care のすべての投稿

満開の桜咲く中、豪華絢爛屋台巡行 岐阜・高山で山王祭

満開の桜咲く中、豪華絢爛屋台巡行 岐阜・高山で山王祭

絢爛(けんらん)豪華な12台の祭り屋台で知られる岐阜県・高山祭。その春の高山祭「山王祭」(国重要無形民俗文化財)が4月14、15の両日、岐阜県高山市で開催された。
折良く満開の桜が咲き誇る中、屋台は14日午前9時過ぎ、各屋台蔵から引き出され、市中を巡行。絶景ポイントの朱塗りの中橋をゆっくりと屋台が通ると、その豪奢なさまを待ち構えた大勢の観光客らが一斉にカメラに収めていた。
この後、国史跡・高山陣屋前で三番叟(さんばそう)、龍神台(りゅうじんだい)、石橋台(しゃっきょうだい)の3台が人形からくりを披露。夕方にはこれらの祭り屋台が提灯で飾られて市中を巡り、昼間とは一変、街は幻想的な雰囲気に包まれていた。
高山祭は春の「山王祭」と秋の「八幡祭」の総称。春の訪れを告げる山王祭は旧高山城下町南半分の氏神、日枝神社(山王様)の例祭。

尾形光琳の代表作 国宝「燕子花図屏風」公開 根津美術館

尾形光琳の代表作 国宝「燕子花図屏風」公開 根津美術館

江戸時代の画家、尾形光琳(1658~1716年)の代表作、国宝「燕子花(かきつばた)図屏風」が4月13日から東京・南青山の根津美術館で公開されている。5月15日まで。
この作品は平安時代に成立した伊勢物語の第九段東下り、燕子花の名所八つ橋の一節をテーマにしたと考えられている。双金地の六曲一双屏風で、琳派最大の巨匠の一人、尾形光琳が40代前半ごろに手掛けたとされる傑作。

諏訪大社・御柱祭下社山出しの観客9万1000人減少

諏訪大社・御柱祭下社山出しの観客9万1000人減少

下諏訪町を舞台とする勇壮な諏訪大社御柱祭の下社山出しは4月10日、目通り(目の高さ)周囲3.35㍍と最も太い「秋宮一之」など御柱3本の「木落し」を行い、3日間の日程を終えた。計8本の御柱は終着点の「注連掛(しめかけ)」で、5月14日に始まる「里曳(び)き」まで安置される。
諏訪地方観光連盟御柱祭観光情報センターによると、氏子と観客を合わせた3日間の人出は延べ46万8000人。平成22年の前回に比べ氏子は2万3000人増えたが、観客は9万1000人減少、合計で6万8000人前回を下回った。同センターでは、安全面を考慮した周辺での通行規制や、木落し坂の無料観覧席の廃止などが影響したと分析している。

日本初の兵糧パン再現 江川英龍家の秘蔵資料公開

日本初の兵糧パン再現 江川英龍家の秘蔵資料公開

伊豆の国市韮山の江川英龍邸を管理する公益財団法人江川文庫は4月9日、「江川邸パンフェスタ」を開いた。日本で初めて兵糧パンを焼いたことから「パン祖」と呼ばれる江川英龍(坦庵)にちなんだ催しで、2015年に続き2回目。
江川家に残るレシピに基づき英龍が焼いたパンを再現したほか、秘蔵資料の特別公開や特産市などを行った。パンの再現には、三島市芝本町の石渡食品が協力した。
当時のレシピは小麦粉と塩、水、酒種を使用。今回は食べやすくするため、多少のイースト菌を加えた。土間の大かまどに火を入れ、レシピに習って鉄鍋を焼いた。本来は携帯食として1年ほど保存できるように、水分を飛ばしてカリカリに仕上げたという。
パンはキリスト教徒ともに日本に伝わったが、徳川幕府が禁止した。それを進取の精神に富み合理的な考え方の持ち主でもあった英龍は、工夫して伝来したもののレシピを変えてパンを焼きあげ、砲術を学ぶために全国各地から江川塾に集まった塾生を通じて全国に広めたのだ。

顕如の書状2通修復 一向一揆の一級資料 石川・林西寺

顕如の書状2通修復 一向一揆の一級資料 石川・林西寺

石川県白山市白峰の林西寺は、16世紀後半、浄土真宗本願寺の11代法主・顕如(けんにょ)が鳥越城主の鈴木出羽守(でわのかみ)に宛てた書状2通(同寺所有)を修復した。
この書状は、一向一揆に対する織田信長軍の弾圧に、勇猛に戦った白山山麓の一揆衆への感謝などを記したもので、県史を語るうえで重要な史料とされる。しかし、傷みが進んでいたため、ここ10年以上公開されていなかった。4月16日から寄託先の石川県立歴史博物館で展示される。
2通の書状「顕如上人書翰(しょかん)二双」は、鈴木出羽守の子にあたる林西寺6代目住職釈幸信(しゃくこうしん)が、同寺へ養子に入る際に持参したと伝わっている。
1578(天生6)年4月12日付の書状は、鈴木出羽守が率いる山麓の山内衆(やまのうちしゅう)の活躍を称え激励する内容で、1580(同8)年4月1日付の書状は、織田信長との講和を伝えている。
石川県文化財修復保存協会は、横折れ対策として太い芯を採用し、風合いを損ねないため、、本紙部分に薄美濃紙、台紙部分に美濃紙を使って展示に耐えられるよう修復した。

天下三名槍「御手杵の槍」旧前橋藩主の末裔が復元

天下三名槍「御手杵の槍」旧前橋藩主の末裔が復元

旧前橋藩主の松平大和守家(やまとのかみけ)が代々継承し、東京大空襲で焼失した「御手杵(おてぎね)の槍(やり)」を、17代目の現当主、松平直泰さん(71)が復元した。先祖の徳川家康が逝去して400年の命日にあたる4月17日に前橋東照宮に奉納される。
御手杵の槍は、福岡藩主の黒田家伝来の「日本号」(福岡市博物館所蔵)、戦国武将の本多忠勝が愛用した「蜻蛉切(とんぼきり)」とともに、日本三名槍(そう)として称えられた名高いやりのレプリカは、東照宮で常設展示される。
戦国時代につくられた槍で、手杵の形をした鞘(さや)が名前の由来。刃渡り約140㌢で、柄を含めた全長は約380㌢。同家は参勤交代の際に、馬印として先頭に配置した。近年の刀剣ブームを受けて、松平さんは17日に行われる家康の400回忌、「薨去(こうきょ)400年祭」に合わせて家宝を私費で復元したもの。

