足利義輝 権謀家が策に溺れ、松永久秀に殺害された室町十三代将軍

足利義輝 権謀家が策に溺れ、松永久秀に殺害された室町十三代将軍

 足利義輝は室町幕府の第十三代将軍だが、神道流の達人、塚原卜伝(つかはらぼくでん)から免許皆伝を得たほどの人物で、その戦ぶりは生半可な武将の及ぶところではなかった。また、義輝は権謀家でもあった。それだけに、義輝は地に墜ちた幕府の権威を回復させるため、なりふり構わず権謀術数を凝らし、一つの企てを謀った。

  それは三好長慶の重臣、松永弾正久秀をそそのかし、主君を殺め三好家を乗っ取れば、天下の実権を握ることもできると煽り、久秀をその気にさせた。そして自分の手を汚さず三好家を屠った。当時、三好家は畿内、淡路、四国にかけて十カ国の所領を持つ勢力を保っていた。この力と将軍家の権威を合わせれば畿内を治めることは容易に思われたのだ。事実、三好長慶は将軍の相伴衆に加えるよう申し入れてきていた。相伴衆となって義輝を意のままに動かそうと目論んでいたのだ。裏を返せば、義輝にとっては三好家はそれだけ厄介な存在だったというわけだ。

  松永久秀が、義輝の思惑通り三好家を手中にした後、義輝は今度はその久秀を討つために上杉謙信と織田信長に上洛を求めた。義輝のその謀(はかりごと)の全貌を知った久秀は、屈辱と憎悪に打ち震え、たとえ自分の身はどうなろうと義輝だけは許さぬと決意させ、復讐のターゲットとなってしまった。そして、まもなく義輝は“憎悪”の鬼と化した久秀の刃の前に倒れた。1565年(永禄8年)のことだ。権謀家・義輝は、武人・久秀の心理をいまひとつ思いやることができず、策に溺れた格好だ。こうして幕府の権威の回復は成らなかった。

 足利義輝は、室町幕府の第十二代将軍・足利義晴の嫡男として京都・東山南禅寺で生まれた。第十五代将軍・義昭の同母兄。生没年は1536(天文5)~1565年(永禄8年)。義輝は1546年(天文15年)、わずか11歳のとき父義晴から将軍職を譲られた。

(参考資料)安部龍太郎「血の日本史」、井沢元彦「逆説の日本史」

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