care のすべての投稿

東大寺 超高層「幻の七重塔」専門家がイメージイラスト

東大寺 超高層「幻の七重塔」専門家がイメージイラスト

奈良時代の創建当初、七重塔として威容を誇ったとされる東大寺の東塔を再現したイメージイラストが、専門家らによる検討会により制作され発表された。発掘調査の成果と文献史料の記録などに基づき、約100㍍の「超高層建築」の姿を想定したものとなっている。
東塔は760年代ごろ、大仏殿南東に建てられ、平安時代末に平氏の焼き打ちに遭って焼失。鎌倉時代に再建されたが、1362年に落雷で再び焼け落ちた。高さは約70㍍と約100㍍という記録があるが、いずれとも確定はしていない。
東大寺は、東塔の復元も視野に入れ、2015年から奈良文化財研究所、奈良県立橿原考古学研究所と共同で発掘調査を進めている。

薬師寺東塔 新築?・移築?論争決着へ 奈良時代に新築

薬師寺東塔 新築?・移築?論争決着へ 奈良時代に新築

薬師寺と奈良文化財研究所(奈文研)が12月19日発表した年輪年代測定の中間結果によると、薬師寺東塔(国宝、高さ約34㍍)は奈良時代の730年ごろに建てられたことが分かった。
奈文研は、2009年から約110年ぶりに解体修理が進められている東塔で、取り外された初層(1階)の天井板2点に対し年輪年代測定を実施し、伐採年が729年と730年と判明。塔中央の心柱についても測定が行われ、最も外側の年輪が719年を示し、720年代に伐採された可能性が高まった。伐採年が、710年の平城遷都前の飛鳥時代まで遡る結果は、これまで確認されていない。
東塔を巡っては、飛鳥時代の藤原京(694~710年)からの「移築説」と、平城京遷都後の現在地での「新築説」があり、論争となってきた。しかし、今回の結果では新築説が確定的となった。
なお、薬師寺東塔の解体修理は2019年に完了する予定。

近松門左衛門の浄瑠璃の直筆草稿 尼崎市へ収集家が寄贈

近松門左衛門の浄瑠璃の直筆草稿 尼崎市へ収集家が寄贈

兵庫県尼崎市教育委員会は12月15日、江戸時代の浄瑠璃・歌舞伎作者、近松門左衛門(1653~1724年)の直筆原稿の一部が、所有者の古美術収集家から、近松の墓が残る尼崎市へ寄贈されることになったと発表した。12月21~25日に市立文化財収集庫で一般公開される。
同市教委によると、寄贈されるのは1708年初演の浄瑠璃「傾城反魂香(けいせいはんごんこう)」の一部で、縦24㌢、横12㌢の和紙に62文字が書き込まれている。江戸時代に文化人らの筆跡を集めた貼交帖(はりまぜちょう)に収録されていた。
市教委の担当者は、近松の草稿はこれを含めて2点しか見つかっておらず、とても貴重な資料だ-としている。

複数の女性像描かれた板絵見つかる 鳥取・青谷横木遺跡

複数の女性像描かれた板絵見つかる 鳥取・青谷横木遺跡

鳥取県埋蔵文化財センターは12月15日、古代の道路遺構などが確認された鳥取市の青谷横木(あおやよこぎ)遺跡で、複数の女性像が墨で描かれた板絵(7世紀末~8世紀初め)が見つかったと発表した。
飛鳥~奈良時代の女性群像の発見は、「飛鳥美人」で知られる奈良県明日香村の高松塚古墳(特別史跡、7世紀末~8世紀初め)の極彩色壁画(国宝)に次いで2例目。
絵はばらばらの板片5点に墨で描かれ、百橋明穂(どのはしあきお)神戸大名誉教授が調べた結果、6人の女性とみられる人物が描かれていることが判明した。
全身が残った図像はなかったが、目・鼻・口などが見えない顔と上半身の人物(長さ約7.5㌢)、「払子(ほっす)」とみられる仏具を持った人物の上半身(長さ約5㌢)、スカート(裳=も)をはいた下半身(長さ約8㌢)などの図像が確認された。
7世紀末~8世紀初めに築かれた古代の官道「山陰道」とみられる道路遺構に、10世紀後半に土地を区画した「条里」の遺構が交わる地点で出土した。
中国大陸や朝鮮半島など東アジア世界の文化交流の実像を浮き彫りにする貴重な資料として注目される。

仏でダビンチの新たなデッサン発見 18億円相当の価値

仏でダビンチの新たなデッサン発見 18億円相当の価値

フランス・パリの競売会社タジャンは12月13日、ルネサンスの巨匠レオナルドダビンチの手になる新たなデッサンが見つかったと発表した。国内の地方在住の医師から持ち込まれた作品の裏に描かれていたもので、専門家が真正と認定した。1500万ユーロ(約18億円)相当の価値があるとみられる。
デッサンには聖セバスティアヌスが羽根ペンで官能的に描かれている。ダビンチが20代後半から30代前半に描いた8作品の一つと考えられている。タジャンによると、このデッサンについては米ニューヨークのメトロポリタン美術館のルネサンス絵画の学芸員もダビンチの真正作品と太鼓判を押している。AFP時事が報じた。

琥珀の中に9900万年前の恐竜のしっぽ 画期的な発見

琥珀の中に9900万年前の恐竜のしっぽ 画期的な発見

ミャンマー北東部カチン州で発見された琥珀の中に、9900年前の羽根に覆われた恐竜のしっぽが保存されていたことが明らかになった。生物学誌『カレント・バイオロジー』に12月8日、この論文が掲載された。
琥珀はすでにアクセサリー用に磨かれていた。恐竜が生息していた時代の羽毛が琥珀の中から発見されることはこれまでにもあり、羽毛の痕跡のある恐竜の化石も発見されたこともあるが、保存状態の良い羽毛が恐竜とはっきりと関連付けられたのは今回が初めて。
今回の画期的な発見によって絶滅した恐竜の骨をどういう組織が覆っていたのか、地球の地上を1億6000万年以上も支配した生き物について、さらに理解が深まると期待されている。

「真田丸」の土塁の一部か 民間団体が天王寺で土層発見

「真田丸」の土塁の一部か 民間団体が天王寺で土層発見

大阪市天王寺区餌差町で発掘調査をしていた民間団体「『真田丸』発掘推進協議会」(会長・千田嘉博奈良大教授)は12月9日、真田丸の土塁の一部とみられる土層を発見したと発表した。真田丸の実態解明のための発掘は初めてという。
真田丸は大坂冬の陣(1614年)で豊臣方の武将、真田信繁(幸村)が立てこもり、徳川方に大きな損害を与えて撃退したことで知られる出城。多くの絵図には半円形の姿で描かれるが、千田教授らは真田丸を四角く描いた絵図や古い地形図、航空写真などから、現在は大阪明星学園がある場所を中心に、方形の姿に復元している。
調査では、古い地籍図で堀の痕跡のように見える区画の北側を約70平方㍍発掘し、人工的に土を盛った層を確認した。南の区画はやはり現在も堀状に低くなっており、盛り土は真田丸をめぐる土塁の可能性があるという。

