care のすべての投稿

藤原俊成女 後鳥羽院歌壇で活躍した新古今時代を代表する女流歌人

藤原俊成女 後鳥羽院歌壇で活躍した新古今時代を代表する女流歌人

 藤原俊成女(ふじわらとしなりのむすめ)は、俊成(通称しゅんぜい)の娘ではなく、養女としていたが、実は孫だ。彼女の結婚生活は長続きせず、妻としての幸せには恵まれなかったが、30歳を過ぎてから後鳥羽院に出仕。後鳥羽院歌壇における俊成女の活躍は目覚しく、新古今時代を代表する女流歌人となった。女流歌人の『新古今和歌集』への入集歌は、式子内親王(しきしないしんのう)に次いで第二位だ。

 藤原俊成女の生没年は不詳。1171年(承安元年)ごろに生まれ、1251年(建長3年)以降に亡くなったと推測される。本名は不詳。実父は藤原盛頼。実母は俊成の娘、八条院三条。1177年(治承元年)彼女が7歳のころ、父は「鹿ケ谷の変」に連座して官職を解かれ、八条院三条と離婚。以後、彼女は祖父・俊成のもとに預けられたらしい。そして、俊成の養女となった。後に歌壇で「俊成卿女」などと称された。現実に『新古今和歌集』などには「皇太后宮大夫俊成女」として収められている。

 少女時代を祖父・俊成のもとで過ごし、20歳のころ、時の政界の実力者、土御門内大臣・源通親(みちちか)の次男、大納言・源通具(みちとも)と結婚した。1190年(建久元年)ごろのことだ。通具との結婚生活は、一男一女をもうけながらも長続きしなかった。1199年(正治元年)夫の通具は、土御門天皇の乳母、従三位典侍(ないしのすけ)按察局(あぜちのつぼね)・藤原信子(しんし)と結婚した。按察局は、通親の養女となって後鳥羽院の後宮に上った宰相君源在子(さいしょうのきみみなもとのざいし=承明門院)の異母妹で、通親を柱とする当時の権勢の中心にいた女房だ。

 夫の通具は父の名代として『新古今和歌集』の5人の撰者の筆頭だったが、藤原定家などは『明月記』の中でしばしば撰者としての見識のなさを記している。通具は、係累を見極め、出世のために何度も結婚・離婚を繰り返した父・通親と同様、出世欲が人一倍強く、人格的に俊成一族とは相容れなかったのだ

 そんな、肌合いの違う夫との以後の結婚生活は、形式的には夫婦関係を解消することはなかったが、俊成女にとって決して幸せなものではなかったようだ。そして、二人の関係は夫の夜離れにつれ、自然離別という状態になっていった。翌年の1200年(正治2年)には母の八条院三条が亡くなり、彼女はいっそう孤独な境涯になった。

 失意の俊成女が、輝きを取り戻すのは30歳を過ぎて、後鳥羽院の女房として出仕してからのことだ。幼い頃から俊成のもとで養育され、磨かれただけに、後鳥羽院歌壇で活躍し始めるのに時間はかからなかった。史料によると、後鳥羽院主催の1201年(建仁元年)八月十五日撰歌合(うたあわせ)が、「俊成卿女」の名の初見で、彼女のいわば「歌合デビュー」だが、その後、後鳥羽院歌壇の多くの歌合に参加している。その歌才ゆえに「俊成卿女」「俊成女」の名誉ある称を得たとみられる。

 「風かよふ寝ざめの袖の花の香に かをるまくらの春の夜の夢」

 歌意は、春の夜明け方、ふと目覚めると、風がほのかに枕元にかよっている。その風は花の香を運んでくるばかりか、はらはらと散る花をさえ袖の上に運んでくる。その花の香に包まれて、果たして目覚めているのか、それとも春夜の夢の中にまだ漂っているのか分からないような、心地よさの中で、すべてが夢の中のようなひとときだ。

 『新古今和歌集』入集歌をみると、祖父・俊成、叔父・定家らの影響はもとより、『伊勢物語』『源氏物語』『狭衣(さごろも)物語』などの古典を縦横に摂取し、技巧的、構成的な作風を展開する最も新古今的な作家の一人といえる。

 「下燃えに思ひ消えなむけぶりだに 跡なき雲のはてぞかなしき」

 歌意は、片思いの苦しさの中で私はこがれ死にすることでしょう。せめて私を荼毘に付す煙なりとも、あの方に知ってもらいたいものだが、その煙さえ空に立ちのぼっては誰のものというしるしもない。悲しいことです。この歌も『狭衣物語』に収められている歌がベースになっている。

 晩年の住まいにちなみ「越部禅尼(こしべぜんに)」「嵯峨禅尼」などとも呼ばれた。家集に『俊成卿女集』がある。俊成女はいま、祖父・俊成と墓を並べ、京都の東福寺南明院に眠っている。

(参考資料)大岡 信「古今集・新古今集」

只野真葛 封建社会の束縛・苦難に、力強く生きた女流文学者

只野真葛 封建社会の束縛・苦難に遭いながら、力強く生きた女流文学者

 只野真葛(ただのまくず)は、『赤蝦夷風説考』を幕府に上申した工藤平助の娘、あや子の後の名だ。真葛は、天明から文化・文政の江戸時代中期~後期、家の没落や結婚の失敗などの幾多の苦難を乗り越え、自由で鮮やかな個性に輝く著作を残した。封建社会の束縛に取り囲まれながらも、自分を見失うことなく、一人の人間として力強く生きた女流文学者で国学者だった。只野真葛の生没年は1763(宝暦13)~1825年(文政8年)

 江戸の築地で生まれた只野真葛(当時は工藤あや子)の父は工藤平助。江戸ではかなり名の知れた医者だ。養父の工藤丈庵(くどうじょうあん)以来、伊達家に仕えているが、父は藩侯・伊達重村の命令で還俗し、それまでの周庵(しゅうあん)という医者らしい名前を改めて、平助を名乗るようになっていた。母は同じく伊達藩の桑原隆朝の長女、遊(ゆう)。

 あや子の別号は綾女。工藤綾子または、単にあや(綾)、また「工藤真葛」「真葛子」「真葛の媼(おうな)」とも称された。只野は婚家の姓。あや子の上に生後まもなく死去した子がいたが、実質的には弟2人、妹4人を合わせた7人の長女として育った。「真葛」の筆名は、両親が7人の子供たちを秋の七草の名に因んで呼称していたことに由来し、40歳のころから自ら用いるようになった。

 あや子は父の影響で蘭学的知見にも通じ、ときに文明評論家や女性思想家と評されるときもある。彼女は読本の大家として知られる曲亭馬琴とも親交があった。馬琴に批評を頼んだ経世論『独考(ひとりかんがへ)』、俗語体を駆使して往時を生き生きと語った随筆『むかしばなし』、生まれ育った江戸を離れて仙台に嫁してからの生活を綴った『みちのく日記』など多数の著作がある。

 あや子は幼女の時代から才弾けていて、筆が持てるようになった3歳の頃、すぐ「いろは」が書けるようになったし、『百人一首』も瞬く間に憶えてしまった。父は「あや子はもの憶えがいい」と喜んで、すぐ下の弟とともに、漢籍の素読を授けた。だが、そのうちにあや子に漢文の素読をさせることをやめた。あや子が「どうして?」と訊ねると、父は困ったような微笑を浮かべて「女が四角い文字を憶えると不幸せになるというからな。わしはあや子を不幸せにしたくないのさ」といった。そんな時代だった。

 女はもの知りであってはならない。女は男より賢くなってはいけない。つまり、男女は同等であってはならない。この考え方はあや子の時代から約200年経った第二次大戦まで続いた。18世紀半ばすぎに生きていたあや子は、この封建的規制を不自由なこと、理屈に合わないことと感じた。普通、この時代の女性のほとんどがこの規制の前に、黙って引き下がってしまうところだ。そのことがあや子の個性を裏付けるものといえるかも知れない。

 江戸時代の女性は、様々な社会的制約に取り囲まれていた。あや子=真葛はそれを痛いほど体験しながら、独自の道を開いていった。そして、いつか、封建的な制約を超えた、ユニークな思考を展開させていったのだ。1778年(安永7年)、あや子は伊達藩上屋敷へ奉公に出た。七代藩主・伊達重村夫人、近衛年子に仕えることになった。16歳のときのことだ。1783年(天明3年)、選ばれて重村の息女・詮子(あきこ)の嫁ぎ先、彦根藩の井伊家上屋敷に移ることになった。この井伊直富と伊達詮子の縁談を取り持ったのは、当時の権力者、田沼意次だったという。

 これに前後して父・平助は1781年(天明元年)、『赤蝦夷風説考』下巻を、そして1783年(天明3年)には同上巻を含めすべて完成させた。ただ、1786年(天明6年)工藤家にとって極めて不運なことが起こった。徳川十代将軍・家治が亡くなり、これをきっかけに平助の蝦夷地開発計画に耳を傾けてきた開明派の老中首座・田沼意次が失脚。代わって保守派の松平定信が老中首座に就いたことで、平助の出世の見込みは全くなくなったのだ。

 また、あや子自身も1788年(天明8年)、夫の井伊直富が28歳の若さで病死した詮子のもとを辞し、実家(工藤家)へ戻った。そしてこれ以後、あや子はやむなく工藤家の支柱たらざるを得なくなった。そんなあや子に肉親の死、意に沿わぬ結婚の失敗など、様々な可能性が扉を閉ざしていった。しかし、彼女は決して「人間とはなにか、そして生きるとは?」という問いかけを忘れることはなかった。

 真葛は、二度目に嫁いだ伊達藩士・只野行義のもとで、ようやく「書くこと」によって己れの居場所を見い出すことになり、それは夫の死後も変わらなかった。女流文学者・只野真葛の誕生だった。

(参考資料)永井路子「葛の葉抄(くずのはしょう)」、大石慎三郎「田沼意次の時代」、佐藤雅美「主殿の税 田沼意次の経済改革」

大伴坂上郎女 大伴氏を支え、『万葉集』に84首所蔵の女流最多の歌人

大伴坂上郎女 大伴氏を支え、『万葉集』に84首所蔵の女流最多の歌人

 大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)は、穂積皇子、藤原麻呂、大伴宿奈麻呂(すくなまろ)らに嫁ぎ、後年は氏族の巫女的存在として大伴氏を支えた。額田王以後最大の女流歌人で、『万葉集』に長短歌84首が収められている。これは女性では最多で、全体でも大伴家持、柿本人麻呂に次いで第三位だ。大伴坂上郎女の生没年は不詳。

 大伴坂上郎女は、大納言・大伴安麻呂と石川内命婦の娘。大伴稲公の姉で、大伴旅人の異母妹。大伴家持の叔母。坂上郎女の通称は、坂上の里(現在の奈良市法蓮町北町)に住んだためという。7世後半に生まれ、750年(天平勝宝2年)ごろまで生きた。藤原時代の最後から奈良朝初期に歌を残し、『万葉集』に84首が収められている女流最多の歌人。これに次ぐのが笠郎女の29首だから、その差は歴然としている。

    晩年の穂積皇子に愛され、次いで藤原不比等の四男で京家の祖・藤原麻呂の妻となった。その死別後、異母兄・大伴宿奈麻呂に嫁して坂上大嬢(おおいらつめ)、二嬢(おとのいらつめ)を産んだ。724年(神亀元年)~728年(神亀4年)ごろ宿奈麻呂が亡くなった後、異母兄の旅人を追って大宰府に下向した。帰京後は佐保邸にとどまり、一家の刀自(とじ=家政をつかさどる婦人の称)として、また氏族の巫女的存在として大伴氏を支えた。旅人が亡くなった後は、甥の家持を後見し、家持の歌人としての出発に多大な影響を及ぼすとともに、娘の大嬢をその妻として嫁がせた。

 大伴坂上郎女の歌人としての評価は高い。その題材も相聞歌、祭神歌、挽歌など多岐にわたっている。とりわけ、恋の歌において、即興的・機知的な才を遺憾なく発揮した。

 「夏の野の繁みに咲ける姫百合の 知られぬ恋は苦しかりけり」

 歌意は、夏の野の繁みにひっそりと咲いている姫百合のように人に知られない恋は苦しいものだなあ。

 「千鳥鳴く佐保の川瀬のさざれ波 やむ時もなし我が恋ふらくは」

 歌意は、佐保川の川面を岩ばしるながれのように、私の恋心もまた激しく、とどまることはない。

 「山菅(やますげ)の実ならぬことを我(わ)に寄そり 言われし君はたれとか寝(ぬ)らむ」

 歌意は、山菅が実を結ばないことを、私との仲になぞらえて世間から噂されたあなたは、いまごろどなたと一緒に寝ているのでしょうか。

 「黒髪に白髪(しろかみ)交じり老ゆるまで かかる恋にはいまだ逢はなくに」

 歌意は、黒髪に白髪が混じって、これほど年取るまで、こんな恋にはまだ出逢ったことはありません。

 「恋ひ恋ひて逢える時だに愛(うつく)しき 言(こと)尽くしてよ長くと思はば」

 歌意は、恋して恋して、やっと逢えたときくらい、情け深い言葉をありったけ言い尽くしてください。これからも二人の仲を長く続けようと思うなら。

 「ぬばたまの夜霧のたちておぼほしく 照れる月夜の見れば悲しさ」

 歌意は、夜霧が立ち込めて、ぼんやり照っている月を見ると悲しいことだ。 

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」

大伯皇女 伊勢神宮の斎宮を務め、非業の最期を遂げた大津皇子の姉

大伯皇女 伊勢神宮の斎宮を務め、非業の最期を遂げた大津皇子の姉

 大伯皇女(おおくのひめみこ)は、天武天皇の皇女で、大津皇子の同母姉だ。673年から伊勢神宮の斎宮(いつきのみや)を務めていたが、天武天皇崩御がこの大伯皇女はもとより、大津皇子を含めた姉弟の不幸を呼ぶ引き金となった。天武天皇病没後の政情不穏な中で、天武の皇后・持統天皇が仕掛けた策謀にかかり、弟・大津皇子が謀反の罪で処断されると、大伯皇女も斎宮を解かれ、表舞台から姿を消した。大伯皇女の生没年は661年(斉明天皇7年)~702年(大宝元年)。

 大伯皇女は斉明天皇の時代、中大兄皇子が実質上、指揮し、百済救援軍を派遣するため天皇家一族が筑紫へ向けて西下した際、その途中、備前国大伯(おおく)(岡山県邑久郡、おくぐん)の海上で生まれたため、そこからこの名が付けられた。「大伯」は「大来」で表記されることもある。大伯皇女・大津皇子の姉弟が、なぜ持統天皇に嫌われ、排除されるのかといえば、二人はいまは亡き、持統天皇の同母姉・大田皇女の子だからだ。

    とりわけ、弟の大津皇子は眉目秀麗で文武両道に優れていたのに対し、持統天皇の息子、草壁皇子は虚弱体質で凡庸だったと伝えられる。そのため、持統天皇にとって大津は息子を脅かす存在だったため、実子・草壁を皇位に就けたいと願う持統天皇の、排除のターゲットとなったのだ。

   歴史に「たら」「れば」をいっても仕方がないのを承知で、あえていえば、成り行きに任せれば、持統天皇誕生の目はなかった。大伯皇女・大津皇子の姉弟の母・大田皇女は二人の幼少時亡くなっているが、もし健在なら当然、大田皇女が皇后となっているはずで、大津が皇太子となり、天武天皇の後継となっていただろう。

 大伯皇女は673年(天武天皇2年)、父の天武天皇によって斎王制度確立後の初代斎王(斎宮)と定められ、翌674年、伊勢国に下向した。わずか13歳のときのことだ。これにも皇后・持統の意向が働いているとみられる。厄介払いされたのだ。都にとどまり、結婚し子をもうけられると、実子・草壁皇子の子の時代にライバルが増えてしまうからだ。以来、彼女は12年間にわたって斎宮を務めた。

686年(朱鳥元年)自分の運命を予感した大津皇子は、伊勢神宮・斎宮のたった一人の姉、大伯皇女に会いに行く。姉弟は久しぶりの、そして最後の別れを惜しんだ。幼くして母を失った二人きりの同母きょうだいの心の結びつきはよほど強かったのだろう。伊勢から都へ帰る大津皇子を見送るときに詠んだ、大伯皇女の歌が次の一句だ。

「わが背子を大和に遣るとさ夜ふけて 暁(あかとき)露にわが立ち濡れし」

10月3日、大津皇子が謀反人として死を賜った後、大伯皇女は11月17日に伊勢神宮・斎宮の任を解かれ退下し、都に帰った。都に戻った大伯皇女が詠んだ歌2首を紹介する。

 「神風の伊勢の国にもあらましを なにしか来けむ君あらなくに」

 歌意は、神様がいる伊勢にいれば良かった。あなたがいない所に帰ったと

て、何になりましょう。

 「現身(うつそみ)の人なる我や明日よりは 二上山を同母弟(いろせ)と

我が見む」

 歌意は、もはや生きているとはいえない私です。明日からはあなたが眠る

二上山をあなただと思って眺める暮らしになります。

 『万葉集』には大伯皇女の短歌6首が収められている。いずれも無残な死を遂げた弟・大津皇子に対する深い愛情を歌いこんだ秀歌だ。これ以後、大伯皇女がどうなったか、分かっていない。結婚もしなかったとみられる。正史には41歳で亡くなったことだけが記録されている。天武朝から持統朝へ移行した途端、手の平を返したように、謀反人に仕立てられた皇子・大津、そしてその姉・大伯皇女の無念さが伝わってくる。

(参考資料)黒岩重吾「天翔る白日 小説 大津皇子」、神一行編「飛鳥時代の謎」

大弐三位 宮中で、高官夫人として才華を発揮した紫式部の娘

大弐三位 宮中で、高官夫人として才華を発揮した紫式部の娘

 大弐三位(だいにのさんみ)は平安時代中期の女流歌人で、王朝の才女、あの紫式部の娘だ。二度の結婚生活、後に後冷泉天皇となる皇子の乳母も経験した女性だ。多くの「歌合」で歌を詠み、勅撰和歌集『後拾遺和歌集』に37首が収められている。真偽は定かではないが、『源氏物語』宇治十帖や『狭衣(さごろも)物語』の作者ともいわれる。宮中で、そして高官夫人として、母・紫式部譲りの才華を発揮した女性だった。大弐三位の父は藤原宣孝。本名は藤原賢子(けんし)。藤三位(とうのさんみ)、越後弁(えちごのべん)、弁乳母(べんのめのと)とも呼ばれた。大弐三位の生年は999年(長保元年)ごろで、没年は1082年(永保2年)。

 藤原賢子は1001年(長保3年)の3歳ごろ、父と死別。その後は祖父・藤原為時と母・紫式部に育てられた。1017年(長和6年)、18歳のころ、母・式部の後を継ぎ、一条院の女院・彰子(上東門院)に女房として出仕した。当時は祖父の任国の越後国と官名を取って越後弁と呼ばれた。この間、藤原頼宗、藤原定頼、源朝任(あさとう)ら上流貴公子たちと交際があったことが知られている。その後、賢子は関白・藤原道兼の二男・兼隆と結婚、一女をもうけた。1025年(万寿2年)、親仁(ちかひと)親王(後の後冷泉天皇)の誕生に伴い、その乳母に任ぜられた。1037年(長暦元年)までの間に東宮権大進(とうぐうのごんのだいしん)、高階成章(たかしなのなりあき)と再婚、1038年(長暦2年)、為家を産んだ。

 1054年(天喜2年)、第七十代・後冷泉天皇の即位とともに、同天皇の幼少時、乳母を務め弁乳母と呼ばれた彼女は従三位典侍(じゅさんみのすけ)に昇叙、夫・成章も大宰大弐に就任した。大弐三位は、この官位と夫の官名に由来する女房名だ。

 紫式部の才能を受け継ぎ、この間、大弐三位は歌人としての才能に磨きをかける。1028年(長元元年)の「上東門院菊合」、1049年(永承4年)の「内裏歌合」、1050年(永承5年)の「祐子内親王歌合」など多くの歌合で歌を詠んでいる。

 家集『大弐三位集』があり、『後拾遺和歌集』に37首入集。『後拾遺和歌集』、そして『小倉百人一首』に収められている歌を紹介する。

 「有馬山 ゐなのささ原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする」

 歌意は、有馬山や猪名の笹原に風が吹くと、そよそよと音をたてる。その「そよ」ではないが、さあそれですよ、私はあなたのことを忘れなどするものですか。あなたこそ私によそよそしいではありませんか。

 詞書(ことばがき)によると、作者、大弐三位のところに通っていた男が作者に対して、うとうとしくなりながら、自分のことをたなにあげて、作者に「あなたの心が頼りない」といった。そこで作者はこの歌で「頼りにならないのは、あなたの方です」と反撃したのだ。自分から遠ざかりそうな男の不実を恨む女心の寂しさが、うまく表現されている。男に皮肉で言い返したのだが、その皮肉・抗議も正面切ったものではなく、心細さや哀れさを感じさせて、余韻がある。

 大弐三位は、恐らく40歳くらいと比較的短命だった母・紫式部とは対照的に、父、母を失ってからも、したたかに、そして快活に生き抜き、80年を上回る生涯を駆け抜けた。

(参考資料)曽沢太吉「全釈 小倉百人一首」、高橋睦郎「百人一首」

大田垣蓮月 天性の美貌に恵まれながら結婚運に恵まれず尼僧に

大田垣蓮月 天性の美貌に恵まれながら結婚運に恵まれず尼僧に

 大田垣蓮月(おおたがきれんげつ)は江戸時代末期の尼僧歌人・陶芸家だ。彼女は天性の美貌に恵まれながら、結婚運あるいは家庭運には恵まれなかった。そのため、33歳のころ剃髪、42歳のころ俗世の縁を断ち切り得度、洛東・岡崎村の山中に草庵を結び、初めて安心立命の境地に達し、その後は幕末の京に住まいながら、動乱の時代とはほとんど無縁で、陶芸と歌を詠み生涯を全うした。

 大田垣蓮月は、伊賀上野城代家老職、藤堂新七郎良聖(よしきよ)の庶子という。俗名は誠(のぶ)。菩薩尼、陰徳尼とも称した。蓮月の生没年は1791(寛政3)~1875年(明治8年)。生後すぐ京都知恩院の坊官、大田垣伴左衛門光古(みつひさ/てるひさ)の養女となった。7、8歳のころ丹波亀山藩の京屋敷に奥勤めとして奉公し、薙刀ほか諸芸を身に付けた。1807年(文化4年)、17歳のとき大田垣家の養子、望古(もちひさ)と結婚。一男二女をもうけたが、いずれも夭折した。夫の放蕩により、1815年(文化12年)離婚し、京都東山の知恩院のそばに住んだ。

   1819年(文政2年)、29歳のとき、大田垣家に入家した古肥(ひさとし)と再婚し一女を得たが、4年後夫は病没。葬儀の後、養父とともに知恩院で剃髪し、蓮月を称した。2年後、7歳の娘を失い、さらに1832年(天保3年)42歳のとき養父を亡くした。こうしてみると、前世からの何か、得体の知れない宿縁でもあるかのように、次から次へと不幸が彼女を襲う。このように蓮月は一人取り残され、精神的に寂寥のうちにあったが、天性の美貌ゆえ、その後も言い寄る男が後を絶たない。しかし、養父が亡くなった1832年(天保3年)ごろ、俗世の縁を断ち切ることを決意して得度。洛東・岡崎村の山中に草庵を結んで、初めて安心立命の境地に達することができた。

このころ、山中の草庵で詠んだ歌がある。

「山里は松の声のみ聞きなれて 風吹かぬ日は寂しかりけり」

山里の寂しさを歌うようでいて、その実、その静けさの中に澄み切った心を委ねて穏やかに暮らしているさまがよく表現されている。

    その後、蓮月は岡崎、粟田、大原、北白川などを転々とし、急須、茶碗などを焼いて生計を立てた。彼女は引っ越し魔として知られ、三十数回も居宅を変えているが、愛する人々の墓参りのために、そして陶芸の土を確保するため、岡崎近傍を離れることはなかった。

 やがて、その名は高まり自作の和歌を書き付けた彼女の陶器は「蓮月焼」と呼ばれて人気を博するようになった。しかし、自身は質素な生活を続け、飢饉の際には30両を匿名で奉行所に喜捨したり、資財を投じて賀茂川の丸太町に橋を架けたりしたという。1867年(慶応3年)、西賀茂の神光院の茶所に間借りして境内の清掃と陶器制作に日を送り、1875年(明治8年)85歳で亡くなった。

 蓮月は、和歌は上田秋成、香川景樹に学び、小沢藘庵に私淑したという。穂井戸忠友、橘曙覧(あけみ)、野村望東尼らと交流があった。なお、後に画家として名を成す富岡鉄斎は、蓮月尼老年の侍童だ。1868年(明治元年)、『蓮月高畠式部二女和歌集』が出版され、1871年(明治4年)には近藤芳樹編の家集『海女の刈藻』が刊行された。

