平清盛・・・日本初の武家政権を開き、武士では初の太政大臣を務めた人物

 平清盛は平安時代、周知の通り日本で初めて武家政権を開いた人物だ。保元・平治の乱を経て、源氏との戦いに勝利した、清盛の率いる平家はその後、旭日昇天の勢いで勢力拡大していくことになる。清盛は8年間に、正四位から従一位へ、ポストは左右大臣を飛び越えて、武士では初めて太政大臣となった。『源平盛衰記』によると、一門の栄達も重盛の内大臣をはじめ、公卿16名、殿上人30人余、その他の国司や衛府の武官は80人余にも達した。

 また、娘の徳子を高倉天皇の「中宮」として参内させ、皇子をもうけるや1歳3カ月の幼帝(=安徳天皇)を誕生させた。清盛は天皇の外祖父となり、朝廷内に閨閥を張り巡らせ、天下の権を掌中にした。まさに、“平氏にあらずんば人にあらず”(『平家物語』)といわれたほどの隆盛ぶりだったのだ。

 ただ、清盛は新しい世の中のしくみをつくり変えるまでの意欲を示し得ぬまま、旧来の王朝政治を踏襲しつつ、多少の“繕い”を施したにとどまった。そのため、本格的な武家社会の構築は、次代の鎌倉幕府・源頼朝に委ねられた。

 平清盛は、伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡子として、伊勢産品(うぶすな、現在の三重県津市産品)で生まれた。生母は不明だが、祇園女御の妹という説が有力だ。母の死後、祇園女御の猶子になったといわれる。この祇園女御の庇護の下に育ったことから、清盛は一説には白河法王の落胤ともいわれる。清盛、浄海などに改名。別名・平大相国(たいらのだいしょうこく)、六波羅殿、福原殿、清盛入道などとも呼ばれた。清盛の生没年は1118(元永元)~1181年(治承5年)。

清盛の父、忠盛が死去し平氏の棟梁となったとき、清盛は36歳だった。時代はまさに大きな転換期を迎えていた。奈良朝から平安時代にかけて、日本は公地・公民の制度を政治の根幹としてきたが、長い泰平はいつしかこの基本をタテマエにすりかえてしまった。中央の貴族や大寺院・大神社などは、己れの特権を活かして、“荘園”という名目の私領をつくり、増やすことに熱中した。

そのため、中央での出世を諦めた官僚たちは、地方の役人として天下り、官権を利用して公民を使役し、原野を開墾したり、公地を詐取して、さらには婚姻政策で勢力を拡大。そうして得た領地(荘園)を、朝廷の権力外にある、勢力ある公卿や神社仏閣に寄進し、自らはその管理人となった。

 もちろん、このしくみは名目に過ぎない。寄進とはいえ、名義料的年貢を納入することで、国家の課税や課役を免れるのだから、その貯えは莫大なものになった。こうして全国に無数の在地地主(後の武士)が誕生した。その一方で、藤原氏の摂関政治に代わって、退位した天皇(上皇)が院庁を開き、“治天の君”と呼ばれ、朝廷の政治権力を掌握するシステム「院政」が生まれていた。

 平安時代末期、先の平治の乱では平氏に敗れたものの。東国武士団の頭領として源氏が登場、源義経など天才的な軍略家を輩出。配下の武将にも戦場で大活躍する多くの名将が出てくる。しかし、この清盛は戦場での名将とは言い難い。むしろ戦術を政略とからめて考察するタイプの武将だった。彼は終始、朝廷の機嫌を取り、次の後白河法皇による院政ではその保護を得て、前代未聞のスピードで昇進し、権力の座へかけ昇っていった。1167年に太政大臣となり、1171年に娘の徳子を高倉天皇の中宮として入内させ、生まれた子を安徳天皇として即位させ「天皇の外戚」という立場を手に入れた。

 位人臣を極めた清盛は、平氏一門を高位高官に取り立てた。その結果、一門の知行国は30を超え、所有する荘園は500カ所以上に上った。また、父忠盛が関与を始めた「日宋貿易」を積極的に行い、莫大な富を手中に収めることに成功、平氏政権の財政を支えた。

 さらには平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、1179年(治承3年)の政変で法皇を幽閉して、幼帝・安徳天皇を擁し、清盛は政治の実権を握ることに成功する。だが、平氏の独裁は貴族・寺社・武士などから大きな反発を受けることになる。やがて、各地で源氏による平氏打倒の兵が挙がり、緊迫した情勢の中、平氏にとってあってはならない悲劇が起こる。総帥・清盛が熱病を発症、あっけなくその生涯を閉じたのだ。

大黒柱の清盛を失った平氏はその後、まさに坂道を転げ落ちるようにその勢いは衰え、清盛の死後、わずか4年後の1185年、壇の浦の戦いで敗れ滅亡した。清盛の存在があまりにも大きすぎたことと、彼が武家による新しい世の中のしくみや、統治システムを用意できないまま亡くなったためだ。

(参考資料)海音寺潮五郎「武将列伝」、加来耕三「日本創始者列伝」、井沢元 彦「逆説の日本史・中世鳴動編」

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