戦艦武蔵の最期「水中で大爆発起こし粉々に砕け散った」

戦艦武蔵の最期「水中で大爆発起こし粉々に砕け散った」

2015年3月、フィリピン沖の海底1,000㍍の深海で70年ぶりに戦艦武蔵がその姿(部分)を現した。米国のプロジェクトチームの8年にわたる捜索の結果だった。このほど同チームによって初めて膨大な量の映像・記録が公開された。
専門家(7名)による、こうした100時間を超える記録映像や、NHKが独自に入手した新資料の詳細な分析から、”無敵の不沈艦”だったはずの戦艦武蔵が、歴史の定説を覆し、実は致命的な”脆さ”を抱えた構造の戦艦だった実像が次々と浮かび上がってきた。
結論をいうと、①鋼板を2枚重ねて分厚くしていた装甲板が、想定外の米空軍機の執拗な攻撃を受け、また繰り返し受けた魚雷攻撃により、2枚重ねの鋼板を止めていたリベットが緩み、鋼板がまくれ、そこから海水が流れ込んだ②建造の際、想定された戦艦同士の戦闘にならなかったことから、装備されていた最大の武器であった160発の主砲(46㌢砲)が使われることなく、しかも100㌧もの火薬が弾薬庫に残っていた。これらが海中で燃焼爆発を起こした-という。
この結果、不沈艦、武蔵が沈み、1km四方の広範囲に、粉々の残骸が、まさにバラバラに砕け散って発見されたものと結論付けられた。弾薬庫部分の鋼鉄がグニャグニャに曲がっていたことで、その大爆発があったことが裏付けられるという。
問題は既述の、当時の技術では厚鋼板同士を精巧に溶接できずに使ったリベットの弱点を、戦艦大和で魚雷攻撃によりリベットがダメージを受け徐々に浸水してきた教訓を踏まえ、設計者が4万本のリベットの弱点の改善を上申したにもかかわらず、海軍上層部は聞く耳を持たなかった点にある。
こうして構想から9年の歳月をかけ建造された高さ31㍍(10階建てビルに相当)、全長263㍍、ジャンボジェット3機分の大きさの威容を誇った戦艦武蔵は、昭和19年10月24日、午後3時過ぎ、100機以上の米空軍機の攻撃を受け装甲板に魚雷が命中、左に傾きながら最後の乗員2399人とともにフィリピン沖に沈んでいった。生存者430人、ただし、後の陸上戦に動員され、そのほとんどが玉砕したとされる。

JR留萌-増毛間 95年の歴史に幕 地域の足消える

JR留萌-増毛間 95年の歴史に幕 地域の足消える

利用客の減少で廃止になる北海道のJR留萌(るもい)線の留萌-増毛間が12月4日、最終運行日を迎え、95年の歴史に幕を下ろした。
高倉健さん主演の映画『駅・ステーション』の舞台にもなった留萌線の終着、増毛駅。4日は朝から廃止を惜しむ鉄道ファンや地元の住民が大勢訪れ、お別れのセレモニーが行われた。また、この日の増毛駅は列車が到着するたびに多くの人がホームに降り立った。
午後8時過ぎ蛍の光が流れ、地元の住民がペンライトで見送る中、30分遅れで最後の列車が増毛駅を出発し、95年の歴史に幕を下した。これでまた、地元の人たちにとっては、日常生活に深く関わる”地域の足”がなくなった。
1921(大正10)年、全線が開通したJR留萌線は過疎化で乗客が減少。昨年度は100円の収入を得るのに2,583円の費用がかかる赤字路線となった。北海道では今回の路線廃止にとどまらない情勢だ。JR北海道では道内主要都市を結ぶ13の区間で、「単独では維持することは難しい」として、具体的な廃線想定路線図を示している。次代を見据え、地域の足をどう守るのか、自治体を含めた深刻な課題だ。

ユネスコ無形文化遺産登録決定後初の「秩父祭」

ユネスコ無形文化遺産登録決定後初の「秩父祭」

ユネスコの無形文化遺産に登録が決まった全国33のまつりの一つ、「秩父祭の屋台行事と神楽」。11月30日の登録決定を受け、全国の当該施設・運営団体ではお祝い気分の中、12月2日、地元・埼玉県秩父市で登録後初めての秩父祭が始まった。
秩父祭の始まりは、江戸時代初期とされ、300年以上も受け継がれてきた伝統の祭りだ。

江戸城・松の廊下、刃傷事件直後の記録見つかる

江戸城・松の廊下、刃傷事件直後の記録見つかる

浄土真宗本願寺派本願寺史料研究所(京都市下京区)は12月2日、吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか、1641~1702年)が、元禄14(1701)年3月14日、江戸城・松の廊下で浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)に斬り付けられた刃傷事件直後の様子を伝える記録が見つかったと発表した。
今回見つかった史料は、吉良家との関係が深かったとみられる西本願寺が、江戸の築地本願寺に送った書状の控えを集めた「江戸江遣書状留帳(えどへつかわすしょじょうとどめちょう)」。同研究所の保管史料の中から見つかった。書状は、元禄14(1701)年1月20日から翌15(1702)年12月24日まで、刃傷事件をめぐる寺や吉良側の対応、討ち入りに対する受け止めなどが記録されている。
史料によると、事件後1週間の3月21日の書状で、西本願寺が事件を「不慮の儀(思いがけない事件)」と表現し、吉良家への見舞いの死者を派遣するよう求めたこと、4月5日には「吉良殿 御痛も軽ク、御食事無替事由(吉良殿、お痛みも軽く、食事も相変わることがない由)」と、同事件への関心の高さなどを記している。
さらに元禄15(1702)年12月14日の赤穂浪士討ち入り後の24日の書状には、討ち入りに対して「驚いたことである。言語に絶える」などと表現、原因究明を求めている。
専門家は、刃傷事件直後の吉良家の様子を伝える貴重な一次史料と評価している。

「山・鉾・屋台」の全国33巡行行事が無形文化遺産登録

「山・鉾・屋台」の全国33巡行行事が無形文化遺産登録

国連教育科学文化機関(ユネスコ)は11月30日、エチオピアで開いた政府間委員会で、全国33件の日本の祭りで構成する「山・鉾・屋台行事」を無形文化遺産に登録した。このうち、「京都祇園祭の山鉾巡行」(京都府)と「日立風流物」(茨城県日立市)は2009年に無形文化遺産登録されていたが、政府は今回、同じ特徴を持つ祭礼行事をまとめ一つのグループとして文化遺産申請することで、登録対象を広げた。

