといわれていた川獺(かわうそ)を自ら解剖したりしたが、疑問は解けなかった。それだけに、東洋は人体の内部を見たいという願望を熱っぽく抱くようになっていた。
そんな東洋に1754年(宝暦4年)、夢想もしなかった幸運が訪れた。それは京都六角の獄で5人の罪人が斬首刑に処せられたことから発したものだった。当時の京都所司代は若狭藩主酒井讃岐守忠用だったが、斬首刑が行われたことを知った、東洋の門人でもあった同藩の医家3人が、東洋に代わって刑屍体の解剖許可を酒井候に願い出たのだ。常識的にはそれは一蹴されるべきものであり、逆に厳しい咎めを受けかねないものだったが、所司代酒井忠用は深い理解を示して、それを許可した。その結果、東洋が長年願い続けながら到底不可能とあきらめていたことが実現することになった。
こうして東洋以下3人の医家たちは、初めて人体の内部構造を直接観察した。東洋たちは次々にあらわれる臓器に眼を凝らし、メモを取り絵図を描くことに努めた。このときの観察記録が1759年に刊行された『蔵志(ぞうし)』で、この書は日本で公刊された最初の人体解剖記録だ。漢方医による五臓六腑説など、身体機能認識の誤謬を指摘した。国内初の人体解剖は蘭書の正確性を証明し、医学界に大きな衝撃と影響を与えた。
東洋の影響を受け、江戸で前野良沢、杉田玄白らがより正確性の高いオランダ医学書の翻訳に着手する。ドイツ人クルムスが著した原書のオランダ語訳の、あの『ターヘル・アナトミア』という解剖書だ。突き詰めていえば先人の山脇東洋がいたからこそ、あの当時、前野良沢による翻訳が進み、『解体新書』が生まれたともいえるのではないか。

(参考資料)吉村昭「日本医家伝」、ドナルド・キーン・司馬遼太郎対談「日本人と日本文化」

 

山本五十六 “熱い長岡魂”で、真珠湾攻撃を成功させた国民的英雄

山本五十六 “熱い長岡魂”で、真珠湾攻撃を成功させた国民的英雄
 連合艦隊司令長官、山本五十六の家系には、幕末の風雪の中で「武装中立」を叫び、明治新政府の北陸道鎮撫軍を迎撃。果敢に戊辰の北越戦争を繰り広げた越後長岡藩の軍事総督、河井継之助戦死のあとを守って、藩の総司令官になった23歳の若き家老、山本帯刀の“熱い長岡魂”が受け継がれている。五十六の生没年は1884(明治17)~1943年(昭和18年)。
 山本五十六は新潟県長岡市で長岡藩士、高野貞吉の六男として生まれた。五十六の祖父、高野秀右衛門、父の貞吉も戊辰の北越戦争を戦っている。この戦争に敗北し明治新政府の「逆賊」となった河井、山本両家から朝敵の汚名が消えるのは、五十六が生まれた1884年(明治17年)のことだ。そして、罪名が消滅した山本家を、旧藩主牧野忠篤から望まれて五十六が相続するのは、後年の1916年(大正5年)、五十六が海軍少佐のころだった。
 五十六は1919~23年アメリカに駐在してハーバード大学に学ぶ。25~28年アメリカ大使館付武官としてワシントンに駐在、28年空母「赤城」の艦長。29年ロンドン軍縮会議随員、33年航空本部技術部長・第一航空戦隊司令官などを経て、35年航空本部長になった。36年に海軍次官に就任、このとき米内光政海軍大臣、井上成美軍務局長とともに、日独伊三国同盟に体を張って抵抗した。そのため、脅迫状や暗殺の予告が相次いだ。
 39年、五十六は連合艦隊司令長官に就任。当時の旗艦「長門」に乗り込んだのは9月1日。この日ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まったのだ。航空主兵論と短期決戦論に基づいて41年1月から真珠湾攻撃計画を立案、12月8日作戦を実行し成功させた。これにより彼の声望は絶大となり、国民的英雄と称えられた。しかし、早期決戦を意図して決行したミッドウェー作戦では、事前に待ち伏せしていた米機動部隊によって空母4隻を失う大敗北を喫した。
そして43年(昭和18年)4月18日、南太平洋方面の前線視察中にブーゲンビル上空で暗号を分析して待機していたアメリカの16機のロッキードP38戦闘機に五十六の搭乗機が撃墜され、戦死した。壮絶な最期だった。59年の生涯だった。今日では周知の通り、実は日本の情報は米軍に筒抜けだったのだ。公式発表では五十六は機上で被弾し、即死とされている。
 だが、大本営は五十六の戦死をすぐには発表しなかった。“無敵連合艦隊”の象徴、山本五十六の戦死はあまりにも戦意・士気の面でダメージが大きかったためだ。公表は、戦死から1カ月後の5月21日。五十六の死は海軍の軍人たちはもちろん多くの一般国民にも、深い悲しみと、戦争の前途に対する不安を与えた。五十六が戦死して、これはもう日本はもう駄目なのではないかと思った-ということは、五十六が海軍次官当時の副官たちをはじめ、多くの海軍関係者がそう証言している。
五十六は死後、元帥となり、43年(昭和18年)6月15日、9年前に東郷平八郎の葬儀が行われたのと同じ日を選んで、米内光政・海軍大将を葬儀委員長とする国葬が日比谷公園内の斎場で執り行われた。岡麓、斎藤茂吉、土屋文明、川田順、佐々木信綱、会津八一ら、大勢の歌人が悲しみの歌を詠み、高村光太郎、佐藤春夫、室生犀星、西条八十ら多くの詩人が五十六を悼む死を作った。
 山本五十六は男くさい魅力を持ったリーダーだった。嬉しいにつけ悲しいにつけ、彼はよく泣いた。人間としての情が、常人よりもはるかに多かったのだろう。部下だった山口多聞中将は「山本長官の部下思いは、単なる人情ではなく、命がけの迫力を感じました」と語った史料が残っている。
 もちろん、連合艦隊司令長官としてのリーダーシップを構成しているのは、こうした情ばかりではない。強烈な行動力、勝負師としての度胸と決断力に優れていた。大鑑主義が支配的だった海軍の中で、誰よりも早く「航空主力、戦艦無用論」を唱え、飛行機による艦船攻撃の優位性を説いた。それも精鋭主義ではなく、艦船攻撃は絶対に量だと主張し続けたのだ。

(参考資料)阿川弘之「山本五十六」、神坂次郎「男 この言葉」

坂田藤十郎 上方の和事を創始,近松作品で人気を高め上方の第一人者に

坂田藤十郎 上方の和事を創始,近松作品で人気を高め上方の第一人者に
 京の四条河原の掛け小屋に始まったといわれる芝居が、今日の絢爛たる歌舞伎にまで発展した経路には、いろいろな人と時代が反映して、そうなった紆余曲折があるが、その中の最も大きい転機をつくったものに、江戸の「荒事(あらごと)」、上方の「和事(わごと)」がある。その「荒事」は江戸の市川団十郎、上方の「和事」は坂田藤十郎によって創始されたといわれている。坂田藤十郎の屋号は山城屋、定紋は星梅鉢。
 元禄時代の名優、坂田藤十郎(初代)は1647年(正保4年)頃に、京の座元、「坂田座」の坂田市右衛門の息子として生まれた。当時、京の芝居小屋は鴨川の四条あたりの河原に集まっていた。現在も毎年の顔見世興行で有名な南座のあたりが今、わずかに往時の殷賑ぶりをしのばせている。劇場の横には歌舞伎発祥の記念の石碑があり、ここが日本の演劇史上、とりわけ大切な場所だったことを示している。
 ただ、京の坂田座は藤十郎の少年時代、観客同士の喧嘩から血をみる事件になり、遂に廃座となっている。しかも、これが官憲の忌避するところとなり、四条はじめ京中の芝居小屋は、ことごとく長い興行禁止に追い込まれている。それが、都万太夫はじめ、座元たちの嘆願哀訴がようやく実り、延宝年間に至って復興することができた。藤十郎が姿を見せたのはその時だ。1676年(延宝4年)11月、縄手の芝居小屋に藤十郎が出演したという記録がある。その時、彼は28歳で円熟の境にあった。
しかし、坂田座の子に生まれて以来、その間、藤十郎について何の記録も残っていない。彼はまず当時、東西比類なしといわれた大坂の嵐三右衛門を頼って、その膝下で修行したと思われる。また、上方ばかりで芝居をしていたわけではなかったようだ。江戸からきた役者と大坂で交友があったことも関連史料で分かる。しかし、江戸に居つかなかったことは確かで、気分が合わず、上方の和事師として一生を終わったと思われる。
出雲阿国をルーツとする歌舞伎、その流れの「女歌舞伎」が風俗を乱したというので差し止められた。これを受けて発生した男だけの「若衆歌舞伎」。そして、官憲がその役者の前髪を剃ってしまった。前髪を剃られると普通の男の形になる。そこで、「野郎歌舞伎」というものが生まれたのだ。この野郎歌舞伎が生まれて漸次、芝居という形を整えた延宝4年に、坂田藤十郎が初めて記録に出現したわけだ。江戸の荒事に対して、上方の和事というものを彼が戯作したのだ。それが今日伝わっている大阪・京都の一つの芸道だ。
 江戸の市川團十郎、上方の坂田藤十郎、二人はともに東西を代表する名優だ。團十郎は三升屋兵庫(みますやひょうご)の名でいろいろな脚本を書き、藤十郎は「夕霧名残(ゆうぎりなごり)の正月」などの傑作を残している。「夕霧名残の正月」は1678年(延宝6年)、藤十郎が初演して空前の大当たりを取った。伊左衛門役が大評判となり、藤十郎は生涯にわたってこの伊左衛門役を演じ続けた。また、近松門左衛門の作品に多く主演して人気を高め、上方俳優の第一人者となった。藤十郎が完成した和事は上方を中心とした代々の俳優に受け継がれた。
 坂田藤十郎の名を一躍、現代に有名にしたのは、大正初期に菊池寛が書いた「藤十郎の恋」だろう。藤十郎はある夜、京のお茶屋の内儀、お梶をかきくどいた。あまりの藤十郎の真剣さにほだされて、遂にお梶が意を決して行灯の灯を消した時、藤十郎は暗闇の中を外へ忍び出た…。人妻と密通する新しい狂言の工夫を凝らすあまりの、それは藤十郎の偽りの恋だった。あくまで写実に徹しようとした藤十郎の芸熱心に、世人は改めて驚嘆の目を見張った。
 坂田藤十郎の名跡は長い間途絶えていたが、2005年、231年ぶりに三代目中村雁治郎が四代目坂田藤十郎を襲名、復活した。

(参考資料)中村雁治郎・長谷川幸延「日本史探訪/江戸期の芸術家と豪商」

近松門左衛門 竹本義太夫と組み名作を次々に発表した劇作家

近松門左衛門 竹本義太夫と組み名作を次々に発表した劇作家
 近松門左衛門は江戸時代前期、元禄期に人形浄瑠璃(現在の文楽)と歌舞伎の世界で活躍した、日本が誇る劇作家だ。今日でも彼の多くの作品が文楽、歌舞伎、オペラ、演劇、映画などで上演・上映され、人々に親しまれている。生没年は1653(承応2)~1724年(享保8年)
 近松門左衛門は、松平昌親に仕えた300石取りの越前吉江藩士、杉森信義の次男として生まれた。幼名は次郎吉、本名は杉森信盛。通称平馬。別号は平安堂、巣林子(そうりんし)。ただ、出生地には長門国萩、肥前唐津などの諸説がある。2歳のとき、父とともに現在の福井県鯖江市に移住。その後、父が浪人し京都へ移り住んだ。近松が14、15歳のころのことだ。さらに、京都で仕えた公家が亡くなり、近松は武家からの転身を迫られることになった。
 「近松門左衛門」のペンネームの由来は三井寺の別院、近松寺(ごんしょうじ)にしばらく身を寄せていたからと思われる。この近松寺での経験がよほど気に入ったのではないか。もっともこのとき、彼は僧だったのか、俗人だったのかよく分からない。
 近松は竹本座に属する浄瑠璃作者で、中途で歌舞伎狂言作者に転向したが、再度浄瑠璃に戻った。1683年(天和3年)、曽我兄弟の仇討ちの後日談を描いた『世継曽我(よつぎそが)』が宇治座で上演され、翌年竹本義太夫が竹本座を作り、これを演じると大好評を受け、近松の浄瑠璃作者としての地位が確立された。1685年の『出世景清』は近世浄瑠璃の始まりとされる。
 近松はその後も竹本義太夫と組み名作を次々に発表し、1686年(貞享3年)竹本座上演の『佐々木大鑑』で初めて作者名として「近松門左衛門」と記載した。この当時、作品に作者の名を出さない慣習から、これ以前は近松も名は出されていなかったのだ。
近松は100作以上の浄瑠璃を書いたが、そのうち約2割が世話物で、多くは時代物だった。世話物とは町人社会の義理や人情をテーマにした作品だが、後世の評価とは異なり、当時人気があったのは時代物。とりわけ『国性爺合戦』(1715年)は人気が高く、今日近松の代表作として知名度の高い『曽根崎心中』(1703年)などは昭和になるまで再演されなかったほど。代表作『冥途の飛脚』(1711年)、『平家女護島』(1719年)、『心中天網島』(1720年)、『女殺油地獄』(1721年)など、世話物中心に近松の浄瑠璃を捉えるのは、近代以後の風潮にすぎない。
1724年(享保8年)、幕府は心中物の上演の一切を禁止した。心中物は大変庶民の共感を呼び人気を博したが、こうした作品のマネをして心中をする者が続出するようになったためだ。そうした政治のあり方を近松はどう受けとめたのか?ヒット作の上演に水を差されるのを心底、嫌気したか、近松はその翌年没する。
 近松は「虚実皮膜論」という芸術論を持ち、芸の面白さは虚と実との皮膜にある-と唱えたとされる。芸術とは虚構と現実の狭間にあるというものだ。芝居など所詮実在しない「虚」の世界だと誰もが知っているわけだが、それでもすばらしい芝居をみると、いくらみていても飽きないし、感動するわけだ。それは感動した自分の中に実在する感覚・理想・イメージなどと、その「虚」が結びついたときに、引き起こされるのではないか。つまり、「虚」「実」が絡み、入り混じったときに、初めて魅力が生まれるといったことだ。だが、この「虚実皮膜論」は穂積以貫が記録した「難波土産」に、近松の語として書かれているだけで、残念ながら近松自身が書き残した芸能論はない。

