岩倉具視は幕末、王政復古を策した維新の元勲だが、人気の乏しい政治家の一人だ。この点は大久保利通も同様だが、いろいろな毀誉褒貶をかなぐり捨て、非常に緻密な計算を立てて、しかも国家百年の大計みたいなものを見通すと同時に、絶えずいろいろな情報を集めて、その中で自分はどう動くかという役割をしっかりと踏まえて生きた。日本の宮廷政治家の中で、これほどしたたかに権謀術数を思うままに駆使した人は、後白河法皇と岩倉具視の2人だろう。
岩倉具視は幕末、幕府の威信が低下、幕閣で公武合体で乗り切ろうとする動きが活発になってきた頃から表舞台に登場し、途中5年間ほどの蟄居生活を送った期間はあったが、下級公家の出でありながら、朝廷内で指導的な立場を保持して伸し上がり、明治天皇の御世には京都朝廷の中は彼の独壇場だった。
岩倉具視は公卿・堀河康親(180石の下級貴族)の次男として京都に生まれた。幼名は周丸(かねまる)、号は対岳。謹慎中の法名は友山。贈太政大臣、贈正一位。生没年は1825(文政8年)~1883年(明治16年)幼い頃から朝廷儒学者、伏原宣明に入門。伏原は岩倉を「大器の人物」と見抜き、岩倉家への養子縁組を推薦したという。1838年(天保9年)、満13歳のとき、岩倉家の当主岩倉具慶の養子となる。伏原から具視の名前を選んでもらい「岩倉具視」となった。
岩倉家の家格は村上源氏久我家の江戸時代の分家で、新家(安土桃山時代あたりから設立された公家の家柄)と呼ばれる150石の下級の公家だ。代々伝わる家業(歌道・書道など家業がある公家は家元して免状を与える特権があり、そこから莫大な収入が見込めた)も、とくになかったので、家計は大多数の公家と同様、常に裕福ではなかったという。
1854年(安政元年)、歌を詠むことを口実に、五摂家の一つ、鷹司政通に取り入り、その推挙により遂に孝明天皇の侍従の地位を獲得する。岩倉、30歳のことだ。それはペリーが日米和親条約締結に成功した年だ。1858年(安政5年)、米国はさらに日米通商条約を政府に迫った。窮地に立った幕府は、条約締結の勅許を求めて、老中堀田正睦を京都朝廷のもとに送る。岩倉が公家の中で頭角を表すのがこの時だ。
岩倉は幕府の苦境に乗じて、朝廷の権威回復を図ろうと考えた。そして、日米通商条約の勅許が幕府に下されるのを阻止すべく立ち上がるのだ。中山忠能を先頭とする条約調印に反対の立場の公卿88人が参内して、勅許に抗議する阻止行動がそれだ(八十八卿列参事件)。列参は慣習違反というか違法行為だが、岩倉は必要なら直接、武家と接触したり、平気で禁令など乗り越えられる、枠に捉われない人物だった。彼は一晩に100人の公卿を訪問し説得して回ったという。岩倉の策謀は成功し、勅許は下されなかった。その結果、時の大老井伊直弼の独断での条約調印となってしまったのだ。
岩倉は生涯に何度か歴史を動かす意見書を提出しているが、中でも知名度の高いのが『和宮御降嫁に関する上申書』。これは、孝明天皇が岩倉を召して諮問した際に答えたものだ。この上申書で岩倉は、今回降嫁を幕府が持ちかけてきたのは幕府の権威がすでに地に落ち、日に日に人心が離れていることに幕府自身が気付いており、ここで朝廷の威光を借りて幕府の権威を何とか粉飾しようという狙いがあると分析。
岩倉は今は「公武一和」を天下に示すべきとし、政治的決定は朝廷、その執行は幕府があたるという体制を構築すべきだ。そして朝廷の決定事項として「条約の引き戻し(通商条約の破棄)」がある。したがって、今回の縁組は幕府がそれを実行するならば特別に許すべきと結論した。幕府の政略結婚の申し入れに、孝明天皇はじめ宮中の要人は強硬に反対を唱えたが、岩倉はひとり和宮降嫁に賛成したのだ。
1867年(慶応3年)、岩倉は蟄居生活から5年ぶりに赦されて、宮中に参与として復帰。王政復古のクーデターが起こったのは、まさにその日だった。西郷隆盛、大久保利通、そして岩倉が首謀者だった。薩摩、土佐、尾張、安芸、越前の兵が、一挙に京都御所を押さえ、「王政復古の大号令」を発したのだ。
しかし、その夜行われた将来の方針を決める、いわゆる小御所会議では徳川慶喜の「辞官納地」をめぐる賛否で意見が対立。会議は深夜に及んだが、岩倉側が押し切り慶喜の辞官納地を決めた。幕府側はこれを不服とし、兵を挙げる。鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争だ。しかし、時代の大勢はすでに決まっていた。
明治維新後の岩倉は、その死に至るまで天皇の権威確立と保持に心を砕いた。明治憲法の骨子も彼によって作られた。明治維新は大久保なしでは成功しなかった。と同時に大久保と呼応する形で、朝廷の側に岩倉がいなければ薩長対幕府という武力政権同士の争いで大混乱し、収拾のつかない争いに終わっていたかも知れない。
明治新政府の閣僚決定に際して、岩倉は最高位の太政大臣に自分より身分の高い公家、三条実美を推し、政治の実権は大久保利通に任せ、自らは表に立つことはなかった。1883年(明治16年)、岩倉は59歳でこの世を去った。彼の葬儀は国葬の第一号として、盛大に行われた。
(参考資料)奈良本辰也「歴史に学ぶ」、城山三郎・小西四郎「日本史探訪/幕末の英傑たち」、奈良本辰也「幕末維新の志士読本」、奈良本辰也「男たちの明治維新」、豊田穣「西郷従道」