後期難波宮の「官衙」など役所建物群跡見つかる

後期難波宮の「官衙」など役所建物群跡見つかる

大阪市教育委員会は11月30日、奈良時代、726年に聖武天皇が造営した後期難波宮(大阪市中央区)で、役人が文書処理など執務した役所「官衙」とみられる建物群の跡が見つかったと発表した。
官衙跡は、7世紀中ごろの飛鳥時代、孝徳天皇によって整備された前期難波宮では発見されていたが、後期難波宮で確認されたのは初めて。
発掘現場は、天皇が重要儀式や執務をした大極殿など主要建物群の西側。塀とみられる柱穴で仕切られた区域に、4棟の掘っ立て柱式建物群が見つかり、うち2つは官衙によくみられる細長い建物だった。
官衙跡のすぐ北側には東西に一直線に並ぶ11個の柱穴を発見。天皇が出入りするような格式の高い門を構えた「五間門区画」の一部とみられ、南北約200㍍、東西約120㍍以上の大規模施設があったことも判明した。
現地説明会は12月3日、13時~15時。

大宰府守る7世紀の大規模土塁発見 福岡県筑紫野市丘陵

大宰府守る7世紀の大規模土塁発見 福岡県筑紫野市丘陵

福岡県筑紫野市教育委員会は11月28日、同市の丘陵上で長さ500㍍に及ぶ大規模な7世紀の土塁が見つかったと発表した。
古代、九州を統括し、朝鮮半島からやって来る諸外国に対する、国家外交の最前線だった大宰府を守る防塁とみられる。同市教委は「大宰府都城の外郭線」とみており、未確認の広大な防衛ラインが敷かれていた可能性が出てきた。丘陵上の土塁の確認は今回が初めて。
現場は、政治の中枢だった大宰府政庁跡(太宰府市)から南東約7㌔㍍の前畑遺跡。土塁は土を盛って壁のようにめぐらせた防御施設で、高さ約1.5㍍、下部の幅は約13.5㍍。2段構造で東側が急斜面になっている。標高49~61㍍の尾根をほぼ南北方向に約500㍍(残存部分390㍍)にわたって走る。土を何度も突き固める版築工法で造られていた。

遺跡から探る災害復興 高知で「発掘された日本列島」

遺跡から探る災害復興 高知で「発掘された日本列島」

高知県南国市岡豊町の高知県立歴史民俗資料館で開催中の特別展「発掘された日本列島2016」で、災害復興をテーマにした展示が行われている。火山噴火や大地震、洪水など災害に見舞われた地域がいかに復興したかを遺跡から探る。東日本大震災後の道路整備や高台移転に際して、東北3県で実施された発掘調査の成果も紹介している。展示は12月18日まで。
近年発掘された注目の全国36施設約750点の出土品を展示する企画展では、特別展として災害復興の痕跡が確認された旧石器~江戸時代の7遺跡のパネルや遺物が並ぶ。
圧巻は福島県相馬市の段ノ原B遺跡で見つかった約6,000年前の大地震に伴う地割れの痕跡。竪穴住居が並ぶ高台の縄文集落を分断する長さ92㍍、幅2~6㍍、深さ0.2~2.5㍍の溝状の亀裂だ。溝からは約4,600点の土器や石器が出土し、地震で破損した土器や倒壊した家屋の廃材などのがれきの処理が行われていたことが分かった。遺跡は竪穴102棟が見つかった大集落で、被災後も住民は集落を放棄せず、暮らし続けることを選んだとみられている。
このほか、弥生時代に洪水の土砂で集落が埋まり、丘陵上に”高台移転”したことが分かる玉津田中遺跡(兵庫県)や、富士山の宝永大噴火(1707年)後に積もった火山灰を埋め、耕作土を掘り起こして畑を復旧した「天地返し」の痕跡が確認できる横野山王原遺跡(神奈川県)などが紹介されている。また、東日本大震災後の災害復興工事に伴って発掘された7遺跡についても紹介している。

豊橋・西側北遺跡で国内最古級の竪穴建物跡を確認

豊橋・西側北遺跡で国内最古級の竪穴建物跡を確認

愛知県豊橋市の文化財センターは11月22日、同市牛川町で見つかった「西側北遺跡」で、縄文時代草創期(約1万1,000年前)の日本最古級の竪穴建物の跡が確認されたと発表した。当時の人々の生活を知る貴重な手掛かりになるとみられる。
同センターによると、建物の跡は卵形で長径が約3.5㍍、短径が約3㍍で、中央部分が浅いすり鉢状にへこんでいる。また、外周の壁や建物内部の柱の跡も確認。さらに約1万1,000年前の「押圧(おうあつ)縄文土器」という、縄を表面に押し付けてつくった土器も出土した。
これらが根拠となり、建物跡は約1万1,000年前のものと分かった。同種の建物は東海地方では三重県松阪市で見つかっているが、愛知県内では初めてという。11月27日午前10時半と午後1時半の2回、現地説明会がある。

箸墓古墳周辺区域「周濠」を国の史跡指定へ

箸墓古墳周辺区域「周濠」を国の史跡指定へ

邪馬台国の女王、卑弥呼の墓という説もある奈良県桜井市の箸墓古墳で、古墳を囲む堀が残るとみられる周辺の区域が、新たに国の史跡に指定され、保存が図られることになった。
新たに史跡に指定されるのは、箸墓古墳の西側のおよそ1万5,000平方㍍の区域で、この場所には古墳を取り囲む「周濠」と呼ばれる堀が残っているとみられている。昨年、商業施設の建設計画が持ち上がったため、地元の桜井市が開発を規制しようと、史跡への指定を国に申請していたもの。同市は史跡の指定後に、商業施設の予定地を公有地として事業者から買い取ることにしている。
箸墓古墳は全長およそ290㍍の巨大な前方後円墳で、宮内庁が皇族を埋葬した「陵墓」として管理している。

秀吉築城の”幻の城”最初の伏見城の石垣見つかる

秀吉築城の”幻の城”最初の伏見城の石垣見つかる

民間発掘調査団体の関西文化財調査会は11月18日、豊臣秀吉が天下統一後の1592年から築城した最初の伏見城(指月城)とみられる石垣が京都市伏見区で見つかったと発表した。
今回見つかったのは、最初の伏見城の石垣の一部とみられ、長さ14.5㍍、高さ2.8㍍。自然のままの石や加工された石が6段から7段積み上げられ、隙間が小さな石で埋められていた。また、石垣に沿って幅がおよそ20㍍とみられる堀の跡も見つかった。
この指月城は、秀吉が築いてわずか4年後に慶長伏見地震(1596年)で倒壊したことから”幻の城”ともいわれる。その後、別の場所で再建されたが、史料が少なく、詳しい位置などは分かっていない。それだけに、城の全容を知るうえで、貴重な遺構として注目されている。

