鴨長明 俗世間のせせこましさ・煩わしさの愚さを悟り隠遁した優れた歌人
「ゆく河の流れは絶えずして…」で始まる『方丈記』の作者として知られる鴨長明(かものちょうめい)は、管弦の道にも達した、平安時代末期から鎌倉時代前期の優れた歌人、随筆家だった。その歌才を愛(め)でた後鳥羽上皇によって、和歌所寄人(わかどころよりゅうど)に抜擢された。だが、彼は貴族の端くれとはいえ、地下(じげ)の者だったため、宮中の歌会でも他の寄人と同席できず、悲哀を味わわされた。
鴨長明は、京都・加茂御祖(みおや)神社(通称・下鴨神社)の禰宜(ねぎ=神官)、鴨長継の次男として生まれた。菊太夫と称した。法号は蓮胤(れんいん)。歌を俊恵(しゅんえ)に学んだ。長明の生没年は1155(久壽2)~1216年(建保4年)。長明を隠遁者に追い込むきっかけになったのが、彼が望んだ、父の職だった鴨神社の河合社(ただすのやしろ)の禰宜(ねぎ)の補欠を、一族の中から非難があがって断念せざるを得なかったことだ。その結果、彼は神職としての出世の道を閉ざされたのだ。
後に後鳥羽上皇が鴨の一つの氏社を官社に昇格させて、彼を禰宜に据えようとしたが、彼は感謝しつつも後鳥羽院の厚意を固く辞した。長明はこの事件を機に、人間社会のせせこましさや、生計のための栄達などに心煩わす愚を悟り、大原の里の日野に逃れ棲むことになった。ただ、長明が現実の人間社会に不満で、拗ねたわけではない。貴族社会の終焉に伴う武士階級の台頭という歴史的な変革期に生まれ合わせた多感な一人の男が、無常観という一つの確固たる視座を持って物事を観察し出した結果だ。
「石川やせみの小河清ければ 月もながれを尋ねてぞすむ」
この歌は『新古今和歌集』に収められている、神社や神に対する祈願などの、神事に関したことを詠んだ神祇歌(じんぎか)だ。歌意は、石の多い賀茂川よ、あまりの水の清らかさに神のみか月までも、川の流れをたずねて住むのだ-。澄んだ場所に住む尊い神を細心に歌に取り入れ、凛とした清流を描写している。
長明は20歳余りで父を失い、自撰家集『鴨長明集』をまとめ、33歳のときに『千載集』に一首採られる歌人となった。その後、長明の歌才を愛でた後鳥羽院によって和歌所寄人に抜擢されたが、地下歌人の彼は、宮中の歌会でも他の寄人と同席できなかった。拭い難い屈辱感を味わわされた。
長明の最もよく知られた著作『方丈記』は1212年(建暦2年)、60歳の彼が、蓮胤という法名で山城国(現在の京都市)日野山の奥に結んでいた方丈の庵で書いたものだ。これは、和漢混淆(こんこう)文による文芸の祖といわれ、日本三大随筆(『枕草子』『徒然草』『方丈記』)の一つとして名高い。ここで長明こと蓮胤は、これまでの貴族社会から鎌倉幕府を頂点とする武家政治の時代へ移る、劇的な社会の変転を、隠遁者ならではの冷静な眼で眺めていたのだ。主な著作に随筆『方丈記』ほか、説法集『発心集(ほっしんしゅう)』、歌論書『無名抄』、『鴨長明集』などがある。
(参考資料)大岡 信「古今集・新古今集」、梅原 猛「百人一語」