 蓮月の代表作として次の歌が知られている。

 「宿かさぬ人のつらさを情(なさけ)にて おぼろ月夜(づくよ)の花の下臥(ぶ)し」

 旅の途中で野宿せざるを得なかったとき、人の無情を恨むのではなく、むしろ月を眺めながら花を友として寝ることを喜びと感じられる心の豊かさを持っていたのだ。

 「願はくばのちの蓮の上に くもらぬ月をみるよしもがな」

 これは、蓮月の名を詠み込んだ辞世だ。没後、死出の装束とともに用意されていた蓮と月の絵に、画賛として誌されていた。

 蓮月の出自に別説がある。作家の澤田ふじ子氏によると、蓮月の父は伊賀上野ではなく津藩主の藤堂高猷(たかゆき)の縁者で藤堂良聖(よしきよ)といい、母は不明。洛中の河原町丸太町東入ルで生まれたという。そこは、三本木と俗称される花街の住所だから、要するに母は三本木芸者だったのだ。それなら、蓮月が置屋で生まれて寺侍の養女となり、少女時代に丹波亀山藩の京屋敷に奉公に出たという経歴もスムーズに理解できる。

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」

相模 離婚後、情熱的で奔放な恋の歌を数多く、評価の高い女流歌人

相模 離婚後、情熱的で奔放な恋の歌を数多く残した、評価の高い女流歌人

 相模(さがみ)は、情熱的で妖艶な歌風で知られ、相模守・大江公資(きんすけ)と離婚した後、浮き名を流した奔放な恋を回顧して詠んだ歌などに佳作が多い。勅撰集に合計百九首が入っているほか、『後拾遺和歌集』に採られた四十首は和泉式部の六十七首に次いで二位だ。『新勅撰和歌集』には十八首で和泉式部の十四首よりも多かった。それだけ、女流歌人としての評価が高かった人物なのだ。

 相模の生没年は不詳だが、宇治関白・藤原頼通と同時代の宮廷で1020年代から1050年代にかけて、優れた恋歌を数多く残した歌人だ。大江山の鬼退治で名を馳せた源頼光の娘とも養女ともいわれる。母は慶滋保章(よししげのやすあき)の娘。頼光は清和源氏だが布衣(ほい=無官)、慶滋氏は学者の家系で、いずれにしても下級貴族だ。

 相模は初め、第六十九代・後朱雀天皇の皇女、祐子(ゆうし)内親王に仕えて、乙侍従(おとのじじゅう)といわれた。その後、相模守・大江公資の妻となったので、その縁で以後、相模と通称された。ただ、不幸にも夫婦生活はそれほど長くはなかった。公資が相模守に任官したのは1021年(治安元年)だが、その任地で次第に夫婦の仲が疎隔。相模守の任期を終え京に帰って後、公資が次に遠江守に任じられたときには、二人の仲は亀裂が走り、相模は同行していない。公資は別の女性を任地に伴っているから、恐らく離婚したのだ。それにしても、この大江公資、相模夫妻は、ともに歌人として知られ、仲もよかったといわれるが、儚いものだ。

    二人の仲が良かったときのこんなエピソード伝わっている。公資はかねて望みの大外記書記官に任じられそうになった。そのとき、ある人が公資は妻の相模と一緒に歌をつくるのが好きで、そのために役目がおろそかになるのではないかとからかった。この一言がもとで、公資はその役がふいになったという。

 「恨みわびほさぬ袖だにあるものを 恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ」

    この歌は『小倉百人一首』に収められている作品で、歌意は恋人の無情を恨めしく重い、悲しんで、涙のために乾くひまもない袖、そのため袖は濡れて朽ちてしまいそうだ。そのうえ、この恋のために立つ噂に私の名まで朽ち果ててしまうのは本当にくやしいことです。

 公資と別れた後、一条天皇の皇女、脩子(しゅうし)内親王家に仕えていた時代に浮き名が知られた権中納言・藤原定頼、源資通らとの奔放な恋を回顧して詠んだ歌とされる。

 「五月雨(さみだれ)の空なつかしく匂ふかな 花たちばなに風や吹くらむ」

    これは6月の季節感を詠んで心に深く訴える佳作だ。さみだれは旧暦5月の雨、つまり梅雨のこと。橘はそれに先立って白色五裂の小花が咲き、芳香を発する。そうした季節感を強く意識するとともに、彼女は心密かに往時、その季節にあった、心躍る恋を回顧し、懐かしんでいるのかも知れない。

    相模は歌道の指導的立場にあったばかりでなく、和泉式部、能因法師、源経信らと交流があったことがそれぞれの家集からうかがえる。

(参考資料)曽沢太吉「全釈 小倉百人一首」、松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、高橋睦郎「百人一首」

善信尼 日本最初の尼僧で15歳で百済に留学、戒律を学んだ先駆者

善信尼 日本最初の尼僧で15歳で百済に留学、戒律を学んだ先駆者

 善信尼(ぜんしんに)は飛鳥時代、11歳で出家した日本最初の尼僧の一人で、15歳で百済に留学、戒律を学び帰国。多くの女性を尼として得度、出家させ仏法興隆貢献したと伝えられる女性だ。善信尼は鞍作部(くらつくりべ)の司馬達等(しばたっと)の娘だ。名は嶋。仏師・鞍作止利(くらつくりのとり)の叔母にあたる。中国からの渡来人、恵善尼(えぜんに)、禅蔵尼(ぜんぞうに)とともに得度、出家したといわれる日本最初の尼僧の一人。善信尼の生年は574年(敏達天皇3年)だが、没年は不詳。

 司馬嶋は584年(敏達天皇13年)、百済から請来(しょうらい)した弥勒像供養のために、高句麗から招いた僧・恵便(えびん)に師事、出家し善信尼と名乗った。彼女がまだ11歳のときのことだ。こうして日本初の出家者が誕生した。このとき、中国からの渡来人、恵善尼、禅蔵尼とともに、斎会を行ったと伝えられる。

 仏教の受け入れを巡る諸豪族の姿勢は、消極派が大勢を占めていたといっていいだろう。時代はさかのぼるが『日本書紀』によると、552年(欽明天皇13年)、百済から仏教が伝来すると、欽明天皇はその礼拝の賛否を群臣に諮った。開明派の蘇我大臣稲目(そがのおおおみいなめ)は積極的に賛成したが、物部大連尾輿(もののべのおおむらじおこし)や中臣連鎌子(なかとみのむらじかまこ)は、「蕃神(あだしくにのかみ)」(仏のこと)を礼拝すれば「国神(くにつかみ)」の怒りをかうであろうと反対した。

 そこで、欽明天皇は試みに稲目に礼拝することを許したが、後に疫病が流行し、病死する者が多く出た。尾輿らはその原因を、仏を礼拝したためとして、仏像の破却を欽明天皇に上奏し、仏像を難波に流し、寺を焼いた。この双方の対立は子の時代に引き継がれた。稲目の子・馬子、尾輿の子・守屋だ。こうした崇仏派と廃仏派が激しく対立しつつあった当時、日本初の出家者に対する社会の目は冷たいものだった。翌585年(敏達天皇14年)、廃仏派の急先鋒、物部守屋に廃仏運動の、崇仏派に対する見せしめとして、彼女たちは法衣を剥ぎ取られて全裸にされ海石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)の駅舎で鞭打ちの刑に処された。

 崇仏派の代表者が蘇我馬子だが、馬子はなぜ司馬嶋を選んだのか?それは、政治的な側面を考慮した、もっといえば彼女たちは政治的な道具として利用されたとみるのが妥当なようだ。馬子は、まだまだ得体の知れない仏教を受け入れるにあたり、いきなり男性の僧をつくることは政治的反発も強いと予想。こうした批判を牽制しつつ、神道の巫女と同様のイメージを中心に据え、渡来人だった司馬達等の娘であれば、万一、仏教受容に失敗したときも言い逃れできると読んだのだ。いわば、馬子の巧妙なリスクヘッジの産物だったわけだ。

 年長の善信尼は、馬子の期待通り守屋に辱めを受けた後も、他の二人を元気づけ、尼僧としての務めを果たしていく。善信尼は588年(崇峻天皇元年)、戒律を学ぶため百済へ渡った。後の中国・隋や唐への遣隋僧・遣唐僧に先立つものだ。15歳の善信尼の留学だった。百済で彼女は十戒、六法、具足戒を受け、2年間の留学を終え、590年帰国した。

 帰国後は、馬子が提供した大和国桜井寺(現在の明日香村・豊浦?)に住み、大伴狭手彦(おおとものさでひこ)の娘・善徳(ぜんとく)をはじめ多くの女性を得度、出家させ、仏法興隆に貢献したといわれる。

(参考資料)黒岩重吾「磐舟の光芒 物部守屋と蘇我馬子」、黒岩重吾「紅蓮の女王 小説 推古女帝」、黒岩重吾「聖徳太子 日と影の王子」

正親町町子 名門公家から柳沢吉保の側室となり『松蔭日記』を著した才媛

正親町町子 名門公家から柳沢吉保の側室となり『松蔭日記』を著した才媛

 正親町町子(おおぎまちまちこ)は、藤原北家閑院流、羽林家の家格を有する由緒ある公家の娘だが、江戸時代前期、16歳のころ江戸へ下向して、柳沢保明(後の徳川五代将軍綱吉の側用人・柳沢吉保)の側室となった女性だ。才媛として知られた彼女が、夫・柳沢吉保の幕閣としての栄華と精進を細やかに綴った『松蔭日記』は今日に至るまで高い評価を得ている。

 正親町町子は、権大納言正親町実豊の庶腹の子、神道家公通の異母妹。初名は弁子。町子の生年は1675年(延宝3年)ごろ、没年は1724年(享保9年)。1691年(元禄4年)、江戸へ下向して柳沢吉保(当時は保明)の側室となった。ただ、正親町家というのは、一大名の側室としては家格が高すぎ、全く釣り合いが取れないため、母方の姓の田中氏を名乗った。

 なぜ、このような不釣合いな婚儀が成立したのか。それは、町子の母が御所時代の右衛門佐局(うえもんのすけのつぼね、宮中時代は常盤井局=ときわいのつぼね)に仕えていた縁による。右衛門佐局は将軍生母とはなれなかったが、将軍綱吉の御台所・信子に請われて綱吉の御手附中臈となった才色兼備の女性で、最終的に大奥総取締の役に就いている。

 高貴の家格から迎えた妻の好印象も手伝って、夫・柳沢吉保は将軍綱吉に重用され、幕府大老格・将軍側用人として権勢を振るうまでに大出世した。そして、町子は1694年(元禄7年)、1696年(元禄9年)にそれぞれ吉保の四男・経隆、五男・時睦を産んだ。

 公家から、武家へ嫁いだ町子の心境の一端を示す歌がある。

 「さかゆべき生(おひ)さき見えて今よりや にひ玉松の陰しげるらん」

 朝廷、そして由緒ある公家といえども、「禁中並びに公家諸法度」の統制の下に置かれ、徳川の治世が磐石になったこの時代。公卿の姫たちの最高の出世は、将軍・諸侯の側室となることだった。それが家門の、つまり家計のためだった。彼女たちが帯びた、その悲しい使命を理解せずには味わえない歌だ。

 武家側も、ある程度立身すれば、少々、背伸びをしてでも京都から公家の姫君を側室に迎え、家門にハクをつけることに躍起になった面もあったのだ。こうして、双方の利害が一致、今日風に表現すれば政略結婚が成立していったというわけだ。

 町子が著した『松蔭日記』は、近世女流文学中の出色のものという評価もある。これは、実直に勤める夫・吉保が栄え、そして仕えた綱吉没後に隠居していくまでを描いたものだ。大地震や火事による焼失のときの人々の動きや再建される様子、病気見舞い、回復祝いに、お祝い返し、新築祝いに、お祝い返しなど、とにかく日々のできごとを客観的に書いている。そして、これが大きな特徴なのだが、文章の至るところに古書(古典・古文)の一文を意識した言葉が散りばめられているのだ。和歌文学者的素養がなければ書けない作品だ。

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、朝日日本歴史人物事典

森田無絃 世にも稀なブスが射止めた尊皇派の奇人学者森田節斎の妻の座

森田無絃 世にも稀なブスが射止めた尊皇派の奇人学者森田節斎の妻の座

 森田無絃(もりたむげん)は、幕末から明治にかけて生きた関西の女学者だ。当時としては珍しい、女性の学者が生まれるについては、彼女自身が非常な学問好きだったことはもちろんだが、幼いころ痘瘡を患ったこともあって、世にも稀なブスだったため、彼女の父が恐らく嫁の貰い手がない娘を不憫に思い、せめて本人の好きなことをさせてやりたいと考え、親しい学者に娘を預けたためだ。

 森田無絃は摂津国高槻藩(現在の大阪府高槻市)藩士、小倉藤左衛門(おぐらとうざえもん)の娘だ。本名は琴子。小倉琴子は幼いころ痘瘡を患い、稀に見る不器量な娘だった。同じ女に生まれて、どうしてこうも違うのだろうと恨み言を言いたくなるほどだったという。ただ、彼女は非常に学問が好きで、娘時代から「秋花園(しゅうかえん)」という号を名乗っていた。森田無絃の生没年は1826(文政9)~1896年(明治29年)。

 父の藤左衛門は娘の学問好きを見込んで、親しい大坂の学者、藤沢東畡(ふじさわとうがい)のところに預けた。不器量な顔に生まれた娘に、せめて女学者として、名でも立ててくれれば、それなりの生き方ができるだろう-と考えたからだ。

 琴子が師とした藤沢は、日本の国体にも深い関心を寄せ、「天皇の系統による国体は、孔子の学説に叶っている」と唱えていた。琴子は学問を学びながら、藤沢家の家事の手伝いをするという、いわゆる内弟子だった。藤沢のもとには数多くの男の学生がいた。琴子は、藤沢が学問を教え始めると、その若い男の学生たちの後ろで、ひっそりと師の教えを聴いていた。だが、若い男子学生で、琴子に関心を寄せる者は誰もいなかった。琴子の器量が悪かったので、家事のお手伝いさんが、暇をみて先生の学問を片隅で聞いているのだろう-という程度にしかその存在を考えなかった。

 しかし、娘の琴子にとっては、そうした現実はショックだった。やはり同世代の男に目を向けてもらいたい。それがないため、彼女は次第に孤独になっていった。そうなると、自分でつけた「秋花園」という名前が、何か空々しくなった。美しくもないのに、秋の花の園などと名乗ることが、おこがましくも感じられた。そこで、彼女はその後、「無絃」と名乗るようになった。無絃の「絃」は琴に張った糸のことだ。自分の名が琴子なので、「絃の無い琴」という思いを込めたのだ。

 そんな琴子にとって、予想もしていなかったことが起こる。琴子を嫁に貰いたいという変わった男が現れたのだ。琴子が29歳のときのことだ。夫となったのは大和国(現在の奈良県)の儒学者、森田節斎(せっさい、44歳)だ。森田節斎は、幕末の“奇人学者”の一人だ。大和・五条の医者の息子に生まれた彼は、家業を継がないで、学問を修めた。世の中を鋭く見る目も持っていて、時世に合わせた学説を唱えるので、人気があった。そして、彼は大坂から関西地方を転々として歩き回った。頼山陽と非常に仲良くなった。江戸へも出て学んだ。後には、節斎の学問を慕って、長州(現在の山口県)の吉田松陰をはじめ遠くから訪ねてくる門人が何人もいた。

 節斎の学説は、尊皇論だ。ただ、彼は詩人だったので、尊皇倒幕を現す具体的な方法まで教えることができなかった。端的にいえば、若者たちを煽動して歩いていたのだ。ただ、1854年(安政元年)、44歳になっていたが、まだなぜか独身だった。高槻藩の鉄砲奉行に友人がいた。その友人の伝手で琴子のことを聞き、その彼女が藤沢の内弟子になっていると教えられた。節斎は藤沢とは旧知の仲だった。

 そこで、節斎はすぐ藤沢を訪ね、琴子を妻にしたい旨伝え、琴子本人と会った。そして、思わず心の中でアッと声をあげた。余りにも不器量だったからだ。だが、彼はそんなことでへこむような男ではなかった。琴子を藤沢門下一の女学者よ、と名指したうえで、節斎は「失礼だが、その器量で私以外の誰のところに嫁に行こうと考えておられますか?」と切り出した。押し付けがましい言い方だった。が、琴子は逆らわなかった。師の藤沢から節斎の噂を嫌というほど聞いていたからだ。藤沢は節斎を誉め称えていた。その本人にいま会っているのだ。琴子は、節斎を見返しながら、「いま日本で第一の文章家だとうかがっております森田節斎先生が、私を妻にしてくださるのでしたら、私は半分は師、半分は夫として仕えます」と答えた。

 節斎は琴子と結婚した。友達が「節斎先生、えらい美人をお貰いになったそうだな?」とからかった。節斎は平然と笑っていた。そして、自分のつくった俳句を示した。『どぶろくも 酒とおもえば 酒の味』これには友人たちも大笑いした。しかし、どぶろくに例えながらも、決して琴子をばかにしていないことを知って、それ以後はからかわなかった。 事実、節斎は琴子を尊敬していた。その学殖の深さと、文章力の確かさは、時折節斎を超えた。

 大和・五条は南北朝時代には南朝と縁の深いところだ。尊皇精神は脈々と続き、節斎にもその血は流れていた。節斎は付近の農民たちを集めて、いつか天皇の役に立つ兵士を育てようと、集団訓練を始めた。ところが、節斎にとっては想定外のことが起こった。中にいた過激派が京都の公家、中山忠光を担ぎ出し、「天誅組の乱」を起こしたのだ。乱はすぐ鎮圧されたが、幕府側は「この乱を裏で煽動したのは、森田節斎という勤皇学者だ」と狙い始めた。

 節斎と琴子は、五條にいられなくなって、中国地方に逃れた。倉敷で塾を開いた。このころから、節斎と一緒に弟子たちを教えていた琴子の発言力が強くなった。弟子を選んだり、あるいは追放したりすることに、琴子が干渉した。ある身持ちの悪い弟子をめぐって二人は言い合いになり、節斎は琴子を離縁してしまった。生まれた息子を節斎のもとに置き、傷ついた琴子は大坂に戻って、小さな塾を開いた。もう一人の女学者として十分に生活できた。一方、子供の面倒をみながら、倉敷にもいられなくなった追われる身の節斎は、放浪生活を続けた。そうなると、節斎の頭の中には琴子の姿がちらついた。

 森田節斎は、遂に幕府の権力に屈した。転向宣言をしたのだ。節斎の号を「愚庵(ぐあん)」と改めた。やがて、幕府が倒れた。明治維新になると、節斎と親しかった、いまは新政府の役人になっている春日潜庵(かすがせんあん)が心配して、節斎を探し回った。そして、「琴子さんのところに戻れ」と説得した。二人を迎えた琴子は、育った息子を抱きしめて泣き続けた。節斎は「やっと琴のところに戻ってきた」といった。涙の顔をあげた琴子はこういった。「いいえ、私は琴でも絃がありませんでした。あなたが私の絃だったのです。絃の無い毎日は、本当にさびしゅうございました…」。負け惜しみの強かった節斎は、頷きながら、思わずホロリと涙を落とした。家族の“きずな”が復活した瞬間だった。

 森田無絃の主な著作に『地震物語』『呉竹一夜話』などがある。

(参考資料)童門冬二「江戸のリストラ仕掛人」

小姉君 蘇我氏台頭に貢献したが、姉とは対照的に悲運の途たどる

小姉君 蘇我氏台頭に貢献したが、姉とは対照的に悲運の途たどる

 小姉君(おあねのきみ)は蘇我稲目(いなめ)の娘で、同様に欽明天皇の妃となった姉・堅塩媛(きたしひめ)とともに、大和朝廷における蘇我氏の勢力台頭および権力拡大に貢献した女性の一人だ。小姉君は、欽明天皇との間に5人の皇子・皇女を産んだ。茨城皇子(うばらきのみこ)、葛城皇子(かずらきのみこ)、穴穂部間人皇女(あなほべの はしひとの ひめみこ、聖徳太子の母)、穴穂部皇子(敏達天皇の弟)、泊瀬部皇子(はつせべのみこ、後の崇峻天皇)がそれだ。ただ後年、この小姉君系の皇子たちは悲しい運命をたどった者が多く、姉の堅塩媛系と明暗を分けた。

 蘇我氏は古代史における最大の氏族で、馬子の時代から蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)などが大王家に対して専横を極め、大化改新で滅ぼされたという悪のイメージが強い。だが、この蘇我氏、実は6世紀初頭に稲目が突然、大臣(おおおみ)として出てくるまでは、歴史に登場してくることもあまりなかった謎の多い氏族なのだ。突然、勃興して、古代史の一番のキーポイントを握る存在となった割には、『古事記』『日本書紀』における稲目以前の記述があまりにも簡単すぎる。

『古事記』や『公卿補任(くぎょうぶにん)』などをもとに、蘇我氏の系譜をたどってみると、祖先は伝承の人物・武内宿禰(たけしうちのすくね)の子、蘇我石川宿禰から始まり、満智(まち)-韓子(からこ)-高麗(こま)-稲目と続く。満智からが実在の人物とされている。韓子、高麗も百済の名前なので、蘇我氏は百済系渡来人の総領家として漢(あや)氏や秦(はた)氏を従え、大伴氏や物部氏らの軍事家系ではなく、財政を管理する新しい官僚として登場。大和政権の財政を仕切った氏族だった。

 蘇我氏台頭のいま一つの大きな要因が、聖徳太子の事績にあるように仏教を、熱意を持って取り入れたことと、稲目が大王=天皇の妃に堅塩媛・小姉君の2人の娘を入れて大王家の外戚になったからだ。馬子時代以降の蘇我氏隆盛の要因は、欽明天皇に嫁いだ堅塩媛と小姉君の姉妹による閨閥づくりにあるが、この姉妹のその後の生涯はなぜか明暗を分けた。用明天皇、推古天皇が皇位に就き繁栄を続ける姉・堅塩媛系に対し、小姉君系はどうしたわけか悲運をたどった。

   小姉君系のその一人、崇峻天皇は同じ蘇我氏一族でありながら、馬子の指示を受けた東漢直駒(やまとのあやの あたいこま)に殺害されているし、聖徳太子も母方は小姉君系であり、太子の皇子、山背大兄王(やましろのおおえのおう)もやがて、入鹿(馬子の孫)に一族を滅ぼされているのだ。馬子-入鹿らはなぜ、同じ父、そして祖父にあたる稲目の娘・堅塩媛系を正統視し、小姉君系を排斥・排除していったのか。

     もちろん、これには有力豪族、物部氏との対立を抜きには語れない。対立の構図は「堅塩媛-用明天皇-蘇我馬子」と「小姉君-穴穂部皇子-物部守屋」だ。587年(用明2年)、用明天皇が逝去。守屋は皇位継承者に穴穂部皇子を推した。兄弟相続なら、用明天皇の次は穴穂部だ。これに対して、謀略家の馬子は兄弟相続の慣習を踏まえながらも、小姉君系の勢力を分断させるという秘策に出た。馬子は穴穂部の同母弟の泊瀬部皇子(後の崇峻天皇)を担ぎ出したのだ。そして、穴穂部と当時、険悪な状態にあった豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ、のちの推古天皇、母は堅塩媛)に取り入り、穴穂部皇子と宅部皇子(欽明天皇の皇子、穴穂部派)の殺害の詔(みことのり)を出させて、この二人を殺してしまったのだ。この結果、守屋は擁立すべき穴穂部皇子を失い、いよいよ孤立していった。

 こうしてみると、『日本書紀』に記されている同母姉妹の堅塩媛と小姉君は、やはり真っ赤なウソで、二人は実は姉妹ではなかったのではないか-と考えざるを得ない。確かに系図上は姉妹として記されてはいるのだが、これは体裁を繕っているに過ぎず、何か重大な謎が隠されているに違いない。確かに、馬子にとって、対立していた物部守屋との戦いを勝利に導くための策略重視の側面を割り引いても、どうして実姉(小姉君)が産んだ皇子たち(=馬子にとっては甥)をあれほど簡単に殺害できるのか。容易に答えは出てこない。とすれば、堅塩媛と小姉君は同母の姉妹ではなく、小姉君は馬子にとってよほど対立関係にあった人物を母に持っていたのではないかと推察される。

   小姉君の生没年は不詳。史料によると、小姉君は絶世の美女だったようだ。気品にあふれ、はたを圧する、近寄り難いほどの容姿・容貌に恵まれていたと思われる。これに対し、姉の堅塩媛は並みの容貌だった。そこで、小姉君に対し、逆らい難い嫉妬心が生まれ、堅塩媛本人はもとより、この姉に同情した弟・馬子の意を受けた忠臣・関係者が、小姉君を孤立化させる動きをしていったとの指摘もある。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、黒岩重吾「古代史への旅」、井沢元彦「逆説の日本史②古代怨霊編」、神一行編「飛鳥時代の謎」永井路子「冬の夜、じいの物語」

