榎本武揚・・・幕臣で初めて海軍最高位・海軍中将になった男

 日本で初の陸軍大将になったのは西郷隆盛だ。そしてその頃、海軍の最高位の海軍中将に初めて任じられたのが榎本武揚だった。西郷は維新の元勲の一人だから当然としても、榎本は幕府海軍の司令官として、箱館五稜郭で官軍と戦った、敵将の一人だ。本来なら敗れた時、自刃していてもおかしくない。それが、後に海軍中将となり外務大臣となったのだから、これほど数奇な人生ドラマを体験した人は少ないだろう。

彼はまた海軍軍人であるとともに、技術官僚(テクノクラート)であり外交官であり、英・蘭・仏・独・露の五カ国語に通じ、さらに国際法から鉱物学、化学、地質学、気象学、電信技術に通じた第一級の人物だった。箱館五稜郭戦争で官軍の参謀、黒田清隆らが榎本の才能を惜しみ、維新後に必要な人材として降伏を勧めたのもうなずける。

 榎本武揚は天保7年(1836)8月25日、江戸下谷御徒町で、幕臣榎本円兵衛の次男として誕生した。幼名は釜次郎。父はもともと備後国安那郡箱田村(現広島県)の郷士で箱田円兵衛武規といったが、向学心に富んでいたので、江戸へ出て伊能忠敬の内弟子となった。そして彼は1000両出して御徒士で5人扶持55俵の禄高の榎本家の株を買って、榎本武兵衛の娘婿となって、幕臣の端くれに加わった。文政6年円兵衛は幕府の天文方に出仕する身となった。

文政10年、榎本の家付き妻が病死したため、後妻を迎え、その間に鍋太郎、釜次郎の二人の子供が生まれている。「鍋」と「釜」がついていれば生涯、食いっぱぐれがないだろう-というのが命名の理由と伝えられている。

釜次郎(後の武揚)は、儒者にしたいという父の願いで幕府の学問所に入学したが、途中で断念して技術関係に進みたいと考えるようになった。そして19歳の時、蝦夷地巡見使となった堀織部正の従者として蝦夷地へ赴く。幕臣の中では開明派に属する堀織部正は幕末初の外務官僚で、この良き先輩と北方領域を旅したことが、釜次郎の後半生を決定づける。

 安政3年(1856)、21歳の時、榎本は長崎に新設された海軍伝習所入りを命じられて、勇躍長崎へ向かう。幕臣ばかりでなく、薩摩から16名、長州15名、佐賀47名など各藩から優秀な人材が選抜されて入所した。幕府派遣の45名の中に勝麟太郎が加わっていた。ここで彼は航海と造船、砲術、機関術と測量術といった技術を修得する。

 文久元年11月、榎本らのアメリカ留学が決定された。ところが、当時アメリカで南北戦争(1861~65年)が勃発し、アメリカ政府は幕府からの軍艦注文と留学生受け入れを断ってきた。そこで、幕府は方針を変え、文久2年3月にオランダへ蒸気軍艦1隻の建造を注文し、同時に先に決定していた留学生を改めてオランダに派遣することを決めた。榎本27歳のときのことだ。15名の日本人留学生は文久3年4月の品川出港以来、11カ月の長旅の後、ロッテルダムに到着。その後、慶応2年(1866)までオランダで海軍軍人として必要な学科と実務を修得した。

 帰国した榎本は、幕府がオランダに発注し同国からの帰途、乗船した軍艦、開陽丸の船将を命じられた。榎本は32歳になっていた。この後、鳥羽・伏見の敗戦を経て幕府軍の立場は急転、十五代将軍慶喜が戦意喪失したため、薩長討幕派=官軍の前に防戦一方となった。江戸城での大評定で主戦派の小栗上野介を退け、和平派の勝安房守が主導権を手中にし若年寄、陸軍総裁に任命され、榎本は海軍副総裁となった。

勝が西郷隆盛東征軍参謀と江戸城明け渡しの交渉を進めているとき、榎本は艦隊を率いて抗戦すべく品川沖を出航した。そして、勝の制止、説得を振り切り、箱館五稜郭戦争まで突っ走ることになる。
 勝と榎本は共に外国をみてきているので、閉ざされた幕政のままでは、いよいよ日本は遅れるばかりと悟っていたはずだが、変わり身の速い、いわば先見性の豊かな勝に対して、榎本は現職に固執する融通の利かなさを多分に持っていた。政治家・勝に対して、技術家・榎本は幕府艦隊の長官という立場にこだわって、明治維新という時代の変化に乗り遅れたばかりか、むしろ取り残されてしまった。

 箱館五稜郭戦争での降伏、2年間の牢獄生活を経て明治41年、73歳で亡くなるまで、明治13年に海軍卿、後に初代逓信大臣、子爵、農商務大臣から外務大臣、枢密顧問官などを歴任した。彼は歴史の中心に位置した輝ける男の一人として終始した幸運児でもあった。

(参考資料)加茂儀一「榎本武揚」、邦光史郎「物語 海の日本史」 

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