吉良上野介というと、誰もがまず「忠臣蔵」の中での赤穂浪士の敵役で、極め付けの悪役のイメージが浮かぶ。吉良上野介=吉良義央(よしひさ、よしなか)は幕府高家の家柄で、父は足利一族の名門義冬、母は大老酒井忠勝の弟忠吉の娘、妻は米沢藩主上杉定勝の娘だ。権門と姻戚関係にあるうえ、儀典の職にあたって、有職故実の指南を請う諸大名に尊大の風をもって接したといわれる。こうしたところが一般に毛嫌いされ、稀代の“悪役”あるいは“愚君”のレッテルを張られた要因なのだろうが、果たしてどうだったのか?
義央の官位は従四位上左近衛権少将、上野介。生没年は1641年(寛永18年)~1703年(元禄15年)。1659年(万治2年)から父とともに幕府に出仕。1662年(寛文2年)、大内仙洞御所造営の御存問の使として初めて京都へ赴き、後西(ごさい)天皇の謁見を賜った。以降、義央は生涯を通じて年賀使として15回、幕府の使者として9回、計24回上洛している。この24回もの上洛は高家の中でも群を抜いて多く、まだ吉良家の家督を継いでいない部屋住みの身でありながら、使者職を行っていたことは、22歳で従四位上に昇進しているように、義央の高家としての技量が卓越していたことを表している。また、その優秀な技量を五代将軍綱吉が寵愛したためとも伝えられている。
高家としての技量に優れていただけに、京都の朝廷にも受けが良く、その家格を鼻にかけていた側面があることは容易に想像がつく。では、領主としての義央はどうだったのだろう。領地の三河国幡豆郡吉良荘では、彼が1686年(貞享3年)に築いた黄金堤による治水事業や、富好新田をはじめとする新田開拓などに力を入れるなど善政を敷いて、領民から名君として敬われ、現在でも地元では非常に慕われているのだ。江戸城内でのあの“刃傷”事件がなければ、決して飛びぬけてということではないが後世、善政を敷いた名君の一人と呼ばれていたかも知れない。
だが、現実には1701年(元禄14年)、江戸城内・松の廊下で播州赤穂藩主・勅使饗応役の浅野長矩に刃傷を受け、御役御免、隠居。「喧嘩両成敗」が通り相場の時代に、義央は重い処罰を免れ、徳川五代将軍綱吉の指示で赤穂藩主・浅野長矩だけが即日切腹、お家(赤穂藩)断絶に処せられた。こうした片手落ちの処罰に、江戸の一般庶民は旧赤穂藩士に同情的になり、対照的に義央は敵役=悪役に仕立て上げられた形だ。
将軍綱吉も、一般庶民の気持ち=世論がここまで赤穂藩士に傾くことは想定外だったに違いない。それなら、もっと打つ手はあったと…。播州赤穂藩と比較して、幕府内における様々な人脈、吉良家の家格を重視した上での綱吉の判断だったはずだが、ものの見事に外れてしまったのだ。
そして不幸にも吉良上野介は、翌年12月14日夜半、吉良邸への、大石内蔵助に率いられた赤穂浪士四十七士の討ち入りに遭い、首級を挙げられるという屈辱的な最期を遂げた。この壮挙に江戸の一般庶民は喝采の声を挙げ、赤穂浪士たちは本懐を遂げた。一方、吉良家は後世にも容易に払拭できない、吉良=稀代の悪役という“汚点”を残す破目になった。
(参考資料)村松友視「悪役のふるさと」、菊池寛「吉良上野の立場、」井沢元彦「忠臣蔵 元禄十五年の反逆」、大石慎三郎「徳川吉宗とその時代」