山田長政 ・・・徳川二代将軍秀忠の時代、シャムで老中並み地位に

山田長政は江戸初期、17世紀に東南アジアへ渡った貿易商人。史料では山田仁左衛門。シャム(現在のタイ)のアユタヤ王朝から官位を授けられ、リゴールの長官に任じられたとされる。ただ、その実像は不明で、太平洋戦争時、親・東南アジア政策の下、作り上げられた「英雄的日本人」との評も厳然としてあり、詳細は定かではない。

山田仁左衛門長政は1590年(天正18年)頃、駿府国(現在の静岡県)馬場町の染物屋の子として生まれた。少年時代の長政はよく学問を好む半面、はなはだ乱暴な子供で、周囲からは疎んじられたといくつかの伝記に書かれているが、日本国内での事跡を裏付ける確実な史料は残されていない。徳川家康の側近、金地院崇伝が幕府の公文書を写した「異国日記」には、長政は1607年(慶長12年)頃には沼津藩主・大久保治右衛門忠佐(ただすけ)の六尺(駕籠かき)をしていたと記されている。これが長政の前歴を語る唯一の史料だ。

鎖国以前の日本は、豊臣秀吉の時代に始まった朱印船貿易が盛んで、それに伴い多くの日本人が海外に出奔し、東南アジア各地の日本人町を拠点に活躍していた。若き長政も海外で名を成そうと考え、長崎から旅立っていった。彼が目指したのはシャムに栄えたアユタヤ王朝の国都、アユタヤだ。1612年(慶長17年)頃、長政23歳頃のことだ。やがて才能を認められ、日本人町の頭領の座に就いた。そして、織田信長以来の熾烈な戦乱を体験した“関ケ原浪人”や“大坂浪人”などで構成された日本人傭兵隊を率いて、数々の戦果を挙げた。彼はアユタヤ近くまで攻め込んできたスペインの艦隊を撃退してしまう。こうした武勲が国王ソンタムの知るところとなり、彼は「オムプラ」という貴族の官位を授かった。

シャム側の文献には長政の官位について「オークプラ・セーナピモック」、さらにその上の「オークヤー・セーナピモック」になっている。オークヤーは大臣級である。そして、セーナピモックというのは「軍神」の意味だった。つまり、長政は日本人町の頭領として、また王宮の親衛隊長として大臣級の扱いを受けていたのだ。このことは先にも触れた金地院崇伝の日記「異国日記」で裏付けられる。1621年(元和7年)4月11日付で、長政が幕府の老中、土井利勝と本多正純に書簡を出していたことが分かる。「異国日記」にその全文が写しとたれているので間違いない。内容は「シャム国王が日本の将軍に国書を贈ったので、そのとりなしを頼む」というものだった。その頃の書簡のやり取りには書札礼(しょさつれい)という厳しい決まりがあり、書簡を出すときは対等の人間に出すのがしきたりだった。シャム国王は二代将軍・徳川秀忠に国書を出し、長政が土井利勝・本多正純に書簡を出していることが、見事にそのルールに則っている。ということは、長政はシャム王朝では日本の老中と対等の地位にあったことを示している。

このあと長政はシャムの王位争いに巻き込まれ、体よくシャムの中では南のはずれのリゴールという国の王に任命されてしまった。分かりやすくいえば、幕府の老中職にあった人物が、都から遠く離れた地方の藩主に左遷されてしまったようなものだった。そして、任地に赴いて少し経過した1630年(寛永7年)、対抗勢力の手の者によって毒殺されてしまったのだ。

17世紀の初頭、東南アジア各地に日本人移住者の集団居住地、「日本人町」が形成されていた。これは、徳川家康の貿易奨励策の下に展開された朱印船貿易によって日本商船で東南アジア各地に渡航する者が激増したためで、渡航した朱印船は1603年(寛永13年)の鎖国令発布に至るまでの30余年間に延べ350~360隻にも上った。これらの船には貿易商人はもとより、牢人あるいはキリシタンなども乗り込み、海外に赴いた。

日本人町は交趾(こうち)(中部ベトナム)のフェフォとツーラン、カンボジアのプノンペンとピニヤール、シャムのアユタヤ、呂宋(ルソン)島(フィリピン)マニラ城外のサン・ミゲルとディラオの7カ所に建設された。その盛時には呂宋の3000人を筆頭に、アユタヤ1500~1600人のほか、各地に300~350人ほどの日本人が在住し、その総数も5000人以上に達した。これらの日本人町は自治制を敷き治外法権を認められ、在住日本人の有力者が選ばれ行政を担当していた。フェフォの林喜右衛門、ピニヤールの森嘉兵衛、アユタヤの山田長政らはその代表的人物だ。鎖国下で徐々に衰退していったが、17世紀半ばから18世紀初頭まで存続した日本人町もあった。

(参考資料)城山三郎「黄金の日日」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、
早乙女貢「山田長政」

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