松坂城跡などで「宣長まつり」書斎を限定公開

松坂城跡などで「宣長まつり」書斎を限定公開

三重県松阪市の松坂城跡などで4月2、3の両日、同市出身の国学者・本居宣長を称える「宣長まつり」が開かれた。折から城跡の桜もほぼ満開となり、多くの人でにぎわった。
今年のまつりは、城跡内の本居宣長記念館が7月から休館し、1970年の開館以来初となる大改装を行うことから「のりなが紙芝居」や、城跡を巡る「のりながお城ウォーク」などのイベントを開催した。
国の特別史跡の宣長旧宅「鈴屋」では2階の4畳半の書斎を3日に1日限定で開放したほか、1階では江戸時代から昭和期にかけてつくられた宣長の像、約20点が初めて一堂に展示された。

神武天皇没後2600年式年祭 両陛下が参拝 奈良県橿原市

神武天皇没後2600年式年祭 両陛下が参拝 奈良県橿原市

天皇、皇后両陛下は4月3日、奈良県橿原市の神武天皇陵に参拝された。同日は日本書紀の神話で神武天皇が没したとされる日から2600年(新暦換算)にあたり、「神武天皇二千六百年式年祭の儀」の山陵の儀が行われた。天皇陛下は「御告文(おつげぶみ)」を読み上げられた。随従皇族として秋篠宮ご夫妻も参拝された。
神武天皇の式年祭は皇居でも行われ、皇太子ご夫妻らが歴代天皇や皇族を祀る皇霊殿に拝礼された。100年ごとに行われる式年祭は1916(大正5)年以来。

名古屋城天守閣の木造復元案 最大504億円

名古屋城天守閣の木造復元案 最大504億円

名古屋城天守閣の木造復元を目指す名古屋市の河村たかし市長は3月29日、復元の技術提案コンペに応じた2社(竹中工務店、安藤・間)から竹中工務店案を選んだと発表した。
竹中案は4人乗りのエレベーターを取り外すと天守閣が元の姿になるように設計され、総事業費473億~504億円、安藤・間案はそれより25億~40億円抑え、エレベーターは11人乗りだった。
名古屋市は東京五輪が開催される2020年の7月末までの完成を条件に技術展案を公募した。専門家らが工期達成や事業費縮減の工夫、バリアフリー、木材の調達などで採点した。その結果、史実への忠実さや実現可能性などから竹中案になったという。
4月下旬に2000人規模の報告会を5回開いて竹中案を説明。5月半ばまでに結果が出る2万人規模のアンケートで木造復元か、29億円かけて鉄筋鉄骨コンクリート造りのまま耐震改修かを問う。

江戸期の行事「葵使」再現 京都・上賀茂神社

江戸期の行事「葵使」再現 京都・上賀茂神社

江戸時代に京都・上賀茂神社のフタバアオイを将軍・徳川家に献上した「葵使」を再現する行事が3月27日、京都市北区の同神社一帯で行われた。
今回は上賀茂小5、6年生や地域住民ら60人が参加。上賀茂神社で道中の安全を祈る神事を営んだ後、法被姿の児童と江戸時代の装束を身に着けた大人が境内で育てたフタバアオイの鉢を持って出発、京都コンサートホールまで約1.5㌔を歩いた。
葵使は、葵を家紋とする徳川家が武運長久などの願いを上賀茂神社のアオイに託して始まったとされる。江戸初期から大政奉還まで続いたと伝わり、地元住民が2007年に140年ぶりに復活させ、今回で10回目を迎えた。

奈良~昭和の「ごちそう」一堂に 福井・小浜食文化館

奈良~昭和の「ごちそう」一堂に 福井・小浜食文化館

奈良時代から昭和までの「ごちそう」にスポットをあてた企画展が、小浜食文化館(福井県小浜市)でリニューアル1周年記念として開かれている。天皇や貴族の食事や人をもてなした膳、現代人が味わっている料理などレプリカ約100点が並び、食を通して時代の変遷を映し出している。
中でも目を引くのが安土桃山時代。天下統一を目前にし、この後、本能寺で散った織田信長が1582年、徳川家康に振る舞った料理をレシピに基づいて再現している。キジ、鶴などの鳥肉や塩漬けした魚などがふんだんに使われた豪華なごちそうだ。
このほか、江戸時代・幕末、黒船を率いて浦賀沖に来航し開国を迫った米ペリー提督に提供した料理のレプリカ、奈良時代の天皇や貴族が食したごちそうや、カレーライス、すしの折り詰め、すき焼きなど現代の定番も展示されている。

石田三成の居城の痕跡一掃へ徹底破壊 発掘で裏付け

石田三成の居城の痕跡一掃へ徹底破壊 発掘で裏付け

滋賀県教育委員会は3月24日、豊臣秀吉の側近の一人だった戦国武将、石田三成が居城としていた同市の佐和山城跡で、城を破壊する「城割り」の痕跡が確認されたと発表した。関ヶ原の戦い(1600年)で西軍の大将格だった三成が敗れた後、徳川方が”見せしめ”として、徹底的に壊したとみられる。
佐和山城は、佐和山(233㍍)に築かれた山城。三成は1590年に城主となり、5層の天守を構えたとされる。関ヶ原の戦いの後、家康の家臣、井伊直政が入城したが、近くに彦根城を築いたことに伴い1606年、廃城となった。
今回の調査で、本丸があったと伝わる山頂付近の斜面を発掘したところ、石垣表面に使う大きな「築石(つきいし)」は見つからず、裏に詰める小石だけが大量に出土。さらに本丸があったとみられる平坦な造成地などは徹底的に削られ、痕跡も残っていなかった。
同市教委によると、江戸時代の史料には佐和山城の石垣を彦根城に再利用したこと、佐和山城の本丸を破壊したことなどが記されており、今回の調査はそのことを裏付けたとしている。