周防内侍 四代の後宮に出仕し内侍として仕えた、宮中で人気の女官

周防内侍 四代の後宮に出仕し内侍として仕えた、宮中で人気の女官

 周防内侍(すおうのないし)は、平安時代後期の女流歌人だ。後冷泉・後三条・白河・堀河の四代(在位1045~1107年)の62年間、後宮に出仕し、内侍として仕えた女官だ。宮仕えが長期にわたり、歌がうまかったので、宮中でもいい顔だったとみられる。その証拠に、多くの男が彼女宛てに歌を贈ったことが、勅撰集に見い出される。

 周防内侍は周防守・平棟仲(継仲の説もあ)の娘で、ここからその呼び名が出た。本名は仲子(ちゅうし)。生没年は不詳。四代の天皇に仕えた後、1108年(天仁元年)以後、病のため出家し、1111年(天永2年)までの間に没したとみられる。歌は『後拾遺和歌集』『金葉集』『詞花集』『新古今和歌集』など勅撰集に35首が収められている。

 「春の夜の夢ばかりなる手枕(たまくら)に かひなく立たむ名こそ惜しけれ」

 これは『千載和歌集』『小倉百人一首』に収められている歌だ。歌意は、春の短い夜に、夢をみるくらいのほんの短い時間、あなたの腕を借りて枕にすることで、つまらない噂を立てられては、口惜しい限りです。

 『千載和歌集』雑の部に、「二月(きさらぎ)ばかり月のあかき夜、二条院にて人々あまた居あかして物語などし侍りけるに、内侍周防より伏して枕もがなと忍びやかにいふを聞きて大納言忠家、是を枕にとて、腕(かひな)を御簾(みす)の下よりさし入れて侍りければ、よみ侍りける 周防内侍」と詞書(ことばがき)がある。どのような状況のもとで、この歌が詠まれたかがよく分かる。当時の宮廷人の趣味的、遊蕩(ゆうとう)的な雰囲気がよく表現されている。

 早春の月夜、徹夜で女房らがしゃべり合う。「枕がほしいなあ」と周防内侍がいう。通りすがりの大納言・藤原忠家が「これを貸しましょう」と腕を御簾の下から差し入れた。そのたわむれに対して、「これくらいのことで、浮き名を立てられてはやりきれません。せっかくですが、お断りします」と答える代わりに、この歌を詠んだのだ。周防内侍の当意即妙の才気がみなぎっている。

 そして、この続きがある。忠家は

 「契ありて春の夜深き手枕を いかがかひなき夢になすべき」と返している。歌意は、あなたと私との間はさきの世からの縁で、ひとかたならぬ仲です。春の夜更けに、私の手をあなたが枕にするのです。どうしてつまらない夢に終わらせましょうか-という意味だ。

 こういう宮廷の男女関係のありようは自由といえば自由だが、ふしだらになる一歩手前で品を失わなかったのは、女の誇り高い態度もさることながら、それを許した男の女に対する、尊敬を失わない距離の取り方に負うところが大きい。男が大納言という高位の殿上人で、女が受領階級出身の女房であることを考えれば、これは奇跡に近いことだ。

 平安時代、紫式部(一条天皇の中宮彰子に仕えた)や清少納言(一条天皇の中宮定子に仕えた)の例を持ち出すまでもなく、中級貴族ぐらいまでの子女が宮中に出仕することはよくあることで、決して珍しいことではない。だが、その期間が四代の天皇にわたって60年余にもなると、これは異例のことだ。周防内侍はそれだけの間、宮中に仕えた女官だけに、備わった歌のうまさとともに、内部事情には当然明るく、官僚たちにとって無視できない存在でもあったとみることができる。

(参考資料)曽沢太吉「全釈 小倉百人一首」、松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、高橋睦郎「百人一首」

式子内親王 優れた、数多くの“忍ぶ恋”の歌を詠んだ正統派の女流歌人

式子内親王 優れた、数多くの“忍ぶ恋”の歌を詠んだ正統派の女流歌人

 式子(しょくし・しきし・のりこ)内親王は、第七十七代・後白河天皇の第三皇女だが、11年間にわたり、人間の男と交わってはならないという賀茂(かも)の斎院(さいいん)を務めたため、心に秘めた、藤原定家らとの“忍ぶ恋”の苦しみを詠んだ歌を数多く残した。厳しい禁忌(タブー)のもとに生き、その後は出家し、生涯を終えただけに、世俗の女性の恋とは異なる、忍ぶ恋の歌の真実を歌い上げている。定家とともに、『新古今和歌集』の優れた歌人だ。

 式子内親王の母は、従三位・藤原成子(なりこ、藤原季成の娘)。二条・高倉両天皇、以仁王は兄にあたる。1159年(平治元年)から、二条・六条・高倉の三天皇の11年間にわたり賀茂の斎院を務め、1169年(嘉応元年)病気のため退下した。そして、1194年(建久5年)ごろ出家したとみられる。生涯独身を通した。萱斎院(かやのさいいん)・大炊御門斎院(おおいのみかどさいいん)などと称された。法号は承如法(しょうにょほう)。生没年は1149(久安5年)~1201年(建仁元年)。

 式子内親王は、明るい宮廷生活を送った女性ではなかった。その生涯は、源平争乱、朝廷・公卿の没落と武家の台頭という、歴史の転換期だった。崇徳天皇、以仁王、安徳天皇その他の人々の不幸な末路をも見た。それだけに、その歌にも、深い悲しみに洗われた人の持つ味わいがあるのだ。

 「玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらえば 忍ぶることの 弱りもぞする」

 これは『新古今和歌集』、『小倉 百人一首』に収められた式子内親王の歌だ。歌意は、私の命よ、絶えるならいっそのこと早く絶えてしまってくれ。このまま生き長らえていると、この恋の苦しさを堪える力がだんだん弱くなって、忍び隠してきた心のうちの思いが、外に現れてしまいかねないから-というものだ。

 下二句では「忍ぶ」「弱る」と歌い込んで、心にまつわりつく恋のきずなをきっぱりと絶ちきれぬ、そうかといって恋の苦しみにも耐えられぬ、女心の哀切さがにじみでている。現代人には理解し難い王朝女性の恋の表現だろう。わが存在すべてを焼き尽くすほどの恋情に焦がれながら、一切を自分一人の中に隠し通すのだ。それは、恋の自然な発露からすれば、一種自虐的なものであり、それだけに相手に対する純粋な憧れの思いは、一層切なく哀しい。

 大岡信氏は「忍ぶ恋の苦しみを歌った歌はおびただしいが、その最も有名なものは恐らくこの式子の歌だろう」としている。

 式子内親王は、藤原俊成に師事して多くの優れた歌を詠んだ。俊成の『古来風体抄(こらいふうていしょう)』は式子内親王に奉った作品といわれる。俊成の息子、定家は1181年(養和元年)以後、折々に式子のもとへ伺候している。一説によると、内親王のもとで家司のような仕事をしていたのではないかともいわれているが、詳細は定かではない。定家の『明月記』にしばしば内親王に関する内容が登場し、とくに死去の前後にはその詳細な病状が記されていることから、両者の関係が相当に深いものであったことは事実だ。

 謡曲『定家』は式子と定家の恋を題材にしたものだが、真偽は不明だ。ただ、『渓雲問答』に次のような記述がある。二人の関係を定家の父、俊成は、ほのかに聞いていたが、あるとき定家の住まいを調べると、この歌を書いた式子の手跡があった。それで真剣になるのも道理だと思って、諌めなかったという。

 式子内親王は『新古今和歌集』には49首採られ、女流歌人中トップ、また入集歌数では第5位だ。小野小町、和泉式部らとともに、女流歌人として和歌の心を正統に継承した人物といえよう。

(参考資料)大岡 信「古今集・新古今集」、曽沢太吉「全釈 小倉百人一首」、高橋睦郎「百人一首」

山川登美子 『明星』初期の同人で与謝野晶子と才華を競った女流歌人

山川登美子 『明星』初期の同人で与謝野晶子と才華を競った女流歌人

 山川登美子は、与謝野鉄幹が主宰した『明星』の初期の同人で、鳳晶(ほうしょう=後の与謝野晶子)と才華を競った女流歌人だ。師・与謝野鉄幹への思慕を断ち、親の決めた許婚と結婚。そのため、一時、歌から離れたが、不幸にも夫と死別して再び『明星』に復帰した。ところが、不運にも夫の病んだ結核に自らも冒され、30歳の若さで亡くなった。登美子の生没年は1879(明治12)~1909年(明治42年)。

 山川登美子は、福井県遠敷(おにゅう)郡竹原村(現在の小浜市)で、父・山川貞蔵の四女として生まれた。生家は小浜藩主・酒井家に側用人御目付役として仕えた、由緒ある家柄だった。父貞蔵は小浜第二十五国立銀行(現在の福井銀行)の頭取を務めた。登美子の本名はとみ。雲城高等小学校在学中は学業成績抜群で、習字・和歌・絵に才能を発揮した。

 登美子は1895年(明治28年)、大阪のミッションスクール、梅花女学校に入学。大阪に嫁いでいた長姉いよ宅から通学した。1897年(明治30年)同校を卒業。1900年(明治33年)、母校の研究生となり英語を専修。同年、与謝野鉄幹が創刊した雑誌『明星』に登美子の歌が掲載された。そして、鉄幹と、翌年、鉄幹と結婚することになる与謝野晶子(旧姓・鳳)に出会った。また、登美子はこのころ、鉄幹が創立した東京新詩社の社友となった。

 鉄幹と出会い、歌人として目覚めた登美子は、本格的に和歌の世界にのめり込み、『明星』を舞台に「白百合」の号で、与謝野晶子と歌才を競った。これから女流歌人として歩を進めようかとした矢先、登美子は突然思いもよらない行動に出た。歌の世界へ自分を導いた鉄幹への思慕を断ち、1901年(明治34年)、親の勧めた縁組に従って、山川駐(とめ)七郎と結婚したのだ。登美子22歳のときのことだ。

 この点、大阪府堺市の商家で育った与謝野晶子と比較すると対照的だ。武家の重臣の家柄に育った登美子は、自己規制ができる忍耐強い性格だった。これに対して、晶子は奔放華麗で、自分の思いは、親の意向に背いてもやり遂げる性格だった。登美子の親も『明星』に歌が掲載され評判になるのを好まず、女の身で世間に目立つようなことをさせたくないと考え、密かに縁談を進めていたのだ。登美子自身も、親の意思に背くことは親不孝と捉えてもいたのだろう。

 登美子にとって、そんな一大決心のもとにスタートさせた結婚生活だったが、不幸にも夫が病気を患って、看病の甲斐なく亡くなり、あっけなく終わりを告げる。肺結核だった。25歳で、寡婦(未亡人)となった登美子は心機一転、1904年(明治37年)、大阪の梅花女学校在学時の第四代校長・成瀬仁蔵が創設した日本女子大学英文科予科に入学し、1907年(明治40年)3月まで同校に在学。その間、復帰した『明星』に「白百合」の号で短歌131首を収載した。鉄幹・晶子との交流も密になった。鉄幹は、登美子を“白百合の君”と称し、愛した。そして1905年(明治38年)、当時の若い世代に圧倒的な支持を受け、後世、浪漫主義の代表的な作品との評価を受けた合同詩集『恋衣(こいごろも)』を茅野(増田)雅子、与謝野晶子との共著で本郷書院から刊行し、登美子は歌人として再起した。

 今度こそ、登美子は女流歌人として、さらに飛躍の時期を迎えるはずだった。ところが、またもそれを阻止する不幸が襲う。登美子自身が、夫から伝染した肺結核に犯されていたのだ。それでも病状が進行する中、孤独の中で自らの生を、そして死をみつめ、感覚を研ぎ澄まし、独自の歌境を拓いた。しかし、1909年(明治42年)、登美子は生家でわずか30年の生涯を閉じた。

 登美子の後半生は悲劇的だった。第二の人生ともいうべき結婚生活で、まず夫、次いで父を喪(うしな)い、長兄、長姉の死が彼女を襲った。さらに自らも肺結核という死病の床に臥す生活だった。それだけに、普通なら来世は今生とは全く異なる人生を、病気に打ち克つだけの強健な肉体を持つ、たとえば男に生まれ変わりたいと願っても、なんら不思議ではない。ところが、登美子はなお堂々と、来世も女に生まれたいもの-と歌に歌っている。次の歌がそれだ。

 「をみなにてまたも来む世ぞ生まれまし 花もなつかし月もなつかし」

 志半ばで、遂げられなかった歌の世界への、そして鉄幹への敬慕の思いを、来世ではきっと成就させたいとの哀切の思いからなのか。

 また、辞世は

 「父君に召されていなむとこしへの 春あたたかき蓬莱のしま」

 登美子を顕彰して、彼女が入学してから100年目を迎えた1994年、出身校の梅花女学校(現在の梅花女子大学)主催で「梅花・山川登美子短歌賞」が設けられている。

(参考資料)渡辺淳一「君も○○栗(こくりこ) われも○○栗(こくりこ) 与謝野鉄幹・晶子の生涯」、大岡 信「名句 歌ごよみ 春」

斎宮女御 斎宮を務めた、三十六歌仙の唯一の皇族・女流歌人

斎宮女御 斎宮を務めた、三十六歌仙の唯一の皇族・女流歌人

 斎宮女御(さいぐうのにょうご)は、父は醍醐天皇の第四皇子・重明(しげあきら)親王、母・左大臣・藤原忠平の二女・寛子(かんし)との間に生まれ、当初、徽子女王(きしにょおう)と呼ばれた。が、8歳から10年間、伊勢神宮の斎宮を務めたため、都へ戻って3年、20歳で叔父にあたる村上天皇の女御として入内したが、後世、その前歴ゆえに「斎宮女御」と称された。また、斎宮女御は三十六歌仙の中でも5人(伊勢・小野小町・斎宮女御・小大君=こおおきみ・中務=なかつかさ)しかいない女流歌人の一人で、しかも唯一の皇族歌人だった。歌才に優れていた彼女は、絵もよくし、琴の名手でもあった。

 斎宮女御の生没年は929(延喜7)~985年(寛和元年)。936年(承平6年)、徽子女王は8歳で朱雀天皇の斎宮に卜定(ぼくじょう=吉凶を占い定めること)、母・寛子御息所の服喪で退下(たいげ)するまで10年間その任を務めた。未婚の皇女が都を遠く離れた伊勢神宮で、ひたすら神に仕える生活を送るのは、哀れを誘うことも多い。しかし彼女の場合、係累の力関係は並ではなかった。当代の権勢を誇る関白・藤原忠平の孫である徽子女王は、都へ戻って3年、20歳で村上天皇の女御として入内することができた。その住まいから承香殿(しょうきょうでん)女御とも呼ばれた。

 入内の後朝(きぬぎぬ)、村上天皇は例に従い、女御に歌を贈る。

 「思へどもなほぞあやしきあふことの なかりし昔いかで経つらむ」

 逢ってあなたを知る昨夜まで、私がどうして過ごしてきたのか。それが不思議におもわれるほど、あなたは素敵な人だ。これに対する女御の返しは

 「昔ともいまともいさや思ほへず おぼつかなさは夢にやあるらむ」

 昔なのか今なのか、いずれにしてもこの切なさは、この想いがきっと現実ではなく、夢のできごとだからなのでしょう-というものだ。こんな愛の交歓があって翌年、規子(きし)内親王が誕生している。

 しかし、そんな時期は長くは続かない。天皇の渡りが途絶えた寂しい日には、琴の名手でもあった彼女は、ひとり琴を爪弾くこともあった。ある秋の夕暮れ、妙なる琴の調べに誘われて天皇が承香殿に赴いてみると、彼女はそばに人の気配があるのにも気付かず、琴を弾きながら次の歌を吟唱していた。

 「秋の日のあやしきほどの夕暮れに 荻(おぎ)吹く風の音ぞきこゆる」

 秋の日、とりわけ人恋しい想いのする夕暮れに、お慕い申し上げる方は来てくれない。私のもとに訪れるのは、ただ荻の葉を吹く風の音だけ…。哀切なる想いがひしひしと伝わってくる。

 村上天皇崩御後、今度は規子内親王が円融天皇の斎宮として卜定、977年(貞元2年)、伊勢へ赴くことになった。わずか8歳で斎宮となった徽子女王=斎宮女御とは異なり、29歳になっての斎宮就任は、有力な後ろ楯がない薄幸を意味する。気が付けば華やかな係累は、いつの間にか遠い過去のものとなっていたのだ。そこで、斎宮女御は意を決して、一緒に伊勢へ行き、その寂しさを慰めた。

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」

皇女和宮 公武合体派の主導による政略結婚の被害者となった悲劇の女性

皇女和宮 公武合体派の主導による政略結婚の被害者となった悲劇の女性

 皇女和宮は、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王と婚約の内約があったにもかかわらず、「公武合体」という朝廷と幕府の政治的な都合で、この婚約を解消させられ、第十四代将軍・徳川家茂(いえもち)に嫁した、悲劇の女性となった。和宮の生没年は1846(弘化3)~1877年(明治10年)。皇女和宮は、第百二十代・仁孝天皇の第八皇女として生まれた。生母は勧行院(かんぎょういん)橋本経子。和宮が生まれたときには、父の帝はすでに崩御し、兄の孝明天皇の御代になっていた。

 幕府は、反対勢力に強硬な姿勢を貫き「安政の大獄」を断行した大老・井伊直弼が「桜田門外の変」で暗殺された後、朝廷との融和を図ろうとする「公武合体派」の安藤信正が老中首座となった。安藤は朝廷側の岩倉具視と諮り、十四代将軍家茂の御台所(みだいどころ=正室)に皇女を迎えようとしたのだ。それまで、宮家出身の御台所や御簾中(御三家、御三卿の正室)はあったが、皇女というのは前例がない。

    いや、正確には江戸時代、将軍家と天皇家との縁組がまとめられたことは二度あった。一つは二代将軍秀忠の娘、和子(まさこ)が、第百八代・後水尾(ごみずのお)天皇の中宮として入内している。いま一つは、七代将軍家継と八十宮吉子内親王の縁組がそれだ。父・六代将軍家宣の死去に伴い、わずか4歳で将軍になった家継の相手に決まった皇女・八十宮はまだ数えで3歳だった。婚約の儀式は執り行われていたが、家継がわずか8歳で亡くなったため、両家の関係は婚約のみに終わり、江戸時代初めての天皇家と徳川家の縁組は実らなかったのだ。ただ、すでに結納の儀も済んでいたことから、八十宮は生涯、亡き家継の婚約者として過ごすことを余儀なくされた。

 家茂の相手の皇女候補、実は3人がリストアップされていた。和宮の姉で桂宮を継いだ淑子内親王(32歳)、孝明天皇の皇女・寿万宮(すまのみや、2歳)そして和宮だった。和宮は家茂と同年で、年齢はつりあっていたが、すでに有栖川宮熾仁親王との婚約が勅許になっていた。したがって、一時は寿万宮の成長を待つことに落ち着きかけた。ところが、不幸にして寿万宮が夭折してしまった。そこで、熾仁親王に辞退を強要して、和宮に親子(ちかこ)の名を賜り内親王宣下のうえ降嫁が決まったのだ。

 こうして和宮は16歳で家茂のもとに嫁した。幕府にとって、和宮降嫁による「公武一和」は、単なるスローガンではなく、必死の方策だった。繰り返すが、この結婚は最初から政治主導のものだった。それだけに、幕府を警戒した朝廷は、和宮降嫁にあたってこまごまとした条件を付けていた。①下向後、大奥に御同居の御方がおられないようにする。ただし、例えば天璋院は西の丸、本寿院(十三代将軍家定の生母)は二の丸というように別殿に住まわれるのなら構わない②下向後、天璋院や本寿院と往来や対面などはせず、年始やそのほかの節は、すべて使者で済ませる③別殿の御方から使者を遣わすときは、堂上の娘が使者を務めるとき以外は御目通りをしない-といった内容だ。

    将軍の正室となりながら、その将軍の義母や前将軍の生母との同居を拒否し、往来や対面も使いで済まそうというのだ。さらに使いには、旗本の娘ではなく、公家の娘を立てろという。これでは、大奥に波風が立つのも当然だった。しかし、こうした条件は江戸では全く考慮された形跡がない。京都や政治の最前線で交渉する酒井忠義と、江戸にいる老中とでは、考え方も認識も全く違っていたし、大奥はそうした政治とは無縁の世界だった。幕府の男子役人が何を約束してこようと、大奥には大奥の流儀があるということだったのか。

 勝海舟が回想しているように、初めは和宮と天璋院は大層仲が悪かった。それはお付きの女中が反目しあってことから生じたものだった。和宮が連れてきた女中たちは事あるごとに関東の風儀を笑ったし、大奥にも長い間の伝統に培われた儀礼が確立していた。この「御風違い」による対立や反目は、なかなか解消しなかった。天璋院、和宮、それぞれが将軍家と朝廷の威光を背負っているだけに、それも当然のことだった。

 家茂は1866年(慶応2年)、幕府軍による第二次長州征討の最中、大坂城中で病没した(享年21)から、和宮の結婚生活はわずか4年ほどだった。だが、夫婦仲は睦まじいものだったようだ。また、ともすればぎくしゃくするケースがあった天璋院とも、明治になってからは心うち解けたという。

 家茂の病没後、静寛院宮(せいかんいんのみや)と称した和宮(=親子内親王)が官軍の江戸城総攻撃を前に、東征大総督宮の熾仁親王に交渉して「最後の将軍・慶喜の助命と徳川宗家存続」を実現すべく尽力したのは、徳川家の嫁としての意識が確かだったからといわれている。

 和宮には江戸へ下向するときに詠んだ、次のような歌かある。

「惜しまじな君と民とのためならば 身は武蔵野の露と消ゆとも」

   彼女は、その身の不運を知りながらも、公武合体の実を挙げるべく下向すると決めた以上、この身に懸けてやり遂げよう-との思いに燃えていたのだ。

(参考資料)山本博文「徳川将軍家の結婚」、松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、宮尾登美子「天璋院篤姫」、勝海舟 勝部真長編「氷川清話」、司馬遼太郎「最後の将軍」、海音寺潮五郎「江戸開城」

後桜町天皇 近世2代にわたる幼帝の御世、王権を支えた最後の女帝

後桜町天皇 近世2代にわたる幼帝の御世、王権を支えた最後の女帝

 日本では、古代には6人8代(推古、皇極・斉明、持統、元明、元正、孝謙・称徳)の女帝が在位したが、江戸時代に入っても2人の女帝が誕生した。一人は徳川将軍家を外戚に持った第百九代・明正天皇であり、もう一人がここに取り上げた第百十七代・後桜町(ごさくらまち)天皇だ。この後桜町女帝は当初、中継ぎとして即位した。だが、後事を託した天皇が若くして崩じたため、結局2代にわたる幼帝の即位を受けて、上皇となっていたこの女帝が、院にあって表舞台に立って王権を支えた。後桜町天皇の生没年は1740(天文5)~1813年(文化10年)。在位は1762(宝暦12)~1771年(明和7年)。

    後桜町天皇は百十五代・桜町天皇の第二皇女。幼名は以茶宮(いさのみや)、緋宮(あけのみや)、諱(いみな)は智子(としこ)。母は関白左大臣・二条吉忠の娘で、桜町女御天皇女御の藤原舎子(青綺門院)。姉に早世した盛子内親王、異母弟に第百十六代・桃園天皇がいる。1762年、後桜町天皇は異母弟の桃園天皇が22歳の若さで崩じ、残された皇子たちも5歳と3歳と幼すぎるため、中継ぎとして即位した。女帝23歳のときのことだ。女帝と第百十六代・桃園天皇の父、第百十五代・桜町天皇がすでに崩御していたため、即位と同時に、幕府の存在により限られた王権ではあるものの、奈良時代の称徳天皇以来の朝廷の主である女帝が誕生することになった。

    ちなみに、徳川三代将軍家光の時代に、家光の妹・東福門院和子の娘、明正天皇が即位している。ただ、この女帝は朝廷と幕府の関係を改善させるという重要な狙いがあったものの、父帝の後水尾(ごみずのを)天皇が上皇として院政を執っていたため、明正天皇自身が朝廷の主となることはなかった。

    こうして即位した後桜町天皇は、中継ぎの女帝として皇嗣の甥の英仁親王の教育に大変熱心で、政務においても大事に際しては摂政に自らの意見を示して、再考を求めることもあったといわれる。1770年、すでに2年前に立太子していた英仁親王(13歳)に譲位して上皇となり、女帝の中継ぎとしての役割は無事終えるはずだった。

