高岳(たかおか)親王は第51代平城(へいぜい)天皇の第三皇子で、桓武天皇の孫。平穏な時代なら皇太子から、第52代嵯峨天皇のあとを受けて皇位に就いていたはずだ。ところが、父・平城天皇が寵愛した藤原薬子、そして重用した薬子の兄・藤原仲成の二人が行った、天皇の威を借りての傍若無人な振る舞いと、810年、二人がそれに続く「薬子の変」を起こしたことで、父・平城上皇が失脚、出家。そのため、高岳親王は廃太子となり、この後、彼はイバラの道を歩まざるを得なくなってしまったのだ。
高岳親王はまさに、父・平城上皇と叔父・嵯峨天皇(平城上皇の弟)の権力争いの巻き添えに遭い、人生を狂わせられた悲劇の人物だといえる。子に在原善淵らがおり、子孫は在原氏を称した。だが、彼が無事なら後の在原氏の姿も随分違ったものになったはずだ。在原氏一族の活躍の場が格段に広がっていたろう。在原氏の中では、わずかに知名度の高い在原業平は甥にあたる。高岳親王の生没年は799(延暦18)~865年(貞観7年)。
高岳親王は822年、四品の位を受け、名誉回復が成されるが、その後、東大寺に入り「真如」という法名を与えられて皇族で最初に出家した親王となった。真如親王は空海に弟子入りして密教を学び、阿闍梨の位を受け、弘法大師の十大弟子の一人となった。
“苦行親王”と呼ばれるほど、求道心に燃えた真如親王は、60歳のときに密教の奥義を究めようと入唐を朝廷に願い出る。しかし、そのころ遣唐使船は23年前の第17次を最後に派遣されていなかった。そこで、日本へ貿易のためにきていた唐の商人に頼んで便乗させてもらうことにした。真如親王の一行29人は861年、奈良から九州へ向かい、そこで一年間滞在した後、862年、大宰府を出発。順風に乗り、寧波の港に無事着いた。そこから越州に向かい、そこで一年間滞在し864年、唐の長安に到着した。
当時の唐の長安は100万人の人口を擁する世界一の大都市だ。長安には在留40年の留学僧円載(えんさい)がいて、真如親王を西明寺に迎えた。あの空海が逗留した寺だ。この円載は877年、帰国の途中、乗った船が難破して溺死している。
真如親王は、空海のように中国で優れた師に会うことができなかった。それでも求道の思い断ち難い真如親王は、海路でインドへ渡った義浄のように商船に乗るために長安で天竺へ渡航する許可を得る。865年、天竺を目指して広州から商船に乗り出発した。しかしその後、真如親王の消息は3人の従者とともに、全く分からなくなってしまった。消息不明になってから16年後に、唐の留学僧から朝廷に手紙が届いた。それによると、真如親王は羅越(らえつ)国で78歳で死去された-とあった。羅越国はマレーシア半島の南端という説が有力で、現在のシンガポール・ジョホール付近にあたる。
(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、永井路子「王朝序曲」