埋葬されたのは舒明天皇か蘇我蝦夷?奈良・小山田遺跡

埋葬されたのは舒明天皇か蘇我蝦夷?奈良・小山田遺跡

奈良県立橿原考古学研究所は3月23日、飛鳥時代に築かれた未知の古墳の一部の可能性がある巨大な石張りの掘割(濠=ほり)が出土した奈良県明日香村の小山田(こやまだ)遺跡で、厚さ3㍍以上の粘土層が見つかったと発表した。古墳の基盤部分にあたり、大規模な造成工事による巨大古墳だったことを裏付けるものという。
掘割の西約11㍍を発掘し、今回確認されたのは地下3㍍で南北3.5㍍、東西3㍍にわたる黄褐色の粘土層。
北側斜面と底面に石英閃緑岩(せんりょくがん)を張り、南側斜面に榛原(はいばら)石と呼ばれる特殊な板石などを階段状に積み上げた掘割(長さ48㍍)の規模から類推すると、埋葬されたのは皇族か有力豪族のようだ。
舒明(じょめい)天皇が最初にほ葬られた墓とする説や、大豪族、蘇我蝦夷(そがのえみし)の墓などの見方が出ている。

季節外れの南岸低気圧がお膳立てした「桜田門外の変」

季節外れの南岸低気圧がお膳立てした「桜田門外の変

日本の南岸を低気圧が通過し、日本列島は前日までの陽気から一転、3月24日から冬型の気圧配置となり、東日本、西日本以西、中国、九州地方まで、寒気が南下してしばらく寒さが続く見通しだ。
同じようなことが今から156年前に起こっている。1860年3月24日、旧暦では安政7年3月3日はもっと寒く、南岸低気圧の通過によって江戸は季節外れの大雪に見舞われた。
この大雪の朝、徳川幕府の大老、井伊直弼(46)が江戸城に登城途中、水戸・薩摩藩士合わせて17名が桜田門外で襲撃、「桜田門外の変」が起きた。大老を警備していた彦根藩士たちはいずれも、季節外れの大雪のため柄袋で刀を覆っており、このため急襲を受けた彦根藩士たちは抜刀が遅れ、藩主の暗殺を許した原因の一つとされている。
東京でこんなに遅く大雪となるのは珍しいことだった。まさに大雪がお膳立てした歴史的事件だった。

謎の仏像の胎内から重源・快慶の名記した印仏発見

謎の仏像の胎内から重源・快慶の名記した印仏発見

滋賀県教育委員会などによると、MIHO MUSEUM(滋賀県甲賀市)所蔵の木造地蔵菩薩立像(重要文化財)の正体が明らかになってきた。
この仏像の胎内から見つかった、地蔵菩薩の姿をはんこで押し並べた「印仏(いんぶつ)」や札の中に鎌倉時代、東大寺を再興した名僧、重源(ちょうげん)と、当代随一の仏師・快慶の名、奈良の新薬師寺との関係をうかがわせる記述が含まれていたのだ。
同県教委文化財保護課によると、重源と快慶は東大寺南大門の金剛力士像はじめ、各地で寺院と仏像をつくった名コンビ。この2人が寄付集めなどを目的に同時に連名するする例は珍しいという。それだけに、この地蔵菩薩はかなり由緒あるものだったはず-と分析している。
また、印仏の紙の間に供養札も挟まれており、「新薬師寺」の文字があった。地蔵菩薩との関連は不明だが、この像はもともと奈良にあった可能性が高い-と推論している。
この像は13世紀後半の作とされ、高さ52.5㌢。像の表面の虫食いや塗りがはげ落ちるなど傷みが目立ち、台座が不安定だったため、2014年から国の補助を受け、保存修理に取り掛かっていた。その作業の中で当初、空洞と思われていた像の胎内から今回、印仏や札が見つかったもの。

重文の如意輪観世音菩薩 7年ぶりに開扉 大津・石山寺

重文の如意輪観世音菩薩 7年ぶり開扉 大津・石山寺

滋賀県大津市の石山寺が3月18日、本尊の如意輪観世音菩薩(重文、平安時代)を7年ぶりに公開した。三笠宮彬子さまも臨席し、開扉法要も営まれた。
午前11時、鷲尾遍隆座主ら僧侶の読経の後、勅使の宮内庁職員が扉を封印していた鍵を解いた。約5㍍の本尊が姿を現すと、参拝者は本尊の指に結んだひもに触れて結縁(けちえん)した。
観世音菩薩は33の姿で人々を救うことにちなみ、本来は33年に1度開帳するが、西国三十三カ所を中興した花山法皇の千年忌を記念して2009年に開扉した経緯がある。

富山城下町遺跡・町人居住地域で江戸後期のトイレ発見

富山城下町遺跡・町人居住地域で江戸後期のトイレ発見

富山市埋蔵文化財センターによると、富山市西町の富山城下町遺跡から、便所とみられる江戸時代後期(18世紀後半~19世紀半ば)の遺構が見つかった。同県内の遺跡でトイレ跡が見つかったのは初めて。土壌から野菜や魚を食べたときに感染する寄生虫の卵が検出された。
遺構は直径80~100㌢、深さ40㌢の穴。中からトイレットペーパーの代わりに使った「籌木(ちゅうぎ)」とみられる細長い木片が出土した。また、土壌分析の結果、回虫や鞭虫(べんちゅう)、肝吸虫(かんきゅうちゅう)といった寄生虫の卵が多数見つかった。このほか、全国の便所遺構で出てくることが多いイネやソバなどの花粉、ウリの種もあった。
現場は江戸時代、富山城下町の町人が住んだエリアで、北陸街道や飛騨街道から近い一等地。これまで荷札にあたる「木札(きふだ)」などが発掘され、有力な商人の屋敷があったと考えられている。

明治~昭和初期の「里程標」が南砺市福光地域で復活

明治~昭和初期の「里程標」が南砺市福光地域で復活

富山県の「歴史と文化が薫るまちづくり事業」を推進する南砺市福光地域の実行委員会が、同市福光の東町交差点付近に、明治から昭和初期にかけて立っていた「里程標(りていひょう)」を復元し、3月14日に現地でお披露目した。
同実行委は歴史的な意義があると判断、事業の一環として復元した。小矢部川産の真石(まいし)を基礎に、高さ3.6㍍の標柱を立てた。富山第一銀行の協力で、説明看板も近くに設置した。
里程標は、全国の陸地の道程調査を進めていた明治政府の方針で、市町村の中心地に建てられた。福光地域に中心部の東町では1870年代に登場し、1902(明治35)年の建て替えなどを経て、1965年ごろに撤去された。

