大田垣蓮月 天性の美貌に恵まれながら結婚運に恵まれず尼僧に
大田垣蓮月(おおたがきれんげつ)は江戸時代末期の尼僧歌人・陶芸家だ。彼女は天性の美貌に恵まれながら、結婚運あるいは家庭運には恵まれなかった。そのため、33歳のころ剃髪、42歳のころ俗世の縁を断ち切り得度、洛東・岡崎村の山中に草庵を結び、初めて安心立命の境地に達し、その後は幕末の京に住まいながら、動乱の時代とはほとんど無縁で、陶芸と歌を詠み生涯を全うした。
大田垣蓮月は、伊賀上野城代家老職、藤堂新七郎良聖(よしきよ)の庶子という。俗名は誠(のぶ)。菩薩尼、陰徳尼とも称した。蓮月の生没年は1791(寛政3)~1875年(明治8年)。生後すぐ京都知恩院の坊官、大田垣伴左衛門光古(みつひさ/てるひさ)の養女となった。7、8歳のころ丹波亀山藩の京屋敷に奥勤めとして奉公し、薙刀ほか諸芸を身に付けた。1807年(文化4年)、17歳のとき大田垣家の養子、望古(もちひさ)と結婚。一男二女をもうけたが、いずれも夭折した。夫の放蕩により、1815年(文化12年)離婚し、京都東山の知恩院のそばに住んだ。
1819年(文政2年)、29歳のとき、大田垣家に入家した古肥(ひさとし)と再婚し一女を得たが、4年後夫は病没。葬儀の後、養父とともに知恩院で剃髪し、蓮月を称した。2年後、7歳の娘を失い、さらに1832年(天保3年)42歳のとき養父を亡くした。こうしてみると、前世からの何か、得体の知れない宿縁でもあるかのように、次から次へと不幸が彼女を襲う。このように蓮月は一人取り残され、精神的に寂寥のうちにあったが、天性の美貌ゆえ、その後も言い寄る男が後を絶たない。しかし、養父が亡くなった1832年(天保3年)ごろ、俗世の縁を断ち切ることを決意して得度。洛東・岡崎村の山中に草庵を結んで、初めて安心立命の境地に達することができた。
このころ、山中の草庵で詠んだ歌がある。
「山里は松の声のみ聞きなれて 風吹かぬ日は寂しかりけり」
山里の寂しさを歌うようでいて、その実、その静けさの中に澄み切った心を委ねて穏やかに暮らしているさまがよく表現されている。
その後、蓮月は岡崎、粟田、大原、北白川などを転々とし、急須、茶碗などを焼いて生計を立てた。彼女は引っ越し魔として知られ、三十数回も居宅を変えているが、愛する人々の墓参りのために、そして陶芸の土を確保するため、岡崎近傍を離れることはなかった。
やがて、その名は高まり自作の和歌を書き付けた彼女の陶器は「蓮月焼」と呼ばれて人気を博するようになった。しかし、自身は質素な生活を続け、飢饉の際には30両を匿名で奉行所に喜捨したり、資財を投じて賀茂川の丸太町に橋を架けたりしたという。1867年(慶応3年)、西賀茂の神光院の茶所に間借りして境内の清掃と陶器制作に日を送り、1875年(明治8年)85歳で亡くなった。
蓮月は、和歌は上田秋成、香川景樹に学び、小沢藘庵に私淑したという。穂井戸忠友、橘曙覧(あけみ)、野村望東尼らと交流があった。なお、後に画家として名を成す富岡鉄斎は、蓮月尼老年の侍童だ。1868年(明治元年)、『蓮月高畠式部二女和歌集』が出版され、1871年(明治4年)には近藤芳樹編の家集『海女の刈藻』が刊行された。
蓮月の代表作として次の歌が知られている。
「宿かさぬ人のつらさを情(なさけ)にて おぼろ月夜(づくよ)の花の下臥(ぶ)し」
旅の途中で野宿せざるを得なかったとき、人の無情を恨むのではなく、むしろ月を眺めながら花を友として寝ることを喜びと感じられる心の豊かさを持っていたのだ。
「願はくばのちの蓮の上に くもらぬ月をみるよしもがな」
これは、蓮月の名を詠み込んだ辞世だ。没後、死出の装束とともに用意されていた蓮と月の絵に、画賛として誌されていた。
蓮月の出自に別説がある。作家の澤田ふじ子氏によると、蓮月の父は伊賀上野ではなく津藩主の藤堂高猷(たかゆき)の縁者で藤堂良聖(よしきよ)といい、母は不明。洛中の河原町丸太町東入ルで生まれたという。そこは、三本木と俗称される花街の住所だから、要するに母は三本木芸者だったのだ。それなら、蓮月が置屋で生まれて寺侍の養女となり、少女時代に丹波亀山藩の京屋敷に奉公に出たという経歴もスムーズに理解できる。
(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」