天草四郎は江戸時代初期、飢饉や重税とキリシタン弾圧に苦しむ農民が起こした反乱、「島原の乱」の指導者とされている人物だが、その実像は定かではない。本名は益田四郎時貞。苗字は益田、通称は四郎、諱は時貞。洗礼名はジェロニモもしくはフランシスコ。一般に天草四郎時貞の名で知られる。生没年は1621?(元和7?)~1638年(寛永15年)。
天草四郎は、肥後国の南半国の熱烈なキリシタン大名で関ケ原の戦いに敗れ斬首された小西行長の遺臣・益田甚兵衛好次の子として、母の実家のある天草諸島の大矢野島(現在の熊本県上天草市)で生まれたとされる。しかし、宇土郡江辺村(現在の宇土市)、または長崎出身という説もあり、出生地ははっきりしない。
益田家は小西氏滅亡後、帰農した牢人で、一家は敬虔なキリシタン信徒で宇土に居住したという。天草は九州の中でもとくにキリシタン人口の比重が高い地域だったので、そうした周囲の環境から四郎も自然にキリスト教に接近していったのだろう。
四郎は生まれながらにしてカリスマ性があり、大変聡明で、慈悲深く、容姿端麗だったと伝えられている。彼は、小西氏の旧臣やキリシタンの間で救世主として擁立、神格化された人物と考えられており、盲目の少女に彼が触れると視力を取り戻した、海を歩いた-など様々な奇跡を起こした伝説や、彼が豊臣秀頼の落胤、豊臣秀綱であるとする風説も広められた。
江戸時代初期の天草・島原地方は飢饉や重税とキリシタン弾圧に苦しみ、民衆の不満は頂点に達していた。1634年(寛永11年)から続いていた大凶作の中でも容赦ない年貢の取り立ては行われたし、生きたまま海に投げ込まれたり、火あぶりの刑など想像を絶するキリシタン信者への迫害があった。
その不満を抑えていたのが、マルコス宣教師が残した予言だった。1613年(慶長18年)、マルコスは追放されるとき「25年後に神の子が出現して人々を救う」と予言した。人々はこの予言を信じ、神の子の出現に懸けていたのだ。そして、予言にある25年目の1637年(寛永14年)、長崎留学から帰った四郎が様々な奇跡を起こし、神の子の再来と噂されるようになる。四郎の熱心な説教は人々の心を捉え、評判は天草・島原一帯に広まり、遂には一揆の総大将に押し立てられるのだ。
過酷な徴税と限界を超えた弾圧に耐え切れず、1637年(寛永14年)年貢納入期を前に遂に島原で農民が蜂起。呼応して天草でも一揆が起こり、島原半島に渡って島原勢と合流する。こうして当時16歳の少年、天草四郎は一揆軍の精神的支柱となり、鎮圧軍と戦うことになる。一揆軍は島原城主松倉重政が城を島原に移すまで使っていた原城に籠り、長期戦となった。
松倉重政の家老からの一揆蜂起の報を受けた幕府は、ことの大きさに驚き、九州諸大名に帰国を命じて備えさせる一方、京都所司代板倉重昌らを上使として鎮圧軍を送り込んでいる。はじめは簡単に攻め落とせると思われていたが、籠城兵の意外な抵抗の強さにびっくりし、焦って無理に攻めたため、かえって死傷者を多く出す結果になってしまった。寄せ手の大将、板倉重昌が鉄砲で眉間を撃ち抜かれて戦死している。
とはいえ幕府連合軍12万5800人に対し、戦うことには素人で寄せ集めの集団、一揆軍はわずか3万7000人。力の差は歴然としていた。幕府はその後、松平信綱を送り込み、またオランダ船の砲撃といった助けなどを借りながら、3カ月余りかかってようやく原城を攻め落とした。1638年(寛永15年)、一揆軍は全滅。幕府軍も8000人の死傷者を出して終結した。四郎も熊本藩の陣野佐左衛門という侍に首を取られ、母親の首実検で四郎本人であることが確認された後、首は長崎で晒された。
この戦いで一揆軍の四郎が、実際にどのような采配を振るったのかは分からない。しかし、彼が一揆軍を結束させるカリスマ的な存在であったことは事実で、その結束力の強さが12万の大軍の攻撃をはねのけたことも間違いない。
(参考資料)小和田哲男「日本の歴史がわかる本」
?