福岡で「400年有田の魅力展」代表窯の器2000点を展示

福岡で「400年有田の魅力展」代表窯の器2000点を展示

今年、創業400年を迎えた有田焼の現在と歴史を紹介する「400年有田の魅力展」が、福岡市・天神の福岡三越で3月9~14日の6日間にわたって開かれた。白磁の人間国宝・井上萬二さんの作品や、柿右衛門窯など有田を代表する窯の器約2000点が展示、販売された。有田町の実行委員会による記念事業の一環。
名窯の置物や日用食器が並んだほか、伝統工芸士らによるろくろや絵付けの実演で、工房の様子を再現。また、江戸時代の有田焼「古伊万里」など、各時代のヒット商品100点で歴史をたどる展示もあり、有田焼400年の歴史の重みと、時代を超えた魅力を感じさせた。

和歌山・九度山町に「真田ミュージアム」オープン

和歌山・九度山町に「真田ミュージアム」オープン

戦国武将、真田昌幸・幸村(信繁)親子らの生涯を紹介する「九度山・真田ミュージアム」が3月13日、ゆかりの地、和歌山県・九度山町にオープンした。
「真田」を題材に街づくりを進める町が、町の中心部に敷地面積1048平方㍍、延べ床面積592平方㍍の施設を建設した。総事業費は約3億8000万円。真田昌幸・幸村、そして幸村の子、大助を含め三代の生涯の常設展示など6つのエリアが設けられている。「上田時代」のコーナーでは、上田城(長野県上田市)を拠点とした昌幸・幸村親子の活躍を年表やパネル、関連する書状の複製などで紹介している。
竣工式では紀州九度山真田太鼓保存会の太鼓演奏が行われ、九度山町の岡本章町長が「真田の魅力を全国に発信し、九度山町の教育や文化、観光などの魅力をさらにアピールしたい」とあいさつした。
大河ドラマ「真田丸」で大谷吉継を演じる片岡愛之助さんが登場し、関係者とともにテープカットしてミュージアムのオープンを祝った。

出雲大社「庁舎」建て替え 平成の大遷宮 30年完成

出雲大社「庁舎」建て替え 平成の大遷宮 30年完成

出雲大社(島根県出雲市)は、境内で異彩を放っているモダンなスタイルの「庁舎(ちょうのや)」を、和風建築の施設に建て替える方針を固めた。
新しい庁舎には伝統の神事で使う「榊の間(さかきのま)」を復活させる考えで、国宝・本殿などを改修した「平成の大遷宮」が一段落する3月以降、2期工事として着手、平成30年ごろの完成を見込んでいる。
庁舎は、社務所や迎賓館としての役割を果たしてきた施設。

門外不出の『葉隠』が佐賀尊皇派から久留米藩に伝播か

門外不出の書『葉隠』が佐賀尊皇派から久留米藩に伝播か

佐賀藩の門外不出の秘本と思われていた『葉隠』が幕末、久留米藩に伝わっていたことが分かった。葉隠研究会理事の大園隆二郎さん(63)の研究で明らかになったもの。
大園さんは久留米藩士、真木和泉守(いずみのかみ)の読んだ本を記録した目録に『葉隠』の記載があったことから関連文献を調査。その結果、正確な伝播ルートは不明だが、佐賀藩の枝吉神陽ら尊皇派を通じた伝播の可能性が浮かび上がった。
『葉隠』は武士の生き方を説いた佐賀藩士、山本常朝の口述を同藩士・田代陣基(つらもと)がまとめた書。本来の武士道とかけ離れていたことから藩内では当初、禁書扱いになった。ただ、藩士の読書会でテキストとして用いられるなど徐々に重要視される書になっていた。

福井で発見の恐竜化石は新種 現代の鳥類並みの聴力

福井で発見の恐竜化石は新種 現代の鳥類並みの聴力

福井県立恐竜博物館は2月26日、同県勝山市で2007年に見つかった小型獣脚類の恐竜が新種と判明し、「フクイベナートル・パラドクサス(逆説の福井の狩人)」と学名を付けたと発表した。国内で見つかって学名がついた恐竜は7種目、福井県では5種目。獣脚類では2種目。
化石は2007年8月、勝山市の白亜紀前期(約1億2000万年前)の地層から約160点見つかった。同一個体の全身骨格の7割がそろい、全長2.45㍍、体重25㌔と推定される。
内耳の器官の発達具合や骨の形状などの特徴から新種と判断された。内耳の聴力をつかさどる器官が発達し、現代の鳥類に匹敵する聴力があったとみられる。

濃姫御殿か 岐阜城の織田信長居館跡で金箔瓦の破片発見

濃姫御殿か 岐阜城の織田信長居館跡で金箔瓦の破片発見

岐阜市教育委員会は2月19日、織田信長が一時拠点とした岐阜城(岐阜市)の居館跡で、多数の金箔瓦の破片が見つかったと発表した。今回見つかったのは庭園遺構や金箔瓦片約30点。
1567年に美濃(岐阜)を攻略した信長が入場直後に工事を始め、途中で設計を変更し、庭園に隣接するよう御殿の敷地を拡張したとみられる。
文献などを参考に調べた結果、屋根を金箔瓦でふいた信長の正室・濃姫の御殿の可能性があるという。

シーボルトのオランダ語直筆書簡見つかる 植物研究で

シーボルトのオランダ語直筆書簡見つかる 植物研究で

博物学者で江戸時代日本に西洋医学を伝えたドイツ人医師シーボルトが、医療の傍ら、日本の植物研究にも取り組んでいた。その研究のさなかに交わされた直筆のオランダ語の書簡が見つかり、研究者らは日本の植物学の原点を記した貴重な資料だとしている。
今回見つかった書簡は、シーボルトが1828年11月に遭遇した「シーボルト事件」で国外追放になる直前、当時50人以上いた弟子の一人、賀来佐一郎(かく・さいちろう)、佐之(すけゆき)宛てに「日本植物目録」の推敲を依頼する旨、したためられたもの。神田外国語大学の「洋学文庫」の中から見つかった。
長崎・鳴滝塾の門下生だった賀来に関しては歴史上謎が多く、今回の発見で植物学におけるシーボルトの一番弟子とされている伊藤圭介(いとう・けいすけ)と並ぶ重要人物であることが判明した。シーボルトは約1600種の植物標本に学名と和名を付けて分類し、目録を作成する作業を、既述の2人の協力を得て、1827年10月末から長崎県の出島で精力的に行い、半年後「日本植物目録」の草稿を完成させている。
シーボルトの書簡は日本に6本現存しているが、国外追放前に日本植物研究について書かれたものとしては、日本で初めて発見されたものとなる。なお、今年はシーボルト没後150年の節目の年で、2016年2月17日は生誕220年。

