足利義視 兄・義政から九代将軍を約束されながら、反古にされた弟
足利義視(あしかがよしみ)は、兄の室町幕府の第八代将軍・足利義政に口説かれ、後継者に決まった。万一、この後、義政の正夫人(御台所)日野富子との間に男子が生まれても、絶対に後継者にしない。出家させる-という確約も得た。そのために、幕閣第一の有力者で宿老の細川勝元を後見人にも立てた。これで、義視の九代将軍職就任は決まったはずだった。ところが、皮肉なことに、彼が後継者に決まって一年も経たないうちに、義政の妻・富子は懐妊し翌年、男子を産んだのだ。これが後に正式に九代将軍になる義尚(よしひさ)だ。哀れ、後継者を約束されたはずの義視は結局、まだ赤ん坊の存在に振り回され、義政の「将軍留任」のまま、結論が先送りされ、人生を狂わされてしまったのだ。
足利義視はもともと天台宗浄土寺門跡として出家して義尋(ぎじん)と名乗って、僧籍にあった。何事もなければ、彼は僧籍で生涯を終えるはずだった。それを、将軍の座を引退し、大御所として気ままに「趣味に生きる」ことを考えた兄・義政に、後継者にと熱心に、そして強引に口説かれたのだ。それでも義尋は最初のうちはその申し出を何度も断っていた。義政も富子もまだ若い。二人の間に、もし男の子が生まれれば、即、邪魔者になり約束は反古にされる-と怖れた。
だが、義政が冒頭に述べたとおり、後継者を確約し、義尋の後見人として細川勝元を付けてくれたからこそ、彼は遂に決断し還俗して、義視と名乗ったのだった。しかし、義視にとってそれは悲劇の始まりだった。それは、すべて無責任で、優柔不断で、この後継問題を放置し先送りした、将軍の兄・義政のせいで被ったものだった。
この場合、いずれにしても義政という日本の最高権力者が、その権限と地位をもって決断しなければならなかったのだ。それを、妻・富子が腹を痛めた実子を後継の将軍職に就けたいと願う、極めて強い富子の要請に遭って、彼は将軍職を降りるに降りられず、無責任にも、不本意ながら将軍に居座り続けることになったのだ。その結果、義視・細川勝元の東軍勢vs義尚・日野富子・山名宗全の西軍勢の、やがて京都を焦土と化した「応仁の乱」に突入していく要因の一つとなった。
足利義視は、室町幕府第六代将軍・足利義教の十男として生まれた。今出川の屋敷に住んだため「今出川殿」と尊称された。諡号は道存。母は日野重光の娘、日野重子。第七代将軍・義勝、八代将軍・義政らは同母兄、堀越公方の足利政知は異母兄にあたる。義視の妻(正室)は日野重政の娘、富子の実妹・妙音院。子に十代将軍となった足利義材(よしき、後の足利義稙=よしたね)がいる。義視の生没年は1439(永享11)~1491年(延徳3年)。
11年間にわたる「応仁の乱」後、美濃に亡命。甥の義尚と、兄・義政の死後、リベンジするように、あるいは還俗してからの不運続きの人生を取り戻そうとするかのようなはつらつとした動きをみせた。義視は、将軍後継争いで対立したはずの富子と、にわかには信じ難いことだが今度は結託して、子の義材を第十代将軍に擁立して、自らは大御所(後見人)として幕政を牛耳ったのだ。まさに、波瀾万丈の人生だった。
(参考資料)井沢元彦「逆説の日本史⑧中世混沌編」