(参考資料)長谷川幸延・竹本津大夫「日本史探訪/江戸期の芸術家と豪商」、梅原猛「百人一語」、司馬遼太郎「この国のかたち 一」、「この国のかたち 三」

華岡青洲 通仙散で世界に先駆け乳がんの麻酔手術を行った外科医

華岡青洲 通仙散で世界に先駆け乳がんの麻酔手術を行った外科医
 和歌山県那賀郡那賀町に華岡家発祥の地記念碑が建立されている。この小さな片田舎の村に、華岡青洲に診てもらうために、はるか江戸からも大勢の患者がやってきた。汽車も自動車もない時代に。だから相当の金持ちしか行っていない。そのために村に落ちたお金は大きい。華岡青洲のお陰で村は栄えたのだ。
 一介の村医者、華岡青洲は1804年(文化元年)、大和国宇智郡五條村(現在の奈良県五條市)の染物屋を営む利兵衛の母親、勘という60歳の女性に、乳がんの麻酔手術を、患者に痛みを感じさせずに行った最初の人として知られている。世界の医学に先駆けること42年。彼には近代医学の開き手、前人未到の外科領域の開拓者としての栄誉が与えられている。彼はこの偉業を独特の麻酔薬、通仙散(つうせんさん)の発明によって成し遂げた。この時、青洲46歳。全身麻酔下での外科手術の成功は、人々に大きな衝撃を与えた。当時、蘭方医の大御所だった杉田玄白は、30歳も若い青洲に教えを請う手紙を書いている。
 華岡青洲は華岡直道の長男として、紀伊国那賀郡名手荘西野山村(現在の和歌山県紀の川市西野山)に生まれる。諱は震(ふるう)。字は伯行。通称は雲平。号は青洲、随賢。随賢は祖父尚政の代から華岡家の当主が名乗っている号で、青洲はその3代目。生没年は1760(宝暦10年)~1835年(天保6年)。
 1782年(天明2年)、京都へ出て吉益南涯に古医方を3カ月学ぶ。続いて大和見水にカスパル流外科(オランダの医師カスパルが日本に伝えた外科技術)を1年学ぶ。さらに見水の師・伊良子道牛が確立した「伊良子流外科」(古来の東洋医学とオランダ式外科学の折衷医術)を学んだ。その後も京都に留まり、医学書や医療器具を買い集めた。この時、購入し読んだ医書でとくに心に残り影響を受けたのが永富嘯庵の「漫遊雑記」で、この中に乳がんの治療法の記述があり、後の伏線となった。
 青洲は1785年(天明5年)、帰郷して父・直道の後を継ぎ開業した。安心したのか父はまもなく64歳で死去。青洲は手術での患者の苦しみを和らげ、人の命を救いたいと考え、麻酔薬の開発を始めた。研究を重ねた結果、曼陀羅華(まんだらげ)の花(チョウチンアサガオ)、草烏頭(そううず、トリカブト)を主成分とした6種類の薬草に麻酔効果があることを発見。動物実験を重ねて、麻酔薬の完成にこぎつけたが、人体実験を前にして行き詰まった。そこで、実母の於継と妻加恵が実験台になることを申し出て、数回にわたる人体実験の末、於継の死・加恵の失明という犠牲の上に、全身麻酔薬「通仙散」を完成した。
 青洲はオランダ式の縫合術、アルコールによる消毒などを行い、乳がんだけでなく膀胱結石、脱疽、痔、腫瘍摘出術など様々な手術を行っている。彼の考案した処方で現在も使われているものに十味敗毒湯、中黄膏、紫雲膏などがある。
 青洲は1802年(享和2年)、紀州藩主・徳川治寶に謁見して士分に列し帯刀を許された。1813年(文化10年)には紀州藩の「小普請医師格」に任用された。ただし、青洲の願いによって、そのまま自宅で治療を続けてよいという「勝手勤」を許された。1819年(文政2年)「小普請御医師」に昇進し、1833年(天保4年)、「奥医師格」となった。
 青洲の名は全国に知れ渡り、患者や入門を希望する者が殺到した。彼は門下生の育成にも力を注ぎ、医塾「春林軒(しゅんりんけん)」を設けた。そして数多くの医師を育て、弟子の中から本間玄調、鎌田玄台、熱田玄庵、館玄竜といった優れた外科医を輩出している。
 全国2000を超える寺の過去帳をもとに、青洲の手術を受けた乳がん患者全152人のうち33人の死亡日を明らかにした調査がある。手術後の生存期間は最短8日、最長41年で平均2~3年だった。医療関係者によると、当時の多くの患者の女性は進行乳がんだったはずで、青洲の手術がいかにレベルの高いものだったかが分かるという。

(参考資料)有吉佐和子・榊原仟「日本史探訪/国学と洋学」、有吉佐和子「華岡青洲の妻」

平 時子 ごく普通の女性が最期は平家一門を担う存在に

平 時子 ごく普通の女性が最期は平家一門を担う存在に
 平清盛の妻、時子はごく普通の女だった。その彼女が一門の棟梁となる清盛に嫁いだがゆえに、本人の意思とは関係なく、好むと好まざるとに関わらず、権謀渦巻く政治の世界に投げ込まれ、激動の時代を生き、様々な体験を積んでしたたかな女になっていった。
 時子は当時、公家社会で一般的だった妻訪い婚ではなく、徐々に行われるようになった嫁入り婚で嫁いできた。そこで、夫の周辺に女の影が見えるたびに嫉妬の炎を燃やす平凡な女性で、夫の浮気に関わりなく妻の座が安定していることに困惑し、ふさぎ込んだりすることもある。
後年、従三位という女として高い地位にも就いた時子だが、精神的には現代の女性とも相通ずるものが流れている女性だったのだ。
 保元・平治の乱を経て平家の勢力が台頭、清盛は8年の間に正四位から従一位へ、ポストは左右大臣を飛び越えて太政大臣となった。また清盛は時子を二条天皇の乳母とし、時子の妹滋子を後白河天皇のもとに上げる。そして後白河と滋子(建春門院)との間に生まれた皇子が即位して高倉天皇となり、そのもとに清盛は娘の徳子を入内させる。
やがて徳子は後の安徳天皇を出産。思惑通り外祖父となった清盛は、年来の夢を懸けた海の王宮、福原への遷都を決行。新都を構えた平家一門は隆盛の絶頂期を迎えた。
 しかし、それは転落の序章でもあった。東国では源頼朝の武士団が日増しに勢力を拡大。高倉帝の病状悪化で福原から半年で還都。やがて高倉帝に続いて清盛が急死。清盛亡き後、平家の総帥となった宗盛は再三の挽回の機会を取り逃がし最悪の道を選択してしまう。
その結果、源氏に追われた平家一門は西国流転の途をたどる。京から福原へ。屋島へ、そして壇ノ浦へと移った平家は東国武士団の組織力の前に敗退を重ねていく。
 ここで、平家一門の運命は時子の双肩にかかる。帯同する、建礼門院となった娘の徳子に安徳帝を守る判断力がなかったことも、彼女をしたたかな女にしたことだろう。時子は、清盛が築いたこの時代をともに生きた自分とその子供たちは、それぞれの運命を分け持って生きてきた。
そして、その最後の幕を引くのは自分しかいない-と判断。母親の建礼門院(徳子)を措いて、祖母の時子が8歳の安徳帝を抱き、三種の神器とともに瀬戸内の海に身を投げ生涯を閉じる。鮮烈な最期だ。その時子の辞世がこれだ。
 いまぞ知るみもすそ川の流れには 波の下にも都ありとは
海の底にも都があってほしい-という彼女の切実な願望が込められている。

(参考資料)永井路子「波のかたみ-清盛の妻」

 

 

 

 

静御前 義経との一世一代の恋に身を焼き尽くした悲劇の白拍子

静御前 義経との一世一代の恋に身を焼き尽くした悲劇の白拍子
 静御前は源義経の妾。ただ、この当時は妻妾の区別がつけられないので、妻が何人もいて、静はその一人と考えた方が的を射ている。生没年不詳。平安時代末期~鎌倉時代初期の女性。白拍子、磯禅師の娘で、彼女も白拍子。鎌倉時代の事跡を書き綴った「吾妻鏡」によれば、京都で人気抜群の白拍子と、平家を壇ノ浦に追討した凱旋将軍・義経との恋だった。年齢は静が10代後半、義経は20代後半のことだ。
ただ、二人が幸福だったのは極めて短い間だった。義経が、後白河法皇から勝手に任官を受けたことなどから、兄頼朝の不興を買って謀反人扱いされたことによって急転直下、悲劇の主人公になってしまう。京都を追われ、都落ちした義経らとともに西国へ向かうが、女人禁制の大峰に入れず、義経と別れて京都へ帰る途中、捕らえられる。
そして、いまや謀反人となった義経探索の参考人として鎌倉に送られる。このとき彼女は義経の子を身ごもっていた。
 鎌倉に着いた静御前は源頼朝・北条政子夫妻に強要され、鶴岡八幡宮で舞を舞う。そのとき彼女は次のように詠った。
 しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
“しづのをだまき”とは麻糸を真ん中が空洞になるようにくるくる巻いたものをいう。しづのおだまきをいくらくるくる巻いても、昔は戻ってこない。どこかへ行ってしまった義経様が恋しい-という意味だ。
もう一句ある。
 吉野山 峰の白雪 踏み分けて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
吉野山(静御前が義経と別れた場所)の峰の白雪を踏み分けて姿を隠していったあの人(義経)のあとが恋しい-という意味。
 静御前のひたむきな(あるいはなりふり構わぬ)義経への恋慕の表明にとくに政子は胸を打たれ、激怒する頼朝に助命を請い、静は何とか許される。そして、頼朝は生まれてくる子が女なら助けるが男なら殺すと命じる。不運にも、このとき生まれた赤ん坊が男だったため、そのまま由比ヶ浜に流されて殺されてしまった。これらのことを含めて考えると、「しづやしづ…」には静の深い哀切の情が満ちている。
『吾妻鏡』では、静御前の舞の場面を「誠にこれ社壇の壮観、梁塵ほとんど動くべし、上下みな興感を催す」と絶賛している。
 この後、静御前は許されて京へ帰る。ただ、『吾妻鏡』では静御前が京都に旅立った後、いっさい登場しない。このあとどこへ行って、何をしたか、ようとして行方知れず。それだけに、哀れでいとおしさも一層深まる。

(参考資料)永井路子対談集「静御前」(永井路子vs安田元久)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

