以仁王 平家追討の「令旨」を全国の源氏に発し、平家崩壊の端緒つくる

以仁王 平家追討の「令旨」を全国の源氏に発し、平家崩壊の端緒つくる

 以仁王(もちひとおう)は、皇位継承の有力候補だったが、後見していた母方の伯父の失脚、そして父・後白河法皇とも疎遠だったことが大きく響き、異母弟・憲仁親王(後の高倉天皇)にその座を奪われた。しかし、周知の通り、平家追討の「以仁王の令旨(りょうじ)」を全国の源氏に発し、平家打倒へ向け武装蜂起を促した。計画が事前に露見し、準備不足もあって、最初に挙兵した以仁王、源頼政らは結局敗れ去った。が、これを機に平家打倒の烽火(のろし)は各地に広がり、平家崩壊の端緒となった。以仁王の生没年は1151(仁平元)~1180年(治承4年)。

 以仁王は後白河天皇の第三皇子。母親は閑院家・藤原季成の娘、成子。邸宅が三条高倉にあったことから高倉宮と称された。同母妹に歌人として名高い式子内親王がいる。祖父・季成は藤原北家の枝流で、御堂関白道長の叔父・公季を祖とする閑院家の分家、三条氏を称する一族だ。摂関家とは勢威を比べようもないが、王朝末期には後宮を独占する実力があった。ところが、平家の権勢が増していく中で、後白河院の寵愛は建春門院・平滋子に移り、高倉三位局は女御に昇れず、後白河院との間の子女たちもおのずと冷遇されていったのだ。以仁王が後白河院の皇子でありながら、親王宣下(しんのうせんげ)も受けられなかった原因もそこにあった。

 以仁王は幼くして天台座主・最雲法親王の弟子となったが、1162年(応保2年)、12歳のとき最雲が亡くなり、還俗。1165年(永万元年)15歳のとき、人目を忍んで近衛河原の大宮御所で元服したという。その後、八条院暲子内親王の猶子となった。彼は幼少時から英才の誉れが高く、学問や詩歌、とくに書や笛に秀でていた。以仁王は本来、皇位継承においても有力候補のはずだった。ところが、異母弟・憲仁親王の生母・平滋子(建春門院)の妨害に遭って阻止された。とくに1166年(仁安元年)、彼の後見役だった母方の伯父、藤原公光が突如、権中納言・左衛門督を解任され、失脚したことで、以仁王の皇位継承の可能性は消滅した。

 1179年(治承3年)、平氏のクーデターにより、後白河法皇が幽閉される事態となった。以仁王も長年知行してきた常興寺領を没収された(治承3年の政変)。こうした状況を睨み合わせ、平氏の専横も極まったとみて、以仁王に平家打倒を説いたのが、当時齢77歳の老武将、源頼政だった。頼政は「保元の乱」(1156年)で後白河天皇方につき、「平治の乱」(1159年)では清盛方につき、源氏一門が敗北した後も、源氏でただ一人、宮廷社会を生き抜いた、したたかな人物だ。

  以仁王は1180年(治承4年)、遂に平家討伐を決意した。彼は源頼政の勧めに従って、平家追討の「令旨」を各地の源氏に発した。そして、平家打倒の挙兵、武装蜂起を促したのだ。後白河院の皇子でありながら、冷遇され日の当たらない人生を余儀なくされた以仁王だが、こうして「以仁王の令旨」は時代を変える、そして歴史にその名を刻み込む、大きな決断となった。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」

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