飛鳥寺西方遺跡で遷都後の平安時代の皿出土

飛鳥寺西方遺跡で遷都後の平安時代の皿出土

奈良県明日香村教育委員会は2月9日、中大兄皇子、中臣鎌足らによる大化改新をはじめ飛鳥時代の需要なできごとに関する舞台となった「槻(つき)の木の広場」とされる飛鳥寺西方遺跡で、10世紀の土器の皿が数枚重ねられた状態で、複数箇所で見つかったと発表した。平安時代の祭祀(さいし)跡とみられ、平安京への遷都後も広場が特別な空間だったとみられるという。
飛鳥寺西門跡の南西約60㍍で土師器(はじき)の皿(直径10㌢)を5~8枚重ねたものが、110㌢間隔で計3カ所から出土。2㍍北側で皿(直径14㌢)が重なっていた。近くでは炭や焼けた土が交じった長方形の穴も確認された。

「大坂夏の陣」の焼け跡出土 発掘調査現場を公開

「大坂夏の陣」の焼け跡出土 発掘調査現場を公開

大阪市教育委員会などは2月6~7日、大阪城天守閣に隣接した特別史跡大坂城跡の発掘現場で出土した、大坂夏の陣(1615年)で焼け落ちた豊臣期大坂城の焼け跡を整地した整地層を一般公開した。整地層には屋根瓦の破片や黒く炭化した木材片などのがれきが混在し、真田幸村(信繁)らの勇将ぶりに象徴される、大坂夏の陣の戦いの激しさを物語っていた。
発掘調査現場は天守閣の東南にある金蔵の東側エリア。豊臣期大坂城の石垣を再発掘して公開する「豊臣石垣公開プロジェクト」に先立ち、周辺に残る遺構の状況を把握するため、大阪市教育委員会などが継続的に調査を実施しているもの。

由利公正考案の省エネかまど「三岡へっつい」再現 福井

由利公正考案の省エネかまど「三岡へっつい」再現 福井

幕末の越前福井藩士、三岡八郎(後の由利公正)が考案したとされる幻のかまど「三岡へっつい」の再現作業か完了し2月7日、福井県生活学習館(福井市)前で披露された。県と県左官工業組合が文献の少ない、歴史小説などに残るわずかな情報を頼りに、想像して製作した。
三岡へっついは、反射熱を生かすために鉄釜が釣り鐘を逆さにしたような形をしている。かまどは粘り気が強く、耐火性に優れた同県越前町織田の土や石灰などでつくり、たき口、通気孔など計4カ所の横穴が施された。通常の半分のまきの量でご飯が炊ける省エネが売りという。鉄釜とその中に入れる3升5合炊きの羽釜2つは広島県の鋳物メーカーに依頼してつくった。
県は由利公正を主人公にした大河ドラマの誘致に取り組んでおり、今回製作した三岡へっついが、ドラマの誘致につながればと期待を寄せる。県は展示のほか、イベント会場で炊飯を実演して由利公正のPRに活用する予定。この日は、三岡へっついで炊かれたご飯が来館者に振る舞われた。

宮城・多賀城跡で鎮守府示す奈良時代後半の木簡出土

宮城・多賀城跡で鎮守府示す奈良時代後半の木簡出土

宮城県多賀城市の国特別史跡・多賀城跡の発掘調査をしている宮城県多賀城跡調査研究所は2月4日、政庁南の城前地区で鎮守府を示す「府」と書かれた奈良時代後半の文書箱(もんじょばこ)のふたなどの木簡が出土したと発表した。
中央政府が奈良時代に国府とともに東北以北の蝦夷(えみし)を統治するために置いた鎮守府の存在が、同時代の史料で裏付けられた。書箱が見つかった場所は、政庁から約120㍍南、当時の正門「南門」に通じる南大路の東側にある城前地区の実務官衙(かんが=役所)のごみ捨て場跡から出土した。
文字が書かれたふたは長さ32.1㌢、幅5.7㌢、厚さ1.7㌢。「府符口(諸?)郡司口」と書かれ、「府、諸郡司に符す」と読めるという。「符」は上から下へ指令を伝える文書で使われる語句であることから、鎮守府が各地の郡の役人(郡司)に命令を出した文書を収めた箱とみられる。
奈良時代の多賀城に鎮守府が置かれたことは「続日本紀」などの記録にあるが、同時代の史料で存在が確認されたのは初めて。

五代友厚の商才示す新史料、長崎で幕末の証文

五代友厚の商才示す新史料、長崎で幕末の証文

大阪商工会議所初代会頭、五代友厚(1836~1885年)が幕末、長崎の豪商に7500両を貸したことを示す証文が見つかった。五代は当時20代半ば、若いころから大金を動かす才覚があったことが分かる貴重な史料だという。
証文は長崎の豪商として知られた小曾根家の12代当主六左衛門ら宛てで、17代当主吉郎(きちろう)さん(68)の長崎の自宅にあった。縦19.5㌢、横89.5㌢、中袋に入れられ、宛先を書いた包み紙にくるまわれていた。
冒頭に「金子御取替申候一札之事」(金をご融資することの一札)とあり、7500両を利息7%で貸すという内容。末尾には文久元(1861)年12月の日付とともに、「薩州」「五代才助」(友厚を名乗る前の名前)という署名があった。
NHK連続テレビ小説「あさが来た」で一躍脚光を浴びた、俳優ディーン・フジオカ演じる実業家、五代友厚の青年時代の姿の一端を示すものだ。