毛利元就 地縁・血縁を巧みに駆使し婚姻-間諜で拡大、成果を挙げる

毛利元就 地縁・血縁を巧みに駆使し婚姻-間諜で拡大、成果を挙げる
 戦国時代、数多いた武将の中で、「間諜」を用いてかなりの成果を挙げた人物がいる。東の武田信玄、西の毛利元就だ。ただ、同質の武将でありながら、信玄の暗さ、陰湿さが、なぜか元就からは伝わってこない。元就は大内義隆の「補佐役」を、ほぼ30年の長きにわたって忠実に務めている。このまま大内氏の隆盛が続き、磐石の体制が維持されていれば、よもや元就とて「補佐役」の分限を越えることはなかったろう。
 毛利元就は安芸国吉田郡山城(現在の広島県安芸高田市吉田町)を本拠とした毛利弘元の次男。幼名は松寿丸、仮名は少輔次郎。1511年(永正8年)、元服し、毛利元就を名乗る。室町時代後期から戦国時代にかけて、安芸の国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大し、戦国時代最高の名将の一人と評される。用意周到な策略で自軍を勝利へ導く策略家として名高い。家系は大江広元の四男、毛利季光を祖とする毛利氏の血筋。家紋は一文字三星紋。生没年は1497(明応6年)~1571年(元亀2年)。
 1542年(天文11年)、大内氏は、宿敵・尼子氏の根拠地、月山城を一気に攻め落とすべく、大動員令を発した。ところが、大内勢は尼子方の鉄壁の防戦に阻まれると同時に、大軍ゆえに兵站線の維持が困難となり、まさかの苦戦。そこで、機を見るに敏な小豪族は、今が功名の機会とばかりに、一斉に尼子方へ寝返って大内勢に襲いかかった。この大敗戦を機に大内義隆は以後、軍事に手を染めることがなくなり、学問・遊芸の世界へ入り浸ってしまう。その結果、尼子を勢いづかせ、周辺諸国の石見や安芸の国人たちを、大内氏から離反させることにつながった。
 こうした事態をみて「補佐役」元就は明白に方向転換を決断する。そして、もう一人の補佐役、陶隆房とも、主君の義隆とも同様、距離を置き始める。
 陶隆房は補佐役として主君、義隆に繰り返し諫言するが、人変わりした主君は全く耳を貸さない。そこで、隆房は遂に「補佐役」の分限を越えた。義隆を廃して大内家を立て直すことを決意。家中の心ある重臣と一気にことを運んだ。元就にも使者を送って、賛同を取り付けている。当初は義隆を隠居させ、幼い義尊(よりひろ)を立てる計画だったともいうが、隆房は途中でこの二人を亡き者にし、大友義鎮(よししげ・宗麟)の弟・八郎晴英(後の義長)を主君に迎えることに予定を変更。1551年(天文20年)義隆は隆房の叛乱軍によってこの世を去った。元就は隆房と袂を分かつことになった。
 元就は地縁・血縁を巧みに駆使した婚姻政策-間諜によって、軍事力・国力の拡大・強化を図ってきた。この総仕上げとしてまず1544年(天文13年)、三男の隆景に小早川氏を継承させた。1546年(天文15年) 元就は家督を長子の隆元に譲る。元就54歳、隆元24歳のことだ。そして、元就は次男・元春の吉川氏相続による、婚姻関係のネットワークの拡大・強化に取り組む。強引さと緻密さを併せ持った元就が策略を駆使、安芸国人の一方の雄であった小早川、吉川両氏をその支配下に置くことに成功する。この体制は「毛利両川(りょうせん)」として、以後の毛利氏を支え、発展させていく基となった。
 1555年(弘治元年)、厳島の戦いで陶晴賢(陶隆房から改名)と対決した際の戦力は、敵の動員兵力2万余に対し、元就方は小早川、吉川両氏の兵力を加えても4000~5000にすぎなかった。正攻法ではとても勝ち目はなかったのだ。「補佐役」が内応しているかの如くみせる、いわゆる「間諜」による離反、切り崩しと、奇襲作戦などにより、4~5倍もの兵力を誇る相手に勝利を収めた。元就の中国地方における地盤確立は、この戦いの勝利によって、その第一歩を大きく踏み出した。その後も「間諜」によって近隣を併呑、遂に尼子氏を滅ぼし、1571年(元亀2年)、75歳でこの世を去った。そのときは中国10カ国の太守となっていた。
 毛利元就といえば“三本の矢”の話がある。一本の矢は簡単に折れるが、三本を一度に折ろうとしても折れない。だから、三人が心を合わせて兄弟仲良くしていけば、治めていける-というあれだ。しかし、元就が真に伝えたかったことはもっと現実的でドライなものだったようだ。彼が三人の息子に与えた「教訓状」が残っていて、これによると、「当家は皆の恨みを買っている。当家のためを思っている人間など一人もいないと思え。私も随分、人を殺してきた。だから子孫は特別、人に憎まれるだろう」などとある。だから、お前たち三人は心を一つにして切り抜けていかなければやっていけない、というわけだ。したがって、「教訓状」は凄まじい人間不信の書なのだ。「人間は信じられない」、これが元就の人生哲学だった。

(参考資料)加来耕三「日本補佐役列伝」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」、杉本苑子「決断のとき」、海音寺潮五郎「覇者の条件」

豊臣秀長 人格と手腕で不協和音の多い豊臣政権の要石の役割果たす

豊臣秀長 人格と手腕で不協和音の多い豊臣政権の要石の役割果たす
 豊臣政権でのナンバー2、秀吉の弟・豊臣秀長は羽柴秀長、あるいは大和大納言とも呼ばれた。秀吉の政権下で大和郡山に居城を構え、その領国は紀伊(和歌山県)・和泉(大阪府南部)・大和(奈良県)にまたがり、160万石を有していた。秀吉臣下としては、徳川家康に次ぐ大大名だったといっていい。ところが、この秀長に対する評価が「よく出来た方だった」と「全くの無能者」とがあり、はっきりと分かれているのだ。いずれがこの人物の真実なのか。
 豊臣秀長は秀吉の異父弟。幼名は小竹(こちく)、通称は小一郎(こいちろう)。秀吉の片腕として辣腕を振るい、文武両面での活躍をみせて天下統一に貢献したといわれる。大和を中心に大領を支配し大納言に栄進したことから、大和大納言と通称された。生没年は1540(天文9年)~1591年(天正19年)。
 「大友家文書録」によると、大友宗麟は秀長のことを「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候」と述べたとされている。その人格と手腕で織田家臣の時代から、内政や折衝にとくに力を発揮し、不協和音の多い豊臣政権の要石の役割を果たした。秀吉の天下統一後も支配が難しいとされた神社仏閣が勢力を張る大和、雑賀衆の本拠である紀伊、さらに和泉までを平和裏にのうちに治めたのも秀長の功績だ。
秀長は秀吉の朝鮮出兵には反対していたとされる。ただ、この出典が「武功夜話」のみのため信憑性に乏しい。秀長が進めようとしていた体制整備も、彼の死で不十分に終わり、文治派官僚と武功派武将との対立の温床になってしまった。秀吉死後もこの秀長が存命なら、秀次の粛清や徳川家康の天下取りを阻止し、豊臣政権は存続したか、もしくは少なくとも豊臣家の滅亡は避けられたとの声も多い。
 ところで、秀長の武将としての器量はどの程度のものだったのか。秀長が担当させられた山陰地方への応援については因幡(鳥取県東部)・伯耆(鳥取県東伯・西伯・日野三郡)両国に多少の足跡は認められるものの、やはり注目すべきは1582年(天正10年)6月2日の、「本能寺の変」直後の“中国大返し”だろう。同3日に信長横死の報を受けて急遽毛利との和平を取りまとめ、備中高松城の包囲を解き、同6日に毛利軍が引き払ったのを見て軍を返し、引き揚げを開始。この後、ポスト信長の天下取りに懸ける、2万を超える秀吉の大軍は、凄まじい速度で山陽道を駆け抜け、備中高松から山崎(京都府)まで約180㌔を実質5日間で走破。同13日の山崎の戦い(天王山の戦い)で明智光秀を破った。このとき、大軍勢の難しい殿軍(しんがり)を立派に務めたのが秀長だった。凡将だったとは考えにくい。
 次に秀長が脚光を浴びるのは秀吉と織田信雄(信長の次男)・徳川家康が対立した、小牧・長久手の戦いだ。秀長は指揮下の蜂須賀正勝、前野長康らを率いて、近江(滋賀県)、伊勢(三重県)の動向に備え、次いで伊勢に進撃すると松島城を陥落させ、尾張に入って秀吉軍と合流。秀吉と信雄の間に和議が成立しても、秀長は美濃(岐阜県南部)・近江のあたりをにらんで臨戦態勢を解かなかった。1585年(天正13年)、秀長は紀州(和歌山県)雑賀攻めに出陣して、これを平定した。
 秀長は誕生したばかりの豊臣政権内で、公的立場の秀吉を補佐する重責を担っていた。結果論だが秀長の存命中、豊臣政権は微動だにしていない。それが、1591年(天正19年)、秀長が病でこの世を去ると、並び称された千宗易(利休)も失脚、政権はやがて自壊の方向へ突き進んでしまう。
 秀長の享年51はあまりにも早すぎた死といわざるを得ない。家康よりわずかに2歳年長の秀長が、いま少しこの世にあれば、少なくとも千利休の切腹、後の秀次(秀吉の甥で嗣子となり、関白となった)の悲劇は未然に防ぎ得たに違いない。秀長の死後、表面に出ることは少なかったが、彼が果たしていた役割の大きさを改めて認識した人も多かったのではないか。秀長とはそんな補佐役だった。

(参考資料)堺屋太一「豊臣秀長-ある補佐役の生涯」、加来耕三「日本補佐役列伝」、司馬遼太郎「豊臣家の人々」

 

長谷川平蔵 松平定信の“田沼嫌い”でワリを食った、栄転なしの鬼平

長谷川平蔵 松平定信の“田沼嫌い”でワリを食った、栄転なしの鬼平
 長谷川平蔵という人物を、日本国民に広く知らしめた功労は、池波正太郎の人気小説「鬼平犯科帳」に尽きるといっても過言ではないだろう。“鬼平”とは、鬼の平蔵の意。江戸の放火と盗賊を取り締まる火付盗賊改方(役)の長官・長谷川平蔵の通称という。もちろん、多くは小説の世界のフィクションで実在した長谷川平蔵がそのように呼ばれたという記録はない。ただ、現代でいえば、さしずめ警視総監といったところの、この「火付盗賊改役」というこの職(ポスト)は“鬼”と呼ばれてもおかしくない歴史を持っていた。
 幕閣を治安維持の面から補佐した「火附け盗賊改」は1665年(寛文5年)に設置された「盗賊改」、1683年(天和3年)に置かれた「火附改」、さらには1703年(元禄15年)より設けられた「博奕改」の三つの特殊警察機構を、1718年(享保3年)に一本化したものだった。江戸の治安維持のため、とくに悪質な犯罪を取り締まることを職務として、市中を巡察し、容疑者を逮捕して、吟味(審理)する権限を持っていた。仕置(処罰)に関しては、罪の軽重を問わず、老中・若年寄へ指図を仰がねばならなかったが、その取り調べは厳格を極め、情け容赦のない責問(拷問)が行われた。
 長官たる頭も、初期の頃はそれこそ鬼のように怖れられた人物が輩出した。大岡越前守忠相と同時代の中山勘解由(かげゆ)という人は「火附盗賊改役」を拝命すると、自宅にあった神棚と仏壇を打ちこわし、火中に投じて焼いてしまったという逸話がある。信仰とか慈悲心などを持っていては、お役目を全うできない。たとえこの身が神仏の罪を被ろうとも、江戸の治安を守り、諸悪を根絶せねばならぬ-との思いからだ。その後、制度が充実するにしたがって、このポストには思慮深い、慈悲深い者が任命されるようになった。
 1783年(天明3年)、浅間山の大噴火、“天明の大飢饉”、そしてその4年後に江戸と大坂で大規模な打ちこわしが起こった。この年、「火附盗賊改役」に命じられたのが、長谷川平蔵宣以(のぶため)だった。
 長谷川平蔵宣以は400石取りの旗本、平蔵宣雄を父に生まれた。平蔵は長谷川氏の当主が代々受け継ぐ通称で、家督相続以前は銕三郎(てつさぶろう)と名乗った。生没年は1746(延享3年)~1795年(寛政7年)。父の平蔵宣雄も「火附盗賊改役」を務め、見事な働きをみせ、抜擢されて京都西町奉行に栄転。ところが、職務に精力を傾けすぎたのか、在職わずか9カ月で急死した。享年55。これに伴って宣以は家督を継ぎ、平蔵宣以となった。1773年(安永2年)、宣以28歳のことだ。
 「鬼平犯科帳」では宣雄の正室に、幼少期の宣以=銕三郎がいじめられ、生母は若くして死んだとあるが、史実は小説とは異なる。宣以を大切にかわいがった宣雄の正室は、宣以が5歳の時に亡くなっており、長谷川家の知行地から屋敷へ働きにきていた女性と思われる生母は、平蔵の死後まで長生きしていた。
 厳格な父をふいに失い、その悲しみから遊女やその情夫、無頼者と交わり、ゆすり騙りや賭博の類に身を投じ、庶民の生活や暗黒街のしくみを実地に体験したことはあったようだ。しかし、平蔵宣以は朱に染まらず、1年後の1774年(安永3年)、悪友とも手を切って幕臣の本分に邁進した。31歳で「江戸城西の丸御書院番士」(将軍世子の警護役)に任ぜられたのを振り出しに、1784年(天明4年)、39歳で「西の丸御徒士頭」、41歳で「御先手組弓頭」に任ぜられ、1787年(天明7年)、「火附盗賊改役」の長官に昇進した。順調すぎる出世だ。
これには理由がある。父の偉業が高く評価され、中でも時の権力者・老中の田沼意次に支持されていたのではないかと思われる。その証拠に、宣以が「御先手組弓頭」となって1カ月後、権勢をほしいままにしてきた田沼意次が遂に失脚。老中を罷免されてしまうと、宣以の身にその反動が、災いとなって降りかかってきた。本来、2~3年で交代すべき「火附盗賊改役」に、宣以は死去するまで足掛け8年間留め置かれている。江戸時代を通じて異例のことだった。京都奉行にも、大坂・奈良・堺の奉行にも栄転していないのだ。
少なくとも田沼意次の後任として、“寛政の改革”を指揮した老中・松平定信は、宣以を田沼の「補佐役」の一人とみて、便利使いした挙句、使い捨てにしている。幕閣のトップ=老中の信任次第で、勢いのある「補佐役」のポジションも大きく変わってしまうという好例だろう。

