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丸木舟で台湾~与那国島へ200kmの航海に成功、日本人のルーツ求めて

日本列島へ最初にたどり着いた日本人は、どのように黒潮を乗り越え、海を渡ってきたのか?日本人の祖先による3万年以上前の航海を実現する、国立科学博物館などのプロジェクトがつくった5人乗りの丸木舟が7月9日午前11時半すぎ沖縄・与那国島に到着した。7月7日午後2時半すぎ(日本時間)の台湾南部・台東県の海岸を出発してからおよそ45時間の航海だった。かいを漕いで、大きなカベだった速い潮流、黒潮を乗り越え、直線で約200kmの航海に成功した。3万年以上前を再現するため、時計や地図、コンパスを持たず、地形や星、月、太陽を手掛かりに進むのは容易なことではない。同プロジェクトでは、丈夫な草(植物)を束ねた舟や竹の筏(いかだ)での実験航海失敗の経験を踏まえ、今回、石斧を使い杉の大木からつくった丸木舟で、遂に黒潮を越えた。約3万年前には台湾は大陸と地続きだった。沖縄の島々への航海は祖先が日本に渡った主要なルートの一つとみられるが、遺跡から当時の舟は見つかっていない。

丸木舟で与那国島目指し台湾出航、日本人の祖先の渡来検証へ

国立科学博物館は7月7日、約3万年前に日本人の祖先が大陸から日本に渡ってきた航海を再現するため、手漕ぎの丸木舟が台湾を出航したと発表した。日本列島西端の沖縄・与那国島を目指す。大陸からの渡来を検証するため、これまで植物や木製の船や筏(いかだ)など3万年前に入手可能だったと思われる材料で、再現実験が行われたが、いずれも無理と判断。今回は丸木舟でのトライとなった。                                          丸木舟は台湾南東部の台東県の海岸を出発。これまでの経験を踏まえ、体力強化のため練習を繰り返し、シーカヤックなどの経験豊富な漕ぎ手5人(男性4人、女性1人)が乗り込んでいる。与那国島までは直線距離で200km以上あり、夜通し漕いでも30~40時間かかる見通し。3万年前の航海術を再現するため、GPS(全地球測位システム)などは使用しないという。ただ、スタッフが乗り込んだ伴走船が並走する。

百舌鳥・古市古墳群 世界文化遺産に登録、23件目

ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産委員会は、アゼルバイジャンの首都バクーで会議を開き、日本時間の7月6日午後5時半すぎに、大阪府の「百舌鳥・古市(もずふるいち)古墳群」を新たに世界文化遺産として登録することを決めた。百舌鳥・古市古墳群は大阪府堺市、羽曳野市、藤井寺市にまたがる、4世紀後半から5世紀後半ごろに造られた、合わせて49基の古墳で構成される。この中には宮内庁が「仁徳天皇陵」として管理し、「大山古墳」とも呼ばれる国内最大の前方後円墳も含まれている。これらの古墳は、当時の高い築造技術を示しているほか、日本の古代国家の成り立ちを研究するうえで、貴重なものとされる。今回の登録によって日本の世界遺産は23件目で、文化遺産が19件、自然遺産が4件になる。大阪府の世界遺産の登録は今回が初めて。

井伊直弼が側近や家臣に宛てた手紙18通を展示 心情綴るものも

江戸・幕末期、大老となり、14代将軍をめぐり南紀派と一橋派の対立時の一橋派への弾圧および最終決断や、「安政の大獄」の首謀者とも目される彦根藩主・井伊直弼が、側近や家臣などに宛てた貴重な手紙を集めた企画展が、滋賀県彦根市の彦根城博物館で開かれている。7月16日まで。今回展示されているのは、国の重要文化財に指定されている「彦根藩井伊家文書」などに残された、およそ300通の中から選ばれた自筆の手紙18通。後に側近となる国文学者、長野義言(主膳)に宛てた手紙は、長さ2mを超えた長文で初対面から3夜連続で語り合った喜びが綴られている。また、兄の直亮が急死し、思いがけず藩主の座に就くことになった際、当時江戸にいた  直弼が親しい家臣に送った手紙には「言語に絶する」「残念の至り」などの兄の死を悼む心情が記されている。このほか、病気の家臣を「養生が大事」などと気遣う手紙も残されている。      安政の大獄で、橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎など数多くの英才を斬首した”鬼”のような印象の強い井伊直弼の、親しい間柄の人たちに宛てた手紙には心優しい、人間味あふれた側面も持ち合わせた人物像がうかがわれる。

  

フィリピン沖海底で旧日本海軍の重巡洋艦「摩耶」船体発見

米国の調査チームによると、太平洋戦争中に撃沈された旧日本海軍の重巡洋艦「摩耶」の船体が、フィリピン・パラワン島沖のおよそ1,850mの海底で見つかった。同チームの無人探査機が撮影した映像には船体はじめ、艦橋の構造物や主砲などの形が確認できるほか、機器に刻まれた文字もはっきりと写っている。                                          摩耶は1944年10月、フィリピンへと迫る米国軍を迎え撃つためレイテ島に向かったが、米国海軍の潜水艦の魚雷攻撃をけて沈没し、乗員336人が死亡した。今回、摩耶を発見した調査チームは、2015年にもフィリピン沖の海底で戦艦「武蔵」を発見している。

奈良・香芝市の古墳 王族の墓の可能性

奈良県香芝市教育委員会はこのほど、同市の国の史跡、平野塚穴山古墳で土を盛った墳丘の表面を覆っていた装飾用とみられる石が見つかったと発表した。こうした装飾は天皇陵と考えられる古墳でしか確認されていないことなどから、同市教委では王族の墓の可能性が高まったとしている。同古墳は一辺が25mから30m、高さ5mの2段に築かれた方墳で、7世紀後半に造られたとみられ、国の史跡に指定されている。              同市教委が3年ほどかけて行った発掘調査の結果、土を盛った墳丘の南側の斜面から、2m四方にわたって15cmから30cmほどの装飾用とみられる石がおよそ20個見つかった。同種の凝灰岩で墳丘を覆った古墳は、、いずれも奈良県明日香村にあって、斉明天皇の墓という説がある牽牛子塚(けんごしづか)古墳と、天武天皇と妻の持統天皇を埋葬したとされる野口王墓古墳しか例がないという。こうした点を総合的に判断すると、埋葬されたのは天智天皇や天武天皇の祖父にあたる茅渟王(ちぬおう)が有力な一人とみている。