伊能忠敬は19世紀の初頭、それまでは存在しなかった日本全土の精密地図を、50歳を過ぎてから取り組んだ第二の人生でほぼ独力でつくり上げた。その基本となるのが上記の「緯度一度の距離を測る」ということであった。
といっても、実測する以前に難しい点や高いハードルがいくつもあった。周知の通り、徳川時代は「幕藩体制」で「中央集権と地方自治の混合時代」だ。幕末時点でも全国に280の大名家・藩があり、藩と藩との間には厳しい国境が設けられ、関所がつくられていた。人の出入りや、ものの流れのチェックが、現在ではとても信じられないほど厳しい時代だった。
また、固く確立した「士農工商」の身分制があった時代のことだ。「一農民が何人もの大名の領地に入って、いろいろと測量することは大きな反発を招く」というわけだ。そこで、忠敬の身分は「公儀お声掛り」という幕府公認の測量者という体裁がつくられた。
忠敬は寛政12年(1800年)、55歳のときから文化13年(1816年)、71歳のときまで16年間にわたり10回もの日本国内測量を続けた。測量のために歩いた距離は4万3000・・。地球を一周してなお、おつりのくる長さだ。総日数3753日にもなる測量の旅で、第一の人生で家業立て直しや村政で培った合理主義と創意工夫で問題を一つ一つ解決しながら、測量法や測量機器の改善を重ねて、精密な「大日本沿海輿地全図」を完成させた。
ただ、残念なことに忠敬は自分の手では完成させることはできなかった。文政元年(1818年)、持病のぜんそくが悪化し、忠敬は74歳の生涯を閉じる。それから3年後、忠敬の測量による「大日本沿海輿地全図」が、門人たちの手で幕府に納められた。
だが幕府はこの地図を公開せず、秘蔵してしまう。「伊能図」の優秀さが世界に知られるのは、それから40年後のことだ。文久元年(1861年)、来日した英国の測量艦隊は、幕府から派遣された役人が所持していた伊能小図を見て、その精密さに驚嘆した。
そのため、その測量艦隊は改めて測量する必要がないと判断。それを写させてもらい、日本近海の深さだけ測って帰ってしまったという。明治になっても、陸軍参謀本部測量局が作成した20万分の1の地図の中心となったのは、伊能中図だった。
「人生わずか50年」といわれた200年も前に、50歳を過ぎて新しい学問に取り組み、これをマスター。そして、日本列島北から南までのほとんどを踏査、また独自に測量機器に改善を加えながら、当時の外国人からみても驚嘆するほどの精密な日本地図を完成させた伊能忠敬のすさまじいエネルギーには脱帽するしかない。
(参考資料)童門冬二「伊能忠敬 生涯青春」、加来耕三「日本創始者列伝」