蘭学者・前野良沢が翻訳したオランダ語の原書発見

蘭学者・前野良沢が翻訳したオランダ語の原書発見

江戸時代の蘭学者で『解体新書』の実質的な翻訳者として知られる前野良沢が翻訳し、博物書として江戸時代に紹介されたオランダ語の原書が千葉市で発見され、当時の蘭学を知る貴重な資料として注目されている。
今回発見されたのは、鉱物などを紹介した江戸時代の博物書『諸術秘蔵』のオランダ語で書かれた原書。千葉市の神田外語大学にある海外の書物を集めた文庫で見つかった。
前野良沢は、この『諸術秘蔵』のうち、当時の日本では広く知られていなかったアスベストに関する記述の部分を翻訳したが、原書は見つかっていなかった

秀吉の太閤検地の記録も 奈良の庄屋に伝わる古文書展

秀吉の太閤検地の記録も 奈良の庄屋に伝わる古文書展

奈良県・田原本町の庄屋に伝わる古文書に、太閤検地の記録も残されている、唐古・鍵考古学ミュージアム(青垣生涯学習センター)の田原本町合併60周年記念企画展「小林家文書展-庄屋に伝わる350年の歴史」が、同ミュージアムで開かれている。11月27日まで。
小林家は同町小室で代々庄屋を務め、16世紀末から昭和まで約350年にわたる1,130点ほどの文書が残されている。これらの文書群などは、平成24年度に同町文化財に指定された。
今回の展示会では絵図9点を含む計75点の資料を公開。いずれの資料からも当時の地域の生活が垣間見える内容となっている。このうち最古のものは、天下人となった豊臣秀吉の命令で実施された太閤検地の記録。文禄4(1595)年の大和国十市郡田原本検地帳(写し)で、同家がこれをもとに年貢の徴収実務を行っていたことがうかがえる。
また、干ばつでの不作が続いた明和9(1772)年の救済米の積み増しを求める嘆願文(写し)からは、同家が村人の困窮を訴え、村人と役所の間を取り持った様子が読み取れる。
同ミュージアムの開館時間は9時~17時、月曜休館。

若冲作「果蔬涅槃図」の高精細複製画、誓願寺に奉納

若冲作「果蔬涅槃図」の高精細複製画、誓願寺に奉納

世界的に知られる江戸時代の絵師、伊藤若冲が描いた水墨画「果蔬涅槃図(かそねはんず)」の高精細複製画が完成し11月14日、京都市中京区の誓願寺に奉納された。誓願寺の本堂で関係者が集まる中、完成した複製画が奉納され、法要が営まれた。
この複製画は、若冲が今年、生誕300年を迎えたことを記念して伊藤家の菩提寺である宝蔵寺が、元々所蔵されていた本山の誓願寺に納めようと作製したもの。これまで数多くの文化財の複製を手掛けてきた大手印刷会社の協力を得て作製された。
果蔬涅槃図は、伊藤家一族の冥福を祈るために描かれた作品と言われ、若冲が晩年に野菜と果物で釈迦の入滅を描いた水墨画だ。現在、京都国立博物館に所蔵されている。
この複製画は11月25~27日、京都市中京区の新京極商店街で開催される「若冲ウィーク」で一般公開される。また、実物は11月15日から京都市美術館で開かれている「若冲展」で公開されている。

大坂の陣の両軍の布陣・配置絵図初公開 舞鶴市資料館

大坂の陣の両軍の布陣・配置絵図初公開 舞鶴市資料館

江戸時代に田辺藩主を務めた牧野家に伝わったとされる大坂冬の陣、夏の陣の徳川、豊臣両軍の布陣を描いた絵図が、京都府舞鶴市南田辺の田辺城資料館で展示されている。
大きさは冬の陣が縦120㌢、横84㌢、夏の陣が縦127㌢、横110.5㌢。江戸時代に作成されたとみられ、大坂城や大和川など建物や地形、徳川家康や真田幸村(信繁)をはじめとした各武将の軍の配置や合戦に関する記述がみられる。
「家康との交渉が決裂し、秀頼は籠城の支度を始めた」「真田が天王寺へ出て戦い、多くの敵を討ち取った」などの内容で、戦いの流れや武将の活躍も書き込まれている。
この絵図は牧野家の分家が所有していたもので、今回が初公開。12月18日まで。9時~17時、月曜と11月24日は休館。無料。

秀吉が築いた新たな”御土居”の一部を発掘 本格土木工事

秀吉が築いた新たな”御土居”の一部を発掘 本格土木工事

京都市埋蔵文化財研究所によると、安土桃山時代に豊臣秀吉が、周囲の外敵から守るため、当時の京を囲んで築いた”御土居”の一部が京都市北区の発掘調査で見つかった。
緩やかな段丘に盛り土した急勾配の土塁や、2例目となる地下排水溝があり、御土居の造営法を考えるうえで貴重な史料となりそうだ。
調査地は北区紫野花ノ坊町の住宅地。南北44㍍にわたって御土居が見つかった。自然の段丘の西側を4.5㍍掘り下げて堀にし、生じた土などを段丘に盛り土した跡が良好な状態で確認できた。土塁と堀はともに幅18㍍、堀の底から最も高い位置までの高低差は9㍍と推定される。
握り拳大の石を敷き詰めた長さ6㍍の地下排水溝(幅40㌢、深さ40㌢)も見つかった。この種の地下排水溝は上京区の北野天満宮境内の御土居に続いて2例目。
同研究所は「地形を生かすだけでなく、想像以上に大規模な土木工事を行っていた」とみている。

ペリー来航 実は1年前に予告されていた オランダから

ペリー来航 実は1年前に予告されていた オランダから

黒船来航、1853年7月のペリー艦隊の浦賀沖来航は、一般には突然のことと受け止められているが、実は幕府は1年前に予告されていた。
1852年7月、長崎・出島のオランダ商館長が「別段風説書」と呼ばれる文書を長崎奉行に提出していた。毎年、オランダ領東インド政庁が海外情報を記した書面を作成し、商館長を通して幕府に渡していたもの。
そこには米国政府が日本に使節を送る計画が示されていた。予告文には、その重要性を強調するため、丸印が付けてあったという。風説書に添えてオランダ東インド総督の書簡と日蘭条約草案の抜粋もあった。
ただ、これを受けた幕府は海防関係の諸大名らと内々に対応を協議したが、財政難のため防衛強化などの施策は講じられなかった。

