足利義尚 ポスト義政の争いに勝ったが、25歳の若さで病没した九代将軍

足利義尚 ポスト義政の争いに勝ったが、25歳の若さで病没した九代将軍

 室町幕府の第九代将軍・足利義尚(よしひさ)は、第八代将軍・足利義政の子で、父とは異なり、将軍は武士の棟梁だというこだわりを持ち続け、文武両道の達人となることを目指した人物だった。ただ、悲しいことに、武士の棟梁=将軍の権威にこだわるあまり、戦争収拾の稚拙さが禍(わざわい)となり、結局彼は応仁の乱後、下克上の高まりによって大きく失墜した幕府・将軍家権威の回復に努めたものの、目指した成果は挙げ得ないまま、25歳の若さで病死した。

 足利義尚は母・日野富子の過度の願望と期待を背に受けて成長、父・義政の後を受けて九代将軍職に就いた。わずか8歳のときのことだ。その後は、政治顧問、一条兼良(いちじょうかねら)から帝王学をはじめ、政道や和歌などを学ぶなど文化人としての評価は高い。とりわけ、和歌に熱心で14歳ごろから盛んに歌会を主催した。義尚は1483年(文明15年)、『新百人一首』を撰定し、さらに姉小路基綱、三条西実隆、飛鳥井雅親、飯尾宗祇などの歌人を結集して和歌『撰藻鈔』の編纂を試みたが、義尚の陣没により未完に終わった。他に『常徳院集』など数種の歌集が伝わる。1487年(長享元年)、義尚は義煕(よしひろ)と改名しているが、一般的には義尚の名で知られる。生没年は1465(寛正6)~1489年(長享3年)。将軍在位は1473~1489年。

 義尚の運命を大きく転換させることになったできごとがある。それは近江国(現在の滋賀県)の南半分の守護だった六角高頼(ろっかくたかより)が、勢いに任せて北近江の社寺系の荘園や将軍家の直轄地の御料所を押領(おうりょう=横領)したという一つの訴えが義尚のもとに届けられたのだ。義尚が20代半ばの時のことだ。これを放置すれば将軍の権威はますます低下する。そう考えた義尚は、諸大名に招集をかけ自らも鎧を身に付け、高頼を討つべく近江へ出陣した。父・義政の時代には、実質的には絶えてなかった将軍親征だ。初めのうちは極めて順調に事は進んだ。斯波、畠山、細川、山名、一色、大内といった守護大名の大物たちが参集し、1487年(長享元年)の合戦では将軍方が大勝利を収めた。高頼は本拠の近江観音寺城を捨てて、近臣だけを連れて甲賀の里(現在の滋賀県甲賀郡)へ逃亡した。義尚の軍事デモンストレーションともいうべき親征は、とりあえず大成功を収めたのだ。

 ところが、実はこれが義尚にとって、そして室町幕府の将軍家にとっても、衰亡の大きなきっかけとなってしまったのだ。合戦に勝利することは確かにめでたいことだが、勝った以上は功労者に恩賞を与えなければならない。幕府は、いや政治は信賞必罰が基本であり、それを踏み外しては当事者に不満や不信を抱かせることになる。義尚が親征を敢行したのも、将軍家の権威の復活のためだったから、彼は六角高頼から「取り戻した」領地を、近臣たちに与えた。近習出身の結城尚豊を近江の守護職に任じた。合戦の成果として、これでよかった。六角高頼征伐はこれで十分なのだ。正確に言えば、この成果を持って都へ帰り軍を解散すれば確定するのだ。

 しかし、義尚は都へ凱旋せず、甲賀の入り口に近い鈎(まがり=現在の栗東市)で無理な滞陣を続けた。あくまで高頼を捕らえ成敗することにこだわったのだ。あまりの長期の滞陣に、管領・細川政元(勝元の子)が、とりあえず琵琶湖のほとりの坂本まで兵を引くように進言したが、義尚は全く耳を貸さなかった。怒った政元は都へ帰ってしまった。いうまでもなく、都の近くとはいえ、長期間の滞陣は多額の費用を必要とする。お坊ちゃん育ちの義尚は中級以下の武士たちの不満や窮状、そして大名クラスをも含めた滞陣に伴う武士全体に充満した、いつ終わるか分からない不自由さにはまるで気がつかなかった。その結果、義尚は将軍権威の復活の絶好の機会をみすみす逃してしまった。

 そればかりではない。長期間の滞陣によって、もともと病弱な体質の義尚は何回か病気になり、とうとう死に至る病に冒されてしまったのだ。そして、滞陣1年6カ月、義尚は結局この近江の鈎の陣中で病没した。享年25。死因は過度の酒色による脳溢血といわれる。仲違いした父・母の姿ばかり見て育ったという側面は差し引いても、自身の気負いすぎに気付かなかった、お坊ちゃん育ちの将軍の悲劇だった。

 「ながらえば人の心も見るべきに 露の命ぞはかなりけり」が辞世だ。

   義尚には継嗣がなかったため、従弟(叔父・義視の子)の足利義材(よしき、後の足利義稙=あしかがよしたね)が義政の養子(一説に義煕の養子とも)となって、1490年(延徳2年)に第十代将軍に就いた。

(参考資料)井沢元彦「逆説の日本史⑧中世混沌編」

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