    ところが、甥の後桃園天皇が1779年、不幸にも父帝と同じ22歳の若さで崩じてしまった。しかも、後桃園天皇の遺児が1歳にもならない欣子内親王のみで、後桃園天皇の弟皇子は7年前に早世していることから、当時の正統とされた皇統、第百十四代・中御門天皇の血統の男子は途絶える事態となってしまったのだ。そのため、上皇となっていたこの女帝が再び表舞台に立たなければならなくなった。

   後桜町上皇は、桃園天皇の女御で後桃園天皇の皇太后の一条富子と協議し、上皇の従弟の閑院宮家の祐宮を選び、この傍系からの継承という弱い立場にある天皇の基盤を強めるため、祐宮を後桃園天皇の女御の近衛維子の養子とし、後には後桃園天皇の遺児で皇統の継承者の欣子内親王を立后させ中宮とした。このとき即位させた祐宮が現在の皇統の祖となる光格天皇だ。光格天皇は朝権再興の中核となる英明な君主といわれているが、その天皇を即位させ、育て上げた人こそ後桜町上皇だった。

    女帝の誕生は多くの場合、皇位継承予定者が幼年のため、直ちに即位できないといった事情が存在し、いわば“中継ぎ”的な意味で女帝(中天皇=なかつすめらみこと)が即位して皇位継承予定者の成長を待つケースが多い。明治以降は戦前の旧皇室典範と戦後の現皇室典範において、皇位継承資格者は男系の男子に限定されたことから、女帝が即位する可能性は失われており、この後桜町天皇がいまのところ最後の女帝ということになっている。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、北山茂夫「女帝」

堅塩媛 欽明天皇の后となり用明・推古天皇の母となり蘇我氏隆盛に貢献

堅塩媛 欽明天皇の后となり用明・推古天皇の母となり蘇我氏隆盛に貢献

 堅塩媛(きたしひめ)は蘇我稲目の娘で、第二十九代・欽明天皇の妃となって、後の第三十一代・用明天皇、第三十三代・推古天皇の2人の天皇の母となるなど皇子7人、皇女6人の計13人の子供を産み、強力な閨閥により大和朝廷における蘇我氏の勢力拡大・隆盛に大きく貢献。その大王家・皇族との血脈により、さながら“蘇我王朝”とも評された当時の、文字通り産みの親だ。

 堅塩媛は飛鳥時代、大和朝廷の実権を掌握、大豪族の頂点に立った蘇我氏の総帥・蘇我馬子の姉だ。百済渡来人の総領として、大和政権・国家の財政を仕切った蘇我氏の巨大な権力の基盤は、冒頭で述べた通り、この女性、堅塩媛によって築かれたといえる。まさに、日本古代史における蘇我氏の繁栄を約束付けた存在だった。

    蘇我氏が政治の実権を掌握した後、彼女は「大后」や「皇太夫人」という称号で呼ばれたといわれる。彼女の生没年は不詳。多くの皇子・皇女を産んだだけに、それほど長く生きたとは思えない。529年(継体23年)ごろに生まれ、572~585年ごろ没したとみられる。45年から58年の人生だったと思われる。

 堅塩媛は橘豊日大兄皇子(たちばなのとよひのおおえのみこ、後の用明天皇)、磐隈皇女、●嘴鳥皇子、豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめ、後の推古天皇)、椀子(まろこ)皇子、大宅(おおやけ)皇女、石上部(いそのかみべ)皇子、山背(やましろ)皇子、大伴皇女、桜井皇子、肩野皇女、橘本稚(たちばなのもののわか)皇子、舎人皇子(当麻皇子夫人)の7皇子・6皇女合わせて13人の子をもうけた。

 『日本書紀』は、堅塩媛の名前をわざわざ「きたしひめ」と詠むように注釈を入れている。「きたしひめ」とは、汚い、醜いに通じる、ひどい名前で、その名の由来は悲しいものだ。それは、後世の人たちが蘇我家につけたあだ名ともとれるのだ。「きたし」は後に天智天皇となった皇太子・中大兄皇子の最初の夫人、蘇我造媛(そがのみやっこひめ)の、父の、そして一族の死にまつわる、おぞましい記憶に由来するものだと紹介されている。

 中大兄皇子と中臣鎌足、そして蘇我倉山田石川麻呂らによる「乙巳の変」で、専横を極めた蘇我蝦夷・入鹿の蘇我本宗家を滅ぼし、大化の改新が断行。孝徳天皇の御世、中大兄皇子の妃・蘇我造媛が、謀反を計ったとの嫌疑で父・蘇我倉山田石川麻呂が「物部二田作塩」に斬られたと聞いて、心を傷つけられ、悲しみもだえた。このため造媛は「塩」の名を聞くことさえ忌み嫌い、彼女に近侍する者は塩の名を口にすることを避け、改めて堅塩(きたし)といった。造媛は、あまりに心に深い傷を負って、遂に亡くなった。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、黒岩重吾「古代史への旅」、黒岩 重吾「北風に起つ 継体戦争と蘇我稲目」、神 一行編「飛鳥時代の謎」、永井路子「冬の夜、じいの物語」、井沢元彦「逆説の日本史②古代怨霊編」

月花門院 二人の恋人の間で炎を燃やし、堕胎に失敗し夭折 

月花門院 二人の恋人の間で炎を燃やし、堕胎に失敗し夭折 

 月花門院(げっかもんいん)は、正確には月花門院綜子(そうし)内親王といい、皇統が二派に分かれてしまう両統迭立(てつりつ)の禍いの基をつくった第八十八代後嵯峨天皇の第一皇女だ。『増鏡』によると、月花門院には四辻宮(よつじのみや)と基顕中将の二人の恋人がいて、そのいずれとも父の分からぬ子を宿し、流産(堕胎?)のために夭折したと記されている。月花門院23歳のときのことだ。

 月花門院(月華門院とも)の諱は綜子。母は西園寺実氏の娘、大宮院。高貴な血筋で後深草院の同母妹で、亀山院の同母姉だ。生没年は1247(宝治元)~1269年(文永6年)。月花門院は1247年(宝治元年)、生まれるとともに内親王宣下。1248年(宝治2年)安嘉門院邦子内親王の猶子となった。両親の寵愛を受け1263年(弘長3年)、17歳のとき准三宮並びに院号宣下。以後、月花門院を称した。

 鎌倉時代の都の貴族は、武家に権力を奪われて地盤が沈下していく中、過去の栄光が忘れられずにもがいた人々と、新しい時代に適応している人たちに分かれていた。そして幕府は、その両勢力の争いに乗じて着々と政権の基盤を固めていた。そんな時代状況の中で、綜子内親王は高貴の人々の中でも最も恵まれた境遇にあったはずだ。しかし、男と女の世界の恋の成就に、貴賎はあまり関係しなかったようだ。彼女が詠んだ歌の多くが、恋の悲傷の歌なのだ。

 「秋の来て身にしむ風の吹くころは あやしきほどに人ぞ恋しき」

 これは実家にさがっていた後嵯峨院大納言典侍(藤原為家の娘)に贈った歌だ。歌意は、秋が来て身に沁みる風の吹くころには、自分でも不思議なほど人が恋しいことです。贈った相手は女性で、いわば友情の歌なのだが、詠み込まれた心情は、やはり恋の悲愁だろう。

 「ちぎりおきし花のころしも思ふかな 年に稀なる人のつらさは」

 歌意は、稀にしか逢うことができない恋人と、「花のころに逢う」との約束を思うにつけても、切なさで心がいっぱいになってしまいます。世間をはばかる事情があって逢えないのか、ただひたすら恋人の訪れを待つ皇女の姿が浮かんでくるようだ。

 「いかなればいつともわかぬ夕暮れの 風さへ秋は恋しかるらむ」

 歌意は、どういうわけか、いつも決まって何ということもない夕暮れの風さえ、秋は悲しみを催させるのでしょうか。この歌は秋と風と夕暮れを詠み込んで、自然を見つめて人生を沈思する中世の人々の感受性を表現している。が、同時に人を恋することの悲しさと危うさを知り尽くしたような、悲恋の皇女の叫びが聞こえてくるような歌でもある。

 1266年(文永3年)、完成披露された『続古今集』には、月花門院綜子内親王の歌が20歳の若さで8首入集している。また『続古今集』以後の勅撰集に彼女の歌21首が収められている。そして1269年(文永6年)、彼女は23歳で急逝した。『増鏡』によると、月花門院は中将・源彦仁(順徳院の孫、忠成王の子)および、頭中将・園基顕の二人と密通し、子を身籠った末、堕胎の失敗によって亡くなったらしい。

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」

穴穂部間人皇女 用明天皇の皇后で、聖人・聖徳太子の母

穴穂部間人皇女 用明天皇の皇后で、聖人・聖徳太子の母

 穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)は、欽明天皇の第三皇女で、同母兄・用明天皇の皇后。用明天皇との間に厩戸(うまやと)、来目(くめ)、殖栗(えくり)、茨田(まむた)の四人の皇子をもうけた。厩戸皇子は豊聡耳聖徳(とよとみみしょうとく)などとも呼ばれた聖徳太子だ。つまり、この穴穂部間人皇女は聖徳太子の生母なのだ。同母弟に穴穂部皇子がいる。

  用明天皇の母は蘇我稲目の娘、堅塩媛(きたしひめ)であり、穴穂部間人皇女は堅塩媛の妹、小姉君(おあねのきみ)の娘だ。つまり、姉が産んだ皇子のもとに、妹が産んだ皇女が嫁いだというわけだ。異母兄・妹の結婚だった。

 穴穂部間人皇女の生年は不詳、没年は622年(推古天皇29年)。用明天皇崩御後、用明天皇の第一皇子、田目皇子(多米王、聖徳太子の異母兄)に嫁し、佐富女王(長谷王妃、葛城王、多智奴女王の母)を産んだ。彼女の同母弟、穴穂部皇子(あなほべのみこ)は敏達(びだつ)天皇が崩御した際、皇位を望んだとされる。皇子は皇后・炊屋姫(かしきやひめ、後の推古天皇)を姦すべく、もがりの宮に入ろうとしたところを敏達天皇の臣下、三輪君逆(みわのきみさこう)に遮られた。

 穴穂部皇子はこれを憎み、当時の実力者、大臣(おおおみ)蘇我馬子、大連(おおむらじ)物部守屋に三輪君逆の無礼を訴え、斬殺するように命じた。物部守屋は兵を率い、磐余(いわれ)の池辺(いけのへ)を皮切りに三輪君逆の跡を追い、遂にその命を奪った。蘇我馬子は穴穂部皇子に自重を促したが、皇子はこれを聞き入れなかった。これを契機に、穴穂部皇子と皇后・炊屋姫および馬子の関係は険悪なものとなったといわれる。 

 こうした経緯があって、穴穂部間人皇女に因む以下の逸話が伝えられている。京都府京丹後市(旧丹後町)にある「間人(たいざ)」という地名は、この穴穂部間人皇女に因むものと伝えられている。この皇女は、蘇我氏と物部氏との争乱を避けて丹後に身を寄せた。そして都に戻る際に、惜別の意味を込めて自分の名を贈った。

 ところが、同地の人々は皇后の御名をそのまま呼ぶのは畏れ多いとして、皇后がその地を退座したことに因み、「たいざ」と読むことにしたという。ただ、「古事記」「日本書紀」などの文献資料には、穴穂部間人皇女が丹後国に避難したことの記述はない。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、黒岩重吾「聖徳太子 日と影の王子」、豊田有恒「聖徳太子の叛乱」

鏡王女 中大兄皇子が功臣・鎌足に下賜した、代表的な万葉歌人

鏡王女 中大兄皇子が功臣・鎌足に下賜した、代表的な万葉歌人

 鏡王女(かがみのおおきみ)は、額田王(ぬかだのおおきみ)の姉だから、近江の豪族・鏡王の女(むすめ)だ。とはいえ、これには異説があり、第三十四代舒明天皇の皇女とも皇妹ともいわれる。鏡王女の名を一般的に眼にするのは、中大兄皇子の妃だった彼女が、懐妊中、大化改新で貢献した功臣・中臣鎌足に下された件(くだり)だ。感激した鎌足は、鏡王女を正妻として遇したが、そのときの子が、藤原不比等だ。困ったことに、これにも異説があって、不比等の母は車持の与志古娘(よしこのいらつめ)ともされる。だが、父・鎌足が賜った藤原姓を、中臣氏の中で不比等の系統のみが継ぐことになったのは皇胤だからとする解釈も根強い。

 いずれにしても、中大兄皇子の鏡王女に対する気持ちはすでに冷めていた。だから、鎌足への下賜につながるのだ。鏡王女にとっては悲しい現実にさらされたわけだ。ただ、名ばかりの妃でいるよりは、正室として迎えられ、普通に言葉を交わせる鎌足との生活が、女性にとって幸せだったのではないかとの見方もできる。鏡王女の生年は不詳だが、没年は683年(天武12年)だ。『万葉集』では鏡王女、『日本書紀』では鏡姫王と記されている。鏡女王とも呼ばれた。彼女の少女時代のことは何も分からない。額田王ほどではないが、代表的な万葉歌人の一人といわれる。史料によると、夫・鎌足の病気平癒を祈り、669年(天智天皇8年)に山階(やましな)寺(後の興福寺)を建立した。

 鏡王女が紛れもなく皇族の一員だったことが分かる件がある。『日本書紀』に天武天皇12年7月、王女を天武天皇が見舞いにきたことが記されているのだ。『万葉集』には4首の鏡王女の歌が収められ、天智天皇、額田王、藤原鎌足との歌の問答が残されている。

 「風をだに恋ふるはともし風をだに 来むとし待たば何か嘆かむ」

 これは、鏡王女がまだ中大兄皇子(天智天皇)の妃の一人だったとき、妹の額田王が

 「君待つとわが恋ひをればわが屋戸の 簾動かし秋の風吹く」

と歌ったのに対して返したものだ。額田王が中大兄皇子を待つ満ち足りた心を歌ったのに対し、鏡王女はすでに皇子の寵が去った自分のところには風さえ来ないと、妹をうらやましい気持ちで歌ったわけだ。鏡王女自身が感じていたように、中大兄皇子の自分への気持ちは冷めていた。だから、冒頭で述べたように、鎌足への下賜につながるのだ。

 鎌足が中大兄皇子から下賜された鏡王女に対して詠んだ、情熱的?なこんな歌が『万葉集』に収められている。

 「玉くしげみむろの山のさな葛 さ寝ずは遂にありかつましじ」

 『万葉集』独特の枕詞や飾りの言葉が入っているので分かりにくいが、彼のホンネは下の句にある。現代風に表現すれば、「あなたと寝ないではいられないだろうよ」ということだ。この歌は、鏡王女の次の歌に対して答えた歌だ。

 「玉くしげ覆ふを安み明けていなば 君が名はあれど我が名し惜しも」

 歌意は、化粧箱を蓋で覆うように、二人の仲を隠すのはわけないと、夜が明けきってから、お帰りになるなんて。そんなことをなさったら、あなたの評判が立つのはともかく、私の良くない評判が立つのが惜しいですわ。

 鎌足には天智天皇から手厚い恩賞として、采女の安見児をもらったとき詠んだこんな歌がある。これも『万葉集』にある歌だ。

 「吾はもや安見児えたり皆人の得がてにすとふ安見児えたり」

 歌意は、俺こそ采女の安見児(やすみこ)をわがものにしたぞ。みんなが結婚できないという安見児を、我が妻にした-と手放しで喜んでいる。

 中大兄皇子=天智天皇の生涯は波乱を極めたが、鎌足は常に側近にあって活躍した。それだけに鎌足に対する天智の信任は絶大で、位人臣をきわめ、手厚い恩賞も与えられた。そして、異例中の異例のことだが、実は鏡王女の下賜も、破格のご褒美の一つなのだ。

 普通、豪族は天皇家に対する忠誠の証として娘を、天皇家の側女=采女として差し出す。その意味で、その女性は人ではなく、世話をする個人(天皇や皇子)の所有物、つまりモノと同じなのだ。だから、一見、中大兄皇子=天智天皇の取った行動は非人間的なものに思われ勝ちだが、本来的にはその女性本人の意思や気持ちがどうであろうと斟酌されることはないのだ。

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、黒岩重吾「天風の彩王 藤原不比等」、黒岩重吾「茜に燃ゆ」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」、杉本苑子「天智帝をめぐる七人 胡女(こじょ)」

吉野太夫 関白と豪商が身請けを競った、諸芸を極めた稀代の名妓

吉野太夫 関白と豪商が身請けを競った、諸芸を極めた稀代の名妓

 吉野太夫(よしのだゆう)は江戸時代初期、京都・六条三筋町の遊郭(のち島原に移転)の名妓だった。容姿、芸、人格ともに優れ、当時の同遊郭の「七人衆」の筆頭で、夕霧太夫、高尾太夫とともに「寛永三名妓」といわれる女性だ。

 吉野太夫(二代目吉野太夫)は本名・松田徳子。実父はもと西国の武士とも、関ケ原浪人ともいわれる。生まれは京都の方広寺近くと伝えられる。生没年は1606(慶長11)~1643年(寛永20年)。吉野太夫は京都の太夫に代々伝わる名跡で、初代から数えて十代目まであったと伝えられている。ただ、その職性から、ここに取り上げた二代目以外の人物像については詳細不明となっている。

 松田徳子は幼少のころに肥前太夫の禿(かむろ、遊女の世話をする少女)として林家に抱えられ、林弥(りんや)と称した。1619年(元和5年)、吉野太夫となった。14歳のときのことだ。彼女は利発な女性で、和歌、連歌、俳諧はもちろん、管弦では琴、琵琶、笙が巧みだった。さらに書道、茶道、香堂、華道、貝合わせ、囲碁、双六を極め、諸芸はすべて達人の境にあったという。それだけに、吉野太夫は当時18人いた太夫の中でも頭抜けた存在だった。容姿、芸、人格ともに優れ、才色兼備を称えられた彼女の名は国内のみならず、遠く中国・明まで「東に林羅山、西の徳子よし野」と聞こえているといわれるほど、知れ渡っていたという。

    馴染み客に後陽成天皇の皇子で近衛信尹(のぶただ)の養子、関白・近衛信尋(のぶひろ、後水尾天皇の実弟)や、豪商で当時の文化人の一人、灰屋紹益(はいやじょうえき)らがいた。皇族から政財界、文化人まで幅広い層の、当時第一級の人物が、彼女のファンだった。吉野太夫の名を、さらに華やかにし高めたのは、関白・近衛信尋と豪商・灰屋紹益が、彼女の身請けを競ったためだ。結果は、関白を押さえ、灰屋紹益が勝利を収めた。紹益は勝った後、吉野太夫を正妻として迎え世間を驚かせた。1631年(寛永8年)、吉野太夫26歳のときのことだ。

 吉野太夫が、身請けを競って勝った紹益に贈った歌がある。

 「恋そむるその行末やいかならん 今さへ深くしたふ心を」

 一方、迎え入れた紹益は、人気の太夫を娶った嬉しさを、

 「ここでさへ さぞな吉野の 花ざかり」

と詠んでいる。

 吉野太夫は結婚後は、遊女時代の派手さ、きらびやかさとは無縁の質素な暮らしをし、夫を立てて親族との交わりを大切にした。そのため、後世、遊女の鑑(かがみ)として取り上げられる逸話も多い。 十余年の結婚生活の後、吉野太夫は夫・紹益に先立って病没し、京都市北区鷹ヶ峰の常照寺に葬られた。まだ38歳の若さだった。

 毎年4月第3日曜日、吉野太夫を偲んで常照寺では花供養が行われ、島原から太夫が参拝し、訪問客に花を添えている。

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」

祇王御前 栄耀栄華を誇った平清盛に寵愛された白拍子の名手 

祇王御前 栄耀栄華を誇った平清盛に寵愛された白拍子の名手 

 祇王御前(ぎおうごぜん)は白拍子の名手で、『平家物語』によると当時、栄耀栄華を誇った平家の総帥・相国入道平清盛に寵愛された女性だ。祇王御前は近江国野洲郡(現在の滋賀県野洲町)で生まれたとされている。生没年は不詳。都で評判となった舞と美貌を権力者の清盛が聞き付け、邸に招かれた。そして、祇王はたちまち清盛の寵愛を受ける身となった。祇王17歳ころのことだ。これを知った祇王の母の刀自(とじ)は、娘の“玉の輿”を大変喜んだ。

 祇王がどれだけ清盛の寵愛を受けていたかを示す逸話がある。祇王の出身地、野洲は毎年ひどい干害が起こるところだった。そこで、祇王は清盛に野洲の干害を何とかしてほしいと頼んだ。清盛は愛する彼女の頼みを聞き入れ、野洲川から水を通すために溝を掘らせ、干害対策を施した。このとき掘られた溝は祇王井川と呼ばれ、現在も残っている。

 ところで、祇王が清盛に仕えて2年が過ぎたある日、西八条御殿の清盛の邸に、加賀国生まれの「仏」と名乗る白拍子が訪ねてきた。侍者がこのことを清盛に取り次ぐと、清盛は「白拍子が招きもしないのに、訊ねてくるとは怪しからん」と怒り、追い返そうとする。しかし、同じ白拍子の祇王は仏御前を不憫に思い。彼女を邸に入れてあげるよう取り成した。邸に入ることを許された仏御前は、今様(当時の流行りの歌)を歌うよう命じられ、

 君を初めて見る折は 千代も経ぬべし 姫小松

 お前の池なる亀岡に 鶴こそ群れゐて 遊ぶめれ

と、3回繰り返して歌った。

 この歌を聴いた清盛は仏御前に興味を示し、次は舞を舞うように命じた。すると、彼女は清盛の前で美しい舞を披露したため、大いに気に入られ、邸に留められることになった。

 仏御前が邸に来てからは、清盛の関心は祇王から彼女に移った。祇王のお陰で邸に入れてもらった仏御前は、そのことを心苦しく思っていた。それを察した清盛は、祇王が邸にいるから仏御前の気持ちが沈んでしまうのだと考える。そして、思いもかけない事態が起こる。何と清盛は祇王を邸から追い出してしまったのだ。同じ白拍子の身で不憫に思ってかけた情けが、完全に仇となったわけだ。

 祇王は邸を出る前に、忘れ形見として障子に、次の和歌を残したと伝えられている。

 「萌え出づるも 枯るるも同じ野辺の草 いずれか秋に あはで果つべき」

 歌意は、追い出す仏も、追い出される私も、いずれも野辺の草。秋が来れば飽きられて捨てられる運命にあるのですよ。

 その後、祇王は母と妹の祇女と一緒に出家し、嵯峨野に草庵(=往生院)を結んでひっそりと暮らすことにした。だが、『平家物語』は祇王の物語に劇的な展開を用意している。清盛は、嵯峨野で隠棲している祇王を呼び、仏御前の無聊(ぶりょう)を慰めるために舞うよう命じる。

 仏も昔は凡夫なり 我らも終(つひ)には仏なり

 いずれ仏性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ

 悔し涙をこらえながら、祇王は歌い舞った。祇王の舞は相変わらず美しく、人の心を揺さぶるものだった。仏御前には身につまされた。程なく、髪を下ろし出家姿で、祇王らの嵯峨野の草庵を訪れた女性は、あの仏御前だった。彼女も現世の無常を感じ、清盛のもとを去り、出家することにしたのだった。

 現在、往生院は祇王寺と呼ばれている。その境内には祇王、祇女、刀自の墓とされる宝筐院塔と平清盛の供養塔の五輪塔がある。また、祇王寺の仏間には清盛、祇王、祇女、刀自、仏御前の木像が安置されている。

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」

儀同三司母 中関白・藤原道隆の正室で教養人だったが、道長一族に敗れる

儀同三司母 中関白・藤原道隆の正室で教養人だったが、道長一族に敗れる

 儀同三司母は、学者として高名な高階成忠の娘、貴子(きし、もしくは たかこ)のことだ。摂政・関白を務めた藤原兼家の長男、道隆の正室で、二人の間に伊周(これちか、正二位、内大臣)、隆家(正二位、中納言)、僧都隆円、定子、原子ら三男四女がいた。定子は一条天皇の中宮として入内しているし、末娘の原子は三条天皇の女御となっている。きらびやかで栄華に満ちた一族だった。また、夫・道隆の弟に栄華の頂点を極めた道長がいる。

 だが、従一位で摂政関白、内大臣を務め、中関白(なかのかんぱく)と称した夫・道隆が43歳の若さで亡くなってしまうと、儀同三司母=高階貴子の人生は暗転してしまう。摂関家の嫡流・氏の長者は道兼、次いで道長に奪われてしまった。まさに血脈を分けた一族の中で政権争いが発生。夫の弟、道長と伊周、叔父・甥の骨肉の争いとなったのだ。結果は、道長が勝利し、まだ22歳の伊周がこの政争に敗れ、弟の隆家ともども官位を剥奪され、996年(長徳2年)九州(大宰権帥)へ左遷された。このとき、母貴子は同行を願ったが、聞き容れられず、彼女は半年後、不幸にも失意のうちにこの世を去った。