世界で起きた津波 70年以降は日本とスマトラ島に集中

世界で起きた津波 70年以降は日本とスマトラ島に集中

東北大学災害科学国際研究所は、過去400年間に世界で起きた津波を分析した報告書を公開した。
同大は米国が集計している地震の記録などからマグニチュード7.5以上と推定される地震を分析し、1600年以降に発生した津波災害94例を抽出。津波の高さや到達時間、威力などを計算した。
津波の高さについては1600~1969年と、1970年以降の地図を公開した。このうち太平洋とインド洋で発生した地震を対象にした地図では、高さ2㍍超の津波が日本の太平洋沿岸や北米大陸西岸、南米チリ、インドネシア・スマトラ島などを襲い、1970年以降は日本とスマトラ島付近に集中している。

「世界津波の日」各地で慰霊・訓練『稲むらの火』世界に

「世界津波の日」各地で慰霊・訓練『稲むらの火』世界に

2015年12月の国連総会で11月5日が「世界津波の日」に制定されて初めて迎えたこの日、日本をはじめ世界各地で被災・犠牲者の慰霊の式典や、地震や津波の発生に備え避難訓練が実施された。
「世界津波の日」は、安政南海地震で大津波が和歌山県・広川町に押し寄せた際、濱口梧陵が収穫した稲わらに火をつけ住民に知らせ、高台に逃れさせた逸話『稲むらの火』にちなんでいる。その広川町では犠牲者を悼む「津浪祭」が開かれ、参加者たちは安政の地震後につくられた堤防に土を盛った。その後、南海トラフ地震が発生し、大津波警報が発令されたとの想定で訓練が行われた。
インドネシア・アチェ州の州都バンダアチェでは、集会で『稲むらの火』の逸話が紹介され、この精神に学ぶとともに、いかに被災した事実を風化させず、後世に伝えるかなどについて話し合った。同地はスマトラ沖大津波で壊滅的な被害を受けたが、人口の流入で当時を知る人が少なくなりつつあるという。また、同地ではこれまでスマトラ沖大津波で被災した12月26日を慰霊の日としていた。また、日本人28人が死亡した津波に被災したタイ・プーケットでも慰霊式典が開かれた。
大阪・堺市では近畿地方整備局や大阪府などが主催する総合防災訓練が行われた。ヘリを使った上空からの救助やがれきの下敷きになった人の救助など、地震や災害に備えた幅広い内容で、参加者たちは真剣な表情で訓練に取り組んでいた。
このほか、4月の熊本地震を経験した熊本市の私立中学・高校でも生徒や教職員らが真剣な表情で訓練に参加していた。
『稲むらの火』は安政年間、1854年11月5日(旧暦)、安政南海地震で大津波が和歌山県有田郡広川町を襲った際、醤油醸造業を営む濱口儀兵衛家(現・ヤマサ醤油)当主で、七代目濱口儀兵衛を名乗った梧陵(雅号)が、収穫した稲わらを燃やして知らせ、村人を高台の広八幡神社へ逃れさせ、津波から救ったとされる逸話だ。

「山・鉾・屋台行事」ユネスコの無形文化遺産へ

「山・鉾・屋台行事」ユネスコの無形文化遺産へ

文化庁は10月31日、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の無形文化遺産に推薦していた「山・鉾(ほこ)・屋台行事」(18府県の計33件)について、事前審査をしていた評価機関が「登録」を勧告したと発表した。同庁によると、評価機関の登録勧告が覆った例はなく、11月末~12月初めにかけてエチオピアで開かれる政府間委員会で正式に登録が決まる見通しとなった。
「山・鉾・屋台行事」では、2009年に「京都祇園祭の山鉾行事」(京都市)と「日立風流物(ふりゅうもの)」(茨城県日立市)の2件がすでに登録されている。ただ、無形文化遺産の登録数が増えるにつれ、同分野の文化財の単独登録が難しくなっているため、政府は登録済みのものの範囲を広げる形で、今回東北から九州まで16県の31件を追加した。
これにより、「高山祭の屋台行事」(岐阜県高山市)、「博多祇園山笠行事」(福岡市)、「長浜曳山祭りの曳山行事」(滋賀県長浜市)、「秩父祭の屋台行事と神楽」(埼玉県秩父市)などが登録される見込み。

国宝「彦根屏風」は12代彦根藩主・井伊直亮が購入

国宝「彦根屏風」は12代彦根藩主・井伊直亮が購入

滋賀県彦根市の彦根城博物館はこのほど、彦根藩井伊家に伝わり、江戸時代初期の風俗を描いた傑作として知られる国宝「彦根屏風」を購入したのは、12代藩主の井伊直亮(なおあき、1794~1850年)だったと発表した。
直亮が自ら記した収集品の目録から判明した。現在の金額で1億円(1,000両)もの売価を値切って入手したことも分かった。11月28日まで同博物館で公開される。会期中は無休。有料。
これまで、この「彦根屏風」は13代直弼(なおすけ)が購入したという井伊家伝来の説と直亮以降の江戸後期とする説の2つがあり、はっきりしていなかった。

真田信繁自筆の書状見つかる 九度山幽閉時の心境綴る

真田信繁自筆の書状見つかる 九度山幽閉時の心境綴る

徳川家康の天下取り総仕上げの戦いとなった、江戸時代初期の大坂の陣(1614~15年)で壮烈な死を遂げたとされる戦国武将、真田信繁(幸村)の自筆書状の原本が発見されたことが分かった。
書状は関ケ原の戦いの後、信繁が父・昌幸とともに幽閉された和歌山・九度山から兄・信之に仕える義兄の小山田茂誠(しげまさ)に宛てた長文のもの。内容は長い九度山での配流生活で便りをくれる人が減り、自らが老いたことを嘆くなどの心境を綴っている。
NHK大河ドラマ『真田丸』の時代考証を担当している丸島和洋氏(国文学研究資料館特定研究員・慶應義塾大学非常勤講師)の著書『真田信繁の書状を読む』に掲載された写しを見た三重県の個人収集家が、古書店で発見、購入したものを鑑定した結果、自筆原本であることが確認されたもの。
これまで「写し」(原本でなく、筆写したもの)が知られていたが、原本は長らく所在不明になっていた。

