藤原仲麻呂は、温厚な兄、藤原豊成とは異なり、自身の栄達だけを考えて、次から次へと抜け目なく行動する野心家で、孝謙天皇との強いきずなを利用して、邪魔者を次々と抹殺していった。その結果、孝謙天皇からは「恵美押勝(えみのおしかつ)」の名を賜り、異例のスピードで出世し、重く用いられ頂点へ昇りつめたが、あっけなく滑り落ちた。藤原各家の争いと兄弟との出世争いがからみ、彼には悪役イメージが色濃い。現代風に表現すれば、出世頭のサラリーマンが最後の詰めを誤って失敗し、株主総会で罷免されてしまった人物-というイメージか。
藤原仲麻呂は南家・藤原武智麻呂の第二子。彼が藤原京の邸に生まれたのは706年(慶雲3年)、祖父藤原不比等が48歳の大納言の頃だった。兄豊成は3歳、父武智麻呂は27歳で大学助から頭(かみ)になった年だ。そして、一家が平城京に引っ越したのが仲麻呂5歳のときだ。仲麻呂は幼い頃から頭がよく、勉強もよくしたらしい。「史書」や「漢書」など中国の史書も好きで、母方の親戚の大納言阿倍宿奈麻呂の邸に通って、算術も学び得意だったようだ。3つ違いの兄豊成に対して、常に次男としてのハンディを感じつつ育った。その感覚が兄を巻き返すエネルギーを生んでいき、自分がのし上がる手立てを模索するようになる。
聖武天皇の死後、他の貴族たちがあたふたとしている間に、仲麻呂は光明皇后、阿倍内親王・皇太子に近づき、二人を常に激励することによって信用を得ていた。749年(天平勝宝元年)大納言となり中衛大将を兼ね、さらに光明の皇后宮職が拡大強化されて「紫微中台(しびちゅうだい)」という新しい機関が設置され、彼はその長官・紫微令に任じられた。この紫微中台は、単に孝謙天皇の後見役をするための役所ではなく、実質的に国政の中心となっていった点が重要なポイントだ。つまり、紫微令・藤原仲麻呂は、太政官の上に立つ絶対的な権限を握ることになったのだ。そして、以後ここを基盤として勢力を広げていった。
758年(天平宝字2年)、孝謙天皇は大炊王(おおいおう)に譲位し太上天皇となった。大納言、藤原仲麻呂はこの大炊王に亡き息子、真従(まより)の未亡人、粟田諸姉(あわたのもろあね)を娶らせ、自邸の田村第に住まわせていた。その関係で、この大炊王=即位後の淳仁天皇は事実上、仲麻呂の計略によって擁立された天皇だったから、実権はことごとく仲麻呂の掌中に握られることになった。そして、仲麻呂は太政大臣同等の大師に任じられ種々の特権を賦与され、遂に正一位にまで昇りつめた。
仲麻呂は淳仁天皇を自由自在に動かして専横を極めたが、光明皇太后の薨去と僧侶道鏡の出現によって事態は次第に緊迫し、その権勢にもかげりが見え始めた。琵琶湖畔の保良離宮で静養していた孝謙太上天皇は看護禅師、道鏡と次第に親密な関係になっていった。淳仁天皇がこれを見咎めると、上皇は激怒して762年(天平宝字6年)、平城京に戻ると法華寺に出家して、天皇は小事のみ行うべきであり、国家の大事と賞罰は自らがこれを行うと命じたのだ。
そうした事態の急転に驚き、仲麻呂は反乱を企てたが、まもなく発覚。上皇方から追討の兵を向けられるとともに、官位や藤原の姓、職分や功封も剥奪されることになった。すべてを失った仲麻呂は近江へと敗走、越前に入ろうとしたが、764年(天平宝字8年)、近江国高島郡で一族ともども捕えられ、妻子とともに殺害された。野心家の仲麻呂は、攻めには強かったが、いったん守勢に回ると焦りまくり、“墓穴”を掘った。そんな、あっけない転落だった。
それだけでは済まなかった。中宮院にあった淳仁天皇も捕えられ、仲麻呂との共謀を指弾されて淡路へと流された。そのため、天皇は淡路公、あるいは淡路廃帝と称される。
(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、村松友視「悪役のふるさと」、黒岩重吾「弓削道鏡」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」