 儀同三司は息子、藤原伊周のことで、結局、伊周は三公(太政大臣、左大臣、右大臣、唐風には三司)になれなかった。後年、彼が「准大臣」となり、自らをこの官職の唐名「儀同三司」と称した。そのため、彼の母ということで、「儀同三司母」は彼女の死後付けられた通称だ。

 高階貴子の生年は不詳、没年は996年(長徳2年)。平安時代の女流歌人で、女房三十六歌仙に数えられる。貴子の生母は不詳。成忠の妻には紀淑光の娘が知られ、貴子がその所生だとすると、名立たる学者、紀長谷雄の血をひくことになる。円融天皇の後宮に内侍として仕え、高内侍(こうのないし、女官名)と呼ばれていた。

    『大鏡』などによると、貴子は女性ながら和歌を能くし、漢学、漢詩の素養も深く、円融天皇も一目置かれたほどの才媛だった。その貴子と恋に落ちたのが、時の大納言・藤原兼家(後の従一位、摂政・関白・太政大臣)の長男、道隆だった。その道隆との恋の歓びを歌ったのが次の歌だ。これは『新古今集』、『小倉百人一首』に収められている、激しくも傷(いた)ましい恋の歌だ。

 「忘れじの 行く末までは かたければ 今日をかぎりの 命ともがな」

 歌意は、あなたはいつまでも決して忘れないよ、そうおっしゃいます。でも、それは信じられません。それなら私はいっそ、たった今死んでもいいのです。今日のこの嬉しさの絶頂で。詞書(ことばがき)によると、この歌は道隆との恋が始まったばかりの、幸福の絶頂ともいうべき時期の歌だ。にもかかわらず、傷ましいほどの緊迫感をもって、明日のことはあてにするまい、せめて今日の命のこの歓びだけをしっかり握っていたい-と、その心情を吐露している。

   一夫多妻の平安期において、ほとんどの場合、女はひたすら男の訪れを待つだけの存在だった。したがって、女は未知の恋に対して極めて慎重であるのが普通で、ひとたび男に身を委ねたときには、その恋を永続させることに心を砕き、絶えず不安におののいていなければならなかった。恋の歓びの歌に、深い哀しみが内蔵されるのは、そうした女の受け身の立場からきており、この歌もその典型的な一首だ。

(参考資料)永井路子「この世をば」、大岡 信「古今集・新古今集」、松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、曽沢太吉「全釈 小倉百人一首」

間人皇女 母・兄・弟が天皇の血筋ながら、兄との密通説が残る女性

間人皇女 母・兄・弟が天皇の血筋ながら、兄との密通説が残る女性

 間人皇女(はしひとのひめみこ)は、第三十五代・皇極天皇、そして重祚(ちょうそ)して第三十七代・斉明天皇となった女帝の娘で、母の同母弟、第三十六代・孝徳天皇の皇后でもあった女性だ。付け加えて記せば、彼女は第三十八代・天智天皇の同母妹で、第四十代・天武天皇の同母姉だから、これ以上ない、ピカ一の血筋なのだ。したがって、彼女にとって今日もう少し称賛されるような事績が残っていてもよさそうだが、実は史料として残っているのは、彼女にとってマイナスイメージを抱かせるようなものばかりだ。

 そのマイナスイメージの一つが、同母兄・天智天皇いや、中大兄皇子時代から間人皇女が孝徳天皇の皇后となった後を含めて、中大兄皇子・間人皇女の二人が、タブーとされている同父同母兄妹の密通=近親相姦(「国津罪」)があったとされることだ。当時は、兄妹であっても母親が異なれば、その恋愛、そして結婚についても別にタブーではなく、ザラにみられた。今日風にいえば、極めて近い親戚で、叔父と姪や叔母と甥の間での結婚も普通に行われていた。だが、同父同母となると話は全く別で、当時も当然のことながら厳しく、恋愛・結婚は禁止されていたのだ。間人皇女は、そのタブーを犯したのだ。

 孝徳天皇と間人皇后は形だけの夫婦にすぎず、間人の愛人は実は血を分けた兄の中大兄皇子だったのだ。このことは飛鳥に住む者には公然の秘密だった。こんなタブーを犯しただけに二人に、そして二人の親族は高価な代償を払わねばならなかった。皇太子・中大兄皇子は孝徳天皇没後、母の皇極上皇をいま一度担ぎ出し、帝位に就け斉明帝としたのは、同父同母の兄妹が男女関係を持つなど、神意に悖(もと)る。そんな中大兄皇子が即位すれば、神の怒りで必ず国に禍事(まがごと=わざわい)が起こる-との世論に屈したからだったのではないか。

    また、建築好きで、太っ腹の女丈夫で百済救援の派兵を断行した、この斉明老女帝も661年、筑紫の行宮(あんぐう)、朝倉宮で疫病に感染し亡くなってしまった。ここでも中大兄皇子はすぐ即位しなかった。いや即位できず、661~668年の7年間も「称制」(即位せず、皇太子のまま政務を執る体制)を取っているのだ。この間、天皇は不在だった。その大きな理由の一つが、妹・間人皇女との間の男女関係を解消できなかったからとの見方がある。

  事実、古代の皇室では同母兄妹と肉体関係を持ったために追放された皇子・皇女がおり、反対勢力が結束して、皇太子・中大兄皇子の即位を阻止した可能性はある。中大兄皇子の後宮には多くの妃が召され、数多くの子も生まれた。しかし、間人皇女との仲は誰よりも長く格別なものだった。そのため、母帝の急逝によって生じた帝位の空白を、いまは悪性の熱病にかかり意識が混濁し、もはや呼吸しているだけの状態にあった間人皇女を、たとえしばらくの間でも中天皇(なかつすめらみこと)として、この国の主(あるじ)の座に座らせたい-と中大兄皇子は考えた。愛しい妹への餞(はなむけ)だった。後世の史家は、恐らく歴代天皇の数に入れないだろうが…。世の指弾をはね返してまで貫き通した禁断の愛ゆえの、最期の悲しい“看取り”だったのかも知れない。

 間人皇女の生年は不詳、没年は665年(天智天皇4年)。既成のワクにとらわれない、よほど奔放な女性だったのか、兄・中大兄皇子にだけ従順な女性だったのか、よく分からない。ただ、兄・天智天皇を虜(とりこ)にしたことだけは間違いない。

 孝徳天皇が653年(白雉4年)、当時皇太子だった中大兄皇子らとともに自分のもとを去った皇后・間人皇女を詠んだ歌がある。

「鉗木(かなぎ)附け吾が飼う駒は曳き出せず 吾が飼う駒を人見つらむか」

    歌意は、木にくくりつけて、逃げないように大切に飼っていた馬が、私の知らない間に、どうして他の人と親しくなって、私のもとから連れ去られてしまったのだろう-の意味だ。病中の自分を難波の廃都(難波長柄豊碕宮)に打ち捨て、母や兄たちと飛鳥京(飛鳥河辺行宮)へ引き揚げてしまった妻・間人皇后を、馬に擬して痛罵したのだ。厩舎の止め木につながれ、飼い主でさえ曳き出せない馬を、気ままに乗り回せる人物こそ、中大兄皇子をさしていることはいうまでもない。

(参考資料)遠山美都雄「中大兄皇子」、神一行編「飛鳥時代の謎」、笠原英彦「歴代 天皇総覧」、杉本苑子「天智帝をめぐる七人 胡女(こじょ)」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

右衛門佐局 宮中から請われて大奥に転身し総取締となり京風を入れた才媛

右衛門佐局 宮中から請われて大奥に転身し総取締となり京風を入れた才媛

 右衛門佐局(うえもんのすけのつぼね・えもんのすけのつぼね)は江戸時代前期、常盤井局と称し、天皇の中宮に仕えていたが、才智あふれる美女だったために、請われて江戸へ下向。第五代将軍・徳川綱吉の御手附中臈(おてつきちゅうろう)となり、この右衛門佐局と名を改めたのだ。公家の姫君で才色兼備の彼女は、江戸城の大奥に京風の雅(みやび)をもたらしただけでなく、江戸の文化・文芸にも大きな貢献をなした。

 右衛門佐局は、藤原北家道隆の流れ、坊門家の支流にあたる水無瀬中納言氏信の娘として京で生まれた。生没年は1650(慶安3)~1706年(宝永3年)。初め後水尾院に出仕し、後、第百十二代霊元天皇(在位1663~1687年)の中宮・新上西門院に仕えて常盤井局と称した。当時、宮中随一の才媛と呼ばれ、才智あふれる美女だったため、第五代将軍綱吉の御台所・鷹司(たかつかさ)信子に請われて江戸の下向することになったのだ。1684年のことだ。

 綱吉の御台所・信子は学問の相手として、『源氏物語』『古今和歌集』などの講義もできる常盤井局を招いたのだが、真意は別にあった。御台所は綱吉との間で子に恵まれず、夫・綱吉の気持ちが側室・お伝の方に移っていたことが、その背景にあった。つまり、子を生す生さぬという問題にとどまらず、大奥の勢力争いにも通じる事態となっていたのだ。そこで御台所は叔母の新上西門院に訴えて、才色兼備の彼女が選ばれたというわけだ。御台所の狙いはピタッとあたった。学問を好むという部分も少しはあったろうが、むしろその雰囲気を愛した綱吉は、たちまち公家の姫君の魅力の虜となった。常盤井局は将軍家の御手附中臈となり、名を右衛門佐局と改めた。そして、大奥に京風の雅をもたらしただけでなく、江戸の文化・文芸にも大きな貢献をなした。

 1689年(元禄2年)、北村季吟、湖春父子を召し出し、初代歌学方(かがくかた)としたのも右衛門佐局の推挙によるものだ。翌年、住吉具慶(広澄)が土佐派絵所を開いて、江戸に土佐派が確立したのは彼女の功績だ。後に、右衛門佐局の権勢に対抗するために、綱吉の生母・桂昌院によって招かれた大典侍(おおすけ)局(清閑寺大納言煕房の娘)が、能・狂言役者たちを江戸に呼び寄せたことともあわせて、京風化の進展が江戸の文化史上に新たなページを加えるようになった、格好の契機となった。

 右衛門佐局は残念ながら、将軍生母とはならなかった。1691年(元禄4年)懐妊したが、対抗勢力のお伝の方の依頼を受けた護持院・隆光の呪詛で流産したと伝えられる。翌早春、吹上御苑で催された観梅の宴の際、右衛門佐局が、

 「御園生(みそのふ)にしげれる木々のその中に ひとり春知る梅のひと本」

と詠み、これを賞した綱吉に「梅が枝に結び付けよ」と命じられ、踏み台に登ったときに、目が眩んで倒れた。それがための流産だった。

 右衛門佐局、御手附ながら事務方の最高位の大奥総取締の役に就いた。三代将軍家光の側室の「お万の方」の例に倣ったものだが、より実質的な役割だったといえよう。大奥という職場で仕事をしたキャリアウーマンという意味では、むしろ春日局に近い実績を残した女性だった。 

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、朝日日本歴史人物事典

伊 勢 時の最高権力者やその子息たちが通った魅惑のヒロイン

伊 勢 時の最高権力者やその子息たちが通った魅惑のヒロイン

 伊勢は、その妻の座に就くことはなかったが、初め藤原仲平そして兄・時平、次いで宇多天皇、さらに宇多天皇の第四皇子・敦慶(あつよし)親王と恋人を変えた情熱的な女流歌人だった。時の最高権力者や、その子息たちが、彼女のもとに通った。ということは、伊勢がいかに美しく魅力に富んだ女性だったかという証だろう。これらの恋人の他にも言い寄る男は多かったが、相手にしなかったようだ。

 伊勢は伊勢守・藤原継蔭(つぎかげ)の娘で、この父の官名を呼び名にしていた。父・継蔭は藤原氏北家・真夏の流れで四代の孫にあたる。真夏は、嵯峨天皇の信頼を受け左大臣にまで昇った冬嗣の兄だが、政治的には平城(へいぜい)天皇側についていたので失脚。そのため子孫も権力から遠く、継蔭も文章生(もんじょうのしょう)から身を起こし、三河守、伊勢守、大和守など受領職を歴任した。

    父が伊勢守の任期を勤め上げた直後、伊勢は宇多天皇の中宮・温子(おんし=藤原基経の娘)に仕えた。中宮が父・基経の喪のため里邸に下がっていた折、中宮に付き添っていた伊勢は、そこで中宮の兄・仲平(後に左大臣、当時右衛門佐)と愛し合うようになった。そのころ、仲平との恋を詠んだのが『新古今和歌集』『小倉百人一首』に収められている次の歌だ。

 「難波潟みじかき芦のふしの間も 逢はでこの世をよとや」

 歌意は難波の潟に生えているあおの芦の短い節ほどの、わずかな間でも、恋しいあなたに逢わないで、私たち二人の間を過ごしてしまえというのですか。それはあんまりです-という、恋人に対する思慕と怨恨の情を詠んでいる。

    しかし、伊勢の父は身分違いということもあって、娘のこの純情な恋に危惧を感じていた。案じた通り、仲平はまもなく権門の娘と結婚することになって遠ざかった。傷ついた伊勢が、心変わりした仲平に贈った歌が、次の歌だ。

「三輪の山いかに待ち見む年ふとも たづぬる人もあらじと思へば」

 この後、伊勢は仲平の兄・時平(後に左大臣、当時参議)と恋に落ち、さらに宇多天皇の寵愛を受け、行明親王を産んだので、「伊勢の御(ご)」とか「伊勢の御息所(みやすどころ)」と称された。まさに、恋多き女性だった。恐らく美しい女性だったのだろうが、同時に歌の巧みさが美しさを、さらに引き立てていたのだろう。

    伊勢の『古今和歌集』入集歌は女流歌人中トップで、『古今和歌集』以下の勅撰集に184首が収められ、とくに三代集では女流歌人で最も多い。紀貫之と並び称されたが、技巧の中に情熱を秘めた歌風は、和泉式部の先輩格といえるかも知れない。伊勢は美人で、気立ても優しく、華やかな宮廷生活を送ったが、後には不遇な境涯にあったようだ。彼女の晩年は落ちぶれて、遂に住む家まで売るようなところまで追い詰められたらしい。そのとき、柱に書き付けたという歌が『古今和歌集』に収められている。

 「飛鳥川淵にもあらぬわが宿も 瀬に(銭)変わりゆくものにぞありける」

    平安時代の女流文学者のほとんどには、その生涯の公的な記録がない。伊勢の場合も同様だが、彼女の家集「伊勢集」には、自伝的色彩の濃い詞書が多く、そのためある程度の生涯と生活は推定されてきた。伊勢の生没年は875(貞観17)~939年(承平9年)。

(参考資料)大岡 信「古今集・新古今集」、曽沢太吉「全釈 小倉百人一首」、高橋睦郎「百人一首」

阿仏尼 定家の嫡男の側室となり冷泉家の祖・為相を産んだ女性

阿仏尼 定家の嫡男の側室となり冷泉家の祖・為相を産んだ女性

    阿仏尼は『十六夜日記』の著者だが、出家した後、30歳ごろ結ばれた藤原定家の嫡男・為家の側室となった。そして、その為家から息子の為相(ためすけ、後の冷泉家の祖)に播磨国の所領を譲り受けた。だが、為家の死後、異腹の長男・為氏(ためうじ)との所領争いが発生。この問題解決に彼女は、はるか鎌倉に赴いて幕府に提訴するしたたかさを見せたのだ。『十六夜日記』は、そんな阿仏尼の鎌倉への旅日記なのだ。阿仏尼は、安嘉門院(あんかもんいん)に仕えて越前(えちぜん)、右衛門佐(うえもんのすけ)、四条などと称した。

 阿仏尼は、若き日に奔放な恋の遍歴を重ね、恋に絶望して出家したらしい。こうした経緯が日記『うたたねの記』に綴られている。その後、藤原定家の嫡男・為家と巡り合い、遂に為家と結ばれ、彼の側室となり、定覚(じょうがく)、為相、為守の3人の子をもうけた。1252年(建長4年)ごろのことだ。二人は嵯峨で同棲した。彼女が30歳のころ、為家はすでに50の半ばを超えていた。

    為家は若い彼女に夢中になり、家に代々伝えられた多くの書物を彼女に譲り渡したばかりか、いったん長男・為氏に譲られた播磨国細川庄(現在の兵庫県三木市細川町)を、彼女の息子の為相に与えるという約束を彼女に与えたのだ。そのため、彼女は御子左家伝来の文書を、自らの本居「持明院の北林」に移すような事件も起こした。

 為家が死ぬと当然、このことが紛争の対象になった。この場合、当然、彼女は弱い立場で、引き下がりがちになるところだ。しかし、彼女はそんなヤワではなかった。いや彼女は強かった。彼女は自分の主張を押し通した。そして、1279年(弘安2年)この細川庄の所領相続問題の解決のために彼女は、はるか鎌倉に行き、幕府に提訴したのだ。ここまで頑強に、さらに攻勢に出てくることは、為氏にとっては、恐らく想定外のことだったのではないか。

 『十六夜日記』は阿仏尼の鎌倉への旅日記だ。この日記は旅行記としては平凡だ。だが、梅原猛氏は阿仏尼は単なる旅行記を書いたのではなく、あくまでも訴訟を有利にするため政治文書として著したとみている。そうした視点でみると、彼女は自己の文学的才能を十二分に発揮し、この細川庄が彼女の子・為相の領地であることを、都および鎌倉の知識人に十分印象付けることに成功したとみられる。

 『十六夜日記』によると、阿仏尼は為家と結婚する前に名も知らぬ男との間に娘をもうけた。この娘は、西園寺実氏(さいおんじさねうじ)の次女・公子、すなわち後深草院の中宮・東二条院(亀山天皇の中宮・藤原位子の説もある)に仕えたが、後深草院(亀山天皇)の手がつき皇女をもうけた。恐らく阿仏尼はこの娘を使って院(天皇)に取り入り、わずか9歳の為相を侍従にし、その弟の為守までも大夫(たいふ)にしたとみられる。

 さらに、阿仏尼のしたたかさをうかがわせることがある。彼女がしきりに機嫌を取っている人物だ。それは、為家の三男の藤原為教(ためのり)の娘で、西園寺実氏の長女・●子(後嵯峨天皇の中宮・大宮院)に仕えた藤原為子と、その弟・京極為兼(ためかね)だ。為教は阿仏尼が鎌倉へ出発する1279年(弘安2年)の5月に亡くなったが、阿仏尼の鎌倉行きはこの為教一家の応援のもとに行われたと思われるのだ。つまり、阿仏尼は鎌倉幕府と親しい西園寺家の力を借りるとともに、為教一家を抱き込んで嫡男の為氏を孤立させようとしたのではないだろうか。

 阿仏尼は判決を待たず1283年(弘安6年)亡くなったが、彼女が打った手は無駄ではなかった。細川庄は為相に譲られ、彼を祖とする冷泉家は、為氏の二条家、為教の京極家が滅びた後も和歌の家として現在も保存されているからだ。母の力は偉大だった。

(参考資料)梅原 猛「百人一語」

お登勢 幕末、龍馬ら志士たちを保護した京都伏見・寺田屋の気丈な女将

お登勢 幕末、龍馬ら志士たちを保護した京都伏見・寺田屋の気丈な女将

 お登勢は京都伏見の船宿「寺田屋」の女将だ。坂本龍馬はこのお登勢と懇意で、寺田屋を定宿としていた。龍馬はお登勢について、姉の乙女宛ての手紙で「学問があり、侠骨(きょうこつ)を具(そな)えた気丈夫な女性」と表現し、龍馬は彼女のことを土佐風に「おかァー」と呼んだと伝えられている。それほど、龍馬にとってお登勢は近しい存在だった。後に龍馬の妻となったお龍が、この寺田屋で働くようになったのも、元をたどれば戦で焼け出され、家族とともに住まいを失い、働き場も失ったお龍の身の上を案じて、龍馬がお登勢に働けるように頼み込んだからだった。また、別にお龍はお登勢の養女だったとの説もある。

 お登勢は大津で旅館を経営していた大本重兵衛の次女として生まれた。お登勢の生没年は1829年ごろ(文政12年ごろ)~1877年(明治10年)。18歳のとき、京都伏見の「寺田屋」第6代目の主人、寺田屋伊助に嫁ぎ、一男二女をもうけた。だが、夫の伊助は放蕩者で、旅館の経営を顧ず、酒を飲みすぎ、それがもとで病に倒れ35歳の若さで亡くなった。そのため、寺田屋の経営は以後、彼女が取り仕切った。

 伏見の寺田屋が歴史上の事変の舞台となったことは二回ある。初めは1862年(文久2年)、薩摩藩の内紛、尊皇派藩士同士の鎮撫事件だ。これは薩摩藩主・島津忠義の父で当時の藩の事実上の指導者だった島津久光が●千の兵を率いて上洛するのに合わせて突出、藩論を倒幕へ舵を切らそうとする有馬新七らの説得に失敗したため、久光の指示で、大山綱良、奈良原繁ら、とくに剣術に優れた尊皇派藩士を、有馬らの集合場所であり、薩摩藩士の京の定宿でもあった寺田屋に差し向け、事態を鎮撫しようとした事件だ。この際、有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮介、西田直次郎ら6名が死亡、田中謙介、森山新五左衛門の2名が重傷を負った。

    二回目が「薩長同盟」を企図し、両藩の橋渡し役を演じた坂本龍馬捕縛ないし暗殺のため宿泊先の寺田屋を1866年(慶応2年)深夜、急襲したときだ。この「寺田屋事件」で、長州藩から派遣された龍馬の護衛役、三吉慎蔵とともに、伏見奉行・林肥後守配下の捕り方を迎え撃った龍馬は、死線をさ迷うほどの深傷を負った。だが、龍馬は幸運にもこの危難をくぐり抜けることができた。

    寺田屋を舞台にした、この悪夢のような災禍をお龍とともにつぶさに見ていたのが、女将のお登勢だった。薩摩藩からの救援隊の到着が遅れていたら、龍馬の人生はここでピリオドを打っていたかも知れない。とすれば、この後の大政奉還も、「世界の海援隊」もなかったのだ。桂小五郎の求めに応じて、龍馬が薩長連合の約定書=薩長同盟の裏書を書いたのは、彼が寺田屋で遭難し、九死に一生を得た直後のことだった。

 お登勢は人の世話をすることが大好きだった。龍馬をはじめ、幕府から睨まれていた尊皇攘夷派の志士たちを数多く保護した。このため、幕府から一時は危険人物と見なされ、入牢されそうになったこともある。気丈な名物女将だった。

(参考資料)宮地佐一郎「龍馬百話」、海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち」

富岡製糸場 国内18件目の世界遺産へ 6月に正式決定

富岡製糸場 国内18件目の世界遺産へ 6月に正式決定

 日本が世界文化遺産に推薦していた「富岡製糸場と絹産業遺産群」(群馬県富岡市など)について文化庁は4月26日、世界遺産への登録の可否を調査する「国際記念物遺跡会議(イコモス・本部パリ)が「登録が妥当」と国連教育科学文化機関(ユネスコ)に勧告したと発表した。6月にカタールの首都ドーハで開かれる第38回ユネスコ世界遺産委員会で正式決定する。

 「富岡製糸場」が正式に登録されれば、日本の世界文化遺産は2013年の「富士山」に次いで14件目。世界自然遺産も含めた世界遺産では国内18件目となる。近代産業遺産では国内初。富岡製糸場は政府がつくった日本初の官営製糸工場で、1872年(明治5年)に開業、その後、民間に払い下げられ、1987年まで稼働した。

 富岡製糸場と絹産業遺産群は富岡製糸場を中心に、半径40㌔以内にある養蚕関連施設の、近代養蚕農家の原形「田島弥平旧宅」(伊勢崎市)、国内標準の養蚕法を確立した「高山社(たかやましゃ)跡」(藤岡市)、冷風を利用した蚕の卵の貯蔵施設「荒船風穴(あらふねふうけつ)」(下仁田町)の計4施設で構成。

姫路城3年半ぶり雄姿「大修理」終え囲い外れる

姫路城3年半ぶり雄姿「大修理」終え囲い外れる

 世界遺産・国宝姫路城(兵庫県姫路市)の大天守最上層が、改装工事のための囲いが外され、約3年半ぶりに姿を現した。別名「白鷺城」とも呼ばれる白い外壁が、生まれ変わった美しい姿を見せた。市によると、2009年10月から「平成の大修理」に着工し、13年11月に終了。現在は囲いを解体する作業を進めている。8月ごろには大天守全体がほぼ見えるようになる見通し。内部の公開は15年3月27日から。