秋の都大路で華麗な歴史絵巻 京都・時代祭

秋の都大路で華麗な歴史絵巻 京都・時代祭

平安時代から明治維新までの歴史上の人物に扮し、装束をまとった行列が秋の都大路を練り歩いて華麗な歴史絵巻を繰り広げる「時代祭」が10月22日、京都市内で行われた。沿道を埋めた6万2,000人の旅行・観光客らはひととき、華麗な歴史の一幕を見るように、変遷する時代・世界に魅入っていた。
午前9時ごろ、桓武天皇と孝明天皇を祀った鳳輦(ほうれん)2基を中心にした神幸列が平安神宮から京都御苑へ向け出発した。正午過ぎ、笛の音ともに先頭の「維新勤王隊列」が御苑を出発。江戸、安土桃山と時代を遡りながら登場した約2,000人、全長約2㌔の行列は神宮へ向かった。

北斎の肉筆画と判明”作者不明”の西洋水彩画風作品6点

北斎の肉筆画と判明”作者不明”の西洋水彩画風作品6点

オランダのライデン国立民族学博物館の調査によると、同博物館所蔵で長く作者不明とされてきた絵6点が、江戸時代後期の浮世絵師、葛飾北斎(1760~1849年)の肉筆画であることが分かった。
西欧の水彩画の技法を真似た、北斎としては異色の作品。親交があった、ドイツ人医師シーボルトらから影響を受けた作品群とみられる。6点は江戸の街並みを描いた風景画。タイトルはないが、「日本橋」「両国橋」「品川」などを題材に川や人々、橋を描いている。
空を大胆により入れた構図などに西洋画の特色が表れている。長崎の商館で働いていたシーボルトは1826年、江戸に上った際、北斎らと面会したことが分かっている。

赤レンガ造りが印象的な明治の「旧奈良監獄」国の重文に

赤レンガ造りが印象的な明治の「旧奈良監獄」国の重文に

明治41年に建てられた全国の「五大監獄」一つで、赤レンガ造りの建物が残る奈良市の「旧奈良監獄」、現在の奈良少年刑務所が歴史的な価値が高いとして、国の需要文化財に指定されることになった。
刑務所としては、全国で現存する最も古い建物で、敷地を取り囲む塀や建物は、ロマネスクを基調とした重厚な赤レンガの壁で統一されている。また、受刑者が生活する5つの収容棟は看守所や事務所を中心に放射状に配置され、人の出入りを確認しやすい機能性と建物としての美しさを両立させている。当時の監獄の特徴が残る貴重な建物として評価された。
奈良少年刑務所は施設の老朽化などのため、今年度で閉鎖が決まっていて、10月20日時点でおよそ260人いる受刑者は、すべて他の刑務所に移る予定。今後、施設の運営権を民間の事業者に売却し、ホテルや博物館などへの再利用を目指している。

滋賀・稲部遺跡から大規模な鉄器工房群の遺構 巨大勢力

滋賀・稲部遺跡から大規模な鉄器工房群の遺構 巨大勢力

滋賀県彦根市教育委員会は10月17日、市内の稲部遺跡(稲部、彦富両町、推定総面積約20万平方㍍)で、弥生時代末~古墳時代初め(3世紀前半)の鉄器工房群や大規模な建物の遺構が見つかったと発表した。
同時代では他にない規模で、同市教委では「祭祀(さいし)・政治都市と工業都市の両面を持ち、巨大勢力の存在を示す」ほか、邪馬台国の時代からヤマト政権の成立期にかけて、この地域の拠点的な集落だったと推定している。大阪大学の福永伸哉教授も「稲部遺跡は東西日本の結節点にあり、近江勢力の大きさを物語るとともに、日本の国の成り立ちを考えるうえで貴重」としている。
当時、鐵製品の原料は大陸からの調達に頼っており、同時代の邪馬台国について記した中国の史書「魏志倭人伝」で、大陸と交易があったとされる「三十国」のうちの一つともみられるという。
鉄器工房は30棟以上ある竪穴建物群で、各棟は一辺3.5~5.3㍍の方形。うち23棟の床面から鉄片や鉄塊が見つかった。同時に鍛冶や鉄を加工する際に使ったと思われる台石、鉄製矢じり2個なども見つかった。

100年前の横浜と日本人の暮らしぶり写した写真見つかる

100年前の横浜と日本人の暮らしぶり写した写真見つかる

1900年ごろの日本、横浜で暮らしていたドイツ人のアルバムから、横浜港と周辺の街や生活する人々を写した71枚もの写真が見つかった。
幕末、米国のペリーが浦賀沖に来航。日米和親条約を経て、1859年に開港したのが横浜港だ。徳川幕府の思惑から、当時はまだ極めて辺鄙(へんぴ)な田舎に過ぎなかった横浜が開港されたわけだ。写真はそれから40年前後経過した横浜の姿をとらえたものだ。
現在も横浜港のシンボルの一つとなっている赤レンガ倉庫も、これらの写真に映し出されている1900年ごろに建設されたといわれる。また、活気に満ちた、横浜の当時の日本人職人たちが、外国へ輸出する織物や刺繍、金属製品などをつくっている様子も写されている。

国産翡翠を初めて確認 77年前の画期的発見に”光”あてる

国産翡翠を初めて確認 77年前の画期的発見に”光”あてる

日本人に古から親しまれてきた緑の宝石、翡翠(ひすい)がこのほど、日本鉱物科学会の「日本の石(国石)」に選ばれた。今から77年前の1939年、国内で翡翠が採れることを突き止めたのは東北帝大(現東北大)の若き研究者、河野義礼(かわのよしのり)さん(1904~2000年)だ。
「埋もれた画期的な発見に光をあてたい」。地道に研究を重ねた鉱物学者の業績を紹介しようと、関係者はいま年内の企画展開催に向け準備中だ。
古代社会、縄文、弥生、古墳時代にかけて周知のとおり、翡翠は勾玉(まがたま)などの宝飾品として珍重され、各地の遺跡から出土している。しかし、昭和初期までは国内の産地が見つかっておらず、遺跡群から出土する翡翠はいずれもシルクロードや、中国、朝鮮半島からなど大陸から持ち込まれたものと考えられていた。
学会で支配的だったこうした説を覆したのが、東北帝大理学部助手だった河野さんだ。当時30代半ばの河野さんは新潟県糸魚川市で見つかった緑色鉱物の鑑定を依頼され、化学分析で翡翠と特定した。現地も調査し、国内で翡翠が算出することを初めて確認したという。
国内の翡翠産地発見は当時、日中戦争の混乱下であまり注目されなかったが、考古学史を塗り替えるほどインパクトのある出来事だった。
企画展は主催、会場いずれも東北大総合学術博物館。翡翠をはじめ宮城県にゆかりのある鉱物や化石を展示し、河野さんの業績を広く紹介する予定。
翡翠は国内では鳥取県、岡山県などでも算出され、海外ではミャンマーや中米が産地として有名。