(参考資料)加来耕三「日本補佐役列伝」、池波正太郎「鬼平犯科帳」

遠山景元 実像は意外にしたたかな高級官僚“遠山の金さん”は虚像

遠山景元 実像は意外にしたたかな高級官僚“遠山の金さん”は虚像
 遠山景元は江戸時代の旗本で天保年間に江戸北町奉行、後に南町奉行を務めた人物で、テレビの人気番組「遠山の金さん」のモデルとして知られる。しかし、講談、歌舞伎、映画、テレビなどで取り上げられ、脚色して、繰り返し演じられていくうちに、形が整って“遠山の金さん”像は作り上げられたものだ。したがって、モデルとなっているが、厳密にはこの遠山景元が“金さん”とはいえない。“金さん”はあくまでもエンタテインメントの世界の虚像だ。
 遠山景元は、あの「天保の改革」(1841~43)を推進した老中筆頭・水野忠邦を主人として、いわばその「補佐役」を担った人物だ。正式な名乗りは遠山左衛門尉景元(とおやま・さえもんのじょう・かげもと)、または遠山金四郎景元。幼名は通之進。父親は秀才で長崎奉行、勘定奉行などを務めた遠山左衛門尉景晋(かげくに)。
 景元は1840年(天保11年)、40歳前後で北町奉行に任命された。3年務めて大目付に転出し、1845年(弘化2年)から1852年(嘉永5年)までの約7年間、南町奉行に任じられた。ただ、「寛政重修家譜」(787巻)によると、景元の通称は“通之進”だ。つまり、“通さん”であって、“金さん”ではない。景元の父は町奉行の経験はなかった。景晋・景元の父子が桜吹雪や女の生首の彫り物をしていたという、確かな記録もない。俗説によれば、景元はいつも手首にまで及ぶ下着の袖を、鞐(こはぜ)でずれないよう手首のところで留めていたという。
 遠山氏は美濃の名流だが、景元の家は分家の、それも末端で、初代の吉三郎景吉以来の旗本といっても、500国取りの中クラス。ごく平凡な家だったが、景元の祖父、権十郎景好(四代)のとき、その後の家督をめぐる、ちょっとした“事件”が起きる。景好は子に恵まれなかったため、1000石取りの永井筑前守直令(なおよし)の四男を養子として迎えた。それが景晋だ。景晋は永井家の四番目の男子ということで、“金四郎”と名付けられたわけだ。景晋は幕府の「昌平坂学問所」をトップで卒業した秀才中の秀才だった。松平定信の「寛政の改革」による人材登用で抜擢され、ロシアの使節レザノフが来日した折、その交渉の任にあたっている。次いで蝦夷地の巡察役に、1812年(文化9年)から13年間は作事奉行、または長崎奉行となり、さらに68歳の1819年(文政2年)から10年間、勘定奉行を務めた。
 この後、問題が起こる。晩年になって養父の景好に実子の景善(かげよし)が誕生したのだ。養子の景晋にすれば困惑したに違いない。熟慮の末、景晋は景善を自分の養子にした。これで遠山家の血は元に戻るはずだったが、皮肉にも景晋に実子、通之進=景元がその後に生まれたのだ。景晋とすれば、当然のことながらわが子=実子の方がかわいい。ただ、武家の家には秩序というものがある。そこで景晋は景元を、養子景善のさらなる養子とした。いらい、景晋は健康に注意して長生きを心がけた。彼が78歳まで幕府の要職にあり続けたのは、家督を景善に譲りたくなかったのと、通之進の行く末をでき得る限り見届けたいとの思いが強かったからに違いない。家督をめぐる、実父と養父の確執に悩まされた通之進(=景元)が、遂にいたたまれなくなって家を出て、一説に11年間もの放蕩生活だったとも伝えられるのはこの時期のことだ。
 そして1824年(文政7年)、景善が病没した。そこで翌年、32歳前後で景元は晴れて実父景晋の家督を相続、幕府へ召し出された。ほぼ実父と同様のコースを歩んだが、40歳で小納戸頭という管理職に就き、1000石取りとなってからの出世のスピードは尋常のものではなかった。2年後、作事奉行(2000石)となり、やがて44歳で勘定奉行に就任したのだ。このポストは秀才官僚の父・景晋が68歳でようやく手に入れたことを考え合わせると異常だ。しかも景元はその2年後に北町奉行の栄転している。
 では、景元の出世は何に起因していたのだろうか。答えはずばり「天保の改革」にあった。天保の改革はそれ以前の享保、寛政の改革に比べ、庶民生活の衣食住にまで事細かく干渉し、統制した点において特色があった。改革を企画・立案し、実行に移したのは老中首座・水野忠邦で、その片腕と評されたのが鳥居耀蔵だったと一般にはいわれている。講談や歌舞伎では、この二人に敢然と立ち向かい、庶民のために活躍したのが“遠山の金さん”だが、加来耕三氏は現実はむしろ逆だった-としている。節約令、物価引下げ政策、綱紀の粛正、中でも水野が直接に庶民の生活統制に乗り出したのは、天保12年の「祭礼風俗の取締令」からだが、これを推進したのが北町奉行の景元と、少し遅れて南町奉行となった鳥居の二人だった。
景元は放蕩生活で庶民生活にも通じていたから、歌舞音曲、衣服はもとより、凧揚げ、魚釣り、縁台将棋の類まで徹底して取り締まった。史実の“金さん”は世情に通じた、したたかな高級官僚で、水野の「補佐役」だった。そして、1845年(弘化2年)、“妖怪”と酷評された鳥居が主人の水野とともに失脚したにもかかわらず、景元は幕閣に生き残り続けている。景元が水野の右腕となって“天保の改革”を推進できたのは、放蕩生活を通じて得た情報だ。また、その情報網を駆使し水野のアキレス腱を日常から調査し、把握して冷静に手を打っていたのではないか。1855年(安政2年)、景元は実父より若い61歳でこの世を去っている。

(参考資料)童門冬二「遠山金四郎景元」、童門冬二「江戸管理社会反骨者列伝」加来耕三「日本補佐役列伝」、佐藤雅美「官僚 川路聖謨の生涯」、尾崎秀樹「にっぽん裏返史」

 

北条早雲 巧みな徳治政策と領民優遇策で平定した戦国大名のはしり

北条早雲 巧みな徳治政策と領民優遇策で平定した戦国大名のはしり
 北条早雲の出自は不詳で諸説ある。生没年は1432~1519年。俗名伊勢新九郎、出家して法号を早雲庵宗瑞(そうずい)に改め頭を丸めた。妹が室に入っていた駿河・今川家の内紛を調停して興国寺城主となり、1491年に伊豆一国を、さらに1516年には相模一国を手中に収め後、北条氏が関東に覇を唱える基礎をつくった。
戦国大名のはしりといわれる。その実績と、箱根湯本にある小田原北条氏の菩提寺早雲寺に残されている、法体姿だが獲物を狙う鷹のような猛々しい覇気がみなぎっている画像の印象からは、早雲はただ戦いと権謀においてのみ傑出し、学問など眼中に置かなかった粗野な人物だったかのように感じられるが、果たしてどうだったのか? 
 実際の早雲は、無学どころか当時一流の教養人だった。早雲の前半生については不明の部分が多い。だが、少なくとも一時期、室町八代将軍・足利義政の弟義視に近侍したり、幕府の申次衆を務めていたことが確認されている。そうした地位に就くには、相当の学問教養がなければ叶わないことだ。また、彼は京都紫野の大徳寺に参禅、住持の春浦宗煕の会下に列したことがあるし、同じく大徳寺住持に任じた法兄の東渓宗牧から「天岳」の道号を与えられており、彼の禅修行は一時の気まぐれなどではなく、本格的なものだったとみられる。
 早雲が学問。修養を重視したことは、後に彼が定めた家訓「早雲寺殿廿一箇条」にもみてとれる。例えば、その第一二条に「少の隙(ひま)あらば、物の本を見、文字のある物を懐に入、常に人目を忍び見べし。寝ても覚めても手馴ざれば、文字忘るるなり。書こと又同事」とある。時間さえあれば読書・習字に励めという。これはまさに“学問の勧め”だ。第一五条では「歌道なき人は、無手に賤き事なり。学ぶべし」という。この二条だけを抽出すると、修羅の世界を戦い抜いた戦国大名の第一号の座を実力で勝ち取った人物のものとは到底思えない。泰平の時代を生きた江戸の文人大名の趣と通じ合うところがあるほどだ
 こうした学問・修養に裏打ちされた思考の奥行きの深さは、大名の座に就いて後の早雲の施政、とくに民政において顕著に反映されている。小田原北条氏に仕えた三浦浄心が著した「北条五代記」に、早雲が伊豆国を攻めた際の、巧みな人心収攬のエピソードが紹介されている。
要旨はこうだ。風病が流行し、村里の家々にはほとんど例外なく数人の病人が臥せっていた。そこへ早雲が攻め込んでくると知って、足腰の立つ者は、親は子を捨て子は親を捨て、どこへともなく逃げてしまった-という。そこで早雲は医師に命じて良薬を調合させ、その薬と食事を配下の者に持たせて病人たちを見舞わせた。その結果、病人たちは皆助かり、その恩に報いるため山野に隠れ潜んでいる家族や縁者を探して説いて回った。その呼びかけに応じて見参した者に、早雲は所領なども安堵してやったことから、それが評判になり、その村里以外からも彼の徳を慕って出頭するものが相次いだので、彼がその地に7日間ほど滞在するうちに、全く武力を用いることがなかったにもかかわらず、周囲30里近辺はすべて早雲の味方になった-という。早雲の徳治政策が敵国の領民を魅了し、帰参者を続出させたというわけだ。
巧みな徳治政策で伊豆国の一円平定した早雲はさらに積極的な領民優遇策を打ち出した。それまで五公五民ないし六公四民だった税制を四公六民に改めるという、大幅な減税策を実施したのだ。当然、領民からは大歓迎を受けた、他国の領民からも大いに羨まれたという。

(参考資料)司馬遼太郎「箱根の坂」、安部龍太郎「血の日本史」、神坂次郎「男 この言葉」、海音寺潮五郎「覇者の条件」

保科正之 名君と誉れ高い会津藩藩祖だが、評価は“割引”が必要

保科正之 名君と誉れ高い会津藩藩祖だが、評価は“割引”が必要
 会津藩藩祖の保科正之は、徳川二代将軍秀忠の隠し子という血筋の確かさから、また三代将軍家光の死に際して、四代将軍家綱の後見役を仰せつかり、理想的な名君と誉れ高い存在だが、果たしてどうか?生没年は1611~1672年。
 会津藩主としての保科正之の評判はいい。これは、高遠藩3万石から山形藩20万石という破格の加増によって、家臣の給与を3倍から4倍に上げたからだ。戦いで命を張ったわけでも、民政で功労があったのでもないのに、禄高がこれだけ上がれば、藩士や領民が“名君”と感謝感激しても当たり前だ。さらに、会津に23万石で転封されたときも、2割から3割もの加増が一律に行われている。
 飢饉対策として、正之が儒学者・山崎闇斎の助言で古代中国に倣って社倉(米や麦を貯蓄する倉)制度を推進したのはそれなりに成功したが、これも手放しで評価できない部分がある。というのは、これは一種の強制預金で、運用の仕方では租税に上乗せした収奪になりかねないからだ。また、90歳以上の高齢者に生活費を与えたのはすばらしい高齢者対策で、「国民年金の創設」などというのも、ちょっと的外れの評価といわざるを得ない。当時の90歳以上など現在の100歳以上より少なかったはずで、そのような全く例外的扱いをもって福祉対策が充実していたなどと表現することはおかしい。
 幕政の担当者としての事績をみると、「殉死の禁止」「大名証人制の廃止」「末期養子の許可」が四代将軍家綱のもとでの三大美事とされ、正之の功績とされている。殉死は戦場で功を立てることが難しくなったこの頃になって急に流行りだしたものだ。殉死者は家康にはいなかったし、秀忠にも一人だけだった。ところが、家光の死に際して5人になった。そこで、この愚劣な流行を抑制すべきというのは当たり前の考え方だ。
大名証人制の廃止は、主要35藩の家老嫡子の江戸在住だけが廃止されたのであって、決して大名家族の人質政策が廃止になったのではない。末期養子の許可は、嫡男がいないだけでお家取り潰しするのは、もともと厳しすぎる、極端な政策だったから緩和は妥当だ。ただこの廃止により、できの悪い大名を残すことになった。そして石高の固定化は、大名についても一般の武士や庶民についても、有為な人材にとってチャンスが少なくなることを意味した。
まだある。明暦の大火(1657)の後、蔵金が底を尽くという批判をものともせず、罹災者に救援金を与えたことや、江戸の大々的な都市改造を行ったことも美談とされる。しかし、その結果、家光時代に金銀だけで400万両から500万両、物価水準を考えると、およそいまの1兆円の蓄えがあったのを、ほぼ使い果たしてしまった。単なるばらまきで財政を破綻させたのだ。
刑罰の軽減化などに具体化された独特の「性善説」に基づく正之の哲学は、ユニークで魅力があり、江戸時代の名君の原型に挙げる人が少なくない。ただ、あるべき指導者の姿としての「名君」としては、かなり割り引いて考えざるを得ない。カネと権力あればこその「名君」だったといえるのではないか。

