大山巖は軍人として華麗な一生を送った。日清戦争では陸軍大将として第二軍司令官、日露戦争では元帥陸軍大将として満州軍総司令官に就任。ともに日本の勝利に大きく貢献した。元老としても重きを成したが、政治的野心や権力欲は乏しく、元老の中では西郷従道と並んで総理候補に擬せられることを終始避け続けた、この時代にあっては珍しい清廉な人物だ。生没年は1842(天保13)~1916年(大正5年)。
大山巖は薩摩国鹿児島城下加治屋町柿本寺通(下加治屋町方限)で薩摩藩士・大山彦八綱昌の次男として生まれた。幼名は岩次郎。通称は弥助。雅号は赫山、瑞岩。字は清海。大山が生まれた家は、西郷隆盛の家の筋向いの家の裏にあった。西郷隆盛・従道兄弟とは従兄弟にあたり、西郷家とは生涯にわたって親しく、とくに従道とは親戚以上の盟友関係にあった。
大山の風貌には西郷隆盛に通ずるところが多い。人間的度量においても両者共通する大きさを感じさせ、大山は西郷の偉大さに影響を受けている。藩内の有馬新七らに影響されて過激派に属し、倒幕運動に参加したが、1862年(文久2年)、寺田屋事件では公武合体派によって鎮圧され、大山は帰国、謹慎処分となった。また前年の生麦事件の報復として1863年(文久3年)起こった「薩英戦争」では西欧列強の軍事力に強い受け、幕臣・江川太郎左衛門の塾で砲術を学んだ。「弥助砲」と呼ばれる大砲を開発するなど戊辰戦争では新式銃隊を率いて、鳥羽伏見や会津などの各地を転戦。討幕運動に邁進した。
明治維新後の1869年(明治2年)、大山は渡欧して普仏戦争などを視察。1870(明治3年)~1873年(明治6年)の間はジュネーブに留学した。陸軍では順調に栄達し、西南戦争はじめ相次ぐ士族の反乱を鎮圧した。西南戦争では政府軍の指揮官として、従兄の隆盛を相手に戦ったが、大山はこのことを生涯気にして、二度と鹿児島に帰ることはなかったという。
日清・日露の両戦争では日本の勝利に大きく貢献し、同じく薩摩藩出身の東郷平八郎と並んで「陸の大山、海の東郷」といわれた。大山は元帥陸軍大将として頂点を極めた。
明治中期から大正期にかけて、第一次伊藤博文内閣から第二次松方正義内閣まで、陸軍大臣を長期にわたって務め、また参謀総長、内務大臣なども歴任。元老としても重きを成し、陸軍では山縣有朋と並ぶ大実力者となったが、政治的野心や権力欲は乏しく、終始、総理候補に擬せられることを避け続けた。当時としては稀有な、清廉な人物だった。
周知の通り、真の西郷隆盛の肖像画というものは残っていない。もちろん写真もない。西郷の肖像画として紹介されているものは後にモデルを使って描かれたものだ。大山はその何点かある西郷の肖像画のモデルとなった人物の一人だ。また大山夫人は、日本人女性で最初に大学を卒業し、「鹿鳴館の貴婦人」と呼ばれた女性、旧姓山川捨松だ。
(参考資料)文藝春秋編「翔ぶが如くと西郷隆盛」、司馬遼太郎「この国のかたち 一」