1613年(慶長18年)、仙台藩主・伊達政宗は、家臣の支倉常長をヌエバ・エスパニア(現在のメキシコ)との直接通商交渉を目的とし、メキシコ経由で、スペインおよびローマへ派遣した。一行は日本人とスペイン人合わせて180人余り。この偉大な業績は「慶長遣欧使節」の名称で知られ、「天正遣欧少年使節」と並んで、日本の対外交渉史ならびにカトリック史上の画期的な事績として扱われる。
しかし、その遣欧使節の実態については、とくにこの副使を務めた支倉常長の帰国後の暮らしぶりとともに、あまり知られていない。出国直後から、不幸にも日本国内でのキリスト教に対する環境が急速に悪化したこともあって、常長の存在そのものが江戸時代の歴史から消えてしまうのだ。
支倉常長は山口常成の子として生まれた。幼名は与一。初名は六右衛門長経。洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ。常長は子供に恵まれなかった伯父支倉時正の養子となった。ところがその後、時正に実子・久成が生まれたため、伊達政宗の主命で家禄1200石を二分し600石取りとなった。
1609年(慶長14年)、前フィリピン総督ドン・ロドリゴの一行がヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)への帰途台風に遭い、上総国岩和田村(現在の御宿町)の海岸で座礁難破した。地元民に救助された一行に、徳川家康がウイリアム・アダムス(三浦鞍針)の建造したガレオン船を贈り、ヌエバ・エスパーニャへ送還した。このことをきっかけに、日本とエスパーニャ(スペイン)との交流が始まった。
伊達政宗の命を受け、支倉常長はエスパーニャ人のフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを正使に、自分は副使となり、遣欧使節として通商交渉を目的に180人余を引き連れ、スペインを経てローマへ赴くことになった。石巻で建造したガレオン船サン・ファン・バウティスタ号で1613年(慶長18年)、月ノ浦を出帆。ヌエバ・エスパーニャ太平洋岸のアカプルコへ向かった。アカプルコから陸路大西洋岸のベラクルスに、ベラクルスから大西洋を渡り、エスパーニャ経由でローマに至った。常長はマドリードの修道女院の教会で洗礼を受けた。
ただ、当時はやむを得ない側面もあったが、この外交使節には大きな成果を得るには限界があった。それは外交文書の作成から外交交渉まですべてを使節一行の正使で通訳兼案内役を務めたルイス・ソテロに任せていた、他力本願型の外交姿勢にあった。伊達政宗は当時の海外事情に精通していなかった。また、常長ら派遣された一行も自らスペイン語やイタリア語を修得して独自の外交手腕を発揮しようという意欲を持たず、ソテロから指示されるまま行動しただけだった。
そのため、一行は1615年(慶長20年)、エスパーニャ国王フェリペ3世に、そしてローマへ入り、ローマ教皇パウルス5世に謁見したが、スペインとの交渉は成功せず、1620年(元和6年)帰国した。
伊達政宗の期待のもと出国した常長だったが、不幸にも出国直後から日本国内でのキリスト教に対する環境は急速に悪化した。常長の帰国後の扱いを危ぶむ内容の政宗の直筆の手紙が残されている。果たして政宗が危惧した通り、常長が帰国したとき日本はすでに禁教令が出されており、歴史上、彼が果たした偉業とは裏腹に、キリシタンの洗礼を受けた彼はひっそりと暮らしていたらしく、失意のうちに死んだ。というのも常長の前半生と晩年について、確実なことはほとんど分からないのだ。こうして常長は江戸時代の歴史から消えてしまう。
不幸はまだ続く。1640年(寛永17年)、常長の息子の常頼は、召使がキリシタンだったことの責任を問われて処刑され、名門支倉家は断絶した。1668年(寛文8年)常頼の子の常信の代に、ようやく赦されて家名を再興することができた。仙台藩においては、主命により引き起こされた事態であるため忸怩(じくじ)たるものがあったようだ。
時を経て、支倉常長の偉業が再び世に出る。それは明治維新後、岩倉具視が欧米視察団としてイタリアを訪れた際、「支倉」の署名が入った文書を発見したからだ。
常長らが持ち帰った「慶長遣欧使節関係資料」は仙台市博物館に所蔵されており、2001年(平成13年)に国宝に指定されている。その中には常長の肖像画があり、日本人を描いた油絵としては最古のものとされる。
この遣欧使節の名目上の目的は通商だったが、本当の目的は当時世界最強国だったエスパーニャ(スペイン)を味方につけ、天下を覆そうという壮大な政宗の計画が秘められていたという説もある。確固たる史料が残っているわけではないので、あくまでも推測の域を出ないのだが…。
(参考資料)大泉光一「支倉常長 訪欧の真実」、遠藤周作「侍」