(参考資料)八幡和郎「江戸三百藩 バカ殿と名君」、司馬遼太郎「街道をゆく33」

 

築山殿 真の悪女か、家康の長男・信康暗殺のスケープゴートの側面も

築山殿 真の悪女か、家康の長男・信康暗殺のスケープゴートの側面も
 徳川家康の正室、築山殿は今川義元の姪だが、その血筋からか様々な、興味深い伝説を残している。意のままにならない苛立たしさや、夫・家康との意識のずれも加わって、わが子・嫡男信康可愛さのあまりか、正常な神経ではとても考えられない“暴挙”に出ている。そして、そのことがわが子ともども、身の破滅を招くことになった。築山殿の生没年は1542(天文11)~1579年(天正7年)。
 夫の徳川家康の幼年~青年時代が人質生活だっただけに、解放後の家康の出世ぶりが、築山殿の婚姻後の人生に大きな影響を与えた。そこで、築山殿に関係する歴史の流れをざっと見ておこう。1560年(永禄3年)、桶狭間の戦いで伯父の今川義元が織田信長にまさかの敗戦を喫し、松平元康(後の徳川家康)は晴れて岡崎に帰還する。
1562年(永禄5年)、築山殿の父・関口義広(今川義元の一族)は元康が信長側についた咎めを受け、今川氏真の怒りを買い正室とともに自害。築山殿は今川義元の妹の夫で、上ノ郷城城主・鵜殿長照の2人の遺児と於大の方(家康の母)の次男源三郎との人質交換により、駿府城から子供たちと家康の根拠地の岡崎に移った。しかし、於大の方の命令により岡崎城に入ることは許されず、岡崎城の外れにある菅生川のほとりの惣持尼寺で、幽閉同然の生活を強いられたという。1567年(永禄10年)、信康と織田信長の長女徳姫が結婚。しかし、築山殿はいぜんとして城外に住まわされたままだった。1570年(元亀元年)、ようやく築山殿は岡崎城に移った。
 1579年(天正7年)、徳姫は後に「信長十二ヶ条」に記されることとなる、築山殿の信康への自分に関する讒言、築山殿と唐人医師減敬との密通、武田家との内通を信長に訴えたという。これにより信長が家康に築山殿と信康の処刑を命じたとされる。家康の命令により、野中重政によって築山殿は小藪村で殺害された。信康は二俣城で切腹した。
 築山殿の名は瀬名姫。別名を鶴姫。父は今川義元の一族、関口義広(関口親永との説もある)。母は今川義元の妹にあたる。また、室町幕府の重鎮、今川貞世の血を引く。1557年(弘治3年)、今川氏の人質だった徳川家康(当時の松平元康)と結婚。駿河御前とも呼ばれた。1559年(永禄2年)嫡男・信康、1560年(永禄3年)亀姫をそれぞれ産んだ。
 今日残されている築山殿の伝説は、およそ次のようなものだ。
①夫の徳川家康と別居状態にあった築山殿は、唐人の鍼医・減敬と内通した。
②その減敬は実は武田の間者で、築山殿を篭絡し、彼女を武田方へ内通させた。
③減敬の誘いに乗った築山殿は、わが子・信康可愛さに武田方への内通を確約し、信康の同意を得ることなく、勝手に信康を大将に謀反の計画を進めた。
④築山殿は嫉妬深い女だった。彼女の侍女おまんが家康の目に留まって、手がつき身籠った。このことを知った彼女はおまんを木に縛り付け、裸にして散々に打ち据え、そのまま放置した。
⑤信康の正室、徳姫は織田信長の娘であり、今川義元の姪にあたる築山殿とすれば、仇のかたわれと思った。そこで嫁の徳姫に辛くあたり、調伏の呪詛を行った。
こうしてみると、いずれも悪女のなせるところと思わざるを得ない。しかし、築山殿は本当にこんな悪女だったのか。後世、徳川幕府が始祖、家康を神聖化するあまり、家康の長男殺害というショッキングでスキャンダラスな事件の要因を築山殿に押し付け、スケープゴートに仕立て上げたためではないのか。
いずれにしても、年上で、恐ろしく嫉妬深くて気の強い、この築山殿の存在が、家康の女性観に大きな影響を与えたことは否定できない。身分の高い女など妻にするものではない。もう懲り懲りだ。その教訓、いやトラウマに近いものが家康にあったかも知れない。何しろ、築山殿を除くと、家康が愛した女性は一人として上流階級の出身者はいない。下級武士や下級神職の娘や百姓の後家など、すべて下層民の出身なのだ。天下の徳川家康の女性観を決定づけた女性、築山殿とはそんな人物だった。

(参考資料)司馬遼太郎「覇王の家」、井沢元彦「暗鬼」、海音寺潮五郎「乱世の英雄」

 

三井高利「単木は折れ易く、林木は折れ難し」

三井高利「単木は折れ易く、林木は折れ難し」
 これは『三井八郎兵衛高利 遺訓』の一節だ。この部分を正確に記すと、「単木は折れ易く、林木は折れ難し、汝等相恊戮輯睦(きょうりくしゅうぼく)して家運の鞏(きょう)を図れ」というものだ。1本の木は折れやすいが、林となった木は容易に折れないものだ。わが家の者は仲睦まじく互いに力を合わせ家運を盛り上げ固めよ-という意味だ。 
 伊勢松坂の越後屋、三井高俊の女房(法名を殊法)は、連歌や俳諧などにうつつをぬかして家業を省みない夫に代わって、毎朝七ツ(午前4時)に起きて酒、みその販売と質屋を切り回し、四男四女のわが子を育てるというスーパー女房だった。この四男が三井財閥三百年の繁栄の基礎を築いた三井八郎兵衛高利(1622~94)だ。少年期の高利は、この松坂の店で母から商家の丁稚として厳しくしつけられている。
 当時の商人の理想は「江戸店持ち京商人」だった。江戸時代、最大の商品である呉服(絹織物)を日本第一の生産地、京都に本店をおいて仕入れ、大消費都市江戸で売りさばくため店を構える。これが商人の念願でもあった。商才にたけた殊法は当然、長男の俊次(三郎右衛門)を江戸に送り本町四丁目に店を開かせた。
 高利は14歳になったとき、母の殊法から江戸の兄の店で商売を習ってきなさい-と修業に出される。が、彼は江戸で長兄の俊次が舌を巻くほどの商才を発揮する。長兄から店を任された高利は、10年間で銀百貫目ほどだった江戸店の資金を千五百貫目(約2万5000両)に増やしているのだ。俊次はこんな知恵のよく回る弟が空恐ろしく、将来高利が独立して商売敵になれば、自分の店はおろか、わが子たちはみな高利に押し潰されてしまう-と頭を抱えた。そんなとき、松坂にいて母と店をみていた三男の重俊が36歳の若さで急死してしまった。次男弘重は上野国(群馬県)の桜井家へ養子に行っていたので母と店をみる者がいない。そこで、俊次は高利に松坂に帰って母上に孝養を尽くしてくれと、江戸から追い払った。俊次にとって格好のタイミングで厄介払いできたわけだ。
 以来、高利は老母に仕え店を守り、江戸での独立の夢を抱きながら鬱々として20余年の歳月を過ごすことになる。江戸の俊次が死んだとき、高利はすでに52歳になっていた。しかし、彼のすごいのはこれからだ。かねてからこの日のために、わが子十男五女のうちから、長男の高平、次男の高富、三男の高治と3人の息子を江戸に送り、俊次の店で修業させていた。その息子たちを集めると、本町一丁目に呉服、太物(綿織物)の店を開き、故郷の屋号を取って越後屋と名付けた。後年の三井財閥の基礎となる巨富は、晩年の高利のこの店で稼ぎ出されたものだ。
雌伏20余年、高利が練りに練った、当時としては誰も思いいつかなかった卓抜な商法が次から次へと打ち出される。その頃の商人の得意先を回っての、盆暮れ二度に支払いを受ける“掛売り”(“屋敷売り”)商売ではなく、“現銀掛値なし”つまり定価による現金販売の実施だ。そして得意先を回る人件費を節約した「店売り」であり、今まで一反を単位として売っていたものを、庶民にも買えるように「切り売り」をしたのだ。この店頭売り商法は大当たりした。
そんな状況に“本町通りの老舗”の商人たちは越後屋に卑劣な嫌がらせに出る。そこで高利はつまらぬ紛争に巻き込まれることを避け、駿河町へ移った。駿河町でも高利の商法は江戸の人々に受け入れられ、巨富を築き上げていく。その繁昌ぶりをみると、井原西鶴の「日本永代蔵」には享保年間(1716~36)、毎日金子百五十両ずつならしに(平均して)商売しける-とある。新井白石の「世事見聞録」には文化13年(1816)、千人余の手代を遣い、一日千両の商いあれば祝をする-とある。まさに巨富としか表現のしようがない。
天和3年(1683)、高利は駿河町南側の地を東西に分けて、東側を呉服店、西側を両替店とした。これが後の三越百貨店、三井銀行となった。

(参考資料)童門冬二「江戸のビジネス感覚」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」、神坂次郎「男 この言葉」、大石慎三郎「徳川吉宗とその時代」、小島直記「逆境を愛する男たち」、中内 功・中田易直「日本史探訪/江戸期の芸術家と豪商 三井高利」

正岡子規 「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候」

正岡子規 「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候」
 この言葉は1898年(明治31年)正岡子規が書いた『歌よみに与ふる書』に書かれているものだ。子規は日本の最も伝統的な文学、短歌の世界で革命を断行し成功させた。子規以後の歌人は、彼の理論に大きく影響された。また、彼は俳句・短歌のほかにも新体詩・小説・評論・随筆など多方面にわたり、創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした。
 革命は伝統的権威を否定することだ。短歌でいえば「古今集」がその聖書(バイブル)だった。子規はこの古今集の撰者であり代表的歌人である紀貫之を「下手な歌よみ」と表現、古今集をくだらぬ歌集と断言したのだ。子規は貫之だけでなく、歌聖として尊敬された藤原定家をも「『新古今集』の撰定を見れば少しはものが解っているように見えるが、その歌にはろくなものがない」と否定している。賀茂真淵についても『万葉集』を賞揚したところは立派だが、その歌を見れば古今調の歌で、案外『万葉集』そのものを理解していない人なのだとしている。これに対して子規は、万葉の歌人を除いては、源実朝、田安宗武、橘曙覧を賞賛している。
 子規の言葉は激越だが、そこには彼の一貫した論理が存在している。彼の革命はまさに時代の要求だったのだ。『歌よみに与ふる書』は日清戦争が終わって、戦争には勝利したのに列強の三国干渉に遭い苦渋を味わされた。それだけに、強い国にならなければならない。歌も近代国家にふさわしい力強い歌でなくてはいけない-というわけだ。
子規は、主観の歌は感激を率直に歌ったもの、客観の歌は写生の歌であるべきだと主張した。言葉も「古語」である必要はなく、現代語、漢語、外来語をも用いてよいと主張した。この主張は多くの人々に受け入れられ、子規の理論が近代短歌の理論となった。子規の弟子に高浜虚子、河東碧梧桐、伊藤左千夫、長塚節らが出て、左千夫の系譜から島木赤彦、斎藤茂吉など日本を代表する歌人が生まれた。
子規は伊予国温泉郡藤原町(現在の愛媛県松山市花園町)に松山藩士・正岡常尚、妻八重の長男として出生。生没年は1867年(慶応3年)~1902年(明治35年)。本名は常規(つねのり)、幼名は処之介(ところのすけ)、のちに升(のぼる)と改めた。1884年(明治17年)東京大学予備門(のち第一高等中学校)へ入学、同級に夏目漱石、山田美妙、尾崎紅葉などがいる。軍人、秋山真之は松山在住時からの友人だ。子規と秋山との交遊を描いた作品に司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」がある。
1892年(明治25年)帝国大学文科国文科を退学、日本新聞社に入社。1895年(明治28年)日清戦争に記者として従軍、その帰路に喀血。この後、死を迎えるまでの約7年間は結核を患っていた。病床の中で『病床六尺』、日記『仰臥漫録』を書いた。『病床六尺』は少しの感傷も暗い影もなく、死に臨んだ自身の肉体と精神を客観視した優れた人生記録と評価された。
野球への造詣が深く「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」などの外来語を「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」と日本語に訳したのは子規だ。
辞世の句「糸瓜咲て 痰のつまりし仏かな」「をととひの へちまの水も取らざりき」などから、子規の忌日9月19日を「糸瓜(へちま)忌」といい、雅号の一つから「獺祭(だっさい)忌」ともいう。