石川県白山市でワニに似た爬虫類の化石発見

石川県白山市でワニに似た爬虫類の化石発見

 石川県白山市教育委員会は4月24日、白亜紀前期にあたる約1億3000万年前の市内の地層から、ワニのような姿をした爬虫類「ネオコリストデラ類」の口先部分の化石3点が見つかったと発表した。調査団によると、ネオコリストデラ類の化石の発見は国内初で、世界では7例目。2002年と10年に、石川や岐阜など4県にまたがる「手取層群」と呼ばれる地層で発掘した。3つの化石は上顎や下顎に当たる部分で、長さ18~50㍉、幅約10㍉、厚さ5~20㍉。歯並びの特徴などから体長1~2㍍のネオコリストデラ類と考えられるという。

シェークスピア生誕450年 英の故郷で祝賀祭

シェークスピア生誕450年 英の故郷で祝賀祭

 英国の劇作家、ウィリアム・シェークスピアが4月23日、生誕450周年を迎えた。故郷のストラトフォード・アポン・エイボンでは同日夜、祝賀の花火が打ち上げられ、週末には町を挙げて祝賀祭が盛大に開かれる。「ハムレット」「マクベス」など数々の名作を残したシェークスピアは1564年生まれ。正確な日は不明だが、伝統的に洗礼の数日前にあたる4月23日が誕生日とされる。

 

知恩院「御影堂」天蓋は寛永年間の作 繊細な文様で特定

知恩院「御影堂」天蓋は寛永年間の作 繊細な文様で特定

 修理事業関係者によると、約100年ぶりに大規模修理されている浄土宗総本山知恩院(京都市東山区)の国宝「御影堂」の内陣天井を飾る天蓋が、彫金技術などから、御影堂が再建された寛永年間(1624~44年)の製作と判明した。天蓋は本体が約3㍍四方、高さ約1.5㍍。木製で、メッキと彫金が施された銅板で装飾されている。

 銅版に施された文様の繊細さや、文様の間に細かな円を浮き立たせる技術「七魚子(ななこ)」の精緻さ、再建時の作とされる厨子(ずし)「宮殿」の金工とも様式が似ていることから、寛永年間の製作と特定した。御影堂は1604年に建立、焼失を経て、39年に再建された。

鳳凰堂の翼廊の屋根飾り「露盤宝珠」も平安期の製作か

鳳凰堂の翼廊の屋根飾り「露盤宝珠」も平安期の製作か

 京都府宇治市の世界遺産、平等院は4月19日、国宝の鳳凰堂左右にある翼廊の屋根飾り「露盤宝珠(ろばんほうじゅ)」が平安時代に作られた可能性があるとの調査結果を発表した。平等院によると、露盤宝珠は翼廊の屋根に、それぞれ取り付けられ、重さは140㌔と150㌔。高さはいずれも105㌢で、6つの部材からなり、大部分が青銅製。

 平成の修理のため2013年11月に取り外され、蛍光エックス線で成分調査したところ、銀とアンモニアの割合が平安時代の作とされる鳳凰像と共通していたことから、露盤宝珠の製作も同時期だった可能性があるという。

東日本大震災の被災旧家から戊辰戦争の文書見つかる

東日本大震災の被災旧家から戊辰戦争の文書見つかる

 戊辰戦争(1868~69年)の際、仙台藩の村人が旧幕府勢力に宿や食料を提供したと記した文書が、東日本大震災の津波で浸水した宮城県石巻市長面地区の旧家から見つかったことが4月17日、分かった。解読した宮城学院女子大の平川新学長は、地域の村々が戊辰戦争にどう関わっていたのかを示す貴重な史料-と話している。

 文書は仙台藩にあった尾崎浜(現石巻市)の代表者が残していた。子孫が住んでいた旧家は津波で1階が浸水したが、文書は神棚に保管されていて無事だった。表紙に「徳川様御人数旅宿御賄諸事入料並金代請払手控帳」とあり、1868年の記録だった。明治新政府への降伏を決めた仙台藩と交渉するため、尾崎浜にきた旧幕府勢力に、村人が宿や食料を提供したとみられ、米のほか、サケや豆腐、酒などが記されていた。

木曾義仲 後白河法皇の術中にはまり、死に急いだ悲劇のヒーロー

木曾義仲 後白河法皇の術中にはまり、死に急いだ悲劇のヒーロー

 木曾義仲(源義仲)は1180年(治承4年)、以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れた以仁王(もちひとおう)の遺児を北陸宮として擁護し、「倶利伽羅(くりから)峠の戦い」で平氏の大軍を破って、源氏の中でもいち早く上洛した。ところが、①都の治安維持・回復に失敗した②皇位継承問題に介入した-ことなどから、後白河法皇と対立。不幸にも従兄弟にあたる源頼朝・義経と戦う破目になり、「粟津の戦い」で義経の軍勢に討たれた。わずか30年の生涯だった。

   歴史に「たら」「れば」を言っても仕方がないのだが、それを承知で、あえていわせてもらうなら、義仲がいま少しうまく立ち回っていれば…と考えざるを得ない。義仲が嫡子・義高を頼朝のもとに人質として差し出していることを考え合わせると、頼朝・義経との共闘・同盟を視野に入れて行動するという選択肢はなかったのだろうが、こうも簡単に後白河法皇の術中にはめられて身動きできなくなった格好で、“自滅”に陥ることもなかったのではないか。

   後白河法皇は、西国に退却した平氏を追討するように、義仲をけしかけながら、裏では鎌倉の頼朝と取引し「征夷大将軍職」を与えて、義仲追討の院宣を出しているのだ。法皇の腹黒い、したたかさには舌を巻かざるを得ない。これに対し義仲は手も足も出ない。木曽の山中で育ったためか、格式が重んじられる、都での公家との交渉ごとに不慣れだったことも当然あろう。不幸にもそういうことに長けたブレーンもいなかった。だが、どうみても粘り強く難局をしのぎ、打開していくというような姿勢が全くみられないのだ。そこには武骨で、死に急いだ悲劇のヒーローの姿があるだけだ。

 木曾義仲は河内源氏の一族、源義賢の次男。母は遊女。幼名は駒王丸、のち義仲。別名は木曾次郎、木曾冠者、朝日将軍。生没年は1154(久寿元)~1184年(寿永3年)。義仲の前半生に関する史料はほとんどなく、出生地は武蔵国の大蔵館(現在の埼玉県嵐山町)とする伝承もあるが、義賢が居住していた上野国多胡郡(現在の群馬県多野郡)の可能性もある。父義賢は甥の義平(頼朝の兄)に殺され、義仲は木曽に逃れ、元国司・中原兼遠の手で育てられた。義仲13歳のとき、京へ行き石清水八幡宮で元服し、「木曽次郎義仲」と名乗った。

 義仲が平家追討のため挙兵したのは1180年(治承4年)、27歳のときのことだ。そして、倶利伽羅峠の戦いで自軍のほぼ2倍の平家の大軍を破り、1183年(寿永2年)、遂に都へ攻め上った。上洛した義仲軍にとって期待されたのは、飢饉続きと、我が世を謳歌する平氏の狼藉で荒廃した都の治安回復だった。しかし、義仲はまずこの都の治安維持・回復に失敗してしまった。また、義仲軍の大軍が都に居座ったことにより食糧事情の悪化を招いた。さらには挙兵から上洛までの経緯から、以仁王の遺児、北陸宮を強引に推して、皇位継承問題に介入したことで、最高権力者・後白河法皇と不和となってしまったことも、取り返しのつかない、大きなつまずきとなった。

 義仲軍は西国へ退却した平氏を追討するため、山陽道にいた。義仲は水島で平家の水軍に破れ、法皇に裏切られたことを知る。頼朝が兵を差し向けてきたことを知ると、義仲麾下の軍は次々と離脱していった。必死の思いで都に戻った義仲軍3000は、八方塞がりの状況に直面し、いつのまにかわずか700になっていた。だが、ここで義仲は反転、攻勢に出る。法皇を討つ覚悟を決め、院の御所、法住寺を攻めて後白河法皇を捕らえ、幽閉した。

 1184年(寿永3年)、義仲は待望の征夷大将軍になったが、悲しいことに命運は尽きた。源範頼・義経率いる約2万の鎌倉軍が迫っていたのだ。そして、近江国粟津(現在の滋賀県大津市)が最期の舞台だった。義仲が戦死したとき、嫡子・義高は頼朝の娘・大姫の婿として鎌倉にいた。彼は身の危険を感じ、逃亡を図ったが討たれ、義仲の家系は絶えた。

 今日、木曾義仲の功績を正当に評価する史料は極めて少ない。ほとんだが義仲=敗者=悪-を前提に論じたものだ。意外にも江戸時代の学者の中には公正に評価した人物がいる。徳川六代将軍家宣の侍講、新井白石は著書『読史余論(とくしよろん)』で、「すべて平家の兵をやぶりて、都を追い落とせし事、ことごとく義仲が功なり」と義仲の功績を称える義仲論を説いている。そして、『平家物語』や『源平盛衰記』などは鎌倉時代になって作られた物語で、これらは後白河法皇、源頼朝の立場を正当として位置づけ、義仲の功績を覆い隠し、悪の一切を義仲の責めにして押し付けている-と後世の義仲に対する低い評価を断罪している。

(参考資料)杉本苑子「悲劇の風雲児」、海音寺潮五郎「武将列伝」、安部龍太郎「血の日本史」、松本利昭「木曽義仲」、永井路子「絵巻」、加来耕三「日本補佐役列伝」

 

平城天皇 早良・伊予両親王の亡霊に抗し切れず譲位した病弱な人物

平城天皇 早良・伊予両親王の亡霊に抗し切れず譲位した病弱な人物

 平城(へいぜい)天皇は皇太子(安殿親王)のとき、母の藤原薬子(ふじわらくすこ)が長女を後宮に入れるため、付き添いとして宮中に上がった際、気に入り、関係を結ぶに至り、後宮の秩序を著しく乱した人物だ。皇族としての品格や常識に欠ける側面があったことは確かだ。また、生来病弱だったため、在位わずか3年余りで弟。嵯峨天皇に譲位、平城上皇となった。だが、ほどなく健康はにわかに回復したため、国政への関心を示すようになった。そして上皇の威を借りた、側近の薬子やその兄の藤原仲成の暗躍に任せ、上皇の命令と称して政令を乱発。その結果、弟の嵯峨天皇と対立、「二所の朝廷」と呼ばれる分裂状態をつくり出し、国政を混乱させた。

    平城上皇は精神的に幼く、様々な行動が“悪あがき”や“○○ごっこ”と表現した方が的を射ているような幼児性が随所に垣間見られ、弟の嵯峨天皇の器量と比較すると悲しいほどだ。平城天皇の生没年は774(宝亀5)~824年(天長元年)。

 平城天皇は、桓武天皇の第一皇子。諱は安殿(あて)といい、皇后・藤原乙牟漏(おとむろ)を母として生まれた。父・桓武帝の弟、早良親王の廃太子に伴い、785年(延暦4年)12歳で立太子した。参議、藤原繩主(ただぬし)と藤原種継の娘・薬子の間に生まれた娘を後宮に迎えた。ところが、皇太子はこの娘の母・薬子との間でも関係を結んでしまったのだ。このとき薬子は三男二女の母親だったが、よほど中年の魅力的な女性だったのだろう。皇太子は薬子に夢中になってしまったのだ。父の桓武天皇はこれを知って激怒し、薬子を後宮から追放した。

 だが、806年(大同元年)、桓武天皇が崩御し、安殿親王が皇位に就くと、まもなく薬子は呼び戻されて、後宮を束ねる尚侍(ないしのかみ、天皇に常侍する女官の長)に就任した。これ以後、平城天皇と人妻、薬子との関係は一層深まった。薬子の兄は仲成だ。彼は薬子の支援もあって昇進、参議の地位に昇った。仲成は藤原式家、造長岡京の長官で暗殺された父の中納言種継の長子だっただけに、藤原四家の勢力争いを強く意識。妹・薬子を通して平城天皇との関係を強めることが、式家の繁栄および今後の栄進の第二の保証と考えた。

 平城天皇は809年(大同4年)、詔を発して皇太子(賀美能親王)への譲位を公表した。生来病弱だった天皇が、その年の初めに発病し、なかなか回復しなかったためだ。彼は、体の不調を怨霊の仕業だと思い悩み続け、王位を離れさえすれば、その禍から免れて生命を保ち得るのではないかと考えた。彼は遂に、無念の死を遂げた早良親王、伊予親王の亡霊の鬼気には抗し得なかったのだ。皇太子・賀美能(かみの)親王は平城天皇の12歳年少の同母弟だ。彼は即位し嵯峨天皇となった。ところが、譲位してから7カ月ほど経つと、上皇となった平城の病が快方に向かい、天皇との対立が表面化してきたのだ。疫病から逃れようという一念から、不本意にも退位した、後悔の思いが強まってきたのだ。恐らくは側近の仲成・薬子の兄妹が助言あるいは、たきつけ、煽った面もあったろう。

 平城上皇がその新居の地を旧都(平城京)に求め、慌しくそこに移ったころから、上皇と天皇との対立が表面化した。薬子と仲成がその動きを助長した面はあったろうが、そのきっかけをつくったのは上皇本人だった。いまや上皇の居所は、反嵯峨朝廷の策源地となった。愚かにも平城上皇は「二所の朝廷」の対立時代をつくってしまったのだ。そして、嵯峨天皇が発病、病臥中、上皇はとんでもないサプライズをやらかしてしまう。異例のことだが、上皇は独断で平安京を廃して都を平城の故地に遷すことを命令したのだ。嵯峨天皇と政府にとっては、この遷都宣言はまさに青天の霹靂ともいうべき大事件だったろう。全く子供じみた“暴挙”としかいいようがない。

 上皇の独りよがりの無謀な朝廷挑発行為には全く支持者は得られず、事態は早々に収拾された。嵯峨天皇は兄・平城上皇の王権への叛逆の罪を追及しなかったが、上皇の皇子・高岳親王から皇太子の地位を奪った。 

(参考資料)北山茂夫「日本の歴史④平安京」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、杉本苑子「檀林皇后私譜」

平維盛 源平争乱の荒波に押しやられた、清盛の嫡孫・純愛カップルの愛

平維盛 源平争乱の荒波に押しやられた、清盛の嫡孫・純愛カップルの愛

 平維盛(たいらのこれもり)は、平重盛の嫡男、つまり清盛の嫡孫だ。彼は美貌の青年公家だった。そんな彼が見初めたのが、権大納言成親(なりちか)の娘。15歳と13歳で結婚した二人は、人もうらやむ似合いのカップルだった。しかし、源平争乱の荒波は、この二人にも情け容赦なく押し寄せてきた…。維盛の生没年は1157(保元2)~1184年(寿永3年)。

 維盛は、無事なら清盛の跡を継ぐはずだった重盛の嫡男として宮廷では順調に昇進。若くして従三位、小松三位中将などと呼ばれた。母は官女とされるが、出自など詳細は不明。一方、妻は権大納言成親の娘。妹は平清経の妻室になっていた。彼女たちの母・京極局は、歌人、藤原俊成の娘。後白河法皇に仕え、院中女房の第一といわれ、したがって姉妹は藤原定家の姪になる。彼女は10歳をすぎたころ、義理の叔母になる建春門院に仕えた。女院から特別に目をかけられ、御座所近くに局を与えられていた。

 二人が結婚した男子15歳、女子13歳は、往古に定められた『大宝令』以来の結婚可能な年齢だ。ほどなく二人の間に続いて子供が生まれた。兄を六代丸(ろくだいまる)と名付けられた。平家隆盛の基礎を築いた兵庫頭・平正盛(ひょうごのかみ・たいらのまさもり)から数えて六代目の嫡孫の意で付けられた。2年後に生まれたのは姫だった。夫婦の中は、二人の幼な児をはさんでいよいよ睦まじかった。

 ところが、夫婦にとって不幸な事件が突発した。治承元年、鹿ケ谷山荘で平家打倒の謀議がなされたとして、二人の状況が一変したのだ。事件の中心的や役割を果たしたとみられたのは、新大納言局の父、藤原成親だ。兄の成経(なりつね)も同じとされた。成親は同年1月の除目(じもく)で、望んでいた左近衛大将(さこんえのたいしょう)の地位を清盛三男の宗盛(維盛の叔父)に奪われた。その不満から西光(さいこう)法師が唱える平家打倒の強硬論に加担したのだ。

 皮肉なことに、成経の妻は清盛異母弟の平教盛(たいらののりもり)の娘だった。さらに、父重盛の妻も成親の妹だった。古代国家体制を維持してきた藤原氏と平家一門の公達は、幾重にも婚姻を結び、完全に貴族化し、一朝事があれば、身内が敵味方となる特異な側面を備えていた。この事件で、維盛の舅、妻の父、成親は備前の配流地で串刺しにされ殺された。清盛が断固とした処置を打ち出した結果だった。

 宮廷での評判とは裏腹に、武将としての維盛の経歴は散々なものだ。鎌倉軍と対峙した「富士川の合戦」には大将軍として出陣したものの、水鳥の羽音に驚いて、戦わずして逃げ帰り、そのころはまだ健在だった清盛に大目玉を食らっている。その後、木曽義仲の上洛を阻むために北陸路へ出陣したときも、彼は大将軍だったが、「倶利伽羅峠の合戦」に大敗し、平家滅亡の端緒をつくっている。ただ、彼にも同情の余地はある。富士川の合戦のとき、彼は23歳だった。武将として何の経験もないままに、重盛の嫡男だからというだけの理由で、将軍の座に据えられたのが悲劇だったのだ。この立場は彼には重荷に過ぎたのだ。この2度の合戦に彼は叩きのめされた。

 維盛の、いやこのカップルの悲劇は、平家の総帥・清盛の死から2年後、平家一門が幼い安徳天皇を奉じて西海に逃れたことに始まる。二人の子供、六代丸は10歳、姫は8歳だった。このとき、妻子や、ほかの家族も伴うべしという一門の総指揮・宗盛の命令に従わず、維盛はなぜか、泣きすがる妻と二人の子供を京に残したのだ。維盛は、自分もお前たちを伴って行きたいが、途中で敵勢が待つともいう。そんな厳しい逃れの旅にお前たちを伴って、辛い思いをさせたくないのだ-と自分にも言い聞かせた。彼は、それほどに前途に全く光明を持ち得なかったからだ。そして、たとえ自分の討ち死にを聞いても、尼などになってくれるな。再婚しても幼い子供たちを育ててくれ-と言い残した。

    翌年、平家一門は屋島に戦陣を構えた。ところが、維盛は妻子恋しさのあまり、わずかな郎党を頼りとして、密かにこの屋島の陣から抜け出した。京に潜入して妻子の行方を探すためだった。だが、源氏軍の平家狩りは厳しかった。京への潜入は断念せざるを得なかった。立場上、都で万一捕われて生き恥をさらすことは、絶対避けなければならなかったからだ。彼は妻子に再会できないまま、高野山に逃れ、失意のあまり、1184年(寿永3年)、那智の海に入水して果てた。享年27。しかし維盛は、実際には生き延びていたという様々な伝説が日本各地に残っている。平家落人伝説の一つだ。

 維盛の妻子はその後、妻は『吉記(きっき)』を著した権中納言・藤原経房(つねふさ)に後妻として嫁いだ。六代丸は頼朝の死後、平氏嫡流の根絶やしをはかる幕府の一部勢力により、当時彼は僧籍にあったものの26歳のとき斬首された。六代丸の妹の姫は、母とともに経房の屋敷に住み、18歳のとき経房外孫の藤原実宣(さねのぶ)に嫁している。夫婦として二人が生きたのは王朝時代の末期。維盛と妻の新大納言局の愛は、時代を激しく変貌させた源平争乱の中で泡沫と消えたわけだ。

(参考資料)永井路子「歴史の主役たち」、澤田ふじ子「平維盛と新大納言局 純愛カップルを待ち受けていた運命」、杉本苑子「平家物語を歩く」

徳川家定 幕末 将軍後継問題の原因をつくった病弱・暗愚の将軍 

徳川家定 幕末 将軍後継問題の原因をつくった病弱・暗愚の将軍 

 徳川家定は、嘉永~安政年間にかけて在職した徳川十三代将軍だ。家定は十二代将軍だった父・家慶の四男だったが、兄たちはすべて夭折・若死にしてしまい、唯一残ったため父の後継将軍に就いた。だが、彼は幼少時から虚弱体質で、脳性まひを患っていたといわれるくらい、将軍職を務められるかどうか、当初から不安視されていた人物だ。

    そのため、将軍就任直後から後継将軍問題が取沙汰される始末だった。後に紀伊藩主・慶福(よしとみ、後の十四代将軍家茂)を推す紀州派と、一橋慶喜を推す一橋派の両派が、幕閣はもとより朝廷をも巻き込んで争った将軍後継問題がそれだ。この両派の対立は急遽、大老に就任した彦根藩主・井伊直弼の決断で紀州派が勝利を収めた。その後処理を巡って、家茂の治世下、京都の公家をも含め処罰の対象にした、直弼による厳しい、かつ忌まわしい「安政の大獄」が断行された。その結果、吉田松陰、橋本左内ら無事なら後世に様々な功績を残したであろう数多(あまた)の英傑が処刑・処罰され、結果的に幕府にとっても大きな汚点を残した。

 徳川家定は、十二代将軍・家慶と本寿院との間に生まれた。家定を名乗る前は政之助、家祥とも呼ばれた。別名イモ公方。生没年は1824年(文政7年)~1858年(安政5年)。既述のとおり、家定は幼少時から虚弱体質だった。そのため、精神的な発達が遅れ、将軍職として執務することは重荷で、江戸城の庭にいるアヒルなどを追い駆けたり、豆や小豆を煎って側近に与えることが唯一の楽しみとするような性格だったという。父・家慶は家定の治療を指示し治そうとしたが、無理だったようだ。

 家定は公家から二度、そして武家から一度、計三度正室を迎えている。最初の縁組は1828年(文政11年)、5歳の時に決定した。相手は1823年(文政6年)誕生した一歳上の、鷹司前関白政煕(まさひろ)の末娘有君で、関白鷹司政通の養女として家定に嫁ぐことになった。この有君が江戸城西の丸に入輿したのは19歳のときのことだ。このとき家定は18歳だった。が、有君は1848年(嘉永元年)、疱瘡のため25歳の若さで死去した。このため、1849年(嘉永2年)、左大臣一条忠良の娘秀子を二度目の御簾中として迎えたが、不幸にもこの秀子も翌年、死去してしまった。

 家定の側室はお志賀の方一人しかおらず、子供もいなかった。したがって三度目の正室を迎えることや、誰を養君に立てるかということが、重要な政治問題になりつつあった。そこで、浮上してきたのが武家、島津家からの輿入れだ。二度まで正室を失った家定は、病弱な京都の公家の娘を好まず、長命で子孫が繁昌した茂姫(広大院、島津家から4歳で一橋家の松平豊千代=後の第十一代将軍・家斉の正室となった)の先例にあやかり、島津家から後室を娶ろうとしたのだ。もちろん、これが家定自身の発意かどうかは分からないが、阿部正弘を老中首座とする幕閣もこれを好感、支持していたようだ。

 こうした幕府の意向を受ける形で、島津斉彬の養女一子が「篤姫(あつひめ)」と称され、近衛家の養女「敬子(すみこ)」と改め、1856年(安政3年)、家定と婚儀を挙げたのだ。家定33歳、篤姫21歳の時のことだ。史料によると、家定と篤姫の夫婦仲はなかなか良好で、世子となる若君の誕生が期待された。だが、篤姫との間にも遂に子供はもうけられなかった。病弱な家定は1853年(嘉永6年)、将軍職に就いてから、1858年(安政5年)に病没するまでわずか5年の在任だった。

(参考資料)山本博文「徳川将軍家の結婚」、宮尾登美子「天璋院篤姫」、加藤蕙「島津斉彬」、綱淵謙錠「島津斉彬」

大内義隆 京の都かぶれ、公家かぶれが命取り 重臣に謀反起こされ自害

大内義隆 京の都かぶれ、公家かぶれが命取り 重臣に謀反起こされ自害

 大内義隆は戦国時代、周防の守護大名・大内氏の第十六代当主だが、京の都の居並ぶ公家たちを凌ぐ、当時の戦国大名としては抜群の高位の従二位を叙任されていた。そして彼自身、学問に理解が深く、なかなかの文化人でもあった。しかし、この京の都かぶれ、公家かぶれが命取りとなり、重臣の陶隆房(すえたかふさ、後の晴賢)に謀反を起こされ、「当代随一の実力者」を自認していた彼もあえなく敗北、自害して果てた。公家風に深入りし過ぎて、居館の館を手薄な防禦で済ませていたことが身を亡ぼす原因になった。