平城京にペルシャ人役人が勤務していた 木簡に名前

平城京にペルシャ人役人が勤務していた 木簡に名前

奈良文化財研究所の調査によると、奈良市の平城宮跡から出土した8世紀中ごろの木簡に、ペルシャ(現在のイラン付近)を意味する「破斯(はし)」という名字を持つ役人の名前が書かれていたことが分かった。
国内でペルシャ人の名前を記した出土遺物が確認されたのは初めてで、奈良時代の日本の国際性を裏付ける成果といえる。
木簡は1966年、人事を扱う式部省があった平城宮跡東南隅の発掘調査で出土した。今年8月、赤外線撮影した結果、役人を養成する「大学寮」でのペルシャ人役人の宿直に関する勤務記録と分かった。
表側の上部に「大学寮解 申宿直官人事」、下部に定員外の特別枠で任じられた役人「員外大属(いんがいだいさかん)」という役職名、中国語でペルシャ人を表す「波斯(はし)」と同じ読み・意味の「破斯」という名字を持つ「破斯清通」という人名と、「天平神護元年(765年)」という年号が書かれていた。

長さ1㍍超の最大級の恐竜足跡、ゴビ砂漠で発見

長さ1㍍超の最大級の恐竜足跡、ゴビ砂漠で発見

岡山理科大学は9月29日、モンゴル・ゴビ砂漠の白亜紀後期(7,000万~9,000万年前)の地層から、長さが1㍍を超える恐竜の足跡の化石が見つかったと発表した。
モンゴル科学アカデミー古生物学地質学研究所との共同調査で、発見したのは恐竜の左後ろ足の跡。長さが1㍍6㌢あり、形状から四足歩行で首や尾が長いのが特徴のティタノサウルスの仲間とみられ、体長は20~30㍍と推定される。
1㍍超の足跡の化石は、世界でも報告例が少なく、非常に珍しいという。

藤原宮跡で旗竿の穴見つかる 律令制下の朝廷儀式で使用

藤原宮跡で旗竿の穴見つかる 律令制下の朝廷儀式で使用

奈良文化財研究所(奈文研)は9月28日、日本初の本格的な都とされる奈良県橿原市の藤原京(694~710年)の中枢部、藤原宮跡で、天皇が正月に臨んだ儀式などに使われた「幢幡(どうばん)」と呼ばれる特殊な旗竿(はたざお)を立てたとみられる7基の柱の穴が見つかったと発表した。
幢幡の数などが奈良時代の正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』に記された大宝元(701)年の元日朝賀の記述と合致し、7世紀後半の、藤原不比等を中心に進められたといわれる律令国家形成期の歴史の一場面を、具体的に復元できる手掛かりになるとみられる。
奈文研によると、柱の穴は天皇が重要儀式の際に出御する大極殿院の南門のさらに南約11~21㍍で出土。深さ約80㌢~1㍍、柱の太さは約70㌢とみられる。宮殿の中軸線上に1基、その左右対称の位置に3基ずつ三角形に配置されていた。

国宝・金地螺鈿毛抜形太刀 異例の高純度の金を使用

国宝・金地螺鈿毛抜形太刀 異例の高純度の金を使用

春日大社(奈良市)は、平安時代の傑作として国宝に指定され春日大社に伝わる国宝の「金地螺鈿毛抜形太刀(きんじらでんけぬきがたたち)」の柄(つか)などの装飾金具の一部がきわめて純度の高い金でつくられていたことが分かったと発表した。
専門家によると、この時代の工芸品は銅や銀などにめっきする場合が多く、純度の高い、多量の金が使われるのは異例。金の使用量の多さから、強大な権力者による奉納品との見方が強まった。
太刀の長さは96.3㌢。分析依頼された奈良文化財研究所によるX線CTスキャンなどの調査から、柄や鍔(つば)、鞘(さや)の金具の一部が純金(24金)に近い22~23金とみられることが判明した。
10月1日に開館する春日大社国宝殿で展示する。10月31日まで。

江戸時代初期の様子記した文書 オランダで見つかる

江戸時代初期の様子記した文書 オランダで見つかる

徳川政権が確立する最後の戦となった「大坂の陣」(1614~15年)前後の、江戸時代初期の様子が記された文書がオランダ・ハーグの国立文書館で見つかった。同国ライデン大学と共同調査している国際日本文化研究センター(京都市)がこのほど発表した。
当時、東インド会社の拠点だった長崎の平戸オランダ商館のオランダ人関係者らが1609~1633年に作成した書簡524点や日記で、幕府高官や日本の商人から聞き取った情報などが記されている。
例えば、大坂夏の陣で大坂城が落城した直後の1615年6月11日付の報告には次のような記述がある。東インド会社の商務員ワウテルセンが平戸オランダ商館長に宛てたものだ。
「皇帝(徳川家康)、その息子(徳川秀忠)および全軍は、(豊臣)秀頼の(大坂)城を攻囲するために6月2日に大坂へ出発し同3日に到着した。(形勢不利と判断した)秀頼(軍)の数人の大名が赦免が得られると考え、皇帝側に寝返るため、城に火をつけたが、(事態が発覚し)彼らは逃げる前に秀頼(の指示)によって、その場で(城壁から)落とされて死んだ」とある。

日本人のルーツ探る草船航海 台湾発は1年延期 竹製船案

日本人のルーツ探る草船航海、台湾発は1年延期 竹製船案

日本人のルーツを探る航海実験を進める国立科学博物館などのチームは8月27日、2017年7月に予定していた台湾発の航海を1年延期することを明らかにした。
この実験航海の目的は約3万年前、日本人の祖先がどのようにして琉球諸島へ移住したのかを検証すること。今年7月行われた航海では、草舟で沖縄県の与那国島から約75㌔㍍東の西表島を目指したが、潮流に流され、予定ルートの半分以上を伴走船に引かれる結果に終わっている。
台湾から与那国島への航海は100㌔㍍以上になるほか、黒潮を越える必要もあり、さらに難易度は高い。
東京都内で27日開かれた報告会では今後、与那国島-西表島間の再航海は行わず、台湾発の航海では草船に比べ、耐久性の高い竹を材料に検討する方針が示された。

奈良・興福寺 五重塔、三重塔を初の同時特別公開

奈良・興福寺 五重塔、三重塔を初の同時特別公開

奈良・興福寺の五重塔が6年ぶりに特別公開されている。また、例年7月7日の1日だけ公開されている三重塔も同時公開されている。2塔が同時公開されるのは初めて。いずれも初層が特別公開されている。10月10日まで。
国宝・五重塔は高さがおよそ50㍍で、奈良時代に創建された後、焼失。現在の塔は室町時代に再建されたもの。五重塔の一番下の階にあたる初層には東西南北の方面に薬師如来、釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒菩薩が安置され荘厳な雰囲気を醸し出している。
一方、三重塔は高さ19㍍の優美な塔だ。興福寺では北円堂と並んで最も古い鎌倉時代の建物で、中に安置されている弁財天座像などが拝観できる。