(参考資料)「正岡子規」(ちくま日本文学全集)、梅原猛「百人一語」、小島直記「人材水脈」、小島直記「志に生きた先師たち」

 

 

 

 

 

淀屋常安 全国一の豪商も子孫の驕りが招いた“闕所”で消滅

淀屋常安 全国一の豪商も子孫の驕りが招いた“闕所”で消滅
 武家社会、商人にとって何よりも恐ろしいのは“闕所(けっしょ)”だった。商人が闕所になると、資財はすべて没収され、家屋敷も召し上げられて、それこそ裸になって住居を追われなくてはならない。江戸時代前期の浪花商人の代表が淀屋であり、その闕所になった豪商の筆頭が淀屋だ。淀屋といえば世に名高いのが淀屋辰五郎だが、正確にいえば淀屋の家系図に辰五郎という人物はない。したがって、一般的に通り名となっている辰五郎は俗称ということになる。
 現在、大阪市役所のある御堂筋の少し南に淀屋橋が架かっているが、これこそ淀屋を記念したもので、常安町の地名もまた淀屋常安からきている。このように町名や橋の名になって淀屋の名が残っているのは、現在の中之島をつくり、大阪の中心部を砂州から陸地として開墾したのがこの淀屋だからだ。
淀屋の屋敷は表は北浜に、裏は梶木町(現在の北浜四丁目)に及び、東は心斎橋、西は御堂筋に至るという広大な地域を占めていて、敷地にしておよそ2万坪を所有していたという。そこに百間四方の店を構えていたというから、すごいスケールだ。 
 淀屋のルーツは山城国で岡本姓を名乗る武士の出身だった。豊臣秀吉の世になって大坂に移り住んだ。十三人町(大川町)に居を定めた常安は、淀屋と称して材木を商っていた。大坂冬の陣に際して、時代の趨勢を読む先見の明があったからだろうか、常安は関東方に味方、積極的に協力した。その褒美として徳川家康は、常安に八幡の山林地三百石と朱印を与えた。そのうえ帯刀を許され、干鰯(ほしか)の運上銀をもらえることになった。
また彼は大坂冬夏の陣で、各所に散乱している死体を片付けて鎧、兜、刀剣、馬具などの処分を任せてもらった。この戦場整理で、彼は巨富をつかんだ。徳川方に賭けた彼の狙いは見事に的中して、多くの権益と利益を得たばかりか、戦後の大坂で大きな発言権を持った。彼は全国の標準になるような米相場を建てたいと願い出て許された。功労者淀屋常安の願い出でなかったら、あるいは許されなかったかもしれない。こうして諸国から集まってくる米は、常安の邸で品質、数量に従って相場を建てられることになった。それはいわば全国の米を一手に握ったようなもので、彼は莫大な利益を得た。
彼には三男二女があった。淀屋の系図でみると、長女が婿養子をもらっている。この養子を長男としていたので、実子の三郎右衛門が次男ということになっている。この言堂三郎右衛門が古庵と号し、淀屋橋屋の祖となった。ただ代々、三郎右衛門と称し、古庵と号したといわれ、まぎらわしい。二代目は父が築いた財産と稼業を基礎として、さらに富を増やしていった。元和8年に魚市場、慶安4年に青物市場をそれぞれ支配下に治め、三大市場を一手に握った。こうして二代目は日本一の富商となった。
二代目には実子がなく、そこで弟五郎右衛門の長男、箇斎を養嗣子として迎え、三代目三郎右衛門を名乗り、淀屋の身代と事業を継いだ。ただ、この三代目にはさしたる業績は伝わっていない。箇斎の子、重当が四代目だ。ここまでは父祖の業務と身代を何とか無事に守ってきたが、重当の子の五代目三郎右衛門の時に、あまりに驕奢(きょうしゃ)が過ぎるというので、お上のお咎めを受けて遂に闕所になってしまった。
それは宝永元年(1704)2月、財政に行き詰まった幕府が発した質素倹約令に反するというものだった。初代常安の時代は、徳川将軍とあんなに親密だったのに、五代目ともなると全く疎遠になっていた。と同時に淀屋が大坂商人本来の律義さと節約の精神を忘れ、あたかも大名にでもなったかのように驕り高ぶっていたことに天罰が下されたともいえよう。
初代なら集めた富の魅力を、一人でこっそり楽しんだだけで、世間に見せびらかすようなバカな真似はしなかっただろう。淀屋の闕所によって淀屋からカネを借りていた諸大名は借金棒引きとなり、助かったことはいうまでもない。また、この結果、淀屋の莫大な財産はこれを没収した幕府の所有物となった。だから、淀屋の闕所はそれが狙いだったともいえる。

(参考資料)邦光史郎「日本の三大商人」

 

 

 

 

銭屋五兵衛「『海に国境はない』を実践、海の百万石を実現した海商」

銭屋五兵衛「『海に国境はない』を実践、海の百万石を実現した海商」
 文化6年(1809)6月、加賀藩主前田斉広が招いた学者、本多利明は「経世済民」論を説く中で「海に国境はない」と明言した。この言葉は、39歳から廻船業に乗り出した銭屋五兵衛が持ち前の決断力と実行力で、次第に海運界で頭角を現し、その全盛期には藩の枠を越え、国を越えた貿易に乗り出す際、常に意識していたことだった。
 本多の論旨はこうだ。経済という言葉は元々「経世済民」の四文字から取られたもの。経世済民というのは、世を整え民を救うという意味だ。換言すれば仁政を施し、困窮農民を救うということだ。そのためには日本の各地域でできる産物を、地域同士で交換する必要がある。それには陸、海を含め交通が滑らかでなければならない。
ところが、現実は二百数十の国々(藩)があり、境を設けている。海はさらにひどい。国を閉じている(鎖国)ため港に外国の船が入ることができないし、日本の船が外国に行くこともできない。しかし本来、海に国境はない。日本の土地には限りがある。日本に住む万民の需要を日本の産物だけで満たそうとしても無理だ。やはり外国から産物を輸入しなければならない。日本もこの際、思い切って大船をつくり外国と交易を始めるべきだ。
 本多の「経世済民」論に深い感銘を受けた五兵衛は、加賀藩執政奥村栄実と交流を重ねて得た前田家御手船鑑札を武器に、業容を飛躍的に拡大。前田家から年々強いられる金銀調達(=損失)をはるかに上回る利益を得た。江戸、大坂、兵庫、長崎、新潟、酒田、青森、弘前、松前、箱館などに大規模な支店を置き、津軽の鯵ヶ沢、田名部、伊豆の下田、戸田、越後柏崎、越前三国の要地に出張所、代理店を設け、その数34カ所に上った。嘉永4年(1851)ごろ、五兵衛の持ち船は千石船クラスの船が10艘、五百石以上が11艘など大小合わせて200艘を超えたという。
 全国の取引先は当時の豪商を網羅していた。江戸の松屋伝四郎、京都の太物問屋近江屋仁兵衛、万屋林兵衛、大坂北堀江の加賀屋林兵衛、安達町の炭屋安兵衛、兵庫の北風荘右衛門、青森の山本理右衛門、越前武生の金剛屋次郎兵衛、越中伏木の堀田善右衛門、越後柏崎の牧口家、酒田の本間家などだ。
彼は西廻り航路、東廻り航路のいずれも利用し、藩際貿易により巨利を得た。蝦夷地の海産物を江戸、大坂へ運送。幕末には江差3000軒といわれる商家のうち、1500軒は加賀衆だった。蝦夷随一の豪商村山伝兵衛も能登出身だ。彼の蝦夷地における商品仕入れが順調に行われたのは、現地加賀衆の協力が得られたためだった。全国諸藩の商人たちは、加賀百万石の前田家御手船鑑札を見ると五兵衛を信用し、どのような信用貸しにも応じるというわけだ。
加賀百万石の藩船を駆使しての信用力を背景に、幅広く海外と密貿易していたとの例証がある。オランダ語などを話せ、絵画、彫刻、算数、暦学、砲術、馬術、柔術なども究めたという通称大野弁吉とめぐり合い、伝承を含めて記すと、五兵衛は朝鮮東方近海の竹島(鬱陵島)でアメリカ捕鯨船と交易。樺太へも進出し、山丹人を相手に家具類を売り、現地の産物を仕入れ、大坂で売却していたという。
またロシア沿海州の港へ米を運送し、毎年2万石を売却していた。この事実は五兵衛の死後、嘉永6年(1853)に長崎へ入港したロシア使節プチャーチンにより日本側にもたらされた。勝海舟も「銭五(銭屋五兵衛)の密貿易なんていうことは、徳川幕府ではとっくに分かっていたけれども、見逃していたのだ」と言っている。
このほか、五兵衛は豪州南部のタスマニア島に足跡を印していたという話もある。海外に限らず、藩を越えての交易としては薩摩藩領近海での例がある。五兵衛の持ち船が、薩摩南西端の坊津湊へ風待ちのためしばしば入津したことは、現地でもよく知られていることだという。坊津は薩摩藩島津家が密貿易に利用した湊だ。
巨万の富を得た銭屋も奈落に落とされる時がくる。79歳の五兵衛が晩年、子孫の繁栄を願って試みる最後の大事業、河北潟干拓工事で投毒容疑をかけられ、逮捕されてしまう。そして藩の手で、巨大な財産は全部没収された。そのうえ五兵衛は執拗な拷問の果てに、嘉永5年(1852)80歳で牢死し、息子の要蔵は磔になる。銭屋は徹底的な弾圧を受けたわけだ。
 銭屋の先祖は武士だった。小岩を姓とし、前田利家の家来で舟岡山城主高畠石見守定吉に仕えていたが、善兵衛の代に関ケ原の合戦後、帰農して能美郡山上郷清水村に住んだ。善兵衛の子吉右衛門のときに金沢に移住し、さらに寛文年間に宮腰に引っ越して質屋と両替商を始め、それまでの清水姓を捨て、銭屋を称するようになった。それから徳兵衛、市兵衛、三右衛門、五兵衛…と続く。この五兵衛は、ここで取り上げた五兵衛の祖父である。

(参考資料)南原幹雄「銭五の海」、津本陽「波上の館 加賀の豪商・銭屋五兵衛の生涯」、童門冬二「海の街道」、同「江戸の賄賂」、日本史探訪/「銭屋五兵衛 獄死した豪商の雄大な夢」、安部龍太郎「血の日本史 銭屋丸難破」、邦光史郎「物語 海の日本史」