大阪・住吉祭に修理終え75年ぶり大神輿復活、巡行へ

大阪・住吉祭に修理終え75年ぶり大神輿復活、巡行へ

大阪三大祭の一つ、住吉祭で男たちに担がれ大和川を渡る大神輿(みこし)が1月28日、胴体部の修理を終えて、住吉大社(大阪市住吉区)に帰ってきた。
この大神輿、130年以上前につくられたもので、老朽化が進み、2年半前から富山県の工房で宮大工らの手で修理されていた。今後、必要な装飾を施され、8月1日には70年以上途絶えていたこの大神輿での巡行が復活する。
大神輿は高さ約3㍍、全長約5㍍。重さは約2.6㌧といわれる。また、2月からの装飾作業で、神輿のてっぺんに金色の鳳凰が飾られる。

開館12日目で来場者1万人突破 真田丸大河ドラマ館

開館12日目で来場者1万人突破 真田丸大河ドラマ館

戦国武将、真田信繁(幸村)が主人公のNHK大河ドラマ「真田丸」の放送に合わせてオープンした「信州上田真田丸大河ドラマ館」(上田市)が1月28日、開館12日目にして来場者数1万人を突破した。真田家ゆかりの同市と長野市は観光地を整備してイベントを企画するなど誘客に力を注いでおり、上々の滑り出しとなった。
同館はドラマで使われた着物や小道具を展示し、「信繁の生きた時代」や「上田城と真田家の家族」など4つのゾーンに分けて真田丸の世界を体感してもらうのが”売り”だ。見学通路は城下町の街並みを再現した。展示面積は650平方㍍で、過去の大河ドラマ館を含めて最大級といわれる。同館では目標来場者数50万人を見込んでいる。

熊本城 城ランキングで3年連続首位 城郭全体復元中

熊本城 城ランキングで3年連続首位 城郭全体復元中

旅行口コミサイト「トリップアドバイザー」による「行ってよかった!日本の城ランキング2015」で熊本城が3年連続1位に選ばれた。
トリップアドバイザーは米国に本社を置き、世界45カ国で500万を超すレストランやホテル、観光スポットについて、旅行者から寄せられた情報を提供している。このうち日本の城ランキングは2014年6月から15年5月に投稿された口コミの件数や、5段階評価などを基に算出している。
熊本城は周知の通り、加藤清正が築いた熊本のシンボル。訪日外国人の割合も平成23年度の6.6%から26年度は17.2%まで高まっている。うち9割はアジア圏からの訪日客という。
現在の熊本城天守閣は昭和35年に外観を復元。平成10年度からは現存する絵地図や古文書を基に、城郭全体(98㌶)を対象に往時の姿に復元するプロジェクトも始動。このプロジェクトの費用を賄うため、一般から「一口城主制度」を設け資金提供を呼び掛け、すでに南大手門や本丸御殿大広間が完成している。

奈良・若草山で新春恒例「山焼き」極寒の夜空彩る

奈良・若草山で新春恒例「山焼き」極寒の夜空彩る

奈良・若草山で1月23日夜、新春恒例の「山焼き」が行われ、燃え上がる炎の明かりが極寒の古都の夜空を彩った。午後6時すぎ、花火が打ち上がると号砲が鳴り響き、これを合図に地元の消防団が山の斜面の枯れ草に松明の火を一斉に放った。
江戸時代から続く「若草山の山焼き」は、山頂にある古墳の霊魂を鎮めるために始まったと伝えられる。あいにく夕方から降り始めた雨の影響で、例年のような炎の勢いはなかったが、古都の夜空を赤く照らし出した。極寒の中、集まったおよそ15万人の見物客らは冬の祭典に魅入っていた。

権勢誇示する秀吉の33通の家臣宛て書状見つかる

権勢誇示する秀吉の33通の家臣宛て書状見つかる

兵庫県たつの市立龍野歴史文化資料館などは1月21日、「龍野神社旧蔵文書」から羽柴(後の豊臣)秀吉による家臣、脇坂安治(やすはる)宛ての33通の書状が見つかったと発表した。
これらの書状の中で秀吉は、天下取りを目指す精力的な進攻を記す一方で、家臣の動きの細部に目を配るなど厳格な統治者としての一面を示している。
当時、最後で最大の難敵だった徳川家康との戦い、1584年の小牧・長久手の戦いに関する書状では、徳川方から織田信雄(信長の次男)の娘、家康の長男と弟らを人質に出す和睦案が出されたが、秀吉は一度は拒絶したと記述。後に受け入れたとの書状もあり、調査した東大史料編纂所の村井祐樹助教は「詳細な情報によって(この時期の出来事を)時系列で追える意味は大きい」としている。
翌年(1585年)の書状では、秀吉が追放した家臣をかくまわないように指示。信長の時代のように甘く考えれば処罰も辞さない-などの意の書状もあり、主君だった信長をよびすてにし、自らの権勢を誇示している。

浜松に早くも「大河ドラマ館」主人公・井伊直虎で誘客

浜松に早くも「大河ドラマ館」 主人公・井伊直虎で誘客

遠州ゆかりの井伊直虎が主人公の2017年放送予定の大河ドラマを活用して地域振興を目指す官民連携組織「『おんな城主直虎』推進協議会」が1月12日、発足した。浜松市中区のホテルで初会合を開き、市が常設展示館「大河ドラマ館」を、市みおつくし文化センター(同市北区)に開設することを報告した。
大河ドラマ館は撮影セットや小道具、衣装の展示などを通じて大河ドラマの世界観を紹介する施設。2017年の放送開始に合わせオープンする予定。
「『おんな城主直虎』推進協議会」は行政機関、観光・経済団体や地元企業など77団体の代表者で構成、浜松商工会議所の大須賀正孝会頭が会長に就任した。市が設置した「おんな城主直虎」推進本部(本部長・鈴木康友市長)と連携し、観光誘客に向けた情報発信や市民啓発などの事業に取り組む。

