徳川斉昭は幕末、第九代水戸藩主として藩政改革に成功した名君の一人だ。海防参与、軍制改革参与などを務め幕政にも関与したが、将軍継嗣問題と米国との通商条約調印問題などで大老・井伊直弼と対立。謹慎を命じられ幕府中枢から排除された。
また、攘夷決行を巡って尊王思想の「水戸学」の本家、水戸藩に密勅を下されたことが大老・井伊直弼の逆鱗に触れ、斉昭は水戸での永蟄居を命じられ、事実上政治生命を断たれた形となった。そして、蟄居処分が解けないまま、心筋梗塞により急逝した。諡号・烈公の通り、気性の激しい、強烈な個性が災いし、死期を早めたとみられる。
徳川斉昭は水戸藩第七代藩主・徳川治紀の三男として、水戸徳川家の江戸小石川藩邸で生まれた。幼名は虎三郎、敬三郎。諡号は烈公、字は子信。号は景山、潜龍閣。徳川第十五代将軍慶喜の実父。妻は有栖川宮熾仁親王の皇女、登美宮吉子。斉昭の生没年は1800(寛政12)~1860年(万延元年)。
斉昭は幼少時から会沢正志斎のもとで、尊王思想「水戸学」を学び、聡明さを示した。1829年(文政12年)、長兄で第八代藩主・徳川斉脩の死後、家督を継ぎ、第九代藩主となった。この際、大名昇進を画策する附家老の中山信正を中心とした門閥派より、徳川第十一代将軍家斉の第20子・恒之丞(徳川斉彊)を養子に迎える動きがあったが、これを抑えて下士層の支持を得た。
斉昭は藩校「弘道館」を設立し、下士層から広く人材を登用することに努めた。こうして戸田忠太夫、藤田東湖、安島帯刀、会沢正志斎、武田耕雲斎、青山拙斎ら、斉昭擁立に加わった比較的軽輩の武士を用い、藩政改革を断行した。1837年(天保8年)、斉昭が掲げた改革骨子は1.経界の義(全領検地)2.土着の義(藩士の土着)3.学校の義(藩校弘道館及び郷校建設)4.総交代の義(江戸定府制の廃止)-だ。また、「追鳥狩」と称する大規模軍事訓練を実施したり、農村救済に稗倉の設置などに取り組んだ。このほか、幕府に蝦夷地開拓や大船建造の解禁などを提言している。その影響力は幕府のみならず、全国に及んだ。
斉昭は1844年(弘化元年)子の慶篤(よしあつ)に藩主の座を譲る。だが、決して楽隠居するためではなかった。その後は、自ら提言することも含め、幕政に様々な形で関与していく。海外の列強諸国の動きを見据え、恐らく性格的に幕政を黙視していることができなかったのだろう。
1853年(嘉永6年)、ペリーの浦賀来航に際して、老中首座・阿部正弘の要請により、海防参与として幕政に関わったが、水戸藩の立場から斉昭は強硬な攘夷論を主張した。このとき江戸防備のために大砲74門を鋳造し、弾薬とともに幕府に献上している。1855年(安政2年)、軍制改革参与に任じられるが、同年の「安政の大地震」で藤田東湖や戸田忠太夫らのブレーンが事故死してしまうなどの不幸に遭った。そして、その後は誇らしい場面で脚光を浴びることはなかった
1857年(安政4年)、阿部正弘が急死して、堀田正睦が老中首座になると、開国論に対して斉昭は猛反対し、開国を推進する大老・井伊直弼と対立。また、十三代将軍家定の継嗣に実子の一橋慶喜が候補に上ると、紀州・慶福派(のちの徳川十四代将軍家茂)に対する、一橋派の黒幕として登場。今度は大老・井伊直弼と対立し、謹慎、水戸での永蟄居を命じられ、事実上政治生命を断たれた。「安政の大獄」だ。そして、無念の思いが高じてか、激しい気性が災いし、蟄居処分が解けないまま急逝した。死因は心筋梗塞と伝えられる。
(参考資料)中嶋繁雄「大名の日本地図」、童門冬二「私塾の研究」