三野村利左衛門 明治動乱期、三井財閥草創期の舵取りを担った大番頭 

三野村利左衛門 明治動乱期、三井財閥草創期の舵取りを担った大番頭 
 三野村利左衛門は幕末から明治の初期の激動期、天下の富豪が相次いで倒れていく中、三井家を襲った幾多の窮地を救った大番頭で、影の功労者だ。
 利八と名乗った彼の前半生は霧に包まれている。生地は信濃(長野県)または出羽(山形県)ともいう。いやそうではなく、出羽の浪人を父に、江戸で生まれたとの説もある。だが、いずれも確証はない。両親とも死別し、天涯孤独となった利八が、放浪無頼の生活を続けた後、江戸へやってきたのが天保10年(1839)、19歳の時のことだ。深川の干鰯問屋、丸屋に住み込み奉公。後にその才覚を認められ旗本、小栗家の雇い中間に召し抱えられた。小栗家は先祖が徳川家の縁筋に当たる名家で、禄高は2500石、利八が奉公した頃の当主は小栗忠高だった。この跡を継いだのが、その子・小栗上野介忠順で、後に勘定奉行として名を馳せた人物だ。
 神田三河町の油、砂糖問屋、紀ノ国屋の入婿となり、娘なかと結婚した。利八25歳、なか19歳だった。義父の死に伴い彼は美野川利八を襲名し、紀ノ国屋の財を足がかりに、小銭両替商を開業。これが江戸における筆頭両替商、三井両替店に出入りするきっかけとなる
 当時、ペリーの黒船来航で日本は大きく揺れ動き、豪商三井家も再三にわたり幕府から巨額の御用金を申し付けられ、破産の危機に直面していた。これを拒否すれば、そのしっぺ返しに幕府は三井家に「闕所」(けっしょ=財産没収)を言い渡すことは間違いない。頭を抱えた三井家では減額を嘆願することにした。このとき浮かび上がったのが、出入りの脇両替屋の利八だった。小栗家で信頼をうけている彼なら…と望みを託したのだ。こうして勘定奉行、小栗説得を任された大役だったが、結果は大成功。利八は三井家への御用金は免除、そのうえ幕府が江戸市中への金融緩和政策として行っている、貸付金の取り扱い業務「江戸勘定所貸付金御用」まで貰ってきたのだ。
 こうして三井家重役の絶大な信頼を得た利八は三井家当主、三井八郎右衛門高福に対面を許され、三井家の「三」、紀ノ国屋美野川利八の美野川の「野」、亡き父の養子先の木村の「村」を取り、」「三野村」を名乗り、破格の待遇で三井入りする。利八46歳のことだ。以来、利八は三井両替店の番頭(通勤支配格)として幕末維新の金融争乱の真っ只中を奔走する。
 三野村は、明治新政府の中心は薩長にあるとにらんで、長州の要人に接近、井上馨と組んで新政府の税収や公金の取り扱いの代行を引き受けた。江戸改め東京に日本初の洋風建築を試みて、5階建ての三井組バンクをつくったのも彼の才覚だった。三井越後屋の分離(三越の創立)と、銀行業への進出が実行された。この頃になると、三井の総指揮は三井家当主を頭に戴いた三野村利左衛門に任され、彼は大番頭となった。彼は明治の動乱期の大波に揺れる三井丸のパイロット役を果たしたばかりか、資本主義経済の世の中へ向かって、三井家の針路を決める大事な役目を果たし、三井銀行、三井物産の創設に関わった。

(参考資料)邦光史郎「豪商物語」、三好徹「政商伝」、大島昌宏「罪なくして斬らる 小栗上野介」、小島直記「福沢山脈」

 

角倉了以 高瀬川など日本の水運に力を尽くした京の豪商

角倉了以 高瀬川など日本の水運に力を尽くした京の豪商
 京都市を北から南へ流れる鴨川。これと平行に、その少し西を走る細い1本の運河がある。森鷗外の「高瀬舟」で知られる高瀬川だ。今は高瀬舟の影もないが、鷗外が記したこの高瀬川は370年の昔、河川開鑿に賭けた一人の京都の大商人によって造られた。角倉了以だ。彼は戦国末期から江戸初期に生きた大事業家だが、大堰川(桂川)、富士川、天竜川など、とくに日本の水運に力を尽くした人だ。
 角倉家はもともと吉田姓をとなえ、室町幕府に医師として仕えていた。この一族が発展する貨幣経済の先端、土倉(一種の金融業)として巨大になるのは、了以の祖父、宗忠の代である。角倉家には二つのはっきりした異質の血が流れている。一つは医者としての、もう一つは代々、土倉業を行ってきた商人としての血だ。医師としての家系は、了以の弟、宗恂に伝えられ、彼は医術をもって徳川家康から禄を受けている。了以は実業家、企業家としての血が、非常に色濃く流れていた
 了以が京都の高瀬川を開き「高瀬舟」を走らせるのには、実は他で見た情景がヒントになっており、彼のオリジナルではない。彼が交易品の調達のため倉敷を訪れその際、親戚を伴って岡山に遊びに行った。陽気のいい時期だったので、親戚は彼を近くの高梁川の水遊びに誘った。そこで彼は乗った船の脇を底の浅い船がしきりに行き交いするのを見た。それが、海や平野部の品物を山に運び、山から山の産品を積み下ろしてくる「高瀬舟」だと知る。これが彼に転機を与えた。
 二条で樋口を設け鴨川の水を取り、九条で鴨川を横切り、伏見で淀川に接するという大工事を数期に分けて、“高瀬川開鑿プロジェクト”を計画した。全長10㌔、川幅8㍍、舟入れ9カ所、舟回敷2カ所、工費7万5000両という大工事が完成したのは、慶長19年秋である。この完成によって、大坂から伏見まで三十石船で運ばれた物資は、伏見で高瀬舟に積み替えられ、京の市中に運ばれた。この運河ができたことにより、京都の経済はこれまで以上に潤うことになった。
 上りの高瀬舟を引く綱引きのホイホイという掛け声が、明治の頃まで両岸数㌔にわたり聞こえた。その高瀬舟159艘。運賃は1回2貫500文。うち1貫文は幕府に、250文は船加工代に、残り1貫250文が角倉家に入った。この開通により京の物価が下がったという。
 角倉了以の仕事の特色は公共性の強い土木や海運、異国交易、河川の開鑿だ。そのうえ了以の性格もあって、自ら陣頭に立って仕事の指揮をした。ただ、ここで忘れてはならないのが、息子の角倉与一(素庵と号す)の存在だ。了以と素庵との仲は、年が17歳しか離れていないこともあって、半ば兄弟のような関係だった。家業の中での役割分担で一番重要なことは、幕府との折衝だった。朱印状や河川開鑿許可など外交的な折衝はすべて素庵の仕事だった。だから了以がやった偉大な事業のほとんどが、この親子の共同事業といっていい。
 了以は宇治・琵琶湖間の疎水計画を幕府に願い出た。これは琵琶湖・宇治川間に運河を引くだけでなく、これにより琵琶湖の水位を下げ、6万石ないし20万石の上田を作るという雄大な計画だった。家康も承諾したが、彼はそれを知ることなく、慶長19年(1614)7月12日、世を去った。

(参考資料)日本史探訪/江戸期の豪商「角倉了以 高瀬川を開いた京の豪商」(辻邦生・原田伴彦)、童門冬二「江戸のビジネス感覚」、童門冬二「歴史に学ぶ後継者育成の経営術」、邦光史郎「物語 海の日本史 角倉了以・素庵父子」

藤原鎌足 大化改新で表舞台に躍り出た天智天皇の腹心で、藤原氏の祖

藤原鎌足 大化改新で表舞台に躍り出た天智天皇の腹心で、藤原氏の祖
 645年(皇極4年)、飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)で起こった蘇我入鹿暗殺事件の首謀者は誰だったのか。恐らくは20歳の中大兄皇子と32歳の中臣鎌足との見方が有力だ。半面、詳細は今日においても断定できない部分もある。しかし、この事件によって蘇我宗家の政権支配は崩壊、クーデターは成功した。入鹿を討たれた父・蝦夷は翌日、自害し蘇我氏宗家は壊滅した(乙巳の変)。
そして、新政府は入鹿暗殺のわずか2日後に樹立。中大兄皇子を皇太子とし、藤原鎌足(当時は中臣鎌足)を内臣(うちつおみ)とする大化の改新がスタートした。これまで無名に近かった中臣鎌足が、一躍時代の実力者として歴史の表舞台に躍り出たのだ。鎌足はこの後、中大兄皇子=天智天皇の腹心として活躍、日本に史上初の官僚機構を創っていく。
 元々は中臣氏の一族で、初期の頃には中臣鎌子(なかとみのかまこ)と名乗っていた。その後、中臣鎌足(なかとみのかまたり)に改名。臨終に際して天智天皇より大織冠を授けられ、内大臣に任じ、「藤原」の姓を賜った。出生地については「藤氏家伝」によると、大和国高市郡藤原(現在の橿原市)だが、大原(現在の明日香村)や常陸国鹿島とする説(「大鏡」)もある。子供は長男の定慧(じょうえ、俗名は真人、644~665年)(僧侶=遣唐使として渡唐)、次男の不比等(659~720年)の二人が知られている。
 鎌足は早くから中国の史書に関心を持ち、あのマキャベリズムの聖書といわれる中国兵法の書「六韜三略(りくとうさんりゃく)」を暗記した。隋・唐に留学していた南淵請安が塾を開くと、そこで儒教を学び、蘇我入鹿とともに秀才とされた。鎌足は密かに蘇我氏打倒の意志を固め、擁立すべき皇子を探した。初めは軽皇子(後の孝徳天皇)に近づき、後に中大兄皇子に接近。また、蘇我氏一族の内部対立に乗じて、蘇我倉山田石川麻呂を味方に引き入れた。乙巳の変の功績から内臣に任じられ、軍事指揮権を握った。但し、内臣は寵臣・参謀の意味で、正式な官職ではない。
 鎌足は氏族連合から、天皇を中心とする中央集権体制に転換すべく、律令国家への第一歩として、それまでの各豪族の私有だった人民と土地を、すべて国有とする「公地公民制」、官僚制度の整備を目指す「冠位制」の制定を、朝廷の宰相として強力に推し進めた。鎌足の定めた「冠位制」は、それ以前の聖徳太子による「冠位十二階制」を改めたもので、「徳・仁・礼・信・義・智」といった、それまでの徳目を用いず、織・繍・錦などの冠の材質と、紫・青・黒という色彩によって区分された。
 鎌足は中大兄皇子と二人三脚で、断固とした姿勢で改革に取り組んでいた。そのため計画を阻む者は容赦なく滅ぼした。649年(大化5年)、入鹿暗殺の功労者、蘇我倉山田石川麻呂が讒訴を受けて自殺に追い込まれている。鎌足はかつての主君、孝徳天皇が中大兄皇子と仲違いすると、これを冷酷に切り捨てて、667年、近江大津京遷都を断行している。また、日本最初の国立学校=「庠序(しょうじょ)」を開設。家財を投じて神仏を保護したかとみれば、百済救援軍派遣の軍事的冒険を決断し、663年、白村江で唐・新羅連合軍に惨敗して、終戦処理に奔走しなければならなかった。
ところで、これだけ強力に諸施策を断行してきた鎌足だが、彼個人にとって悲しい事件がある。653年(白雉4年)、孝徳天皇を難波に残して飛鳥に移ったこの年、鎌足の子、定慧が出家、入唐しているのだ。当時は次男の不比等はまだ生まれていないから、一人息子だ。しかも中臣家は神官の家柄、それにも増して当時、唐へ渡ることは大変な、命の危険を伴った。政治家として成功の道を行く鎌足が、どうしてこの大事な一人息子を出家させて唐へやったのか、極めて謎めいている。定慧は唐へ渡り、それからさらに百済へ行く。しかもその百済が滅んで、日本へ帰ってきている。ところが、この定慧は日本へ帰ってわずか3カ月、23歳の若さで毒殺されているのだ。
これには定慧の出自がからんでいる。史料によると、定慧の生年はおそらく皇極2年か3年。この年、孝徳天皇つまり軽皇子が自分の妃、阿倍小足媛を鎌足に与えているのだ。つまり定慧は軽皇子の子、あるいはその疑いのある人物だったということだ。となると、中大兄皇子と孝徳天皇の仲が決定的に冷え込んだとき、あるいは対立したとき、鎌足が孝徳天皇の子供であるという嫌疑を持たれている定慧を手許に置いておくことは、中大兄皇子の手前都合が悪かったのだ。そこで鎌足は因果を含めて唐へやったのではないか。だから、定慧は日本へ帰ってきてはいけない人物だったのだ。
668年(天智7年)、鎌足は「補佐役」として、宿願の中大兄皇子の即位(=天智天皇)を実現した。鎌足が没したのは、その翌年だ。享年56。律令制はすべてが鎌足によって、実行に移されてはいない。その多くが完成をみたのは、彼の次男、藤原不比等の代以降だった。だが、鎌足は律令制への道を開いた革命家だったといえよう。

(参考資料)黒岩重吾「茜に燃ゆ」、井沢元彦「日本史の反逆者 私説・壬申の乱」、加来耕三「日本補佐役列伝」、梅原猛「日本史探訪/律令体制と歌びとたち」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」、神一行編「飛鳥時代の謎」、関裕二「大化改新の謎」

