親鸞は平安時代の末から鎌倉時代にかけ、90年の生涯を波乱・動揺の社会の中で送った人物で、“肉食妻帯”を日本仏教史上初めて宣言して、これを実践した在家仏教徒であった。そして周知のとおり、現在、日本最大の信徒を持つ「浄土真宗」の基礎をつくった人だ。
親鸞が生きた時代は、今日からみると実に様々な政治・社会、そして宗教界において興味深いことが起こっている。親鸞が8歳のとき、源頼朝が平家に対して挙兵し、1185年(文治元年)13歳のとき平家は壇ノ浦で滅んでいる。延暦寺の山徒の横暴に苦しんだ後白河法皇の崩御は、彼の20歳ときのことだ。そして49歳のとき、鎌倉幕府によって後鳥羽法皇が隠岐、順徳上皇が佐渡、土御門
上皇が土佐に流されている。
また仏教界では1175年(安元元年)、親鸞3歳のとき、法然(源空)が専修念仏の教えを説き始めた。栄西が宋から帰朝して臨済禅を伝えたのは親鸞19歳のときのことだ。親鸞40歳のとき、師の法然が亡くなっている。道元が宋から帰朝して越前大仏寺(後の永平寺)を開創したとき、親鸞は72歳だった。日蓮が北条時頼に『立正安国論』を起草して差し出した1260年(文応元年)は、親鸞入滅の2年前だった。
親鸞は公家の皇太后宮大進・日野有範の子として生まれた。9歳のとき母が亡くなると、その年、青蓮院の慈円の弟子となり、範宴(はんねん)と号して出家した。その後20年間、範宴は比叡山において一生不犯の清僧の修行に費やした。29~35歳の6年間は法然の膝下にあった時代だ。当時の仏教研究の根本道場だった比叡山に決別した彼は、妻帯を決意し、本願念仏の教えによる成仏の道を一心に求めることになった。師法然に巡り会ったことは、彼の生涯を決定する重要な機縁となった。
後鳥羽院による法然の専修念仏教団に加えられる弾圧がひどくなり、1207年(承元元年)念仏停止により法然は土佐国へ、親鸞は越後国国府へと流罪に処せられた。35歳のときのことだ。39歳の1211年(建暦元年)、親鸞は流罪勅免となったが、すでに恵信尼と結婚生活に入っていた彼は、このとき愚禿(ぐとく)親鸞と名乗って、子供たちを含めた家族とともに国府にとどまっている。
その後は都には帰らず、42歳のとき常陸に赴き、そこで20年余、関東の地にいて主著『教行信証』の制作に没頭するとともに、社会の底辺で働く人々に念仏の生活を勧めた。そして、多くの弟子をつくった。しかし、どういう心境の変化か、63歳の親鸞は多くの弟子を振り捨て家族とともに都へ帰った。京都の生活は著述と念仏三昧の日々だった。そして90歳の天寿を全うした。
ところで、親鸞の教えの根本となっているものが“悪人正機説”だ。親鸞がいう「悪人」は、窃盗や殺人を犯すような悪人という意味ではない。「煩悩だらけの凡夫」といった意味だ。つまり、肉食・妻帯という、一般的な遁世の聖にしてみれば破戒といわれる行為を行う者のことをいっており、まさしく親鸞自身も「悪人」ということなのだ。したがって、悪人正機説は、自分のような悪人こそが自力作善の行に頼ることなく、弥陀の本願を無条件に信ずることができるのだ-というわけだ。そして、親鸞は「阿弥陀仏は、私のような破戒の愚か者さえ救ってくれるのだ」と宣言しているのだ。このような平易な教えが一般民衆の中に受け入れられていったのは当然だろう。
(参考資料)早島鏡正「親鸞入門」、早島鏡正「歎異抄を読む」、梅原猛「百人一語」、百瀬明治「開祖物語」