江戸初期?の「富士参詣曼荼羅」愛知県常滑市で発見

江戸初期?の「富士参詣曼荼羅」愛知県常滑市で発見

静岡県の調査によると、世界遺産富士山への参詣登山の様子を描いた「富士参詣曼荼羅(まんだら)」が愛知県常滑市の松栄寺に保管されていることが分かった。江戸時代初期の作品とみられる。
古くから信仰の対象とされてきた富士山の、当時の参詣の様子が細かく描かれ、国の文化財に指定された富士山本宮浅間神社(富士宮市)所蔵の参詣曼荼羅と並ぶ史料として注目を集めそうだ。
松栄寺の富士参詣曼荼羅は縦179㌢、横145㌢、中央に大きく富士山が配置され、興津宿、清見ヶ関(現静岡市清水区)を出発して富士川を渡り、大宮口から表口登山道を登るルートを紹介している。建物のつくりから慶長年間の1602~1606年の作と推定される。

連ドラ「あさが来た」人気にあやかり社員有志がマップ

連ドラ「あさが来た」人気にあやかり社員有志がマップ

好評のNHK連続テレビ小説「あさが来た」人気にあやかろうと、ヒロインのモデルである明治時代の女性実業家で、大同生命(大阪市西区)の創設者の一人でもある広岡浅子(1849~1919年)ゆかりの地を紹介するマップを、大同生命の社員有志が作成した。
マップは縦約30㌢、横約40㌢のカラーで、、中之島や堂島エリアをカバーしている。江戸時代の古地図と現代の地図を見比べることができる。5万部発行し、市営地下鉄の駅や京阪電鉄の主要駅などで配布している。
観光客増につなげようと大阪市なども1月は、ドラマの舞台をボランティアガイドと巡る街歩きツアーを実施予定で、相乗効果が期待できそうだ。

京都・下鴨神社で新春「蹴鞠初め」巧みな足さばき披露

京都・下鴨神社で新春「蹴鞠初め」巧みな足さばき披露

京都市左京区の下鴨神社で1月4日、新春恒例の「蹴鞠(けまり)初め」があった。穏やかな天候に恵まれ、約3500人の観光客らが見守る中、色とりどりの伝統装束を身にまとった蹴鞠保存会のメンバーが、シカの革製の直径約20㌢の鞠を巧みに蹴り上げ、妙技を披露した。
この蹴鞠、勝敗はなく、相手が受けやすいように蹴ることが作法とされる。約15㍍四方の鞠庭で男女8人が1組となり、「ヤア」「オウ」などの掛け声とともに、息の合った足さばきを見せると、観光客らから盛んに拍手が送られていた。

のろしリレー 大河「真田丸」に合わせ長野~群馬結ぶ

のろしリレー 大河「真田丸」に合わせ長野~群馬結ぶ

2016年1月10日から始まるNHK大河ドラマ「真田丸」に合わせ、戦国武将・真田一族ゆかりの長野(上田市)~群馬(沼田市)両県の12カ所で、順にのろしを上げる「狼煙(のろし)リレー」のイベントが1月1日行われ、計7市町村の住民が参加した。
狼煙は戦国時代、味方への有力な情報伝達手段だった。名将幸村(信繁)と父昌幸らの居城だった上田城跡公園(長野県上田市)から、幸村の兄信幸の沼田城跡のある沼田公園(群馬県沼田市)までの約100㌔を結んだ。
上田城跡公園ではドラム缶を重ねた狼煙台を設置。一時強風にあおられたが、木の板で煙の方向を調整し、約40分かけてゴールした。

女性城主・井伊直虎の木像、浜松市・龍潭寺に奉納

女性城主・井伊直虎の木像、浜松市・龍潭寺に奉納

戦国時代、現在の浜松市北区周辺を治めた女性城主・井伊直虎の姿をかたどった木彫像がこのほど、井伊家の菩提寺、龍潭寺(浜松市北区引佐町)に奉納された。
法衣(ほうえ)を身にまとった座像で真正面を見つめる凛々(りり)しい表情が印象的。高さ49㌢、幅41㌢、奥行き25㌢。5本の杉を組み合わせた寄せ木造りで、同市在住の彫刻家の池谷雅之さん(61)が4カ月かけて制作した。12月28日から展示されている。
没落寸前の井伊家を守り抜いた直虎は、2017年放送のNHK大河ドラマのヒロインになる。ただ、その容姿を伝える史料は残っていない。

由利公正かまど 幻の「三岡へっつい」再現 福井県

由利公正のかまど 幻の「三岡へっつい」再現 福井県

幕末・明治時代前期に活躍した越前・福井藩士、由利公正(三岡八郎、1829~1909年)が考案したといわれる幻のかまど「三岡へっつい」の再現に向けて、福井県と同県左官工業組合が政策準備を進めている。
今年7月に三岡へっついの情報を募集、実物はみつからなかったが、文献を頼りに職人がイメージ模型を作成。12月27日から製作を本格化させる。2016年2月7日の「ふるさとの日」に披露した後、様々なイベントで使う。
同県は由利をNHK大河ドラマの主人公として誘致活動を進めており、同組合では誘致実現とともに、左官技術のPRなどにもつながると期待している。
三岡へっついは、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」、大島昌宏の「炎の如く 由利公正」でも登場する。三岡(明治期に由利公正に改名)は横井小楠に影響を受け、財政・金融に明るく、坂本龍馬らとも親交があった。

江戸城の天守閣は高さ60㍍で日本一だった 耐震構造も

江戸城の天守閣は高さ60㍍で日本一だった 耐震構造も

広島大学の三浦正幸教授らの調査によると、1657年の明暦の大火で焼失した江戸城最後の天守閣「寛永度天守(かんえいどてんしゅ)」の往時の姿が明らかになり、天守台を除いた天守は60㍍で、その高さは当時の大阪城、名古屋城をしのぎ、日本一だった。また、大地震にも耐えられる構造になっていた。
地下1階、地上5階建てで、寛永度天守は3度築かれた江戸城の天守閣のうち、徳川三代将軍・家光が1638(寛永15)年に建てた最後の天守閣。

後期難波宮の屋根瓦落下跡 埋め戻しから54年ぶり公開

後期難波宮の屋根瓦落下跡 埋め戻しから54年ぶり公開

大阪市中央区の史跡「難波宮跡」の発掘調査現場で、昭和の発掘調査の後、埋め戻され保存されてきた後期難波宮の屋根瓦落下跡が、このほど54年ぶりに一般公開され、多くの考古学ファンが見学に訪れた。
倒壊した塀から落下した屋根瓦が、落下したままの状態で大量に残っている珍しいケースだ。史跡整備を計画する大阪市が、屋根瓦落下跡などの有効活用策を検討するために再公開した。
後期難波宮は8世紀、聖武天皇が造営した宮殿。1961年、大阪市の発掘調査で後期難波宮の屋根瓦が出土したが、大量に発見されただけではない。南北方向に走る屋根瓦付きの築地塀が、何らかの事情で東側に倒れ込んだ。その際、塀もろとも瓦屋根が裏返しになる形で、地面へ落下したと推定される状態のまま発見されたのだ。
そして発掘調査後、瓦落下跡の長さ約10㍍のエリアをコンクリートブロックで囲い、瓦の表面に特殊な合成樹脂を塗る保存作業を施されたうえで埋め戻されたものだ。