由利公正 横井小楠の「王道政治」を徹底して実践した男

由利公正 横井小楠の「王道政治」を徹底して実践した男
 福井・越前藩士で当時、三岡八郎といっていた由利公正は、「藩富」のた
めの殖産興業を奨励した横井小楠の経営哲学を徹底して実践した。横井小楠
は「地球上にも、有動の国と無道の国がある。有動の国というのは、王道政
治を行っている国のことだ。無道の国というのは覇道政治を行っている国の
ことだ。王道政治というのは民に対して仁と徳を持ってのぞむことだ。覇道
政治というのは、民に対して力と権謀術数を持ってのぞむことである」と定
義した。
由利公正は幕末から明治にかけて活躍した英傑だ。彼が仕えたのは名君と
いわれた松平慶永(春岳)である。慶永は他家から入った養子なので、有
能なブレーンを次々と登用した。その一人が藩の医者だった橋本左内であ
り、また九州熊本から招いた既述の横井小楠だ。小楠は家老よりも上席の
ポストも貰って、藩士たちに学問を教えた。三岡八郎はこの小楠の考えに
共感した。そして尊敬し、教えを受けるために小楠の家を訪ね、小楠も八
郎の家にやってきた。二人でよく酒も飲み交わした。
 越前藩は32万石の大藩だが、藩の財政は貧乏のどん底にあった。そのた
め、寛永年間、幕府から正貨2万両を借り入れ、これを基礎として4万両の
藩札を発行し、必要ある場合いつでも正貨と交換するという兌換制度をつく
った。これがわが国における藩札発行のはじめだ。同藩の窮乏は脱出でき
ず、藩札は増発され、結局は不換紙幣となってしまうのだが、明治政府の財
政担当者第一号が越前藩士から出るそもそもの機縁はここにあった。
 横井小楠の教えに従って、越前藩でも産業奨励を行うことになった。その
責任者に選ばれたのが三岡八郎だ。八郎は「藩が富むためには、民がまず富
まなければならない」ということを実行しようと企てた。その方法として
①藩内で生産される製品に、付加価値をつけて高く輸出できるようにする
②藩に物産総会所を設ける③藩内の生産品は物産総会所が買い上げる。この
時は、藩札をもって支払いに充てる。そして、これを売り払った時の収入は
正貨とする-とした。藩札の使用などは他の藩とそれほど変わらない。しか
し、藩が設けた物産総会所の運営を商人に任せたことは、他藩より一歩進ん
でいた。
 藩が物産総会所を持つということは、藩が商社をつくったということだ。
藩が藩内物産の専売を行うということは「武士が商人になること」であり、
同時に「藩(大名家)が商会化した」ということだ。つまり商人のお株を奪
って、武士と武士によって組織されている大名家が前垂れ精神を持って商売
を始めたということだ。だから、三岡八郎は「あいつは銭勘定ばかり堪能
で、武士にあるまじき振る舞いをしている」とバカにされてきた。ところ
が、横井小楠の出現により、これまでの八郎に対する批判が間違いだと指摘
されたのだ。
 横井小楠は英国を例に「自国の産業革命以来生産過剰になった物品を売り
つけるために、アジアをマーケットにしようとした。しかし、いうことを聞
かない中国にはアヘン戦争を起こして、無理矢理自国の製品を買わせてい
る。あんなやり方は王道ではない。覇道だ。いまの世界で王道を貫けるのは
日本以外ない。そうすれば、日本の国際的信用が高まり、多くの国々が日本
のマネをするようになるだろう。日本は世界の模範にならなければならな
い」と唱え続けた。
 その国内における実験を越前藩で実行する三岡八郎も「越前藩の藩内生産
品に付加価値をつけて高く売るといっても、おれは覇道を行うわけではな
い。商業を通じて、王道を実践するのだ」という自信を持っていた。
 三岡八郎は明治維新になってから、由利公正と名を変える。彼の新政府に
おける最初のポストは財政担当だった。新政府の参与に推薦されたが、カネ
の全くない財政運営がその任務だ。普通なら冗談じゃないと抗議するところ
だが、彼には越前藩での財政改革の経験がある。彼以外に財政問題には体験
も見識もなかった。そのため、そのリーダーシップはおのずと由利公正が握
るところとなった。彼は慶応年間から明治にかけて、寝る間も惜しんでこの
仕事に専念した。素人ばかりの明治新政府にあって、由利公正の財政的手
腕、経歴は断然傑出していた。
 由利公正はその後、東京府知事や元老院議官にもなった。明治維新直後に
「議事之体大意」という国事五箇条を提出した。これが、後の「五箇条のご
誓文」の原案になる。

(参考資料)尾崎護「経綸のとき 近代日本の財政を築いた逸材」、童門冬二
      「江戸商人の経済学」、小島直記「無冠の男」

 

 

藤原不比等 律令国家の影の制定者で、藤原摂関政治の礎つくる

藤原不比等 律令国家の影の制定者で、藤原摂関政治の礎つくる
 藤原不比等は律令国家の影の制定者で、後の藤原“摂関”政治体制の礎をつくった人だ。不比等には本人が遺したとされるインパクトのある言葉はない。また肖像もない。しかし、それは彼が生きた時代がそれを彼に強いたのであり、彼が明解かつ強固な意志を持っていたが故に、徹底して抑制の利いた官僚政治家の“顔”を貫き通した結果に他ならないのではないか。
具体的にいえば、彼は壬申の乱の勝者で後の天武・持統朝の敵、天智朝の実質的No.2藤原鎌足を父に持つが故に、その存在自体が危うく、決して目立ってはならない人間だったのだ。没年から逆算すると壬申の乱当時、彼は15歳。父親の名前が大きいだけに、いわば“戦争犯罪人の身内”として、その身を潜めるように乳母の山科(現在の京都)の田辺史大隅(たなべのふひとおおすみ)に養われていた。彼が官僚として少しずつ頭角を現してくるのは持統天皇の御代になってからだ。雌伏15年、彼は31歳のとき、刑部省の判事に任じられて、やっと歴史に顔を出す。
不比等は持統女帝の下で、真摯に勤勉に働く。野望を秘め、研ぎ澄まされた爪の片鱗さえも覗かせることなく、女帝の孫、軽皇子(後の文武天皇)の出現を辛抱強く待つ。やがて王座の激務に疲れた女帝が、位を文武に譲る。持統女帝53歳、文武15歳、不比等は働き盛りの40歳になっていた。
以来、彼は文武天皇の周囲に、娘・宮子を送り込んだほか、後に妻に迎える、文武天皇の乳母・県犬養三千代など人脈による包囲網を張り巡らし、実権を掌握していく。娘婿の文武天皇が持統女帝の死後数年後、25歳の若さで世を去って後、文武の母・阿閉皇女=元明天皇、そしてその娘氷高皇女=元正天皇と世は移っても、天皇家と法律のエキスパートとしての不比等との信頼関係は揺るがず、文武天皇の忘れ形見、首皇子、後の聖武天皇の成長を待った。
不比等は「律令国家」完成のための三つの事業を行っている。①「養老律令」の制定②平城京遷都(和銅3年・710)、そして③『日本書紀』の編集-さらにこれら三つの事業に先立つ「大宝律令」の制定、藤原京遷都(朱鳥9年・694)、そして『古事記』の編集にも彼は最重要人物として関わっている。
従来『日本書紀』編集の仕事は舎人親王の事績に数えられてきた。これは『続日本紀』の記事でそう結論づけられてきたのだ。しかし、皇族である舎人親王が一人で『日本書紀』を作ることは到底、不可能である。「大宝律令」は刑部親王(忍壁皇子)が総責任者となっている。
ただ『続日本紀』には「大宝律令」の制定に不比等が関わったことが明らかにされている。「大宝律令」および「養老律令」の撰定には当代の多くの知識人が動員されている。そして総責任者として名目的に親王が立ったと思われる。しかし、実質的な責任者は「大宝律令」も「養老律令」も不比等であったとの見方が近年有力になっている。『日本書紀』も、史書には不比等の名は出てこないが、その中心的役割を担ったのは彼だと思われるのだ。
また『続日本紀』によると、文武2年(698)8月の条に、藤原姓は不比等およびその子孫に限り、他の藤原氏はもとの「中臣」姓に戻れ-という意味の一文がある。これは政治の権力を不比等とその一族に集中させ、他の藤原氏を追い落とすという意味に解することができる。その結果、不比等の一族が宗教と政治の両方を支配できる、確固とした「藤原体制」を作ることができると考えたのではないか。政治による宗教、すなわち神祇の完全な掌握である。
 養老4年(720)、不比等は62歳の生涯を終えた。元正天皇は右大臣正二位だった故不比等に太政大臣、正一位を贈った。律令官制における最高位である。臣下では不比等をもってはじめとする。生前、不比等は太政大臣に任ぜられようとしたが固辞して受けなかった。この点、死ぬ間際まで「内臣(うちつおみ)」という皇太子・中大兄(後の天智天皇)の秘書の地位にとどまって、冠位を受けなかった父、藤原鎌足に似ている。
このため、不比等は即位した聖武天皇は見ていない。さらに望んでいた安宿媛(あすかひめ)の立后(=光明皇后の誕生)はその後のことだ。キングメーカーになれずに人生を終えたのは心残りだった違いないが、その後、彼の夢は100%叶えられた。そしてこれをきっかけに、天皇家と藤原氏の結びつきが長く続くことをみれば、彼こそ「藤原王朝」の創始者といえる。

(参考資料)梅原猛「海人と天皇」、黒岩重吾「天風の彩王 藤原不比等」、永井路子「美貌の大帝」、永井路子「はじめは駄馬のごとく ナンバー2の人間学」、日本史探訪/上山春平・角田文衛「律令制定と平城遷都の推進者 藤原不比等」

 

 
                             

渡辺崋山 画家で、家老を務め善政を行うも蛮社の獄に遭い自決

渡辺崋山 画家で、家老を務め善政を行うも蛮社の獄に遭い自決
 渡辺崋山(通称登)は三河国田原藩の家老を務める一方、国宝『鷹見泉石像』や数多くの重要文化財に属する傑作を遺す高名な画家でもあった。しかし、海外の新しい知識を得るためにシーボルト門下の俊才たちとスタートした蘭学研究が、ときの幕府目付で幕府の儒者の林家の倅、鳥居耀蔵の憎しみをかい、天保10年(1839)の蘭学者弾圧の“蛮社の獄”に列座。同藩における自分の立場から、その影響が藩主や師、友人に累が及ぶのを案じて、切腹自殺した。
 崋山は田原藩藩主、三宅家1万2000石の定府(江戸勤務)仮取次役15人扶持、渡辺市兵衛の嫡男として寛政5年(1793)麹町の田原藩邸で生まれた。幼少から貧困に苦しみ、8歳で若君の伽役として初出仕した崋山は、12歳のとき日本橋で誤って備前候世子(若君)の行列と接し、供侍から辱めを受けた。これに発憤した崋山は大学者への道を志し、家老で儒者の鷹見星皐に学ぶ。
だが、家計の貧困を助けるため転向。平山文鏡、白川芝山について画法を学び、のち金子金陵、谷文晁に師事して南画の構図や画技を学ぶとともに、内職のために灯籠絵などを描いた。こうして近習役から納戸役、使番と累進した崋山は、晩年、家老末席に出世していた父の跡目を継いだ。遺禄80石。
 26歳のとき正確な写実と独自の風格を持つスケッチ『一掃百態』を描き、30歳で結婚。この頃から崋山は蘭学や西洋画に傾倒、西洋画特有の遠近法や陰影を駆使した作品を仕上げ、34歳の春、江戸に来たオランダ国のビュルゲルを訪ねて西洋の文物への関心を深めている。
 天保3年(1832)40歳で江戸家老に栄進し禄120石。崋山は農民救済を図るため、悪徳商人と結託した幕吏が計画した公儀新田の干拓や、農民の生活を脅かす領内21カ村への助郷割当の制度を、幕府に陳情、嘆願して廃止、免除させた。また飢饉に備えての養倉「報民倉」を建築。農学者、大倉永常を登用して甘蔗を栽培させて製糖事業を興すなど、藩政への貢献は大きい。
 また、田原藩主の異母弟で若くして隠居していた三宅友信に蘭学を勧め、大量の蘭書を購入。シーボルト門下の俊才で町医者の高野長英や岸和田藩医、小関三英、田原藩医の鈴木春山らに蘭書の翻訳をさせた。崋山はいつかこの蘭学研究グループの代表的立場に押し上げられていった。
そしてこの会が、憂国の情とともに、鎖国攘夷の幕政に批判的な色彩が強いものとなっていった。崋山自身も時事を討議し幕臣の腐敗無能ぶりを詰問した『慎機論』を著している。伊豆の代官で、西洋砲術家で海防策に心を砕いていた幕府きっての開明派の江川英龍のため、崋山は『西洋事情御答書』を書き送っている。
 これらのことが“蘭学嫌い”の幕府の目付、鳥居甲斐守耀蔵の異常な憎しみをかい、天保10年(1839)の“蛮社の獄”に発展、崋山も「幕政批判」の罪に問われて捕えられ、投獄7カ月。この後、崋山は藩地田原へ蟄居。幽閉所での崋山の暮らしぶりは窮乏をきわめている。母や妻子を抱えての貧窮生活を見かねた友人たちが、江戸で彼の絵を売ってやった。
ところが、かねてから開明派崋山の活躍ぶりを苦々しく思っていた守旧派の藩老や藩士たちは、謹慎中あるまじき行為と騒ぎたて、公儀から藩主までお咎めを被る-という噂を撒き散らした。こうした噂を耳にした崋山は藩主や周囲に累が及ぶのを案じて切腹、貧乏と闘い続けた生涯に幕を閉じた。

(参考資料)童門冬二「歴史に学ぶ後継者育成の経営術」、神坂次郎「男 この言葉」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」、吉村昭「長英逃亡」、林武・杉浦明平「日本史探訪/国学と洋学 渡辺崋山」