戦後、勤皇の価値は堕ち、今は高山彦九郎を顧みる人はほとんどいないが、彦九郎の勤皇思想は後世、吉田松陰はじめ幕末の志士と呼ばれる人々に多くの影響を与えた。また、彦九郎は林子平、蒲生君平とともに「寛政の三奇人」の一人で、戦前の修身教育で二宮尊徳、楠木正成と並んで取り上げられた人物だ。
高山彦九郎は江戸時代後期の尊皇思想家で、上野国新田郡細谷村(現在の群馬県太田市)の郷士、父高山良右衛門正教、母繁(しげ)の次男として生まれた。名は正之。彦九郎は通称。彼には、新田義貞に従ったその郎従の中でも新田十六騎といわれた高山遠江守の子孫だという歴とした家系が、犯すべからざる威厳のようなものとして備わっていたという。
彦九郎は13歳のとき、『太平記』を読み、「建武の中興」の忠臣の志に感動。生地が新田氏ゆかりの地であることもあって、その報いられざる忠節を捧げた対象を、いつのまにか彼自身の理想に育て上げていたのだ。つまり、そのころの常識だった幕府、いや将軍家を中心として物事を考えるのではなく、天皇というものを中心として物事を見るようになっていたのだ。
18歳のとき、遺書を残して家を出た。京都に出て学問を修め、中山愛親(なるちか)らの公卿や多くの有志の知遇を得た。さらに忠君仁義の人を訪ねて各地を遊歴、勤皇論を説いた。藤田幽谷や立原翠軒を訪ねて水戸へ行き、仙台では林子平のもとを訪れて海防の話を聞いた。長久保赤水、簗又七、江上観柳らと心を許した交友があったほか、前野良沢、頼春水、柴野栗山、細井平洲といった当時第一級の学者が、その理解者として江戸にはいた。京では岩倉具選宅に寄留し、奇瑞の亀を献上したことにより、光格天皇にも拝謁した。
1789年(寛政元年)、江戸へ行き、翌年には水戸から奥州を経て松前まで足を伸ばしている。その後、さらに山陽から九州へ入り、小倉、中津、久留米、長崎、熊本、鹿児島などを遍歴し、生涯で30数カ国を歴遊した。
こうして全国を歴遊して勤皇論を説く彦九郎の存在が、幕府にとって都合の悪い、批判分子として映るようになる。尊号事件とからみ公卿、中山愛親の知遇を得たこと、さらには京都朝廷の権威回復を唱える人たちとの交友が、彦九郎自身を追い込んでいく。すでに宝暦のころ、竹内式部は京都朝廷の権威を回復しようとする考えに立って、公卿の間にその講義を行っていた。しかし、そのことが幕府に聞こえると、幕府は一挙にその弾圧に乗り出したものだ。彦九郎が京都にきて中井竹山らを説いて歩いたのは、まさにそのことによって廃絶した禁中の講義を再開させようとしたのだ。
彦九郎のこうした行動に加え、竹内式部の事件で罰せられた岩倉卿の邸での半年間にわたる滞在などが、“要注意人物”として老中の松平定信など幕府の警戒を呼び、彼は幕吏の監視下におかれることになる。そのうちに、幕吏は公然と彼の行く先を求めて姿を現すようになって、自分の行動が常に監視されていることを知る。親友・旧友を訪ねても、訪ねた相手も幕吏から疑いの眼をかけられているようで、自分が追い詰められてゆく感じを味わう。
1793年(寛政5年)、彦九郎は筑後国久留米の友人、森嘉膳の家を訪れた。彼を迎え入れた嘉膳は、何か思いつめた様子が彦九郎に感じられるので、努めて気の安まるような話題を選び歓談、夕食を摂った。そして、しばらくして彦九郎は与えられている部屋へ入って自刃する。47歳の生涯がここに終わった。
京都市三条大橋東詰(三条京阪)に皇居望拝(誤って土下座と通称される)姿の彦九郎の銅像がある。
(参考資料)吉村昭「彦九郎山河」、奈良本辰也「叛骨の士道」、梅原猛「百人一語」