築山殿 真の悪女か、家康の長男・信康暗殺のスケープゴートの側面も

築山殿 真の悪女か、家康の長男・信康暗殺のスケープゴートの側面も
 徳川家康の正室、築山殿は今川義元の姪だが、その血筋からか様々な、興味深い伝説を残している。意のままにならない苛立たしさや、夫・家康との意識のずれも加わって、わが子・嫡男信康可愛さのあまりか、正常な神経ではとても考えられない“暴挙”に出ている。そして、そのことがわが子ともども、身の破滅を招くことになった。築山殿の生没年は1542(天文11)~1579年(天正7年)。
 夫の徳川家康の幼年~青年時代が人質生活だっただけに、解放後の家康の出世ぶりが、築山殿の婚姻後の人生に大きな影響を与えた。そこで、築山殿に関係する歴史の流れをざっと見ておこう。1560年(永禄3年)、桶狭間の戦いで伯父の今川義元が織田信長にまさかの敗戦を喫し、松平元康(後の徳川家康)は晴れて岡崎に帰還する。
1562年(永禄5年)、築山殿の父・関口義広(今川義元の一族)は元康が信長側についた咎めを受け、今川氏真の怒りを買い正室とともに自害。築山殿は今川義元の妹の夫で、上ノ郷城城主・鵜殿長照の2人の遺児と於大の方(家康の母)の次男源三郎との人質交換により、駿府城から子供たちと家康の根拠地の岡崎に移った。しかし、於大の方の命令により岡崎城に入ることは許されず、岡崎城の外れにある菅生川のほとりの惣持尼寺で、幽閉同然の生活を強いられたという。1567年(永禄10年)、信康と織田信長の長女徳姫が結婚。しかし、築山殿はいぜんとして城外に住まわされたままだった。1570年(元亀元年)、ようやく築山殿は岡崎城に移った。
 1579年(天正7年)、徳姫は後に「信長十二ヶ条」に記されることとなる、築山殿の信康への自分に関する讒言、築山殿と唐人医師減敬との密通、武田家との内通を信長に訴えたという。これにより信長が家康に築山殿と信康の処刑を命じたとされる。家康の命令により、野中重政によって築山殿は小藪村で殺害された。信康は二俣城で切腹した。
 築山殿の名は瀬名姫。別名を鶴姫。父は今川義元の一族、関口義広(関口親永との説もある)。母は今川義元の妹にあたる。また、室町幕府の重鎮、今川貞世の血を引く。1557年(弘治3年)、今川氏の人質だった徳川家康(当時の松平元康)と結婚。駿河御前とも呼ばれた。1559年(永禄2年)嫡男・信康、1560年(永禄3年)亀姫をそれぞれ産んだ。
 今日残されている築山殿の伝説は、およそ次のようなものだ。
①夫の徳川家康と別居状態にあった築山殿は、唐人の鍼医・減敬と内通した。
②その減敬は実は武田の間者で、築山殿を篭絡し、彼女を武田方へ内通させた。
③減敬の誘いに乗った築山殿は、わが子・信康可愛さに武田方への内通を確約し、信康の同意を得ることなく、勝手に信康を大将に謀反の計画を進めた。
④築山殿は嫉妬深い女だった。彼女の侍女おまんが家康の目に留まって、手がつき身籠った。このことを知った彼女はおまんを木に縛り付け、裸にして散々に打ち据え、そのまま放置した。
⑤信康の正室、徳姫は織田信長の娘であり、今川義元の姪にあたる築山殿とすれば、仇のかたわれと思った。そこで嫁の徳姫に辛くあたり、調伏の呪詛を行った。
こうしてみると、いずれも悪女のなせるところと思わざるを得ない。しかし、築山殿は本当にこんな悪女だったのか。後世、徳川幕府が始祖、家康を神聖化するあまり、家康の長男殺害というショッキングでスキャンダラスな事件の要因を築山殿に押し付け、スケープゴートに仕立て上げたためではないのか。
いずれにしても、年上で、恐ろしく嫉妬深くて気の強い、この築山殿の存在が、家康の女性観に大きな影響を与えたことは否定できない。身分の高い女など妻にするものではない。もう懲り懲りだ。その教訓、いやトラウマに近いものが家康にあったかも知れない。何しろ、築山殿を除くと、家康が愛した女性は一人として上流階級の出身者はいない。下級武士や下級神職の娘や百姓の後家など、すべて下層民の出身なのだ。天下の徳川家康の女性観を決定づけた女性、築山殿とはそんな人物だった。

(参考資料)司馬遼太郎「覇王の家」、井沢元彦「暗鬼」、海音寺潮五郎「乱世の英雄」

 

前に戻る