厚さ11㌢の「大型構造船」の部材発掘 滋賀塩津港遺跡

厚さ11㌢の「大型構造船」の部材発掘 滋賀塩津港遺跡

滋賀県文化財保護協会は12月10日、琵琶湖北端にある同県長浜市の塩津港遺跡で、板を組み合わせた「大型構造船」の部材が見つかったと発表した。平安時代後期(12世紀)の船の一部とみられ、国内最古級という。
構造船はこれまで鎌倉時代後期から使われたと考えられていたが、専門家は今回の部材の発見により、100年以上前の平安時代の琵琶湖ですでに就航していたことを裏付ける、日本造船史上、貴重な史料-としている。
見つかった部材は長さ205㌢、幅58㌢、厚さ11㌢。船の側面か底に使われていたとみられ、板を繋ぐ「縫いくぎ」が打たれた跡が3カ所あった。部材の厚さなどから、船は長さ20㍍以上あった大型構造船とみられる。
塩津港は北陸の物資を京都に運ぶ中継地として栄え、12世紀には埋め立て造成で本格的な港が築かれていたことが分かっている。今回は荷物を運ぶ道路(長さ10㍍、幅3.7㍍)や、道路東側に築いたとみられる塀の大きな柱なども複数確認された。

「出雲そば」200年遡る最古の文書見つかる

「出雲そば」200年遡る最古の文書見つかる

島根県のご当地グルメ「出雲そば」が江戸時代前期にはすでに食べられていたことを示す最古の記述が、同県立出雲歴史博物館の調査で見つかった。出雲そばについてこれまで確認されていたものを約200年遡る文書記録という。
出雲大社の神職、佐草自清の日記の中で寛文6(1666)年3月27日に、江戸前期に出雲大社で行われた造営工事に関し、本殿の柱を立てる相談をした後、日が暮れたところで、そば粉を練って細く切った「蕎麦切」が振る舞われたとの記述があった。
出雲そばは、松本城主だった松平直政が寛永15(1638)年に松江へ移った際、信州から蕎麦切が伝わったのが始まりとされる。出雲そばが記述された文書は、これまで嘉永2(1849)年のものが最古だったが、この日記はこれを約200年遡る。

四天王寺 五重塔を耐震改修 2016年7月お披露目

四天王寺 五重塔を耐震改修 2016年7月お披露目

耐震改修工事が行われている四天王寺(大阪市天王寺区)の五重塔が報道陣に公開された。五重塔は高さ39㍍で、最上層からはあべのハルカスや通天閣なども見渡せる。
2022年には、聖徳太子が亡くなって1400年を迎える。聖徳太子ゆかりの四天王寺のこの工事は「聖徳太子千四百年御聖忌」に伴う整備事業の一環として行われているもの。新しい五重塔は2016年7月ごろにお披露目される予定。
工事で取り外されたものの一部は、12月14日から2016年1月10日まで一般公開される。

東大寺大仏の螺髪は定説の半分 レーザー解析で判明

東大寺大仏の螺髪は定説の半分  レーザー解析で判明

奈良・東大寺の大仏の毛髪、螺髪(らほつ)が定説の「966個」ではなく「492個」だったことが分かった。東大寺から委嘱された東京大学生産技術研究所がレーザーを使った最新技術で調査した結果、分かったもの。1000年近く伝えられてきた定説を覆し、実態を解き明かした。
奈良時代、聖武天皇の命で建造され、752年に完成した初期の大仏については、文献には螺髪を966個つくったと記されている。しかし、その後何度か火災に遭い、現在の大仏は江戸時代に修復されたもので、その際、減ったのか?などは不明だという。ただ、江戸、明治時代の文献にも螺髪は「966個」と記されており、ずっと定説とされてきた。

「後期難波宮」の瓦を再発掘 保存状態良好

「後期難波宮」の瓦を54年ぶり再発掘 保存状態良好

大阪市教育委員会は12月1日、聖武天皇が726年から造営した後期難波宮(大阪市)で、昭和36年に行われた調査時に出土し、埋め戻して保存していた瓦を54年ぶりに再発掘したと発表した。史跡の整備に先立ち、劣化していないか確かめるのが目的で、保存状態は良好だった。12月6日午前10時~午後3時半に一般公開する。
瓦は36年4月、大阪市中央区馬場町で見つかった。多くが裏向けになっており、瓦を使った塀が倒壊し、そのまま残されたと考えられる。塀は天皇の生活空間だった内裏を囲っていた。
難波宮は、中大兄皇子らと「大化の改新」を遂行した遂行した7世紀中ごろの孝徳天皇の時代から整備された「前期」と、奈良時代に聖武天皇が造営した「後期」に分かれる。

京都・平安期の井戸から「難波津の歌」の木簡

京都・平安期の井戸から「難波津の歌」の木簡

京都市埋蔵文化研究所はこのほど、同市中京区で発掘された平安時代中期(9世紀後半)の井戸から、和歌「難波津の歌」が平仮名で書かれた木簡が出土したと発表した。平仮名では最古級とみられる。
9世紀の中ごろから後半は漢字を当てはめた万葉仮名を基に10世紀前半に平仮名が成立するまでの過渡期にあたり、平仮名の形成過程をたどるうえで貴重な資料という。
木簡は縦34.5㌢、横3.5㌢。文字は縦2行にあり、右側に和歌「難波津に 咲くやこの花 冬こもり 今は春べと 咲くやこの花」がほぼ平仮名に近い形で書かれていた。
難波津の歌は古代から字の練習に使われていた。7世紀ごろ以降とみられる多数の出土品に書かれているが、平仮名でほぼ全文が読み取れる史料は初めてとみられる。