茶屋家の当主は代々四郎次郎を称している。ここに取り上げるのは三代目清次だ。彼はとりわけ徳川家康と親しく、そんな間柄を示す様々なエピソードが伝えられている。1616年(元和2年)、大坂夏の陣で豊臣家を壊滅させ、ようやくほっとした徳川家康(75歳)。そんな家康が隠居する駿府(静岡)へ茶屋四郎次郎がやってきて、「近頃、都では何が人気じゃ」と問われた彼は、「天麩羅(てんぷら)」を紹介する。食通だった家康は、早速賄い方に申し付けて茶屋四郎次郎がいう、魚に衣をつけて油で揚げる、その鯛の天麩羅を食べる。そして、あまりの美味に思わず二枚も平らげてしまった。高齢の身でもあり、これが原因で胃腸を悪くし、この年、家康は他界したという。
この頃の京都の三長者は角倉了以、後藤庄三郎、そして茶屋四郎次郎こと中島四郎左衛門明延(あきのぶ)の3人だった。明延の父、宗延(むねのぶ)は武士だったが、討死したため子の明延は大和へ引き籠って、商人を志した。大和の奈良芝という商人と親しくなって、その庇護のもとに商いの道に入ったといわれる。やがて四条新町のあたりに店を営み、そこへ足利将軍義輝が立ち寄って、茶を所望したので、茶屋の屋号が生まれたという。
明延の子清延の頃、徳川家に近づいて、その御用達となった。清延は家康に付き従って三方が原の戦い(1572年)、長篠の戦い(1575年)など53回も戦陣に参加、軍功もあったというから、商人というよりもう立派な武人だ。茶屋家は橘の家紋を用いているが、これは三方が原の戦いの後で、家康から褒美としてもらったものだ。清延は江戸へ入府した家康が目指した城下町建設に協力し、本町二丁目に屋敷を賜った。
清延は天下の覇権取りを目指す家康の意を受けて、宮廷工作を行っている。長年にわたって勧修寺晴豊を窓口として宮廷にアプローチ、天皇の母に当たる新上東門院に取り入っていた。また、彼は豊臣秀吉に取り入って、朱印状を手に入れ、安南(ベトナム)国・南部の交趾(こうち)地方との海外貿易にも取り組んだ。普通、オーナー自ら船に乗り込むようなことはないが、武人であり商人という彼は自ら指揮して朱印船に乗り込んだ。
1582年(天正10年)、織田信長が明智光秀に弑逆された、本能寺の変をいち早く家康に告げたのも清延だった。そして家康を、冷静に危機を間一髪で脱出させたのも、彼の武略と機転に富んだ的確な指示だったという。そんな茶屋四郎次郎の名声は高いが、その活躍期は意外に短かった。1596年(慶長元年)清延は享年52歳をもって世を去っている。病によるものか、何の記録も残っていない。死後、その子清忠が後を継いで二代目と称したが、まだ結婚もしないうちに病死して、その跡は弟の又四郎清次が継ぐことになった。それが三代目茶屋四郎次郎だ。
茶屋四郎次郎は四代、五代と、代々四郎次郎を名乗っていた。ただ、その中でも家康の信任を得て、海外に出かけるほどの大きな商いをしたのは三代目清延と五代目清次だった。通称を又四郎といった清次は、1585年(天正13年)、清延の次男として生まれ、兄清忠が二代目を継いだが、病弱のため1603年(慶長8年)に死亡したので、清次が三代目を襲名することになった。彼は当初長崎奉行だった長谷川左兵衛藤広の養子となって、長崎へ行っていた。そこで彼もまた純粋な商人というより、武人にして商業に従事した者といってよく、武士として交易や長崎の監察業務に携わっていた。商人としては茶屋四郎次郎を、武人としては中島四郎二郎を名乗って、茶屋家の当主たちは巧みに武人の顔と政商の顔を使い分けている。1614年(慶長19年)、大坂冬の陣では家康の陣営に侍して御用を務め、和平工作のため大坂城へ入ったという。この年、家康の命で長谷川の養子という身分を離れた清次は、茶屋家三代目の当主となって、三代目茶屋四郎次郎を襲名した。
清次は生糸の輸入と販売をする糸割符仲間の代表となった。彼は家康の側近に仕えて立場を固めて得た、この特権によって財を成した。彼は一般商人と違って、武士として生活しながら特権商人として稼いでいたのだ。さらに、生糸や呉服だけでなく、軍需品や武器も扱っていたともいわれる。しかし、1622年(元和8年)、彼は37歳という若さで世を去ってしまった。そこで長男の道澄が後を継いだが、その日から茶屋の凋落と縮小が始まった。
(参考資料)邦光史郎「豪商物語」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」