歴史に「たら」「れば」を言っても仕方がないというが、それでもこの淀君には敢えて言いたいと考える人は多いのではないだろうか。「関ケ原の戦い」(1600年)に際してはもちろん、「大坂冬の陣」(1614年)、「大坂夏の陣」(1615年)で、もう少し相手、徳川家康の心理を読み、いま少し冷静に自陣の将兵に接する気持ちがあれば、情勢は変わったのではないか?とくに名目上の総大将、息子の豊臣秀頼に対する“教育ママ”ぶりを抑える器量があれば、少なくともあれほどあっけなく歴史上、豊臣氏が消えることはなかったろう。淀君の度を超えた虚栄心、権勢欲が豊臣氏を早期滅亡させた要因といっても過言ではない。
淀君は永禄10年(1567年)生まれ、本名はお茶々。母は織田信秀の5女で、信長の妹、お市だ。父は小谷城主、浅井長政。戦国時代にはよくあったことかも知れないが、彼女の少女時代は必ずしも幸福ではない。7歳の時に母の兄、織田信長に攻められ小谷城は落城、父は自害する。落城に際し、彼女は母のお市や妹たちとともに、織田の陣営に引き取られる。ところが「本能寺の変」(1582年)で、頼みの信長が明智光秀に殺害されたことから、彼女の人生も波乱に満ちたものとなる。
まず母のお市の嫁ぎ先、織田家の有力武将、越前北ノ庄(福井県)の城主、柴田勝家のもとへ。しかしここもポスト信長の“天下取りレース”で主役の座に躍り出た羽柴秀吉に攻められ、母は夫とともに自害し、お茶々たち3人の娘だけが秀吉の手に渡される。この後、お茶々は秀吉の側室となる。秀吉にはほかにもたくさん側室がいたし、長年連れ添ったねねが、正室・北政所としてデンと構えている。それだけに心穏やかではなかったかもしれない。
やがて、お茶々は身ごもり出産。不幸にしてこの子は早死にするが、まもなく2人目の子(後の秀頼)が生まれる頃から、秀吉は親ばかになり、お茶々は淀殿と呼ばれ一段と猛母になる。秀吉の死後、秀頼が大坂城のあるじになると、ぴったり彼に寄り添って離れない。そして北政所を大坂城から追い出してしまう。豊臣氏滅亡を早めた大きなミスの一つだ。
淀君は猛烈な“教育ママ”の顔を持ちながら、秀頼の教育において決定的なミスを犯している。「カエルの子はカエルになれるが、太閤の子は太閤になれるとは限らない」ということに気付かなかったのだ。秀頼は秀吉とは違う。溺愛するあまり、秀頼は普通の子、秀吉と比べれば“ボンクラ”であることを見抜く冷静さに欠けていた。
やがて彼女は挫折する。冒頭でも述べた通り、徳川方と戦ってはことごとく敗れる。実はこの戦いの前に、家康は秀頼が大和一国で我慢するなら命を助けてやろう、と言っている。“たぬきオヤジ”といわれた家康の真意のほどは分からないが、もしそれがホンネだとしたら、案外そのあたりが秀頼の能力にふさわしかったのではないか。そして、彼女にそれを受け入れる度量の広さや冷静さがあったら、母子して猛火の中でその生涯を終えることはなかったろう。
(参考資料)永井路子「歴史をさわがせた女たち」