剣術修行時代の龍馬の婚約者「千葉さな」改葬

剣術修行時代の龍馬の婚約者「千葉さな」改葬

幕末、江戸に出た坂本龍馬が剣術修行に通った千葉道場(道場主・千葉定吉)の娘で、当時彼の婚約者とされながら、結ばれることのなかった千葉さな(佐那)の墓が、今年で没後120年を迎えるのを機に、千葉家ゆかりの東京都練馬区の仁寿院へ改葬されることになった。
さなは戦後に千葉県松戸市にある東京都立八柱霊園の無縁塚へ合葬されていた。今回さなの妹、はまの子孫が無縁塚の土を譲り受け、命日の10月15日に法要を営む。
龍馬と結ばれなかったさなは明治維新後、横浜で元鳥取藩士と結婚したが、まもなく離縁。東京・千住へ移り住んで、1896年に58歳で亡くなったとされている。
北辰一刀流を創始した剣豪、千葉周作は父・定吉の兄で、さなにとっては伯父にあたる。

唐招提寺と凸版印刷が鑑真和上「東征伝絵巻」複製制作

唐招提寺と凸版印刷が鑑真和上「東征伝絵巻」複製制作

奈良市の唐招提寺と凸版印刷、トッパン・フォームズは、奈良時代に中国・唐から来日し、当時の世界先進の様々な文化を伝えるとともに、同寺を開いた名僧、鑑真和上の半生を描いた「東征伝絵巻」(重要文化財)の複製を制作した。
東征伝絵巻は全5巻で、鎌倉時代に鎌倉・極楽寺の僧、忍性が描かせ、唐招提寺に奉納した。唐から5度にわたる渡海失敗を乗り越えて来日し、戒律を伝えた和上の功績を伝える貴重な絵巻として知られている。
凸版印刷が開発した文化財専用の大型オルソスキャナーを使って高精細アーカイブデータを活用し、絵巻を正確に再現。またトッパン・フォームズが福井県越前市の越前和紙メーカーと共同開発した、絵巻に適した和紙を使って最長20㍍の絵巻を、継ぎ目なく再現している。

『鳥獣戯画』モチーフに戦国武将を動物化 TVアニメに

『鳥獣戯画』モチーフに戦国武将を動物化 TVアニメに

国宝『鳥獣戯画』をモチーフに、戦国武将を動物に例えてオリジナルキャラクター化するプロジェクト『戦国鳥獣戯画』が始動。テレビアニメが制作され、10月から放送開始されることが明らかになった。
監督は住田崇氏。キャラクターデザインはニイルセンが担当、制作はILCAが手掛ける。

京都・城陽の遺跡で奈良時代の役所の建物跡出土

京都・城陽の遺跡で奈良時代の役所の建物跡出土

京都府埋蔵文化財調査研究センターは8月4日、城陽市富野の芝山遺跡から、奈良時代の掘立柱建物跡などが見つかったと発表した。
建物跡は同じ方向を向いていることから、当時の役所に関連する施設と考えられるという。
確認されたのは奈良時代の掘立柱建物跡7棟。Ⅰ群4棟とⅡ群3棟の2群に分けられ、群ごとに少しずれた角度で西を向いている。建物が同方向を向く統一性のある造りから、役所を構成する建物の一部か、役人の住居と推定されるという。
平城京で出土する瓦と同じ模様を持つの軒平瓦のかけらや、墓と推定される飛鳥時代の穴も見つかった。芝山遺跡は南北約840㍍、東西約950㍍。

「弘前ねぷたまつり」始まる 勇壮「扇ねぷた」に歓声

「弘前ねぷたまつり」始まる 勇壮「扇ねぷた」に歓声

青森県の津軽地方を代表する夏祭り「弘前ねぷたまつり」が8月1日夜から弘前市で始まった。
初日の1日は午後7時ごろから弘前市内でねぷたの運行が始まり、勇壮な武者絵などが描かれた巨大な扇形の飾りを載せた「扇ねぷた」と呼ばれる山車など大小合わせて38台が、「ヤーヤドー」という独特の掛け声と囃子に合わせて町を練り歩いた。ねぷたの大きいものでは、高さが9㍍余りもある。沿道には大勢の見物客が詰め掛け、ねぷたが通るたびに盛んに拍手を送って夏祭りを楽しんでいた。
弘前ねぷたまつりは8月7日まで行われ、期間中合わせて81台のねぷたが運行する予定だ。

熊本城天守閣3年で修復、城全体は20年間で 市長が表明

熊本城天守閣3年で修復、城全体は20年間で 市長が表明

熊本市の大西一史市長は7月26日記者会見し、天守閣を3年間で、石垣を含めた城全体を20年間で復旧させる考えを明らかにした。
年内に基本方針をつくり、2017年度中に復旧基本計画を定める。事業費は少なくとも600億円を超える見込みだという。
熊本城を復興のシンボルにしようと、天守閣の工事を優先させる。

「古代を創った人びと」藤原不比等、行基 第2弾発刊

「古代を創った人びと」藤原不比等、行基 第2弾発刊

奈良県はこのほど、「古代を創った人びと」シリーズとして奈良時代の平城遷都の主導者、藤原不比等と、東大寺大仏造営に尽くした僧、行基の生涯をたどる冊子をそれぞれ発刊した。
同県は古代の中心的な人物を選定し冊子や映像を作製しており、今回は初回の「天武天皇・持統天皇」に続く第2弾。テキストは研究者らで構成する歴史展示企画会議が監修した。
今後は「聖徳太子・推古天皇」「聖武天皇・光明皇后」などが予定されている。

姫路城の内堀周遊木造和船「船卸しの儀」8月デビュー

姫路城の内堀周遊木造和船「船卸しの儀」8月デビュー

江戸時代に姫路城の内堀を往来していたとの記録が残る「木造和船」が完成、このほど古式にのっとった「船卸しの儀」が行われた。和船は8月23日に姫路城の内堀で命名式とお披露目が行われ、すでに観光客を乗せて内堀を巡る1隻目とともに周遊船として活用される予定。
製作したのは3年前の1隻目と同様、オクムラボート(姫路市的形町)。和船はスギ製で、長さ10.1㍍、幅2.1㍍、重さ1.3㌧。
今回は①1隻目の観光周遊船の利用者が増えている②和船をつくる職人の高齢化が進み、技術の伝承が必要-などから、2隻目を建造することになった。建造費は約1,000万円で、一部は文化庁からの補助も受けている。
和船の復元製作は有志らで結成された「姫路藩和船建造委員会」が中心になって進められている。