大伴家持は「万葉集」の編纂に大きく関与し、「万葉集」に収められた作品も最も多い奈良時代後期の代表歌人・政治家だ。半面、彼の生涯は時代に翻弄される、波乱に満ちたものだった。家持の赴任地の足跡をみると、南は薩摩から北は陸奥多賀城まで、当時の日本国のほぼ両辺に及ぶ。いかに地方生活が長かったかを物語っている。
名門大伴氏の家名を挽回しようと意欲に満ちた、誇り高い青春時代から、大伴・藤原両氏対立の中で政争に巻き込まれて、失意の中年期を経て、晩年の復活と、死後の一族の悲惨-。信じがたいことだが、死後、家持はある事件に連座させられて、806年(大同1年)まで官の籍を除名されていたのだ。生没年は718(養老2)~785年(延暦4年)。古代、名門豪族だった大伴氏の本拠地は、大和盆地東南部(橿原市・桜井市・明日香村付近)だったらしく、皇室・蘇我氏の本拠と隣接する。
大伴家持は大納言大伴旅人の長男、大納言大伴安麻呂の孫。母が旅人の正妻ではなかったが、大伴の家督を継ぐべき人物に育てるため、幼時より旅人の正妻、大伴郎女(いらつめ)の佐保川べりの屋形で育てられた。だが、その郎女とは11歳のとき、父の旅人とは14歳のとき死別。さらにたった一人の弟、書持(ふみもち)とも29歳のとき死別している。いずれにしても、大伴氏の跡取りとして貴族の子弟に必要な学問・教養を早くから、みっちりと身につけさせられていた。
しかし、出世の道は遠かった。745年(天平17年)にやっと従五位下。751年(天平勝宝3年)少納言。その後、長い地方生活を経て770年(宝亀1年)民部少輔、左中弁兼中務大輔、21年ぶりで正五位下に昇叙した。そして諸官を歴任して781年(天応1年)、右京大夫兼春宮(とうぐう)大夫となり、785年(延暦4年)中納言従三位兼春宮大夫陸奥按察使鎮守府将軍となった。長かった不遇の時代を経て、家持にもようやく春が巡ってきたかにみえた。しかし、彼にはもう残された時間はなかった。同年、任地先の陸奥で、68歳で病没したのだ。
ところが、これで終わりではなかった。死者に鞭打つ残酷なできごとが起こったのだ。家持の死後20日、葬儀も終わらぬうちに、彼は藤原種継暗殺事件の首謀者とされ、除名・官位剥奪・領地没収のうえ、その遺骨が跡取りの永主とともに隠岐に流されるという事態に発展したのだ。無茶苦茶な裁きだったといわざるを得ない。冤罪などというものではない。藤原氏の謀略にはめられてしまったわけだ。そして、家持が晴れて無罪として旧の官位に復したのは、21年後の806年(大同元年)のことだ。
「万葉集」の中で、大伴家持の作品は最も多く、長歌46、短歌425(合作首を含む)、旋頭歌1首、合計472首に上り、万葉集全体の1割を超えている。ほかに漢詩1首、詩序形式の書簡文などがある。防人歌(さきもりのうた)の収集も彼の功績だ。平安時代の和歌の先駆を成す点が少なくない。
(参考資料)梅原猛「百人一語」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」