645年(皇極4年)、朝廷を震撼させるクーデター事件が起きた。古代史上最大のクライマックスともいえる蘇我入鹿暗殺事件だ。この事件の直後、入鹿の父・蝦夷も自決し、蘇我本宗家は滅亡した。しかし、ご承知の通り、これによって蘇我氏全体が滅んだわけではない。反対に、蘇我氏一族の中で、それまで本宗家の馬子直系による権力の独占に不満を持っていた一族は、出世そして繁栄の機会を得たものと、これを大歓迎した。蘇我氏の中で境部臣摩理勢(さかいべのおみまりせ)の一族で、ここに取り上げる蘇我赤兄(そがのあかえ)がその一族の一人だ。
蘇我赤兄は孝徳天皇の息子、有間皇子を孝徳天皇の死後、謀略にかけ、死に追い込んだ張本人として知られている。ただ、これについても確かに謀略にかけたのは赤兄だが、その指示を出していたのは中大兄皇子(後の天智天皇)との見方が有力だ。となると、少し事情は違ってくるが、史料が伝えるその人となりは、やはり悪人としかいえない、ずる賢さが漂っている。
658年(斉明天皇の4年)、斉明天皇は中大兄皇子らとともに紀伊の牟婁温泉(むろのゆ、現在の和歌山県白浜温泉)に保養に出かけた。その留守中のことだった。留守官(るすのつかさ)として飛鳥の都に残っていた蘇我赤兄が、有間皇子邸を訪れた。そして、土木工事を中心とする公共事業の頻発で、この労役のために民が苦しんでいることを挙げて、斉明天皇-皇太子・中大兄皇子による政治を批判し、皇子に謀反を勧めたのだ。さらに、赤兄は自分の兄たち(石川麻呂、日向)が中大兄皇子に裏切られたことを持ち出して、中大兄を恨んでいることを語ったのだ。
赤兄の巧みな芝居で、まだ19歳という若い有間皇子は実力者の赤兄が見方についたと早合点し、心を許しすっかり信用。赤兄に兵を挙げる意思があることを明かしてしまったのだ。そして、翌々日、皇子は自ら赤兄の家へ行き、謀反の密議をこらした。ところが、その夜半、赤兄は有間皇子の邸を囲み、牟婁温泉にいる天皇のもとに急使を走らせ、有間皇子の謀反を告げたのだ。皇子はまんまと赤兄の謀略にひっかかったわけだ。まったく、やり方が汚いとしかいいようがない。
捕らえられた有間皇子は、牟婁に送られ、謀反の動機について中大兄皇子の厳しい尋問を受けた。それに対して有間皇子は、「天と赤兄と知る。われはもっぱらわからず(天と赤兄だけが知っていること。それがしは全く知らぬ)」と答えた。この「天」とは中大兄を指した言葉といわれ、このとき初めて有間皇子は自分を陥れた張本人が中大兄だったことを知り、いわば捨てぜりふを吐いたとみられる。この取り調べだけで、有間皇子は死刑と決まった。そして悲しいことに、その2日後、有間皇子は藤白坂(現在の和歌山県海南市)で縛り首となった。
甘い言葉に乗せられた有間皇子に用心深さが足りなかったことは認めるが、やはり卑怯なのは赤兄だ。有間皇子も、軍備・軍勢を整えて、正々堂々戦って負けるのであれば納得できたろうが、罠にかけられた悔しさは筆舌に尽くし難いものだったろう。
赤兄の生没年は不詳だ。『公卿補任』によると、天武天皇の元年(672年)8月配流、それに続いて「年五十一」と記されている。これが事実ならば、生年は推古天皇31年(623年)となる。父は蘇我倉麻呂で、兄に石川麻呂、日向(ひむか)、連子(むらじこ)、果安(はたやす)がいる。娘の常陸娘(ひたちのいらつめ)は天智天皇の嬪となり、山辺皇女(大津皇子の妃)を産んだ。大○娘(おおぬのいらつめ)は天武天皇の夫人になり、穂積親王、紀皇女、田形皇女を産んだ。
赤兄は671年、左大臣となり近江朝廷の最高位の臣下として天智天皇に仕えた。天智天皇の死後は近江朝廷の盟主、大友皇子を補佐。吉野に逃れて軍備を整えた大海人皇子軍との対決となった、古代史上最大の内乱「壬申の乱」(672年)では、赤兄は大友皇子とともに出陣した。最後の決戦となった瀬田の戦いで敗れて逃亡。翌日大友皇子が自殺し、赤兄はその翌日、捕らえられた。そして、その1カ月後、子孫とともに配流された。ただ、その配流先は不明だ。
(参考資料)神一行編「飛鳥時代の謎」、豊田有恒「大友皇子東下り」、永井路子「裸足の皇女」、遠山美都男「中大兄皇子」