徳川家康が江戸幕府を開いて以来260年余、威光を誇った徳川政権が、その終焉を迎えたとき、江戸城開城をめぐって華麗なドラマが繰り広げられた。主役を演じたのは周知の通り、勝海舟と西郷隆盛だが、その舞台の陰にはこの天璋院篤姫の活躍があった。
東征大総督府参謀の西郷に江戸城総攻撃中止、戦争の回避、慶喜の助命、徳川宗家の存続-を決断させたものは何だったのか?この点については今もなお謎が多いのだが、近年西郷の譲歩を引き出した要因として、西郷に宛てた天璋院の切々たる嘆願書ではないかとの見方がクローズアップされている。
長い手紙だが、願いの筋は「徳川家の安堵」という一点に絞られている。自分は御父上(島津斉彬)の深い思慮によって徳川家に輿入れしたが、「嫁したからには、生命ある限り徳川家の人として生き、当家の土となる覚悟です。自分の生きている間に徳川に万一のことがあれば、亡き夫家定に合わせる顔がありません。寝食を忘れ嘆き悲しんでいる心中を察して、私どもの命を救うより、徳川家をお救い下されば、これ以上の喜びはありません。これを頼めるのはあなた様をおいて他にいません」と、天璋院は繰り返し西郷の心情に訴えかけている。
慶喜のことについても、「当人(慶喜)はどのように天罰を仰せ付けられてもしようのないこと」と突き放しながら、それでも慶喜本人が大罪を悔いて恭順している今、徳川宗家存続を許すことこそが、西郷自身の武徳や仁心にとってもこの上ないことと主張、西郷に大いなる義の心を求めているのだ。
東征軍が江戸城へ刻々と迫る中、天璋院の瀬戸際でのこの懸命の努力が、江戸無血開城という形で実現、新旧の国家権力の交代劇につながった。
天璋院篤姫は1835年(天保6年)、鹿児島城下の今和泉島津家に生まれ、一(かつ)と名付けられた今和泉家は島津本家の一門、石高1万3800余と小藩並みだ。実父の忠剛(ただたけ)は島津斉宣の子で、斉彬の叔父にあたる。したがって、斉彬と篤姫はいとこ同士だった。島津本家当主斉彬の養女となり、五摂家筆頭の近衛忠煕の娘として1856年(安政3年)、徳川13代将軍家定の正室に、そして大奥の御台所となった。これ以降、彼女は生涯を通して再び故郷の鹿児島に戻ることはなかった。
1858年(安政5年)、夫の将軍家定が急死し、これに続き父斉彬までも亡くなってしまう。篤姫の結婚生活はわずか1年9カ月だった。家定の死により篤姫は落飾、天璋院と号した。その後は和宮に代わり、大御台所として江戸開城に至るまで大奥を統率した。
名を東京と改められた明治時代。天璋院は東京千駄ヶ谷の徳川宗家邸で暮らしていた。生活費は倒幕運動に参加した島津家には頼らず、徳川家からの援助だけでまかない、あくまで徳川の人間として振舞ったという。大奥とは違った、自由気ままで庶民的な生活を楽しみ、旧幕臣の勝海舟や静寛院宮(和宮)ともたびたび会っていた。また、田安亀之助(徳川宗家16代・徳川家達)を教育し、海外に留学させるなどしていた。ペリー提督が持ってきたといわれるミシンを、日本人として初めて使ったのも天璋院といわれている。1883年(明治16年)、脳出血で48年の生涯を閉じた。死後、新政府から剥奪されていた官位、従三位を再び贈られた。
(参考資料)海音寺潮五郎「江戸開城」、「新説 戦乱の日本史 江戸城無血開城」
宮尾登美子「天璋院篤姫」