玉木文之進は「松下村塾」と名付けた塾を開き、長州藩子弟の教育に努めた教育者であり、山鹿流の兵学者だが、吉田松陰の叔父でもあり、松陰を幼少よりスパルタ教育で厳しく鍛え、松陰の人格形成にあたって最も影響を与えた人物として知られる。生没年は1810(文化7)~1876年(明治9年)。
玉木文之進は長州藩士・杉七兵衛の三男として萩で生まれた。1820年(文政3年)、10歳のとき長州藩士で四十石取りの玉木十右衛門正路の養子となって家督を継いだ。今日知られている吉田松陰の「松下村塾」も、元をたどればこの玉木が1842年(天保13年)開いた塾なのだ。後に第三軍司令官・陸軍大将として日露戦争で旅順攻撃を指揮した乃木希典も玉木の薫陶、教育を受けている。
玉木は松陰が19歳で藩校明倫館に出仕するまで、その後見役としてあった。そして後年、松陰がその主義と主張のために罪を受けたときも、彼は最後まで松陰を庇護し、「松陰の学術が純粋でないというなら、まず私から処分せよ」といって政府に迫ったほどだ。硬骨であるとともに、清廉潔白な性格から、郡奉行となって加増などがあると、すぐにその返上を申し出て、余分の収入はすべて治下の農民たちのために使った。まさに武士道に生きた人物といえよう。
1856年(安政3年)には吉田代官に任じられ、以後は各地の代官職を歴任した。1859年(安政6年)、郡奉行に栄進するが、同年の「安政の大獄」で甥の松陰が捕縛されると、その助命嘆願に奔走した。しかし松陰は処刑され、それに連座して1860年(万治元年)、代官職を剥奪された。
1862年(文久2年)、奉行として復帰し、1863年(文久3年)からは代官として再び藩政に参与した。藩内では尊皇攘夷派として行動し、1866年(慶応2年)の第二次長州征伐では萩の守備を務めた。1869年(明治2年)には政界から退隠し、再び松下村塾を開いて子弟の教育に努めている。
ところが、玉木の教育者としての心静かな生活が一変する事件が起こる。1876年(明治9年)、前原一誠が萩で新政府に対して兵を起こした。「萩の乱」だ。この不平士族の反乱に養子の玉木正誼や、松下村塾の門弟の多くが参加したため、彼は律儀にもその責任を取る形で、先祖の墓前で自害した。
こうした事実だけをつなぎあわせると、萩の乱に連座した形で責任を取ることに本人は納得していたのか?と考えるが、実際は違うようだ。前原一誠が蜂起した際、指摘したように内治、外交に新政府は失敗が多い。内治は地租改正のため、農村の純朴な風が失われてきた。士族から武器を取り上げて四民平等などといっているが、禄高まで取り上げて、その後に何の定職もない多くの犠牲者をつくりだした。そして、政府の高官は商人と結託して巨万の富を私している。外交の面でいえば、千島・樺太の交換など大変な不利益をもたらして、それを少しも悔いようとしないなど、納得できないことばかりなのだ。それらを指摘する前原の直情径行なところが、松陰によく似ていて好ましかった。それに前原は松陰再下獄のとき、真っ先に立って政府にその非を糾弾している。そのために罰まで受けている。
玉木文之進の切腹、それはまさに維新の原動力だった一つの思想の終末だった。長州藩の下級武士として生まれ、尊皇・攘夷の大義に則ってその道をまっしぐらに進んだ男。松陰を教育することによって、その大義は長州のみならず、四方に影響を及ぼした。それが大藩・毛利家の幕末乱世をリードする根本になったことはいうまでもない。
(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」、司馬遼太郎「世に棲む日日」