 大内義隆は、大内義興の嫡子として大内氏館で生まれた。母は正室、長門守護代の内藤弘矩の娘。幼名は亀童丸、別名は受領名・周防介、尊称・大内介。義隆の生没年は1507(永正4)~1551年(天文20年)。

 大内氏の京都趣味は、14世紀後半活躍した先祖の弘世のころから始まったという。周防国の大内村から身を起こし、中国地方の有力大名にのし上がった弘世は、南北朝時代、自ら都へ上り、そのありさまに一驚し、早速本拠の山口に、ミニ京都をつくることを思い立った。ここに○○大路、○○小路と京都もどきの名前を付け始めた。室町末期、父・義興のころは足利将軍家の権威も地に堕ち、家は分裂し戦にもまれる状態で、その将軍の一人、義稙(よしたね)ははるばる大内家を頼って居候になっていたことすらあった。つまり、大内家は将軍のスポンサーになれるほどの実力派だったのだ。

 義隆は幼いころから、こうした環境に育った。義隆にとっては京風、公家風はもう付け焼刃なものではなく、地に着いた、あるいは肌に沁みこんだものだった。それだけに、彼自身も学問に理解が深く、なかなかの文化人でもあった。しかも、明国相手の貿易も盛んで、半ば独占的にこれを手がけていた大内氏の利益は大きく、文字通りの「舶来品」がどんどん入ってきた。この大内家の繁栄を見抜いて、海の彼方からも珍客がやってきた。キリシタン・バテレンの宣教師フランシスコ・ザビエルだ。彼は義隆に大時計や火縄銃を献じ、ここを日本布教の根拠地として活動を始めた。こんなことが重なっただけに、義隆も我こそは当代随一の実力者と思い込んだとしても無理はない。

 そんな義隆の心情を如実に示したのが、彼の嫁取りだ。彼は政略結婚で周辺の有力戦国大名の娘との婚姻といった、当時ありがちな嫁選びはしなかった。妻には都の公家の姫君を迎えた。万里小路秀房(までのこうじひでふさ)の娘、貞子といい、15歳のときに輿入れしてきた。義隆はこの京人形のような妻を愛した。が、あるとき公家かぶれの義隆が、ふと浮気心を起こして貞子の侍女に手を出し、それが発覚。夫の浮気に憤慨した彼女は遂に都へ帰ってしまった。

    浮気がバレて妻に逃げられるとは戦国大名としてはとんだ赤っ恥だが、義隆にとって取り返しのつかない失敗が、居館の防備だった。万事公家好みの彼の山口の館は防備万全の城ではなかった。都の天皇や将軍の御所に倣って、周囲を土手で囲んだ「御館(おやかた)」しかつくらなかったのだ。食うか食われるかの戦国、こんな手薄な防禦ではひとたまりもない。重臣の陶隆房に謀反を起こされ、あえなく敗北してしまう。彼は船に乗って九州に逃れたかったようだが、風波に遮られてそれも果たせず、長門の大寧寺で自害して果てた。

 順序が相前後するが、義隆の若き日の姿を少し触れておく。彼は元服後の1522年(大永2年)から父・義興に従い、1524年(大永4年)には安芸に出陣した。岩国永興寺から厳島へ入り、陶興房とともに安芸武田氏の佐東銀山城を攻めた。しかし、8月には尼子氏方として救援に赴いた毛利元就に敗退した。また、山陰の尼子氏とも干戈(かんか)を交えた。1528年(享禄元年)、父の死去に伴い家督を相続した。

(参考資料)福尾猛市郎「大内義隆」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」

足利義尚 ポスト義政の争いに勝ったが、25歳の若さで病没した九代将軍

足利義尚 ポスト義政の争いに勝ったが、25歳の若さで病没した九代将軍

 室町幕府の第九代将軍・足利義尚(よしひさ)は、第八代将軍・足利義政の子で、父とは異なり、将軍は武士の棟梁だというこだわりを持ち続け、文武両道の達人となることを目指した人物だった。ただ、悲しいことに、武士の棟梁=将軍の権威にこだわるあまり、戦争収拾の稚拙さが禍(わざわい)となり、結局彼は応仁の乱後、下克上の高まりによって大きく失墜した幕府・将軍家権威の回復に努めたものの、目指した成果は挙げ得ないまま、25歳の若さで病死した。

 足利義尚は母・日野富子の過度の願望と期待を背に受けて成長、父・義政の後を受けて九代将軍職に就いた。わずか8歳のときのことだ。その後は、政治顧問、一条兼良(いちじょうかねら)から帝王学をはじめ、政道や和歌などを学ぶなど文化人としての評価は高い。とりわけ、和歌に熱心で14歳ごろから盛んに歌会を主催した。義尚は1483年(文明15年)、『新百人一首』を撰定し、さらに姉小路基綱、三条西実隆、飛鳥井雅親、飯尾宗祇などの歌人を結集して和歌『撰藻鈔』の編纂を試みたが、義尚の陣没により未完に終わった。他に『常徳院集』など数種の歌集が伝わる。1487年(長享元年)、義尚は義煕(よしひろ)と改名しているが、一般的には義尚の名で知られる。生没年は1465(寛正6)~1489年(長享3年)。将軍在位は1473~1489年。

 義尚の運命を大きく転換させることになったできごとがある。それは近江国(現在の滋賀県)の南半分の守護だった六角高頼(ろっかくたかより)が、勢いに任せて北近江の社寺系の荘園や将軍家の直轄地の御料所を押領(おうりょう=横領)したという一つの訴えが義尚のもとに届けられたのだ。義尚が20代半ばの時のことだ。これを放置すれば将軍の権威はますます低下する。そう考えた義尚は、諸大名に招集をかけ自らも鎧を身に付け、高頼を討つべく近江へ出陣した。父・義政の時代には、実質的には絶えてなかった将軍親征だ。初めのうちは極めて順調に事は進んだ。斯波、畠山、細川、山名、一色、大内といった守護大名の大物たちが参集し、1487年(長享元年)の合戦では将軍方が大勝利を収めた。高頼は本拠の近江観音寺城を捨てて、近臣だけを連れて甲賀の里(現在の滋賀県甲賀郡)へ逃亡した。義尚の軍事デモンストレーションともいうべき親征は、とりあえず大成功を収めたのだ。

 ところが、実はこれが義尚にとって、そして室町幕府の将軍家にとっても、衰亡の大きなきっかけとなってしまったのだ。合戦に勝利することは確かにめでたいことだが、勝った以上は功労者に恩賞を与えなければならない。幕府は、いや政治は信賞必罰が基本であり、それを踏み外しては当事者に不満や不信を抱かせることになる。義尚が親征を敢行したのも、将軍家の権威の復活のためだったから、彼は六角高頼から「取り戻した」領地を、近臣たちに与えた。近習出身の結城尚豊を近江の守護職に任じた。合戦の成果として、これでよかった。六角高頼征伐はこれで十分なのだ。正確に言えば、この成果を持って都へ帰り軍を解散すれば確定するのだ。

 しかし、義尚は都へ凱旋せず、甲賀の入り口に近い鈎(まがり=現在の栗東市)で無理な滞陣を続けた。あくまで高頼を捕らえ成敗することにこだわったのだ。あまりの長期の滞陣に、管領・細川政元(勝元の子)が、とりあえず琵琶湖のほとりの坂本まで兵を引くように進言したが、義尚は全く耳を貸さなかった。怒った政元は都へ帰ってしまった。いうまでもなく、都の近くとはいえ、長期間の滞陣は多額の費用を必要とする。お坊ちゃん育ちの義尚は中級以下の武士たちの不満や窮状、そして大名クラスをも含めた滞陣に伴う武士全体に充満した、いつ終わるか分からない不自由さにはまるで気がつかなかった。その結果、義尚は将軍権威の復活の絶好の機会をみすみす逃してしまった。

 そればかりではない。長期間の滞陣によって、もともと病弱な体質の義尚は何回か病気になり、とうとう死に至る病に冒されてしまったのだ。そして、滞陣1年6カ月、義尚は結局この近江の鈎の陣中で病没した。享年25。死因は過度の酒色による脳溢血といわれる。仲違いした父・母の姿ばかり見て育ったという側面は差し引いても、自身の気負いすぎに気付かなかった、お坊ちゃん育ちの将軍の悲劇だった。

 「ながらえば人の心も見るべきに 露の命ぞはかなりけり」が辞世だ。

   義尚には継嗣がなかったため、従弟(叔父・義視の子)の足利義材(よしき、後の足利義稙=あしかがよしたね)が義政の養子(一説に義煕の養子とも)となって、1490年(延徳2年)に第十代将軍に就いた。

(参考資料)井沢元彦「逆説の日本史⑧中世混沌編」

足利義視 兄・義政から九代将軍を約束されながら、反古にされた弟

足利義視 兄・義政から九代将軍を約束されながら、反古にされた弟

 足利義視(あしかがよしみ)は、兄の室町幕府の第八代将軍・足利義政に口説かれ、後継者に決まった。万一、この後、義政の正夫人(御台所)日野富子との間に男子が生まれても、絶対に後継者にしない。出家させる-という確約も得た。そのために、幕閣第一の有力者で宿老の細川勝元を後見人にも立てた。これで、義視の九代将軍職就任は決まったはずだった。ところが、皮肉なことに、彼が後継者に決まって一年も経たないうちに、義政の妻・富子は懐妊し翌年、男子を産んだのだ。これが後に正式に九代将軍になる義尚(よしひさ)だ。哀れ、後継者を約束されたはずの義視は結局、まだ赤ん坊の存在に振り回され、義政の「将軍留任」のまま、結論が先送りされ、人生を狂わされてしまったのだ。

 足利義視はもともと天台宗浄土寺門跡として出家して義尋(ぎじん)と名乗って、僧籍にあった。何事もなければ、彼は僧籍で生涯を終えるはずだった。それを、将軍の座を引退し、大御所として気ままに「趣味に生きる」ことを考えた兄・義政に、後継者にと熱心に、そして強引に口説かれたのだ。それでも義尋は最初のうちはその申し出を何度も断っていた。義政も富子もまだ若い。二人の間に、もし男の子が生まれれば、即、邪魔者になり約束は反古にされる-と怖れた。

 だが、義政が冒頭に述べたとおり、後継者を確約し、義尋の後見人として細川勝元を付けてくれたからこそ、彼は遂に決断し還俗して、義視と名乗ったのだった。しかし、義視にとってそれは悲劇の始まりだった。それは、すべて無責任で、優柔不断で、この後継問題を放置し先送りした、将軍の兄・義政のせいで被ったものだった。

 この場合、いずれにしても義政という日本の最高権力者が、その権限と地位をもって決断しなければならなかったのだ。それを、妻・富子が腹を痛めた実子を後継の将軍職に就けたいと願う、極めて強い富子の要請に遭って、彼は将軍職を降りるに降りられず、無責任にも、不本意ながら将軍に居座り続けることになったのだ。その結果、義視・細川勝元の東軍勢vs義尚・日野富子・山名宗全の西軍勢の、やがて京都を焦土と化した「応仁の乱」に突入していく要因の一つとなった。

 足利義視は、室町幕府第六代将軍・足利義教の十男として生まれた。今出川の屋敷に住んだため「今出川殿」と尊称された。諡号は道存。母は日野重光の娘、日野重子。第七代将軍・義勝、八代将軍・義政らは同母兄、堀越公方の足利政知は異母兄にあたる。義視の妻(正室)は日野重政の娘、富子の実妹・妙音院。子に十代将軍となった足利義材(よしき、後の足利義稙=よしたね)がいる。義視の生没年は1439(永享11)~1491年(延徳3年)。

 11年間にわたる「応仁の乱」後、美濃に亡命。甥の義尚と、兄・義政の死後、リベンジするように、あるいは還俗してからの不運続きの人生を取り戻そうとするかのようなはつらつとした動きをみせた。義視は、将軍後継争いで対立したはずの富子と、にわかには信じ難いことだが今度は結託して、子の義材を第十代将軍に擁立して、自らは大御所(後見人)として幕政を牛耳ったのだ。まさに、波瀾万丈の人生だった。

(参考資料)井沢元彦「逆説の日本史⑧中世混沌編」

足利義嗣 父・義満の皇位簒奪計画に翻弄され、波乱の人生送る

足利義嗣 父・義満の皇位簒奪計画に翻弄され、波乱の人生送る

 足利義嗣は、室町幕府の歴代将軍の中でもとりわけ権勢を誇った三代将軍・義満の次男で、四代将軍となった義持の弟だ。義嗣は父・義満に溺愛されたばかりに、嫡男以外は出家するという足利将軍家の慣例を曲げて、異例のことに還俗させられ、義満の皇位簒奪計画の道具にさせられた。そして挙げ句、義満の急死でその計画は頓挫。庇護者を失った、その後の彼は、波乱の人生を送る破目になったのだ。

 足利義嗣は父義満の次男として生まれた。幼名は鶴若丸。嫡男以外は出家させる慣例に従って梶井門跡に入室したが、父は1408年(応永15年)、定めを破って義嗣を還俗させた。ここから、足利義満による皇位簒奪計画がスタートする。足利義嗣の生没年は1394(応永元)~1418年(応永25年)。

 義嗣の父・義満は天皇家から種々の権力を次々と奪っていき、最後は自分が太上天皇(天皇の父)となり、妻を准母(天皇の母)として、自分の息子、義嗣に次の皇位を継がせる計画を立てた。そして、それは義満の法号「鹿苑院太上天皇」が決まり、妻(日野康子)を准母とするところまで、この恐るべき大胆極まる陰謀は、九分通り成功していたのだ。が、日本史に類例のないこの暴挙は義満の急死で挫折したということだ。

 今谷明氏は「義嗣の皇位は、後小松天皇に強要して禅譲に誘導するか、あるいは気長に後小松の病死を待つか、ともかく後小松から皇位を義嗣に移すというのが、義満のもくろみだったということは間違いあるまい」としている。

  1408年(応永15年)3月、義満が10年の歳月をかけて完成した北山第に後小松天皇が招かれた。この「接待」は約20日間続いた。そして、それからわずか1カ月後の4月、義満は義嗣の元服式を宮中で行ったのだ。前代未聞の“暴挙”だった。その格式は「親王元服」と同等だった。将軍の息子に過ぎない義嗣が、天皇の子「親王」と同じ格式で元服をする。もちろん、関白以下の公家の面々も頭を下げて列席しなければならないのだ。これは、明らかに「立太子」の儀式だったろう。

 皇太子になってしまえば、あとは天皇が何らかの理由で退位すれば、自動的に天皇になれるからだ。義満の側から、一方的で勝手な見解をいえば、邪魔者は消せばいいのだ。皇太子は次期天皇を約束された身だから、誰もこの継承に異議をはさめなくなる。

 ところが、義満はこの義嗣の「立太子式」のわずか6日後に突然発病する。そして、さらに5日後、一代の“怪物”足利義満はあっけなくこの世を去ってしまうのだ。文字通りの急死だった。病名は咳気(風邪)または流布病(流行病)ともいわれるが、はっきりしない。義満には持病はなく、日頃から健康で頑健な体を持っていたという記録があるのだ。いよいよ不可解で、その死は謎だらけだ。義満は暗殺されたのか、もっとリアルに表現すれば毒殺されたのではないか。

 井沢元彦氏は「暗殺説」を公言している。そして、直接の実行犯について同氏は大胆な推理を披露している。結論をいえば、義満暗殺の黒幕は内大臣・二条満基(みつもと)、そして実行犯にあの世阿弥を挙げている。当時、最高の知識人だった満基の祖父・二条良基は、かつて世阿弥の「家庭教師」でもあった。アレキサンダー大王が、家庭教師のアリストテレスに影響を受けたように、世阿弥は良基の影響を受けたはずだ。

 二条満基は「これは殺人ではない。天皇家を乗っ取ろうとする大罪人を成敗するのだ。正義であり、忠義だ」と考えたに違いない。しかし、朝廷の高官といっても公家の満基に、毒を盛ることなどできるはずもない。第三者に依頼したのだ。義満に毒を盛ることができるほど「近い」人物、そして二条家に深い恩義を感じている人物、それは世阿弥だ-と井沢氏。

 いずれにしても、義満が死んで「天皇家乗っ取り計画」が挫折したということは、再び大名連合の力が強くなったということだ。その代表が幕府の長老的存在の管領・斯波義将(しばよしまさ)で、彼が最初にしたことは天皇家が言い出した義満の尊号宣下(太上天皇号)を辞退したことだった。これには父・義満を嫌っていた四代将軍義持の意向もあったが、有力大名と足利家は対立する存在だったからだ。これ以後、足利将軍家と有力大名との抗争の時代となる。

 話を義嗣に戻そう。「親王」元服した際、義嗣は従三位、参議に任官していたが、1408年(応永15年)5月、義満が死去すると、義満にないがしろにされていた四代将軍義持によって、義嗣と生母・春日局は北山第から追放されるなど冷遇された。だが、7月に権中納言に任官した。1409年(応永16年)1月には正三位、1411年(応永18年)11月に従二位、権大納言、1414年(応永21年)1月には正二位に叙せられた。父による不純な天皇への道は挫折したが、朝廷高官への階段は着実に昇っていたのだ。

  ただ、ここから先は義嗣自身の思いとは、だんだんズレが生まれていく。その後、不和だった兄の将軍義持を打倒するため、義嗣は伊勢国の北畠氏と結んで挙兵を企てるが、失敗。1416年(応永23年)、鎌倉府で義嗣の妾の父、前関東管領の上杉禅秀が鎌倉公方の足利持氏を襲撃した「上杉禅秀の乱」が起こった際、京都で義嗣が出奔する騒動を起こした。

  こうした状況をにらみ合わせた幕府は、義嗣の乱への関与を疑って、義嗣はじめ近臣を捕らえた。遂に義嗣は仁和寺へ、次いで相国寺へ幽閉され、出家させられた。若き日、父に強引に還俗させられたが、また元の道に戻ったわけだ。だが、今回はそれだけでは終わらなかった。1418年(応永25年)、義嗣は兄の将軍義持の命を受けた富樫満成により殺害された。父・義満が溺愛した義嗣は、容姿端麗で才気があり、とりわけ笙の演奏は天才的だったと伝えられている。

(参考資料)今谷 明「武家と天皇」、今谷 明「信長と天皇」、井沢元彦「天皇になろうとした将軍」、井沢元彦「逆説の日本史⑦中世王権編」、海音寺潮五郎「悪人列伝」

 

 

 

 

足利義輝 権謀家が策に溺れ、松永久秀に殺害された室町十三代将軍

足利義輝 権謀家が策に溺れ、松永久秀に殺害された室町十三代将軍

 足利義輝は室町幕府の第十三代将軍だが、神道流の達人、塚原卜伝(つかはらぼくでん)から免許皆伝を得たほどの人物で、その戦ぶりは生半可な武将の及ぶところではなかった。また、義輝は権謀家でもあった。それだけに、義輝は地に墜ちた幕府の権威を回復させるため、なりふり構わず権謀術数を凝らし、一つの企てを謀った。

  それは三好長慶の重臣、松永弾正久秀をそそのかし、主君を殺め三好家を乗っ取れば、天下の実権を握ることもできると煽り、久秀をその気にさせた。そして自分の手を汚さず三好家を屠った。当時、三好家は畿内、淡路、四国にかけて十カ国の所領を持つ勢力を保っていた。この力と将軍家の権威を合わせれば畿内を治めることは容易に思われたのだ。事実、三好長慶は将軍の相伴衆に加えるよう申し入れてきていた。相伴衆となって義輝を意のままに動かそうと目論んでいたのだ。裏を返せば、義輝にとっては三好家はそれだけ厄介な存在だったというわけだ。

  松永久秀が、義輝の思惑通り三好家を手中にした後、義輝は今度はその久秀を討つために上杉謙信と織田信長に上洛を求めた。義輝のその謀(はかりごと)の全貌を知った久秀は、屈辱と憎悪に打ち震え、たとえ自分の身はどうなろうと義輝だけは許さぬと決意させ、復讐のターゲットとなってしまった。そして、まもなく義輝は“憎悪”の鬼と化した久秀の刃の前に倒れた。1565年(永禄8年)のことだ。権謀家・義輝は、武人・久秀の心理をいまひとつ思いやることができず、策に溺れた格好だ。こうして幕府の権威の回復は成らなかった。

 足利義輝は、室町幕府の第十二代将軍・足利義晴の嫡男として京都・東山南禅寺で生まれた。第十五代将軍・義昭の同母兄。生没年は1536(天文5)~1565年(永禄8年)。義輝は1546年(天文15年)、わずか11歳のとき父義晴から将軍職を譲られた。

(参考資料)安部龍太郎「血の日本史」、井沢元彦「逆説の日本史」

浅野長矩 「忠臣蔵」が生まれる大本をつくった、藩主の器量に?の人物

浅野長矩 「忠臣蔵」が生まれる大本をつくった、藩主の器量に?の人物

 浅野長矩(あさのながのり)は播州赤穂藩主だ。周知の通り、江戸・元禄時代、江戸城内「松之廊下」で吉良上野介に斬りかかり、即日切腹。1年半後に赤穂の遺臣たちが吉良邸討ち入りを決行して仇討ちに成功する、いわゆる「忠臣蔵」が生まれる大本をつくった人物だ。悲劇のヒーローだ。だが、果たして浅野内匠頭長矩は、本当に悲劇のヒーローだったのか。

 そして、この浅野長矩を語るとき欠かせないのが、彼が切腹する前に詠んだ辞世だ。

 「風さそう花よりもなほ我はまた 春の名残(なごり)をいかにとやせむ」

 風に乗って最後の華やぎを舞うことができる桜よりも、同じ春に散る我が身の方が、なお一層、今生への想いが残っている。この想いをどうしたらいいのだろうか、という慨嘆だ。この藩主の問いかけがあったからこそ、無念の想いを晴らさなくてはならないと、四十七人の忠義の士を行動に駆り立てたのだ。

  浅野長矩はよき家臣を持ったことで、その存在が不朽となった。ただ、ご法度の江戸城内で吉良上野介に刃傷に及んだことだけを捉えれば、その行動自体が赤穂藩・浅野家の断絶か否かを賭けた、極めて重い行為なはずだ。冷静に考えれば、やはり世間知らずの、今日風にいえば“おぼっちゃん”大名の思慮に欠けた軽はずみな行為で、とても藩主の座に就く器量の人物ではなかったのではないかとの見方もできる。

 浅野長矩は、播州赤穂藩主・浅野長友の嫡子として生まれた。豊臣秀吉の正室・北政所(高台院)の妹婿、浅野長政を家祖とする安芸広島42万石の分家で、官名は祖父と同じ内匠頭(たくみのかみ)。父の長友は33歳で没したので、長矩は1675年(延宝3年)、わずか9歳で5万石の大名家を継いだ。

 赤穂藩・浅野家は塩田開発などで豊かな藩だった。瀬戸内海の乾燥した気候と遠浅の広い砂浜を利用して塩田開発が進んでいたから、米作中心の農業だけでなく、特産品としての塩で収入が上がる。商品経済への対応にも最も早い時期に成功した藩だったのだ。反面、そのことがこの藩に不幸を招く原因だったのかも知れない。赤穂藩は豊かだということで、1701年(元禄14年)に二度目の勅使饗応役が割り当てられた。勅使饗応役とは、毎年、京の朝廷から幕府へ年賀の挨拶に訪れる公卿を、大名家の出費で接待する役だ。現在の価格に換算すると3億円ぐらいの予算が必要となるだけでなく、極めて格式張った儀式のため、大名家からは敬遠されている。

 そのため、勅使饗応役選抜の時期には、事前に老中周辺に賄賂(?)を使って、そのリストから外してもらうように運動する藩もあったようだ。静観していて、勅使饗応役が割り当てられたら藩財政が破綻してしまう。そんな危機感をもってやむなくカネを使って、そうした事態を回避するために動いた藩もあっただろう。いったん下命を受けた以上は辞退できないのだから。そして、儀礼の細部まで、幕府の式部官である「高家(こうけ)」の指導を仰がねばならないのだが、それが敵役・吉良上野介の役割だ。下命を受ければ、自藩の判断で経費を少しでも抑えて対応するといったことは全くできないのだ。すべて吉良上野介の指示通り、まさに言いなりで、借金してでも必要だと言われれば、そのカネを工面、用意しなければならなくなる、つらい役割だ。

 浅野家と吉良家との間に、実際にどのような軋轢(あつれき)があったのか定かではない。しかし、吉良上野介の“ご機嫌取り”をあえてせず、次から次へと難題を吹っかける上野介に、人間的器量に欠けるがゆえに、“腹芸”のできない内匠頭が切れて、やむにやまれず、ご法度の刃傷に及んだ、ということになっている。その限りでは上野介は徹底して“悪役”となっている。だが、これではあまりにも公平さに欠ける気がする。むしろ、ここではどこが悲劇かという視点で考えてみれば、思慮に欠けた藩主の無念の思いを全面的に「是」として、四十七人もの忠臣が命を賭けて報復したことにある。四十七人の忠臣こそが悲劇のヒーローだったのだ。

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」、井沢元彦「忠臣蔵 元禄十五年の反逆」、村松友視「悪役のふるさと」、<対談>司馬遼太郎・ドナルド・キーン「日本人と日本文化」、大石慎三郎「徳川吉宗とその時代 江戸転換期の群像」

 

織田信雄 “天下人”織田家を秀吉に乗っ取られた、愚かな三代目

織田信雄 “天下人”織田家を秀吉に乗っ取られた、愚かな三代目

 織田信長の二男・織田信雄(おだのぶかつ)は、人間として「かなり出来が悪い」あるいは「少し足りないお坊ちゃん」だった。そのため、事実上、天下人となったはずの織田家は、1582年(天正10年)に起こった「本能寺の変」で当主・織田信長と、その長男・信忠の天下人・織田家初代・二代目が同時に亡くなった後、いくつかの不運が重なり、今日風に表現すると、子飼いの役員・豊臣秀吉にまんまと乗っ取られてしまったのだ。織田家にとって最大の悲劇は愚かな信雄が生き残ったことだった。

 長男・信忠が父とともに亡くなった後、織田家には相続者として二男・信雄、三男・信孝がいた。これに、織田家の血筋を引く有力者として信長の孫、信忠の長男・秀信(当時は三法師)がいた。信雄・信孝の二人は仲が悪かった。二人は母が違う。信雄の母は長男・信忠を産んだ生駒氏の娘で、信孝の母は坂氏の娘だ。実は生まれたのは信孝の方が20日ほど早かったらしい。理由は分からないが、それでも信雄が二男ということになった。ともに側室とはいえ、長男の母で身分が高かったため、信雄が二男になったことと関係しているかも知れない。このことで、信孝も終生これが不満だった。

  また、当時の宣教師の記録をみても、信孝については性格や能力を誉めてあり、人並みの器量があったと判断できる。ところが、信雄は周囲から阿呆と呼ばれ、かなり出来が悪かった。信孝にしてみれば、自分より遅く生まれた男が、ひどく頭が悪いにもかかわらず、兄として自分より上に立っている。どうしてこんなバカを兄貴として立てねばならないのかと、不満で堪らなかったに違いない。こんな兄弟が、仲が良くなるはずもない。生母同士のライバル意識もその背景にあったかも知れない。

 織田家重臣による「清洲会議」で、秀吉の主張する正統論が勝ちを収め、信忠直系の幼少の秀信が織田家の正式な後継者と定められた。信孝は次善の策として、秀信の後見人の地位を得た。しかし、秀吉は信孝派の重鎮・柴田勝家の本拠地が北陸であるのを幸い、勝家が動けない冬の間に、信雄と誼を(よしみ)を通じ、岐阜城を攻めた。兄弟の不和を巧みに利用したのだ。

 信孝を降参させ秀信を奪い取り、降伏の条件として母と子を人質に差し出させた、その後、秀吉は勝家を「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」で破り、居城の越前北ノ庄に攻め、完全に滅ぼした。こうして後ろ楯を奪った後、秀吉は信孝の母と妻子を講和違反で処刑、信孝自身も切腹させた。あとは意思のない子供(秀信)とバカ(信雄)が残っているだけだった。

 秀吉は、信雄に対し表面は主筋として尊敬するように見せながら、その実、巧みに挑発し、信雄の方から喧嘩を仕掛けてくるように仕向けた。ただ、誰が知恵をつけたか、信雄は徳川家康を頼った。これは家康にとっても、大義名分の点からみても得策だった。これを機に「小牧・長久手の戦い」が起こり、六分・四分で家康が勝ちを収めた。秀吉・家康の対立がさらに続けば、時代の様相はかなり変わっていたかも知れない。だが、この点、秀吉は役者が一枚上だった。これ以上、家康と争うことは、天下統一の障害になると判断、信雄との単独講和を図ったのだ。

 信雄の立場に立てば、まず講和はすべきではない。秀吉は織田の天下を奪おうとしているのだから、安易な妥協は絶対にすべきではない。また、どうしても講和せざるを得ない立場になったとしても、家康にはそれを知らせる必要がある。家康は信雄の要請を受けて戦いに乗り出したのだから、戦いをやめる場合、まず家康の労を謝し、講和について了承を得るのがスジだ。だが、信雄はこれをしなかった。勝手に秀吉と講和を結んでしまったのだ。家康は怒り、そして信雄のバカさ加減に苦笑したという。こうして信雄は世間から見放され、対照的に秀吉は天下人の座に就いた。

 信雄はこの後、国替えのことで不平をもらしたため、秀吉に流罪にされるという惨めな目に遭う。このとき、彼は頭を丸めて坊主となり、常真入道と号した。秀吉が死ぬと、彼は徳川方のスパイのような役目を務め、「大坂の陣」では城方の情報を流し続けた。豊臣家に対する憤懣と、失った領地を少しでも回復しようとする気持ちがあったのだろう。かつて100万石近くの領主だった己の姿を追ってのことか、分からない。ともかく大坂の陣後、信雄はスパイ活動の報酬として5万石を手にする。そして、家名を明治維新まで保った。

(参考資料)井沢元彦「神霊の国 日本 禁断の日本史」、童門冬二「家康合戦記」

聖武天皇 藤原氏の御輿に乗ったがコンプレックスに苛まれた孤独の帝王

聖武天皇 藤原氏の御輿に乗ったがコンプレックスに苛まれた孤独の帝王

 聖武天皇を「悲劇の貴人」として取り上げることに、少し違和感を抱かれる人もあるかも知れない。何しろ当時、権勢を誇った藤原氏に引きずられることが多く、結果として時の朝廷の首班・長屋王さえ葬る片棒を担いだくらいだ。その意味では“暗愚の帝王”と評してもいいのかも知れない。ただ、この天皇は哀れにも「藤三娘(とうさんろう)」を名乗る妻・光明皇后に頭が上がらず、裏切られても家出をすることでしか、妻の不倫を咎めることができなかったのだ。しかし、家出したのがただの人ではなく天皇だったので、それは目まぐるしい「遷都」ということで後世、語られることになった。人騒がせだが、その実、現実からの逃避でしか、癒やしや救いを求めることもできない、悲しい生涯を送った人物といえよう。聖武天皇の生没年は701(大宝元)~756年(天平勝宝元年)。

 聖武天皇は、文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘(養女)、宮子(藤原夫人、ぶにん)。名は首(おびと)皇子。714年(和銅7年)に立太子し、716年(霊亀2年)不比等と橘三千代との間に生まれた安宿媛(あすかひめ、光明子)を妻とした。驚くべき近親結婚ということだ。それだけに、藤原氏に丸抱えにされていた境遇というものがよく分かる。ただ、妻を娶ってもまだ即位は時期尚早と判断され、立太子から10年間皇位に就かず、その間、元明・元正の二女帝が在位した。そして724年(神亀元年)、首皇子は元正天皇から禅譲され大極殿で即位した。

 聖武天皇が即位してまもなく直面したのが藤原宮子大夫人称号事件だ。これは天皇が勅して藤原夫人を尊び、「大夫人(だいぶにん)」の称号を賦与することとした。ところが左大臣、長屋王らが公式令(くしきりょう)をタテに、それは本来、「皇太夫人(こうたいぶにん)」と称することになっているはずと問題視する奏言を行ったのだ。そこで、天皇は仕方なく文書に記すときは皇太夫人とし、口頭の場合は大御祖(おおみおや)とする旨を詔した事件だ。この事件が当時、天皇と藤原氏に対抗していた長屋王らの勢力との間での、遺恨を産むきっかけとなったことは確かで、後の「長屋王の変」(1729年)の伏線となった。

 聖武天皇の即位に際して左大臣に任命された長屋王は、天皇を支える藤原氏にとって侮り難い存在だった。加えて、天皇自身が統治に十分な自信をもっていなかったことも政情不安の大きな要因となり、藤原氏勢力の焦りを誘っていたとみられる。『続日本紀』によると、727年(神亀4年)、天皇が詔して百官を集め、長屋王が勅を述べるところによると、「この頃天の咎めのしるしか、災異がやまない。政が道理に背理し民心が愁いをもつようになると、天地の神々がこれを責め鬼神が異状を示す。朕に徳が欠けているためか」とあるのだ。天皇自身が認識していたのだ。

 「長屋王の変」の首謀者は藤原氏だったが、聖武天皇もこの計画の賛成者だったに違いない。天皇が賛成しなかったら、舎人親王以下の皇族が積極的に参加しなかったろう。では、聖武天皇はなぜ賛成したか。この点、梅原猛氏は「(母親の宮子が)海人の娘の子としての彼(聖武天皇)のコンプレックスにあったと思う」と『海人と天皇』に記している。天武天皇の長男であり、「壬申の乱」での戦功著しいものがあった高市皇子を父に、天智天皇の皇女、御名部皇女を母に持つ長屋王がそれに気付かなかったとしても、長屋王に対する血脈のコンプレックスが厳然としてあり、「聖武天皇にはどこかで心の奥深く長屋王に傷つけられた自尊心の記憶が数多くあったに違いない」と梅原氏。

 讒言で、長屋王を死に追い込んだ後も、災害や異変が発生し、また疫病も流行。737年(天平9年)、権勢を誇った藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)が相次いでこの流行病、天然痘で亡くなったことが、聖武天皇および光明皇后を困惑させた。そして、唐より帰朝した玄●(昉、ボウ、日へんに方、以下同)を通じて、天皇は次第に仏教への帰依を強めていった。そこで、一応、光明皇后の異父兄・橘諸兄を右大臣に就けたものの、諸兄は実務的政治能力に欠け、政治の実権は天皇や皇后の信任の厚い、留学帰りの玄●(ボウ)と下道真備(しもつみちのまきび、後の吉備真備)にあった。

 740年(天平12年)、大宰少弐・藤原広嗣が時の政治の得失を論じ、玄●(ボウ)と吉備真備の追放を言上して、反乱の兵を挙げた。天皇は大野東人(おおのあずまひと)を大将軍にして討伐軍を九州に送り込んだが、九州で激しい戦闘が繰り広げられている最中、聖武天皇は平城京を捨て、伊勢へ出かけてしまう。この後、天皇はそのまま平城京に戻らず、山背(やましろ、山城)国相楽郡恭仁(くに)郷(現在の京都府相楽郡)に遷都することを命じ、恭仁京をつくらせている。この後、さらに紫香楽宮、難波宮と短期間に何度も都を変えており、この異常な行動が何のためなのか分からない部分が多い。

 正史『続日本紀』にははっきり記されていないが、後世の史書には、このとき玄●(ボウ)と光明皇后との間にスキャンダルがあったことが記されている。とすれば、藤原広嗣は暗に「あなたの奥さんは不倫をしているが、それでいいのですか」と責めているわけだ。そして、それに対する聖武天皇の答えが、都からの逃亡なのだ。妻の不倫を告げられて家出するほど、なぜ弱腰なのか。

  道成寺に伝わる伝承によれば、聖武天皇の母、宮子は道成寺のある紀伊国日高郡の九海士(くあま)の里の海人の娘だった。だが、その稀代の美貌に目をつけた藤原不比等は、彼女を養女にし、文武帝の妃とした。そして、宮子は首皇子、後の聖武天皇を産んだ。しかし、故郷を思う宮子の憂愁は深く、それを慰めるために道成寺は建てられたという。つまり、聖武天皇は本来、藤原氏の血を受けていない人物と考えると、妻の光明皇后に頭が上がらず、長屋王に抱いた強いコンプレックスの謎が解けてくるのだ。

 聖武天皇は奈良・東大寺に巨大な毘廬遮那仏をつくり上げることで、ようやく不安を癒やすことができ、都は無事、元の平城京に戻ったのだ。

(参考資料)梅原猛「海人と天皇 日本とは何か」、梅原猛「百人一語」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、神一行編「飛鳥時代の謎」、永井路子「美貌の大帝」、杉本苑子「穢土荘厳」

松平定敬 慶喜に従ったが故に“敵前逃亡”のレッテル張られた桑名藩主

松平定敬 慶喜に従ったが故に“敵前逃亡”のレッテル張られた桑名藩主

 桑名藩主・松平定敬(まつだいらさだあき)は、1864年(元治元年)、京都所司代に任命された。このとき彼は、まだ19歳だった。その若さでこういう重要なポストに就けられたのは、何といっても実兄の会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)が京都守護職を務めていたことによる。しかし、確かに兄の縁と、出自が名門だったからこそ、用意された試練だったかも知れないが、このポストに就いたことによって、彼はその後、過酷な、あるいは悲劇的な体験を余儀なくされることになった。定敬は、兄・容保とともに最後まで徳川家のために戦おうとしたが、戦意喪失した前将軍・徳川慶喜につき従ったが故に、“敵前逃亡”という不名誉な敗軍の将として、後世に記憶されることになった。

 松平定敬は美濃国高須藩(現在の岐阜県海津市)藩主松平義建の八男。兄に尾張藩主徳川慶勝、一橋家当主一橋茂栄、会津藩主松平容保などがいる。江戸市谷の高須藩江戸屋敷で生まれた。幼名は銈之助。定敬の生没年は1847(弘化3)~1908年(明治41年)。

 慶応4年1月3日、鳥羽伏見の戦いが起こった。このとき、慶喜は風邪をひいて大坂城で寝ていた。後に彼が語ったところによると、「自分はあのとき風邪をひいて熱を出していた。部下を止めようと思ったが、いくら言っても聞かないので、うっちゃらかしておいた」という。これが徳川軍団のトップの言葉だった。無責任極まりないものだ。そして、1月5日、慶喜は決断した。彼は松平容保・定敬兄弟、板倉勝静(いたくらかつきよ、老中首座)、永井尚志(ながいなおむね、大目付)など数人の大名に供を命じ、夜、密かに城を抜け出し大阪湾に停泊していた幕府艦隊の一軍艦「開陽」に乗り込み、江戸に向かった。旧幕府首脳部の敵前逃亡だった

 定敬はこのとき何度も後ろを振り返った。戦線に残す部下が心配だったからだ。兄容保に「我々は残るべきではないでしょうか。部下を見捨てて江戸に戻るのは、気が引けます」といった。容保も「ひとまず江戸に行こう。江戸城で上様(慶喜)に、徹底抗戦の決断をお願いしよう。江戸城は無傷だし、榎本武揚率いる幕府艦隊も無傷だ。必ず勝てる」といった。定敬はその言葉を信じ、従ったのだ。

 定敬は、兄の容保とともに1月12日江戸城で、「江戸城で薩長軍を迎え撃ち、徹底的に殲滅いたしましょう」と慶喜に迫った。前勘定奉行・小栗上野介も同じだった。海軍総裁榎本武揚も同じ主戦論だった。小栗は戦略を立てた。「残った陸軍を至急、小田原に集結させる。無傷な榎本武揚の艦隊を、駿河湾に向ける。東下してくる薩長軍を、箱根の山と駿河湾から挟み撃ちにして、砲撃を加えれば殲滅できる」というものだ。榎本は賛成した。

 しかし、肝心の慶喜には、もうそんな気はなかった。主戦論者が次々とまくし立てると、慶喜は露骨に嫌な顔をした。そして、会議の場から去ろうとした。定敬や小栗はそれをとどめて、「上様、ご決断を」と迫った。会議では、勝海舟のような恭順論者もいた。「小栗殿や、あるいは松平様方(容保・定敬兄弟)のおっしゃることは、確かに一理はあります。が、肝心の天のときは、すでに新しい潮をこの江戸に押し寄せさせようとしております。これに逆らうことはできません。この際は、上様のご意向を尊重して恭順謝罪すべきです。ただし、それにはこちら側の言い分が通るような条件を出すべきでしょう」

 勝のこの発言を聞いて、主戦派は激昂した。もともと、主戦派は勝が嫌いだ。中には、「勝は薩摩に通じて、徳川幕府を滅ぼした」と裏切り者視している者もたくさんいた。定敬も怒った。「貴様如きが何をいうか!薩長に通じて、幕府を売り、上様を今日の窮境に押しやったのはその方ではないか!」と息巻いた。勝は黙って定敬を見返し、それ以上、何もいわなかった。

 後に福沢諭吉が書いたものによれば、このころの会議で議論をしているのはごく一部で、大半の武士は大広間の隅に転がって酒を飲むような不謹慎なものもいたという。全体に徳川武士団はやる気を失っていた。それほど堕落していたのだ。その中で、松平容保・定敬兄弟は「あくまでも徳川家に殉ずる」という純粋な考えを持っていた。徳川家に殉ずるのであって、徳川幕府に殉ずるのではない。このへんのけじめのつけ方が、幕府の役人たちにとっては、多少距離を置くものだったろう。

 2月12日、慶喜は「私は謝罪恭順の証を立てるために、江戸城を出て謹慎する」と宣言した。謹慎場所は、東叡山上野寛永寺と定めた。そして、主戦派に対し、「城を出るように」と命じた。たちまち抗議する容保や定敬、小栗、榎本たちには、慶喜は冷たい目を向けた。「松平容保は会津に戻って謹慎せよ。松平定敬は桑名に戻って謹慎せよ。小栗上野介は領地に戻って謹慎せよ。榎本は艦隊が動揺しないようにこれを鎮め、やがてくる政府軍の指示を待つように」とこと細かく指示した。君命だ。不満だったが、定敬もハッと平伏した。しかし、彼には桑名に戻る気はなかった。

 定敬は桑名藩の飛び地がある越後柏崎へ行くことに決めた。幕府から預かっている領地を合わせると10万石ぐらいになった。「至急資金を調え、藩兵を動員して徹底抗戦を貫きます」と兄・容保に告げた。「分かった。私も会津に戻って、至急軍備を固める。ともに徳川家のために戦おう」と改めて誓い合った。

 ただ、この時点の徳川家は決して慶喜のことではなかった。徳川三代将軍・家光の異母弟、保科正之を会津松平家の始祖とし、「会津保科家は、他の大名家とは違う。とりわけ将軍家に忠節を尽くす精神を養わなければならない」との訓戒を遺した正之の精神が、この兄弟にはまだ根強く息づいていた。

 柏崎での抗戦は決めたが、定敬は鳥羽伏見の戦いで藩士を置き去りにしたまま大坂城から脱出したことが、ずっと心のわだかまりになっていた。藩のトップとして部下を置き捨てにしたことを、自分なりに実に見苦しく卑怯だと自身を責めていた。この後の松平定敬の行動は流浪のひと言に尽きる。桑名軍は柏崎では家老・河井継之助が率いる長岡軍と協同して政府軍とよく戦ったが、敗れた。定敬は兄が籠もる会津城に向かった。そして、ここでも攻防戦に参加した。が、城が落ちる寸前に兄の口から発せられた「お前はここで死ぬことはない。城から逃れろ」の言葉に、「それでは、北の果てまで薩長と戦い抜きます」と宣言して会津戦から離脱した。

 仙台に着くと、たまたま榎本武揚の艦隊がいた。榎本は定敬を歓迎した。「これからエゾへ向かうところです」と榎本は言った。前老中の板倉勝静、肥前唐津藩主の世子・小笠原長行など多くの旧幕勢力が乗船していた。新しく定敬一行を加えて、榎本艦隊は仙台の港を離れ、一路、箱館に向かった。ここに上陸し、五稜郭に入った。明治2年4月、五稜郭に対する攻撃が始まった。定敬は一軍を率いて戦った。しかし、1カ月余り経つと劣勢になり、落城は時間の問題となった。このとき、松平定敬は何を思ったのか、城が落ちる寸前に、失礼するといって五稜郭を出た。そのまま横浜に向かった。ここで自首し、新政府から「長預け」の処分を受けた。彼の領地、桑名藩も11万石から6万石に半減された。明治5年まで、彼は禁固された。そして、罪を許された。

 明治10年の西南戦争には、旧桑名藩士によって編成された征伐軍が、意気軒昂と九州に向かっていった。松平定敬の、薩摩藩に対するせめてもの報復だった。定敬はその後、日光東照宮の宮司などを務めて明治41年に死んだ。

(参考資料)童門冬二「流浪する敗軍の将 桑名藩主松平定敬」、司馬遼太郎「最後の将軍」、司馬遼太郎「王城の護衛者」

山背大兄王 二度にわたり即位を阻まれ、入鹿に襲われて一族と自刃

山背大兄王 二度にわたり即位を阻まれ、入鹿に襲われて一族と自刃

 山背大兄王(やましろのおおえのみこ)は聖徳太子の長男で、「大兄」すなわち皇太子格の身分だったと思われるが。不運にも当時、権勢をほしいままにした蘇我蝦夷・入鹿父子により、推古天皇および舒明天皇没後の二度にわたって即位を阻まれ、最後は入鹿に襲われて、妻子とともに自殺。これにより、聖徳太子の一族、上宮王家(じょうぐうおうけ)の血脈は絶えた。聖徳太子は後世、人がいうように聖人であるという面もあるが、なかなかしたたかな政治家でもあった。ところが、山背大兄王は聖徳太子から思想家、あるいは道徳家としての側面を受け継いだが、したたかな政治家としての面は受け継がなかった。そのことが、後の彼とその一族の悲劇を生むことになった。

 推古天皇が聖徳太子の薨去後、皇太子を立てなかったことから、天皇の崩御に伴い、皇位継承をめぐる紛議が起こった。皇位継承者に擬せられたのは、押坂彦人大兄皇子の子、田村皇子と聖徳太子の子、山背大兄王だ。当時、朝廷を束ねる立場にあった大臣・蘇我蝦夷(えみし)は、いずれを後嗣とするかで大いに悩んだ。群臣会議の意見は二分し、評議は膠着した。蝦夷は推古天皇の遺詔が、田村皇子に対しては「天下を治めることは大任である」、山背大兄王には「群臣の言葉に従え」と極めて曖昧なのをいいことに、山背大兄王の擁立を主張していた境部摩理勢(さかいべのまりせ)を葬ることで田村皇子、すなわち後の舒明天皇を次の天皇に推戴した。

 ただ、山背大兄王は今回、舒明天皇が即位しても、その次の皇位は当然、自分のところへくると思っていたのだろう。ところが、舒明天皇の次に即位したのは舒明天皇の皇后・皇極天皇(宝皇女)だった。この女帝は後に重祚して斉明天皇となる歴史上稀な存在だ。この皇極天皇が病に罹り、皇位が不安定になったとき、悲劇は起こった。蝦夷の子・蘇我入鹿らが突如として、山背大兄王の斑鳩宮を時の政府の軍隊に包囲させたのだ。

 山背大兄王を攻めたのは蘇我入鹿、巨勢臣徳太(こせのおみとこだ)、大伴連馬飼(おおとものむらじうまかい)、中臣塩屋連牧夫(なかとみのしおやのむらじまきふ)、土師連娑婆(はじのむらじさば)らの有力豪族以外と軽皇子(後の孝徳天皇)らだった。軽皇子は当時の皇極女帝の同母弟だ。こうしてみると、聖徳太子・山背大兄王=上宮王家の存在が、入鹿だけでなく飛鳥朝廷の一群にとって、いかに邪魔な存在だったかがうかがわれる。もちろん、それは女帝の次の皇位問題にからんでのことだが、悲劇は山背大兄王をはじめ上宮王家の王族たちは、ほとんど認識していなかったことから起こった。上宮王家の人々は、嫌われていることは分かっていたが、その相手は蘇我本宗家だけであり、軽皇子までが加わって攻めてくるとは全く予想していなかった。

 山背大兄王はいったん、斑鳩宮に火を放ち生駒山に逃れる。そこで、三輪文屋君(みわのふみやのきみ)が王に「東国に行って軍隊を整え、再び戦えば、勝利は確実であろう」と進言した。だが、王は「あなたの言う通りにすれば、必ず勝とう。しかし私はそれによって民を滅ぼすことを好まない」と答え、戦いを避ける道を選んだ。すなわち、戦いに勝つのも丈夫の道だろうが、身を捨てて国を安泰にするのも、それ以上に丈夫の道ではないか-といったという。山背大兄王はこの言葉通り、戦いを避け再び斑鳩に戻って自刃した。妻子一族すべて彼と運命をともにした。

 山背大兄王はどうして、このような悲劇的な道を選択したのだろうか。それは、彼が父・聖徳太子から受け継いで、父以上に純粋に信奉した「仏教」という思想の、ある意味での“毒”によって死の道を選んだと言わざるを得ない。「捨身」こそが、山背大兄王の理想だった。それは仏教の菩薩行の理想だ。その理想に従って、山背大兄王は戦争を起こして、多くの人々を死なせることを拒否し、一族とともに、飢えた虎のような蘇我入鹿をはじめとする時の政府の軍隊に、その尊い身を投じたのだ。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、黒岩重吾「斑鳩王の慟哭」、黒岩重吾「日と影の王子 聖徳太子」、笠原英彦「歴代天皇総覧」